2016年8月29日月曜日

『現代社会の理論』(見田宗介、岩波新書)

ピース
恐慌を回避し繁栄を持続する形式でありうる自己完結的な純粋な資本主義であるその固有の「楽しさ」「魅力性」は、それらをめぐる熾烈な競争という積極的な動因によって増殖し展開しつづける。
だが、有限な地球環境および南北の貧困の問題が、欲望を内部化するこの資本制システムの「外部問題」としての限界として立ち現れている。
情報を禁止し、消費を禁止し、自由をその根本の理念としないような社会にわれわれは魅力を感じない。「情報化/消費化社会」システムは、世界で一番魅力的なシステムとなる希望を秘めている。「限界問題」は「消費社会」一般の不可避の帰結ではない。
だがこのシステムは、ある転向を必要としている。その転向の方向は、バタイユの「至高なもの」(小生注:朝の陽光の中に、有用性を超えた奢侈な至福がある、とか。バタイユ1897 1962年のユニークな経済論『呪われた部分』参照)に内包されていて、それをつかみ出せば「限界問題」に制限されず、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としている世界の地平が見えてくる。
尚、限界問題としての「内部問題」はこの書では深く触れられず、後の2006年に出版された『社会学入門』で取り上げられている。

【要旨】
・はじめに
近代社会と区別された現代社会を理解する理論は、「情報化/消費化社会」のシステムの構造とダイナミズムおよびそれらの矛盾とその克服法を太い線で把握するものでなければならない。
第一章では、「情報化/消費化社会」が新しい時代を画するものであることを示すとともに、その「光」の巨大さが明示される。
第二、三章では、「情報化/消費化社会」の現在あるような形式が、「限界」問題としての環境、資源問題、南北問題により必然的に帰結するシステムとダイナミズムを明確にするとともに、その「闇」の巨大さが明示される。
第四章では、現代社会の光と闇を踏まえて、理論の統合と、実践としての矛盾克服の方向が探求される。それは、「情報化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「消費化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「情報化」と「消費化」の原理統合することをとおして〈自由な社会〉を手放さずに「情報化/消費化社会」のシステムの方向性を原的に転回するという仕方において、現実的に可能であり経験的に魅力のあるものとして展開するだろう。

一、 情報化/消費化社会の展開---自立システムの形成
1      新しい蜜蜂の寓話---管理のシステム/消費のシステム
「現代社会」の概念と類似な表現→ゆたかな社会、消費化社会、管理化社会、脱産業化社会、情報化社会、----。1950年代のアメリカに端を発する。
資本主義が、必ずしも軍事需要に依存することなく、恐慌を回避し繁栄を持続する形式として、「消費社会化」という現象をまず把握すること。
現代社会の巨視的理論にとって肝要なことは、管理化と消費化という方向が、互換し、相補するものとし、資本制システムの繁栄を保証してきたこと。
1958年のアメリカ大統領談話と『タイム』誌の記事が語った蜜蜂の寓話。→1714年のマンデヴィルは、人々の私利の追及が公益を帰結する、と述べたが、この比喩は私利を求めて生産する企業者たちの像として理解されてきた。1958年の蜜蜂は「小売店に殺到する」ことを通して繁栄を保証する。
(小生補足:この話は、コインの裏表で、要はその意味するところを把握すること。それは、欲望する生産者ではなく、一般大衆の、生産者とは変質した欲望の、程度の拡大が、経済を牽引し、結果の一つとしてそれが戦争に代替した消費となったという現象を知ること、更にそこから、人間社会の理論を導出すること、ではないだろうか)。
2      デザインと広告とモード---情報化としての消費化
生産システムの内部における現代的転回が1927年に起こった。それは、ATTホーソン工場における実験で、労働者の感情、動機、欲望が、生産能率向上に寄与する要素であったという知見である。それは、「科学的管理法」であるテイラー・システムの思考では想定していないものである。
また、1927年には、T型フォードが、デザインと広告とクレジットを柱とするGMの戦略によって生産停止となったが、これは「情報による消費の創出」時代の開幕を告知していた(内田隆三『消費社会と権力』)。ヘンリー・フォードの思考はテイラー・システムの「科学的管理法」と正確に対応している。自動車は作ることよりも売ることのほうが難しい商品になった(リースマン『何のための豊かさ』)。(小生注:ソニーは社内であったが類似の歴史を持っていると思う。井深→盛田→大賀ゲーム機が利益を稼ぎ、ロボットを断念し、現在混迷へ)
現代は、「購買のリズム(=a)が消耗のリズム(=u)(小生注:リズムとは次の商品を買うまでの時間を指す)を越えて(a>u)いればいるほど、モードの支配力が強い」(ロラン・バルト『モードの体系』)という発見がなされる時代である。
モードは自己否定を通して世界を支配し、デザインは広告の声を通してモードとなる(それ自体でモードとはならない)。デザインと広告は情報化の二つの様相として消費社会を「繁栄」させている。
3      欲望の空虚な形式。または、欲望のデカルト空間
a>uという状態は、必要でないものを欲望する自由(あるいは狂気)が出現したことを意味する。
情報の解き放つ欲望のデカルト空間(小生注:三次元の延長より成る、無限性の形式としての数学的空間)というべき「形式の自由な世界」が、「消費社会」の運動を保証する空間である。この空間は、消費社会が自己生成し続ける世界の形式である。
4 資本主義の像の転換。純粋資本主義、としての〈情報化/消費社会〉
資本制システム一般のダイナミズムを保証する空間が、〈労働の抽象化された形式〉であることと同じに、消費社会としての資本制システムの運動のダイナミズムを保証する空間は、この労働の抽象化された形式に加えて、〈欲望の抽象化された形式〉である。
資本制システム一般の存立の前提としての、〈労働の抽象化された形式〉は、二重の意味での自由な、労働主体の形成として実現される。第一に、労働主体の伝統的な共同体とその積層からの開放(移動や職業の自由など)、第二に、労働手段との直接の結合から解離されて(自然や土地や共同体の保証からの解離)、市場関係という回路を通してしか、自己を実現できない労働主体の創出、である。(マルクス『経済学批判要綱』『資本論』)。消費社会としての資本制システム一般の存立の前提としての、〈欲望の抽象化された形式〉は、マルクスのいう「労働」を「欲望」に読み替えた概念で理解することが出来る。「消費社会」は(マルクスの言う)資本制システムの論理自体の領域の拡大(労働から消費へ)による一般化である(小生注:マルクス『資本論』第一巻 第一章 「商品」において、“商品には価値の二重性が属している”と述べているが、その前提には “商品は人間の欲望を満たす、ある物 である”なのである。マルクスの労働価値説の理論には労働だけではなく原理的に欲望が組み込まれてはいるが、ただ当時はまだこのことが重要な要素として経済社会に現象していなかったから展開されてこなかったのだ、というのが私の感覚)。
〈情報化/消費化社会〉は、初めて自己を完成した資本システムであり、純粋な資本主義であり、純粋な資本主義からの脱出でも変容でもない。マルクスは、この完成した資本システム、純粋な資本主義を見ずに死んだ。
ウエーバーの言う、資本制が軌道に乗り始めるに従って生じてくる宗教性と倫理性の脱色は、(彼が考えたような)消極的な理由からだけではない。ケインズは供給よりも需要が、生産よりも消費が資本制システムにとって決定的であることを洞察し、マルクスと反対に資本主義を肯定したが、「ケインズ革命」と、その反ケインズ主義の徹底と言うべき「情報消費化」は、プロテスタンティズムの倫理の否定が不可欠であったことの、構造的な必然を解き明かしている(小生注:この意味不明)。
5 誘惑されてあることの恍惚と不安。システムの環としての幸福/幸福の環としてのシステム
竹田青嗣は、井上陽水の歌が、仮面の後ろにあるものを「知っている」が、それでもやはり、この「仮面舞踏会」の胸騒ぎに充ちた予感の世界にひきつけられずにはいられない心情を、幾重にも表現するものであることを指摘している。情報消費社会の内部に生きる1970年代以降の世代たちにとって、この誘われたままでいること、あるいはむしろ、よく誘惑するものであるか否かということを鋭敏な批判の基準として選択する仕方が、生きることの技法となっている。
必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものはより魅惑的でなければならない。情報を通して欲望を作り出すことはできるが、これは消費社会の可能性の条件を示すだけで、どのような商品も、魅力性がなければ消費者のうちに欲望を形成できるわけではない。この美しさと魅力性とをめぐる熾烈な競争が、〈情報化/消費化社会〉の、固有の「楽しさ」「魅力性」を増殖し展開しつづける、積極的な動因である。
マルクスは大衆の消費過程について、「家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることには変わりがない」と語っている。この命題は正しいが反転してみることができる。「大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりがない」と。花の色彩と蜜の味は誘惑の必要から生まれたものであっても、人間が幸福なもののメタファーの原基としてきたものである。
6 システムと外部
(前項で)〈システムの環としての幸福〉というものが、そうであるゆえに批判される根拠はなく、(むしろ)この社会の「楽しさ」「魅力性」がこのシステム存立の不可欠な契機であることをおさえておかなくては、(現代)社会のリアリティーの核をはずした認識といえよう。その上で、現代社会理論は、このシステムの「限界」に立ち現れる問題系を視野に入れなければならない。
(その問題系のひとつは「外部問題」であり)その第一は、自然との臨界面における環境、資源・エネルギー問題である。消費社会のシステムが解き放つ欲望の無限空間と地球の有限性との矛盾である。第二には、このシステムと外部社会との臨界面における南北問題である。欲望の無限空間に向けて離陸するときに、離陸された「必要」の地の側はどうなるのかという問題である。
外部問題の他に、「内部問題」と呼ぶべき問題系がある。これは、このシステムの相関項として形成される主体の形式(その主体の形式は脱根拠化された欲望の無限性という経験がわれわれの生の世界の経験の現実性にもたらす帰結に関係する)、人間たちのリアリティーとアイデンティティーの変容をめぐる問題系であるが、それ自体として別に取り上げる(小生注:ただしこの問題系は2006年『社会学入門』で全面的に取り上げられる)。
20世紀の経験は、人間の自由を原理とする社会でなければ、たとえ理想と情熱から出発したとしても、必ず抑圧システムに転化する社会であることを示した。最後の章では、自由を原理とする社会の形式が、情報化と消費化という二つの力戦の潜勢する射程を開くという仕方で、この限界問題を乗り越えていくという展望を素描する。

二、 環境の臨界/資源の臨界。現代社会の「限界問題」Ⅰ
1、『沈黙の春』:省略
2、水俣:省略
3、環境
1950年代のアメリカ、195060年代の日本で起こったことは、大量消費社会および、この社会が外部として開発する地域で発生した。欲望のデカルト空間は、消費のための消費、(社会)構造のテレオノミー的な転倒の完成された形式である(小生注:テレオノミーとは偶然と必然だけでは説明できない「種族維持的合目的性」とも言うべき概念)。
4、資源:省略
5、「ブームタウン」。自立システムの限界
大量生産→大量消費、システムの内実は、大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄、というシステムである。このシステムは、欲望を内部化する資本制システムの「自己準拠化」の限界として立ち現れる。

三、     南の貧困/北の貧困。現代社会の「限界問題」Ⅱ
1、限界の転移。遠隔化/不可視化の機制
環境・公害問題の転移をもたらすメカニズムとして、環境社会学者が言う「ダブルスタンダード」、あるいは基準の落差という問題がある。環境政策についての国際協定がなければならない。
(限界問題は)生産と消費の起点と末端における臨界を、「外部」の諸社会、諸地域に転化することをとおして遠方化することによっても行われてきたが、それも限界にある。
2、「豊かな社会」がつくりだす飢え
理論として徹底した考察は、「発展」「開発」が望ましくないものである可能性を排除してはならない。
「もしも穀物が肉食用家畜に飼料にされることなく、またそうした穀物の配分が平等になされたとすると、世界には一日一人当たり薬5000カロリーに達する十分な食料があることになる」(ハンフリー/バトル『環境・エネルギー・社会』)。などの記述。
3、「人口問題」の構造
「南の人口問題」は、抽象的な「究極の原因」でもなく主観的な無知や「心構え」の問題でもなく、単なる貧困の問題でもなく、構造的に過渡的な局面の一契機である。
4、貧困というコンセプト。二重の剥奪
貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外以前に、貨幣への疎外がある。この二重の阻害が、貧困の概念である。
南の貧困」を巡る思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外、原的な剥奪をまず視界に照準しなければならない。
5、「北の貧困」。強いられた富裕
ロスアンジェルスで自動車がないことは、「ノーマルな市民」としての生活が殆どできないということである。東京やニューヨークでは、巴馬瑶族(広西チワン族自治区の少数民族)の10倍の所得があっても実際に「生きてゆけない」。これらは、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。
現代の情報消費社会のシステムは、この新しい「必要」の地平を含めて、必要から離陸した欲望を相関項とすることを存立の原理としている。「北の貧困」は、システムの内部に生成されながら外部化されるものである。
福祉という領域は、基本的に傷つけられやすいものとなっている。それは、福祉というコンセプトが、その原的な目的性においてではなく、システムの矛盾を補欠するものとして、消極的な定義しか受けていないからである
6、情報化/消費化社会の「外部」
現代の情報化/消費化社会のシステムは、古典的な資本制システムの矛盾を克服し、20世紀の後半をかけてなされた「社会主義」との対照実験をとおして、相対的な優位を獲得したが、そのシステム自体の内に矛盾と欠陥を持っている。
このシステムの外部は生きることの自然的、共同体的な基盤を解体し、貨幣を媒介としてしか生きられないシステムの中に編入されてゆく。この原的な解体と剥奪によってはじめて、生存と幸福の絶対性として貨幣の「必要」が形成される。けれども、このシステムは、原理上「必要」には無関心である。この問題は、「南の貧困」「北の貧困」に共通に貫かれている。

四、 情報化/消費化社会の転回。自立システムの透徹
序 「それでも最も魅力的な社会」?
現代の情報化/消費化社会のシステムは、それでも世界で一番魅力的なシステムである。情報を禁止するような社会、消費を禁止するような社会に、われわれは魅力を感じない。自由をその根本の理念としないような社会に、われわれは魅力を感じない。
それを可能にするには、情報について、消費についての原的な考察(魅力の根拠、不可避の未来である根拠の考察)をとおして、情報/消費のシステムの全く新しい形態を構築することである。その条件と課題を明確にするところまではしておきたい。
1、消費のコンセプトの二つの位相
バタイユは「自然の三つの奢侈」である食と死と性についての考察をふまえた上で、人間という存在自体が一種の豪奢な消尽であると述べる。生産主義的な社会理論、人間理論の一切に形に対する批判し、後の現代の消費社会論に強力な基底を用意した。
けれども、この消費社会の理論の核心部分に、見えにくい転位があったように思われる。それは、バタイユの消費社会論における消費は「充溢し燃焼しきる消尽」であり、ボードリヤール以降では「商品の購買による消費」を意味している。現代社会は巨大な偽造体であるといえる。バタイユを通して、有用性の彼方の消費というコンセプトを、精錬してつかみ出してくることが、消費社会の理論の批判に有効である。
2、消費の二つのコンセプトと「限界問題」
「限界問題」が「消費社会」一般の不可避の帰結であるかどうかは未だ決定できない。けれども、ある転向を必要としている。バタイユの「至高なもの」は「限界問題」により制限されない。
3、無限空間の再定位。離陸と着陸
「必要」への地平ではなく、生きることの歓びという地平への着地の仕方は、一つの社会システムのテレオノミー(目的性)を、いっそう原的な地平に着地する仕方だが、それはこの社会の活力の運動する空間の開放性を、有限なものの内部に閉ざすことはない。
4「ココア・パブ」
ゼネラル・ミルズ社の「ココア・パブ」は楽しさとイメージで市場価格を原料のとうもろこしの25倍以上にした。イメージは情報作り出し、それにより資源の消費を1/25にした。情報化それ自体は、消費社会が収奪的でないような方法を作り出す条件である。
5、情報化と「外部問題」。方法としての情報化
狭義の「情報」のコンセプトは、第一には認識、第二には設計という手段の側面であるが、再三の様相として自己目的的に幸福の形態としての無限空間である。
第一の事例として、UNEPの地球環境モニタリングシステム等が挙げられる。第二の事例として省エネ技術開発等が挙げられる。第三の様相については次節で述べる。
6、情報のコンセプトの二つの位相
現代社会の理論としての情報化社会論の系譜には、「脱産業社会論」と「高度産業社会論」があるが、前者が「産業主義的」社会の経済全体の彼方を見晴るかす視座であるにたいして、後者は産業社会の原理の内部であるにすぎず、この二つの理論には位相のずれがある。
情報の第三の様相は、知性や感性や魂の深さのような次元に属し、人々の洞察のベースとなるような経験でもあり、かけがえのないものという核心を持ち、非物質的な空間への視野の開放という射程を持つ、未だ名づけられていないものである。
7〈単純な至福〉。離陸と着陸
バタイユの不羈(ふき)自由奔放で束縛しえない・こと(さま))の思考が指し示す極限のかたち「至高性」と、バタイユとは対極的な資質を持つイヴァン・イリイチが「外部問題」を解決する唯一の方法として示している「自立共生的」のなかの生の様式である「歓びに充ちた節制と開放する禁欲」は、交差している。だが、バタイユは禁欲の道ではなく不羈の仕方で歓びを追求することによりそこに到達している。
とすれば、われわれの情報と消費の社会は、生産の彼方にあるものを不羈の仕方で追求するなら、外部の収奪は必要としないことを見出すはずである。
ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていること、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということを、見出すはずである。

結、情報化/消費化社会の転回
現代の〈情報化/消費化社会〉という巨大な歴史の実験が、大衆的規模で実証していることは、人間はどんなものでも欲望することができるし、人間が見出す幸福の形態には限りがないということである。
〈情報化/消費化社会〉は、自然解体的でもなく他者収奪的でもないような仕方で、あの直接的なものの歓喜の(無限に変幻することも、そうでないことも自由であるような)世界を生きることへの出口を、われわれに開いて見せているはずである。

2016年5月24日火曜日

『親族の基本構造』(クロード・レヴィ=ストロース)【メモ】

親族の基本構造(クロード・レヴィ=ストロース著)
(福井和美訳、青弓社)

ピエール・ドゥ・ロンサール
親族とは親子から始まる血縁関係にある人々で、配偶者はもともと他人となるのだが、どこまでが親族でどこから他人なのだろう。このとても単純な問いは、動物とは区別される人間社会の成立原理、あるいは自然的社会と文化的社会を区別する原理へと行き着く。
本書は、主として未開社会の観察と観察結果に対する著者独自の解釈法に基づいて、人間の社会を作り上げている原理を解明しようとしている。観察は、著者自身の体験もあるが大部分は他者の厖大な研究論文等であり、独自の解釈法とは、構造主義に基づいたものである。構造主義については、本書においてソシュール言語学との直接的関連性が述べられてはいるが、人類学についてどのように適用されているだろうか。多分それは、多様な未開社会における現象や時には旧約聖書や神話の記述との間に、分析された要素間の因果関係や継時的進化論などでは捉え損なうような、共通する普遍的なもの、構造がある、というようなものであろう。
この構造を直観する部分が著者の天才的なところだと思う。例えば、数多ある社会現象の中からインセスト禁忌を取り出してその本質を抉るところなどは冴えたる部分である。因みにインセスト禁忌は生物学的原理に由来するものではなく(もしそうなら、社会が禁忌を作る必要もなく守られるから)、社会的構造原理に由来する。もう少し深読みすると、著者は、社会は開かれているという本質を持ち、閉鎖された社会は存在できない、と洞察したのかもしれない。
著者は、人間社会を作り上げている原理は「女性の交換」にある、と言う。もう少し説明してみると、婚姻の本質は交換にあり、婚姻の形式は交叉イトコ婚(性の異なる兄弟姉妹の子供達同士の結婚)であって、交換は互酬構造に基づいており、女性は交換対象であって、しかも財で代替できない本質的価値を持ち、完全に記号と化してしまう語とは逆に、記号でありつつ同時に価値でもあり続けるものである、となる。こう言われても、普通はピンと来ないが、数多の未開社会の奇異とも思える実例を知り、その構造が現代にも存在するという事に気付くだけでも面白いと思う。

もう少し詳しいことは、別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に掲載しました。

2016年5月22日日曜日

『論考』(ヴィトゲンシュタイン)【メモ】

論理哲学論考(ヴィトゲンシュタイン)岩波文庫 野矢茂樹訳
(もう少し詳しい内容は別のブログ「爺~じの名著読解」に掲載した)

ハニーブーケ
「およそ語られうることは明晰に語られうる。語りえぬものについては沈黙せねばならない。哲学の諸問題は、われわれの言語の論理に対する誤解から生じている。私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。」と述べ、哲学を棄てて小学校の先生になった。著者が30歳にもならない頃のことである。だが晩年、この『論考』を乗り越えて『探究』を著した。
「およそ語られうることは明晰に語られうる」部分は、一言で言えば、「世界は事実の総体で、真偽を決めることの出来る命題ですべて記述できる」というものである。その記述は、当時の論理学を批判しながら立てた自分の論理学を用いて綿密に語られたものだが、その内容は、論理の構造を含めてコンピュータの世界と酷似している。ユニークなところは、要素命題と呼ばれる独立した基本命題があって、そこからすべての命題は導かれることになっているのだが、その要素命題は、具体例は挙げることは出来ないけどその存在は「要請される」と考えているところ。つまり、人間の世界が対象なのだ。
記述には多くの記号や式が書かれていて難儀するが、論理学に素人の私がポイントをつかみ取るには、記号論理学の教科書ではなくて、数学入門書での集合論と論理を読む方が役に立った(裏技)。因みに要素命題数がn個なら、世界を記述する命題総数は個と計算で限定されている。

本書では、「世界と生とは一つである。私は私の世界である。世界の意義は世界の外になければならない。幸福な世界は不幸な世界とは別物である。梯子をのぼりきった者は梯子を棄てねばならない。」などと、「語りえぬものについては沈黙せねばならない」ところを語ってしまっているが、謎めいた箇条書きで綴られたそれらの文章が、かえって妖しい魅力すら漂わせている。だが、『論考』の魅力は、序で述べられている「哲学の諸問題が言語の論理に対する誤解から生じている」という問題意識に対する、一つの回答として読めることだと思う。

2016年2月2日火曜日

『省察』(デカルト)

もう少し詳しく知りたい時には、別のブログ「爺ーじの哲学系名著読解」をみてね


省察1 疑いをさしはさみうるものについて
デカルトは、今までの経験を内省してみれば、真と思っていたものが偽であった場合は沢山あったし、今は真と思っているものでも、例えばそれは夢かもしれないと疑うこともできるから、疑い得ないものはなにもない、と考えることから始めようとした(普遍的懐疑)。
何故そう考えたのかについての本当のところは私にはよくわからないが、とにかく何事に対しても偽りではない本当のところを知りたいと思ったのだと思う。しかし、欧州を覆う宗教戦争がまだ継続していた時代に、そういう思いを本書にしたデカルトは、多分命がけだっただろう。デカルトは近代学問の父と呼ばれるに相応しい。

省察2 人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること。
普通は、身体のように見たり触ったり出来る物体の方が、見えもしない精神よりわかりやすいと考えるだろう。デカルトは逆のことを言う。つまり、自分の身体を含めて物体が存在することを知るのは、物体がそこにあるからではなくて、そのことを私が疑い得ないと感じ取るからであって、そうさせるものが精神であり、だから既に、身体より精神は容易に知られている、と言うのだ。実に素晴らしい感性だと思う。
自然科学や技術の発展を重要な基盤とする今日の世界は、デカルトのもたらした物体に対する知の恩恵を享受しはしても、このデカルトの感性を忘れているように思える。

省察3 神について。神は存在すること(注:アポステリオリな証明)
普遍的懐疑が可能なのは、経験に基づいてどう内省してみても、神が存在するからだ。この意味は?
・神の存在証明No1私は実体であっても有限であるから、私の内にある実体の観念は、無限の実体(=神)から生起されない限り、無限の観念ではありえない。だから、神は存在する。言いかえてみるとこんな感じ。完全な存在は疑う必要はないのに、私は普遍的懐疑という基本的態度に基づいて疑いまくるから私は不完全な実体であり、なおかつ私の内には無限の実体という観念がある。そのような私の経験を説明するには、完全かつ無限な実体の存在、すなわち神を想定するほかはない。
・神の存在証明No2今まで述べられてきたいろいろな論証の力は、かかって次の点に存するのである。すなわち、私が現にあるがごとき本性のもの、神の観念をもつもの、として存在することは、実際に神もまた存在するのでなくては、不可能なのだと私が承認することであり、私はそれを承認する。だから神は存在する。簡単に言うと、神の観念を持っているこの私は存在しているのだから、神も存在している。う~ん、他にもいろいろな理屈があるとは思うが、No2No1と同じようなものということで。
しかし、なぜそのような証明を企てたのだろう。多分、人間が考えた、自然科学や数学の推理、論証があまりに正しく完全であるかのように見える理由を問うたら、不完全な人間自体にその理由があるのではなく完全な神にあるとしか考えられない、と言いたかったのだろう。
この証明が正しいのかどうかではなくて、どんな考えをベースにしてそれが行われたのだろうかとみてみると、例えば、結果には原因がある(究極の原因は神)、無から有は生じない(神は形相的かつ表現的な実体)、不完全なものからは完全なものは生じない(神は完全な存在)などが主なところか。
だが、デカルトは本当のところ、神という実体が存在するかどうかを知りたかったのではなく、人間が納得したものと真実とが合致することの謎を解きたかったのだと思う、典型的には数学の。

省察4 真と偽とについて
誤らずに真に到達するには、悟性の働きにより不明瞭なものと明晰判明なものとを区別して、その明晰判明な認識に基づいた選択・判断をするという意思をもって行為する、すなわち意思の自由を正しく用いることである、デカルトは言う。
デカルトは何が言いたいのだろう。前半の認識の部分は明快だが後半の意思の部分は不明瞭。でも面白いと思ったのは後半の方。意思の自由の本質は、他に左右されずに自分で決めることにあるのだから、意思の自由というものは、完全性としてはこれ以上のものは考えられず、つまり意思の大きさは神と自分では同じ、自分は神の似姿を宿していることを理解している、とデカルトが感じ取っているところ。

省察5 物質的事物の本質について。そしてふたたび神は存在するということ(存在論的証明、アプリオリな証明)
・神の存在証明No3私があるものの観念を私の思惟から取り出しうるということだけから、そのものに属すると私が明晰にかつ判明に認知する全てのものが、実際にそのものに属する。だから、私の経験とは関係なく、神は存在することが証明された、と大体こんなところだろう。
この証明が正しいかどうか考えるのも良いけど、ポイントとしては、物質的本性つまり自然の法則と数学とは両方とも神が創出した完全なる真実だ、という考え方にあるのだろう。この考え方は自然科学が発展した大きな理由の一つらしい、つまり自然法則を発見するのに心置きなく数学を用いることができるようになったと。

省察6 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について
物質的事物は、感覚や想像ではなくて、観念によって捉えられるものである、と、いままでは考えてきた。ところが、観念とは本来、例えば三角形の観念のように、実在する似たような形の物質的事物の形状に基づいて人間の精神から生み出されたものなので、それ自体は実在しない。だから、このような考え方だけからでは物質的事物が実在することを説明できないことになる。そこで感覚や想像の復権が行われ、精神と身体との実在的な区別がなされ、物質的事物と身体が晴れて存在資格を持つことになる。
だがここで、精神と身体は分かちがたいと感覚や想像が異議を申し立てるという悩ましい事態が発生し始め、デカルトもそのことには気がついている。しかし、この問題は本書の主題ではない。哲学的思考全般に言えそうだが、デカルト的な思索法で問題が解けずとも、解けない問題が提起されることや、解けない理由を考えたくなるという効用はあるだろう。


おわり

2015年10月19日月曜日

『資本論(第一巻)』カール・マルクス【全25章ごとの感想】

『資本論』カール・マルクス著(第一巻 岡崎次郎訳 大月文庫)
――読書感想(読解篇は、別のブログ爺~じの哲学系名著読解を参照してね――

【目 次】
第一巻(第一部)
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第二章 交換過程
第三章 貨幣または商品流通
第二篇 貨幣の資本への転化
第四章 貨幣の資本への転化
第三篇 絶対的剰余価値の生産
第五章 労働過程と価値増殖過程
第六章 不変資本と可変資本
第七章 剰余価値率
第八章 労働日
第九章 剰余価値率と剰余価値量
 第四篇 相対的剰余価値の生産
第十章 相対的剰余価値の概念
第十一章 協業
第十二章 分業とマニュファクチュア
第十三章 機械と大工業
第五篇 絶対的及び相対的剰余価値の生産
第十四章 絶対的及び相対的剰余価値
第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
第十六章 剰余価値率を表す種々の定式
第六篇 労賃
第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
第十八章 時間賃金
第十九章 出来高賃金
第二十章 労賃の国民的相違
第七篇 資本の蓄積過程
第二十一章 単純再生産
第二十二章 剰余価値の資本への転化
第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
第二十四章 いわゆる本源的蓄積
第二十五章 近代植民理論
第一巻終わり





第一章 商品 と 第二章 交換過程
一章と二章が『資本論』という本の基本的な思考の枠組みをなしていると思う。つまり、人間の営みの基本には経済活動があり、経済活動を考察するときのキーワードは「商品」である、とマルクスは言う。では「商品」とはなんだろう?この章はこの問いに対するマルクスによる回答だ(小生はフッサールが好きなので、「商品」の現象学的本質観取だと思う)。「商品」という歴史的現象から先入観を除いてその本質を取りだした。商品は人間の労働による価値生産物であるが、その価値は使用価値と交換価値という、価値についての二重性を持っているという。その意味は次第に分かってくるはず。だが、その意味がわかったとしても、その意味するところのものは本当か?それはわれわれ読者が自分で試してみるほかはない。

第三章 貨幣または商品流通
貨幣の使い方は普通誰でも知っている。しかし「貨幣」って何?という問いには答えるのが難しい。だが、チョット考えると貨幣=お金の使い方も稼ぎ方も自分の生き方の中で考えはじめた途端にとても難しくなる。

第四章 貨幣の資本への転化
段々と「資本」の話へと進む。ここで「資本」は悪だと思い始めてはいけない。そういう感じ方は宗教等々での対立と同根であり、すべての物事を良い方へは進めない。

第五章 労働過程と価値増殖過程
富を生む源泉は働くことにある。このこと自体は疑えない。その富がどうしてみんなに行き渡らないのだろう?富を公正に分配するという正義を達成する方策を、マルクスの理論を参考にして生み出すことができるのだろうか

第六章 不変資本と可変資本
「物」ならともかく労働力が「商品」であるということが、「元凶」ではなく「原因」なのだ。そのことは「資本」というものをこの二つ、不変資本と可変資本に分解して考察してみるとよりはっきりするという理論の力はたいしたものだ。

第七章 剰余価値率
数字の意味を理解するのは大切だ。数字には意図や場合によって恣意があるから。マルクスの言う剰余価値率の分母は全部の資本ではない。この数値にも意図がある。

第八章 労働日
この章に記述されている当時の悲惨な労働状況にマルクスは怒っている。実にまっとうな怒りである。その原因は「資本」による労働の搾取であり、資本主義生産体制において絞り込んで考察すれば、人間から時間を盗むことである。ここで怒りにまかせて「資本主義」を倒せば良いと考えてはマルクスも浮かばれない。現代にも受け継がれているこの不正義の是正にマルクスの理論を役立てることこそ、みんな(あえてみんなと言っておこう)に負わされた役割だよね。

第九章 剰余価値率と剰余価値量
資本主義生産体制に移っていくと動かすお金が大きくなってくる。するとできることも大きくなって、利益総額も増え、資本家にとってはよいことだ。だが同時に、すべての人間の意識のなかで価値の逆転が起こっていることには気付いていない。やがてこれが牙をむくことに・・・。

第十章 相対的剰余価値の概念
知恵や努力によって生産力が高まった結果新たに生み出された富は、相応に分配されるのが正義というものだろ!そういう智恵を生み出すためにマルクスの理論は使えそう。

第十一章 協業
みんなで協力して働いた成果は、みんなが使えるようにしないとね。ただお金だけが増えてしかもそのお金を使うことができる人が特別な人たちだけだったら怒るよね。商品の価値の二重性、使用価値と交換価値という見立ては、そのことを考えるうえでやはり深い意味がありそう。

第十二章 分業とマニュファクチュア
分業が進み専門化と高度化と機械化が進んで行って、人間の部品化が進み従って人間性が失われていく、ということは誰でも嫌なことだと思う。どうしてそうなってくるのかといういきさつ知れば、みんなで知恵を出して先手を打てるかもしれない。マルクスの理論はその一つの手助けになりそう。

第十三章 機械と大工業
資本主義的生産体制は、いよいよ経済・社会構造の歴史的発展の最終段階、機械と大工業の時代を迎える。そこにおいては、西欧近代の科学と技術の力が強大な役割を演じ、そのことで内包する矛盾が益々顕著になる一方で、同じく西欧の自由と人権の思想がそのような経済・社会の構造に徐々に反撃を加えていく、というマルクスの見立てが語られている。因みにそのような大工業は歴史必然的に崩壊して、働くものが報われる社会が到来することが予告されているが、それがどのようなものなのかは語られていない。この章は、第八章の労働日と並んでマルクスの社会観察の具体例が沢山記述されている。これらの多くの事例の記述から、弱いものの味方マルクスのモチーフがよく感じ取れるとともに、そこからマルクスが導き出した経済・社会の理論の根底にある哲学的思考(ヘーゲル弁証法)も見えてくる。

第十四章 絶対的および相対的剰余価値
絶対的だろうが相対的だろうが、とにかく、剰余生産物は人間の生まれつきの性質からは生じないが現実には生じている。理由は、人間は他人の剰余生産物なくしては生きていけないからである。もっと広くいえば人間は一人では生きられないのだ。問題は、そこにつけ込んで剰余生産物を掠め取ることを可能とする社会の構造(資本主義的生産体制)にある、とのご指摘はもっともだ。しかし、マルクスはその根源に欲望の充足手段の発展とともに増大する人間の欲望の存在を認めている。社会構造の理論とともに欲望の構造の理論が面白そうだ。

第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
みんなが互いに働いて生み出された結果である物やサービス、つまり富は結局どこにいくのだろう?公平に配分されているのだろうか、と言う素朴な疑問をしつこく忘れないでおこう。富の総量は、剰余価値と労働価値の合計で、それは三つの要因、働く時間の長さ、働きの強度、働く能率で決まる(これは既に説明済み)。どれがどう動いたらどんな結果となるかという理論とか、それと史実との整合などが述べられているが、結局それを考えるのは、冒頭の疑問に対する答えを求めるかぎり意味をなすのだろう。マルクスの理論を手がかりにすれば、それまでの経済理論よりも、よりよい社会を構想できるはずで、例えば資本主義生産様式の社会ではそれは難しい、とまでは述べられている。

第十六章 剰余価値を表す種々の定式
剰余価値率とその意義については既に七章でのべられている。しかしその後、いろいろな概念が明確になってきたので、改めてその意義を明確にした、という感じ。

第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
資本主義的生産様式は、労働の搾取の上に立ってはじめて成り立つというマルクスの理論は、労賃は働きに見合った分がお金で支払われるのだ、と思ってしまうカラクリを暴露する。商品自体に備わっている使用価値と交換価値という二重性(従って通約不可能)に加えて、労働も商品であるという意識の勘違いが加わって、そのカラクリを見えないものにしている、というマルクスの看取はお見事。だが、その二重性や勘違いを生じさせるものは、やはり人間の意識だから、ナゾの解明はまだ先にありそう。

第一八章 時間賃金
「労働の価値」が「時間賃金」で測られることには、それ自体の物理的意味としては違和感がないとしても、実は社会的にはまたまた隠された使い道があることが暴露されている。それが理解できるかどうか(マルクスが正しいかどうかとは少し違う)の分かれ目は、頭の善し悪しではなくて問題設定の動機にあるらしい。動機が不純だと何事にも目がくらむのは哲学的真理かも。

第十九章 出来高賃金
労働の価値が貨幣額に転化した形態として、前回は時間賃金が取り上げられたが、今回はもう一つの出来高賃金が取り上げられている。形態が違うと認識が違ってくる場合が多いのが現実である(=現象)。形態に囚われて本質を見失なわないよう、まずはそのことを意識しよう。そこにつけ込まれて騙されないように賢くなろう、という言い方は間違いとは言えないけど、形態に囚われているのかも。

第二十章 労賃の国民的相違
150年ほど前はイギリスと大陸ヨーロッパでの賃金格差は数倍もあって、イギリスの労働者は高い賃金を貰っていた。しかし、イギリスの労働者の生活は、大陸の労働者に比べても悲惨で、資本家は低い賃金を支払って相対的に高い剰余利益を獲得していた。だが、この程度で済んでいたのは、世界市場が今より閉鎖的だったからかもしれない。

第二十一章 単純再生産
経済社会の歴史がここまで進むと、労働者自身が資本に合体してしまい、資本の増殖が果てしなく続くというステージに入る。単純再生産は剰余価値を資本家が全部消費する場合を指しているのだが、それは事態が変化しないのではなくて、資本の大きさは変わらなくても内容つまり出所は労働者の生み出した価値によって刷新されていくこと、また再生産自体が資本主義的生産様式の社会においても果てしなく、しかも自動的に続きうるということを意味している。すると、大小いろいろな場面で再生産の方法を変えていくことで、社会を良い方向に変えることが出来るかもしれないね。

第二十二章 剰余価値の資本への転化
歴史を積み重ねて出来上がってきた資本主義的生産様式の社会においては、資本家も労働者も、剰余価値から更に剰余価値を生むような行動を取る結果となっている。もちろん、資本家は自己の贅沢な再生産に加えて享楽に必要な分も、労働者は自己の貧素な再生産に最低必要な分だけを、貨幣として獲得する。なぜそんなことになるのか?マルクスは言う「・・・所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである。・・・資本主義的取得様式は商品生産の諸法則にはまっこうからそむくように見えるとはいえ、それはけっしてこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるのである。資本主義的蓄積を終結点とする一連の諸運動段階を簡単に振り返ってみれば、このことは一層明らかになるであろう。」その原因は、誰かが悪い(例えば悪い王様とか)というのではなく、人間が歴史を積み重ねて作り上げてきた社会の仕組みにあるのであって、それは知恵がつけばつくほど気付きにくいように埋め込まれてしまっているのだ。その知恵の内実が、経済学批判という形で述べられている部分も面白いです。気持ちだけで知恵がないと問題を解決できないけど、はじめの気持ちが邪なら智恵は悪用されるだけでしょ。

第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
資本主義的生産体制の社会が進んでくると、生産は増大し、社会的富は蓄積され、働く人の数も増えてくる。しかし、労働人口は常に過剰となるようになっており、従って、労働者の生活は最低限のまま向上しない。なぜならば、労働人口は資本と独立ではなく資本によって制御されているからであり、それが可能なのは労働が資本の支配下にあるからである。資本主義的蓄積の一般法則は、蓄積が進めば相対的過剰人口が増えるということである。マルクスがこう考えざるを得ない根拠は、歴史も含めた現実の観察と経験にあるのだろう。その部分については、第8章(労働日)や第13章(機械と大工業)に続いて、本章の第五節(資本主義的蓄積の一般法則の例解)にも沢山書いてある。だが、資本が労働を支配するということを制御して、支配ではなく納得の構造をもった社会とはどのようなものなのだろうか。そのような社会を創るのにマルクスの理論を生かせたら良いと思う。

第二十四章 いわゆる本源的蓄積
富の搾取の本質は労働支配であるから、資本主義的蓄積の前史としての本源的蓄積も他人の支配に基づくということになるのだが、その歴史の実に悲惨なこと。それに比べれば19世紀のヨーロッパに花咲いた資本主義的生産様式の社会はまだマシと考えるのは誤りであって、事実はもっと悲惨ですらある。なによりそこでの主役(搾取するもの)は個々の人としては見えてこない、つまり血の通わない「資本」であり、更に前史の不自由から解放された(搾取される人も)自由の形式を取引の対等関係として持っているので、具体的に敵対する他者を意識しにくのだ。だから始末が悪い。結末は歴史的必然性によって私有の否定の否定が起こり、従ってはじめの私有はみんなの所有となるような新しい社会が到来することを暗示している。この最後のくだりは素晴らしいマルクスの推定、あるいは理念にすぎない。率直に言えば、この最後のくだりは資本論第一巻のいわば付録のようなものだと捉える方が良いのではと思う。なぜなら、本書での一番大事な部分は、相反して対立する性質を抱えている人の欲望を根底に据えた、経済と社会に関する本質的洞察であると思えるからである。

第二十五章 近代植民理論


本国とは歴史の経験が違っている植民地であるからこそ、そこで生じている経済状況が、己の理論の正しさとそれまでの経済学の誤りを浮き彫りにしている、というマルクスの言い分はなかなか説得力があるなー。

2015年7月5日日曜日

『エミール』(戸部松実訳 中央公論社)

ルソー『エミール』(戸部松実訳 中央公論社)
――読書感想(要旨は別のブログ「爺~じの名著読解」にまとめて移しました)――
ピース

序文
ルソーの二者選択的思考には、事柄の本質を掴む原理はあっても現実を乗り超える原理に欠けている面がある。
本書に関しては、善とはもう少し具体的にいうと子供に対する愛であり、実行とは方法論を示すことだろう。
「自然」はルソーのキーワードだが、その内容とはどんなものなのだろうか?

第一篇
人間が完全なものでないとしたら、そもそも教育とは可能なものなのだろうか、という問いは、そもそも共和国なるものが可能なのか、という問いと対をなしてルソーのうちにあると思う。本書は前者の問いに対して、エミールという子供を理想的な教育者としてのルソーが育てていく思考実験を通して考えていこうという筋書きとなっている。その思考実験の背景にあるルソーの人間洞察は面白い。だが、教育についての具体的提案の中味やその理由については、現代とは社会背景が異なることもあるし、なるほどと思うところと、ピンとこないところがある。だから、特に具体的方法については、現代における科学的観察に基づいた一部の研究結果、例えば『育てられる者から育てる者へ(鯨岡峻著、NHKブックス)』などを読む方が参考になると思う。

第二篇
ここでは、12,3歳くらいまでの幼年期の教育について書かれている。子供は小さな大人ではない。子供を子供として成熟させること、それが自然の目的に適った教育である。この考えの根拠となっているルソーの人間観察は鋭い。
身体的感覚(五感)、快苦、身体表現、言語表現、自己意識、勇気、欲望、愛憎、立腹、臆病、卑屈、感性、感覚、知覚、観念、記憶、推理、比較、判断、理性、事物認識、虚偽、所有、正義、支配、自由、などについて、子供は子供としてのそれらを感じ取っている。だから一番大事なのは、その感じ取る力を育てることであり、一番いけないのは、発達段階によって異なる子供の理解の程度を理解せず、しかも慣習と偏見と誤謬にまみれた大人の考えを押しつけることであり、それは人間を育てることにはならないとルソーは言う。基本的にはその通りだと思う。
しかし、ルソーには、子供の教育についても、当時の社会矛盾から逆算しているとことがある。例えば、圧政の根拠としての人間心理は子供の頃の我が儘が許される教育にあるというところが強調されているが、それはそうとしても、より大切なことがあるのではないかと感じている。先ずは絶対的に守られているという感覚、次にそこを土台として他者関係、人との共感性を育むことの方が本質的だと思う。

第三篇
この篇は12歳~15歳くらいの年頃の子供が取り扱われている。ルソーは、子供は子供として成熟するというモデルを描き、その成熟した子供は「完成した人間、つまり、愛情を持った、感受性のある存在になること、つまり理性を感情によって仕上げることが残っているだけである」存在だと言うのである。あるいは、次のようにも言う「これらを一言で言えば、エミールは自分に関係する徳はすべて持っている。しかし、社会的な徳を持つことができるために必要ないろいろな関係を知ることだけが欠けている。彼の精神が、今や受け入れようとしている知識だけが欠けているのである。」
このルソーのモデルのキーワードは自然社会であると思う。幼年期までは「教育の目標とは自然の目的そのもの」だ、とルソーは言い、この目標をクリアーした子供は、大人になって自然が社会に置き換えられても、自由で平等な共和国を可能にするというルソーの社会哲学を満たすようになるはず、と考えているからだろう。本編で述べられている子供が自然の目的をクリアーするプロセスには、人間の事物認識(自然認識)の原理が述べられており、興味深い部分であった。自然状態においてはこの事物認識の原理の基に正しい判断を下して有用な行為を行い幸福へと至るのだが、社会状態においても、この認識方法及びそれ以降のプロセスの原理は変わらない、あるいは少なくともこの原理と矛盾しないはずである、とルソーは言いたいのだろう。それは「人間の最初の理性は感覚的理性であり、それは知的理性の基礎をなしている」という言葉にも表現されている。

第四篇(「サヴォア人司祭の信仰告白」を除く)
この翻訳書は抜粋版で、四章のサヴォア人司祭の信仰告白“の部分と第五章は殆ど省略されているので、別途岩波文庫の全訳版で取り扱うことにする。
ここでは、思春期から青年期にはいる頃までが対象だが、その前提として、ルソーの人間観の一部が語られている。その人間観の根底にあるのは、自己保存が最も重要である、という考え方だが、この考えは社会哲学的な根本思想としてホッブズに由来するものでルソーが言い出したものではない。ホッブズは、自然法の第一原則を平和の希求としているが、ルソーは自己保存の欲求のことを自己愛と表現し、これを人間の唯一の根源的情念と捉えて、道徳的な観念もここに基盤があるという。サヴォア人司祭の信仰告白“以降、良心や徳といった道徳的な概念について更に小説風な記述によって説明を行っているが、それらを含めて考えるとルソーの自然観についての理解が深まると思う。
情念は自然から湧き出てくるものなので、これを否定したりするのは人間の否定に等しいから愚かなことだが、子供から青年へと成長するに従って肉体の成長だけでなく、他者との関係性において変化した情念がいろいろと出てくる。この変化した情念は殆ど悪の方へ向かう。例えば自己愛から生まれてくる自尊心は、自己愛とは違ってその満足の限度がなく、憎しみに満ちた、怒りの感情が生まれるなど。だから、情念の変化を善の方へ導くのが教育者の使命となる。具体的方法は時代が違うからあまり参考にならないが、言いたいことはよくわかる。
関係性の中で変化した情念の一つに憐愍(哀れみ、同情)が重要な意味を持って採り上げられているように思える。自尊心と憐愍を一般化、普遍化することで道徳が創られていくと言う筋書きのようだ。
ここまで読んできて、その目的は共和国の市民を育てることであり、その方法の核心は、自然に従い人為を避けることであるという、ルソーの教育論が、約二百五十年前に書かれたとは、改めて驚きを禁じ得ない。
だが、ルソーの言う自然とは一体何だろうか。それはあくまで自己保存の欲求であり、なおかつその自己保存の欲求が良心を育みうる情念の源であること、なのであろう。しかし、その後の哲学の展開を知るわれわれにとってはこの説明には十分な説得性があるとはいえないだろう。


2015年6月28日日曜日

『家父長制と資本制』上野千鶴子(岩波現代文庫)【感想】

 この本を読んで、フェミニズムという思想の理解が飛躍的に進んだような気がしました。といっても、もともとフェミニズムとはなんであるか殆ど理解していなかったので当たり前ではありますが。

 解放の思想は解放の理論を必要とする。その理論は三つほどあるが、共通してマルクス主義の射程から抜け出ていない。というのは、マルクス主義だけが、殆ど唯一の、近代産業社会についての抑圧の解明とそれからの解放の理論だったからである。だが、マルクス主義の解明は「家族」には及ばないのでフロイト理論が持ってこられるが、それは家族の抑圧構造を解明する理論ではあっても解放のそれではない。「フェミニズムは、フロイト理論の助けを借りて、近代社会の社会領域が「市場」と「家族」とに分割されていること、この分割とその間の相互関係のあり方が、近代産業社会に固有の女性差別の根源であることを、突きとめたのである。・・・二十世紀思想の中でマルクスとフロイトは二大巨人であり続け、この射程をわたしたち未だ脱け出ていない。」なるほど!。「マルクス主義フェミニズムは、階級支配一元説も、性支配一元説も採らない。とりあえず資本制と家父長制という二つの社会領域の並存を認めて、その間に(ヘーゲルのいう)弁証法的関係を考える。」なるほどなるほど!!。多分30代の頃の上野が考えたこの整理はとても判りやすく説得性がある。因みに、家父長制とは昔の例えば封建制下のものではなくて、近代から現代にも続いているものをさしています。
 あれから30年・・・、フェミニズム理論が女性の抑圧と解放にどのくらい役だったのかについて、更に知りたいとは思う。しかし、この本からはもっと広く、様々な差別の問題自体を感じ取ることを第一に、つぎそれを社会構造の問題として捉えてその抑圧と解放の理論を模索し続けるという視点・態度を学ぶことが出来ると思いました。爺~じ。