2016年2月2日火曜日

『省察』(デカルト)

もう少し詳しく知りたい時には、別のブログ「爺ーじの哲学系名著読解」をみてね


省察1 疑いをさしはさみうるものについて
デカルトは、今までの経験を内省してみれば、真と思っていたものが偽であった場合は沢山あったし、今は真と思っているものでも、例えばそれは夢かもしれないと疑うこともできるから、疑い得ないものはなにもない、と考えることから始めようとした(普遍的懐疑)。
何故そう考えたのかについての本当のところは私にはよくわからないが、とにかく何事に対しても偽りではない本当のところを知りたいと思ったのだと思う。しかし、欧州を覆う宗教戦争がまだ継続していた時代に、そういう思いを本書にしたデカルトは、多分命がけだっただろう。デカルトは近代学問の父と呼ばれるに相応しい。

省察2 人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること。
普通は、身体のように見たり触ったり出来る物体の方が、見えもしない精神よりわかりやすいと考えるだろう。デカルトは逆のことを言う。つまり、自分の身体を含めて物体が存在することを知るのは、物体がそこにあるからではなくて、そのことを私が疑い得ないと感じ取るからであって、そうさせるものが精神であり、だから既に、身体より精神は容易に知られている、と言うのだ。実に素晴らしい感性だと思う。
自然科学や技術の発展を重要な基盤とする今日の世界は、デカルトのもたらした物体に対する知の恩恵を享受しはしても、このデカルトの感性を忘れているように思える。

省察3 神について。神は存在すること(注:アポステリオリな証明)
普遍的懐疑が可能なのは、経験に基づいてどう内省してみても、神が存在するからだ。この意味は?
・神の存在証明No1私は実体であっても有限であるから、私の内にある実体の観念は、無限の実体(=神)から生起されない限り、無限の観念ではありえない。だから、神は存在する。言いかえてみるとこんな感じ。完全な存在は疑う必要はないのに、私は普遍的懐疑という基本的態度に基づいて疑いまくるから私は不完全な実体であり、なおかつ私の内には無限の実体という観念がある。そのような私の経験を説明するには、完全かつ無限な実体の存在、すなわち神を想定するほかはない。
・神の存在証明No2今まで述べられてきたいろいろな論証の力は、かかって次の点に存するのである。すなわち、私が現にあるがごとき本性のもの、神の観念をもつもの、として存在することは、実際に神もまた存在するのでなくては、不可能なのだと私が承認することであり、私はそれを承認する。だから神は存在する。簡単に言うと、神の観念を持っているこの私は存在しているのだから、神も存在している。う~ん、他にもいろいろな理屈があるとは思うが、No2No1と同じようなものということで。
しかし、なぜそのような証明を企てたのだろう。多分、人間が考えた、自然科学や数学の推理、論証があまりに正しく完全であるかのように見える理由を問うたら、不完全な人間自体にその理由があるのではなく完全な神にあるとしか考えられない、と言いたかったのだろう。
この証明が正しいのかどうかではなくて、どんな考えをベースにしてそれが行われたのだろうかとみてみると、例えば、結果には原因がある(究極の原因は神)、無から有は生じない(神は形相的かつ表現的な実体)、不完全なものからは完全なものは生じない(神は完全な存在)などが主なところか。
だが、デカルトは本当のところ、神という実体が存在するかどうかを知りたかったのではなく、人間が納得したものと真実とが合致することの謎を解きたかったのだと思う、典型的には数学の。

省察4 真と偽とについて
誤らずに真に到達するには、悟性の働きにより不明瞭なものと明晰判明なものとを区別して、その明晰判明な認識に基づいた選択・判断をするという意思をもって行為する、すなわち意思の自由を正しく用いることである、デカルトは言う。
デカルトは何が言いたいのだろう。前半の認識の部分は明快だが後半の意思の部分は不明瞭。でも面白いと思ったのは後半の方。意思の自由の本質は、他に左右されずに自分で決めることにあるのだから、意思の自由というものは、完全性としてはこれ以上のものは考えられず、つまり意思の大きさは神と自分では同じ、自分は神の似姿を宿していることを理解している、とデカルトが感じ取っているところ。

省察5 物質的事物の本質について。そしてふたたび神は存在するということ(存在論的証明、アプリオリな証明)
・神の存在証明No3私があるものの観念を私の思惟から取り出しうるということだけから、そのものに属すると私が明晰にかつ判明に認知する全てのものが、実際にそのものに属する。だから、私の経験とは関係なく、神は存在することが証明された、と大体こんなところだろう。
この証明が正しいかどうか考えるのも良いけど、ポイントとしては、物質的本性つまり自然の法則と数学とは両方とも神が創出した完全なる真実だ、という考え方にあるのだろう。この考え方は自然科学が発展した大きな理由の一つらしい、つまり自然法則を発見するのに心置きなく数学を用いることができるようになったと。

省察6 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について
物質的事物は、感覚や想像ではなくて、観念によって捉えられるものである、と、いままでは考えてきた。ところが、観念とは本来、例えば三角形の観念のように、実在する似たような形の物質的事物の形状に基づいて人間の精神から生み出されたものなので、それ自体は実在しない。だから、このような考え方だけからでは物質的事物が実在することを説明できないことになる。そこで感覚や想像の復権が行われ、精神と身体との実在的な区別がなされ、物質的事物と身体が晴れて存在資格を持つことになる。
だがここで、精神と身体は分かちがたいと感覚や想像が異議を申し立てるという悩ましい事態が発生し始め、デカルトもそのことには気がついている。しかし、この問題は本書の主題ではない。哲学的思考全般に言えそうだが、デカルト的な思索法で問題が解けずとも、解けない問題が提起されることや、解けない理由を考えたくなるという効用はあるだろう。


おわり