2017年11月6日月曜日

『秩父事件』(井上幸治著 中公新書1968年)


井上幸治著『秩父事件』(中公新書1968年)から、秩父事件に関わった人々の人間像を中心に纏めてみたものです。
今の秩父市街地 困民党は向かいの丘陵から下ってきた

秩父事件の概要

 秩父事件とは、明治17年(1884年)の秋も深まる頃、埼玉県西部の山並みに囲まれた秩父地方で発生した農民集団(困民党)による暴動事件のことを指す。この暴動事件は、実際に政府機関との間で集団的な衝突が始まってからわずか10日間程であっけなく終了する。しかし、その規模、なによりその質から見て単なる一揆などというものとは異なっていた。困民党が動員した農民たちは一万人近くに及び、その戦闘力は、未だ武器調達や戦闘訓練という点においてはまるで不十分とはいえ、良く組織され秩序を持った民兵とさえ言えるものであった。

 このような困民党蜂起の条件は、簡単に言えば三つある。一つは経済的条件。資本主義経済が急激に発展しつつあった明治時代のこの時期に発生した不況と、それに対する政府の政策が、養蚕業を主な生業とする秩父地方の農民を直撃し、具体的には彼らに高利貸からの借入、ひいては破産を強いたことである。一つは人々の考え方という条件。西欧近代思想が急激に取り入れられつつあった明治時代のこの時期に発生した自由民権運動は、恐らく秩父という地理的条件も重なって、大きく農民達にも影響を及ぼした。まっとうにも自分たちの生きる権利の正当性を目覚めさせかけたということである。もう一つは、この自由民権思想を農民たちに教えた自由党員たちが、端的に農民たちの梯子を外したためであろう。つまり、梯子を外した彼らにとっての元々の目的は、議会を設立し、憲法を制定し、国政に参加することであって、選挙権すら持てない99%の人々を利用すればこそあれ、彼らの死活がかかった生活を救うことではなかったのであろう。

 ところで、梯子を外された困民党のリーダーたちは、誰かに梯子をかけてもらったとは思っていなかったのかもしれない。だが、時の政府自体と生死をかけた衝突が回避できない現実を突きつけられたその時、彼らは一体何を思ったのだろうか。それはそれぞれの人々が事件の前後にとった言動の記録から想像するほかはない。

 だが、なにより注目すべきは、蜂起の正当性を、農民たち自身が明治時代の自由民権運動の思想、つまり自由や平等という西欧近代啓蒙思想に求めていたところにある。しかし、この事件の肯定的部分よりもむしろ否定的部分の方が秩父の人々の心性に今なお深く沈殿しているように感じられる。『秩父事件』の末尾で著者こう言っている。「しかし、秩父事件の記憶は、日本の歴史のなかで、民主主義の理想が生きているあいだは、ある積極的な発言をし続けるだろう。」と。

秩父事件の経緯

秩父事件前夜から壊滅に至るまでの経緯は次のようになる。

【困民党蜂起前夜】

西南戦争後の財政難の下、明治14年の政変で板垣等に勝利した松方のデフレ政策が始動をはじめた頃、この地方では既にそれまでの三年間に地方交付税減額によって地方税は額面で3倍となっており、明治1314年までの好景気が、15年になると不況となっていった。

困窮した農民達は、困民党が団結して武装蜂起する前に、地方当局に対して窮状を訴えていた。明治1612月には、上吉田村の高岸善吉、落合寅市、坂本宗作は警察署に対して、「高利貸説諭請願」(高利貸しへの返済期限延長などを求める)を初めて行い、翌年3月から4月にかけても繰り返された。だが、貸借には法規があるからみだりに監督庁が介入すべきではないという理由で却下が繰り返された。この段階では、困民党指導者の井上伝蔵は、農民の請願運動には否定的であったようだ。

谷間や耕地は農民の集会場所であり(当局から関知されにくい博打場でもあったようで)、請願運動の過程で多くの村の活動分子の山林会合が行われていて、810日にはすでに各村の動員組織を作るという申し合わせが出来ていたのではないかと思われる。その後武装蜂起が実行される明治17111日までの状況はあらかた次のようなものである。

8月中旬頃。既に困民党への参加オルグが始まっていた。石間村では村在で山村生活上の親分とも言える養蚕農家兼金融業の加藤織平がオルグを開始し、その隣の阿熊村、大宮郷に近い栃谷村でもオルグされた農民の記録がある。上日野沢村では自由党員の竹内吉五郎が、秩父郡外の榛沢郡岡村(深谷に近い)でも大野又吉がオルグを開始していた。

827。和田山集会。坂本宗作、落合寅次郎、高岸善吉ら27名は、小鹿野町裏の和田山で竹ぼらを吹き、ときの声を上げて農民の集合を図った。待機していた警官40名は、全員を小鹿野署に連行して、説諭の上4名をとどめ、翌日これを放免した。

9月初旬頃。加藤織平(蜂起時の副総理)が困民党幹部に迎えられる。

9月6日。粟野山集会。吉田川と石間川の合流地点から近い粟野山に上記27名の呼びかけで160人ほどが集合したが、また警官が出張し、住所氏名を控えさせて解散させた。

97。阿熊の会議。下吉田の井上耕地近くの阿熊で、困民党運動目標が決定される。借金10年据え置き、40年年賦返済、学校費・雑収税・村費減免。井上伝蔵、小柏常次郎等が田代栄助に困民党運動への参加を説得し、その承諾を得て、決定された。

98。蓑山の集会。先の27名の呼びかけで開かれたに警部巡査70名が現れてその内の一人が宮署に拘引された。

93028ケ村の総代としての委任状を持ち、小柏常次郎、村竹茂市、犬木寿作ら4名が大宮署へ最後の高利貸説諭請願をおこなうが、連名の委任状は不可と却下される。総代の帰りを待ちわびて椋神社に集まっていた農民達は、それなら債主に一同で交渉したいと言い出す。窮した高岸善吉は加藤織平宅を訪ねて相談すると、小柏常次郎が今一度警部様に聞いてみようという案を出した。

101。昨日の打ち合わせに基づいて、善吉は小鹿野分署へ、落合寅市は大宮署にでかけ、穏やかに交渉するなら差し支えない、との承認を取り付ける。幹部の指示もあっただろう。この個別交渉の承認によって、困民党の一大示威運動が展開されることになった。

101日~中旬頃

・負債農民一人一人が債主である高利貸達に対して個別交渉を行うということは、債主にとってみれば毎日数百人規模のさみだれデモが繰り返されたり、短刀を畳に突き立てて博徒ぶりを発揮する総代に脅されたりするような状況に遭遇することであった。身を隠す高利貸しもいたが、はっきりと断る場合が多かった。

・困民党幹部は、警察への債主の説得請願をするが従来通り不可となる。なぜこの時期に請願を蒸し返すのか、その理由は判明でないが、幹部の蜂起決定集会はこの頃である。

・債主達は逆襲に出る。彼らは、農民達の借金棒引き等は違法だと大宮裁判所に訴えた。その結果、多数の召喚状が負債農民に送られ、彼らは困惑して総代に訴え、幹部は最後の決断を迫られる

1012。蜂起決定。現場の幹部達にとっては、合法的手段では困民党の運動目標は達成出来ないことが明らかであった。田代栄助は坂本宗作の迎えを受けて、大宮郷から吉田の井上伝蔵宅を訪問した。そこで、高利貸し打ち壊し、証書類の焼き捨てを決行するより打開の道はないと言うことに話し合いをつけたから、ご同意いただきたいと、提議を受けた。栄助もこれに同意せざるを得なかった。

1013日。田代栄助は井上伝蔵、新井周三郎、小柏常次郎らと加藤織平の家に行き、弾薬と軍資金調達の準備の開始を決める。即日実行に移される(数人規模での強盗など)

1020。長野県北相木に田代栄助の子分の荻原勘次郎が来て、菊池恒之助の家に宿泊し、秩父困民党蜂起の準備が出来たことを伝える。帰りに2名の南佐久自由党員同行。

1022。地下に潜った幹部集団が、蜂起日時を決定する会議の開催を決定する。

1026。粟野山会議。石間の粟野山において、蜂起日時を決定する会議が開催された。周辺の山中のそこここで集まっていた農民達のささやきが聞こえる中、田代栄助は蜂起の一月延期を提案し、井上伝蔵もこの提案を支持し、会議は大荒に荒れた。。栄助の意図がどこにあったかは判明ではない。小柏常次郎の調書からは、田代には蜂起の際の動員地域・人数に対する懸念であったようだが、小柏常次郎らの現場の幹部は懸念はないと考えていた。結局この日は111日に蜂起と決まったが、これは31日の小前耕地の幹部会議まで尾を引く。

1027。長野県北相木の南佐久自由党員、菊池貫平と井出為吉が石間の加藤織平の家に行く。同日、貫平と行き違いに、門平惣平と飯塚森蔵が菊池恒之助と北相木に行き、南佐久自由党員の高見沢薫を訪ねる。

1027。埼玉県警察本部の巡査は、小鹿野の密告者から困民党武装蜂起に関する急報を受ける。密告者は野天賭博で捕らえられた後警察から逃走した者であった。内容は重大で、26日に困民党幹部の集会が開かれ、28日に石間の山中に16か村総代が集まり、高利貸しに対する貧民党の要求が受け入れられなければ武装蜂起する、と言うものであった。本部は直ちに秩父に警部を派遣し、郡内の署長等と困民党の動性を分析し、探偵を行ったが、蜂起の徴候を知ることができなかった。「幾重にも重なる山は、人間の動きを隠している。それも事実である。しかし、警察が最終段階になって、困民党の糸を手繰れなかったのは、請願運動、山林集会、債主との折衝という運動の下で、組織作りが進行していたことを見落としていたからではなかろうか。」

1029。自由党の解散。

1031。小前耕地の幹部会議。田代栄助は蜂起期日延期を主張し、井上伝蔵も支持した。近くの日野沢には困民達が集まっていた。栄助は、あくまで1日に実行を主張する小柏常次郎の首を切り、集まっている農民達の前で蜂起延期の了解を得ようしたが、井上伝蔵が仲介して、常次郎を同行し日野沢に集まった困民に延期を図った。しかし、もはや相手にされなかった。「31日は十三夜であった。栄助は人里はなれた神官の家で寝た。」(この神官は、宮川津盛。困民党会計長として、これから数日間、常に田代等の幹部に寄り添い、心の支えとなったと思われる)

【武装蜂起の10日間】

秩父困民党が武装蜂起してからの10日間を、至極簡単に記述すると次のようになる

111日夜~2。総理の田代栄助が下吉田の椋神社に集結した困民党軍約3000人を前に役割表を発表し、そのまま小鹿野経由で大宮郷に流れ込みここを制圧する。その様は、まさに「潮の如く」であった。付近の村々でも高利貸しの打ち壊し、軍用金の押し借り、武器や食料や人員の調達が行われる。この時点で困民軍の総数はおよそ8000名。

112。警察隊は皆野から寄居に撤退し、憲兵隊出動要請を山縣有朋が承認する。

113日~4。憲兵隊が寄居に到着し、翌日には高崎鎮台兵が開通したばかりの高崎線本庄駅から児玉町に到着し、警察や自警団とも連携して、秩父の包囲網が完成する中、相次ぐ誤報と戦術上の分隊と指揮統制の乱れから困民軍は大宮郷を撤退して皆野に本陣を移す。しかし、事態の状況を悟った本陣の幹部は井上伝蔵、田代栄助、飯塚森蔵、犬木寿作が離脱し、困民党の本陣は4日の午後3時には実質的に崩壊する。大宮郷には、翌朝には憲兵隊と警察隊が入り、夕方には県の役人も入った。

113日~10。本隊から別れた困民集団は各村で当初の運動方針、高利貸し打ち壊し、証書類の焼き捨て、等を実施しながらゲリラ活動を続け、最後は吉田から屋久峠を越え、群馬の山中谷沿いに十石峠を越えて信州に向かって進んでいき、最後は八ヶ岳山麓の野辺山高原で潰走する。

114。金屋の戦い。甲副大隊長大野苗吉の率いる一隊200300名は寄居への進出を計画して吉田を出発し、途中で500600名程に膨張していた。夜の1130頃、児玉郡金屋にて最新式の鉄砲を持つ高崎鎮台兵70名と正面からの隊列を組んだ銃撃戦を30分ほど行い10名の死者を出して敗退した。これはもう暴徒に対する警備とか警察という概念を越えた戦闘であり、本陣解体後も志気衰えず本格的な平野進出を試みたものであった。大野苗吉は、ここの恐らく無名戦士の墓に眠っている。

114。皆野本陣解体後、ここで消息を断ったように見える人は、上州自由党員で蜂起日決定会議の時に田代栄助の延期論に反対した小柏常次郎、上日野沢村の神官宮川津盛、上日野沢村の門平惣平、大宮郷で栄助の子分柴岡熊吉、静岡出身の宮川寅五郎。信州自由党の菊池恒之助はこの辺で困民党に参加したようだ。

114。信州(長野)行き決定集会。皆野本陣が解体し、幹部が消息を絶った後にそれを知らない人々の中で再び吉田に戻って、上吉田の河原にて会議を開き、信州行きを決断した人々が居た。この集団を率いたのは信州(長野)南佐久自由党員で代言人(弁護士)の菊池貫平。その他の人で、本書から読み取れるのは、同じく南佐久自由党自由党員で前日から参加したらしい菊池恒之助、上吉田村出身で困民党創始者の一人坂本宗作、石間村の新井繁太郎、上風布村の大野長四郎、上州(群馬)からは上日野沢村の新井寅吉親子と三波川村の横田周作など、信州勢を除くと農民達である。警官に訊問された農民の供述から、地元の坂本宗作はこの晩家族との最後別れを惜しんだと思われる。

115。粥仁田峠の衝突。皆野の本陣崩壊後、落合寅市と木島善一郎は100名程を率いて秩父から川越方面への峠、粥仁田峠方面作戦を指揮した。ここでは、官兵が前進すると困民軍は退却して、戦闘は避けられた。寅市と善一郎の消息はここで途絶えたようだ。

115。夜中の椋神社。城峯山裏で展開していたゲリラを日野沢で纏めて、下吉田の酒屋で炊き出しを命じて児玉郡へ押しだそうとしていたゲリラの隊長島崎喜四郎は、金屋の戦いでの敗戦を聞き、夜中の椋神社に隊員を集めて訓示した。「最早己ハ信州地ニ立越、多人数ヲ集メ再ビ当地ヘ立越スベシ、仍って命ノ惜シキ者ハ勝手ニ帰レ。信州ヨリ人数ヲ集メテ再度来ルベシ、ソノ際直チニ駆ケ付ケヨ。」

115~9日。5日、信州行きを選んだ約150名の人々は貫平達に率いられて屋久峠を越える。新井繁太郎は峠越え後に、絶望して自首する途中上州で村民に捕らえられる。屋久峠を越えて上州山中谷へ入り、島崎喜四郎率いる30名程と合流して、行く先々の村々で困民党当初の方針通りの行動を繰り返し、駆け出しによる人集めや炊き出しの要求などをしながらひたすら信州を目指す。

11月9日~10日。9日夜、武州甲州街道沿いの馬流付近で高崎鎮台兵一中隊100名に10分間程の十字砲火を浴び13名が死亡し、10日には残っていた200名程が尚隊列を組んで街道を甲府方面に向かっていたところを、憲兵隊に狙撃され潰走する。


秩父事件の人間像
最後に一覧表を掲載掲載した。


【大井憲太郎】

九州豊前の農民出身で、自由党最高幹部の1人で。後に憲政党衆議院議員を務める。明治17年(1884年)2月に上州で演説会開催し、同月秩父を訪れて秩父困民党を指導する。困民党蜂起の可能性を知ると、同年10月に蜂起阻止の使者を困民党に送る。

明治173月の党大会で、危機意識に立って自由党の組織強化を行い、地方に対する統一的指導を行うことが決定され、地方党員との連絡に当たる地方常備員が設置された。大井は関東五県の常備員となったが、激化しつつある地方党員の期待を担いながら、大井をはじめ、彼をとりまく宮部襄、新井愧三郎などの自由党左派といわれるグループも、地方組織の運動をどこに持っていくかについては、混迷のなかを彷徨っていた。

明治175月の群馬事件(群馬県北甘楽郡で起こった、自由党急進派と農民による暴動)の最中に、自由党常議員の辞表を提出。同年9月の加波山事件の後10月に自由党は解党する。翌年12月の大阪事件(自由民権運動思想に基づいた朝鮮政府クーデター未遂事件)で重懲役九年の判決を受けるも、明治22年に明治憲法発布の恩赦で免罪となる。獄中で著した「大阪事件獄中書翰」ではユートピア的平等主義が覗える。『均田論』(明治19年『時事要論』に発表された、一戸当たり均等に土地を分配するという考え)は社会的平等主義であって社会主義ではない。

秩父事件については、消極的態度を守りながら苦悩するも直視せず、結局は弱者の切捨てを選んだのかも知れない。

【新井愧三郎】

群馬県坂原村出身の上州自由民権運動指導者で当時36歳。明治16年の自由党大会に出席している。俳人でもあり、秩父の同好者との交流があった。秩父地方は、群馬県の多胡・甘楽郡や長野県南・北佐久郡と峠を介して経済的にも文化的にも、日常的に不可分の関係にあった。実弟で秩父金沢村の若林真十郎を秩父の自由党の世話人とし、秩父下日野沢村の長老で漢学者でもある中庭通所(蘭渓、当時69歳)を自由党にするなど、困民党に自由民権運動の思想を浸透させる役割を果たした。

新井や高崎藩士で自由党常議員の宮部襄(後政友会議員)など群馬県のこの地域の自由民権運動家は、明治15年の福島事件(福島県令三島通庸の民権家弾圧と人民徴用・酷税に対する2000人規模の暴動で、県会議長で自由党員の河野広中が軽禁獄7年他5人は同6年の判決を受け、多数が拷問を受け獄死者も出た)に際して直接には関係しなかったが、福島での運動に協力した経験によって、大衆運動の実態を学んでいた。秩父事件の諸記録には、群馬の被告261名中の内この地域では2名に過ぎなかった。このことは自由党左派と言われる新井の思想そのものが、故郷の農民と無縁であったことを示している。

明治174月の照山俊三殺害事件において、計画を立案したが宮部と共に免訴となっている。この事件は、警察の密偵を疑われた自由党員の照山俊三を、宮部や上司で群馬県の自由党員で自由党常議員でもある長坂八郎の了解の上、秩父の同志宅(次に述べる村上泰治の自宅)へ誘い出し、新井を含めて同志4人で酒宴を開き、途中で言葉巧み誘い出して群馬の杉ノ峠(埼玉国際ゴルフクラブ東端)にて殺害した事件。実行者2人は群馬の自由党員で、死刑判決を受けた。この大時代のすさまじさは、密偵の殺害に対する伝統的な処刑法とも言うが、背後から短銃で心臓をぶち抜き、仕込み杖で頭部をメッタ斬りにし、鼻を削ぎ、口を裂き、頭の皮を剥いだものだ。裁判では身元を不明にする目的であると断定された。

【村上泰治】

秩父下日野沢村の豪農の子息で、明治1517歳で入党、秩父自由党幹事役。明治17年自由党大会出席。近所に住んでいたのが秩父自由党第一号の中庭通所(蘭渓、当時69歳)であった。秩父自由党の麒麟児と呼ばれていたが、明治174月に発生した照山俊三殺害事件に関与したが、当時未成年であったことから、教唆で無期懲役となり、3年後に獄死する。明治20年に浦和で行われた告別式には、板垣退助、星亨、林包明らから香料がとどけられ、宮部等も列席した。

困民党蜂起の時には既に拘束された身であったから直接には関与していないが、自由民権運動のホープとして、困民党運動の思想的指導者として、秩父の指導的農民層には知られていた。

明治151月か2月の初め、後に困民党総裁に推される大宮郷(秩父市)の養蚕家で、名主も長く努めた田代栄助が自由党に加盟するつもりで泰治を自宅に訪問した。泰治は30歳も年上の栄助に対して、警察のスパイとの思い込みもあったらしく、まともに取り合わなかった。そのため、栄助はその後会うことはなかったが、後に泰治がこの時の振る舞いを後悔しているともらしたことを、栄助は困民党幹部の坂本宗作から聞いた。

明治1612月から翌年3月から4月にかけて、高利貸に対する返済猶予などの処置を政府・警察署に願い出るという、農民の請願運動(高利貸説諭請願)が繰り返されたが、貸借には法規があるからみだりに監督庁が介入すべきではないという理由で却下が繰り返された。泰治はおそらくこのような農民の運動に対しては積極的ではなかったと思われる。泰治が投獄された後の秩父自由党の中心人物は、泰治の後に自由党の幹事となった秩父下吉田村の井上伝蔵であった。

【井上伝蔵】

下吉田村在。鉢形城家老井上一族。明治12年、阿熊上日野沢下吉田区長連合村議会の副議長に選出されるほどの名望家と言われている。明治17年自由党入党、当時31歳。村上泰治投獄後の秩父自由党幹事、秩父自由党の中心人物となる。困民党組織者の一人で蜂起時点では会計長。秩父困民党の中では、大井憲太郎とのつきあいもあり、資産もあり最も開明的な人物と言われている。

明治16年頃からの松方デフレ政策の影響を受けて、農民が高利貸からの借金返済に困窮するようになると、困民党の幹部となってその運動と組織化に力を尽くすようになった。総理となる田代栄助を困民党に誘ったと言われている。蜂起決定の段階で、阻止を勧める大井健太郎からの使者を受けて「平和説」を唱え、蜂起延期論を支持する穏健派であった。しかし、合法主義を守りながらも在地意識の内に次第に困民党の非合法活動に巻き込まれていったのだろうと思われる。

死刑判決を受けるが逃亡し、最後は北海道北見の自宅で往生する。大正七年(1918年)の「東京朝日新聞」によれば、その後北海道に渡り、各地を流浪して、七年前に伊藤(房次郎)姓を名乗って北見国常呂郡野付牛村に来て農業を営み、この年の623日、死の直前に妻子に経歴を明かしたと書いてある。この間35年の月日はどのようにして埋められたのだろう。多少でも救われた気持ちになるのは、幸福な家庭を築いて世を去ったことであろう。「村上泰治の親友に井上傳蔵という者あり、為人沈毅剛膽しかも容貌婦人の如く、挙止極めて嫺雅なり」『自由党史』

【飯塚森蔵】

井上伝蔵と同じ下吉田村出身。加藤織平等と共に困民党組織者の一人。上州南甘楽郡平原で小学校の教員歴があり、困民党蜂起時には乙大隊長になっている。当時30歳。

秩父事件前夜の明治1610月末まで信州でオルグしたと言われる。1027日には門平惣平と共に、信州北相木村の南佐久自由党員の高見沢薫兄弟に面会して蜂起への参加を求めるが、同じ南佐久自由党員でありながら菊池貫平等とは全然違って、彼らが全然頼りにならぬ殿様自由党員であることは見抜いていただろう。

明治17111日夜、1000人ほどの乙大隊長乙隊として小鹿野への新道を進み、11時頃甲隊と共に東西から300挺あまりの銃を発射し、竹ぼらを吹き、ときの声を上げながら小鹿野の町へなだれ込んだ(小鹿野は高利貸しが最も多い地区の中心であった)。警察分署の書類を焼き捨て、高利貸し一軒に放火し六軒を打ち壊した。諏訪神社を中心にかがり火を焚いて露営し、数軒に炊き出しを命じた。

112日昼頃、大宮郷を見下ろし、武甲山を眺望する小鹿野峠を少し下ったところにある音楽寺の鐘を乱打した後、大宮郷になだれ込む。警察隊は対抗できないことを知って既に引き上げていた。

蜂起から四日後の114日に本隊が実質的に解体した後に、大宮郷から脱出後行方不明となる。後日欠席裁判で重懲役10年の刑を宣告されるも逃亡する。その後、親族関係者の追跡調査によって愛媛県八幡浜の大法寺の過去帳に飯塚森蔵について記述があることが判明し、大正611月北海道白糠(しらぬか)のアイヌコタンで死去との説もある(コトバンク)。

【田代栄助】

秩父困民党の首領(総理)。秩父の任侠を自任する。革命ロマン主義者?鉢形城家臣一族だが、維新以後は「微禄」化した名主、養蚕業者。当時50歳。

明治15年の1月か2月初め、秩父自由党に参加する意思を持って、若い村上泰治に面会したが信頼関係を作れず、泰治の投獄で再会も果たせなかった。しかし自由党に傾倒し、井上伝蔵と親しくなり、彼と同じく非合法蜂起に反対し、土地の所有権は否定しない社会的自由民権主義者であった。しかし、在地意識の内で次第に困民党の非合法活動に巻き込まれていった。

武装蜂起の日時を決定すべく開かれていた1026日の粟野山会議にて、栄助は一月延長を主張した。その理由は、30日の猶予があれば群馬、長野、神奈川、山梨の一斉蜂起が計画できると考えていたからであるようだが、主張の背景には自由党の福島事件や加波山事件にみせた組織力や爆発力に対する期待があったのかもしれない。しかし、さし迫った問題は、秩父はともかく児玉や榛沢などの県内署郡、上州の組織状況であった。この会議において栄助は、28日決行説を小柏常次郎に代表させて、鋭い対立を示した。対立点は、各地で組織は出来上がっているかどうか、という判断にあった。しかし結果は「窮民等ノ督促ヲ避ケ、所々ニ流寓シ、多クハ家ニ還ラザルノ状況ヲ好マズ」として否定され、尚15日の延期を主張したがそれも認められず、結局11月1日に決定した。その後31日に小前耕地で開かれた幹部会議の際、栄助が常次郎の首をはやる農民衆の前に差し出して蜂起延期を説得しようとしたそうだが、名望家井上伝蔵の仲裁でそうはならなかったらしい。もし秩父の任侠栄助がそうしていたらどうであったろうか?自由党は既に1029夜に解党していたことは知っていたのだろうか?。

武装蜂起する111日の夜以前の彼の行動からいくつかのエピソードを下記してみる。困民党の運動目標が決められた97日の阿熊耕地での会議で、井上伝蔵等に困民党への協力を求められたとき、栄助は慎重論を述べるが、諸君が一命を捨てて万民を救うならば、と同意した、と言われている。

蜂起の34日前、県警本部から困民党についての重大な密告を受けて警部が来秩した情報は党幹部には入っていた時、石間の親分加藤織平は警部を襲うことを申し出たが、栄助は「小役人一人殺したところで、なにになるか。事を誤るだけだ」とこれを制した。

11月1日の蜂起当日早朝、城峯山で陸地測量中に困民党に捕縛された陸軍御用係に運動参加を呼びかけたが受け入れられず、非礼をわびて解放する。

武装蜂起後わずか三日で栄助や伝蔵の革命的ロマンは跡形もなく消え去った。死刑判決を受け、明治18年執行される。


墓石に刻まれている辞世
   振り返りみれば昨日の影もなし
       行末くらし死出の山路

当時の少壮検事は晩年、栄助の思い出を「一見温厚の老人で、暴徒の巨魁などとは見えなかった。全く多勢のために祭り上げられた者のように思われた」と述べている

武装蜂起した日の夜以降から、本隊が実質的に崩壊して穏健派幹部が逃走するまでの4日間、そしてその後の彼の行動を纏めると以下のようになる。

111日、早朝。門平惣平が56名と現れ、清泉寺の門前で警官と戦闘を始め、味方2人が戦死、巡査1人を殺したと報告を受ける(この巡査名前は窪田という)。巡査殺害の報告を受け「官吏を殺したのは逃れがたき大罪人」であると自覚した、と後に述べている。
1日午後から夕刻にかけて。どの谷間からも長い行列が吉田を目指して続いていた。農民たち出で立ちは野良着姿に白鉢巻き、白だすきが制服のようであった。付近の村々には、間断無く「駆け出し」が行われ、夕靄の立ちこめる頃、椋神社の周辺には、およそ3000人の農民が集合していた
1日夕方四時頃。椋神社到着。蜂起の予定集合時間午後八時、午前二時頃大宮郷に向かって出発の予定であった
1日夜七時頃。昨日から練り上げていた困民軍の役割表37名を発表。大隊はは甲乙二つ、小隊長は各村のオルグに充て指揮旗は村名記入の白の小旗
1日夜八時。旧暦十三夜の満月が冴える。半鐘が鳴り、竹ぼらが吠え、農民の大集団は隊列を作り甲乙大隊の二手に分かれて出発した
1日夜。1000人ほどの乙隊と共に吉田から小鹿野への新道を進む
2日早朝六時頃。本隊は町を出発して桑畑だけが広がる小鹿野原を隊列を組んで進みむ
2日昼頃。大宮郷を見下ろし武甲山を眺望する小鹿野峠から大宮郷へ入る。ここでは公権力は地を払い、栄助たち困民党の支配下になった。
2日夜~3日。三つの計画、高利貸し業者への攻撃、軍用金の調達、近村に対する働きかけが遂行された。大宮郷に集合した暴徒の数は八千から一万人と見積もられた。「自由党」は理想のイメージとして捉えられ、自由党総裁の名前で炊き出しが命じられ、自由党幹事の肩書きで今回の蜂起の趣旨説明が行われ、軍資金受領証に「革命本部」と書かれたものが5枚あった。困民党支配下の大宮郷の有り様は、大きな店の日記がよく物語っている。「自由党という理想のイメージに忠実になろうとし、そこに主体的な規律も、更に大きくは町の治安も自分たちの手で確立しようとする精神は、「無政の郷」において一つの光であった。」
3日早朝。斥候より、今朝に憲兵隊と警察隊が大宮に向かうという誤報が届き、本隊を甲(織平と周三郎)、乙(貫平と森蔵)、丙(栄助と寅市)の三つにわけ、甲隊は小鹿野・吉田方面に対して武の鼻渡しを、乙隊は大野原の防御を、丙隊は大宮を防御する作戦を立てたが、その後の相次ぐ誤報で甲隊は吉田に、乙隊は皆野へ出発してしまい、指揮系統の秩序も乱れてきた。
310時頃。栄助等は皆野の本陣に到着するが、持病の胸痛を発し、大野原に戻って民家で静養する。察するに、大宮郷で隊を三つに分けて、大宮郷を守備するために軍隊と対峙する作戦を立てるにいたったと言う現実は、農民の一斉蜂起と言うロマンチシズム的基本方針は既に崩れ始め、またその基本方針から出てくる、軍とは正面から戦わない(物理的に不可能)という考えとも矛盾し、さらにこの方針がこの現実において幹部に共有されていたか疑問であることは、これから一週間ほどの困民党の行動からも覗えるだろう。
4日朝。皆野の本陣へ、胸痛で休息。各方面情報悲観的。本陣警備殆ど竹槍隊で手薄。呼び寄せた甲隊は周三郎負傷事件で到着せず。本日、秩父からの出口すべて軍隊と警官隊で封鎖されたことを悟り、栄助や伝蔵の革命的ロマンは跡形もなく消え去った
4日三時頃以降。会計長熊吉から500円受領し半分を八作に渡し、伝蔵、犬木等7名と共に脱出して荒川を越え、長留村の芝原で一同に120円ほど渡して別れ、夜陰に消える(115日午前八時、憲兵隊と警察隊が大宮郷に繰り込み、この日、県の役人も到着)
59日。近所の農家で鰹節三本をもらい、荒川を渡って日野村の山奥にある炭焼き小屋に潜む
1011日。東に向かって武甲山に登り、日暮れに下山し、次男の保太郎に出会い自首を勧めるが受け入れられず。岩穴で一緒に一夜を過ごす
13日。せがれを三沢の親戚にやって食事を運ばせ、自分は山に居る
14日。逃亡がいつまで続くか考え、気持ちの整理をつけて自首するつもりとなり、黒谷の知人の家に行き、はじめて入浴し、布団の上に寝る
14日夜の12時頃。密告を受けて、息子と共に捕縛される


【加藤織平】

養蚕農家で金融業も営む。周辺の村で山村生活を営む農民の親分で、自由党名簿には記帳されていない隠れ自由党員。困民党蜂起時の副総理、当時36歳。五カ所の耕地オルグを総括していた。

身内で養蚕農家兼紺屋の高岸善吉、同じく身内の落合寅市や坂本宗作らから困民党活動への助力を乞われ、自ら貸付けていた150円の証書を破ってそれに応えたと言われている。貧民の面倒をよく見る事から"質屋の良助"の異名をとったと言われている。9月初旬頃、困民党幹部に迎えられる。

困民党蜂起時に甲大隊長となる新井周三郎が教員の口を求めて訪ねたのが織平宅であり、群馬県上日野村の自由党員小柏常次郎がやってきたのも、信州から菊池貫平や井出為吉らがやってきたのも彼の家であった。9月のある日、ここ数日は1020人ほどであった農民が100名ほど集まって庭や道にひしめいていた。ここには、風布村の農民たちも参集していた。

武装蜂起後の彼の行動は概略下記のようである。

111日夜、甲大隊と共に椋神社を出発後、農民300名で下吉田役場包囲。警官隊は脱出逃散し困民党は集結地点の椋神社へ行く。以降2日まで田代栄助の項参照
3日朝。誤報に基づき、栄助に無断で甲隊を率いて、いつもの行動をとりながら小鹿野から下吉田に入る
3日夜。長楽寺に本部を置き、大淵から野巻までの広域の農家に分宿
・4日。朝、栄助から皆野への引き上げ命令の急使が来たので隊列を作っていたとき、新井周三郎が襲われ重傷を負った(新井周三郎の項参照)。この事件で手間取り、総理の田代栄助退去後皆野へ到着。居合わせた高岸善吉、井出為吉、荻原勘次郎、吉田某5名で蓑山方面へ脱出
・5日朝。東方の比企郡平村で、織平と善吉と勘次郎は信州出身の自由党員の為吉と別れ、川越の宿、大黒屋で不安な夜を過ごす
・6日。東京に入り、神田小柳町の宿屋で宿泊中三人とも捕縛される

・その後死刑判決が下され執行される

【落合寅市】

下吉田村のハンネッコ(半根っこ)耕地に住んでいたので、ハンネッコ寅市と呼ばれていた。農業兼博徒で当時35歳。明治17年自由党入党。困民党組織者の一人で、蜂起時には乙副大隊長。大宮郷の本隊が崩壊した翌日も粥仁田方面作戦を指揮し、鎮台兵と遭遇したが偶然にも交戦に至らずに撤退。その後、四国の銅山に潜伏していたところ、同志が56名死刑になったと聞き、他の同志と国家に尽くすのが義務と思って東京の大井憲太郎宅を訪ねてきた。そこで明治185月の大阪事件に関連し、軍資金強奪事件に参加して捕縛される。秩父事件に関しては欠席裁判で重懲役10年の刑を課せられていた。服役中は、秩父暴動の首謀ということで、かなり迫害を受けたが良く耐え抜いたと伝えられている。大阪事件についての陳述で「強きを挫き弱きを助けるのが自分の信条だから、大井(健太郎)から朝鮮計画を聞いて嬉しくてすぐに与した」と述べた。

著者は、大阪事件で入獄中に読み書きを習い、既に出獄したときには国権主義の洗礼を受けているので、その後に彼が残した秩父事件に関する遺稿の記述も全面的には信頼できない、と述べている。

明治222月、憲法発布の大赦で出獄した後は救世軍に加わるとともに、「秩父暴動」とされたこの戦いを顕彰する活動を真っ先に始めたと言われている。困民党副総理で親分の加藤織平の墓をカンパで建立したことでも知られ、その台座に彫った「志士」の文字を削れと官憲から命じられても突っぱねたというエピソードが残っている。「秩父事件記念碑」の建立を寅市は願っていたがそれは叶わないまま他界した。彼の死後、四男の九二緒氏がそれを引き継ぎ、昭和40年になって秩父市の羊山公園に「秩父事件追年碑」として建立が実現した、とのことである。

【坂本宗作】

上吉田村在。石間村の親分加藤織平の身内。明治17年自由党入党、同年の自由党大会同行と言われている。上吉田村の困民党組織者の一人で、当時29歳。困民党蜂起時の伝令使、実質ゲリラ隊長。

明治16年の繭共進会で賞状をもらっていることから、熱心な養蚕農家であったと思われる。蜂起が決定すると、「悟山道宗居士」という戒名を白鉢巻きに書き込んでいた。困民党の初期の組織者のなかで、信州に進出し、1110日の困民党解体に立ち会ったのは宗作だけであり、農民の生真面目さがよく覗える人柄であった。困民党が武装蜂起すると決定した1012日の直後、直ちに武器弾薬と軍資金調達が必要だとの栄助や寅吉の判断を忠実に実行し、翌日の1013から14日にかけて、「押し借り」武器強奪を始める。

秩父事件後の126日、日尾の奥、藤倉の山中で捕らえられる。その後死刑判決を受けて執行される。

武装蜂起中の行動はあらかた下記のようなものであった。

111日4時頃。下吉田で薪蔵とともに二件の高利貸しを襲い、一軒から打ち壊しの賞金400円と鉄砲五丁を奪い、もう一軒は打ち壊したらしい
1日夜。甲大隊と共に椋神社を出発。伝蔵の井上耕地では「強欲じじい」と呼ばれ、ピストルを携えて歩くという高利貸しを襲い刀剣83本を奪い放火(生活に直接必要の無い刀剣類は質草として高利貸しの家には沢山あったらしい)。続いて本体と別れて分隊150名を率いて日尾村に侵入し、公証簿焼き捨て、高利貸し襲撃。日尾村には困民党運動が根付かなかったことを宗作は一番知っていた。この時に困民党と交渉した日尾盟社製糸工場社長関口俊平や戸長の対応は合理的で興味深い
2日昼頃。日尾村で人数を増加させ300人ほどで小鹿野に入り、本隊の後を追って大宮郷に向かう
23日。総理の田代栄助、親分の加藤織平、甲隊隊長の新井周三郎と同行
4日朝。周三郎が重傷を負うと、彼は宗作に「甲」と印した指揮旗を渡し、大隊長に任命した
4日夕刻六時頃。参謀長菊池貫平等と皆野本陣を見捨てて、100名ほどで吉田に向かう。途中、新井寅吉の上州勢が加わり、逃走者もあり、人数は150名程となっていた
4日夜十二時頃。上吉田の塚越部落の河原で会議を開き信州進出を決定。大隊長格となる
5日以降は、後述の菊池貫平の項参照

【新井周三郎】

西ノ入村在で地元の教員。蜂起時点で甲大隊長、22歳。政治的批判力を備えた急進的行動派。蜂起よりも10日以前の1020日時点で、高利貸に対する借金返済延期願(高利貸説諭請願など)不可なら高利貸や警察署破壊などの行動に出ることに同意している。

彼自身に借金があったわけではないが、民衆の困窮を傍観できずに困民党に参加したという。反上坑官の権化であり、蜂起時の彼の行動には常に血の臭いがする。事件後、死刑となり執行される。

秩父事件前夜、明治179月の山林集会発起人でもあり、1031日に日野沢地区武装蜂起に40名強を率いて金貸会社襲撃等を行い、111日には困民党本隊が武装蜂起する直前、阿熊で大宮署警官20名あまりを清泉寺から下吉田役場へと敗走させ、農民300名で役場を包囲する。警官隊は脱出逃散し困民党は椋神社へ終結。この時に青木巡査を捕縛連行し配下に加え、もう1人の役人は逃走した。この際も双方に死傷者を出す(本書では名前が出てこないが、この時に殉職した巡査の慰霊碑が椋神社近くにある窪田巡査の慰霊碑らしい?)

武装蜂起以降の周三郎の行動は概略下記のようなものである。
11
1日夜。甲大隊長として椋神社を出発。武器や食料強借しながら行進し上吉田の役場で公証割印簿を焼却、役所まえから山道へ掛かり小鹿野に向かう。
1
3日。阿熊で敗走時に脚気で脱落した警官とそれをかくまった農民を殺害し首を晒した
2
3日、栄助、織平と同行
3
日朝。織平とともに、いつもの行動をとりながら小鹿野から下吉田に入った
3
日昼頃。憲兵隊が矢納村に出張したとの風説に基づき、憲兵隊を挟撃しようと500名を二手に分けて、島崎喜四郎と新井悌次郎に与える
4日朝。大宮郷から脱出して皆野へ本陣を映したから皆野に来るようにという田代栄介の指示によって、隊列を組んで移動しいようとしていたところ、吉田で捕縛した青木巡査が背後から切りつけ重傷を負う。巡査は数人を傷つけ奮闘するも斬殺され、首は下日野沢の根小矢橋脇の岩上に晒された
4
9日。皆野から山通しで自分の西ノ入村へ逃れ、明善寺に身を潜め傷の治療中9日になって村人の密告で捕縛される

【小柏常次郎】

長野県生まれ、群馬県上日野村在の養蚕農家、屋根板職人。明治173月上州自由党入党。困民党蜂起時の小荷駄方、当時42歳。

この人物は、上州(群馬)困民党を秩父事件結合した点に、大きな意味を持っている。信州生まれであるが、慶応三年多胡郡上日野の茂太郎の養子となり、明治10年ダイと結婚した。ダイは「かかあ天下」に恥じぬ気丈な女性で、明治1612月頃自由党に入党したといっていた(発表は173月)。早くから秩父自由党員の宮部襄や村上泰治と親しかった。明治178月頃に高岸善吉や落合寅市から困民党加入を要請されたとき、困民党の運動をするなら、妻子や家財はもちろん、身命も捨てる覚悟でないと目的は達せられないと、相手の決意を確かめた上で協力を誓った。

しかし、常次郎は上州自由党の幹部、新井愧三郎や宮部襄の思想系列に属しておらず(自由党の地方組織は思想統一されていなかった)、秩父困民党の扶桑蜂起に積極的に参加することとなる。蜂起現場でのこの職人は、農民達を切り捨てられなかったのだろうか?

114日に皆野の本陣が壊滅した時、児玉に押しだそうとしていた農民達が「織平等金ヲ懐ニシテ逃去リ、不届モノ故、其家ヲ焼払フ」と道を転じて吉田に向かった、と後に常次郎は証言している。

困民党武装蜂起以前、明治172月から自由党員の組織活動を開始していて、既に近村で3040名の加盟者を獲得していた。この党員は全部困民党蜂起に動員されている。明治178月初旬には秩父に乗り込んで下日野沢村に居住している。

102631日の蜂起決行日時決定会議で、即自蜂起説を唱え栄助と対峙(田代栄助の項参照)

1031日、小前耕地幹部会議後、栄助の寝所に栄助の子分の柴岡熊吉とともに抜刀して押し込み、説得して蜂起了解を得たと法定で証言するも日付に錯誤有り信憑性に欠ける。事実は、栄助が泊まったの場所は人里はなれた小前の神社で、ここの神官、宮川津盛と助とは知己の中である。想像するに、栄助が本気で常次郎の首を切って切羽詰まった農民集団に蜂起延期を説得しようとしたなら、常次郎は総理栄助を殺して主張を実行しようとするのではないか、と栄助が考えてのことかもしれない。この晩の出来事が事件の行方を決定したのかもしれない。

114日の午後六時頃、皆野本陣から、幹部達が本隊を解体して自身達だけで逃走したと考えた坂本宗作、菊池貫平等と幹部詰問のために吉田へ向かったが、常次郎だけ途中で消え失せた。多分新井繁太郎等と同行して信州向かったのだろう(貫平も宗作もこれから屋久峠を越え十石峠も越え信州へ行くのだが)。

1113日に自首して逮捕され、重懲役96月の刑を受けるが、明治23年頃憲法発布の特赦によって釈放。同423月に家族を連れて北海道(今金町御影)に渡り、大正3年に出稼ぎ先の樺太にて72歳で死去した、と言われている。

【菊池貫平】

長野県北相木村出身、養蚕家、代言人(弁護士)、南佐久自由党員、弁と筆の立つ南佐久自由党員ホープ。当時37歳。困民党の現実を知るまでは、租税嘆願は農民闘争に繋がらないから合法的言論戦主張し、国会期限短縮が運動目標であった。困民党蜂起前夜の1028日、石間の加藤織平宅を同郷の井出為吉とともに訪問。

自らの秩父事件の捉え方は「今日を期して全国ことごとく蜂起し、現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」である、と言われている。困民党蜂起に際して「軍律5カ条」を起草し自ら参謀長に就く。

困民党軍律5ヶ条

1条 私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬ニ処ス
 第2条 女色ヲ侵ス者ハ斬
 第3条 酒宴ヲナシタル者ハ斬
 第4条 私ノ遺恨ヲ以テ放火ソノ他乱暴ヲナシタル者ハ斬
 第5条 指揮官ノ命令ニ違反シ私ニ事ヲナシタル者ハ斬

北相木村は272戸の小さな貧困養蚕農家の村で、困民党蜂起事件の被告は159人であった。困民党武装蜂起に積極的に参加した菊池貫平や井出為吉、あるいは菊池恒之助は、同じ南佐久自由党員で北相木住人でもあった。彼らは、著者の言う殿様自由党員達とは際立った違いを見せている。

貫平の行動は、屋久峠越えの115日夜の時点でも、どこへいっても困民党軍は終結でき、自給できるという楽観論に貫かれている。既に国会期限短縮を口にはしなかったが、それはおそらく秩父困民党の農民結集力、高利貸打ち壊し、役場の押印帳焼き捨てに示した行動力を目の当たりに見て、この蜂起の維持のなかに、最高の目的の達成を認めるようになったからであろう。抗戦論にしても、自由党革命ロマンティシズムに裏打ちされ、軍隊との正面衝突を避け、しかも蜂起を持続させるところに活路があると信じているようであった。しかし、1110日の潰走後、おそらく絶望してだろうが、自首しようとする途中に明治1912月、甲府で逮捕される(1968年時点で健在の、貫平の娘の話では一週間後くらいに自首したそうだ)。

11月中に、浦和重罪裁判所で欠席のまま死刑判決となるが、明治22年(1889年)の憲法発布の大赦で免訴放免となる。しかし、逃亡中の何かの事件で無期懲役囚として北海道送りとなる。だが再び、服役中の明治30年に英照皇太后(孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母)逝去で減刑、日露戦争勝利の年(1905年)に出獄、大正3年北相木の実家で永眠、68

菊池貫平の武装蜂起中の行動は以下のようなものである

111日夕刻。数十人を率いて石間村役場に乱入し、公証簿を焼き捨てる。2日は田代栄助の項参照

3日9時頃。飯塚森蔵と共に500名ほどの乙隊を率いて皆野に乱入、県警本部であった角屋に本陣を置き、高利貸し打ち壊し、証文焼き捨て、軍資金武器の押し借り等を行う。午後三時頃には2000名ほどが大野原との間に分散していた
3日午後4時頃。憲兵と警官隊が金崎に差しかかると、渡し場でこれに射撃を加え、明治13年に作られた最新式の村田銃を持つ憲兵隊と抗戦した。といっても音ばかりでかい火縄銃が半数の鉄砲隊ではあったが。憲兵隊が事情(どうも薬莢が西南戦争に使用した古いもので、不発弾が多かったみたいである)より退却したことにより、皆野の北の区域まで憲兵・警察隊の戦線外となる
4日夕刻6時頃。坂本宗作等と皆野本陣を見捨てて、100名ほどで吉田に向かい、新井寅吉の上州勢を加え、途中増減したものの150名程となる
4日夜12時頃。上吉田の塚越部落の河原で会議を開き信州進出を決定。自身は総理、坂本宗作と会津の先生(伊奈野文次郎)が大隊長格、上州組の卯一(遠田宇市?恩田卯一?、高利貸や銀行を潰し「平ラナ世」にする、とオルグしたと伝えられている)、新井寅吉、横田周作が幹部になる
・4日夜。140から150名で屋久峠を越えて青梨村へ。村役場から駆り出された神ガ原の農民は次第に困民党に対する恐怖心も消えてそのまま暴徒に同化する、その数29
6日朝~夜。村の自警団と衝突して捕らわれたり、逆に駆り出されて参加したりして、12時位に十石峠街道へ抜ける最後の部落の白井に到着し宿泊
7日朝方。白井から250300名ほどで十石峠への道を進む。後尾の小荷駄隊に駆り出された山中谷の農民達の多くは、勝手知ったる山道に逃げ込んだ
7日昼。十石峠の茶屋の奥座敷で飲食
8日。総勢340,内鉄砲隊40は9時頃に出発し、途中で打ち壊し隊は役目を果たしながら武州街道を八ヶ岳山麓の小海に向かって進む
8昼頃。武州街道と佐久甲州街道が交る海瀬で、役場に命じた炊き出しで費用を払って食事
8夕方。東馬流の集落にある井出氏の邸に本陣(今も残っている)を置く
8日夜。総勢500600名で、小海の質屋、酒造家、豊里の雑貨商に打ち壊しをかけるとともに、南北約20kmにわたる駆け出し(蜂起参加の呼びかけ)をする
9日早朝。海瀬の天狗岩から馬流(マナガシ)の間1000m程の間で、佐久方面から前夜到着した高崎鎮台兵一中隊100名程と銃撃戦となり、天狗岩付近と対岸からの十字砲火を浴びて本陣壊滅。戦闘時間1020分程、困民党死者13名内9名は無名戦士、警官1名死亡
10日。総勢200名の農民たちは荷駄を後尾に整然と甲州目指して南下。野辺山原高原付近で追尾の憲兵隊に狙撃され、前日の恐怖が蘇った農民達は潰走する。ここに困民党蜂起は終わりを告げる。生き残った彼らは既に冷え込みが厳い紅葉の八ヶ岳山麓において四方に散っていった

【井出為吉】

長野県北相木村の豪農、当時25歳。南佐久自由党員、困民党蜂起時の軍用金集方。

21歳にして村会議員、明治1617年にかけて戸長と学務委員をつとめたと言われている。『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などの膨大な蔵書が発見されたと言われている。悲憤憤慨調漢詩等を創っていたインテリの名望家。困民党の現実を知るまでは国会期限短縮が運動目標。困民党の束の間の支配での大宮郷で、商人から軍用金を借りした際、証文に「革命本部」と書いたと言われている。

明治171028日、石間の加藤織平宅を菊池貫平訪問し困民党に参加することにしたと思われる。112日夜、井出為吉は前戸長で北相木村の初代村長、南佐久自由党員で改進党、菊池貫平一族である木次嘉市郎に、秩父に来るようにと連絡をしたので、自村の8人の同志と共に秩父へ立つ。その姿は袴に帯刀という出で立ちで、風の如く峠から峯へ風の如く舞い上がりまた舞い降りる農民隊の動きに比べて、どこかおかしさと歯がゆさがあった。この八人の青年達が街道を歩む様は炭焼きに見られて、街道沿いの乙母の連合戸長が報告書に記載していた。この8人の内、為吉だけが困民党蜂起に参加することになる。3日か4日に大宮郷で困民党に合流したと思われる。

蜂起の年の1115日、東京の旅人宿で逮捕、軽懲役8年の判決を受けるが、明治22年の憲法発布の恩赦で出獄し、教員や役場吏員をつとめた後、明治38年死去。

困民党に合流後の為吉の行動は、以下のようなものである。

114日。幹部は既に逃亡して解体した皆野の本陣から、加藤織平、高岸善吉、荻原勘次郎、吉田某の5名で蓑山方面へ脱出
5日。比企郡平村で織平等と別れ川越から所沢に出て、途中で吉田某とも別れる
715日。7日に東京に入り芝に住む同郷の菊池藤助宅に二泊した後、十五日旅人宿で捕縛される

【高見沢薫等北相木の殿様自由党員達】

著者いわく、南佐久の殿様自由党員8名の人物像、エピソードをまとめて描いてみると次のようになる。彼らはすべて、戸数270戸ほどの長野県北相木村の住人で、この内、前述の菊池貫平と井出為吉を追って秩父に入ったのは菊池恒之助だけであった。

菊池恒之助は114日に秩父で菊池貫平の隊に入った後行動を共にして、困民党が信州に入ったときには南北相木に連絡をつける役目を果たした。10日に困民党が潰走した後の2~3日後、甲州の若御子署に自首し、罰金15円で済んだ。

高見沢薫と弟の仙松は共に南佐久自由党員で、当時薫は19歳、弟は弁と筆の立つ南佐久自由党員のホープといわれていた。二人とも5日の2時頃、磐戸村で警官に連行され、戸長役場で藤岡署の警部に、父親が万場分署に届けているから、すぐ帰宅せよと説諭され翌日帰宅した。

109日の午前2時、水戸の者、会津の者(相良勝三郎)ら5人が山奥の薫宅に押しかけ、「自由党員なら、是非加勢せよ」と催促した。薫は「自分の言論自由党はおまえらの自由困民党とは違う」といったが、受け入れられず、袴に両刀をたばさんで家を出た。

薫は後に次のように釈明している。海尻(馬流より甲府に近い)に行ったが10日の馬流の敗走を聞いて海尻にある妻の親戚に太刀を預け、山越えに自村に入った。袴に両刀をたばさんで家を出たのは、わけのわからん暴徒から焼くの殺すのといわれ、妻子が心配したからだ。

1011日に、自村の妻の実家に潜んでいたところを逮捕される。恐らく海尻まで行く途中の行動が煽動して暴徒を助けたという罪で比較的重い重禁固16月をうけたのだろうが、早くから北相木自由党の巨魁として警察に注意されていたためだからであろう。

菊池貫平一族である菊池治忠郎は、117日にと偶然出合った貫平の伯父、山口城跡から「おまえは年配なのに、若いもんが出掛けるのと止めなかった」と詰問され、「井出為吉が秩父郡で懇親会があるから出ろと言われた出掛けたが、貴公立ちが訪ねてきたと聞いて、行くのをやめたところだ」と苦しい言い訳をした。

山口城跡は菊池貫平の伯父で、北相木の神官で学務委員、村会議員を務め、やがて村長となる人物だが、先の炭焼きの注進を報告書に書いた戸長のところへ、高見沢薫の父と一緒に出向いて、「せがれども8人が凶器を持って家でしたから、もし当村を通ったら止めてくれ」と依頼している。


【田中千弥】

椋神社の祠司にもなった下吉田の小さな神社の神官で、国学者でもあり、地元の優れた観察者であった。『秩父暴動雑録』を残す。彼が残した秩父事件の原因解釈は下記のようなものである。

①高利貸し業は困民発生の原因とする倫理批判
②自由党の「妄言、困民ノ心ヲ結ビ、貧民党ニ混淆シ」
③遊惰のために借金する賭博者のせい
④警察官吏が農村の窮乏に目を覆い、高利貸説論の請願をはねつけた
事件後、政府は少数の教唆・扇動者と多数の「付和随行」者とを区別して、要するに後者の罪を軽くする方針を出していたが、それとは裏腹な警官の苛酷な取り調べに対して、千弥は激怒している

彼の記述からも武装蜂起の時の様子が覗える。

11111時頃。畠に居たら、戸長役場から非常事態のため巡査衆がが大勢出張し人夫を出せと言ってきたので早く役場に集まるよう急報を受けた

111日午後1時頃。鉄砲、槍、長刀、竹槍を持った100人ほどが白鉢巻き、白だすき、白帽子で吉田を指して押し出していった

111午後。自分の耕地は誰も出ないことを申し合わせ、せがれを裏の山林に隠し、自分は現況を記録をとった

11.1三時頃、45人の連中が「巡査はみな片づけたから鉄砲、太刀、竹槍を持って椋神社へ集まれ、さもないと焼き払い、片付けるぞ」と叫びながら走り去るのを目撃した



おわり
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