2016年12月31日土曜日

『日本人はどこから来たのか』 海部陽介


「 」内は本文引用、( )内は私の挿入
【感想】
人類の誕生の地はアフリカで、700万年程前といわれている。初期の猿人、猿人、原人、旧人、新人すべてアフリカで誕生したが、現存している人類は新人すなわちホモ・サピエンスという種だけで、他の種はすべて絶滅した。ホモ・サピエンスは、20万年ほど前に出現してから15万年ほどアフリカ大陸に留まった後、5万ほど前に初めてアフリカ大陸から出てアジア大陸へ渡った。ここまでは、ミトコンドリアDNA分析などに裏付けられて、人類アフリカ起源説としてあらかた認められていることである。
話はここから始まる。日本人の由来に関する諸説はいろいろあったが、以上のような人類アフリカ起源説の流れに沿った説明はあまり聞いたことがなかったと思う。彼らが日本列島に到達するまでの道筋には、自然の障壁が沢山ある。砂漠、高山、熱帯雨林や極寒の気候、そして海。さすがにヒマラヤは越えられず、どうやらその南北にわかれて内陸を東進し、一万年後に東アジアで再会した後、第一波が朝鮮半島から対馬経由で古本州島に38000年ほど前に到着したらしい。もう一つは台湾から与那国島、沖縄諸島のルートで3万年ほど前のことらしい。最後は25000ほど前に極寒の地シベリアから、当時は樺太とともに大陸につながる半島をなしていた北海道に到達した集団があったらしい。
旧石器時代後期に日本列島に到達した三つの集団は、アジア大陸の西の果てで別れてから一万年以上にわたり全く異なる環境を移動して東アジアで再会した。そのときには、彼らの身体は相当異なった形態をもっていただろうし、より北方のシベリアなどで15000年を過ごした人々もそうであったろう。そうなれば彼らの文化も多様で重層的なものであろうことは想像に難くない。
16000年前から始まるとされている縄文文化のルーツは以上のように三つあって一つではなかったのだ。彼らはまだよく分からない、旧石器時代における12万年間の交流を経て、多様な縄文文化の担い手となった。そして、最近は通説として認知されるようになってきた、朝鮮半島からの大量の渡来人によって弥生時代が始まった。
以上のことが本当かどうかは、人類学や考古学の遺跡調査などの実証研究の成果の中から、信頼性の高いデータを選んで根拠にして、他の自然科学分野の知識、例えば最終氷期から完新世にかけての地質学、動植物学、進化論、DNA分析などの生化学や化学分析の知識などを駆使してまとめ上げられている。
本書を読んでいくつかの感想があるが、一つだけあげるなら次のようになる。人種や民族に対する差別意識は、人々が事実に基づいた人類史観を持つことによって無くなっていくものだろう、ということである。現生人類はすべてホモ・サピエンスという一つの人種なのである。差別の根拠は事実にあるのでは無く、人が頭や心で捏造した偏見に基づくのである。
ついでにもう一つあげると、人間は合理性の下でチャレンジしたくなるという本性を備えた生きものだった、ということである。だから、海の向こうや極寒の地へと渡っていったのに違いない。逆に史上何種類も出現した人類の中で、ホモ・サピエンスがそのような本性を備えた種だったから今日あるのかもしれない。資本主義の原点はまさにここにある。ホモ・サピエンスはそのチャレンジ精神に付随して現象してくる猜疑と競争の果てに滅亡するか、それとも信頼と共存の世界に向かって再びチャレンジするのだろうか。

【要約】(細部が重要なので長くなりすぎでしまいましたが)
はじめに:私たちはどこから来たのか?
「遺跡調査は日本の国内で閉じているかぎり本当のことは分からない。本書は、海外の遺跡との比較とDNAの研究という重層的なこの10年の研究で浮かび上がってきた、人類がこの日本に到達するまでの新しい仮説である。」
n  祖先たちは海を越えてきた。
Ø  一つのルートは台湾から先ず与那国島に渡るものである。台湾から与那国島は見えず、海峡には黒潮が流れている。つまりここは「挑戦の海」であった。
Ø  アフリカで誕生し、過去5万年の間に地球全体に広がったきた人類が、そんな昔にどうやって、しかもわざわざ危険な海峡の横断を決断したのだろうか。
Ø  その問いに答えるために出来るだけのことをしたい。そのためには実際に人類初源期の航海をやってみたい。
n  祖先たちの大移動の新たなシナリオ
Ø  本書の目的は、祖先たちのアフリカから日本列島へ至る大移動の歴史を描き出すことだが、さらにその移住史には考えるべき要素が満ちていることを伝えたい。
Ø  これまでの日本人起源論は、日本列島とその周辺の中で語られていた。しかし、現代では、ホモ・サピエンスの「アフリカ起源説」など、人類進化の研究が進んだので地球規模で語ることが出来るようになってきた。
Ø  本書で述べるシナリオは、私自身の過去10年間の研究に基づいてまとめた新しい学説である。研究に際して特に重視したのは「遺跡証拠の厳密な解釈」[1]である。
Ø  欧米研究者を中心にほとんど無批判に受け入れられている「海岸移住説」には疑問がある。これについては後で検証する。
Ø  著者の説は、アフリカから出てきたホモ・サピエンスがユーラシア大陸において拡散した状況は、最初から同時・爆発的なものである、というものである。
²  西アジアからヒマラヤの南と北へ分かれて前進を続けたホモ・サピエンスたち[2]は、東アジアで再会[3]する。
²  日本列島へはここから対馬、沖縄、北海道を通る三つの異なるルートを辿って到達した。
²  この説が意味するところに注目したい。それは「移住と新しい土地への定着の過程で、いくつものチャレンジとそれを乗り超えるための発明・発展があったということだ。」
l  「結果として、日本列島に独特の「後期旧石器文化」が生まれた。縄文時代より前の日本にこれだけ躍動的な祖先たちの活動があったことを知っている読者は、ほとんどいないだろう。」
l  「私自身が最近になってようやく理解し、驚いたこれらの事実を、これから綴っていきたい。」
第一章       海岸沿いに広がったのか?
「私が強く違和感を抱いてきたのが、欧米研究者の間でいつの間にか定説となっている「海岸移住説」だった。アフリカを出た人類は、中東から海岸沿いに広がっていったというものだが、はたしてそれは本当だろうか?」
n  怪しい定説[4]「海岸移住説」
Ø  ここ10年ほどの間に、熱を帯びてきている現生人類のアジア拡散についての議論は、「海岸移住説」が前提されている。
Ø  「海岸移住説」の原形は、オーストラリアへホモ・サピエンスが到達したのは10万年以上前であるとする当時の見解[5]を踏まえて、1993年にジョナサン・キングドンが書いた本にあるようだ。
Ø  「海岸移住説」のシナリオは以下のようなものである。
²  アフリカで進歩したホモ・サピエンスは、それまでは食べていなかった貝や魚類などの海産物を食べるようになった。(これは多分)今世紀に入ってから、南アフリカの洞窟遺跡で16万年前にまで溯る海産物利用の証拠が相次いで発表されて、このことが脚光を浴びている(ことが影響しているだろう)。
²  季節や気候変動で採取できる量が変動することが比較的少ない海産物を食べることが出来るようになった彼らは、内陸で狩猟採取生活をしていた古代型先住民と遭遇しにくいこともあって、アジアの海岸沿いを移動してオーストラリアに到達した。これは第一波の海岸移住といえる。
²  第二波の海岸移住は5万年前頃にシナイ半島経由で起こり、アジア大陸部の集団形成に深く関わったとする。
Ø  「海岸移住説」には、誰でも認める一つの疑問がある。それは、インド洋沿岸域に、そのような海岸移住を裏付ける遺跡がないことである。
²  これに対する反論は、当時は寒い氷期で海面は低かったから、遺跡は今では海面下にあって見つからないというものだ(今の知見ではこれは反論にならない)
Ø  著者が一番の疑問として感じ取ったところは、「海岸移住説」から読み取ることが出来るホモ・サピエンスの生き様である。
²  「海岸移住説」によれば彼らがアジアの海岸を移住しはじめてオーストラリアに辿り着く時期が仮に7万年前[6]としても、陸域に彼らが明確な遺跡を残すようになるのは5万年前以降のことなので、2万年も海岸にへばりついて暮らしていたことになる(が、そんなことはあり得ないと)
²  「海岸移住説」からは海産物を食べることが出来るようになったから食糧採取が容易となり、海岸に固着した生き方を続けようとするホモ・サピエンス、という像が浮かび上がってくる[7]
Ø  世界各地で進んでいる旧石器時代の遺跡調査の結果の中から年代測定や解釈がしっかりしたものを抽出し、遺跡の場所と年代入りの一枚の地図を作成した。
²  この地図は「海岸移住説」を根底から覆すものであった。
²  それどころか「これまでまったく見えていなかった祖先たちの移動の道筋が、浮かび上がってきたのだ。」


n  一枚の地図の上に新たなシナリオが浮かんできた
Ø  以下のような経緯で新しいアジアの旧石器時代の遺跡地図を作ることを思い立つ
       1995年に人類学の専門職として主としてジャワ原人の進化史調査に従事
       2003年頃から現生人類の起源を視野に入れた研究を始める
       2004年秋頃から国内外の旧石器考古学者・人類学者と交流し、遺跡・研究室を訪れて情報を収集する
       2011年に科博で国際シンポジウム開催、専門家と討議
Ø  ホモ・サピエンスに関する旧石器時代の遺跡の内、「信頼できる/有用な」[8]だけを吟味して記載した。吟味・作成方法は下記
       初期のホモ・サピエンスが残したと確実に言えそうな遺跡をピックアップして、信頼できる年代順と共に地図に書き込む
       ホモ・サピエンスと判定されている人骨化石がある遺跡については
²  先ずその判定の適切性を吟味する
²  次に公表された年代値が化石の年代として信用できるかどうか検討する
²  この作業過程で、12万~7万年前頃とされる中国南部の4つの洞窟遺跡(柳江、智人洞、黄龍洞、阹那洞)とジャワ島のプヌン遺跡が除外された
       人骨化石はないが、石器がある遺跡については
²  インド(ジュワラプーラム)とマレーシア(コタタンパン)は7万4千年前頃の現生人類が作成したとされる石器が見つかっているが、この主張は考古学者の間で広く受け入れられているとは言えず、除外した
Ø  地図は「海岸移住説」を支持するものではないだけではなく、別の意外なことを語っていた。本書には記載されているその地図(図1-2)には、日本列島を含めてユーラシア大陸の遺跡が23カ所、その年代と共に記入されている。
n  祖先たちは一度にユーラシア大陸に広がった
Ø  (図1-2)を見れば、遺跡の年代はユーラシア全域にわたって4万8千年~4万5千年年前に収まっていることが分かる。つまり、その時期に一度にホモ・サピエンスはユーラシア大陸各地に拡散したと考えられる。
Ø  このような爆発的イベントが何故起こったかは分からない(直接の原因は分からない)。「しかし、究極の要因は、ホモ・サピエンスという人類の豊かな創造性であり、そして創造性に長けているがゆえの自信から起こるチェレンジ精神だったのではないかと、私は考えている。」と著者は述べている。
n  ヒマラヤ南北を進む2つのルートが見えてきた
Ø  ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクラマカン砂漠は通過するのは難しいと判断した
Ø  遺跡は4つのブロックに分かれるように見える。
²  南ブロック。南アジア、東南アジア、オーストリアに至る遺跡群。これらの年代は4万8500年~45000年前という狭い範囲に収まっている。
²  北ブロック。ヒマラヤの北側、西シベリアからバイカル湖付近に至る3000kmに及ぶ範囲にある、46500年~44500年前の年代を示す遺跡。
²  日本を含む東アジアのブロック。4万~38000年前頃の遺跡が一塊になっており、南北ブロックとの年代差から考えて、西アジアで一旦南北に分かれた人々が再会した可能性がある。そうすると、日本列島にやってきた人々は、南ブロック系か北ブロック系か、それとも南北ブロックの人々が再会した後の人々か?
²  北極海沿岸に33000年前の遺跡(ヤナRHS)がある。ここは2004年に『サイエンス』誌に報告され衝撃を与えた遺跡で、その後の年代測定データによりその信憑性がより強固となっている。
第二章 私たち以前の人類について
「かって私たちホモ・サピエンス以外にもいくつもの種類の人類がいた。北京原人やジャワ原人等の原人、より人間に近いネアンデルタール人らの旧人。これら滅びてしまった人類のことを先ず、整理しておく必要がある。」
n  アジアには「原人」「旧人」という先輩がいた
Ø  人類はアフリカ大陸で誕生してから700万年の歴史を持つが、その進化は大きく五つの段階に分けて理解することが出来る。
       初期の猿人:700440万年前のアフリカにいた半樹上・半地上性の猿人
       猿人:地上での活動を強めた猿人で初歩的な石器を使っていた。この段階までの500万年間、人類はアフリカにしかいなかった
       原人:多分東アフリカにいた猿人集団から300200万年前に進化したグループ。「人間らしい」頭骨形態、体格も人間らしさを増していた。人類が道具に依存するようになるのは原人から。185万年前頃に初めてアジアの土を踏み、やがて中国やインドネシアにまで広がった。北京原人やジャワ原人は彼らの子孫で学名をホモ・エレクトスと呼ばれるが、それ以外にも新しくインドネシアのフローレンス島(フローレンス原人=ホモ・フロレシエンシス)や台湾(澎湖人)が見つかっている
       旧人:「人間らしい」頭骨形態を更に進化させたが、現生人類に比べると原始的な特徴が残っているグループ。彼らの故郷の詳細は不明だがどうやらアフリカらしい。いくつかの集団・種があり、一番著名なのはヨーロッパのネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)。アフリカやインドや中国でも人骨化石が発見されているがまだ命名されていない
       新人:現生人類つまり学名ホモ・サピエンスと呼ばれるグループで、縄文人やクロマニョン人、現代人も含まれる。「現生人類」と呼ぶのは、現代人は全てホモ・サピエンスという一つの種に含められていることを含意している
Ø  アジアについてまとめてみると次のような状況が見えてくる。185万年前以降に原人が広がり、ついで30万年前頃(?)から旧人が出現したようだが、どの時期にもそのどれかのグループが全域を支配することはなかった。そこに54万年前にアフリカから「現生人類」がやってきた
n  なぜジャワ原人や北京原人が我々の祖先ではないのか?
Ø  現生人類の発生については「多地域進化説」ではなく「アフリカ起源説」の説明の方が正しいことが、1980年代末から始まった論争の結果、結論づけられている。つまり、縄文人もクロマニヨン人も現生人類も全てアフリカで旧人から進化した新人であるホモ・サピエンスの子孫であり、生物学的に一つの種に分類されるのであって、ジャワ原人や北京原人やネアンデルタール人の子孫ではない。その根拠は以下のように、遺伝学・化石形態学・考古学によって支持されている。
²  遺伝学的証拠:世界中の現代人のDNAを比較すると、その共通祖先は20万年前頃のアフリカに存在したホモ・サピエンスに辿り着く
²  化石形態学的証拠:現代人と同様な形をした頭骨化石(ホモ・サピエンスの頭骨化石)が、アフリカでは20万~15万年前の地層から見つかっているが、ヨーロッパやアジアでは5万年前より後の地層でしか見つからない
²  考古学的証拠:「現代人的行動」[9]はアフリカでは10万~7万年前の遺跡に明確に現れているが、アジアやヨーロッパでそれが顕在化するの5万年前より後のことである
Ø  別の視点からも「多地域進化説」より「アフリカ起源説」の方が有利である。「多地域進化説」では、多地域にいた原人や旧人が絶滅しないで、それぞれの地域で現生人類に進化したとすると、彼らが異なる経緯を辿って、ホモ・サピエンスという単一の種になったことの説明が困難であるのにたいして、「アフリカ起源説」ではそのような困難は無い
n  ネアンデルタール人との混血
Ø  2010年にドイツのマックスプランク研究所は、化石骨からネアンデルタール人のDNAを復元することに成功した。これを現代人のDNAと比較したところ、現代人がわずかではあるがネアンデルタール人の遺伝子を持っていることが判明した
Ø  最近では他の古代型人類との混血も研究されている
n  本書の舞台「旧石器時代」とは
Ø  (最終氷期が終わって気温が上昇気候も安定し始めた)12000年前頃、人々は食糧を主体的に生産する術を身につけるようになり、その生活様式が大きく変えた「新石器時代」が始まる
Ø  それまでの人類史の時代は、330万年前から始まるとされている「旧石器時代」と一括して呼ばれているが、5万年前、30万年前と二つの区切りを入れて、前期、中期、後期に分けている。前期は猿人と原人と旧人が、中期は原人と旧人と新人が混在しており、後期には殆ど新人だけとなって現在に至っている
Ø  極めて注目すべきは、人々の生活様式が大きく変化した「後期旧石器時代」と「新石器時代」への移行過程である[10](多分数千年程度)。この間に人類は新たな種に進化していないにもかかわらず、その生活様式は著しく変化している
n  ホモ・サピエンスは旧人より創造的だった
Ø  後期旧石器文化の本質は際立った創造性にある
²  ヨーロッパにおいて4500043000年前にこの文化を生み出したのは、ホモ・サピエンスに分類されるクロマニヨン人、それ以前の中期旧石器文明を担ったいたのは旧人に分類されるネアンデルタール人
²  クロマニョン人が担った後期旧石器文化[11]には、専門家が「現代人的行動」と呼ぶホモ・サピエンスならではの行動要素が満載されている。
l  道具:多様で繊細な石器、石以外の例えば骨や角を使った道具の製作。例えば骨製の「縫い針」、角製の「銛」
l  美術・芸術:装身具(ビーズやペンダント)、楽器、洞窟壁画
l  埋葬:墓の副葬品(ネアンデルタール人も埋葬はしたが副葬品はない)
第三章 ヒマラヤ南ルート
「世界各地の遺跡年代をマッピングすると、ホモ・サピエンスは48000年前、ヒマラヤ山脈を南北に隔てて、別れて拡散していったことが分かる。インドから東南アジアへ進んだ「南ルート」をたどった者たちを見る。」
n  祖先たちの前に広がった熱帯雨林
Ø  人類は400万年前以降、アフリカでサバンナを中心に進化してきた。当時のヒマラヤ南ルートは総じて緑多き環境であったが、なかでも熱帯雨林はおよそ異質な生態系をもった環境であった
Ø  当時の南ルートの気候と陸域についての概要
²  氷期の最中で気温が低かったため、極地で氷床は発達して海面が低下し(平均13080メートル)陸域が少し拡大していた
²  インド洋沿岸部は10100キロメートル沖にあった。スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島はマレー半島と繋がりスンダランドと呼ばれる陸海を形成していた
n  南ルート上には原人と旧人がいた
Ø  石器から、南アジアに百数十万年前から原人がいたのは確かである(人骨化石はない)
Ø  南アジアにホモ・サピエンスが現れた時代にそこにいたのは旧人だろう。1982年にインド中央部のナルマダ川で発見された頭骨化石(ナルマダ人)がそれを物語っている。そのほか、南アジアで旧人が製作した多数の石器も出ている
Ø  東南アジアの大陸部では原人や旧人の化石骨は未発見である。しかし、当時そこと繋がって陸域を形成していたスンダランドと呼ばれる地域からは大量の原人(ジャワ原人)の頭骨や歯の化石が発見されている
Ø  ジャワ島には時代が下っても旧人が現れた痕跡がない[12]。ここには原人が120万年前までには現れて、数万年前に姿を消すまで独自の変化を遂げたらしい[13]。例えば、ジャワ島の東にあるフローレス島には身長が1メートルほどに矮小化された原人がいた[14]
n  化石からホモ・サピエンスの出現時期を探る
Ø  出現時期のもっとも直接的な証拠は、化石人骨から読み取れる頭骨の形態である
Ø  東南アジアへは48000年~47000年前、オーストラリアへは48000年前頃に出現したと推定される。人骨遺跡についての事例紹介は下記
²  2011年に再調査結果が発表されたスリランカのバタドンバレナ岩陰遺跡
²  1958年に発見され2000年から再調査されたボルネオのニア大洞窟遺跡
²  2012年と2015年に報告されたラオスのタンバリン遺跡
Ø  先住者の古代型人類は、おそらくホモ・サピエンスと出合ってから間もなく姿を消したようだ(南~東アジアの46000年~1万年前の人骨化石には原人や旧人は含まれていない)。ジャワ原人は、若干ながらホモ・サピエンスと混血した可能もありそうだ[15]
n  彼らはアポリジニに似ていた?
Ø  南ルートを移動していったホモ・サピエンスの(化石頭骨から復元された)風貌はアボリジニと呼ばれているオーストラリアの原住民と似ている
Ø  アボリジニと、ニューギニア島を中心とするメラネシアの人々は、外見が似ているので、人類学では「オーストラロ・メラネシアン」と総称される[16]
Ø  現在のタイから西インドネシアの地域は南ルート上にあるのだが、現在そこに暮らしている人々とオーストラロ・メラネシアン人々とは、顔つきも体型も肌の色も随分異なっている
Ø  以上の事実は、太古の南ルートの存在を想像することを妨げる。しかし真相は、48000年前に起こった最初の大移動の痕跡は、後の移住によってかき消され、現在の東南アジアにはほとんど残っていないようだ。そのことは、札幌医科大学の松村博文による最近の一連の研究によって裏付けることが出来る(下記)
²  忘れられていた学説を復活して、意味付けた。約37000年前の、ジャワ島のワジャク遺跡とボルネオ島のニア大洞窟遺跡の人骨化石は、オーストラロ・メラネシアン的特徴がある。
²  モキュー(タイ)、ペラ(マレーシア)、ハンチョー(ベトナム)などの、26000年~1万年前の人骨形態が、現代の東南アジア人よりもオーストラロ・メラネシアンと似ている。
²  1万~5000年前頃の人骨調査によって、オーストラロ・メラネシアン的特徴がある人々が、その当時の東南アジア大陸部の広い範囲に分布していた。
²  ところが、新石器時代になると状況が一変してくる。中国起源の稲作農耕文化が東南アジアへと南下すると共に移住してきた集団によって、先住の人々が次第に押しやられたか吸収されて、現在の状況に至ったらしい[17]
²  著者自身も、ベトナムなどで観察した5000年前頃の大量の人骨の中には、オーストラロ・メラネシアン的特徴を示すものが多くあることを確認している
n  化石なしでホモ・サピエンスの痕跡を見分ける
Ø  ホモ・サピエンスらしい「現代人的行動」の痕跡がある遺跡も、彼らの遺跡である可能性が高い。以下に装飾、細石器、骨角器について説明する
²  貝殻に穴を空けたビーズ。このタイプは人類最古のアクセサリー。南や北のアフリカ[18]、イスラエル[19]の遺跡で見つかっている。
²  ダチョウの卵の殻を加工して作るビーズはアフリカで45000年前くらいから作られている(今でも作られている)
²  ダチョウの卵殻や赤色顔料塊などに線刻した装飾品が、南アフリカの遺跡[20]11万年前以降の地層から出土
²  細石器は、基本的に単独で使用されるのではなくて、角や骨や木などで作った柄に溝を刻み込み、そこにはめ込んで使ったと考えられている。このような、異なる素材を組み合わせた道具(複合型の道具)使用は行動の飛躍である
²  南アフリカ[21]では71000年前頃の細石器が報告されている
²  ヨーロッパでは、ネアンデルタール人は細石器を使用していなかったがクロマニヨン人は積極的に使用していた
²  骨や角ならではの特性(弾性、加工性など石材にはない特性)を生かしての道具、骨角器を作り始めたのはホモ・サピエンスであった[22]
²  南アフリカでは、突き刺しや穴開け具としての骨器が10万年前頃から出現する。
n  現代人的行動の痕跡から、彼らの足取りをたどる
Ø  スリランカの遺跡から、ホモ・サピエンスの現代人的行動の痕跡が覗える
²  貝のビーズ、細石器、骨角器:ホモ・サピエンス化石が見つかっているファヒエンレナ(37000万年前)とバタドンバレナ(34500万年前)の遺跡
²  死者に対する儀礼の可能性がある痕跡:赤い顔料が残る人骨や火葬の可能性のある人骨が見つかっている
Ø  スリランカの遺跡から、ホモ・サピエンスは、34500年ほど前にそこにやってきた当初から、チャレンジングな熱帯雨林の環境に適用していたらしい(ホモ・サピエンスの環境適応性が高い証拠ということになる)。
²  彼らは、現代でも熱帯林で狩猟生活をしている人々がやっているように[23]、森林環境で生活を営み、樹上でしかも夜行性の哺乳類を補足する高度の道具を使用して狩りをして、森林環境に適応していた可能性が大きい
²  上記のバタドンバレナは34500万年前~数千年前の間、樹上生活をするサルが多く生存していた[24]
²  セイロン島に住んでいた人々は、2万年前まで森林環境で食物を得ていたことが証明されている[25]
Ø  インドの遺跡からも、現代人的行動の痕跡が見つかっている
²  線刻模様のあるダチョウの卵殻破片:39000年前のチャンドラサールと3万年ほど前のパトネ
²  ダチョウの卵殻ビーズ:2万年程前の地層(ジュワラプーラム)
²  細石刃:細石器の一種で注目を集めている。ジュワラプーラムでは3万年4000年前から出現するらしいが、メリケル遺跡では45000年前[26]まで溯るらしい。その後インドでは細石刃の使用は1万年前頃まで連綿と続く。
²  石刃:バキスタン北部のリワール55という遺跡では、現代人的行動に関連する可能性がある石刃という石器が存在するらしい
n  東南アジアにはなぜ「雑」な石器しかないのか
Ø  東南アジアには、細石器などの現代人的行動の証拠となる石器が出土しない。出てくるのは旧人どころか原人並の石器であるのは謎である
Ø  石器だけではなく古いアクセサリーなど、全般的に、遺跡に現生人類らしさがうかがえないのも謎である
Ø  しかし、次に紹介するニア大洞窟の再調査は、私たちが東南アジアの遺跡を調べる姿勢を変えねばならないことを教えるものであった
n  巧みな狩猟採集、ニア大洞窟に進んだ行動の証拠があった
(ニア大洞窟の写真:手前の遊歩道に観光に来た人が二人写っている)

Ø  前出のニア大洞窟遺跡の再調査によって、48000年前~数千年前までにいたる多彩な遺跡が確認される。石器だけでなく遺跡そのものを緻密に分析しすると、ここで生活していた人々のしたたかな活動の様子が見えてきた(つまり。ホモ・サピエンスらしさを示唆するものは、遺物として残る材料で作られたアクセサリーや骨角器そして単純に石器形状だけではないことが見えてきた)
²  3000年前ほど(新石器時代)の墓が170個ほど発見された
²  付近の別の洞窟から、新石器時代の舟型棺による墓地と紅い舟の壁画
²  48000年~35000年前の異なる地層から出土した多彩な動物の骨(イノシシ、淡水産の貝、魚類、サル)
²  イノシシの骨には個体年齢に偏りがない罠の使用を示唆
²  周囲の火事の痕跡狩場の見通し確保、新芽に集まる動物の捕獲をしていた可能性もある
²  残存デンプンや植物珪酸体分析からヤシ、ヤム、果物、ナッツ等
²  ヤムの一部には有毒な種がある灰汁抜き技術を持っていた可能性もある。39000年~21000年前の地層から灰とナッツの殻が混じる複数の穴
²  前出のスリランカの遺跡と同様に、骨器が使われていた
²  石器は単純な作り肉などを切る以外の使い方
²  石器は木などの有機物の加工に使用した可能性刃に見られる摩耗のパターンから植物素材で何かの道具を作っていたと推測
²  アクセサリー発見なしアクセサリーは貝やダチョウの卵だけではない。現代にもある鳥の羽のアクセサリーがあっても残らない
²  花粉分析による植生の検討過去5万年間に熱帯雨林の拡大と縮小を繰り返していたことが判明
n  東南アジアから東アジアへの進んだのか?
Ø  東南アジアへ辿り着いた集団は、そこから東アジアの広範な地域へと進んでいった可能性は高い
²  「ホモ・サピエンスらしさの見えない」東南アジアの石器文化が中国南部[27]から北部の華北平原[28]に見られる
²  洗練された石器技術で特徴付けられるアジアの北の文化とは異質である(次節に詳述)
Ø  そして、これらの文化の担い手がホモ・サピエンスでありうることは、ニア大洞窟遺跡の再調査結果からも想定できる
第4章 ヒマラヤ北ルート
「ヒマラヤの北ルートへ回った集団は予想外に早く南シベリアに進み、北極圏に至った者までいた。更にモンゴルを経て、4万年前頃には中国、朝鮮半島など東アジアに到着したらしいことが、石器の特徴から見えてくる。」
n  極寒のシベリアの遺跡を訪問する
2011年初夏、著者はロシアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟[29]を訪問する機会を得た。同時に当地域で最古のホモ・サピエンス遺跡といわれている、カラ・ボム遺跡を訪問した。
Ø  カラ・ボム遺跡では人骨は発見されていないが、後期旧石器時代の地層の最下部46千年前という驚くべき結果が得られている(炭素のサンプルの同位体分析)。
Ø  中期旧石器時代の地層も確認されているから、ここでは古代型人類(ネアンデルタール人だろう)からホモ・サピエンスへの交替が起こったのだろう
n  祖先は予想外に古くからシベリアに到達していた
アルタイ山脈から東へ1200km程の処にあるバイカル湖の東側にあるトランスバイカルと呼ばれている地域で報告されている19カ所の遺跡の中から、信頼性の高いデ-タを抽出すると、そこでは既に48000年~4万年前に後期旧石器文化が始まっていた[30]。しかし、人骨化石は発見されていない。
Ø  別の7つの遺跡で、後期旧石器文化が4万~35000年前には始まっていたことも確認されている
Ø  2014年の秋に、『ネイチャー』誌から、アルタイ山脈から西北へ1200kmほどのウスチイシムという場所で発見された人の大腿骨の化石の年代が45000年前で、DNA分析からホモ・サピエンスのものであることも判明した[31]
n  厳しい寒さにどうやって適応したのか
当時のシベリアは間氷期の現在にもまして厳しい気候であった。シベリア南部にはネアンデルタール人が先住していたことは判明しているので、ホモ・サピエンスにとっても寒さへの適用は難しくなかったように見えるがそうではなかった。南シベリアに到達したホモ・サピエンスは寒さに適応した体型に進化してはいなかった。彼らは技術と文化で寒さを克服したと考えられる。
Ø  ネアンデルタール人は50万年もの期間にわたって寒いヨーロッパで進化したと考えられている(身体の表面積/体積が小さい。胴長で腰幅は広く、腕と脚は比較的短く、関節が大きい。これらは現代人にも当てはまる法則)
Ø  アフリカを出たばかりのホモ・サピエンスはこんな体格ではなかったはずだが、シベリアではそれを確認できるほど保存状態の良い人骨化石がないから直接証拠はない
Ø  人骨化石が豊富なヨーロッパの証拠を見ると
²  現代アフリカ人とヨーロッパ人を比較すると、前者は脚長で後者は胴長
²  同じクロマニヨン人でも、後期旧石器時代の後半期では胴長で3万年前頃の初期では脚長
Ø  現代の東アジア人やアメリカ先住民たちは、南シベリアに到達したホモ・サピエンスの子孫となった可能性があると推定される。しかし、ネアンデルタール人やイヌイットのような極端な寒冷型をしていない
n  ネアンデルタール人にはなかった高度な文化
トランスバイカルとアルタイを中心に、シベリアの中期旧石器文化(ネアンデルタール人)と後期旧石器文化(ホモ・サピエンス)の違いを見てみよう
Ø  その違いはヨーロッパで知られているクロマニヨン人とネアンデルタール人の文化の違いによく似ている
Ø  石器の作り方に違いがある。後期旧石器文化の石器は「石刃」という石の剥片を用意して、そこから多様な道具を作る(中期旧石器文化にはない)。
²  石刃は両刃の細長い石器
²  一つの石から石刃を連続的にいくつもはぎ取る方法を「石刃技法」という
Ø  装飾品の有無に違いがある。ネアンデルタール人が装飾品を作っていた確実な証拠はない。後期旧石器文化の地層からは、そのようなものが多数発見されている
Ø  遺跡の場所やあり方にも違いがある。ネアンデルタール人は洞窟内の空間を「どこで何をする」と計画的に利用したとは思えない。ホモ・サピエンスはそうではなく、計画を実行する構造物を作る技術も持っていた
n  北極圏への到達
ロシアの考古学者ウラジミール・ピトゥルコは2004年に、ヤナ河が北極海と出合う河口からそう遠くない場所の遺跡を報告した(ヤナRHS遺跡。北緯70度の北極圏で永久凍土地域)。年代はなんと33000年前。
Ø  骨や象牙などの保存は素晴らしく、炉跡も多数あった
Ø  複数地点が発掘されているが、その一つから7000点以上の石器、1500点以上骨角器、おびただしい数の動物の骨が発掘された
²  骨はバイソン、トナカイ、ウサギ、ウマが多く、マンモスとオオカミも4%程含まれている
²  象牙製の穂先が突き刺さった状態で見つかった骨もあった
Ø  骨・角・象牙で作られた道具が発掘された
²  狩猟具としての槍先
²  生活用具としての錐
²  糸を通す小さな穴が開けられた縫い針が26
²  縫い針を収納するのに使ったと思われる骨のケース
Ø  アクセサリー類も発掘された
²  動物の歯、象牙、石製のビーズは、2011年までに6000点以上見つかった
²  ペンダントや髪飾りのように使われた可能性がある小さな象牙製品、角製の動物像、紅い顔料
Ø  極寒期であった26000年~2万年前にホモ・サピエンスの遺跡が一時的になくなったか否かは決着していないが、15000年前以降に、更なるシベリア拡散、そしてその東にあるアラスカを経由したアメリカ大陸への進出が始まった
n  モンゴルから東への旅を体験
目指す調査地はハブツガイトという場所で、首都ウランバートルから車で東に15時間、2006年に偶然古そうな人類の頭骨化石が見つかったサルヒットというところの近く。
そこは道なき大草原、河川は人工物の干渉を一切受けに流れ、多様な動物たちが生息している極めて豊かな資源の大地である。
n  北ルートの文化は朝鮮半島まで及んだ?
北ルートの文化には南シベリアと同様にホモ・サピエンスの文化的要素があった。しかし、南ルートの文化とは違っていた。
Ø  モンゴルの後期旧石器文化の開始時期は定かではないが、少なくとも41000年前、もしかすると45000年前まで溯る可能性がある
Ø  中国の寧夏回族自治区にある水洞溝では、古い石刃技法が見られる遺跡がある。人骨は未発見だが38000年前頃の可能性がある。
Ø  石刃技法は朝鮮半島にも出現するが、そこでの開始年代まだ不明である。
Ø  アジアの北と南にはかなり異質な文化圏があって、そのことはヒマラヤの北ルートと南ルートの拡散によって説明できそうである。
²  アルタイの技法がモンゴルを経由して水洞溝に伝わったことは可能性が高い
²  中国南部から東南アジアに欠けての南方領域には石刃技法は発達していなかった
n  北東アジア人の人骨化石が語ること
この地域で見つかっている人骨化石は三つあるので、それらをまとめて下記する。
Ø  もっとも古いのは、2001年に中国北部の田園洞(周口店第27地点)で発見された部分的な成人1体の化石で、約39000年前のホモ・サピエンスと判明している
²  人骨化石しか発見されていない
²  化学分析から魚を沢山食べていたらしいことが判明している
²  2013年にはDNA分析から、ミトコンドリアDNA[32]のタイプがアジア人の祖先型であることが判明した
Ø  次に注目すべきなのは、同じ周口店遺跡群の中にある山頂洞から1930年代に発掘された三つの頭蓋を含む人骨群である。
²  これらの人骨群は有名な北京原人の化石とともに、残念ながら日中戦争の混乱で行方不明である
²  山頂洞はビーズなどの副葬品を伴う墓であったが、年代は3400012000年前まで諸説ある。
²  現代の東北アジア人特有の、凹凸のない平坦な顔という、(胴長短足と同じく)極端な寒さに対する適応であると考えられている形態的特徴がみられない。このことは、北ルートを辿ったホモ・サピエンスたちが、ネアンデルタール人のような極端な寒冷地型の身体を進化させていなかったという説と整合する。
Ø  先述のモンゴルのサルヒットで偶然見つけられたホモ・サピエンスの前頭骨は、2万年前頃だと伝えられているが、詳しい研究はなされていない。一見したところ山頂洞人に通じる特徴があり気になる化石である。
5章 日本への3つの進出ルート
「日本では38000年前に、突如人類遺跡が爆発的に現れる。それ以前の遺跡には確証がない。それまでいわば無人の野だった日本へ、対馬、沖縄、北海道の3つのルートから別々に、はじめて祖先が足を踏み入れた。」
日本には世界有数の充実した旧石器遺跡データがある。これをうまく使えば解像度の高いシナリオを構築できる。
n  日本列島に原人や旧人はいたのか
Ø  中国には原人や旧人の化石があり、朝鮮半島にも古代型人類がいたことは石器(ハンドアックスと呼ばれる原人や旧人が作った大型の石器で)の証拠から確実だ
Ø  ナウマン象など、古い動物群が日本列島に渡ってきているから、原人や旧人が日本にいたとしてもおかしくはないが、原人や旧人の人骨化石は一つも発見されていない
²  沖縄の港川フィッシャー遺跡、石垣島の白保竿根田原遺跡、静岡県の浜北遺跡はホモ・サピエンスのものである
²  兵庫県で発見された人骨(腰骨)が古い原人のものであるという主張があったが、今では事実上否定されている(明石原人。戦火で焼失したので確かめられない)
Ø  石器などの考古遺跡から日本列島に原人や旧人何か言えるは、諸説あって決着していない。
²  石器なのか自然に割れてできたのか確定できない
²  石器であることは間違いないけど、出てきた地層が不明確
²  だが、岩手県の金取遺跡、長野県の竹佐中原遺跡の石器は4万年より前のもの、あるいは原始的なタイプのものと見なす専門家もいる
²  日本全国で記録されている旧石器時代の遺跡数は既に1万以上に上るが、ハンドアックスというこの目立つ石器は見つかっていない
Ø  注目すべきは、日本列島においては、38000年以降に遺跡数が爆発的に増加していることである
n  38000年前の日本列島激変の理由とは
Ø  著者は、38000年以降の日本列島において遺跡数が爆発的に増加しているのは、古代型人類の先住者が殆ど住んでいなかったところへ、この時期にホモ・サピエンスがやってきて急拡大した考えている
²  武蔵野台地の一角は、旧石器時代遺跡の密集地である(550カ所もある)。立川ローム層中から石器、焚き火跡、調理したと思われる焼け石の集積などの人口遺物が出てくる
²  一番古い年代が出ている遺跡は38000年~37000年前。熊本県「石の本遺跡群8区と54/55区」、静岡県「井出丸山遺跡」、長野県「貫ノ木遺跡」
²  年代測定値が得られていない遺跡でも、地層から年代を知ることができる。
l  ATテフラ」と呼ばれている、3万年前に発生した姶良カルデラ(今の鹿児島湾)の巨大噴火の火山灰層は、遺物がこれより下から出てくれば3万年以前となるので、旧石器時代の1つの年代指標となる[33]
l  武蔵野台地には地層に地域共通のパターンがあって、「標準層序」というものが設定されている(上から順番に・・・Ⅹ層と名前がついている)。「ATテフラ」はⅥ層中にあって、これより下の約35000年前と推定されているⅩ層までは遺跡が途切れることなく見つかっているが、それ以下ではぱったりとなくなっている
²  火山活動によって火山灰のローム層が発達している南九州や静岡県、神奈川県も事情は類似している
n  存在しなかった瀬戸内海、大陸の一部だった北海道
Ø 5-43-5万年前の日本列島の地図であるが、当時は今より海面が80mほど低く、従って陸域が広かった

²  アジア大陸では黄海はほぼ消失し、台湾は大陸の一部であった
²  日本列島では、瀬戸内海は存在せず、本州・四国・九州が繋がり「古本州島」が形成され、古本州島と朝鮮半島は今より狭い海域で隔てられていた
²  北海道は古本州島と離れていたが、サハリンを介してロシアのアムール川河口域まで陸続きであって、アジア大陸から南北に延びる半島の先端となっていた[34]
²  琉球列島の島々も少し拡大し、石垣-西表、沖縄-慶良間など合体していた島もあったようだが、多くの島々は孤立していた
Ø  3万年前以降寒さは厳しくなり、2万年前頃にそのピークを迎えて、海面は更に低下して、今より130mも下がったので、対馬は古本州島に取り込まれ、朝鮮半島を隔てる海峡の幅はわずか数キロメートルとなり、日本海は殆ど湖と化していた[35]
Ø  気候と地形の変化は、日本列島の動植物の生態系に当然影響していた。
n  3つの移入ルート
Ø  日本列島への移入ルートには主に3つの可能背があったことが見て取れる(図5-6
Ø  「我々は今、祖先たちがアフリカからの大拡散の末に、38000年前頃に日本列島へやってきたと言うことを、知っている。そしてヒマラヤの北と南を通った集団がいたことは確実で、その内の誰かが日本列島に到達した、と言う見通しも立てられる。そして列島には、人骨化石は少ないものの、世界有数の充実した遺跡データがある。・・・誰がどうやって日本へやってきたのか?それが次の章からの課題だ。」
6章 対馬ルート、最初の日本人の謎
「3ルートで最も早く日本に入ったのが対馬。学界では見過ごされてきたが、対馬から本州へは海を越える必要がある。しかも到来直後の遺跡からは、世界最古の往復航海を示す証拠が。最初の日本人は、航海者だったのだ。」(これはホモ・サピエンスの本質を示す深い意味を示す、と著者は言おうとしている)
n  日本渡来には「航海」が必要だった
Ø  遺跡年代を見ると、古本州島の440カ所もある遺跡が3万8000から3万7000年前で、北海道と沖縄は3万年前ほどだから、対馬ルートが最初日本列島に渡ってきた集団の道であろう
Ø  従って、最初に渡って来た人たちは航海者であった(ここがポイントになっている)


n  古本州島に広がった「最初の日本列島人」
Ø  結論から言えば、最古段階の後期旧石器時代、38000年程前に朝鮮半島から対馬ルートで海を渡って来た集団があり、彼らが先ず九州・四国・本州の全域に広がっていったと推定される
Ø  38000年~35000年前位までは石器の作り方やいくつかの独特な要素が古本州島で共有されていた。主なものを下記する
²  台形様石器:柄に装着して槍先として使われる石器で先端が台形の形をしている
²  刃部磨製石斧:刃の部分が砥石で磨かれている石の斧。刃の抜き差しが滑らかになるから繰り返し打ち付ける作業、例えば木の伐採などに有効。海外では極めて希な石器
²  環状ブロック群:石器の集積(石器ブロック)が多数リング状に並んだ構造で、テントのような住居が円形に配置された集合キャンプ場と考えられているもの。配置の直径は20m80mもある
Ø  日本列島の最古段階の後期旧石器文化には、その他にも興味深い要素がある
²  調理場:各地で、考古学者が「礫群」とよぶ焼け石の集積が見つかる
²  石材輸送:個々の石器に使う石材にはこだわりがあったようで、例えば刃部磨製石斧を作る蛇紋岩という石材を、新潟県から長野県まで50km位運んでいる。黒曜石は100km単位の距離を移動して、例えば信州産のものが愛知・静岡・神奈川で見つかった例がある
²  世界最古の落とし穴:落とし穴を使った狩猟は縄文時代にも盛んに行われたが、旧石器時代の例は、日本以外にはない
l  このような罠猟は、動物の行動を先読みして仕掛けるものなのでホモ・サピエンスらしい発明と言える
l  50カ所以上の遺跡から400ほど見つかっているが、最古のものは種子島で35000年前頃、箱根の愛鷹山山麓では33000年前頃に掘られたものである
n  列島最古の文化の由来は意外な難問
Ø  朝鮮半島から対馬ルートで海を渡って来た最古の集団は、アジアの北ルートと南ルートのどちらの集団と関連づけられるのか、これが難問
²  この判断に使える列島の人骨化石はない
²  石器での判断も難しい。台形様石器は日本列島以外で見つかっていない。刃部磨製石斧はオーストラリアで見つかっているが同時代のものだし形態もかなり異なるから、使えなさそう
²  住居跡については、南シベリアに発見例があるが構造の違いがあり、東南アジアでは実体がよく分からない
Ø  しかし、黒曜石の研究は、この問題を考える上で必須と著者は考えている
n  海を渡る黒曜石輸送網
Ø  黒曜石はマグマの噴出に伴って出来る天然硝子で、鋭い割れ口は石器の材料として、後期石器時代の人々に重宝された
Ø  黒曜石の化学分析によって原産地が特定できる方法が1960年代に開発されて以降、石材の供給ネットワークの様子が描き出されつつある
²  長野県産が関東一円で、佐賀県産が南九州で使われていたなど
Ø  1974年に東京都と神奈川県の遺跡から出土した黒曜石が神津島産[36]と判定された
²  その後現在まで分析された何万点のサンプルも結果を支持している
Ø  後期旧石器時代に、海を隔てた神津島から黒曜石が運ばれた可能性はあるのだろうか?つまり、この時代に海運という生業があったのだろうか?
²  原産地が神津島以外にはないのは確かだ「熱心で地道な努力を厭わない在地研究者によって、可能な産地は調べ上げられているとみて良さそうである」
²  後期旧石器時代における海運というアイデアは荒唐無稽でもない。というのは、時代は下るが縄文時代に伊豆半島に神津島産黒曜石が陸揚げされた中継地の遺跡がある(河津町の見高段間遺跡)
²  後期石器時代の海運が存在した証拠としての陸揚げ遺跡は、現在の海面が当時より80mも上昇しているので見つけるのが難しい
²  神津島は伊豆半島から見える。距離にして現在は50kmだが38,000年前は38kmくらい、しかしここは黒潮の流れで往復は難しそう
Ø  2011年に、愛鷹山にある井出丸山遺跡から、37000年前頃の石器の中に神津島産黒曜石が含まれていたことが報告された。これは二つの意味で大変な事実である
²  一つは、これがただの渡海ではなく、戻る意思を持った世界最古の往復航海の証拠であること
l  人類最古の渡海は、47,000年前に達成された、インドネシアからオーストラリア・ニューギニアへの移動であるが、ここで往復航海の証拠は20,000年前以降まで知られていない
²  もう一つは、日本列島に渡来したホモ・サピエンス集団は、既に航海術を持っていたと推測されることである
l  彼らは既に黒曜石が有用な資源であることを知っていた。それを求めて探索行動をとっていただろう。ところが、海を渡るには既にその技術を知っていなければならない
n  どうして航海術を身につけていたのか?
Ø  遺跡は陸上にあるものであり、当時の海岸部は今は海の底だから、彼らの海での活動を知ることはできない
Ø  しかし祖先たちが対馬海峡を横断せねばならなかったという事実と、神津島の黒曜石の黒曜石が本土で見つかるという事実が、最古の日本列島人が陸のハンターであると同時に航海者でもあったことを教えてくれる
Ø  航海術を身につけることが出来た集団は、アジア大陸の北方ルートでなく南ルートであるとしか考えられない
第7章 沖縄ルート、難関の大航海
「沖縄に来た祖先は誰だったのか、本州とまったく異なる遺跡証拠は南ルートを示唆する。だがそれには台湾から黒潮を横断し100キロを遙かに超える航海が必要。その本当の困難さを知るには、航海の再現実験しかない。」
日本列島への渡来問題を追及する上で、今、もっとも面白いのは琉球列島であろう。ここには、人類がどのように海洋進出を始めたかを知る上で欠かせない、重要な証拠が眠っている。
n  聖地・沖縄の化石人骨発見ラッシュ
Ø  日本の人類学者にとって、古い人骨化石が出る琉球列島は聖地のような場所である。北海道から九州までは古い人骨化石が出ないのは土壌が酸性[37]だから溶けてしまうからである。琉球列島は珊瑚礁由来の石灰岩の影響でアルカリ性なのである。

Ø  近年、沖縄地方は旧石器時代研究の新時代を迎えている
²  従来は、沖縄地方では石器など、人々の活動の痕跡があまりなかった
²  196070年代に、沖縄島で古い人骨化石が発見された。港川人と山下町洞人
²  1980年代の精力的な洞窟調査で、宮古島のピンザアブ人や久米島の下地原洞人が発見された
²  最近になって、石垣島の白保竿根田原、沖縄島のサキタリ洞、宮古島のツヅキスビアブなどの新発見が相次いでいる
l  白保竿根田原遺跡からは、港川フィッシャー以来のあるいはそれを凌ぐ大量の人骨化石が見つかっている
l  サキタリ遺跡は沖縄地方待望の、旧石器時代人の居住遺跡である。
Ø  アジアでは非常に珍しいアクセサリー(貝製ビーズ)が見つかった
Ø  石器よりも貝殻製の道具が多数見つかった
Ø  食用と思われる大量のかにの残骸が見つかった
Ø  古本州島の遺跡とはかなり違った暮らし振りが覗える
Ø  旧石器時代人がここで1万年以上暮らしていた
²  だが、彼らはどこから、どうやって島に来たのだろう
n  琉球列島へ渡ってきたのはホモ・サピエンスだった
Ø  本書では、九州と台湾の間に連なる約100の島々を、すべて含めて琉球列島(南西諸島)と呼ぶことにする
Ø  地名と地形と海流の整理
²  1200kmの長さに及ぶ琉球列島は、6つに区分される。北から順に、大隅諸島(屋久島、種子島、など)、トカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島(石垣島、西表島、与那国島など)である
²  海底地形
l  太平洋側は、深さが7000mの琉球海溝がある(フィリピンプレートが潜り込んでいるために出来ている)
l  東シナ海側は、このプレート運動と関連してた窪地、沖縄トラフがある
²  フィリピン周辺から北上する、黒潮と呼ばれている暖流は、台湾と与那国島の間を通過した後に沖縄トラフに沿って流れ、トカラ列島のところで太平洋側へ抜けていく
Ø  71は、琉球列島で確認されている20,000年前より古い遺跡の地図であるが、30,000年前より古い遺跡が各所にあって、山下町第一洞穴に至っては、36,500年前と推定されている
Ø  発見された36,500年~18,000年前の人骨化石はすべて形態的判断からホモ・サピエンスであった
Ø  つまり30,000年前にホモ・サピエンスが琉球の海を何度も渡り、複数の島に辿り着いたことを意味する。それは航海だったのか、それとも漂流だったのか
n  あり得ない「陸橋説」
Ø  「陸橋説」というのは、沖縄島で発見された港川人の起源となるホモ・サピエンスの集団は、当時(旧石器時代後期)存在した台湾~沖縄~九州と繋がる「陸橋」の上を歩いてへと渡ったという説
²  1980年以降の一連の著作において、沖縄の人骨化石を最初に研究した東京大学の鈴木尚によって提唱された
²  1990年代に一部の地質・古海洋学の専門家によって支持された
Ø  「陸橋説」はあり得ないというのが著者の考えだが、あり得ない説が人類・考古学学者によって支持され続けていた理由は、(地質・古海洋学、動物地理学、人類・考古学などの)分野間でのコミュニケーションが欠けていたためである
Ø  「陸橋説」を否定する、関連分野の情報を統合した著者の論文要旨
²  琉球列島の島々の間を隔てる現在の海の深さから計算すれば、もし当時その海が陸であったならば、その陸はあり得ない速度で沈降したことになる
²  沖縄トラフの海洋堆積物中にある、黒潮によって運ばれてくるある種のプランクトンが、数万年前の氷期に減少していたという事実が「陸橋説」を支持していた。しかし今ではその論証は不成立
l  「陸橋説」を支持していた理由は、「陸橋」で黒潮が来なくなったのでプランクトンが減少したから
l  氷期が終わっても、同様のプランクトンの減少がある
l  黒潮の流路ではない琉球海溝側でも、同様のプランクトンの減少がある
l  このプランクトンは水温に反応する可能性が高い(氷期は減る)
²  琉球列島の島々の動物の種類などから島の歴史を推定できるが、そこからは旧石器時代後期のある期間に「陸橋」が存在したようにはみえない
l  現在の屋久島には九州と同じ動物が多いので、両島が最近つながっていたことがあるのは明らかだが、種子島で人類活動が始まる35,000年前はつながっていなかったであろう
Ø  種子島で発見されたホモ・サピエンスの人骨化石の年代は35,000年前で、大隅海峡の海深は100110mで、20,000年前の海面低下は130mで、35,000年前の海面低下は80m
l  南の島へ行くほど九州との共通性は薄くなる
Ø  活火山で構成されるトカラ列島は、動物の多様性がそもそも貧弱だが、大隅半島と共通するもの奄美群島と共通するものが混在する
l  奄美群島、沖縄諸島では、固有種のアマミノクロウザギ、ケナガネズミ、ヤンバルクイナなどが独自の発展を遂げている
l  宮古諸島、八重山諸島にも爬虫類などの固有種がいる
Ø  台湾の動物層と比べると多様性が乏しく共通性は薄い
l  その他、哺乳類、トカゲ、カエル等いろいろな動物の研究論文からも、数万年前の陸橋説を支持するものはなかった
Ø  台湾のサワガニと八重山の近縁なサワガニは100万年以上前に、台湾のサワガニと奄美のサワガニは500万年前くらいに分枝したらしい(DNAの研究から)
l  化石で過去の動物を調べると、島の孤立性がもっとよく分かる。象徴的な動物はシカである
Ø  シカの仲間は孤立した島で矮小化すること知られている
Ø  かつて琉球列島の広い範囲に小型のシカがいた
Ø  人類が琉球に渡来して間もなくこのシカは絶滅し、化石が残った
n  それは漂流だったのか、航海だったのか
Ø  意図的に舟で島を目指した航海であった考える
²  少なくとも沖縄島のサキタリ洞遺跡と石垣島の白保竿根田原では、万年の単位で人々が暮らし続けていた。それが可能であったのは、当初から相当数の男女が計画的に移住してきたと考えられる
²  どのような移住なら人口維持が出来るかという定量的検討は、コンピューターのシミュレーションで可能らしいので、近い将来計算結果が出るかも知れない
Ø  1961年に『海上の道』を著した柳田國男は、島崎藤村の「椰子の実」のように、愛知県渥美半島の海岸に流れ着いた椰子の実を見て、人や文化が海流に乗って移動することを着想したそうだ。しかし、人とココナツは違うから、安易に黒潮に流されて云々と考えることはできない
²  椰子の実が漂流するのはココナツの繁殖戦略で、椰子の実は水に浮く構造と長い漂流に耐えられる殻を進化させた。しかし、行く先は海流任せである。人間は、舟の上で長い漂流に耐えるような身体構造を進化させてはいないし、仲間が大勢以内と人口を維持していくことが出来ない
Ø  「この章で考えていくシナリオは、植物種子の漂流とは次元が異なる、人間の意図的な海洋進出なのである。」
n  人骨化石から探る沖縄移住ルート
Ø  港川人の化石は、沖縄島の港川フィッシャー遺跡で196070年代にかけて発見され、成人男性一体はアジア東部のホモ・サピエンス化石の中では最も保存がよい
²  保存のよい人骨は成人男性一体、成人女性三体分で、他は部分的な骨
²  年代は、最近になっておよそ二万年前であると確認された
²  身長は男性で155cm、女性で145から155cmと小柄で、現代人集団の中ではピグミーやネグリトと同じく最も小さい部類に属する
²  頭骨の形から判断すると、中国北部の山頂洞人よりも、ジャワ島のワジャク人などとよく似ている
²  5000年以上前の東南アジアには、現在のオーストラリア・アボリジニと似た集団が広く分布していて、ワジャク人なども多分このグループに含まれる
²  彼らはアジア南ルートを48,000年前ころに移動してきた集団の子孫と考えられるから、港川人がその末裔であることが示唆される
Ø  他の人骨化石の中で期待されるのは、白保竿根田原遺跡の人骨だ。ただいま整理中だが、公表された予備的なDNA解析結果は示唆に富んだものであった
²  二体の旧石器時代の化石人骨からミトコンドリアDNAを抽出することに成功し、彼らが中国南部か東南アジアに由来した可能性が示唆された。つまり台湾経由の可能性がある
n  「南ルート起源」を考古遺物も示唆する
Ø  種子島。35,000年から34,000年前頃には人類活動があったことは明白で、また、この地層から出土した石器等の遺物は、この時期に九州島から大隅諸島へ南下した人々がいたことを示している
²  台形様石器や刃部磨製石斧を含むいろいろな石器、炉跡、焼け石の集積、落とし穴。石器類は九州南部で出土するものと共通性が高い
Ø  奄美群島。そこまで下ると、そこにある遺跡は30,000年前のものである可能性は高いが、九州島との関係は判然とせず、台湾や東南アジアの旧石器時代の文化の特徴もうかがわせる
²  出土した石器の解釈を巡って考古学者の意見は割れている
Ø  徳之島。ガラ竿遺跡で、ATテフラより下の地層から磨石タイプの石器が二点発掘されたので、30,000年以前に人類がいたことは確かだが、その文化の実態は不明
Ø  沖縄諸島。ここではもう九州以北とは文化的繋がりがなくなってくる。人骨の研究と相俟って、沖縄地方の旧石器文化は台湾経由で南方から伝わったに違いない
n  人類はいかに海洋進出を果たしたか
Ø  7-4は「海を渡らなければ到達できない場所に遺跡が出現する」ことを手がかりにして、(今判明している遺跡の証拠から)著者が作成したものである
²  47,000年前頃のオーストラリア・ニューギニア島への移住がホモ・サピエンス最古の渡海の証拠[38]
²  日本列島は、オーストラリアについで古い、人類の海洋進出の証拠がある地域で、年代は30,000年~38,000年前頃となる
²  世界の他の地域では、もっと新しい(地中海の12,000年ほど前、カリブ海では4,000年ほど前)
Ø  日本列島の証拠には、二つのポイントがある
²  一つは、前章で述べた、世界最古の往復航海の証拠(神津島へ黒曜石を採りに)
²  一つは、これから述べる、琉球列島への航海の難易度が高いという事実

n  台湾から与那国島に行くには100キロメートル以上の航海が必要だった
Ø  琉球列島より古いオーストリアへの渡海の状況を見てみると
²  当時、西はスマトラ島、ジャワ島、バリ島、ボルネオ島とアジア大陸が一体になった「スンダランド」、東はオーストラリアとニューギニアが一体になった「サフルランド」があって、その間に「ワラセア」という海域が存在していた
²  ワラセア海域には、標高が高く面積の大きな島々が散らばっていて、スンダランドからサフルランドに渡海するには、隣の島を目視で確認しながら80kmほどでつくルートがある
²  ワラセアの海は、人類最初の渡海に適していた場所と思われる。著者は、人類がこの地域で渡海のチャレンジという経験を重ねたと推測している
Ø  台湾から北上するルートの渡海は難易度が高い
²  台湾から最初の与那国島までの距離は、海面が低い時代でも105kmほどある
²  与那国島は小さくて標高が低いので、遠くの舟からは見えない
²  台湾と与那国島の間は、世界最大規模の黒潮が横断している
²  与那国島の先は宮古島まではそれまでの渡海の繰り返しでいけるが、その先の沖縄島までの距離は220kmを渡海するチャレンジをしなければならない
n  3万年前の航海を再現する
Ø  著者は、自分の仮説の信憑性を確かめるには、実際にやってみる必要があるとの思いに至った
Ø  「2013年の3月に、与那国島にて最初の研究会を開いた。そこから3年近くの準備で体制を整え、ようやく資金さえあればプロジェクトを実行できるところまでこぎ着けた<中略>研究しながら進めるこの航海プロジェクトは、2年にわたって実施する。現在の想定では、初年度に与那国島→西表島の80キロメートル弱の実験航海を行い、次年度に台湾→与那国島航海を実現したいと考えている。」
第8章 北海道ルート、シベリアからの大移動
「北海道の人類出現は3ルートで最も遅い。すると彼らは大陸でなく本州由来の可能性はあるのか?だが北海道の25,000年前の石器文化は北ルートと共通する。やはりシベリアから南下してきた祖先がいたのだ」
地理的状況:氷期の海面低下によって、北海道はアジア大陸の北部と陸続きになっていたが、津軽海峡は存在し続けていた
n  最古の北海道人の謎
Ø  北海道における最古の遺跡は、現状では30,000年ほど前の、十勝平野にある若葉の森遺跡で、本州島に比べて数千年新しい
Ø  30,000から25,000年前の文化については、その実態も由来もよく分かっていない
Ø  しかし、25,000年前頃の北海道に、明らかな変化が出現した
n  突如現れた特殊な石器
Ø  細石刃という石器を用いた細石刃文化という特殊な文化が、日本列島では25,000年前頃の北海道に突如現れた。この文化はおそらく北方ルートから伝わったのだと推定できるが、石器の研究からはまだ確証はない
²  細石刃石器は、ガラス質の石からなる鋭い割れ口を持つ小さな石器で、植刃器と呼ばれるへら状の角製品の縁に埋め込んで使用する。狩猟用の槍先等の用途を考えれば、切れ味、靭性、交換性、持ち運びなど、多くの利便性を持つ
²  本州島にこの細石刃が出現するのは20,000年前以降だから、そこからの伝播ではない
²  バイカル湖付近の遺跡では、この時期に細石刃成立の予兆があるという研究もあるので、北東アジアと北海道の関係が推測される
²  細石刃文化の由来はおそらくシベリアであって北海道ではない、というのは、次第に寒冷化してきていた当時、人々はより暖かい方へ移動しただろうから
n  DNA分析からわかった大移動
Ø  北方から北海道への移住説を支持する研究[39]が、北海道の各地で発掘された縄文人のミトコンドリアDNA分析の研究から得られた
²  ミトコンドリアDNA分析の結果は、彼らがおよそ22,000年前に北東アジア出現した人類の子孫であったことを示していた
²  しかし、移動の規模はミトコンドリアDNA分析では分からず、核DNA分析の研究を待たねばならない
9章 1万年後の再会
「対馬から入ってきた「最初の日本人」のルーツはどこなのだろう。今わかる証拠から考えられことはひとつ。ヒマラヤ南北ルートをたどったそれぞれの集団は、東アジアで1万年ぶりに再会し、混じり合ったのだ」
n  最初の日本人はだれだったのか?
Ø  最初に日本列島にやってきたのは対馬ルートのホモ・サピエンスであったらしい。しかし、彼らの素性はなお謎に満ちている
²  彼らの文化には北方文化の特徴(石刃技法)も、南方文化の特徴(礫器や不定形剥片石器、渡海技術)も見られ、また独自性(台形様石器と刃部磨製石器)も見られる
²  だれもが認める石刃技法が古本州島で見られるのは34,000年前を過ぎた頃らしく、そうすると38,000年前から4,000年間位は石刃技法が使われないことになり、大陸から北方系文化を担った人々が最初の日本人というわけではなくなりそう、ということになる
²  古本州島最古段階の遺跡には、礫器や不定形剥片石器の存在が確かなものとしては確認されていないが、ないというわけではない
²  台湾から沖縄に入った文化は確かに南方文化だが、それは少なくとも対馬ルートの文化とは違っているし、その様相は、台形様石器や刃部磨製石器の石材をわざわざ遠方から入手するこだわりとも異なるように見える
²  今ある証拠からは、最初の日本列島人の素性を十分あきらかにすることは出来ないとしても、それがアジアの北か南かという二者択一的問題ではないことは示し得ると思う
Ø  以上の解析から著者は一つの新しい見解を出している
²  「つまり南ルートと北ルートの集団は、互いにであったのだ!両者の祖先がアフリカを離れ、48,000年前頃にヒマラヤの北と南の二手に分かれておよそ一万年後に、東アジアのどこかで。」
²  「対馬ルートを越え、初めて日本列島の土を踏んだ人々は、そのような出会い―――直接か間接かはわからないが―――を経験した人々だったに違いない。列島の独特な文化が生まれたもの、この二つの異質な文化の相互作用の一つの結果だったのではないだろうか。」
10章 日本人の成立
3つのルートからそれぞれ日本列島に入ってきた3つのグループはいかにして今日の日本人までつながっているのだろうか?朝鮮半島や中国で発掘される人骨や石器などとの比較や、DNA研究でここまで分かった」
この章では、古本州島、北海道、琉球列島のそれぞれの地域ごとに、旧石器時代以降の移住史を概観する
n  対馬ルートの祖先は縄文時代まで子孫を残したか?
Ø  古本州島で38,000年前に後期旧石器時代が始まった
²  それから20,000年程経過して、16,000年ほど前に縄文時代が始まった
²  縄文時代は13,000年ほど続いて、2,500年前に始まる弥生時代[40]を迎える
Ø  古本州島で38,000年前に現れた集団が、基本的にその後の縄文人と連続していった可能性が高そうである
²  九州では30,000年ほど前に朝鮮半島から伝わったと考えられる石器、「剥片尖頭器」が現れたが、4,000年ほどの間だけ存在した一過性の石器だった
²  20,00016,000年前の間に、古本州島に細石刃が広がった。これは25,000年前の北海道に出現したものと類似。当時の東日本と西日本には北海道と朝鮮半島から別系統の細石刃技術が入ってきたと考えられている。しかし、この間に大規模な集団の移住を示しているという議論は聞かれない
²  佐賀県にある腰岳でとれる黒曜石が韓国南部の遺跡から発見されたという報告もあり、旧石器時代の朝鮮半島と日本列島の間で人の往来があったことは間違いないとしても、限定的なものであろう
Ø  縄文時代には文化の新しい要素が生まれている。しかし、大陸から、列島の人間が入れ替わるほどの集団の大移動が起ったとは考えられていない。また、列島内においても、スケールの大きな輸送網はあっても、あくまでも交易や輸送や技術転移の範囲を超えるものではない
²  特に土器は(文化的要素として重要なものだが)、外来の要素なのか列島内で独自に発明されたのかは、今でもよく分かっていない
²  土器の発明そのものは、中国の江西省で20,000年前という例があるから、その技術が伝えられた可能性はあるが、すくなくともそれに伴って集団の大移動があったという議論は聞こえてこない
²  前期(7,3005,500年前)の九州では、曾畑式土器など、朝鮮半島の土器製作法を取り入れたとする土器が流行する。しかし、集団の大移動をうかがわせる証拠は見えてこない
²  後半期には、列島内で、海上輸送が行われていた。新潟県産のヒスイは、おそらく日本海側の航路を利用して、青森県の三内丸山遺跡や北海道にも運ばれたし、7,300年前に本州から180kmの海上にある八丈島にも縄文人が現れた
n  そして弥生時代へ(ここは他書へ譲り簡略に)
Ø  遺跡から出土する人骨の形態分析や遺伝学の研究が進んだことにより、1990年代になって、かなりの規模の集団が渡来したという渡来説が定着した
Ø  大陸からの大量の渡来人によって弥生時代の幕が開けたのだが、この出来事によって、最初の日本列島人たちの系譜が途絶えたのではない
n  北海道ルートの祖先とアイヌ
Ø  アイヌの祖先は25,000年前まで溯るが、周辺の集団と混血して現在に至っている
²  北海道には30,000年前から人が暮らしていたが、この集団のルーツはよく分かっていない
²  25,000年前に北方から細石刃文化を伴う大集団がやってきて、彼らが主体となって現地の縄文人形成された
²  1,000年ほど前に北海道に暮らしていたのは、このアイヌの祖先だけではなかった
l  513世紀の間に、オホーツク文化をもった人々が現れ、当時のアイヌと混血した。彼らのミトコンドリアDNA分析から、アイヌにオホーツク文化人の持つミトコンドリアDNAの特徴が見られた
n  沖縄ルートの祖先はどこに行ったのか
Ø  既に述べられているように、沖縄、あるいは奄美大島以南の琉球の島々は、台湾ルートの旧石器時代人によって30,000年以上前に植民された。しかし、彼らがそのまま各島の現代人になったのではなく、縄文時代以降に、九州方面から沖縄地方に大きな集団の移住があったと想定される
²  2014年に琉球大学によって沖縄・宮古・八重山諸島の現代人のDNA解析がそのような集団移住を支持している
n  縄文人は単一の集団だったという誤解
Ø  20世紀までの人類学では、全国の縄文人は1つの均一な集団と見なされるのが一般的だった」
Ø  「考古学においても同様で、北海道から沖縄まで1つの「縄文文化圏」にあったという説明がしばしばなされた」
Ø  「人類史的観点から縄文人が本当に1つの集団なのかを問う動きはこれまであまりなかった」
Ø  「縄文人の上下に低い顔、彫りの深い顔面、高くない身長といった身体的特徴は、彼らがアジア南方に起源したことを示している、というのが伝統的な考えだった」
Ø  国立科学博物館の篠田謙一は、関東と北海道の縄文人のミトコンドリアDNAのタイプの違いに注目しで、縄文人のルーツが1つでは無い可能性を示唆していた
Ø  本書で述べたことは上記の篠田説を強く支持している。古本州島領域と北海道の縄文人は、それぞれ38,000年前と25,000年前に異なるルートで列島に入ってきた、異なる歴史を持つ集団とみるべきであろう。沖縄の縄文人由来は、千節で述べたように現時点ではよく分からない
n  日本人が生まれた舞台
「さて、これまで本書で展開してきた「日本人はどこから来たのか?」をごく短くまとめると次のようになる」
「かってアジアの南北ルートを別々にたどり、それぞれ違う困難をくぐり抜けてきた兄弟姉妹が、再会を遂げた舞台の1つ、それが後期石器時代の日本列島だった。ただし西アジアで別れてから既に一万年の時が経過しており、再会した彼ら自身は、互いが血を分けた兄弟姉妹であることに気付きようがなかったのだ-----
彼らが日本列島へ入ってくるシーンにも、ハイライトがあった。最初に日本へやってきた人々は対馬の海を越えたが、南からやってきた兄弟姉妹は、人類の歴史に残るような極めて困難な航海にチャレンジし、その末に琉球列島に拡散した。しかし3つのルートから渡来した彼らの歴史は、列島に辿り着いて終わるのではなく、その後、大陸から新たな渡来民や列島内での移住を経て、当初の集団構造は変化していった。それでも、偉大な旅を続けてきた旧石器時代の祖先たちの血は、今もこの列島の私たちの中に、様々な形で継承され続けている」




[1] (世界中にある考古学遺跡の解釈には厳密性に欠ける部分が多々ある、と言っている)
[2] (ヒマラヤの北ルートはアルタイ山脈越えと極寒のシベリア通過がある。これが事実なら、次なる問いは何故そこに行ったのか?となるが、文脈から見えてくる答えは、何かに強制されたのではなくて“冒険心”ある種類の人類だけが生き残った、といものかも)
[3] (再開まで1万年以上経ってたから、同じホモ・サピエンスでも文化だけでなく、体つきや顔つきなども変わっていただろうが、そこの差異に見てとる意味の相違に注視。つまり、差異の理由が分かるほど許容できると思えるのだが、それとも反対なのか)
[4] (学者の世界でさえ仮説が定説となってしまう社会の認識プロセスがここにもある)
[5] 後述のように、今は違う
[6] この7万年はこの本だけでは分からないが、16万年~10万年からの隔たりよりも5万年からの隔たりの方が少ないと譲歩しても、2万年ならまあ良いか、というところか
[7] しかし、(ホモ・サピエンスは未知の海原に向かって漕ぎ出て行くほどのチャレンジ精神を持っているはずだから、そんなことはない、というのが著者の観取)
[8] (「信頼できる/有用な」とは、「有用な」とは「信頼できる」とまでは言えないとしても除外する理由が無いものという意味、/は「又は」の意味、らしい)

[9] たとえばアクセサリーの利用
[10] (著者の陰の声を補足してみた。ホモ・サピエンスがアフリカに出現したのが20万年前の「中期旧石器時代」。彼らが15万年ほどの雄伏期間を経た後に満を持してユーラシア大陸に乗り出し、極寒・熱帯の各地に爆発的に拡散を開始したのが5万年ほど前の「後期旧石器時代」。この爆発的拡散過程におけるホモ・サピエンスの経験が多彩な旧石器文明を生み、次の時代が開かれていった。このことは現生人類の内部に重層的に記憶され、その本質として引き継がれている。ホモ・サピエンスが辿ってきたこの経験と意思のチャレンジングな弁証法の歴史はなんと魅力的なのだろうか。)
[11] 「後期旧石器文化」という語の適用範囲は研究者間で定まっていない
[12] このことは大変興味深いことと述べているが、理由には言及していない。(推測すると、脚注8で述べられているような、スンダランド特有の状況と古代型人類の拡散タイミングの絡んだ現象なのかも知れない)
[13] 今は無いスンダランドに丁度原人が現れた頃、現代まで続いている気候変動の周期「氷期・間氷期サイクル」が260万年ほど前に始まってから百数十万年程経った頃であった。それは海面の上昇と下降の繰り返しを発生させ、陸地の分断と結合が何回も繰り返された(現代は間氷期だからスンダランドは多くの島に分断されている)。このことが原人の独自な進化を生んだと考えられる
[14] (いまでも一般に島に生息している動物が大陸のそれより小型化しているのはよくあるから、多分この原人は相当期間この島に隔離されて矮小化されたのかも知れない)
[15] 南シベリアで認識された「デニソワ人」とよばれる謎の古代型人類集団のDNAが、現代のニューギニア人などに多く混ざっているという報告がある。著者は、このDNAの由来はデニソワ人ではなくて、ジャワ原人にあるのではないかと疑っている
[16] (人類学によるホモ・サピエンスの諸分類法は、現生人類の頭蓋骨や骨格等々の環境相関的継時変化(地域差)の説明に有用だろうが、所謂人種差別への利用は無意味である)
[17] 「松村は、東南アジアにおけるこの集団の移動・混血のシナリオを二重構造説と呼び、日本列島において弥生時代が始まるとき、やはり大陸からから稲作文化と集団の渡来が起こったことと同列の出来事と考えている。達観である。」と著者は述べている
[18] この遺跡には人骨化石はないが、アフリカでは20万年~15万年前にホモ・サピエンスが出現しているから、彼らの遺跡である可能性は高い
[19] この遺跡はホモ・サピエンスのものと判明している
[20] ブロンボス洞窟、ディープクルーフ岩陰
[21] ピクナル・ポイントにある海蝕洞窟
[22] ネアンデルタール人も同様の骨器を発明していたらしいことが分かってきたが、錐、槍先、縫い針までは無理だったようだ
[23] 人類が狩猟活動のために発明した槍の歴史は、少なくとも30万年前の旧人の時代にまで溯る。しかし、樹上生活をしているサルやリスなど捕獲するにはそのような槍は役立たす、彼らは罠・矢弓・吹き矢などを使用している。旧石器時代のホモ・サピエンスがそのような道具を使用していた証拠はない(その材料などの性質から)
[24] 該当年代の地層からサルの骨化石が(状況の変化なく)出土するから
[25] オックスフォード大学などが行った、人骨化石に含まれる炭素と酸素の安定同位体分析結果から
[26] 著者はこの年代は更に検討が必要と述べている
[27] 東南アジアで精力的な現地調査を続けていた西村昌也氏の研究から、この地域では礫器・不定形剥片石器の文化が広がっていた
[28] 定型性に乏しい剥片石器が主体の文化で、中国の研究者は、それはホモ・サピエンスの文化であることを示唆している(例えば黄河のすぐ南側に位置する織機洞遺跡)
[29] デニソワ洞窟では、謎の古代型人類デニソワ人が発見されているがまだ詳細は不明である。ここと近くのオクラドニコフ記念洞窟には、ネアンデルタール人が住んでいたことがDNA 分析で判明している
[30] 首都大学東京の出穂雅美等の調査結果
[31] 場所と地層は未確認
[32] DNAには核DNAとミトコンドリアDNAという二種類がある。ふつう生命体の設計図などといわれているDNAといえば核DNA。化学種としては同じジオキシリボ核酸ではあるが、考古学などで利用するときには別物と考えた方が良い。核DNAは細胞の核一個に一個しかない。ミトコンドリアDNAは核DNAに比較して極めてコンパクトだが細胞内に沢山あるミトコンドリアの中にあって、細胞一個に1000個くらいもある。考古学や人類学でよく利用されているのはミトコンドリアDNAであるが、その理由はいくつかある。沢山あるから人骨化石など古い遺物に残っている確率が大きい、母系遺伝情報しか伝えない、塩基置換の速度が核DNAより510倍も速いこと、もちろん少ない手間で(費用)で有効な結果が得られることも。)
[33] (姶良カルデラの噴火は爆発的なもので、一度の巨大噴火で富士や箱根が8万年とか10万年ほどかけて溜めた火山灰と同じくらいの量を一度の噴火で発生させ、そのテフラの飛散範囲は朝鮮半島から東北地方まで確認されているほどである。つまり3万年ほど前というある時期の噴火が、ちょうど旧石器時代に発生してその年代指標となった)
[34] この半島は「古SHK(Sakhalin/Hokkaido/Kurile)半島」と呼ばれる)
[35] (温度は海流による影響が大きいので、日本海が湖のようであったことは注視すべき)
[36] 神津島に隣接する恩馳島だが、当時は海面が80m程低かったから二島は一体であった
[37] 雨中の二酸化炭素が土壌を酸性にする
[38] インドネシア諸島の小さな島の一つであるフローレス島には、百万年ほど前に何らかの理由(漂流かもしれない)でそこに渡った原人(ホモ・フロレシェンシス)がいた。彼らはその後、島を出ることなく、身体と脳の矮小化という不思議な進化を遂げたらしい
[39] 山梨大学の安達登グループの研究結果(2006年頃からか?)
[40] (弥生時代の開始は諸説あるらしい→『古代国家は何時成立したか』(都留比呂志2011年)ではBC 1000年~BC 800年を弥生時代草創期と位置づけており、本書に比べて500年程溯っている)