2016年8月30日火曜日

『社会学入門-----人間と社会の未来』(見田宗介、岩波新書,2006年)

ハニーブーケ
感想文と要旨は共に200710月に作成したものを少し補正したものである。

【感想文】
本書は、『現代社会の理論』(見田宗介著、岩波新書1996年)の続編と位置づけられ、前著で予告されていた現代社会の「内部問題」が語られており、吉本隆明の言う「関係の絶対性」の克服を認識した上で「交響体・の・連合体」という社会構想が提示されている。「新しい一千年記が、静かな歓びに充ちた幾世紀であるために」という著者の意図に相応しい社会学理論だと思う。その骨子は以下のようなものである。
社会学は、「自明性の罠」から開放されて「想像力の翼」を獲得することを身上とする「越境する知」であり、世界の文化の古層に存在する「潜在態と顕在態」という世界の感じ方を理解する必要がある。
近代社会には「個性化の競合の帰結する没個性化」という逆説的な現象が出現している。現代社会には「情報化/消費化社会」という新たな構造が重層化されたが、限界問題としての「外部問題」(人口、資源、環境など)に加えて、「愛の変容/自我の変容」という感覚変容現象に由来する「内部問題」が立ち現れている。現代世界の困難な課題2001年の同時多発テロに象徴される)は、「関係の絶対性」を強いる構造を解体し転向する思想が確立されぬ限り「自由な社会」の生き続ける道はないことを露にした。
名づけられない革命が進行している。それは、生産の自己目的化を転回して「享受することの幸福」の本原性を復位する「消費化革命」と、マス・メディアの一方向性を転回して「交信」のテクノロジーを用意する「情報化革命」により見はるかされる。
初めに〈魂の自由〉を相互に解き放つような社会の形式を、どのように構想することができるかという問いが立てられる。すると他者の原的な両義性(他者は歓びと災いの源泉)に対応する二正面闘争が立ち現れる。しかし、個人の同質性ではなく異質性をこそ積極的に享受する〈交響体・の・連合体〉という社会の構想は、、その問いに向かって思考プロセスを起動・展開し、それ自身基軸のダイナミズムとしてありつづける。


【要旨】
序 越境する知----社会学の門
1 人間の学/関係の学
そもそも「社会」とは何を指すのであり、それは存在するのかと問えば、それは存在する。人間の関係として、存在する。更に、人間自体が関係である。否、物質でさえ言語化される限り関係のシステムである。社会学は関係としての人間の学である。
2 社会学のテーマとモチーフ
近代の社会科学は、人間像をモデル化した理論を打ち立てることで(例えば経済学の「ホモ・エコノミクス」)、社会現象のある側面の解明に成功した。
しかし、社会の現象を解明するには、ある側面の解明だけではなく横断的に統合することが必要である。社会学は、社会現象のさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問である(越境する知)。
越境する知は目的ではなく、「自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度」の結果である。やむにやまれず境界を突破ずるのである。越境する鮮烈な問題意識の内にだけ、社会学という遊牧する学問のアイデンティティは存在している。
著者の社会学に対するモチーフは次のようなものである。切実な二つ問題、つまりA:「死とニヒリズム」=どういう生き方をしたらよいのか、B:「愛のエゴイズム」=本当に楽しく、充実した生をおくるには、どうしたらいいか、を、経験科学的な方法で追求(解明)してゆくこと。
切実な問題に対する解答。Aは『気流の鳴る音(1977)』と『時間の比較社会学(1981)』、Bは『自我の起源---愛とエゴイズムの動物社会学(1993)』
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[コラム]「社会」のコンセプトと基本のタイプ
Ⅰ 社会の概念
それ自体の要素である個人の行為に分解すると無くなるような、それ自身固有に生成している集合的諸現象。
Ⅱ 社会の存立
個々の人間の行為の関係が社会を存立させる仕方は、二つの異なる次元軸の組み合わせにより四つの型に区分する、という理論により分類して考えることが出来る。次元軸の一つは個人の自由意志の有無であり、もう一つの軸は人格的関係態の有無である。前者は、自由意志有り=主体的=対自的、自由意志無し=客観的=即時的、という内容を持つ。後者は、人格的関係態=共同体的=Gemeinshaft、非人格的な関係態=社会態的(利害関係等々)=Gesellschaft、という内容を持つ。すると、即自的共同態=共同体(例えば氏族社会)、即自的社会態=集列体(例えばスミスの国富論の“見えざる手”)、対自的社会態=連合体(例えば会社)、対自的共同態=交響体(例えるならコミューン的なもの)、という四つの社会類型を考えることが出来る。この区分は、歴史的なものであるより、まず論理的なものであり、排他的ではなく相補的である(著者は、社会の機制は段階的ではなく重層的である捉えることが重要である、と述べている)。
Ⅲ 「社会」という語
西欧での語源は内部の「仲間内」を示すものであったが、ヘーゲルの市民社会論が示しているように集列体が主幹を呈し始めたころに日本に輸入された。その頃日本では、社会という概念に最も近い言葉は「世間」であった。日本における世間の語源は共同体の外部を意味していた(柳田国男等の民俗学)。
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一、鏡の中の現代社会-----旅のノートから
-----例えばインドから帰りにタイのバンコックへ寄ると、もう日本に帰ってきたような気がします。----比較社会学というと日本とヨーロッパ、日本とアメリカ、あるいは-----ですが、ぼくはそれよりも、近代化された社会とそうでない社会との比較にもっと関心があるのです。
1 〈自明性の罠〉からの解放
社会学、特に比較社会学の意味は、〈自明性の罠〉からの解放にある。それは、僕たちが生きていく上で「あたりまえ」だと思い込んでいることを、そうでないものとして見せてくれる。
・インドでの経験の例、時間感覚、旅で途方にくれる経験。
・ふしぎその一、インドやラテンアメリカでは3Kが好きになる。
・ふしぎその二、インドやラテンアメリカでは非能率にもかかわらず長くいた気がする。
・「人間はこんな生き方もアリなんだ」、メキシコでの日本人タンゴダンサーの例。
2 「近代という狂気」
-----彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものであり「使う」ものでも「費やす」ものでもない。異国のバザールでの値切り交渉、ペルーでのバスの待ち時間での会話。僕たちでさえ、旅でふしぎに印象に残る時間は、-----要するに何かに有効に「使われた」時間ではなく、ただ「生きられた」時間です。使われた時間は上滑りしていて、生きられてはいない。
異国で聞いた日本ニュース、通勤時間帯の一時間の電車遅れで駅長室の窓ガラスが割られる事態となった上尾駅のニュース、が<遠地の狂気>として語られる異国の旅。
十四世紀の前半以来、ヨーロッパの都市に「公共用時打時計」が設置された。当時の時計の針は一本であった。今は三本もある。
(小生注:近代は、時間は使うもの、費やすものであって、生きるものではなくなってきている、という狂気の時代である)
3      見える次元と見えない次元。想像力の翼の獲得
メキシコのインディオの祭り「死者の日」における、余分の一人の食事の用意が意味するもの。それは、社会学にとっても究極の理想でもある「開かれた共同体」「自由な共同体」ということにかかわることである。
「プロ倫理」で紹介されている「時は金なり」というフランクリンの生活信条は、真っ先に「余分の一人」を削ぎ落とす。
近代化は多くのものを獲得した。それは、計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって表現できるものが多い。失ったものは、そうではないものが多い。人間が生きていくうえで一番核心にあるものは、目に見えないもの、数量化できないもの、言葉になりにくいものが多い。(小生注:近代化は人間が生きるうえで一番核心となるものを失ってきたのではないか、と著者は言っている。)
大切なことは、近代の後の新しい社会の形を構想することだが、その方法として異世界を知り、「自明性の檻」の外部に出て、人間の可能性を知ることである(小生注:著者は、そのことを「想像力の翼を獲得すること」と表現している)。
デュルケーム、マルクス、ウエーバー、さらにバタイユ、フロム、リースマン、パーソンズ、マルクーゼ、レヴィ=ストロ-ス、フーコー等も用いた社会学の方法としての「比較」は、著者らの方法、すなわち「他者を知ることを通して自明性の罠から開放され、想像力の翼を獲得する」、という方法と一つのものである。
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[コラム]コモリン岬
省略
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二、<魔のない世界>-----「近代社会」の比較社会学
「近代社会」とはどのような生の世界なのか、は社会学的な大きな主題である。柳田国男の『明治大正史世相篇』の「色彩感覚の変化」を考察した部分を集中的に取り上げて、この主題、「近代社会とはどのような生の世界なのか」を追っていく。
近代以前の人々の感覚を知る手掛かりを一茶の句から----。柳田は、近代以前は、世界のあり方、存在するものに対する感覚が、現代とは全く異なっている世界を前提としているから、この句がわからない、と言う。
1 花と異世界。「世界のあり方」の比較社会学
例えば日本語で、ハナと発音される言葉には、例えば花・華/鼻・岬/初・端がある。これらの原義は同じだが、「/」で括られたところは類似であることについては理解が可能であっても、「/」で隔てられた部分ある関連性は理解が困難。そこを理解するのは、「潜在態」と「顕在態」という世界の感じ方の存在を理解する必要がある。
「潜在態」と「顕在態」は、世界の文化の古層に存在するものである。例えば、アメリカインデアンのホビ族の言葉には、「時間」の概念はなく、そのかわりに過去と現在は「顕在態」として、未来は想像上のものなどと同じく「潜在態」として把握されている。
例えば、日本文化の古層の感覚、「うつし世」と「かくり世」という世界の感じられ方、また比較宗教学では「ヒエロファニー(聖なるものの顕現)」という感じられ方が世界の宗教に共通して見出されるという説があるが、これの「聖なるもの」は「潜在態」であろう。
2      色彩の感覚の近代日本史
制度的な「禁色」(例えば紫色の使用制限)とは別に、柳田は「天然の禁色」の存在を指摘した。それは、人々が色彩について「あまりに鋭敏」であるために生じたもので、鮮明な色彩の「禁色」など民衆の心性に基づいていて、権力による支配ではなかった。
ユーラシア大陸とメキシコインデアンの「紫貝」の採取についての話も、世界に対する感受性の強さ、鮮烈さを示す例。紫貝を採取する時に、前者は貝を潰して採取した紫色を権力の表現に用いる。後者は未婚の若者が、遠隔地まで出かけていって入手する貝から、貝は殺さないで手にこすり付けて取れる分だけ採取した紫色を、意中の女性に贈ることで社会的認知を獲得する。
柳田国男の「朱の解体」現象の観察。それは、色彩が、強い情念や豊穣な想像力を触発する力を消失していく現象である。朱の分散は、ポストと信号と囚人服から始まった。そして、朱は目立つという機能を失っていく。現代人は、個性化の競合の帰結する没個性化に陥っていて、これは近代社会の基本的な逆説の一環である。「おどろき」の相殺、夢の漂白、感動の微分。
3 <魔のない世界>
マックス・ウエーバーの「プロ倫」での用語、Entzauberungは、「魔術からの開放」と訳されてはいるが、ウエーバーは、その訳語からは読み取られにくい意味を当時の社会から読み取っていた。それは、シラーのいう<魔のない世界>としての「近代」の、その「合理主義」の厚みの深いアンビバレンス(両価性)である。
4 ツァウベル(zauber:魔性)のゆくえ
柳田国男の感受する「近代」のアンビバレンスは、ウエーバーの見すえていた「近代」のアンビバレンスと正確に呼応しあって、われわれの獲得したものの巨大と、われわれの喪失したものの巨大の双方を見はるかす空間のほうへ、僕たちの思考を挑発して止まない。

三 夢の時代と虚構の時代-----現代日本の感覚の歴史
現代の日本社会の骨格が作られたのは、1960年代から70年代の前半にいたる「高度経済成長時代」である。その後現代に至る(2006年)までは、それまでに比べて社会の変容の仕方自体が別のものとなった。「高度経済成長時代」は「夢」の時代、戦後からそれまでは「理想」を求めた時代、現代は「虚構」の時代、とも言える。
1 「理想」の時代-----プレ高度成長期
1931年の満州事変を発端とする15年戦争という「神話」の時代の後、アメリカンデモクラシーとソヴィエトコミュニズムがやってきて、その理想に基づく「進歩史観」は「現実」となることを疑わなかったし、一方大衆の「現実」は物質的な豊富化であった。この時代は、理想主義が、唯物論的な確信に裏付けられた現実主義でもまたあったといえる。そして1960年の安保闘争がこの時代の終わりを告げた。
2 「夢」の時代-----高度成長期
この時代の日本社会改造計画は、農業基本法と全国総合開発計画という表裏をなす政策を柱としていた。それは第一に公共投資の工業開発への集中、第二に貧農切捨てによる労働力確保、第三に巨大資本による地域・農業部門の掌握・再編である。
そのような社会構造の変動は、家族の形を変革し、大家族から核家族への変化であり、それは家族の関係、男女の関係、男性・女性の人生、子供の育ち方、性格の形成、人生の「問題」の所在、等々の変革でもあった。
時代の前半は、それを表現する指標としての色彩はピンク色で、ヒットチャートの曲調も特徴付けられる「あたたかい夢」の時代とも言える。この時代を覆った泰平的でナイーヴでシニカルでアイロニカルな「幸福」感には、「食、衣、住」の充足、「戦中から戦後の悲惨」の記憶、「ベービーブーマ」の出現、「古い共同体から核家族」へ、「最底辺の農村階層のボトムアップ」による階層の平準化、「アメリカの消費資本主義」が日本の経済繁栄の形式としての成立、が要因となっていた。幸福資本主義の成立とでもいえよう。
だが、この時代の後半は「熱い夢」の時代と表現できる。それは、前半の時代の理想と現実が生み出した、新しい形の抑圧と非合理からの、換言すれば、アメリカンデモクラシー派の理想主義の現実(戦後民主主義)とソヴィエトコミュニズム派の理想主義の現実(スターリニズムと旧左翼)、そして「現実」主義者の理想の実現がもたらしたもの(近代合理主義、豊かな社会とその管理システム)こそが、この時代の攻撃の標的であった。要するにこの時代の前期の理想に対する反乱であった。この時代の熱気のうちに垣間見られた夢たちは、新しく開放された時空と関係性を創出する試行たちとして散開し続けていた。
3 「虚構」の時代-----ポスト高度成長期
1973年のオイルショックは高度成長の時代の終わりを告げた。既に先進国と認識していた日本では、「終末論」と「やさしさ」という二つの流行語がこの時代の社会構造を時代の感性の基調を表現する言葉としてその後20年ほど(1990年代まで)続く。
1980年代の色調はピンク色から透明感のある白さになっている。社会の中で「実体的」「生活的」「リアルなもの」の最後の拠点である、また、関係の、最も基底の部分自体である、家族、家庭、夫婦、が虚構として感覚され、それは少年、少女達の「やってられないよ」という言い方に表現されている。
1990年代に続発する新しい型の犯罪、浅草→銀座→新宿→渋谷と東京の盛り場の変遷などは、「脱リアリズム」「ナマなもの、自然なものの脱臭」「土や汗やダサイ、キタナイもの」の排除の感受性が受け入れられる。排除される部分無しには成り立たない社会に居て、その排除される部分を見ず、思考せず、語らない無菌遊園地に住む「かわいい」世界の子たちの、あっけらかんとした残酷。「三区(千代田、中央、港)から3A(麻布、赤坂、青山)」へ、国際情報空間のなかへ拠点を移し、薬剤をアタッシュケースに入れて心身症と戦いながら働くビジネスマンたちの風景。それらは、「情報化/消費化社会」の構造とダイナミズムと、矛盾と限界とは別著「現代社会の理論」で展開する。

四 愛の変容/自我の変容-----現代日本の感覚変容
1970年代初頭から90年代初頭までの、新聞の「読者の短歌」欄の作品20年分数千種を読んで、この間の社会変動という観点から感じたものは、90年代初頭にみられた特に若者の対人感覚、自己感覚、世界感覚のめざましい変容であった。(小生注:以下は、その短歌の内容を吟味することで感じ取られた意見である)。
1 「共同体」からの解放
1990-2000年代の日本社会には、異質なものを排除する力学の働きの現象として、若者のリストカット、指紋押捺対象の若者が自らの指紋を潰す行為の例。著者の学生で、日本に受け入れられなかったアメリカの留学生の自殺の例。「異質なもの」を排除した後、「仲間内」だけで仲良く和やかに暮らすことを理想とする「日本的共同体」は稲作農業共同体から由来するものと推定される例。上記の例は共通基盤を持っている。
「みんなの意見」に逆らわず、「時代の流れ」に乗り遅れまいとするのは「日本的共同体」の核にある特質であり、「大東亜戦争」もその歴史的結果のひとつである。が、しかし、そのような感覚に拮抗する力を持った感性が形成されている例。
2 時代の基層の見えない胎動
季節の変化や人との関係、子供に対する大人の感情を歌った短歌が1980年代終わりに出現してくるが、これは千数百年前と同じくするものであり、近代において開いた人と人との関係とその可能性を考えさせられ、時代の基層の見えない胎動を感じさせる。
万葉と同じ愛の実質の現代的表現、ユニセックス的な感触の定着、呼応する愛でも失恋でもない愛のさなかの孤独の歌、愛の形の変容の時期は(現代)、「自分」の形の変容に時期でもあった。
3 リアリティ/アイデンティティ/関係の実質
リアリティとアイデンティティの空虚が感ぜられる歌。「自分」の不確かさ、解放感、空洞感、の感ぜられる歌、「世界」のリアリティ自体が根こそぎ変身している歌(カフカの変身は主人公だけだが)。
出口はあるか?愛でも献身でも親切でも感謝でもない仕方で、自由に結び合っている三人の関係の歌。この関係は、異質の他者を排除して安心する共同体ではなく、異質の他者が結合し呼応し共歓する交響体ともいえる。孤高でも連帯でもなく複数の存在が存在しきっている仕方を歌った歌。それらの歌から、少なくとも現在よりもよりよい社会のあり方を思い描くことが出来る。
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[コラム]愛の散開/自我の散開
1999年に起こったネットアイドルでリストカッターである南条あや、18歳の自殺、2000年にはその攻撃対象の不特定性、動機の「非条理性」において先行世代の理解不可能性な「17歳の犯罪」の継起。それらの例は、散開する多数に向けて発想され、愛の対象を絞り込むことが出来ない、「愛の散開」「自我の散開」現象を認識できる。
1960年代の日本は、都市に流入する家郷喪失者の群れにより高度近代化を一気に成就させた。家郷とは、人間の生の拠り所とする生活共同体と愛情共同体という二つの根拠であり、近代市民社会の古典的形式はこの二重の要請を、極小化された愛情共同体としての核家族と極大化された生活共同体としての市場経済というシステムという形式を以って満たす。貨幣とは、この極大化された生活共同体の分配を基準するものとして、究極の「差別原則」であり、外化された共同体である。
近代核家族という、この「限界共同体」が、近代システム自体に内在するある矛盾(小生注:これはここでは判明でない)の展開としてそれ自体をもう一度解体してゆくとすれば、この社会の親密圏-公共圏は、どういう新しい構図を構成することになるであろうか。南条あやの「公開日記」は、彼女の見出した自我の存在形式ともいうべきものだが、その存在は死に至るまで家族は知らず、即ち家族はこの新しい親密圏の他者である。
「近代家族」は、近代的自我、即ち市場システムの再生産主体装置でもあるが、「近代的自我」は自身を再生産するような力を、その動機において必ずしも保持していない。
貨幣は外化された共同体であり、それは「市場」として散開する共同体の第一の側面に定位している。貨幣システムは微分され、また積分される共同性であり、限定され、また普遍化された交換のメディアである。このことを通して、貨幣は近代的市民社会の「諸主体の主体」として立ち現れる物象化された共同体である。
「愛情共同体」もまた、現代社会において散開するとすれば、そこにおいて「諸主体の主体」として立ち現れるものは情報のテクノロジーである。電子メディアのネットワークは、外化された共同体である。
共同体の解体はまた、明るいものである。1000年前の西欧における「都市の空気は自主にする」という言葉は、人間は共同体を解体して近代を構築し続けてきたことを表現している。1960年代に第一次共同体を解体した日本社会は、80年代には「遊園地が僕らのふるさと」という明るい完成の世代をも生んだが、カラオケルームノテクノロジー空間で南条あやが死んだ19993月に、人間は何を卒業しようとしていたのだろうか。
(小生注:人間には生の拠り所として生活と愛情の充足という基盤が必要である。過去1000年にわたる人間社会の歴史は、その基盤を担うと同時に個人の自由を束縛するという共同体の矛盾を克服するプロセスであるという面を持っていた。現代にいたり人間は、生活と愛情と自由の充足を、自由市場と核家族という巧みな方法に凝縮することで解決するかのように見えた。しかし、その方法がもたらした社会システムは、情報技術革命と相まって、新たに自我と愛の散開という現象を発現し、従来の共同体にとって不都合で理解不能な、非条理な事件を発生させ始めた。)
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五 二千年の黙示録-----現代世界の困難と課題
21世紀に入ってもなお、同時多発テロ。アフガニスタン、イラクと戦争が続いている事実は、人間が解決できないでいる根源的な課題を明示している。2000年ほど昔、ヤスパースが言う「軸の時代」に巨大な思想、宗教、哲学が出現した。以来、人間たちはそれらを拠り所として文明を築いてきたが、解決し残した一つの問題があった。それは「関係の絶対性」という問題である。
1 黙示録の反転。「関係の絶対性」の交錯
著者は、D.H.ロレンスの『アポカリプス』(新約聖書のヨハネの黙示録)と吉本隆明の『マチウ書』(新約聖書のマタイ伝)を引き合いに、「関係の絶対性」という事実が、二千年前も、現在も、もっとも困難な現実問題の基底にあり続けているということを、認識の出発点とするほかはない、と述べている。
「関係の絶対性」とは、力、具体的には主として軍事力と経済力を持っている集団と、それによって遠隔的に収奪されている人々との間におけるそのような客観性の中で、各集団構成員の自由な意思による善意や思想内容や無関係性に関わりなく成立する絶対的な敵対関係、を指す。
2 勝利の方法。社会の魅力性
2001年の同時多発テロは、冷戦終結後の世界構造と、中東問題の状況と、湾岸戦争でのアメリカの勝ち方と、イスラム極端主義者の想像力を並べて考えれば、それ以外にはないほど当然に発生して不思議のないものである。力による圧殺という方法は、核の自爆テロという恐怖からアメリカを解放しない。
関係の絶対性を、関係の絶対性によって否定することは出来ない。東西冷戦の終焉は、敗者の報復テロを生んではいないが、それは勝ち方が正しかったから。世界中に逃げ散って潜むテロリズムたちの息の根を止めることが出来るのは、アラブと貧しい民衆が彼らを必要としない状況である。
関係の絶対性を強いる構造の総体を、総体として捉えて解体し、転向する思想が確立されない限り、「自由な社会」というのが、自由な社会として生き続ける仕方はないということを、2001年の事件は明るみに出してしまった。
3 黙示録の転回。「関係の絶対性」の向こう側はあるか
カール・ヤスパース呼んだ「軸の時代」から2000年間、我々はその時代の巨大な思想、宗教、哲学を拠り所として生きることが出来た、文明システムを作り上げてきた。しかし、「関係の絶対性」の問題は取り残されてきた。2001年の同時多発テロは、この「関係の絶対性」という問題を解かない限り、この文明システムは崩壊するであろうことを明るみに出したのである。
吉本隆明は、関係の絶対性の思想を、「自立」の思想という形に止揚したが、この考えを用いると、外部諸社会、諸地域を収奪し、汚染することのなく、自由と幸福を永続する社会システムというものを考えることが出来る。だが、その実現は可能だろうか。
著者の『自我の起源』において、D.H.ロレンスが語ろうとしたことが、人間が自由と幸福を求めるときの、最終的に確かな根拠となるものであることを確認した。
著者の『現代社会の理論』において、人間という存在の事実に根拠を置くことによって、自由と幸福を永続的に持続することの出来る社会を、外部を収奪し抑圧することのないような仕方で、自立するシステムとして構想することが出来るということを追求した。
ロレンスの『アポカリプス』は来るべき1千年紀の黙示録、「関係の絶対性」の向こう側への扉を開く黙示録、憎しみの黙示録に代わる愛の黙示録、復習の黙示録に代わる共存の黙示録であった。

六 人間と社会の未来-----名づけられない革命
1 S字曲線・「近代」の意味
生物学の「ロジテックス曲線」は、(人間が生物である以上)人間にも適用できるといえる。リースマンは『孤独な群集』において、これを初めて社会学に適用して「S字曲線」と名づけた。地球上の人類は、100万年前には殆どアフリカ大陸に存在していて、その推定数は125000人。旧石器時代の終わりころの1万年前には全大陸に存在していて、その推定数は500万人。500年前には農耕と牧畜、交易と都市、国家と貨幣経済が出現してきた文明の時代で、5億人。西暦1650年には6億人であったが、①自然征服の精神と技術、②貨幣を析出する交換経済、③都市という密集する社会の形態が工業生産として結集することで2000年には60億人となった(因みに日本では3000年ほど前の縄文晩期で30万人、徳川時代初期ころで3000万人)。
20世紀後半から、人口増殖の限界の認識が共有され始めた。このことは、1960年代の『沈黙の世界』『苦海浄土』、1972年の『成長の限界』、1980-90年代には国連環境会議や(NGOの)ワールドウオッチ研究所などのレポートに現れている。
ヨーロッパ先進国、北米、日本だけではなく、メキシコ、韓国、タイでも人口の増加率は1960-70頃に変曲点を持ち、ここ1500年ほどで見てみると人口のS字曲線が描ける。更に、5年平均での世界人口の増加率は1965-69年をピークに急減していて、この時期が人類史における特別な時代であったことを示している。
2 人間の歴史の五つの局面。「現代」の意味
数千年の文明の時代は「近代」の助走期間であり、「現代」は「近代」の爆発の最終の位相であり巨大な過渡期であるといえる。
3 現代人間の五層構造
人間の歴史は原始社会から未来社会にかけて次の五つの局面に分けられる。①原始社会(定常期)、②文明社会(過渡期)、③近代社会(爆発期)、④現代社会(過渡期)、⑤未来社会(定常期)。
現代人間は五層構造を持っている。「人間」社会は、地球の生命潮流の一部分であり、人間は継起的ではなく重層的な存在として共時的生き続けている。このことは、人間理解に決定的に重要である。
現代人間の五層構造とは次のようなものである。第一層「生命性」、人類が道具と言語を駆使して「人間」という生命存在の形式を獲得し、第0次産業革命を果たす層。第二層「人間性」、農耕牧畜の第一次産業革命を果たす層。第三層「文明性」、工業生産力による第二次産業革命を起こす層。第四層「近代性」、情報化を中心とする第三次産業革命を起こしている層。第五層「現代性」、未来社会を築き上げるはずの過渡期の層。
4 名づけられない革命
(物理的に)有限な世界という事実と「情報化」及び「消費化」というこの現代の革命を直視すれば、その向こう側には未だ名づけられていない革命が見えてくる。それは、生産の自己目的化を転回して「享受することの幸福」の本原性を復位する「消費化革命」と、マス・メディアの一方向性を転回して「交信」のテクノロジーを用意する「情報化革命」により見はるかされる、人間達と自然が共存した永続する世界なのだろう。

補 交響圏とルール圏-----〈自由な社会〉の骨格形成
1 「シーザーのものはシーザーに」。魂のことと社会の構想
理論として肝要なことは、魂のことの相渉る他のないものとしての、社会の理論の問題である。「貨幣のこと、権力のこと」を、魂は逃れることができない、ということである。〈魂の自由〉を相互に解き放つような社会の全域にわたる形式を、どのように構想することができるかという問いである。〈魂の自由〉を相互に解き放つ、という言い方は、「それぞれの主体にとって〈至高なもの〉」を相互に解き放つ、と表現してもよいだろう。
(注:「シーザーのものはシーザーに」という表現は、聖書に伝わるイエスの言葉からの引用で、ロレンスの『アポカリプス』に出てくる。シーザーとはローマ皇帝を代表した言い方で、権力=ルールを作る人、という意味が込められている。)
2 〈至高なもの〉への三つの態度。社会の構想の二つの課題
著者は、バタイユが『至高性』の中でニーチェを引き合いに出している部分を引用して、〈自由な社会〉の条件を構想するときに、われわれが引き受けねばならない困難な構図としての二正面闘争を提示している。それは、失われた至高性の回復と他者に強いられる至高性の一切の形式の否定、である。
(小生注:題目の三つの態度とは、ニーチェがバタイユの言う「至高性」に対して取った態度とバタイユが言っているもので、そこでは至高性の回復以外に、キリスト教世界において強いられた至高性を外的なものと内的なものの二つに分けている)
3 社会構想の発想の二つの様式。他者の両義性

   社会を構想する仕方には原的に異なった二つの発想様式がある。一つは、「歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実のうちに実現することを目指す」様式、もうひとつは、「人間が相互に他者として生きるという現実に由来する不幸や抑圧を最小にするルールを明確にする」様式である。前者が目指す現実態を〈関係のユートピア〉と呼ぶ。
ここから二つの課題が捉えられる。前者は「関係の積極的な実質を創出する課題」、後者は「関係の消極的な形式を設定する課題」、である。
この二つの課題は、他者の原的な両義性に対応している。つまり、他者は、生きることの意味の感覚と歓びと感動の源泉であり、一方、生きることの不幸と制約の、殆どの形態の源泉であるということである。
社会を構成する二つの発想様式は、(本質においては)対立するものではなくて相補するものである。一方のない他方は(原理的に実在し得ない)空虚なものであり、他方のない一方は危険なものである(他方がないという本質は抑圧を発生する)。
4 〈関係のユートピア〉・間・〈関係のルール〉。社会構想の二重の構成
他者の両義性の二つの他者は圏域を異とする。人はどれだけの関係を必要とするか、と問うてみれば理解しやすい。一方は「主体的な人間としての」他者で、その圏域は事実的に限定される。もう一方は「生存条件の支え手としての」他者で、その圏域は社会の全域を覆う。
われわれの社会構想の形式は、〈関係のユートピア〉・間・〈関係のルール〉という重層性として、いったんは定式化しておくことができる。
〈関係のユートピア〉内部の他者たちは〈交歓する他者〉であり、〈関係のユートピア〉の「間」は〈尊重〉という関係のモードで表現される。つまり、無数の〈関係のユートピア〉たちの相互の〈関係のルール〉が構想され、更に、その〈関係のルール〉は、すべての他者たちが〈交歓する他者〉and/or〈尊重する他者〉として関わるものである。これを〈モデル0〉として図式化しておくことができる。
5 交響するコミューン・の・自由な連合(Liberal Association of Symphonic Communes
〈尊重する他者〉たちの相互協定とルールのシステムは、社会の理念史の文脈では「契約」の関係である。換言すると、われわれの社会構想のうち、全域的なフレームを構成する原理の形式は、近代市民社会の理念のエッセンス、即ち〈共同体・間・関係〉と基本的に同じである。
では、〈共同体・間・関係〉と〈関係のユートピア・間・関係のルール〉の相違はどこにあるかといえば、例えば次のように表現することができる。「交歓する他者たちの関係のユートピア」は「コミューン」という経験のエッセンスを確保しながら、個の自由という原理を明確に優先することを基軸に、批判的な展開を行おうとするコンセプトである、と。あるいは、「連帯」「結合」「友愛」ということより以前に、個々人の「自由」を優先する第一義として前提し、この上に立つ「交歓」だけを望ましいものとして追求するということである、と。
つまり、このコンセプトは、個人の同質性ではなく異質性をこそ積極的に享受するものである。また、個々人が、自在に選択し、脱退し、移行し、創出するコミューンである。これを〈交響圏〉あるいは〈交響するコミューン〉と名づけておくことができる。
〈関係のユートピア・間・関係のルール〉は、これに二重の仕方で徹底された〈自由な社会〉の構想としての、積極的な実質を代入して、〈交響するコミューン・の・自由な連合〉と表現しておくことができる。
6 共同体・集列体・連合体・交響体
ここでは、序のコラムで提出されている「社会のコンセプトの基本タイプ」である、共同体、集列体、連合体、交響体、について再度説明しなおしている(キーワードは重層構造)。
〈交響体・の・連合体〉という社会の構想は、幾千年かの人間の経験の歴史の中で、追求され、試行され、展開されてきたものの肯定的なエッセンスというべきものを、純化し、自覚化し、全面化しようとするものである。
7 モデルの現実化Ⅰ 圏域の重合/散開
〈モデル0〉では、交響圏の圏域は同じ程度であり相互の関係は〈尊重〉のモードであった。しかし、その圏域は単独者であり得るし、逆に規模の上限は純粋形式としては設定できないし、関係は〈交歓〉でもあり得る。上限の極限形式には全体を一つとすることを幻想するイデオロギーがある。
現代の「電子空間」(吉見俊哉)は単独者の交響するコミューンへの多元的帰属を可能にしている。ここに、交響圏域の重合と散開が現れて、〈モデル0〉の二次近似としての図式化ができる。
8 モデルの現実化Ⅱ 関係の非一義性
(歴史上また、現代社会の人々の集団をよく観察すれば)交響圏域の重合と散開と捉えた後にも、〈交響圏〉と〈ルール圏〉の間には分厚い「中間領域」が存在するように見える。
だが、「中間領域」という別の圏域を設定するのではなく、〈交響圏〉と〈ルール圏〉をもう一度関係の成分(様相)として捉えなおして、これらを相対的な優位性により再定義するのが妥当である。
ルールは交歓と相反するが、またそのつど乗り越えられてゆくものである。また、われわれはすべてのものとの間に、不可視の交響性の様相を予め潜勢している。
9 二千年の呼応
ここまで、冒頭の問い(〈魂の自由〉を相互に解き放つような社会の全域にわたる形式を、どのように構想することができるかという問い)に対してなされた思考プロセスは、なおわれわれの世界の構想を、起動・展開する基軸のダイナミズムとしてありつづける。
というのは、この(思考プロセスの)複層性が、〈自由な社会〉という理念の核心を構成するアポリアと、このアポリアの構成を不可避にしている、〈他者の両義性〉(他者は、生きることの意味の感覚と歓びと感動の源泉であり、一方、生きることの不幸と制約の、殆どの形態の源泉である、という両義性を持っている)という原的な事実に照準する形式であるからである。
(二千年を経て)われわれはもう一度あの逞しい魂の宣明者(イエス)の声とはるかに呼応して言わねばならない。魂のことはわれわれ内なる魂に、シーザーのことはわれわれの内なるシーザーに、と。

2016年8月29日月曜日

『現代社会の理論』(見田宗介、岩波新書)

ピース
恐慌を回避し繁栄を持続する形式でありうる自己完結的な純粋な資本主義であるその固有の「楽しさ」「魅力性」は、それらをめぐる熾烈な競争という積極的な動因によって増殖し展開しつづける。
だが、有限な地球環境および南北の貧困の問題が、欲望を内部化するこの資本制システムの「外部問題」としての限界として立ち現れている。
情報を禁止し、消費を禁止し、自由をその根本の理念としないような社会にわれわれは魅力を感じない。「情報化/消費化社会」システムは、世界で一番魅力的なシステムとなる希望を秘めている。「限界問題」は「消費社会」一般の不可避の帰結ではない。
だがこのシステムは、ある転向を必要としている。その転向の方向は、バタイユの「至高なもの」(小生注:朝の陽光の中に、有用性を超えた奢侈な至福がある、とか。バタイユ1897 1962年のユニークな経済論『呪われた部分』参照)に内包されていて、それをつかみ出せば「限界問題」に制限されず、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としている世界の地平が見えてくる。
尚、限界問題としての「内部問題」はこの書では深く触れられず、後の2006年に出版された『社会学入門』で取り上げられている。

【要旨】
・はじめに
近代社会と区別された現代社会を理解する理論は、「情報化/消費化社会」のシステムの構造とダイナミズムおよびそれらの矛盾とその克服法を太い線で把握するものでなければならない。
第一章では、「情報化/消費化社会」が新しい時代を画するものであることを示すとともに、その「光」の巨大さが明示される。
第二、三章では、「情報化/消費化社会」の現在あるような形式が、「限界」問題としての環境、資源問題、南北問題により必然的に帰結するシステムとダイナミズムを明確にするとともに、その「闇」の巨大さが明示される。
第四章では、現代社会の光と闇を踏まえて、理論の統合と、実践としての矛盾克服の方向が探求される。それは、「情報化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「消費化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「情報化」と「消費化」の原理統合することをとおして〈自由な社会〉を手放さずに「情報化/消費化社会」のシステムの方向性を原的に転回するという仕方において、現実的に可能であり経験的に魅力のあるものとして展開するだろう。

一、 情報化/消費化社会の展開---自立システムの形成
1      新しい蜜蜂の寓話---管理のシステム/消費のシステム
「現代社会」の概念と類似な表現→ゆたかな社会、消費化社会、管理化社会、脱産業化社会、情報化社会、----。1950年代のアメリカに端を発する。
資本主義が、必ずしも軍事需要に依存することなく、恐慌を回避し繁栄を持続する形式として、「消費社会化」という現象をまず把握すること。
現代社会の巨視的理論にとって肝要なことは、管理化と消費化という方向が、互換し、相補するものとし、資本制システムの繁栄を保証してきたこと。
1958年のアメリカ大統領談話と『タイム』誌の記事が語った蜜蜂の寓話。→1714年のマンデヴィルは、人々の私利の追及が公益を帰結する、と述べたが、この比喩は私利を求めて生産する企業者たちの像として理解されてきた。1958年の蜜蜂は「小売店に殺到する」ことを通して繁栄を保証する。
(小生補足:この話は、コインの裏表で、要はその意味するところを把握すること。それは、欲望する生産者ではなく、一般大衆の、生産者とは変質した欲望の、程度の拡大が、経済を牽引し、結果の一つとしてそれが戦争に代替した消費となったという現象を知ること、更にそこから、人間社会の理論を導出すること、ではないだろうか)。
2      デザインと広告とモード---情報化としての消費化
生産システムの内部における現代的転回が1927年に起こった。それは、ATTホーソン工場における実験で、労働者の感情、動機、欲望が、生産能率向上に寄与する要素であったという知見である。それは、「科学的管理法」であるテイラー・システムの思考では想定していないものである。
また、1927年には、T型フォードが、デザインと広告とクレジットを柱とするGMの戦略によって生産停止となったが、これは「情報による消費の創出」時代の開幕を告知していた(内田隆三『消費社会と権力』)。ヘンリー・フォードの思考はテイラー・システムの「科学的管理法」と正確に対応している。自動車は作ることよりも売ることのほうが難しい商品になった(リースマン『何のための豊かさ』)。(小生注:ソニーは社内であったが類似の歴史を持っていると思う。井深→盛田→大賀ゲーム機が利益を稼ぎ、ロボットを断念し、現在混迷へ)
現代は、「購買のリズム(=a)が消耗のリズム(=u)(小生注:リズムとは次の商品を買うまでの時間を指す)を越えて(a>u)いればいるほど、モードの支配力が強い」(ロラン・バルト『モードの体系』)という発見がなされる時代である。
モードは自己否定を通して世界を支配し、デザインは広告の声を通してモードとなる(それ自体でモードとはならない)。デザインと広告は情報化の二つの様相として消費社会を「繁栄」させている。
3      欲望の空虚な形式。または、欲望のデカルト空間
a>uという状態は、必要でないものを欲望する自由(あるいは狂気)が出現したことを意味する。
情報の解き放つ欲望のデカルト空間(小生注:三次元の延長より成る、無限性の形式としての数学的空間)というべき「形式の自由な世界」が、「消費社会」の運動を保証する空間である。この空間は、消費社会が自己生成し続ける世界の形式である。
4 資本主義の像の転換。純粋資本主義、としての〈情報化/消費社会〉
資本制システム一般のダイナミズムを保証する空間が、〈労働の抽象化された形式〉であることと同じに、消費社会としての資本制システムの運動のダイナミズムを保証する空間は、この労働の抽象化された形式に加えて、〈欲望の抽象化された形式〉である。
資本制システム一般の存立の前提としての、〈労働の抽象化された形式〉は、二重の意味での自由な、労働主体の形成として実現される。第一に、労働主体の伝統的な共同体とその積層からの開放(移動や職業の自由など)、第二に、労働手段との直接の結合から解離されて(自然や土地や共同体の保証からの解離)、市場関係という回路を通してしか、自己を実現できない労働主体の創出、である。(マルクス『経済学批判要綱』『資本論』)。消費社会としての資本制システム一般の存立の前提としての、〈欲望の抽象化された形式〉は、マルクスのいう「労働」を「欲望」に読み替えた概念で理解することが出来る。「消費社会」は(マルクスの言う)資本制システムの論理自体の領域の拡大(労働から消費へ)による一般化である(小生注:マルクス『資本論』第一巻 第一章 「商品」において、“商品には価値の二重性が属している”と述べているが、その前提には “商品は人間の欲望を満たす、ある物 である”なのである。マルクスの労働価値説の理論には労働だけではなく原理的に欲望が組み込まれてはいるが、ただ当時はまだこのことが重要な要素として経済社会に現象していなかったから展開されてこなかったのだ、というのが私の感覚)。
〈情報化/消費化社会〉は、初めて自己を完成した資本システムであり、純粋な資本主義であり、純粋な資本主義からの脱出でも変容でもない。マルクスは、この完成した資本システム、純粋な資本主義を見ずに死んだ。
ウエーバーの言う、資本制が軌道に乗り始めるに従って生じてくる宗教性と倫理性の脱色は、(彼が考えたような)消極的な理由からだけではない。ケインズは供給よりも需要が、生産よりも消費が資本制システムにとって決定的であることを洞察し、マルクスと反対に資本主義を肯定したが、「ケインズ革命」と、その反ケインズ主義の徹底と言うべき「情報消費化」は、プロテスタンティズムの倫理の否定が不可欠であったことの、構造的な必然を解き明かしている(小生注:この意味不明)。
5 誘惑されてあることの恍惚と不安。システムの環としての幸福/幸福の環としてのシステム
竹田青嗣は、井上陽水の歌が、仮面の後ろにあるものを「知っている」が、それでもやはり、この「仮面舞踏会」の胸騒ぎに充ちた予感の世界にひきつけられずにはいられない心情を、幾重にも表現するものであることを指摘している。情報消費社会の内部に生きる1970年代以降の世代たちにとって、この誘われたままでいること、あるいはむしろ、よく誘惑するものであるか否かということを鋭敏な批判の基準として選択する仕方が、生きることの技法となっている。
必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものはより魅惑的でなければならない。情報を通して欲望を作り出すことはできるが、これは消費社会の可能性の条件を示すだけで、どのような商品も、魅力性がなければ消費者のうちに欲望を形成できるわけではない。この美しさと魅力性とをめぐる熾烈な競争が、〈情報化/消費化社会〉の、固有の「楽しさ」「魅力性」を増殖し展開しつづける、積極的な動因である。
マルクスは大衆の消費過程について、「家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることには変わりがない」と語っている。この命題は正しいが反転してみることができる。「大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりがない」と。花の色彩と蜜の味は誘惑の必要から生まれたものであっても、人間が幸福なもののメタファーの原基としてきたものである。
6 システムと外部
(前項で)〈システムの環としての幸福〉というものが、そうであるゆえに批判される根拠はなく、(むしろ)この社会の「楽しさ」「魅力性」がこのシステム存立の不可欠な契機であることをおさえておかなくては、(現代)社会のリアリティーの核をはずした認識といえよう。その上で、現代社会理論は、このシステムの「限界」に立ち現れる問題系を視野に入れなければならない。
(その問題系のひとつは「外部問題」であり)その第一は、自然との臨界面における環境、資源・エネルギー問題である。消費社会のシステムが解き放つ欲望の無限空間と地球の有限性との矛盾である。第二には、このシステムと外部社会との臨界面における南北問題である。欲望の無限空間に向けて離陸するときに、離陸された「必要」の地の側はどうなるのかという問題である。
外部問題の他に、「内部問題」と呼ぶべき問題系がある。これは、このシステムの相関項として形成される主体の形式(その主体の形式は脱根拠化された欲望の無限性という経験がわれわれの生の世界の経験の現実性にもたらす帰結に関係する)、人間たちのリアリティーとアイデンティティーの変容をめぐる問題系であるが、それ自体として別に取り上げる(小生注:ただしこの問題系は2006年『社会学入門』で全面的に取り上げられる)。
20世紀の経験は、人間の自由を原理とする社会でなければ、たとえ理想と情熱から出発したとしても、必ず抑圧システムに転化する社会であることを示した。最後の章では、自由を原理とする社会の形式が、情報化と消費化という二つの力戦の潜勢する射程を開くという仕方で、この限界問題を乗り越えていくという展望を素描する。

二、 環境の臨界/資源の臨界。現代社会の「限界問題」Ⅰ
1、『沈黙の春』:省略
2、水俣:省略
3、環境
1950年代のアメリカ、195060年代の日本で起こったことは、大量消費社会および、この社会が外部として開発する地域で発生した。欲望のデカルト空間は、消費のための消費、(社会)構造のテレオノミー的な転倒の完成された形式である(小生注:テレオノミーとは偶然と必然だけでは説明できない「種族維持的合目的性」とも言うべき概念)。
4、資源:省略
5、「ブームタウン」。自立システムの限界
大量生産→大量消費、システムの内実は、大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄、というシステムである。このシステムは、欲望を内部化する資本制システムの「自己準拠化」の限界として立ち現れる。

三、     南の貧困/北の貧困。現代社会の「限界問題」Ⅱ
1、限界の転移。遠隔化/不可視化の機制
環境・公害問題の転移をもたらすメカニズムとして、環境社会学者が言う「ダブルスタンダード」、あるいは基準の落差という問題がある。環境政策についての国際協定がなければならない。
(限界問題は)生産と消費の起点と末端における臨界を、「外部」の諸社会、諸地域に転化することをとおして遠方化することによっても行われてきたが、それも限界にある。
2、「豊かな社会」がつくりだす飢え
理論として徹底した考察は、「発展」「開発」が望ましくないものである可能性を排除してはならない。
「もしも穀物が肉食用家畜に飼料にされることなく、またそうした穀物の配分が平等になされたとすると、世界には一日一人当たり薬5000カロリーに達する十分な食料があることになる」(ハンフリー/バトル『環境・エネルギー・社会』)。などの記述。
3、「人口問題」の構造
「南の人口問題」は、抽象的な「究極の原因」でもなく主観的な無知や「心構え」の問題でもなく、単なる貧困の問題でもなく、構造的に過渡的な局面の一契機である。
4、貧困というコンセプト。二重の剥奪
貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外以前に、貨幣への疎外がある。この二重の阻害が、貧困の概念である。
南の貧困」を巡る思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外、原的な剥奪をまず視界に照準しなければならない。
5、「北の貧困」。強いられた富裕
ロスアンジェルスで自動車がないことは、「ノーマルな市民」としての生活が殆どできないということである。東京やニューヨークでは、巴馬瑶族(広西チワン族自治区の少数民族)の10倍の所得があっても実際に「生きてゆけない」。これらは、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。
現代の情報消費社会のシステムは、この新しい「必要」の地平を含めて、必要から離陸した欲望を相関項とすることを存立の原理としている。「北の貧困」は、システムの内部に生成されながら外部化されるものである。
福祉という領域は、基本的に傷つけられやすいものとなっている。それは、福祉というコンセプトが、その原的な目的性においてではなく、システムの矛盾を補欠するものとして、消極的な定義しか受けていないからである
6、情報化/消費化社会の「外部」
現代の情報化/消費化社会のシステムは、古典的な資本制システムの矛盾を克服し、20世紀の後半をかけてなされた「社会主義」との対照実験をとおして、相対的な優位を獲得したが、そのシステム自体の内に矛盾と欠陥を持っている。
このシステムの外部は生きることの自然的、共同体的な基盤を解体し、貨幣を媒介としてしか生きられないシステムの中に編入されてゆく。この原的な解体と剥奪によってはじめて、生存と幸福の絶対性として貨幣の「必要」が形成される。けれども、このシステムは、原理上「必要」には無関心である。この問題は、「南の貧困」「北の貧困」に共通に貫かれている。

四、 情報化/消費化社会の転回。自立システムの透徹
序 「それでも最も魅力的な社会」?
現代の情報化/消費化社会のシステムは、それでも世界で一番魅力的なシステムである。情報を禁止するような社会、消費を禁止するような社会に、われわれは魅力を感じない。自由をその根本の理念としないような社会に、われわれは魅力を感じない。
それを可能にするには、情報について、消費についての原的な考察(魅力の根拠、不可避の未来である根拠の考察)をとおして、情報/消費のシステムの全く新しい形態を構築することである。その条件と課題を明確にするところまではしておきたい。
1、消費のコンセプトの二つの位相
バタイユは「自然の三つの奢侈」である食と死と性についての考察をふまえた上で、人間という存在自体が一種の豪奢な消尽であると述べる。生産主義的な社会理論、人間理論の一切に形に対する批判し、後の現代の消費社会論に強力な基底を用意した。
けれども、この消費社会の理論の核心部分に、見えにくい転位があったように思われる。それは、バタイユの消費社会論における消費は「充溢し燃焼しきる消尽」であり、ボードリヤール以降では「商品の購買による消費」を意味している。現代社会は巨大な偽造体であるといえる。バタイユを通して、有用性の彼方の消費というコンセプトを、精錬してつかみ出してくることが、消費社会の理論の批判に有効である。
2、消費の二つのコンセプトと「限界問題」
「限界問題」が「消費社会」一般の不可避の帰結であるかどうかは未だ決定できない。けれども、ある転向を必要としている。バタイユの「至高なもの」は「限界問題」により制限されない。
3、無限空間の再定位。離陸と着陸
「必要」への地平ではなく、生きることの歓びという地平への着地の仕方は、一つの社会システムのテレオノミー(目的性)を、いっそう原的な地平に着地する仕方だが、それはこの社会の活力の運動する空間の開放性を、有限なものの内部に閉ざすことはない。
4「ココア・パブ」
ゼネラル・ミルズ社の「ココア・パブ」は楽しさとイメージで市場価格を原料のとうもろこしの25倍以上にした。イメージは情報作り出し、それにより資源の消費を1/25にした。情報化それ自体は、消費社会が収奪的でないような方法を作り出す条件である。
5、情報化と「外部問題」。方法としての情報化
狭義の「情報」のコンセプトは、第一には認識、第二には設計という手段の側面であるが、再三の様相として自己目的的に幸福の形態としての無限空間である。
第一の事例として、UNEPの地球環境モニタリングシステム等が挙げられる。第二の事例として省エネ技術開発等が挙げられる。第三の様相については次節で述べる。
6、情報のコンセプトの二つの位相
現代社会の理論としての情報化社会論の系譜には、「脱産業社会論」と「高度産業社会論」があるが、前者が「産業主義的」社会の経済全体の彼方を見晴るかす視座であるにたいして、後者は産業社会の原理の内部であるにすぎず、この二つの理論には位相のずれがある。
情報の第三の様相は、知性や感性や魂の深さのような次元に属し、人々の洞察のベースとなるような経験でもあり、かけがえのないものという核心を持ち、非物質的な空間への視野の開放という射程を持つ、未だ名づけられていないものである。
7〈単純な至福〉。離陸と着陸
バタイユの不羈(ふき)自由奔放で束縛しえない・こと(さま))の思考が指し示す極限のかたち「至高性」と、バタイユとは対極的な資質を持つイヴァン・イリイチが「外部問題」を解決する唯一の方法として示している「自立共生的」のなかの生の様式である「歓びに充ちた節制と開放する禁欲」は、交差している。だが、バタイユは禁欲の道ではなく不羈の仕方で歓びを追求することによりそこに到達している。
とすれば、われわれの情報と消費の社会は、生産の彼方にあるものを不羈の仕方で追求するなら、外部の収奪は必要としないことを見出すはずである。
ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていること、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということを、見出すはずである。

結、情報化/消費化社会の転回
現代の〈情報化/消費化社会〉という巨大な歴史の実験が、大衆的規模で実証していることは、人間はどんなものでも欲望することができるし、人間が見出す幸福の形態には限りがないということである。
〈情報化/消費化社会〉は、自然解体的でもなく他者収奪的でもないような仕方で、あの直接的なものの歓喜の(無限に変幻することも、そうでないことも自由であるような)世界を生きることへの出口を、われわれに開いて見せているはずである。