2021年3月28日日曜日

磯田道史『感染症の日本史』文春新書kindle版

 

『感染症の日本史』磯田道史著 文春新書kindle

 

ボケ

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が世界的に蔓延して1年ほど経過する。感染症が社会に大きな影響をもたらすことは誰でもそう思っていても、どのくらいなのかについてはなかなか理解されていないと思う。このことについては、ジャレド・ダイヤモンドという人が書いた『銃・病原菌・鉄』を読んだときにナルホドと思ったが、今回は、NHKの歴史番組「英雄達の選択」だったかな、の司会をしている磯田さんが書いた本書を読んでみた。

本書は、学校で習う歴史とは違って、一般人が感染症に罹患した史実を学ぶことによりCOVID-19被害防止に役立てることを目的に書かれている、と冒頭に記されている。つまり、一般人の史実という細部に、一般人に役立つ歴史の内実が宿っていると。磯田さんは歴史家なので、感染症の被害防止に役立てる知恵には医学的(自然科学)なものと、もう一つ歴史的(社会科学)なものがあり、正体のわからないものに対しては後者の知恵を生かすことが大切だ、と述べている。つまり、例えば今回のcovid-19のように、その正体が不明な部分があるときには、科学的証拠を追求するだけでなく、歴史や別の場所(外国とか)での経験を素早く役立てる(真似するとか)ように行動することが大切だと。もっとも、この点については、科学の本質も経験にあるので、covid-19に対する日本政府の対応を批判する根拠としてはちょっと弱い感じ。

採り上げられている史実の出典は、古文書を含めた諸文献と、既出の優れた著作の引用があって、前者は「歴史は細部に宿る」という著者の考えに基づいたお得意の古文書類で、後者は著者の師匠で、数値データを根拠にその背後にある史実を暴き出すことで著名な速水融先生の著作『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店20062月)』を筆頭に、興味ある本が沢山紹介されている。詳細はここでは省略するが、本書の内容の骨子は次のようなものとなる。

日本においても古代から感染症に襲われており、それが社会に甚大な影響をもたらしてきた。その対処法が「おまじない」から急激に合理的なものに変化したのは近世(江戸時代)になってからで、その知恵には当然限りがあるとしても驚くべきものがある。感染防止のためにいろいろな知恵が実際に効果を発揮した理由は、人びとが身につけてきた生活態度に負うところが多く、時の政府(藩レベルでの例外はあったが)の政策ではなかったことは明治時代になってからも同じであった(今でも基本的に同じという感じ)。人命救助と経済政策の両立問題はいつの時代も生じていたが対処方法は時代と地域で違っていた。100年程前に世界的に猛威を揮い、日本でも内地(現代の日本とほぼ同じ領域)だけでも45万人ほどの死者を出したいわゆるスペイン風邪(今は、それがインフルエンザの一種であることが判明している)は特に現代のCOVID-19と関係が深い事例として興味深いものがある。

以下に本書内容の内で、史実を中心として抜粋したものである。尚、データ等の出典名は原則省略してある。


 

 

第一章 人類史上最大の脅威

 

○人類史上の多くの危機の内、頻繁確実にやって来て一番多くの人命を奪ってきたものは感染症の流行であった

 

・火山の破局的噴火は一万年に一回くらいで、生じると世界が破局に至るが同時代の地上で遭遇する確率は1%程度(人生100年で計算すると)。日本の付近での直近では7,300年前に九州の鬼界カルデラで発生した

・大津波は100年に一回ほどだから、同時代の生涯に出くわす頻度は10%レベルで被害想定32万人以上

・ウイルスの「パンデミック」は20世紀以降に限っても、数十年に一度ほどの頻度で頻発し、スペイン風邪(1917年)、アジア風(1957年)、香港風邪(1967年)、新型インフルエンザ(2009年)、その他、エイズ、エボラ出血熱、sarsmersなどもある

・中でも、スペイン風では数年にわたり世界人口の1/21/3が感染し、全人口の35%程が死亡した(5000万人以上)。同時期に起こった第一次世界大戦での死者数は1000万人

・今回のCOVID-1920208月時点での死亡者は80万人を超えている(⇒2021/1/24PM3:00 NHK news web情報では212万人に増えている)。

 

○病原菌(ペスト、コロナ、梅毒などの細菌だけではく、ウイルスも含めて)による感染症の拡大は、歴史的に見れば「 社会的・技術的・経済的 な 革命」 の たび に、また、定住化、都市化、人の交流化が進むたびに増大している

 

・遺伝子解析によると、ヒト型コロナウイルスが初めて発生したのは8000年ほど前らしい(『感染症の世界史』等の著者で、環境問題の研究者の石弘之氏によれば)

・インフルエンザと同じくコロナウイルスは野生動物間でだけ感染していたが、ヒトにも感染するようになり、現在では7種類ある。その内のsarsmers、今回のCOVID-19の三つ感染症は21世紀以降ヒトに感染するようになった新しいウイルスによるものであった

・中世ヨーロッパでのペストの流行の背景には「中世農業革命」があったし、大航海時代(15世紀半ば~17世紀は半ば)には感染症が世界に拡大した

 

○近世(江戸時代)日本における感染症(梅毒、コレラなど)は、外国との交流窓口であった長崎から入ってきた。そのため、幕末には「西洋=病原菌」と見る状況があり、これが日本史を動かすエネルギーになった面がある

 

・近世前期の日本人の遺骨調査で男子の1/2,女子の1/3に梅毒感染の痕跡が見られている

・豊臣秀吉が朝鮮半島出兵の基地にして、全国から人びとが集まっていた名護屋城では「肥前わずらい」と呼ばれた感染症が発生したが、これは全国に感染した梅毒のこと

・徳川家康の次男、秀康は梅毒で鼻が欠損したため二代将軍になれなかったという説もある

1822年、コレラが世界的に流行し、日本にはオランダ商人経由で波及した

1857年、ベリー艦隊の一隻が長崎に寄港してコレラが発生し、江戸に飛び火して3万人とも26万人とも言われている死者が出た(『感染症の世界史』石弘之)。

・幕末、蘭学医たちは命がけでコレラと闘った。洋学塾を開いて天然痘予防に貢献した緒方洪庵は「事に臨んで賤丈夫となるなかれ」と弟子達を鼓舞したが、医者の犠牲者も出した

 

○明治政府設立間もない頃、「太政官布告」(当時の日本政府の最高機関の布告)によって、日本初の「検疫」と、結果的には「近代的な感染症対策」、今で言えば「国民への生活面での自粛要請」布告した

 

・きっかけは、1871(明治四年)の米国駐日公使から明治政府にもたらされた情報(日本中の家畜の死亡もあり得る「牛疫」という家畜伝染病がシベリア海岸で発生した)

・布告内容は牛の防疫に留まらず人にも及び、はじめての検疫になった他、その内容は国民生活の細部に立ち入ったものも含まれていた

ü  体や衣服を清潔に保つこと(病原菌の繁殖防止だろう)

ü  掃除をすること(病原菌の繁殖防止だろう)

ü  天気の良い日は窓を開けて換気すること(病原菌の繁殖防止・殺菌だろう)

ü  酒を断てとまでは言わないが、飲み過ぎないこと(体力の低下防止だろう)

ü  「房事」(性生活)を節制して回数を減らすこと(体力の低下防止だろう)

 

100年ほど前に3年間ほど世界で大流行したスペイン風邪(当時はウイルスによるインフルエンザとは知られていない)は、今回のCOVID-19を理解する重要な参照例となる。特に『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ---人類とウイルスの第一次世界戦争』(速水融著 藤原書店2006年)は基本参考図書である

 

・日本の内地(当時の外地、即ち朝鮮、台湾、千島列島、樺太の南半分を除いたもの)だけで45万人、「外地」を含めると74万人が死亡した

・世界では国や地域によって死亡率が異なっていて、大体の数値は以下。欧米と日本0.31%、中国0.82%、インドネシア3%、インド6% (後世になってから、過去の統計から算出された死亡者数の増加で推定)

・日本でも波状的に三回襲ってきた

 第一波:19185月~7月 高熱で寝込む者がいたが死者はいない

 第二波:191810月~翌年5月頃 死者266千人

 第三波:191912月~翌年5月頃 死者187千人 第二は波より死亡率大(5%)

・速水融先生が集めた当時の新聞記事から、政府もメディアも「特別な伝染病である」とは警告していない

・ 与謝野晶子は、感染拡大防止作に対する政府の無策を具体的に挙げて泥縄式で対応が後手に回っていると批判している

・ 軽巡洋艦「矢矧」がシンガポールに寄港したために船内でクラスターが発生し、469名の乗員のうち48名が死亡し、「機関停止漂泊寸前」に陥った

・この際「矢矧」にはシンガポールから巡洋艦「明石」の乗員も乗り組んでおり、彼等が感染せずに航行を支えたのだが、実は「明石」は欧州方面に派遣されていたために、乗員は既にスペイン風邪の免疫が獲得されていた、と推定されている

 

日本には、手洗いをする「禊ぎの文化」と「内(家)と外」を峻別する「ゾ-ニング文化」があって、それが感染症抑止に効いているのかもしれない

 

・江戸時代の宮中では「宿紙」という薄墨色の再生紙が使われていて、一度外に出ると汚れた外の空気に触れるので、反故紙が宮中で何度も漉き直されて使われていた

・この感覚は、頭部が「清」で足元が「次」という身体のゾーニングにも通じる

 

第二章 日本史の中の感染症---世界一の「衛生観念」のルーツ

 

○「日本書紀」の記述と考古学の研究から、1700年ほど前の崇神天皇即位5年目に発生した疫病を収める過程で、大和国三輪山麓に最初の王権と伊勢祭祀の原点が生じた

 

・崇神は初代神武から数えて10代目の実在可能性のある最初の天皇(井上光貞)

・ここで日本書紀に出てくるポイントとなる神は、天照大神、三輪山の神(大物主)、などで、崇神は疫病収拾のためにこれらの神に祈った

・天照大神を、崇神が自身の娘に託して御殿の外で祭ったのが伊勢祭祀の原点

・考古学の対象は、三輪山麓纏向遺跡とその出土品(馬具)や箸墓古墳(卑弥呼の墓説あり)、同時期の備前車塚古墳やその出土物(三角縁神獣鏡)と隣接する大神神社の社伝など

・巨大古墳が多い三輪山麓には、当時の日本最初の都市が形成されていたという説もあり、海外交流(遺跡出土品)と人口集中が疫病を蔓延させたのかもしれない

 

○仏教伝来などで大陸との交流が進むにつれて、また律令制が整い都市化が進むにつれて、たびたび感染症に襲われた

 

6C、敏達と用明の兄弟、聖徳太子(用明の子)とその両親と妃も天然痘で死亡と見られる

8C(天平時代)、天然痘の大流行。735738年にかけて当時の人口の3割(100150万人)が死亡したとする研究もあり、藤原不比等の四人の息子も天然痘で死んだと見られ、聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって奈良の大仏を建立した

 

○感染症に対して無力であった時代には、人びとは疫病封じに「まじない」を行い、疫神は接待で買収も出来る八百万の神の一つで、仇敵ではなかった

 

・京都の祇園祭もそのひとつで、祭りで配られる粽(ちまき)につけられていた厄除けのお札は神話に由来する物語が効能の根拠となっている

・仇敵ではない疫病神から見えてくるのは、嘘や世襲権利の許容、感染免除依頼先の疫病神と人間の互酬関係、「甘えの構造」という理解、疫病神との「共生」思想、疫病神も歓待すれば買収・契約・交流できる「客人(まれびと)」思想などがある(西洋文明とは異質だと)

 

○前近代の日本人は、いろいろな「貼り紙」(「まじない」を表現する物品)をしてきた

 

・「貼り紙」は地方毎に多様な形を取っており、効能の根拠は神話や物語にあって、それらは昭和の初期まで残っていた地域もあった

・だが、日本全体で見れば江戸後期からインテリに思考が合理化しはじめ、非合理な信心を「迷信」と断じるメンタリティーが生まれてきていた

 

○江戸後期の医学者であった橋本伯寿は、感染症の観察体験に基づいた感染予防思想を提示し、隔離方策を幕府に進言したが取り上げられなかった。しかし、その予防思想は民間において実行されていた

 

・感染症対策としての隔離自体は古代からあった(伝染などの概念に基づくのではない)

・橋本伯寿は甲斐出身で、長崎で西洋医学を学び、「痘瘡・麻疹・梅毒・疥癬」を伝染病と判断し、「伝染」という事実の認識に基づいた予防法を提示した。消毒の概念のみならす免疫獲得の概念すら持っていたが、幕府の天然痘医一門との対立もあって、彼の主張の価値は幕府には認められなかった(幕府にとっての価値と医学者にとっての価値=一般人の価値は違っていた)

 

○スペイン風邪の世界的流行に対する日本政府(特に内務省)の政策は杜撰であり、米国政府に比べても、また江戸末期と比較してすらも、隔離対策を軽んじたものであった

 

・米国ロサンゼルス市はこの感染症の応急策として、細部にわたって人びとを規制する強制力を持った新取締規則を制定して実行した(今から見れば人権上問題があるとしても)

・同地駐在の日本領事はこの規則をすぐ翻訳して19181012日に本国の外務省に送り、外務省は内務省衛生局長にこれを「ご参考までに」と渡したが内務省は反応せず、1920114日に内務次官が「マスクとうがいをせよ」と言っただけであり、警視庁の衛生係が新聞を介して「なるべく人の集まる場世に行かぬが良い」と広告しただけであった

・政府が国民に対して強制的な感染拡大防止規制をしなかった背景には、国内では米騒動が、海外ではロシア革命という社会主義革命が起こっている状況下において、史上初の政党内閣(原首相)にとっての政治的リスク回避があったからとも推定される

・米国のセントルイス市は、明らかに死者を減らすことが出来ていたが、日本政府は第二波・第三波と襲ってくる中で、それを素早くまねることは出来なかった

 

第三章 江戸のパンデミックを読み解く(当時の文書に基づいた)

 

○宝井馬琴は、文政三年(1820年)9月から11月まで「感冒」が大流行したと随筆集の中に書き残しているが、その詳しく鋭い記述から以下のような状況が読み取れる

 

・感染力は非常に強いが症状は比較的軽い

ü  一家十人なら十人皆免るる者なし

ü  軽症なら四、五日で回復し、大方は服薬もしない

ü  重症でも『傷寒』(今のチフスの類)のように発熱がひどく、譫言を言う者もいるが、その場合でも十五、六日も病臥すれば回復し、この風邪で死ぬ者はいない

・感染範囲は広く、伝搬状況を感染地域と時期のズレから推定している

ü  江戸は9月下旬より流行し10月が盛り、京・大坂・伊勢・長崎などは9月が盛ん

ü  旧暦で9月、10月は寒い盛りではないので季節性インフルエンザではなさそう(もしかすると新型かも)

 

○文政四年に第二波が襲来した可能性があることを別の資料から推定できる

 

・『日本疾病史』(明治45年(1912年)刊 富士川游著)には、文政四年(1822年)2月に江戸諸国に風邪が流行したと記されている。『日本疾病史』は比類なき貴重な感染症通史で、京都大学でデジタルアーカイブかされてネット閲覧可とのこと

・『時還読我書』(多紀元堅著 1845年)には、(このときの風邪は)症状として「吐血する者が多かった」と記述されているので、文政三年の風邪とは別物かもしれないが変異したものかもしれない

・『松屋筆記』(江戸後期の国学者小山田与清の随筆)では、感染力が凄まじく、また「だんほう風」と名付けられた、と書かれている

・馬琴の『曲亭雑記』には、「だんほう風」は京摂から安房、上総、西南甲斐、伊豆、信濃。越後までも流行した、記している

・大阪方面の史料では『あすならふ』という近世大阪の風聞集では、文政三年の頃に暖冬だったが翌年正月より極寒となり、風邪我流行した、と書かれている

 

○江戸期の流行性感冒の呼称には、「地域名」「人名」「流行り歌」の三パターンがあったが、資料を追っていくと、当時イメージされていた感染経路なども浮かび上がってくる

 

・「お駒風邪」。1776年(安永五年)正月~220日頃までの京畿(畿内)で流行った感冒で、馬琴に依れば名前の由来は流行っていた浄瑠璃に出てくる淫婦の名

・「谷風」。1784年(天明四年)の天明飢饉の最中に流行った感冒で、当時無双の力士も罹患したのでその名がついた

・「お七風」「アンポン風」「薩摩風」など、いろいろな名前が付けられていた1802年(享和二年)の感冒は、前年末の長崎、翌年2月頃の関西、4月頃には関東に達した

・感冒は西からやって来て数ヶ月で関東にまで感染が広がるというイメージ、またアンポン(インドネシア東部の島名)とか「薩摩」の名前は実際の感染源を示しているわけではないが、遠方東南アジア方面からやってくるとイメージがもたれていたことを伺わせる

 

○感染症の流行は経済に影響し、特定商品の物価は高騰し営業自粛も起こっていた

 

1803年(享和三年)3月から諸国で麻疹が流行では、現代の値段に換算して、みかん800円、梨23万円、橙1000円などとなる

ü  病気の時に欲せられる果物が高騰し、松茸などは安値だった

ü  「一文50円」で換算

ü  街道沿いの茶屋や旅籠屋は大方閉店休業していた

・冬期の風邪の流行時には、江戸では湯屋が午後四時頃には閉まっていた

 

○定額給付金のようなものもあった(窮民お救いの沙汰)

 

1820年(文政三年)の「だんほう風」の際には一人\12,500位の金銭が支給された

1803年(享和三年)の麻疹の際には、米が現物支給された

ü  裏長屋の町人を対象として男は五升、女は四升、三歳以上の子どもは三升の米が支給された

ü  表通りに店を構える町人は借家でも給付対象外であった(裏長屋の貸家の住人のようにその日暮らしの庶民とはいえないので、所得制限があった)

 

○医療支援のようなものもあった

 

・幕末の安政六年(1859)のコレラの流行時には、大阪道修町(薬種問屋の町)の商人たちが協力して「虎頭殺鬼雄黄円」という薬を配った

ü  このときには江戸だけで10万に以上が死んだと言われている

ü  但し、「虎頭殺鬼雄黄円」の効能は疑問であったであろう

・同じ頃、大阪の東町奉行が「法香散」(あるいは「芳香散」)という薬を施し、幕府は「芥子泥」という貼り薬を勧めた

ü  いずれも効能がないであろう

・因みに江戸時代の感染症に用いられて効能があったという記述のある漢方薬もいくつかあるが、総じて症状緩和、患者の体力回復など経験に基づいた対処療法であったのだろう

ü  例えば、柴桂湯、葛根湯、小柴胡湯、紫葛解肌湯

 

○江戸の侍社会における感性拡大防止策の目的は藩主を守るためであり、方法は隔離であった

 

・それでも15代の将軍の内14人が疱瘡に罹患したほど感染防止は困難であった。隔離政策の基本は現代で言う「自粛」のことで「遠慮」と呼ばれていた

ü  江戸幕府は、疱瘡(天然痘)、麻疹、水痘を法定伝染病に指定して、感染した幕臣は35日間の登城を「遠慮」する決まりであった(1680年~)

ü  天皇も、疱瘡の“ケガレ”から徹底して防護されていたはずなのに15名中7名が疱瘡に罹患した

ü  将軍が感染症に罹患すると「遠慮」(自粛)により経済活動が著しく低下した

・隔離政策の実際の方策は各藩によりまるで違っていた

ü  岩国藩の隔離政策は自粛要請ではない強制隔離で、藩主の感染をゼロであった。また同時に生活保障(病人、看護人、同居人に対する「退飯米」の支給)も行われた

ü  大村藩(長崎)の隔離政策は、病人を山中の小屋に放置する“棄民”のようなものであり、負担は病人を出した家であったから、病人を出した家は大抵破産した

ü  津山藩(岡山)では少年の藩主が川遊びに出かける時にゾーニングが行われていた(感染者のいない経路を通る)。また、1802年に疱瘡が発生した時の死者の推定を「超過死亡」(過去の統計から推測される死亡者数からの増加数)で推定した

 

○「名君」の誉れ高い米沢藩の上杉鷹山が、寛政七年(1795)の痘瘡流行時に行った政策の目的は、藩主の感染防止ではなく、領民の生活保全であった

・その施策は「隔離政策」に真っ向から反するものであった

ü  初夏に痘瘡流行の兆しが出て76日に鷹山が出した命令は「家族に流行病の罹患者がいても、出勤しても良い」というものだった

ü  この命令は藩主の安全第一を考える当時の常識とは真逆であった

ü  鷹山は自分の感染リスクを認識していなかったのでは全くないことは、米沢藩の医療リテラシーの高さ、鷹山自身の西洋医学の知識は勿論、そもそも疱瘡の伝染性は既に庶民でも知っていたことから明白

ü  鷹山がそのような命令を出した意図は「行政機能をストップさせないこと」であり、そうすることで領民の困窮を回避することであった

ü  鷹山は次々に患者支援策を打ち出した。まず「生活困窮者の洗い出し」から着手し、家庭看護の崩壊に心を配り、江戸から天然痘専門の医者を呼び寄せて対策チームの指揮を執らせ、医療の無償提供をし、都市と山間部の医療格差是正に取り組んだ

ü  「江戸時代に、藩主よりも領民の方が大事だという意識を持った為政者がいたのだ」と磯田さんは述べている

ü  鷹山は被害規模の数値も残しており、感染者は8,389人で死亡率は25%に達していたことがわかる(当時の米沢藩の推定人口は、『岩波 日本通史第1131p2 速水融著』によると10万人とあるから、感染率は8.4%となって、全人口のうちの2%以上が死亡したことになる)。

 

第四章 はしかが歴史を動かした

 

○今後COVID-19より強力なウイルスによるパンデミックが起こる可能性が指摘すされる中、磯田さんは最も感染しやすい「麻疹」(はしか)の歴史を調べることが大切と考え、古文書などの記述から以下のようにいくつかの興味ある史実を抽出している

 

・はしか質の概要は以下

ü  基本再生産数は1218(新型コロナウイルスや季節性インフルエンザの基本再生産数は23)だから、はしかに免疫がないと殆どの人が感染する

ü  致死率は現代の先進国でも0.10.2%だから、ワクチンは勿論近代医療もない時代ではその脅威は深刻

ü  発症初期の少し症状が少し収まった頃に感染力が強まるという特徴をもち、人類の活動形態からみれば質が悪い(COVID-19は症状に無自覚な人が感染させるので、人間の活動形態からみれば、同様に質の悪い感染症と言える)

・江戸時代には、はしかの大流行が13回あり、平均すると20年に一回の大流行があったことになる

ü  当時麻疹から肺炎に移行する率は5%位で、そのうちの三人に一人は落命するから感染者の致死率は2%にもなり、特に子どもがかかりやすい恐ろしい病気であった

ü  平均して20年に一度の大流行は、麻疹の免疫が一生涯続くことの証しだろう

 

○麻疹という病気の歴史は、中国では宋の時代、日本では平安時代、西洋でも五世紀あたりなので、人類がこの病を認識し始めてから大体1000年ほどはありそうだ。

 

・日本の史料で最初にはっきりと麻疹が登場するのは長徳四年(998)

ü  天台宗の僧侶、皇円がまとめた歴史書『扶桑略記』には「赤斑瘡」(あかもがさ)と記されている

ü  「赤斑瘡」(あかもがさ)は「もがさ」と呼ばれていた天然痘とは区別されている

・「はしか」と呼ばれたのは鎌倉時代からのようで、室町時代の終わりには「イナスリ」と呼ばれていた

ü  武田信玄の兄は大永三年の「イナスリ」の流行により7歳で亡くなっているから、信玄が跡継ぎになれたのは、はしかのせいとも言える

・平安時代の麻疹の流行は、平均20年周期くらいで起こっていたが、これについては『栄花物語』に詳しく記載されており、次項に紹介する

 

○『栄花物語』の詳細な記述から、平安時代における麻疹に関する経験的知識は侮れず、科学的視線も見出される。『栄花物語』とは九世紀後半の宇多天皇から堀河天皇までの約二百年間を記した歴史物語で、同時代の女性知識人によって「仮名」で書かれたものである

 

・三位以上の貴族の妻は感染しなかったが四位以下の妻は沢山感染し、下人たちの感染は少ない、と記されている

ü  察するに、貴族にはソーシャルディスタンスや免疫の概念すらあったようだ(三密で感染、上位は隔離対策、下人は早期免疫)

998年、次の1025年、次の次1077年と、時代を追って流行を認識し、比較し、記述している

ü  麻疹の免疫が一生涯有効なことも認識していた

ü  過去と現在の病状を比較照合して、共通の傾向を見出そうとしている

 

○『多門院日記』から、中世の麻疹流行状況が見て取れる

 

・『多門院日記』は奈良興福寺にある塔頭(小院)で文明十年(1478年)から江戸時代初期の元和四年(1618年)にわたり書き継がれた、近畿地方の情勢記録

・感染状態に地域格差があったと思われる。特に室町後期は乱世のために地方と中央が分断され、感染経路も遮断されたからだろう

ü  老人が罹患したのが珍しいという記述は、生涯免疫の概念があったことを物語る

ü  畿内では他国に比べて死者が少ないという記述は、日本列島内の感染形態に違いがあったことを物語る

 

○江戸時代も1700年頃を境に人びとの思考が世俗的・現実的になり、生活レベルも向上し、「先進国化の萌芽」が生じ、それに伴って麻疹パンデミックの状況も変化した。香月牛山という医者の書いたという医書『牛山活套』等から、その状況が伺える

 

・宝永五年(1708年)秋から翌年の春にかけて全国で麻疹が流行したが、治療力の向上が推定される

ü  香月牛山が京都で実際に診た500人以上の患者からは一人も死んだ者はいない、との記述がある

ü  香月牛山の治療法は、患者の体力回復に資する有効な対処療法であった。「葛根連𧄍湯」を用いたという記述などからそれが裏付けられる

 

○江戸時代も宝暦から安永にかけて(1750頃から1780年あたりにかけて)「都市経済」が発達したため、麻疹パンデミックが起こりやすくなった

 

・屋内で店を構える、江戸の老舗と呼ばれるような外食産業が生まれてきた

ü  それまでの外食産業といえば屋外での屋台であったの

・都市化は、人びとの往来を盛んにしたので麻疹パンデミックも起こりやすくなった

 

○江戸時代も19世紀に入ると、日本全国で起きた麻疹拡大の状況が史料からある程度追えるようになり、感染症は大陸や朝鮮半島から海を越えてもたらされることが医学生間では意識されていた

 

・享和三年(1803年)に全国で起きた麻疹流行は多くの医書がとりあげていて、その状況は以下のようなものであった

ü  享和三年三月初旬に朝廷の医官で幕府の医学館教授から幕府の奥医師多紀桂山へ送った手紙から、前年に朝鮮で麻疹が流行し対馬経由で長門(山口)に伝わり、それから東西に広がったことがわかる

ü  幕府の奥医師で家康以来の医者の名門であった多紀氏の多紀元堅(桂山の五男)の著『時還読我書』から、四月中に感染が始まり五月には拡大したことがわかる

ü  『朝鮮医事年表』(思文閣出版)から、朝鮮では享和二年に麻疹が流行し、王と王妃が1029日には感染し、約二週間後に快癒したことがわかる

ü  大槻玄沢著『麻疹啓廸』に、長崎から江戸に帰ってきた医生から聞いた話として、感染経路が述べたれている。それによると2月の初めに(噂としては)唐船により長崎に上陸した麻疹が23ヶ月間に東北地方を含めて日本列島に伝播した、とある

ü  『麻疹必用』(1824年?)には、死に至る患者は多くはないが、頭痛・頸部リンパ節腫・腰部悪性瘡・手足不自由などの後遺症がはなはだしいと記されている(後遺症に注目している)

ü  『医事雑話』(岩永方房(藿斎))には、赤ん坊は感染すると命落とし、妊婦は発熱で堕胎する、と書かれている(子どもと妊婦はしかに注目している)

 

○幕末、文久二年(1862年)に発生した麻疹パンデミックを、江戸の地誌『武江年表』、小城藩(佐賀藩の支藩)に残された『小城藩日記』などの一連の文書(手紙など)、公式の伝記『孝明天皇紀』等から、特に長崎と京都の動向を追ってみると、この感染症の性質および感染症が社会・政治に及ぼす歴史的影響も見えてくる

 

・長崎の状況はから、感染経路や症状、社会的影響例などが伺える

ü  感染源は二月に長崎に来航した西洋船らしい(『武江年表』に、江戸での感染が始まった後に伝わった話として記述されている)

ü  424日付小城藩士の手紙に佐賀藩主鍋島直大が長崎で罹患したと記され、五月になると佐賀藩士の間で麻疹が流行し、528日に予定されていた小城藩における医学と軍学の試験が延期された

ü  長崎市中は四月以前に相当感染が拡大していただろう。というのは、鍋島直大の父、鍋島閑叟は開明藩主代表で、息子に牛痘の予防接種を受けさせていたほどなので、藩主は最大のソーシャルディスタンスが採られていたはなのに感染しているから

ü  佐賀藩への感染経路は、長崎で感染した藩主を佐賀藩へ船で連れ帰ったためと疑われる、というのは428日付小城藩士の手紙にはそう記されているから

・京都では、東アジアで最も感染症への防御力が高かったと思われる天皇を擁する宮廷でさえ、いわば「朝廷崩壊」が起こり、そのことが以後の大きな影響をもたらしたのではないかと考えられる

ü  68日に伏原三位(宣諭)の息子が麻疹に罹り、宣諭が朝廷への出仕を遠慮することになった。ことの意味は重大であり、(致死率が高いと認識されていた)疱瘡並の厳しい通達が出された

ü  というのは、伏原家は代々公家の教育係を務め、宣諭の父の宣晴は後の明治天皇(睦仁親王)にも儒学を教えており、その睦仁親王は孝明天皇の唯一の後継者だったからである

ü  伏原三位は教育係として子どもたちに日常的に接しているので、その孫が罹患したのは偶然とは言えないかもしれない

ü  69日には、御所の世話人たちについても、本人や家族が麻疹に罹患したら自宅待機となり、輪番の交代者も不在となった

ü  宮中に出された遵守基準は天然痘並みに厳しく、感染者は75日間御所へ出仕禁止、感染者の同居あるいは食事を共にするものも出仕禁止であった(濃厚接触者も定義)

ü  七月八月(現在歴では大体89月)と朝廷の人手が全くたりなくなった。配膳の取り次ぎをする御手長五位や帝の身の回りの世話をする近習五位などの公家も皆麻疹に罹り、御所の詰め所が空になったほどである

ü  京都全体では商業地から御所周辺へと感染が広がり、公家では家ごとに10人ほど感染しているとの記述がある。これは雇い人を含めて平均的に10人前後で世帯が構成されている公家の家では退飯が罹患するという異常事態であった

ü  文久二年閏八月十一日付(西暦186294日)『孝明天皇紀』には、初夏以来京都で麻疹が流行したので、祇園社と護浄院で祈禱したと記されている

ü  文久二年閏八月十八日に非常に重大な「事件」が起こる。それは、孝明天皇が親王をはじめ、公家たちに対して、改めて攘夷の意思を強く表明足した事である

ü  孝明天皇にとっての攘夷とは、観念的なものではなく、感染症を媒介として「異国は日本を害する」との現実に根差した認識を反映したものでもあった(認識と言うより感覚的嫌悪感かもしれない)

 

第五章 感染の波は何度も襲来する---スペイン風邪百年目の教訓

 

既に第一章で、速水融先生の著作などを基にして、100年前のスペイン風邪(流行性感冒と呼ばれていた)の史実が今回の新型コロナウイルス感染対策に重要な参考になることが示されていた。この章では、その参考にすべきことが整理して示されている。

今回の新型コロナウイルスによる感染症COVID-19の対処方法に関する、本書の著者の考え方や具体策については大部分省略した。

 

○スペイン風邪感染の波は、1918年の5月から二年間にわたり、致死率を高めながら三度も襲ってきた。今回の新型コロナウイルスは、新型つまり未知な部分があるならばなおのこと、歴史の教訓を生かすべきであり、また、歴史の細部に注目すべきである

 

・あまり死者が出なかった春先からの第一波の状況から確認されること(第一章参照)

ü  少し感染が弱まっても気を弛めてはいけない

ü  政府もメディアも「特別な伝染病である」とは警告せず、感染拡大防止に対する政府の対策は後手に回っていて、これが第二波の悲劇を生んだ

ü  政府はセントルイス市など外国の有効な対策事例を知ってはいたが、行動には移さなかった

ü  大相撲5月の夏場所で感冒による休場力士続出でも、イベントや集会や外出の規制等はしなかった(効果は知っていても)

1918年の冬場に発生して266千人の死者を出した第二波の状況から確認されること

ü  ウイルスの感染効率は「高温・湿潤」より「低温・乾燥」のほうが高まる

ü  変異ウイルスが致死率を増大させた

ü  経済的打撃が生じること、特に貧困層には大打撃となった

ü  医療崩壊が生じること

1919年の冬場から始まって187千人もの死者を出した第三波の状況から確認されること

ü  死者数は第二波よりも減ったが致死率は更に上がって5%だった

ü  クラスターの発生が拡大要因となった。191912月上旬の軍隊での「初年兵」の大量感染が各地で発生した

ü  19201月頃になって、新聞各紙がようやく隔離の必要性などを呼びかけるようになった

ü  3月に内務省はこの感冒が伝染病であることを決定した。これは長野県当局が、3月になっても新しく感染者の死亡者が出ている状況の報告に対する、内務省衛生局長の回答(後手の象徴)

 

○スペイン風邪の歴史の細部から見えてくる、その他のこと(主として『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(速水融著)で述べられている速水先生の判断)

 

・ロンドンでバスの運転手に多数の死者が出た。神戸の市電の運転手の欠勤で運行本数が減った。これは「ヒトの移動・密集・接触」する場が流行の拠点となっていたことの証左だろう

1920年は、神戸市でマスクの使用が奨励されたが、アメリカのように強制的に、マスクを付けないと電車に乗せない、というほどではなかった。これは、ペナルティーを科す西洋文化と要請と自粛の日本文化が対比的であることの証左であろう

・京都の伏見にある小学校では、父兄が、感冒の流行地である阪神方面への修学旅行の延期を申し入れたが、学校側が変更不可能とした。これは、教育行政に「決まったことを変えられない」組織伝統があることの証左だろう。今日においても「教育長はもっと柔軟に感染症に対処するべき」が歴史の教訓

・感染第二波の時、京都の死亡率が東京よりも高く、最も高かった。これは、修学旅行による人の流入が感染拡大によるものだろう

・青森県の人口は多くないのに感染によって大きな被害が出たことは、人流が感染の一因である証左だろう。つまり、青森が函館・室蘭と繋がる航路の結節点であり、北海道は全国からの出稼ぎ労働者が集まるとこであり、青森から北海道への出稼ぎ労働者が多かったから

・サンフランシスコとセントルイスは、活動制限の解除が早すぎて「第二波」が生じた

 

第六章 患者史のすすめ---京都女学生の「感染日記」

 

パンデミックの歴史を研究していると、患者の側から見た歴史という視点が欠けていることに気づく。患者側から見た個人の証言が極めて重要で、この細かな経験の集積こそ現代の私たちが学ぶべき「命を守るための歴史」と言える。

ここでは、スペイン風邪パンデミックに直面した京都の一人の女学生の日記「十二歳のスペイン風邪 大叔母の百年前日記 野田正子日記抄」(季村敏夫編『河口から』六号、2020年)の内容が紹介されている。とても興味深いが書略する。

その興味とは、スペイン風邪は感染率50%致死率1%で過半数の人が罹患して免疫を持つことで終息したが、この間公的組織は感染防止のための積極的施策は殆ど何もしなかった。しかし、人びとは今まで通りに、ウイルス感染も自然現象と認識しているかのように暮らしていた、というこの史実から何が学べるのかという部分であった。

 

第七章 皇室も宰相も襲われた

 

スペイン風邪は宰相を含む政治家達や皇室にも伝染していた。本章では、指導者達の「患者史」から見えてくる、パンデミックが歴史に及ぼす影響と、後世に参考となる感染対策が述べられている。

採り上げられている史料は、大正期を代表する政党政治家であった原敬が残した詳細な『原敬日記』を中心に、『大正天皇実録』、『昭和天皇実録』、大正天皇の侍従武官をつとめた四竈孝輔の『侍従武官日記』、秩父宮雍仁親王の『雍仁親王実記』である。

 

○政友会総裁で宰相の原敬は、激変する内外の政治情勢における激務の下で罹患し、半年あまりにわたる後遺症に悩まされた。政友会の後ろ盾であった元老山県有朋も感染して危篤状況に陥った。指導者層の間でも常態化していた三密状態でクラスターが発生しており、その点においても政治は大きな影響を受けていた

 

・スペイン風邪の第一波は大正7(1918)5月から7月頃まで、第二波は10月から翌85月頃まで、第三波は12月から翌9年(1920年)5月頃まで、当時の日本全国(樺太・朝鮮・台湾を含む)を襲い、内地だけで45万人の死者を出した

ü  外地を入れると死者数は74万人。いずれの数値も速水先生が「超過死亡」という考え方で再計算した値。不十分なことが明白である当時の内務省衛生局調査では、内地の死者数は38万人となっている(厚生労働省の公式数値も38万人を採用している)

・スペイン風邪前後の原敬首相のスケジュールを、内外の情勢を追記して時系列で並べると、感染症に罹患する条件(激務・ストレス・寒冷・三密)が揃っていることがわかる

ü  191711月(ロシア暦では10月)にロシアの十月革命勃発(第一次大戦終盤)

ü  19183月にロシアがドイツと単独講和締結し、日本はロシア革命政権に干渉する意図の元に英米などと共同でシベリア出兵を決定する

ü  1918年(大正7年)1021日。工業倶楽部の晩餐会に出席

ü  1023日。閣議でシベリア出兵計画に必用な軍備増強増税案が閣議決定されるが、議会には増税は未決定と説明することも決定(注記:当時は閣議決定内容の公表義務なし。もっとも、議事録すら20144月迄作成されず)

ü  1023日夜。交詢社の晩餐会に出席。交詢社とは福沢諭吉が提唱した日本初の社交クラブで、実業家の親睦団体

ü  1024日昼。伏見宮の「国産奨励会」出席。高価な輸入食材に国産品が使えないかと賞味する会で食事しながら食材評価、と歓談

ü  1025日。皇室典範増補の件が閣議で出る。当件は、皇室の地位に係わる重大な件であると同時に、原にとっては気苦労な件であった。互いにいがみ合う元老山県有朋と枢密院重鎮の伊東巳代治の間をうまく取り持たねばならなかったから

ü  1025日夜。北里研究所が社団法人になった祝宴に出席。感染症研究の最先端の場所で三密集会が開催されている

ü  1026日午後。伊藤博文の命日。西大井で墓参後、午後3時の汽車で腰越別荘に到着後、夜になって385分の発熱、翌々日夜平熱、1029日午前帰京。多分2324日の三密で感染し、26日の墓参時の寒さが引き金となったのだろう

ü  1030日。天皇出席の枢密院会議を「遠慮」。流行感冒後一週間経過していないと「遠慮」という江戸時代のルールが生きていた。この会議のテーマは「米騒動」という重大案件であった(スペイン風邪が宰相欠席という重大な支障をもたらした)

ü  119日になっても全快せず

ü  124日。東京各組案団体の連合会で演説。体調不良を押して出席

ü  125日(日曜日)。風邪全快せず。腰越で休養

ü  19193月~4月にかけても、原敬日記に風邪が全快しないと記述がある

1918年(大正7年)211日、長老山県有朋がスペイン風邪に罹患して重体になった。以降、山県が仮に死んだ場合の政界構想を巡る原敬らの行動記録から、スペイン風邪が政界権力構図にもたらした影響を窺い知ることが出来る

ü  211日、原敬宰相が山県家に電話をして、山県有朋が39℃発熱して流行性感冒に罹患していることを確認

ü  211日~214日の間、田中陸相(後に陸軍から政友会に転じて首相となる田中義一)が小田原在住の山県を見舞い、その足で逗子在中の山県の腹心平田東助に面会

ü  田中義一は、もし山県が死去の時は、非政友会の大隈重信が宮中に取り入り実権を握らぬように、後任に政友会総裁も務めた西園寺公望を立てることを提案し、原敬との間では、色々と策をこらしがちな平田を早く取り込むべきとなど、生々しい政治的やりとりがなされる

ü  215日。原宰相が葉山御用邸に大正天皇を拝謁し、山県死後は他より陳言があっても西園寺を降任に命じるよう根回しをする

ü  ここで見えてくるのは、明治の元勲の後ろ盾がないとすぐに動揺する政党内閣の内実、一人の長老がインフルエンザに罹るだけで政権が揺らぎかねない政治的不安定さだろう

 

○皇室の中にも罹患者が出ているが、その状況から見えてくるもののなかで注目すべきものの一つは、大正期に陸軍における反実仮想力(まだ現実ではない事態を想定する能力)の欠如だろう

 

・『大正天皇実録』の記述で特徴的なことは、『明治天皇紀』や『昭和天皇実録』に比べて、天皇自身だけではなく、皇太子や秩父宮についても、健康状態や病気に関する記述が少ないことである。これは多分天皇が病弱であったための編集者の配慮だろう

ü  スペイン風邪に大正天皇が罹患したかどうかの記録はない

・後の昭和天皇、時の摂政皇太子は、スペイン風邪の第二波が押し寄せた頃の大正7年(1918年)113日にインフルエンザを発症し、翌日から12日間床に伏す

ü  感染した場は、1027日の文展・日展が最も疑わしい。日展で皇太子に拝謁した、天皇の御用掛なども務めた側近の土方久元はがやはりスペイン風邪に罹り114日に他界している

・感染隔離対策が最も厳重に為されているはずの天皇周辺にスペイン風邪が入りこんだのは、侍従武官の間で感染の連鎖が発生していたからかもしてない

ü  大正7年(1918年)1028日、侍従武官長の自宅で罹患者多数発生、欠勤

ü  1031日、大正天皇の侍従武官、四竈孝輔が欠勤。筋肉痛、突然の悪感と急激な発熱など、スペイン風邪の記録に良くでてくる症状発症するも117日に快方へ

ü  このころ、シベリア出兵でロシアに派遣されていた侍従武官達の帰国などで宮中も人の出入りが激しかった

ü  1111日、四竈孝輔が侍医の診断を受け出仕許可を得る。2回お風呂に入って痰が出ずに異常なければ「遠慮」しなくても良いという江戸期の清めの思想が宮中周辺には残っていたのかもしれない。1112日には四竈が大正天皇に拝謁可能となる

ü  1113日、栃木で陸軍大演習が行われ、天皇が出席。当時の世界情勢下では軍隊出兵が感染拡大の一つの要因になっていたが、日本もそうであったであろう

・満17歳の秩父宮は大正9年(1920年)116日になってスペイン風邪を発症し、翌日に肺炎の症状も出て、血清療法が試みられた。その症状は大変重く1ヶ月近く体を動かすことも出来なかった

ü  第三波は軍隊から始まっている。中でも近衛師団は大正8年(1919年)1218日の段階で、罹患者1137名、死亡者29名と全国でも最悪の被害を出していた

ü  新年の観兵式へは天皇の行幸が止められた(天皇の感性防止であり、観兵式自体は行われた)

ü  大正9年(1920年)111日、士官学校生徒に感染者が出たため、陸軍士官学校内にあった皇族の男子学生の宿舎である東皇族舎の出入り口で警戒態勢が敷かれた

ü  12日、士官学校内でマスク着用徹底指示(それまでは徹底していなかった)。秩父宮に予防注射(後に医学的効果ないことが判明している)

 

第八章(文学者達のスペイン風邪)と第九章(歴史人口学は「命」の学問―――わが師・速水融のことども)は省略する