2017年2月12日日曜日

『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(山本義隆)【感想】

著書は本書の「はじめに」において次のように述べている。「むしろ本質的な問題は、政権党(自民党)の有力政治家とエリート官僚のイニシアティブにより、札束の力で地元の反対を押しつぶし地域社会の共同性を破壊してまで、遮二無二原発を推進してきたこと自体にある」。では、遮二無二原発を推進してきたのはなぜだろうか?それには本質的な理由がある。
サマーレディとピース
つまり、第二次世界大戦で敗北し、その直後に東西冷戦構造内において西側陣営に組み込まれた日本国家が、その主体性を将来にわたって見通した時、原子力を外交力に利用しようと考えたからである。核兵器保持の現実性自体が国家の力だったのである。この説明には説得力があるし、現時点までの日本の原子力平和利用についての技術開発の歴史とも整合性がある。
著者は、一刻もはやく原発依存社会から脱却すべきであると考えている。その理由は、次の二点に集約される。一つは自然科学的知見に基づいたもので、ある物質の放射能は今のところ現実的には人が消滅させることが出来ないということであり、もう一つは、人間の経験の本質に基づいたもので、技術というものは失敗を積み重ねながら次第に完成態に近づいていくということである。個々の詳細については、多くの人々もまた述べているのでここでは改めて紹介することもないと思う。
小生は、この本の価値は上記に関することではなく、以下のようなことであると思う。それを一言で言えば、『磁力と重力の発見』の著者による、西欧近代文明史観批判である。西洋近代は、他の地域に先駆けて科学と技術を結合させて力も持つに至った(誰が持つに至ったかと言えば近代国家が持ったのであるが)。その力が近代民主主義国家の構成員に負の力として向けられた場合の究極の一例が原発事故なのだ。なぜ人々一般が、科学技術と一言で括られたそのことに躊躇なく賛同し実践し続けて今日に至ったのか、その思想のいきさつが語られている。

本書を読んでいて、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)の巻末近くに書かれている、ニーチェ的な次ぎの言葉を思い浮かべた。『こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで既に上り詰めた、と自惚れるだろう」と。』。