2016年5月24日火曜日

『親族の基本構造』(クロード・レヴィ=ストロース)【メモ】

親族の基本構造(クロード・レヴィ=ストロース著)
(福井和美訳、青弓社)

ピエール・ドゥ・ロンサール
親族とは親子から始まる血縁関係にある人々で、配偶者はもともと他人となるのだが、どこまでが親族でどこから他人なのだろう。このとても単純な問いは、動物とは区別される人間社会の成立原理、あるいは自然的社会と文化的社会を区別する原理へと行き着く。
本書は、主として未開社会の観察と観察結果に対する著者独自の解釈法に基づいて、人間の社会を作り上げている原理を解明しようとしている。観察は、著者自身の体験もあるが大部分は他者の厖大な研究論文等であり、独自の解釈法とは、構造主義に基づいたものである。構造主義については、本書においてソシュール言語学との直接的関連性が述べられてはいるが、人類学についてどのように適用されているだろうか。多分それは、多様な未開社会における現象や時には旧約聖書や神話の記述との間に、分析された要素間の因果関係や継時的進化論などでは捉え損なうような、共通する普遍的なもの、構造がある、というようなものであろう。
この構造を直観する部分が著者の天才的なところだと思う。例えば、数多ある社会現象の中からインセスト禁忌を取り出してその本質を抉るところなどは冴えたる部分である。因みにインセスト禁忌は生物学的原理に由来するものではなく(もしそうなら、社会が禁忌を作る必要もなく守られるから)、社会的構造原理に由来する。もう少し深読みすると、著者は、社会は開かれているという本質を持ち、閉鎖された社会は存在できない、と洞察したのかもしれない。
著者は、人間社会を作り上げている原理は「女性の交換」にある、と言う。もう少し説明してみると、婚姻の本質は交換にあり、婚姻の形式は交叉イトコ婚(性の異なる兄弟姉妹の子供達同士の結婚)であって、交換は互酬構造に基づいており、女性は交換対象であって、しかも財で代替できない本質的価値を持ち、完全に記号と化してしまう語とは逆に、記号でありつつ同時に価値でもあり続けるものである、となる。こう言われても、普通はピンと来ないが、数多の未開社会の奇異とも思える実例を知り、その構造が現代にも存在するという事に気付くだけでも面白いと思う。

もう少し詳しいことは、別ブログ「爺~じの哲学系名著読解」に掲載しました。

2016年5月22日日曜日

『論考』(ヴィトゲンシュタイン)【メモ】

論理哲学論考(ヴィトゲンシュタイン)岩波文庫 野矢茂樹訳
(もう少し詳しい内容は別のブログ「爺~じの名著読解」に掲載した)

ハニーブーケ
「およそ語られうることは明晰に語られうる。語りえぬものについては沈黙せねばならない。哲学の諸問題は、われわれの言語の論理に対する誤解から生じている。私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。」と述べ、哲学を棄てて小学校の先生になった。著者が30歳にもならない頃のことである。だが晩年、この『論考』を乗り越えて『探究』を著した。
「およそ語られうることは明晰に語られうる」部分は、一言で言えば、「世界は事実の総体で、真偽を決めることの出来る命題ですべて記述できる」というものである。その記述は、当時の論理学を批判しながら立てた自分の論理学を用いて綿密に語られたものだが、その内容は、論理の構造を含めてコンピュータの世界と酷似している。ユニークなところは、要素命題と呼ばれる独立した基本命題があって、そこからすべての命題は導かれることになっているのだが、その要素命題は、具体例は挙げることは出来ないけどその存在は「要請される」と考えているところ。つまり、人間の世界が対象なのだ。
記述には多くの記号や式が書かれていて難儀するが、論理学に素人の私がポイントをつかみ取るには、記号論理学の教科書ではなくて、数学入門書での集合論と論理を読む方が役に立った(裏技)。因みに要素命題数がn個なら、世界を記述する命題総数は個と計算で限定されている。

本書では、「世界と生とは一つである。私は私の世界である。世界の意義は世界の外になければならない。幸福な世界は不幸な世界とは別物である。梯子をのぼりきった者は梯子を棄てねばならない。」などと、「語りえぬものについては沈黙せねばならない」ところを語ってしまっているが、謎めいた箇条書きで綴られたそれらの文章が、かえって妖しい魅力すら漂わせている。だが、『論考』の魅力は、序で述べられている「哲学の諸問題が言語の論理に対する誤解から生じている」という問題意識に対する、一つの回答として読めることだと思う。