2014年11月19日水曜日

『統治二論』(ジョン・ロック)

統治二論(ジョン・ロック著。加藤節訳、岩波文庫2010
--読書感想--

300年程前のイギリスにおいて、国家統治の正当性を巡って議論が戦わされた。それは王権にあるのか、それとも・・・。ロックは、王権神授説には根拠が無いことを、論を尽くして説明し、そして「人間には、”生来の自由”というものを所有する権利」があるから、この権利を侵す王権神授説は正義に反すると述べている。なぜそんな考えを持ちえたのだろうか?

前編 統治について
王党派を擁護するフィルマーの王権神授説が、無根拠で、現実の統治においては役立たない有害な考えであるとの批判が書かれているのだが、その中においてロックの政治思想の根幹となる考え方が述べられている。なかでも最も基本となっている考えは、「人間には、生来の自由というものを所有する権利がある。なぜならば、神の被造物である人間は、神の意志を実現する義務があるからだ」という考え方である。
上記の考え方は民主主義思想の重要な契機をなすものではあっても、その根拠を「神」に置いているから、その神を信じないものにとっては説得性がないことになる。だが、ロックは、生殺与奪の権力を持つ支配者とその服従者が存在する人間社会の「統治」の在り方において、正当にも、隷属ではなく人間の自由に正義の根拠があることを直観し、当時の王党派を擁護するフィルマーの王権神授説はこの正義に反すると考え、その反論をするための理論付けにロックの神学を用いたのだ、と思う。
本書を読むことによって、ロックの神学あるいは神の向こう側にロックが見ようとしていたものが「何であるかを知る」ことも面白いけど、それよりも、「何であるかと考える」ことの意味に気付くことが、後生のヒューム、ルソー、カント、ヘーゲルの正義や自由の概念を深くより捉えることにつながり、ひいては政治哲学の本質へ迫ることにつながるのではないかと思う。

後編 政治的統治について
人間は、自然状態における自然権の行使が叶わなくなると、その自然権を放棄することに同意して、生来の固有権の保全に必要な統治の権力を共同体に信託し、政治的共同体を創出する。この統治権力の中で、神聖にして最高の権力は法を作る権力であり、その法を執行するのは執行権力で、この二つは区分される。しかし、この二つの権力が、当初の同意と信託に反する場合には、人民はそれらの権力を覆すことの出来る権利を持っている。
政治的統治についてのロックの理論は、300年以上も経た今日においても尚、色あせることなく輝いているように見える。その理論の根幹にあるものは、一つは前編に述べられているロック流の神学であり、もう一つは人間と社会の現実や歴史に対する客観的な事実を基盤とした論理的考察である。そのようなロックの理論は、神学に足場を置いているからには、やはりそこには限界があるのだが、ホッブズに始まり、後世のルソー、カント、ヘーゲルへと続く近代政治哲学の流れのなかにおいて読み取るならば、間違いなく不朽の古典の一つと言えるだろう。アメリカ建国の礎、ひいては日本国憲法に大きな影響を与えていると言われているロックの思想は、そのような意味においても大変興味深いものがある。

もう少し詳しく知りたい時には、別のブログ「爺ーじの哲学系名著読解」をみてね

2014年11月12日水曜日

『社会契約論』(ルソー)

ルソー『社会契約論』中山元訳 光文社 読書感想

『 』内は本文の抜粋


---自由と服従が両立する国家はありうるか?---

本書は、人々が平和に共存するためにはどうしても統治が必要となるのだが、その統治の正当な根拠と規則を、人間の本性に立ち帰って問い、それは「一般意思」と「社会契約」であると述べている。それらは一体何なのであろうか?250年ほど前のフランスで表されたこの思想は、近代国家設立の原理をなすものである。『私がここで調べたいと思ったのは、人間をそのあるがままの姿において捉え、考えられるかぎりで最善の法律を定めようとした場合に、市民の世界において、正当で確実な統治の規則というものがありうるかということである。』
「一般意志」とは、一言で言ってしまえば、共同体を創出し維持するという意思の合意である、と思う。この発想の底には、人類がそのままでは滅亡してしまうであろう「自然状態」から、平和に共存する可能性を含んでいる「社会状態」へとまがりなりにも移行して来たからには、それなくしては共同体が存続しなかった普遍的な理由があるはずである、という認識がある。だから一般意思とは、共同体の構成員全員にとっての、構成員であるかぎりにおいての一番重要な合意そのものであり、その内容については地域や民族や文化によって多様であり得るもので、時代によって変遷していくのはむしろ当然なのだ。従って、近代において自分が自分自身の主人であることを自覚した人々の社会においては、一般意思の内容には、すべての個々人の自由を損なわない、ということが必ず含まれなければならないことになる。従って、「一般意思」の内容が曖昧であるという昔からの批判は的外れであると思う。一般意思の内容は、その時代において、その集団に属すると思っている人々が、自ら発掘して創り上げていくものだ、とルソーは暗々裏に言っているのではないだろうか。
「社会契約」とは、一般意思という唯一の合意に基づいて、共同体の構成員が交わした始めの約束であり、その一番基本的な約束は、共同体の全構成員が、全ての人格と全ての力を一般意志の最高の指導の下に委ね、個々の成員を全体の不可分な一部として受け入れることである。『「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式を見いだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない」。これが根本問題であり、これを解決するのが社会契約である。』
「国家」とは、社会契約によって個々の人々つまり「人民」が結ばれた団体ということになり、「国民」は自身とすべての権利を一旦国家に譲渡した後、法によってその権利はより確実に保障される。換言すると、そのことによって自然的自由のかわりに社会的自由を獲得することになり、自由と、その条件である平等が保障され、法に基づいて統治される共和国が生まれる。国家とは主権を行使する力を持つ存在で、その意味で「主権者」と呼ばれるものであり、人民は国民として国家に服従するものとなる。「主権」とは、国家のすべての構成員に対する絶対的な力で、一般意志によって導かれているものである。ここで重要なのは、その主権者を構成するのは人民であり、人民は主権の一端を担うのであって、その意味で「市民」と呼ばれるということである。つまり、人民は「国民」と「市民」の二重性を持つのである。この二重性の意味を理解することが、以降においてルソーが示す国家を構築するアイデアを理解する鍵となる。この二重性おいて、人々の自由と服従が両立することになる。
社会契約で国家が誕生した後、それを動かす原動力である意思と力は法と政府となる。立法権は人民だけに属する。これは明らかである。力つまり執行権は個別の行為にだけ関わるもので、立法者にも主権者にも属し得ないから適切な代行機関が必要となる。この代行機関が政府である。こちらのほうの説明を一言で言ってみれば、政府で働いている官吏(行政官)は「公僕」である、ということになるだろう。

話が次第に具体的になってくると、現代から見るとますます現実離れしてくるのだが、出されてくるアイデアは自分の思想の一番大事な原理を説明しているのだ、と読めば良いと思う。例えば、立法は市民が直接参加する人民集会で行い、代議士は認めないとか、首都の固定は認めずたらい回しにすべしとか、民主政国家では行政官はくじ引きが良いなどとルソーは言うが、そういう国家は現代で言う市町村くらいの規模でさえも不可能に思える。しかし、それはあくまでも「人間は自分自身の主人である=奴隷でないこと、自由」のためであるとか、「法は自然の状態をいわば保証し、これに同伴し、それを修正するだけにとどめるようにするのが望ましい。」とか、ルソーの思想の説明なのである。ルソー自身も暗に言及しているように、地方自治による国家の運営も一般意思のもとで可能のはずであろう。公民宗教(市民宗教)についての言及も、「人間をあるがままの姿において捉える」ことの一例だろう。因みに外交関係については、ルソー自身も述べているように言及されていない。

もう少し詳しく知りたい時には、別のブログ「爺ーじの哲学系名著読解」をみてね