2017年1月3日火曜日

『古代国家はいつ成立したか』【感想・要約】(都出比呂志 岩波新書 2011/8/19)

20157月に書いたままアップロードを忘れていた【感想】【要約】の改訂版です。別のブログに詳細なメモがありますので、少し長いですがご興味があれば見て下さい。







【感想】
ピエール・ドゥ・ロンサール
「国家」とは何だろう?という問いの答えを求めて読み始めた本の一つです。一応先進国の人が、日常において意識する国家といえば近代国家ですが、その基を辿れば古代国家に行き着き、そもそもその古代国家という国家が出現してくる以前から国家になっていくプロセスは実際どうだったのか?。そこには時代や地域ごとの個別性とそれを超えた普遍性とがあるに違いなく、従って重層化された多様な社会と近代国家という共通の概念があるのだと思います。
本書は、日本列島に古代国家が成立するプロセスを、いつものように文献史学としては中国の史書を頼りにしてはいますが、主に考古学的な事実から推測しています。昔から、色々な人が想像していたことを、現代に特有な科学的手法でより確かな知識となっていくことを知るのは、とても楽しいことでした。

【要約】
はじめに
  •  国家には、土地の分配、税、生産、経済、文化、共通の思想など、多面で複雑な仕組みが要求される。
  •  国家の制度が試行錯誤される前段階を欧米の研究者は「初期国家」[1]と名付けた。
  • 著者は日本の初期国家は古墳時代(3世紀前半~6世紀末)に当たると提唱した。
  • 本書は日本の古代国家形成における古墳時代の役割を、考古学に基づいて明らかにすることを意図している。

第一章 弥生社会をどう見るか
縄文時代晩期より、朝鮮半島からの大量の渡来人が水耕農耕や生活習慣を日本列島に伝えて、弥生時代が始まった。その開始は近年の科学的分析方法の進歩によって500年ほど遡り、BC 1000年頃からとなった。
人々は集落を作り、リーダーの指導の下に協力して働き、日常生活を維持し、またおそらく自分たちにとっての必要性、例えば人口の増大などに従って生活圏を拡大していった。
そのような共同体の構成員にとっては、お互いの関係が己の生存に深く関わっており、それらの関係は、血縁関係だけではなく、共同体全体との関係であることを理解し、そう確信させる仕掛け、祭祀や伝説や規範などがあった。
共同体の生活圏の拡大は、共同体自体の拡大と外部共同体との関係を発生させた。それらは、共同体内部においては結束を固めるために統治権力を生み、共同体同士においては、双方が独立して存在することが許されない限り、戦争や調停を介しての統合へと進み続け、より大きな新しい共同体となった。
共同体の存在条件は、地理的などの自然的要因、秩序の維持などの権力的要因、仲間であることを確信させる習俗的要因がある。それらの要因は、共同体圏が拡大するにつれて、連綿と変わらぬものを内包しながら普遍的なものとして変遷し続けていった。これらのことは、既に弥生時代には始まっていた。
著者が捉えている弥生社会は、国家権力へと繋がっていくような権力の萌芽はあっても、それが住居や墳墓のあり方にまでは及ばないような同等性を持った自給的社会、とでも言えるだろう。それを著者風の考古学的言い方で言うと、「共同体のリーダーが最終段階で一部において首長になった社会」、「環濠集落が発生して拡大・集合し、城塞集落となり、最終段階で環濠集落自体が崩壊して一部において首長の居館と農民などの村落に分離してきた社会」、「地方権力すなわち「国」が争い、決着がつかず、卑弥呼を共立して邪馬台国が出現するまでの社会」などとなる。

第二章 卑弥呼とその時代
弥生時代の後期[2]には、北部九州、吉備、出雲、畿内、東海、関東、に独立した政治権力が存在していたことが考古学的な根拠によりはっきりしている。
「魏志倭人伝」には、邪馬台国についてその地理的位置の記述を含めてかなりの記述がある。それによれば、邪馬台国出現のいきさつは、独立した地方権力が争いを始めて収拾がつかなくなり、二世紀末頃に共同で「卑弥呼」を擁立して戦いを収め「邪馬台国」が出現したもので、その国情については、「卑弥呼」はシャーマン的能力を持つが、卑弥呼の力を借りながら現実の政治権力を行使する男弟がいたこと、卑弥呼は魏王朝と交流し、大使の他に流通を司る役人(西村敬三氏、吉田孝氏)を派遣[3]したこと、卑弥呼が住んで政務を執る宮殿と、望楼があり、そのまわりには防衛のための柵列が巡らされ、兵士が終日護衛していたこと、階層関係があり、法による裁きと刑の執行があり、非自由民が存在し、租税制度、市場や流通管理機関、地方監督官、が存在し、伊都国や奴国などの諸国には「(大)官と副官」という二人の統率者がいた、等々のことになる。地理的記述は謎に満ちており、その通りに辿ると海の中になってしまう。
著者は、首長の墳墓やその出土物の研究、特に前方後円墳が出現するまでの墳墓の変遷や鏡(漢鏡、三角縁神獣鏡)の編年などについての諸研究から、中央集権国家の出現自体を確信し、その成立時期は魏志倭人伝が伝える邪馬台国の成立時期に近く、その場所は畿内であると推定している。魏志倭人伝の記述の考古学的検証がいくつかなされている。宮殿、望楼、柵列は、首長の居館であって、巨大環濠集落ではない。従って残念ながら九州の吉野ヶ里遺跡は落選する。地理的記述については、中国の地理観の誤りがあったと推定される根拠[4]を示してこれを補正すると邪馬台国は海の中ではなく大和(畿内)にあることになる。従って、卑弥呼の居館は奈良県桜井市の纒向遺跡で、墳墓は箸墓古墳である可能性が非常に高いと考えている。この説は学会でも有力な説であるが、箸墓古墳の発掘が許可されない[5]ので解明が進まないこともあって未だ仮説の域を出ていない。
邪馬台国は、西日本全体を統一した後、東海から関東にかけても統治の範囲を広げ、当時の地方権力に比べて突出した権力を持った統治体制を築いた。この統治体制は、地方権力の実力と、前方後円墳という墳墓形式を継承することが正統な権力の継承であるという、いわば共通のイデオロギーに支えられたもので、著者は「前方後円墳体制」と呼んでいる。前方後円墳体制は、中央集権の権力を強化することが必要になってきた古墳時代中頃、四世紀末まで続く。

第三章 巨大古墳[6]の時代へ
四世紀に入ると、東アジアにおける国家統治の不安定化が倭国[7]をより強力な中央集権国家へと変化させはじめた。前方後円墳体制という権力継承イデオロギー的なものの代わって、朝鮮半島の鉄資源などの経済面に支えられた実力や、百済を通して伝えられてくる東晋や宋の官僚制度などの知識がものをいうようになってくる。それに伴い、畿内の前方後円墳勢力が次第に他の勢力を凌駕して中央集権体制を整えていくが、前方後円墳自体の築造は五世紀を最盛期として消滅していく[8]
四世紀初めに、中国大陸では漢族の西晋が胡族に追われて南へ逃れ東晋を立て、華北は五世紀中頃までの五胡十六国時代を迎える。華北の統治が弱体化したことで、四世紀初めに高麗は朝鮮半島の漢族の支配地域であった帯方郡を滅ぼすが、それを脅威と受け止めた百済は倭との関係強化[9],[10]を図るとともに五世紀初めに東晋から百済王の称号を授かるなどの対抗策を講じた。
このような情勢は倭にも強い影響を及ぼした。五世紀に入ると、倭の五王[11]は中国各王朝に使者を派遣し、朝鮮半島南部における覇権を認めるよう働きかけ、最後の倭王武(雄略大王)は宋より、宋の庇護下にあった百済を除いた分についての覇権を認められた。倭の五王の外交活動や軍事行動の目的は、朝鮮半島の覇権を獲得することによって鉄資源の獲得、先進文物の確保をするっことにあった。倭の五王は、卑弥呼以来継承されてきた前方後円墳勢力であることは確かであろう。
三世紀前半に古墳時代に入ってから五世紀後半までは、中央権力の移動と、それと連動した地方の有力首長の交代もしばしば起こったが、全国的規模での権力構造の変動が四世紀後半から六世紀前半にかけて三回起こった。一回目は四世紀末~五世紀前半で、これにより大和東南部を根拠地とした中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が弱体化し、河内に拠点を持つ中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が主導権を持つようになった。二回目は五世紀後半で、全国で多くの系譜で盟主墳が断絶すると同時に全く新たな盟主墳が出現する。この出来事は、伝統的政治体制を支える有力首長同士のネットワークを破壊し、中央に権力を集中する革新的体制を敷いた雄略大王の出現と関係があると推定される。三回目は六世紀前半で、この変動の特徴は、前回の変動で断絶した多くの系譜が復活するとともに、渡来系集団が政治的力を持ったことにある。この出来事は、淀川系系譜に属する継体大王の出現と関係があると考えられている。大阪三島(現在の高槻市)の今城塚古墳は、継体大王陵 と考えられている。「記紀」に見える継体大王擁立運動は、伝統勢力の巻き返しによる反動の嵐と言える。

第四章 権力の高まりと古墳の終焉
古墳時代を通して倭国の統治権力は強化され、それを支える要因も変質してきた。成熟した古代国家の統治には、官僚、軍、税、賦役、流通、共通規範、権力秩序の維持や階層化などの存在が必要とされるであろう。古墳時代には、中央政権、首長、一般農民等の各層ごとに、これらの萌芽が考古学的な遺跡群の調査から確認できる。著者は、古墳時代を欧米の研究者が名付けた「初期国家」に位置づけられると主張している。
古墳時代に入ると環濠集落が消滅し、高床式住居が築かれた首長の居館は独立し、一般住民との隔絶性を強めていく。一方、残された一般農民もまた、小規模ながら柵列や濠で囲まれた屋敷地を築き始める。日本列島の九州から関東に至るまでの集落一般の有り様から、大王、有力首長、首長、有力農民、一般農民、隷属民といった階層分化が生じていたことが推定される。
六世紀に入るまでに墓の階層化も進み、大王は500メートルくらい、首長は100メートルくらいの前方後円墳をつくるようになっていた。一方、農民達は個別の小さな盛り土の墓と厖大な数の土壙墓に葬られていた。土壙墓は、一カ所で600から700体も埋蔵されたものもある。
租税と賦役労働が始まったであろうことは、倉庫の規模、数、あり方、巨大古墳の造営や水利土木工事等に投入された労働力の推計から窺い知ることが出来る。五世紀後半の大阪府法円坂遺跡にある大型高床式倉庫群の年間貯蔵能力は、お米に換算して必要な水田面積が今の大阪府の2030%くらいとなる(文中データの小生換算)。古墳の築造や灌漑用水路の造成等にも多くの農民の賦役が必要なはずである。例えば河内の古墳築造だけでものべ1500万人が動員されたと推定されている(石川昇氏)。古墳時代は租税や賦役労働を課された人々と、それらを課す首長が存在する階級社会であった。
五世紀には全国の流通網も整備されていた。この頃に前方後円墳の分布が最大となり、北は岩手県角塚古墳(胆沢城近く)、南は鹿児島県の唐仁古墳群と塚城古墳群まで広がっていたが、この範囲には、大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が運ばれていた。このことは覇権の拡大が流通網の整備を伴ったものであったことを物語っている。
階層社会全体を維持管理する専門集団の存在は、「記紀」の研究から解明され始めているが、古墳から出土した刀の銘からも解明され始めている。例えば、19789月に公表された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣がそうである。そこに刻された銘文115文字の銘文から、五世紀後半のワカタケル大王(=雄略天皇)の時代には、身辺警護を務める軍事組織(その首人は「一杖刀」)が、その首人の八代前から存在していたことが推定された。また、この銘文によって、「記紀」に記された「人制」という官僚制の起源が六世から少なくとも五世紀後半にまで遡った。
五世紀後半の雄略大王は、急進的な中央権力の成長を目指した行動をとったと推定される。強大な地方権力であった吉備氏の反乱と没落はこのような背景から起こったものと思われ、「記紀」の記述とも整合性がある。六世紀前半、継体大王の時代に起きた磐井の乱[12]は、この時代における全国的な古墳の系譜の変化と併せて考察すると、雄略大王の強力な中央集権政策に対する抵抗運動であったことを窺わせる。
雄略大王と継体大王とでは、その支持勢力が違っていた 。また、文献史家の研究によれば、雄略大王と継体大王は家系が異なると考えている[13]。しかし、倭政権における中央権力の移動があったにもかかわらず、ともに中央政権を目指していくことが可能であったのは、東アジアと対等に渡り合って行く必要性のためであったと推定される。
六世紀以降の墓の形態から、人々の意識の変化が読み取れる。横穴式石室を持った円墳が集まった群集墳が一般化する。これは、渡来集団の文化が、この時代になって日本に広く受け入れられたことを意味している。横穴式墳墓の構造は、広い石室を造って(一族を順繰りに葬ることで)来世の家とし、死者が来世の生活を営む場を重視する思想に基づいたものであり、中国の漢代に生まれ発達したものであった。群集墓は政治的意味を帯びたものでもあった。それは、有力氏族の権力を誇示する新しい手段であったと考えられる。これらの墓の形態、規模、埋葬物、人骨、等々の科学的研究から、家族、同族、氏族のあり方の一端を知ることが出来る。例えば、従来、古墳時代は父系制の社会と考えられてきたが、意外と女性の地位が高かったと推定されている。
六世紀に入ると、首長は中央政権の設けた地方行政組織の長である国造に任命されるようになる。軍事権や裁判権を備えた国造制は、西日本では六世中頃、東日本ではそれより半世紀ほど遅れて整えられた(篠川賢氏)。畿内では六世紀後半には前方後円墳を営む首長は急激に減少し、その後突然造営されなくなり、代わりに大型の方墳が採用されるようになった。代表例は、女帝推古など蘇我氏を外戚とする大王や蘇我氏(馬子の墓と言われている横穴式の石舞台も)。それと並行して仏教祭式が取り入れられてくるが、このことは、権力の継承のための前方後円墳祭式に代わって、仏教祭式が取り入れられてきたのだと解釈することが出来る[14]


五章 律令国家の完成へ
初めての律令制が敷かれたのは七世紀の飛鳥京で完成は八世紀初頭と言われている。それは統治範囲(南は薩摩国から北は陸奥国まで)、身分制度 、官僚制度 、国家による土地の占有 、軍制制度等々において、(形の上では)この時点において古代国家として成熟したものと言えるからである。しかし、唐の律令制が取り入れられた背景には、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した後の危機感から急造したという事情があり、それを日本の実情に合わせながら、飛鳥京から藤原京、平城京へと遷都する過程で何度も修正しつつ作り上げられてきたものである。したがって、その完成は八世紀末の平安時代であるであるという説もある[15]。著者は、唐の律令制(に象徴される様々な統治の仕組みや条件)を日本の事情に合わせて作り上げていくプロセスを様々な遺跡のデータから説明している。
672年~693年まで政治の中心であった飛鳥京は、既に著者の定義する都市であった[16]。つまり、統治と権力の完成度を測る重要な条件は満たされていた。その後694年に隣接地に移った藤原京は近年の発掘で後の平城京に匹敵する規模であったらしいことが分かってきたが、ここで律令制の内容が更に改良されていった。
首都に相当する都市以外で都市に相当するものがあったのかどうかはよく分かっていない。古墳時代の首長居館(及び周辺の農村)は、いまのところ都市的環境は整っていないと著者は考えている。農村以外の須恵器や鉄などの生産の地や市などの交易の地で都市と言えるものはなかった。しかし、しかし、中国の『史記』や『漢書』の記述に見られ「陵邑」[17]や、古代エジプトのピラミッドタウンのように、日本列島においても巨大古墳造営に関わる人々の都市があっても不思議ではない。現に古市古墳群や百舌鳥古墳群では「造墓工房」として把握されている。

六章 日本列島に国家はいつ成立したか
日本の古代史学会では、710年の平城遷都をもっと国家成立とする見解が支配的であり、著者も特に異存はない。しかし国家は突然出現するものではないので、著者の論点はその成立時期ではなく、開始時期、つまりヨーロッパ・北米の人類学者が成熟した国家に先立つ段階を原初国家とか初期国家とかの名前をつけて捉えようとしているようなその開始時期である。著者は、日本列島においては古墳時代が初期国家に相当するという説を提唱しているから、その開始時期は三世紀初めとなる。これについては、内外に異説があって、その紹介と反論がなされている。また、初期国家と成熟国家の最も大きな違いを土地の所有にあると考えており、日本においてのそれは、律令国家の「公地公民」制となる。
著者は、エンゲルス[18]、ウエーバーから文化人類学者等の考え、また、国家形成の契機についての、エンゲルス、K.ウイットフォーゲル、江上波夫、R.カーネイロ、G.チャイルド等の考えを紹介し、文化人類学者のH.クラッセンらの考えに賛同している。それは、首長制の次の段階である初期国家は、以下に定義される社会段階を持つというものである。
     階層社会を基礎として
     階層社会を生むほどの多くの人口を擁し
     恒常的余剰を持ち
     血縁ではなく地縁原理が支配的で
     社会の分裂を回避しうる強制力のある政府を持ち
     中央政府があり、支配の正当性を支える共同イデオロギーをもつ
著者は、日本列島に古代国家が成立した時期を特定する作業を通して、民族形成と国家の関係、日本国家の性格について考察している。キーワードは「われわれ仲間」という帰属意識で、これが初期国家における中央権力の拡大と共に出来上がってきた、つまり必要物資と威信財の流通、言語や民衆レベルの生活様式などの文化的な共通性が出来てくるに従って形成されてきたと言う[19]
遺伝形質や古人骨DNA解析による研究、言語学による研究によれば、日本人とはDNAも言語も、その身体と頭脳の中に混じり合いながら、西日本から周辺に広がっていった人々である。だたし、北海道と南島ではその影響は殆どなく、各々縄文的形質を残しながら進化して現在のアイヌ人や琉球人になった。これらの認識は考古学的な知見と矛盾がない。
最後に、著者は日本の墳丘墓と古代都市形成の研究から、日本国家の特徴として興味ある意見を述べている。要約するとこうなる。「世界各地の墳丘墓のあり方を比較すると、日本の古墳時代のような、異なる墳丘形式の共存は極めて特異な現象であるから、初期国家成立時におけるこの現象は、現在の日本の国民性にまで深い影響を与えているのかもしれない。日本の初期国家では、都市が全面的には発達せず、首長や王の宮に住民を囲い込まなかったことも、ヨーロッパや中国とは異なっている。日本の古墳時代のユニークな社会体制が生まれた要因については、考古学の今後の課題になるだろう。」[20]

最後に、本書の時代区分とその内容を表にまとめてみましたので、添付しておきます。



(表) 都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』の時代区分

弥生
時代
1200
早期
200
BC 1000
BC 800
水耕農耕が始まった時代。採取も主な経済活動として継続していた。
縄文時代晩期より、朝鮮半島から日本列島に、人々の体格を変えるほど大量に渡来した人々が、水耕農耕や生活習慣を伝えた。
前期
400
BC 800
BC 400
米の栽培が定着し、環濠集落が出現した。環濠集落は、その環濠の構造から集落の平和を脅かす人間への防衛施設と考えられる。大きさは50メートル程で人口は50人くらいのイメージ。
武器で損傷した人骨の出土例も弥生時代になると北九州から始まって爆発的に増加する。弥生時代前期までの争いは、地理的条件で区切られた範囲の中に限られており、リーダーは環濠集落内に住み、まだ階級社会ではなかった。
中期
350
BC 400
BC 50
争いが激しさを増し、政治的まとまりが始まると共にその規模が拡大して小さな「国」が出現してくる時代。「国」と「国」同士で、耕作地や水を巡って、また中国の王との交易権を巡って争いが起こり、複数の「国」が政治的なブロック(北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東)を形成していった。しかし、争いの範囲はまだ政治的ブロック内に留まっている。
「国」は、中期中頃に出現するセンター集落を核にした、環濠集落がグループ化した集団と考えられる。「魏志倭人伝」に言う「国邑」、あるいは「漢書」に記載されている「分かれて百余国」の「国」に当たるものだろう。例えば「奴国」(北部九州東側)、「伊都国」(北部九州の西側)、「狗奴国」(東海地方との説がある)などが挙げられる。巨大環濠集落は、祭祀兼政治の機能、農耕以外の生産や物流センター機能も備えていたが、生活必需品を遠隔地に依存する「都市」(城塞都市)とは言えず、著者はこれを「城塞集落」と名付けている。中期末にはリーダー一族の墓が共同墓地から離れ、独立して築かれ始め、巨大環濠集落の大部分は弥生時代中期末には急速に衰退していく。
後期
250
BC 50
AD 180
弥生時代中期に形成され始めた政治的ブロックがその範囲を拡張していくとともにブロック同士の衝突が始まる。
西日本においては全体を巻き込んだ動乱が続くが収拾がつかず、地方権力の首長たちが争いを治めるべく卑弥呼を共立し、邪馬台国が出現する(2世紀後半)。
邪馬台国の場所は畿内の可能性が高いが、確定はされていない。
巨大環濠集落が解体し、リーダー一族は濠や柵列で囲まれた居館へ移り始め、墳墓も共同墓地を離れて築かれ、権力構造に基づいた首長が誕生し始め、残された一般農民は分散して村を作るようになる。
終末期
60
AD 180
AD 240
卑弥呼が王として君臨した時代。卑弥呼が魏に初めて使者を派遣(239年)。前方後円墳、前方後方墳の原形が築造され始める。
リーダーが首長へと変身し、大規模な首長居館に移り住み、一部の墓は丘陵の高みに独立して築かれ始める。
古墳
時代
350

3世紀前半
6世紀末
古墳が築かれた時代。世界史的意味での「初期国家」の時代。
東海の狗奴国が邪馬台国と戦い、東国の動乱が起こり邪馬台国優位で修了する(247年)。卑弥呼が没し(248年)、前方後円墳と推定される巨大な墓が築かれる。その後権力者は引き続いて古墳を築くようになり、前方後円墳をはじめとして複数の形式の古墳が併存する状況は四世紀末まで続く(前方後円墳体制)。
纒向遺跡にある大型建物の遺跡は卑弥呼の居館かもしれない。卑弥呼の墓は前方後円墳の箸墓古墳である可能性が高いが、発掘調査の許可が取れないので確定されていない。
三世紀前半~四世紀末にかけて中国王朝から受領、あるいは日本列島内で製作された三角縁神獣鏡が、威信財として古墳時代の社会秩序の形成と維持に大きな役割を果たした。三角縁神獣鏡は古墳に沢山埋葬されている。
四世紀初めに中国の統治が不安定になり、東アジア動乱の時代が始まり、四世紀半ば以降日本と朝鮮半島との交流が急速に拡大する。このことは日本の統治権力に大きな影響を与えた。
五世紀には前方後円墳の大きさが最大規模となる(伝応仁陵、伝仁徳陵)。
飛鳥・白鴎
時代

7世紀初め
8世紀初め
律令制がなじむように整えた時代。
奈良
時代

710年に平城遷都
成熟した日本古代律令制度国家が誕生した。

AMS分析(加速器質量分析)の発達もあって、ここ数年で弥生時代が500年程遡っている。1984年の『新版 日本史年表』(岩波書店)では弥生時代前期がBC3世紀となっており、この記述からは800年ほど遡っている。







[1] 初期国家とは、国家の制度が試行錯誤されている国家の前段階のことだが、そう名付けて国家と区別しているのには理由があるはず。それは、国家の性格を規定していった要因がここに集約されているからだろう。
[2] BC 50年~AD 180
[3] 初めての派遣は魏志倭人伝によると238年だが239年が本当らしい
[4] この資料は、15世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図」という地図。これに記載されている日本列島の位置関係は、90度ほど右回転しているとともにかなり南によっている
[5] 天皇陵などは法規に従って宮内庁か管理しており発掘は許可されていない
[6] 全国にある古墳の数は161,560基(平成133月末 文化庁調べ)、wikipedia
[7] 古墳時代の倭国は邪馬台国の続きなのであろうが、どちらの名前も中国王朝が文字に残して付けたものなので、呼び方に拘る必要はない。「日本国」と呼べるようになるのは「国家」として内外が認めた後のことになる
[8] 巨大な前方後円墳として、河内の誉田御廟山古墳(伝応仁陵)、和泉の大仙陵古墳(伝仁徳陵)が著名である
[9] 奈良県石上神宮伝の七支刀の銘文が近年解読され、372年に百済の王から倭王に贈られたものと判明した
[10] 高句麗の「広開土王碑」には、391年倭を高句麗の国境で撃退すると記載
[11] 中国の歴史書に記されている名前では、讃、珍、済、興、武。日本書紀記載の、履中、反正、允恭、安康、雄略、に当たると考えられている
[12] 磐井の乱とは、『日本書紀』によれば527529年にかけて、筑紫国造磐井が、朝鮮半島に出兵しようとした中央軍を阻止したが鎮圧された事件
[13] 「記紀」によれば、継体大王は北陸から京都南部に移動し、大和に移って大王についたとあるので、河内で続いた雄略の系譜を継いでいないと推定される
[14] 小生注:墳墓形式の変化の仕方、538年とも言われている仏教伝来時期、渡来系の人々との関係、前方後円墳という古い体制、と続けば、蘇我氏が自然に浮かぶ
[15] 小生注:日本列島の人々にとって、新しい国の形が身についたものとなるには、その国造りを自らの経験として積み重ねる必要があったはずである。この視点は、近代の日本にとっても当てはまるだろう。そもそも国家が成立する基盤は、その時代を生きる人々の心性に現れ出る現象の共通了解なのだから、完成かどうかが問題なのではない。
[16] この地で、689年に律令のうち令だけの「飛鳥浄御原令」が発布された
[17] 造営に数十年かかり、数十万の人々が暮らす場所=都市
[18] エンゲルスはL.モルガン の『古代社会』を基礎に、『家族・私有財産・国家の起源』を書いた。ここでL.モルガンについての小生注:1818年生まれのアメリカの人類学者で、同時代のマルクスやエンゲルスの大きな影響を与えた。レヴィ・ストロースも『親族の基本構造』の冒頭において、E.B.タイラーの文章を引いて、100年近く前に逝ったモルガンを偲んでいる
[19] この思考には因果律の罠がある。ここはヘーゲル風の弁証法にお出まし願うほかはない
[20] 歴史的に多様な社会が存在したことの一例で特にユニークではないだろう。ここから人間社会の新たな本質が読み取れるわけではないが、忘れていたことを身近に思い出させくれる効果は大きいと思う