2017年6月17日土曜日

『憲法と平和を問いなおす』長谷部恭男著 ちくま新書


【感想】

バレリーナ
新書だが内容は深く読み応えがある。それはタイトルからしてそうであるはず。箇条書き風にしても結局A430ページ程になってしまった。

どうすれば平和に共存できるのか、ボタンを押せばその答えが出るのではなく、結局は「自分で考える」他はない、著者はそう言っている。少し内容は難しくて理解できないところがあるかも知れないが、そのことを孫達が感じ取ってくれれば良いと思う。



【要約】(括弧内は小生の補い)、[数字]は文末脚注。

まえがき

九条をはじめとする憲法改正論議には欠けている視点がある。それは立憲主義という視点である。なぜ立憲主義という考え方が生まれたのか、それを探っていくと、戦争と平和の問題に行き着く。



序章 憲法の基底にあるもの

立憲主義とは何だろうか

l  立憲主義とは何かについては、憲法研究者の間で広く意見が一致しているとは言いがたい。また、この問題にさほど関心が無いようにさえ思われる

l  憲法典(憲法の文章自体)に従うのが立憲主義であるという考えはすぐ破綻する

Ø  アフリカ政府の大部分は憲法典をレトリックとしてしか扱っていない

Ø  イギリスには憲法典がないが、立憲主義国家である

l  立憲主義に求められている要素は民主主義の擁護(具体的には例えば人民主権や議会制民主主義などを擁護すること)と国家権力の制限(具体的には権力の分立や国家権力による人権侵害の防止など)である[1]。しかしこの二つの要素は対立する場合がある

Ø  例えば、主権者である人民の多数派が、(民主主義のルールに則って)特定の人々の権利を剥奪する(決議を行い、国家権力がその決議のもとに特定の人々の権利を剥奪する)のは、民主主義の擁護と国家権力の制限が齟齬を来す事例

l  ここでは議論を進めるために、とりあえずは国家権力の制限の側面を立憲主義と呼ぶことにする(答えは簡単には腑に落ちるものとはならない。これから行う議論の過程において次第に明らかになる)

Ø  立憲主義の強みと謎は、民主主義に基づいて行使される国家権力でさえ制限されるという点にある(人間社会の歴史という経験は多くの謎を生み出すのだが、そのことの理解がなければ謎であるという問いすら生じない)

Ø  フランス人権宣言第16条では、国家権力の制限という側面を指して立憲主義という言葉が用いられている

Ø  憲法典は主権者たる人民が制定したのだから、憲法典による国家権力の制限は民主主義とは矛盾しないかのように見えるが、そうではない。その原理的理由は、(昔に制定された)憲法典は今生きている人々が制定したのではない、という点にある

立憲主義をなぜ問題にするのか

l  民主主義や人権を守る憲法は前提にされていても、立憲主義を問題にする意味がわからない人もいるかもしれない(殆どの人は意味がわからない)[2]

l  本書の主張は、立憲主義は民主主義とだけではなく、つきつめてゆけば平和主義との間でも深刻な緊張関係にあるというものである

Ø  そのために本書は、そもそもなぜ民主主義なのか(第Ⅰ部)、なぜ立憲主義が必要なのか(第Ⅱ部)、平和主義の検討(第Ⅲ部)という構成になっている



第Ⅰ部 なぜ民主主義か?

第1章       なぜ多数決なのか?

多数決をとる四つの理由

l  意見の対立があるにもかかわらず、集団 (広くは社会全体)としての統一した結論が必要となる場合に、多数決をとるのは何故だろうか?

Ø  政治思想家であるハンナ・アーレントは「多数決原理はあらゆる会議体、集会において殆ど自動的に採用される」ものであって、「決定のプロセスそのものに内在する」原理だと言う

Ø  多数決をとる、という理由を考えれば、どのような場合には多数決で結論を出すべきではないか、という場合もありうることがわかる

²  民主的な決定(その決定は権力の行使を伴っている)に対する制限がありうるのであって、立憲主義はその制限をかけるものである

l  なぜ多数決なのかという問いに対して、しばしば四つの答えが提示される。順次それらを説明するが、考察すべきは多数決の結論に従う理由、多数決の正当性の根拠である

自己決定の最大化(一つ目の答え)

l  可能な限り多くの人に自己決定を保証する

Ø  決定原則は単純多数決となる(12以上の賛成を獲得した選択肢が結論となる)

²  全員一致或いは23以上などのような決め方は、一人或いは13の人の反対で他の全員或いは23の人の自己決定が保障されていないことになるから

²  (この場合の原則は、自己決定が保証されることであって、より多くの意見を結論として採用するという考えにあるのではない)

l  だが、この答えはかなり弱々しく消極的なものである

Ø  選択肢の中身の正否は問わず、多数決が一番害の少ない方法と考えているから

Ø  ワイマール共和国[3]時代の法哲学者ハンス・ケルゼンは、単純多数決こそが、各自の自己決定と集団の結論との矛盾を最小化する手続きである、と言った。その背景には、かろうじて当時の社会の秩序を守ろうとする意図をみてとることができる

功利主義(二つ目の答え)

l  功利主義的に考えれば、多数決には正当性があって、やはり単純多数決となる

Ø  功利主義は本来、社会全体としての行動の決定と評価の原理として提示されたものであるが、ここでは一番分かりやすいベンサム[4]の説に則って考えていく

Ø  ベンサムによれば、善悪の評価の唯一の基準は、社会の幸福の最大化であって、その大要は以下

²  「幸福」は心理的なものであって、原理的には計測可能である

²  「幸福」は、その人が感じる「快楽」から「苦痛」を差し引いたものである

²  社会の幸福はメンバー全員の幸福を足しあわせたものである

²  政策は社会の幸福の最大を目指すべきでありそれ以外の判断基準はない

l  単純多数決となる、と考える理由を理解するための例示

Ø  人の快楽や苦痛は他人には分からないが本人の申告、例えば投票によって測定れば分かる。例えばダムをつくるか否かを投票すれば、賛成票から反対票を差し引けば社会の幸福が増大するかどうかが分かる

l  この論議の不都合な点

Ø  一人の一票には、その個人にとっての幸福や不幸の度合いは反映されない

Ø  選択肢が三つ以上あると、投票が幸福の反映手段になるとは限らない(自分が最も反対する票を葬るために一番賛成するわけではない政策に賛成するなど)

Ø  政策の判断基準が、社会の幸福を最大化するという考え方自体に誤りがある

²  一人の命を犠牲にして複数の命を助けることは、社会の幸福を増大させるので正当化される可能性がある(例えば臓器移植)

²  幸福とは個人を対象としたもので、それを足しあわせた「社会全体」の幸福には意味があるのか疑わしい

l  幸福な人を増やして不幸な人を減らすような結論を選択すべきだという前提自体は多くの人の共感を得られるだろうが、多数決がそうした結論に到達するための政策を見分ける手段になるのかどうは疑わしい

すべての人を公平に扱う(三つ目の答え)

l  多数決はすべての人を公平に扱う決定方法である

Ø  一人一人の意見が同じ重みを持つ限り、単純多数決となる

Ø  公平さは、純粋に手続きの公平さであり、その手続きの結果が集団によりよい事態をもたらすかどうかには無関係である

コンドルセ[5]の定理(四つ目の答え)

l  単純多数決が(採るべき政策としての)結論の正しさを保障する

Ø  集団のメンバーが二つの選択肢のうち正解を選ぶ確率が、メンバー全体の平均で50%を越えていれば、正解に達する確率はメンバー数が増すほど高くなるから

l  この論議の不都合な点

Ø  そもそも、政策に正解があるかどうかが問題

Ø  政党や結社は実質的に投票者数を減少させるから、正解に至る確率が減少する

Ø  専門的とか偏見に囚われがちな問題の場合には判断能力が低下して、正解に至る確率が減少する



第2章       なぜ民主主義なのか?

多数決と民主主義の異同

l  第1章より、多数決の正当性には唯一の正解があるのではなく、多数決の持つ多様な機能のうちの幾つかが、問題ごとに利用されるべきだと考える方が良いことが分かった

l  民主主義と多数決の正当性に対する問題は同じではないが、民主主義の下では多数決で事が決まることが普通だから、民主主義は多数決と同様に、(それが持っている様々な機能の)様々な役割を、ときには同時に果たしていると考えられる

二つの見方

l  意見の対立があるにもかかわらず、集団 (広くは社会全体)としての統一した結論を出そうとするときには、二つの異なるものの見方があって、それを区別する必要がある

l  第一の見方は、その結論には「客観的な正解」があり、民主主義及び多数決は、その正解を発見するための、或いは少なくともそれに近づくための手段である、と言う見方

Ø  正解の基準は民主的プロセスとは独立に存在する

Ø  多数決についての、功利主義の考え方やコンドルセの定理はこちらの方

l  第二の見方は、その結論には「客観的な正解」は存在せず、民主的な手続きに従って出された結果を「自分たちの答え」として受け入れるほかはない、と言う見方

Ø  正解の基準は民主的プロセスとは独立に存在しない

Ø  多数決についての、自己決定の最大化や手続きの公平性の議論はこちらの方

第一の見方をさらに二分する

l  一つは、民主的なプロセスの中で表明される議論や投票は、「客観的な正解」を直接表明しようとするものである、という見方

l  もう一つは、そうではなく、それらは「客観的な正解」を直接表明しようとするものではない、という見方

Ø  功利主義の民主主義観が典型的である

²  すべてのメンバーが自己利益に基づいて行動する結果が、社会全体の幸福の最大化という客観的「正解」を導くのだから、はじめから正解が分かっているのではない

²  民主的プロセスによって得られた結論が正しいか否かを判断する基準は、社会の最大幸福か否かであるから、正解は民主的プロセスとは別に存在する

²  社会全体の幸福に関する正解を予め判断して投票すると結果が歪められるから、有権者は自分たちの自己利益を素直に表明すべきこととなる

l  (面白いことに)功利主義の「正解」の判定基準は維持しつつ、その民主主義観のすべては受け入れずに、コンドルセの想定に従って、有権者が対立する二つの政策のうちでどちらが社会の幸福を最大化に繋がるのかを議論し、よく考えた後に投票するというモデルは、上記の見方のはじめの方の立場がとられていることになる

アーレントの民主主義観

l  上述した、なぜ民主主義なのか?を考えるときの二つの見方以外に、民主政治に参加すること自体が人を真に人たらしめることであり、ともかく参加すること自体に意義があるという考え方がある。典型はハンナ・アーレントである

Ø  古代ギリシャのポリスにおける民主政治(当時は共同体と市民個人は一体)

Ø  アメリカのタウンミーティングに意義を認める考え方はこれに近い

民主主義の自己目的化?

l  アーレントに典型的に見られるこうした民主政治に対する見方は意外に広く支持されているが、現代の民主政治について考える限り、第一に自己破壊的であり、第二にそもそも議論として成立しない

Ø  一人一人の発言や投票自体が社会全体の結果にもたらしうる影響力は(当然のこととして)ほぼゼロに等しい

Ø  民主的参加の意義を強調することは、個々人の利害損得の観点からは非合理的

Ø  (現代のように)国政の動向が個々人の生活に大きな影響を及ぼすような社会では、人々は否応なしに政治への参加を強いられて不幸になるだろう、というのは、人生には政治以外にも重要なことがいろいろあるのだから

Ø  凡庸な政治家に任せておいても、一般人の生活に大きな悪い影響をもたらさない程度に民主政治の行動範囲を枠づけることは立憲主義の重要な役割である

Ø  政治参加が喜びを与えるは副次的効果に過ぎない

Ø  達成されるべき社会全体の利益は、最終的には、社会の一人一人のメンバーの利益になるものでなければならない

Ø  自己破壊的結果が生み出される例としては、国民一般の法制度への理解を深めるという目的を、国民の司法参加の理由づけとする議論を挙げることが出来る

²  (参加の喜びなど)副次的効果を目的とした国民が裁判員として裁判に参加することは、訴訟の当事者にとっては極めて不幸な事態と言える

民主主義の失敗

l  民主主義への問いに対する答えは多様であり、唯一の正解があるのではないが、様々な役割を果たしうるシステムであって、その正当化の理由は以下のようなものである

Ø  「客観的に正しい」と言いうる政策を確定するために用い得る

Ø  多様な利益の調整と妥協の手段として用い得る

Ø  上記のような決定が得られた結果、参加した人々が幸福感を抱き得る

Ø  最低限、民主主義は人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について結論を出すという役割を果たし得る

Ø  (民主主義が限定されること、民主主義で決められることに制限を設けることの正当性は、民主主義を正当化する理由が失われているという事態の中に求められる、ということになる)

l  民主主義が期待されている最低限の役割を果たし得るには一定の条件があって、それが満たされていないところでは、全体としての統一した結論をだそうとすると社会は対立の度合いを深刻化させ、社会が分裂しないことが前提なのに社会の分裂を招きかねない

l  民主主義が問題の解決に失敗した結果、社会の重大な危機を招いた例は、歴史上事欠かない。例えば下記

Ø  アメリカ合衆国は奴隷解放問題を民主的に解決することが出来ず、国土を二分する内乱[6]を招いた

Ø  第四共和政[7]のフランスはアルジェリア独立問題を民主的に解決することが出来ず、結局、ドゴール大統領に問題の解決を委ねた

Ø  ワイマール共和国が社会内部の深刻なイデオロギー対立を解決することが出来ず、民主主義の崩壊を招いた

l  民主政治は、社会の根幹に関わるような問題を解決することは出来ない、とさえ言える

Ø  イエール大学のロバート・ダール教授は、民主政治は「些末事件」にのみ係わるものだとさえ言う

民主主義の限界

l  民主主義が機能する必須条件と民主主義の機能にとって好ましい条件は、ダール教授によれば以下のようになる

Ø  必須条件

²  選挙された公務員による軍及び警察のコントロール

²  民主的な信念と政治文化の普及

²  民主主義に敵対的な外国の影響の不在

Ø  好ましい条件

²  現代的な市場経済と社会システム

²  国内の文化的対立が弱いこと

l  しかし、「民主社会であっても、なお、民主的には決めるべきではない問題群がある。立憲主義による民主主義の制限がそれである。」

l  民主主義が良好に機能する条件の一つは、立憲主義による民主主義の制限である

Ø  民主主義が適切に答えを出しうる問題が限定されている

Ø  その限定された問題に対して、民主主義の出来る事柄が限定されている

l  世の中には、社会全体として統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうではない問題がある

Ø  その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である



第Ⅱ部 なぜ立憲主義か

第3章       比較不能な価値の共存

「自然権」は自然か?

l  立憲主義は西欧起源の思想である。この思想を支えるものとして、人は生まれながらにして自由且つ平等であるという権利、すなわち「自然権」[8]を持っている、という考えがある。しかし、ありのままの自然に任せておいたのでは、人はそう考えないからこそ、「自然権」という考え方が重要な意味を持つ(現代に至るまでの歴史を見れば歴然)

「正義の状況」

l  「正義の状況」という概念は、政治哲学者のジョン・ロールズによって広められたもので、一言で言えば「人間が正義を必要とするに至る状況」のこと

Ø  客観的条件は、人々が、集団で生活し、能力はほぼ同等で、必要な資源が稀少であること

Ø  主観的条件は、関心や必要な対象が重なり合うにもかかわらず、一人一人は独自のライフ・プランを持ち、何が善い生き方なのかは異なり、人が持つ知識や判断の能力は十全とは言いがたい、ということ

l  正義の状況の条件が取り払われれば、正義は必要でなくなる、ということになる

Ø  マルクスは、生産力の発展がいずれ資源の希少性問題を解決し、一人一人の能力を開花する状況を生み出すと予想したのは、ロールズの言う「客観的条件」の方だけだが、歴史的には例外的な考え

Ø  客観的条件の方は、古今東西あらかた認められてきたが、主観的条件の方は人々の共通了解であったとは言いがたい

宗教戦争と懐疑主義

l  ヨーロッパの社会では、宗教戦争[9]、懐疑主義[10]の時代に共同生活が成立しないような状況に陥った。しかし、人は生まれながらにして自己保存の権利だけは持っている、という共存するのに最低限の共通了解を梃子に、共存可能な社会の構築が始まった[11]

Ø  「人が生まれながらにして持っている自己保存の権利」は「自然権」の一つ

Ø  グロティウス[12]やトマス・ホッブズ[13]をはじめとする社会契約論者はこの「自然権」の考えを基本として、異なる価値観の共存しうる社会の枠組みを構築しようとした。これが立憲主義の始まりである

ハムレットとドン・キホーテ

l  シェークスピアの『ハムレット』もセルヴァンテスの『ドン・キホーテ』も、その背景にあるのは「人間は、善と悪とが明確に区別されうるような世界を望んでいる」にもかかわらず生じた、そうではない事態である

l  (この節は、『憲法とは何か』の方で記載したので以降省略する)

比較不能な価値観の対立

l  異なる価値観は、両立しないだけではなく、比較不能でさえある

立憲主義への途

l  多様な価値の比較不能性という事実からは、すべての人にとっての理想の社会は決して到来しないし、そうした社会を考えつくことも不可能であるという結論が導かれる

l  比較不能な価値観の対立が生み出した、現代における血みどろの争い例は沢山ある

Ø  民族や文化の対立が内乱を引き起こすと、対立する者同士では、相手を「人間」と見なさない傾向がある[14]

l  だからといって、相対主義や世間を避けてひっそりと生きる考えには論理的必然性はない(この論理的必然性とは何を意味しているのかは不明)

l  異なる価値観を持った人々が公平に平和共存しうる社会生活の枠組みを構築するという途、つまり立憲主義という途もありうる

公と私の人為的区分

l  人々はやがて、究極的な価値観の対立によって血みどろの争いを続けるよりは、平和な社会を築き、人間らしい社会生活を送ることの方を、よりましな選択とするようになる

Ø  そのためには、根底的な価値観の対立が、社会生活の、とくに自己保存を支える枠組みの中に侵入しないようにする必要がある

²  たとえば、特定の宗教を信じていることが、有利な資源配分を獲得できるような社会にしないことが必要となる

Ø  換言すると、価値観(私的領域)の対立が、社会生活の枠組みを設定する政治の舞台(公的領域)に入りこまないようにすること、つまり公と私の人為的区分をすることが必要である

民主的手続きの過重負担

l  (民主的手続きは、本来、公的領域で用いられるものである。それが私的領域において用いられると、対立する意見があっても共同体として一つの結論を出すという本来の目的のために機能しなくなり、引いては社会が分裂し、崩壊へと至るかもしれない)

Ø  (そうなると民主的手続きは信頼を失い)法を守ろうとはしなくなり、政治プロセスは党派の争いとなり、不倶戴天の「敵」と「友」に分かれてしまい、その亀裂の修復は容易ではない

l  私的領域に含まれる事項について、社会全体として統一した結論を出そうとすると、その決定の続きがいかに民主的なものであれ、その手続き自体に過重な負担をかけることになって、結局その負担に耐えられなくなり本来の機能を失うことになる

l  違憲審査制[15]は、民主的な手続きに過重な負担をかけて社会の枠組み自体を壊してしまわないための工夫である

ジョン・ロックの抵抗権論

l  ジョン・ロックの語る社会契約論および抵抗権論は、こうした(公と私を区分して、政治社会は公の部分であり、公の部分が私の部分を侵犯しないという)考え方の道筋を典型的に示している。その概要は下記

Ø  ロックの社会契約論の基本は他の社会契約論者と変わらない

Ø  人々は、固有権(財産を所有する権利+生命を維持する権利、それらを可能にする自由)を元々保持しているが、その保障を求めて政治社会を構成する

Ø  従って、政府の権力は人々の同意に基づいて信託された範囲に限定される

Ø  従って、政府が固有権を侵せば、政府への権力の信託は解消されて、もとの保持者である個人へと復帰する。これがロックの抵抗権と呼ばれるものである

l  ロックは圧政の危険性を回避するための統治の仕組みをいろいろと提案しているが、それらの仕組みだけでは完全ではないと考え、最後の手段として抵抗権を論じている



第4章       公私の区分と人権

「公」と「私」の人為的な境界線

l  「立憲主義的な憲法で保障されている「人権」のかなりの部分は、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。」

Ø  プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教(宗教を信じること)の自由は、その典型である

Ø  (この区分は人為的なものであるから、当該社会により異なりうるが、一旦引かれた区分線はよほどのことがないかぎり変更すべきではない)

信教の自由

l  信教の自由を保障することが、究極的な価値観のせめぎ合いによる社会生活の枠組みの破壊に繋がらないようにしなければならない

Ø  多数派の宗教が政治権力を利用すれば、そのようなことが起こる

Ø  従って、憲法学では、思想・信条や表現活動にたいする政府の規制については、特に厳格な審査をすべきとしている

自己決定

l  (自己決定についての)立憲主義から見たときの問題設定は、人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を、特定の人間に対して否定することが許されるか否か、というものである

Ø  立憲主義は、そうした自己決定を否定する扱いを許すものではない

Ø  20036月の米国連邦最高裁判所が、同性間の合意に基づく性的交渉を犯罪として罰するテキサス州法を違憲と判断したことはその個別例である

「愛国心」の教育

l  20033月、中央教育審議会は、教育基本法の見直しを提言し、その中で「国を愛する心」の涵養を、法改正にあたって原則の一つとして掲げている。しかし、これには以下に述べるようないくつかの問題がある

Ø  「国を愛する心」の内容が甚だ不分明

Ø  「国を愛する心」が身についたか否かを見分けることはできない

Ø  「国を愛する心」を国旗や国歌というシンボルを通して見分けようとするなら、それは危ぶまれる事態である

²  シンボルは実体の代用であって、実体が敬意抱くに値するものであれば、人は自然とシンボルにも敬意を表するものだが、単にシンボルに反応するのは訓練された犬と同じである(訓練された犬と同じような人々が、誇るに値する国を作れるはずがない)

Ø  公教育の場における「愛国心」教育は、思想・良心の自由を侵害するが故に問題だとも言われているが、問われているのは日本という社会のあり方である

²  (問われているのは、日本の社会が誇るに足るか否か、敬意を抱くに値するか否か、等々という日本の社会のあり方であって、「愛国心」の有無ではない。前者があれば後者が生じるのであって、その逆は論理破綻している)



第5章       公共財としての憲法上の権利

社会の利益の実現を目指す権利

l  憲法上の権利は、前章で述べたような公私の区分の線引きを任務とするだけではなく、むしろ社会の利益の実現を目指して保障されている権利、即ち「公共財としての権利」とよばれる権利がある

Ø  (公私の区分は個人の権利を保障するもの、公共財としての権利は公共の権利を保障するものと言えるから、具体的場面でこの二つの権利が衝突することになる)

公共財

l  社会には、例えば消防のような、市場メカニズムでは提供され得ないが必要とされる財やサービスがある。このような公共財に対しては政府が税から支払うことで必要性を満たす

Ø  利益を得るのが支払者だけではない場合は、便乗が経済的な合理性を持つことになるが、便乗者だけでは支払者がいなくなり、誰も利益を得ることができなくなる

Ø  支払者の独占が生じる場合には、他の誰もその利益を受けることが出来なくなる

Ø  (空気や水、等々で形作られている地球)環境は典型的な公共財

自由な表現の空間

l  公共財の多くは、どれだけのものにどれだけ税を使うのかに関しては民主的手続きを踏んで決定される。例えば消防、警察、外交、防衛、道路等のインフラ建設

l  しかし、公共財の中には、社会の枠組みを支え、社会の長期的利益を支え、その時々の政治的多数派の決定によって供給の量を変化させるべきでないものがある。例えば、自由な表現の空間

Ø  これは空気や水、地球環境が典型的な公共財であることに似ている

Ø  自由な表現の空間は、表現を受け取る人にも便宜を与える

²  自ら表現することが難しくともその便宜を得られ、コストも低い

Ø  自由な表現の空間は、出版物等により文芸・学問の発展に寄与し、情報を広める

Ø  討論や批判の応酬が自由であることで民主主義的な政治過程が良好に機能する

Ø  世界の多様な価値観や生き方を知ることで、寛容の精神が育まれる

Ø  これを保証するのは、その時々の政治的多数派の意図とは独立して、身分を保障された裁判官によって構成される裁判所であるのが、立憲主義諸国の通例である

マスメディアの表現の自由

l  マスメディアは法人であって個人ではない。マスメディアの名のもとに行動するのは個人だから、その個人の行動をもってマスメディアの行動と見なす

l  約束事に過ぎない法人に表現の自由が認められるには理由がある。それは公共性に基づくものであり、従って特権と制限がある

Ø  マスメディアは、個人とは比較にならない規模での情報収集・処理・伝達が可能だから、民主主義的な政治過程を良好に機能させる効果的な公共財となりうる

Ø  マスメディアには、公共財の機能へ貢献する限りにおいて、個人には認められない特権を保証される余地も開かれる

²  個人にはアクセスが許されない情報に接近可能となる

²  放送用の周波数帯の利用が許される

Ø  立憲主義の目指す社会的枠組みに大きな影響力を持つマスメディアが、公共財の機能へ貢献する活動以外の活動をすれば、大きな社会的弊害へ繋がる可能性がある

²  特に、マスメディアが特定の価値観と協調して、公私の生活領域の区分に攻撃を加えることが許されれば、(公共財の機能へ貢献する活動以外の活動が許されたことになり)大きな社会的弊害への道を開くことになる

l  米国のクリントン元大統領の私生活スキャンダル攻撃などはその例

²  特定の価値観をもって公の領域を占領する動きは大きな社会的弊害へと繋がるが、マスメディアはそのような動きと連動しがちだからである

²  このような弊害ある活動は、自由な表現の空間の機能を阻害するもので、丁度、産業における「公害」のようなものである

Ø  同じ理由から、反対にマスメディアに対する制限も正当化されうる

²  放送事業者に対する規制はその典型である

l  放送法第三条の二は、番組内容に政治的公平性を保つことや社会的に重要な論点には多様な観点からの解明を義務づけている

l  各国に広く見られる制度である

マスメディアの部分規制

l  新聞などのプリントメディアに対しては違憲とされるはずであるにもかかわらず、放送事業者に対する規制、特に番組内容に対する規制が正当化される根拠としてありうる議論は、情報提供の独占的地位に着目するものである

Ø  (情報提供の独占的地位にあるマスメディアが社会の公共財としてより良く機能するには適切な規制も必要となる。放送と新聞で規制の内容を違えているのはその工夫である)

Ø  多様な価値観や政治的立場を反映させるために放送に規制を加える一方、放送に対する政府の規制権限の行使を新聞が批判することを可能としている

Ø  規制過小による弊害は、情報提供の独占的地位を利用して、特定の政治的立場にだけ好意的な情報を発信して特定の政党が民主的政治過程を占拠する、とか、特定の価値観に好意的な、あるいは敵対的な情報が発信されることによって社会の中が「敵」と「友」にわかれて政治権力を争奪しようとする事態が生じること、など

Ø  過剰による弊害は、政府が規制権限を乱用し特定の立場に偏って情報提供を行うことによって民主的政治体制が崩壊することなど

民主主義にとっての討議の意味

l  民主主義的決定のあり方は、(既に述べたように、多数決の意義やメディアの機能・規制とも関連しているが)結論へ向けてどのような情報を交換し、どのように討議をすべきなのかということにも関連している

Ø  功利主義者の民主主義観の観点からは、情報の交換や議論は社会の幸福の最大化を為政者が認識して計算するためだけに必要ということになるが、もちろんこういう考えは極めて偏っており、賛同する人は少ないだろう

²  (功利主義の民主主義観は、結論に至る手続きには無関係に、社会の幸福の最大化という客観的な正解が存在するというものだから、そうなる)

Ø  (例えば)社会全体として統一した答えが要求される問題の一つである福祉制度とその財源のあり方についてもいくつもの立場がある。社会の幸福を最大化するという立場、長期的に見て各人の所得が平等化するようにと結果の平等化を目指すという立場、人生の出発点(16才?)において、資源を平等に与えた後はそれをどう使うかは各人が決めれば良いという立場など(だから討議は必要となる)

l  民主主義にとって、討議に意味があるという自明なことの再確認を次節で検討する

「多数決の英知」と「集団偏向」

l  「多数決の英知」はアリストテレスが『政治学』で展開している議論で、「多数者による政治が正しい結論を導くのは、多くの人々がそれぞれの多様な見解や知見をつき合わせ、総合することで、全体としては、その内のどのメンバーよりも優れた判断を下すことが出来るからだというものである。」

l  「集団偏向」という視点もある。それは「同じような意見や傾向を持った人々が集まって討議を重ねると、最初よりも、その意見や傾向が過激化するという現象で、宗教上・政治上のセクトにしばしば見られる。」という現象(討議を重ねるほど正しい結論から離れていく傾向にある)

l  好ましくない結果をもたらす「集団偏向」を避けるには、根本の論拠に溯って真剣に問題を(自分で)考える態度を養うことが重要である



第6章       近代国家の成立

社会契約というフィクション

l  (既に述べたように)自然権はフィクションであり、自然権に基づいて社会契約を結んで国家を設立したという物語もフィクションである

l  ヨーロッパに近代国家が成立する以前に存在していたのは、自然状態ではなくて身分制社会であって、そこでは、人は自然権ではなく、自分の属する身分や団体ごとに、それぞれ異なる義務と特権とを有していた

平等な人一般の創出

l  近代国家の構成要素の一つである「主権」は、教会・大学・同業者組合など、国家と個人の間に位置する中間団体が保持してきた特権を絶対君主が吸い上げて、国内で最高にして、国外には独立の政治権力を確立することで成立したものである

l  近代国家の主権が成立する過程において、個人は身分が解放されると同時に中間団体から放り出され、国民は平等な権利を有する個人の集合に過ぎなくなったが、この政治権力の統一と平等な個人の創出を完成させたのが、フランス革命である

l  近代国家は、公私の区分を機軸として、私の領域での個人の自由な生き方の追求と、公の領域での社会全体の利益の実現に向けての合意形成という、公正な社会の可能性を初めて現しめたと言える

Ø  こうした変化は、常に革命によって一挙に生じるのではなく、イギリスのように長い年月をかけて徐々に生じる場合もある

²  イギリスの名誉革命は、英国議会のイニシアティヴによる無血の国王交代劇ではなく、フランスの脅威の下にあったオランダの国運を打開するため、オランダの総督であったオレンジ公ウィリアムによるイングランドの征服にほかならないという見方が広く受けられている

²  オレンジ公ウィリアムは、古来の憲法に基づく権利保証を英国国民に回復することを交換条件に、ジェームス二世の支配に代えて、議会に己の正当な支配権を認めさせ、英国をルイ十四世のフランスに対抗する勢力に組み込むことに成功した

²  英国議会は、ウィリアムの戴冠を認める代わりに、英国臣民の身分ごとの「古来の権利と自由」を承認させ、結果として、絶対主義へと転換しつつあった他の君主国と異なり、制限王制と宗教的寛容とを特徴とする国制を確立した

天皇制という変則

l  日本国憲法は立憲主義の系譜に属する典型的な憲法典であるが、天皇家の人々は自らが属する身分に固有の義務と特権のみを享受するに留まっている

Ø  その理由は、近代国家成立の歴史を見れば理解できる。日本国憲法がつくり出した政治体制は、平等な個人の創出を貫徹しておらず、身分制の「飛び地」を残した(つまりこの点に関しては変則である)

天皇という象徴

l  身分制秩序の「飛び地」に暮らす天皇が、憲法によって日本国の象徴とされている。この問題は深刻に見えると同時に見掛けほどのことはないという見方もある

Ø  「象徴、シンボルとは抽象的な観念や事態を示す具体的なモノやヒトを指す」。鳩は平和の象徴である、といったように

Ø  日本という国も、抽象的な存在であり、言い換えれば我々の頭の中にしかない約束事である(国家も民族も法も抽象的な約束事、観念なので、具体的なことを問題にする場合との区別が大事であるということか)

Ø  憲法によって「国民の総意に基づく」という限定がついている象徴なのだから、国民が、鳩が平和の象徴であると思わなくなった場合と同様に、天皇を象徴であると思わなくなった場合には、憲法は冒頭の問題が解消することを暗示していることになる

外国人という変則

l  憲法学の議論からすると、外国人についても憲法上の権利は認められるのが原則である

Ø  人権とは、人が人であることで保証される普遍的なものだから、それを保障し、侵害しないように努める義務がある

Ø  しかし、日本の判例は必ずしもこうした立場を貫いてはいない

²  いわゆるマクリーン事件の最高裁判決(内容省略)

国籍の意味

l  普遍的人権であるはずのものが、同国人にのみ保証されて外国人には保証されないことの説明として考え方の一つは、同国人に対して負っている権利保障の義務の効果的実現のための便宜、というもので、功利主義哲学者ロバート・グッデン教授の説明

Ø  海水浴場で溺れている人に対する救助義務は、本来はその場のすべて人にあるが、予め指定された救助員がそれを行うのは、効果的実現のための便宜

Ø  国籍も予め救助員が指定されていることと類似の機能を果たすと考えられるから、外国人の権利を保障すべき責任が、第一次的にはその外国人が属する国家にあることも理解できる

Ø  逆に言えば、国籍が人権の保障にとって持つ意味も、効果的実現の便宜上という程度に留まるから、母国の政府によって人権侵害を受けている人は他の国がその保証に努めるべきとなり、人権侵害を受けていなくても外国に定住している人に対する当該国の選挙権付与も検討に値することになる

分権の意味

l  前節では国籍の意義はせいぜい便宜的なものであったし、平等の人権という想定も、(近代国家自体も)異なる価値観を持った人々が平和に共存するという問題解決のために考え出されたフィクションであって、現実はそれほど単純な話ではない

l  異なる価値観を持った人々が平和に共存するためには、各部分社会ごとの自治権や連邦制度、あるいは共通の利益について討議・決定することを断念して別個の国家を建設するのが良いこともある(それも分権の意味の一つ)

国境の意味

l  国境は、比較不能な価値観の間に、平和を確立するために人為的に設定されたものと言える。自然の国境など自然権と同様存在しない。公と私の境界がそうであったように、国境は一旦後退を始めれば踏みとどまる地点は何処にもない

l  比較不能な判断をもって複数の国家が対立するとき、起こりうるのは戦争である。これについては、第Ⅲ部平和主義は可能か、で取り扱う

人道的介入

l  国境の意味を考える一つの鍵となるのが、「人道的介入」という概念である(この概念は、殺戮等の残虐行為や人権侵害の停止を目的として、当該国の同意を得ずに外国が軍事力を行使することで、具体的には新たな国境を設定することにあるからである)

Ø  最近の例では、ソマリア、ボスニア、コソボ、東チモールがある

Ø  「人道的介入」が正当化される典型例は、1971年のインドによる東パキスタンに対する軍事介入である

「人道」という美名

l  「人道的介入」が正当化される条件はいくつかあるだろう

Ø  他国は、新国家の成立を認めようとするなら軍事介入の可能性を予め示す

Ø  他国は、自治権拡大や連邦制の導入等、より穏健な方策の可能性を慎重に検討する

Ø  軍事介入の時期や手段を適切に選択する

²  他国による軍事介入は当事者間の暴力の応酬を悪化させる危険がある。最近の例ではコソボ紛争

Ø  国境の策定を誰が行うのかは決定的な論点となる。あらゆる人権侵害に対してあらゆる国家が関心を持つことは、人権の実効的保障に必ずしも繋がらないから、世界各地で現実に沢山発生している人権侵害の、どの侵害に誰が介入すべきかの適切な選択が必要となる

²  自国以外の領域における平和の維持に、自国の利益と無関係に熱心な国家が存在することはあまり期待できないとしても(当事者で解決できないから他国が介入するのだが)

Ø  「人道的介入」という美名の背後に隠れているかも知れない動機についても、警戒を怠るべきではない

Ø  国際機関に判断を求めるのも一つの方法だが、国際機関の主導権を握る大国の個別的利益に基づく談合を回避する手立ては限られる

Ø  2003年の対イラク戦争終結後に大量破壊兵器が見つからず、その「人道的介入」を正当化する根拠が、結局武力の行使を通じた既存国家の体制変更になってしまった

Ø  善悪の対立を国内政治に持ち込むことが極めて危険であることは明らかであるにもかかわらず、「人道」という美名は善悪の対立を関連付けやすくするから、「人道的介入」が国際関係に善悪の対立を持ち込む危険を伴う



第Ⅲ部 平和主義は可能か

第7章       ホッブズを読むルソー

ホッブズにとっての戦争と平和

l  ホッブズによると、自然状態においては、人々は相互不信から各自の自己保存を目指して終わりのない闘争に陥る(万人の万人に対する闘争状態)。そこでの生活は、「孤独で貧しく、つらく残忍で短い」(『リヴァイアサン』)ので、それを回避して平和と安全を確保するため、人々は一人の人間或いは合議体に、自然状態では個々人が持っていたすべての権利(自然権)を与え、彼の判断を自らの判断としてそれに従い、国家という「あの偉大なリヴァイアサン、あるいは可死の神が生成する。」ということになる

Ø  「ロック、ルソー、カントなど、ホッブズに続く社会契約論者も、自然状態における困難を解決するため、人為的に構成された権威として国家の存在を正当化するという議論の組立は変わっていない。そして、自然状態における主要な困難として、人々の価値判断の相違に基づく紛争が想定されている点も共通している。」

自然状態

l  ホッブズの議論は、国家の権威の正当化に成功しているのだろうか。何より国家は、さまざまな考え方をもつ人々による平和な社会の実現に成功したと言えるだろうか。ルソーは、この点についていくつかの深刻な疑義を提起している

l  自然状態について、ホッブズは「そこにあるのは恐怖と死の危険のみである」としているが、モンテスキュー(1689-1755)もルソーも、自然状態とはもっと平和な状態を想像している(自然状態がどうであったかということ自体が問題なのではなく、様々な見方がありうることを容認してみることが大事なのである)

l  だが、ルソーも「人々が交流をはじめ、土地の耕作が始まり、そこから私有財産制度が生まれるや、人間本来の必要とは無関係な利欲、嫉妬心、競争と対抗意識が生じ、そこから果てしない紛争と恐ろしい無秩序が到来したであろう」ことを認めている

戦争と戦争状態

l  ルソーのホッブズ批判のより深刻な部分は、そもそも人々の安全の確保のために設立されたはずの国家が、国家間相互の争いによって、国家設立以前よりもはるかに大規模な人々の殺戮を引き起こしているという点にある(人々が平和共存するにはホッブズの国家観だけでは不十分、あるいは誤りではないか、という批判)

Ø  「自然状態の頃、幾世紀もかかり、地球の全表面にわたって行われたよりももっと多くの殺人がたった一日の戦闘で、またもっと多くの恐怖すべきことがたった一つの都市の占領に際して行われるようになった」(『人間不平等起源論』)

Ø  人々がそれぞれの国家に服従するとともに、諸国家が互いに自然状態の関係にある二重状態を過ごすわれわれは、「そのため、両方の不便を味わいながらもなお安全の保証は得られずにいる」(『戦争状態論』)

Ø  社会生活に入ったことで、もともとおとなしく臆病であった人間は、名誉、利欲、偏見、復讐心などの感情に駆られ、自然状態で恐れていた危険や死をも顧みなくなる。「人は市民となってはじめて兵士となるのだ」(『戦争状態論』)

Ø  ルソーが考えた、自然状態の世界よりも諸国家が並存するようになった世界の方が闘争と殺戮が大規模に増幅した、ということの理由

²  「自然状態では、人は他人の助けなしに大地の恵みによって自足して生きることが出来るため、他人のことを気にかける必要がない。また、個人の力や大きさにはおのずと限度があり、満たすべき欲望も無限ではない」

²  「それに対して、国家は社会契約に基づく人為的な構成物であって、そのため決まった大きさもなく、いくらでも膨張していくことが出来るし、周囲により強い国が存在する限り、自らを脆弱だと感じる。(だから)安全と自己保存のためにはすべての周辺諸国にまさる強国となることが要求される。」

²  「人と違って自然の限界のない国家の場合、力の較差は一国が他のすべてを飲み込むまで拡大しうる。国家の規模が純粋に相対的なものであるため、国家は常に自己を他国と比較せざるを得ず、周辺で起こる事態のすべてに関心を向けざるを得ない。このため、国家間の関係は常時脅かされかねない危険なものとなる。諸国家の並存状態がおのずと相互の敵対関係をもたらし、一旦実際の戦闘が始まれば、自然状態よりはるかに大規模で際限のない殺戮がもたらされるのもそのためである。」

l  ルソーは、「戦争」と「戦争状態」を区別していて、後者は現代世界では「冷戦」の意味に近いが、いずれも主体となるのは個人ではなく国家となる。自然状態における個人の関係は絶えず変遷するので継続的な敵対関係は生まれないが、国家はそうではない

人民武装

l  ルソーは国家に対して前述のような診断をしたが、いくつかの処方箋を提案している

l  一つの提案は、自由国家の防衛のためには常備軍に代えて国民皆兵の民兵(人民武装)が良いというものである(『ポーランド政府論』)

Ø  『ポーランド政府論』は、ロシアの支配から脱して政治改革を進めようとするポーランドの貴族集団のためにルソーが17701771年にかけて執筆した構想

Ø  常備軍は周辺諸国を攻撃するか自国民を隷属させるためにのみ有用なのだから、自由な国家を目指すポーランドには無用

Ø  自由国家の国土防衛には、国民の愛国心を育てるとともに、昔のローマ、そして当時のスイスと同様、すべての国民に兵役を義務づける

Ø  地勢上、ポーランドはロシア等の周辺国家の侵攻は防止できないが、侵入者は無傷で撤退できず、それを知った周辺国は侵攻を躊躇する

Ø  この考えはカント『永遠平和のために』の第三予備条項に受け継がれている

Ø  日本国憲法の第九条が、政府による軍備の保持を禁じているに過ぎないと解釈するならば、国民皆兵の民兵組織による国土防衛は違憲にはならないだろう

Ø  反面、民兵組織の活動が一般市民を巻き込む極めて悲惨で残虐な結末をもたらしうることは事実であり、このような事態はルソーの提案の目的と齟齬を来す

²  現代でも、旧ユーゴスラビアや東チモールでの悲惨且つ残虐な例がある

²  民兵による実力行使(ゲリラ戦ないしパルチザン戦)が悲惨で残虐なものになるには理由がある

l  戦闘員と非戦闘員の区別は人為的なもので、これにより民間人への被害は最小化され、戦闘自体も戦争法規に従った抑制されたものになる

l  民兵による実力行使の特徴は、戦闘員と非戦闘員との区別や最前線と後方との区別を、系統的に不分明にすることにある

l  ゲリラは民間人の中に入りこんで攻撃するから敵軍は無差別に反撃し、それはゲリラに対する民衆の支持を拡大し、事態は益々悪化する

l  戦争法規を遵守するゲリラ戦は、空想の中でしかあり得ない

国家間同盟

l  ルソーの第二の提案は、国家間の同盟を通じて平和を達成しようとするものである

Ø  諸国家が各々その主権を単一の世界政府に移譲することで世界平和を達成するという考えは、社会契約論の筋立てを延長すれば自然に導かれるものである

Ø  ルソーと同時代人であるサン・ピエール師は、キリスト教国家の総体によって結成されるヨーロッパ大の共和国を構想したが、この構想に対するルソーの応答は「採用されるにはあまりにも素晴らしすぎる」というものであった

²  つまり、各国の為政者が自国の利益より世界全体の公益を優先させる覚悟が必要となるが、それは望み薄であるから

Ø  各国の主権を維持しながら、不正な攻撃者への対抗を可能とするような諸国間の同盟という提案(『エミール』の中で素描されている)

²  後にカントは『永遠平和のために』で「啓蒙された強力なある一民族が共和国を形成するならば」、この共和国を中心として各国の自由を保持しつつ、永続的な国際平和を目指す諸国家の同盟を実現しうるとの展望を示している

l  「啓蒙された強力な」民族による共和国とは、革命を経たフランスを念頭に置いたものであり、「同盟」はバーゼル条約[16]が意識されている

l  カントは世界国家に対してはルソーよりさらに否定的で、諸国家を飲み込んで成立する世界国家は「魂なき専制」をもたらし、それは結局、無政府状態へと陥るであろうとする

社会契約の解消

l  ルソーはさらに、第三の独創的な提案を行っている。それは、社会契約を解消して、それに基づく人為的構成物である国家(法人としての国家)を消滅させることである

Ø  『戦争状態論』によれば、国家間の対立が大規模な殺戮へと至るのは、国家が限界を持たない人為的構成物だからであったが、この事実は生身の人間を一人も殺さず戦争(多分戦争状態も)を回避する方法を示していたことになる。つまり法人としての国家を消滅させれば良い、と

²  ルソーに言わせれば、この世のものはすべて二つの視点から見ることが出来る。土地は国の領土と同時に私有地、財産はある意味で主権者に属し別の意味では個々人の所有、住民は国家の市民であると同時に生身の人間。つまり、国家とは頭の中の約束事、理性の産物、人為的構成物、単なる法人(ホッブズのテーゼ)

²  戦争とは主権に対する攻撃であり、社会契約に対する攻撃であるから、社会契約さえ消滅すれば、一人の人間が死ぬこともなく戦争は終結する

Ø  「もちろん、国家の掃滅は国民の生命・財産に対する公的庇護者の消滅を意味する以上、それにともなうリスクも含んでいる。戦争のもたらすリスクとの慎重な衡量が必要となるはずである。」

「市民ルソー」対「合理的計算人ルソー」

l  人命や財産を保全するために社会契約の解消を選べというルソーと、国民すべての愛国心を涵養し、パルチザン戦の遂行をも辞さないと訴えるルソーは、一見和解が困難に見える(ここには二人のルソーがいる)

Ø  「国家を消滅させることで人命と財産の保全を優先させるべきであるとのルソーの提言は、それとして筋が通ったものと思われる。」

Ø  ルソーの考え方からは「国家の自衛権」なる観念は不条理なものとなる。この観念は、(個人に属する)人命や財産の保全を離れて、人為的構築物たる国家という法人に自衛権を認めることになるからである

l  20世紀は、核兵器を典型とする大量破壊兵器の世紀であった。そこでは、社会契約の解消というルソーの提案がより現実味を帯びてくる。

Ø  このルソーの提案は、「階級対立の解消による「国家の消滅」というマルクス主義の主張[17]とも容易に合唱しうる。」

Ø  こうした現代において、日本国憲法の文言を言葉通りに受け取る「非武装中立平和」という考えが多くの人の心を捉えたのは不思議なことではないが、そこでの問題は、マイナス面の評価と立憲主義との関係性であろう



第8章       平和主義と立憲主義

l  立憲主義に基づく近代国家同士の価値観の相違を解決する権威は存在しない。従って、異なる政治的判断を下す国家が対峙し争えば悲惨な結果を生むという問題が生じた。本章ではこの問題を、鍵となる「平和主義」という概念を使い、分析的に検討する

Ø  平和主義はという言葉はいろいろな意味で使われているが、ここでは、広い意味に使われている平和主義として用いる。

²  広い意味に使われている平和主義とは、あらゆる戦争は例えその開始の理由が正当なものでもなお悪であって、その発生をできる限り抑制すべきであり、出来るならこの世から一切なくすべきであるという考え方

²  絶対平和主義は、政府が実力を持って国民の生命・財産を防衛する行動を取ることはいかなる場合にも決して許されないという考え方である(より狭い意味の平和主義といえる)

l  本章の主要テーマの一つは、絶対平和主義と立憲主義の間に潜む深刻な緊張関係をあきらかにすることである



1 なぜ、そしてどこまで国家に従うべきなのか

「権威」に関するラズのテーゼ

l  判断の主体は、本来は個々の人間であるはずであるが、国家は人々に対して国家の判断に従うよう要求する。つまり、国家は権威であると主張する。

l  オクスフォード大学のジョゼフ・ラズ教授(1939年~)は、「個人が各自でいかに行動すべきかを判断するより権威の指示に従った方が、本来取るべき行動をよりよくとりうる蓋然性が高いからである」というテーゼを提示している

l  ラズのテーゼが国家に当てはまる事情として、しばしば指摘されるのが、調整問題状況と囚人のディレンマ状況である。いずれも、個々人の判断に任せるわけにはゆかず、社会全体としての統一した結論が要求される典型的な問題状況である

調整問題

l  調整問題状況とは、大多数の人がとるような行動にあわせて自分も行動しようと大多数の人が考える状況のこと

Ø  道路の交通規制から国会議員の任期に至るまで、一定の範囲ではどう決まっても良いが決まらないと困ることが沢山ある

       当事者は、複数の選択に直面し、各自の利得は他の当事者に選択に依存し、互いに他の当事者の選択を制御できず、満足するのはすべての当事者が一致した選択をする場合だが、そのような選択は一通りではない、という状況

       こういう状況においては、各当事者は、いずれも他の当事者の出方を予測しながら、各自の選択をしようとする

Ø  この種の問題状況に直面した人々は、いずれかの選択を指定する習慣や法令に一致して従うことに、全員が利益を見出す

Ø  調整問題状況は、一旦特定の選択がされれば、以降は強制力が不用となる

Ø  (他者が裏切る限りで裏切るべきである、という社会状況は、単純な調整問題状況となる。この考え方は、後の記述で意味を持ってくる)

囚人のディレンマ

l  囚人のディレンマ状況とは、各当事者がそれぞれ独立に、各自にとって最善の利益を目指して行動すると、全体として最善の結果に到達出来ないような状況のこと

Ø  二つのトーチカを、二人の兵士が別々に一つずつ守備している状態において、兵士が直面する選択肢とその予想される結果は次のように3つある

       二人が協力して反撃する→負傷するかもしれないが敵を撃退する(全体としては最善)

       二人がともに逃げ出す→二人とも捕虜になる(全体としては最悪)

       一人が反撃している間にもう一人は逃げ出しす→一人は無傷で生き延びるがもう一人の兵士は死ぬ(生き延びる兵士にとっては最善だが人の良い兵士にとっては最悪)

Ø  上記において、二人の兵士が独立に、各自にとって最善の行動をとるとすると、それは二人とも相手を裏切って逃走することだ、ということになる。だが、そうすると②のケースとなって全体として最悪の選択となる

l  典型的な囚人のディレンマをもたらす問題として、警察、消防、防衛などの公共財の供給がしばしば指摘される

Ø  公共財については、自己の効用の最大化を目指す「合理的」な個人はいずれも、他人の費用負担にただ乗りしようとするが、すべての人がただ乗りすれば公共財は提供されなくなりすべての人が不利益を被る

Ø  公共財の提供は国家を通じて供給するのが適切だとされる。すべての人から強制的に費用を徴収し、供給範囲や量は民主的な手続きを経て決定される

l  以上の議論から、国家の権威に関する正当化の根拠が、調整問題状況や囚人のディレンマ状況等にあるとすれば、当然国家の権威の射程も限定されることになる。国家の権威、つまり主権は必ずしも絶対でも最高でもない

Ø  別の権威、例えば社会生活の中で自然に成立してきた慣習、国際的な機関や宗教的権威の指示の方が、各国の政府よりも問題をより適切に解決するのなら、そちらの権威に従うべきことになるから

ホッブズと国家の正当化

l  調整問題は強制を要せず、囚人のディレンマ問題は強制を要するから、国家の正当化根拠は後者となる。ホッブズの考えは、囚人のディレンマ問題における最悪シナリオを避けるには強制的に協力させる国家が必要であるというものである

ゴーティエの問題提起

l  ホッブズの考えから、自然状態において人々が直面する問題を抽出して考察してみれば、必要な権威の役割、つまり正当な国家権力の範囲を導くことが出来る

l  しかし、現代の政治理論家であるデヴィッド・ゴーティエは、ホッブズの考えは基本的に妥当ではないと考える(パレート分析的説明は省くが、概要は理解可能)

Ø  人が十分慎重に各自の利害を検討すれば、単純に自己の効用の最大化を求めるよりは、むしろお互いに協力し合う方が、すべての人の利益担うから

Ø  言い換えると、ゴーティエの考えは、他者が協力する限りで協力する、ということが全体にとって最良の選択である、ということになる

Ø  (ホッブズの考えは、他者に働きかけることなく、単独で自己の効用を最大化する人々だけを対象としている。しかし、相互に協力することによって自己の利益を今以上に損なわずより良い状態になりうる、と考える人々も想定され得る)

Ø  ここで、他者が協力する限りで協力する、というのは他者が裏切る限りで裏切る、ということであり、囚人ディレンマ状態にあるすべての当事者は、相手の裏切りには裏切りで報復するという戦略を採ることになる

²  他者が裏切るかぎり裏切るべきである、というのは単純な調整問題であった。ゴーティエの考えによれば、不思議にも、囚人のディレンマ問題が調整問題となっている

l  調整問題であれば強制力不用、ひいては正当な政府がそもそも存在しないことになる

l  (先にもあったが、ここでも著者は政府と言い国家とは言わない理由はありそう)

l  すべての当事者が相手の裏切りには裏切りで報復するというモデルは、各構成員の「正当な実力行使」によって維持された中世ヨーロッパ封建社会の法共同体、およびその拡張形態としてのカントの永遠平和の構想と対応している

チキン・ゲーム

l  ゴーティエの考えは、政府の正当性を覆すのに十分とは言えない

Ø  第一に、囚人のディレンマ状況において、他者が協力するかどうかを的確に知りうるかが問題であり、疑心暗鬼状態ではそれは困難だろう

Ø  もう一つの問題はより原理的である。それは、(国家設立以前の、また多分ルソーの言う国家と国家の間の)自然状態を囚人のディレンマ状況ではなくて、チキン・ゲームと見立てることである

²  日本国憲法第九条(第2項)「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を文字通りに理解する理由の一つは、現状をチキン・ゲームに見たてていることになる(外国に服従しても抵抗するよりましである、と考えるから)

l  憲法の文言を一言一句文字通りに解釈する必要がないことは憲法二十条、二十一条や関連した判例をみれば明らかなのに、憲法第九条(第2項)の一言一句文字通りに解釈をするのは、文言に書かれているからではなく他に根拠があることになる。そしてそれはチキン・ゲーム状況と理解するほかはない

l  日本国憲法第九条(第2項)をチキン・ゲームに見立てるという論理は破綻している。なぜなら、憲法の文言の射程は日本国内に限られるが、前述のチキン・ゲームの射程は外国に及ぶから

²  外国に服従しても抵抗するよりましである、という考えが良い結果を生んだ史実もある。前述のイギリスの「名誉革命」は典型である

²  ルソーのいう社会契約の解消という選択肢も、外敵からの攻撃が予想されれば進んで降伏するという選択が合理的と判断する点では、同様である

「戦争」=「地獄」理論

l  国家間の関係をチキン・ゲームとしてみる見解の背景には、戦争は「地獄」それも「際限のない地獄」という戦争観がある

Ø  この戦争観は、戦争を始めた方は邪悪な国であるから、これを滅ぼすのにルールは不要という考えに立っており、邪悪を滅ぼす自国は正義の国ということになる

²  (この戦争観の意味は、地獄である戦争という結果に着目しているのではなく、そのような結果をもたらす原因に着目するところから現れるものだろう)

Ø  この考え方を明確にしたのは近代の政治哲学者マイケル・ウォルツァーだが、中国の古典である『墨子』にも類似の思想がある

Ø  この戦争観から導かれる一つの立場は「地獄」に関わりたくなければ非戦・非武装を貫くしかないというものである

²  (自らは戦争の原因にはならない、と同時に自国以外にある「地獄」の原因を取り除こうとすれば、非戦・非武装を貫くよりも悲惨である「際限のない地獄」に陥ってしまう、と考える立場だろう)

Ø  この戦争観には、異なる国同士は、どの判断がより正しいのかを判別する共通の尺度がないかも知れない、という考慮は存在しない

²  (その考慮だけが、自他共に「地獄」の原因とならない唯一の方策だと、暗に言っている)

日本における受容

l  このような戦争観は戦後の日本において広く受容されているように見える

Ø  太平洋戦争末期における米軍の都市部への大規模空爆や広島・長崎への原爆投下は、まさに民間人を無差別に殺戮するものだから、大規模なテロリズムであり、国家間の戦争に関するルールに違反している

Ø  それにもかかわらず日本国民の非難が自国政府に向けられている理由は、戦争は「地獄」であるというこの戦争観の前提からすれば自然な反応である

²  太平洋戦争末期における米軍の都市部への大規模空爆や広島・長崎への原爆投下は「地獄」としての戦争を現出した

²  「地獄」を引き起こした責任は最初に戦争を始めた側にすべてあるのだから、そのような彼らは邪悪な者たちなので撲滅するのに手段を選ぶ必要はない、という考え方をこの戦争観は受け入れる

²  一方、原爆投下は日米双方ともより少ない犠牲で戦争を終わらせた、という米国の説明は、剥き出しの功利主義でもある

Ø  冷戦下において発生しうる戦争は核戦争かパルチザン戦であって、何れもルールなしの「際限のない地獄」だから、何としても巻き込まれることを回避しようとする行動が合理的となる(丸山真男に代表されるように)

より強い者の権利

l  「チキン」となることが合理的だと考える国家が存在すると、侵略者の存在を合理的にする危険性がある

Ø  自然状態において、「チキン」となる人々の存在自体が裏切り行為を合理的にするから、そのような社会ではルソーの言う「より強い者の権利」(『社会契約論』)がまかり通ることとなり、国家の強制力を要することとなる

Ø  国家間においても同様でああって、徹底した平和主義は、その意図せざる効果として、国家間の関係を不安定にする

Ø  ある地域を実力で防衛する意思がないという誤ったシグナルを相手方に送ることは、戦争の引き金となりうる

²  第二次大戦後だけでも、朝鮮戦争やフォークランド紛争はその例である

l  自然状態を「囚人のディレンマ」状態としてではなく、「チキン・ゲーム」状態として捉えることが問題となるのであって、その場合には国家は「チキン」になりがちな人々を強制して、協働して裏切り行為に対処するためにこそ必要ということになる

Ø  (要するに、チキン国家が存在すると、国際社会としては協働して裏切り行為に対処しなければ平和を実現できないことになる)



2 国家のために死ぬことの意味と無意味

集団的安全保障

l  弱腰のチキン国家が存在すると、ゴーティエの考えに沿って国家間の平和を確保することが出来なくなる

l  第二次大戦後において、チキン国家が存在しても国家間の平和を確保する方策として主に採用されたのは、弱腰の国家を集団的安全保障の枠組みに組み入れて、彼らも他国の侵略に反撃するよう強制することあった

Ø  ルソーの提案で言えば国家間の連合であり、カントで言えば当時の共和国フランスに当たるのが現在ではアメリカ合衆国(第7章で既述)

l  防衛力を備えた国家間の連合という方策が、冷戦下においてしばしば見られたように、当該国の民衆の利益を充分に代表しない抑圧的な体制を擁護したことも事実

l  このような国際的な集団的安全保障については、二つの困難を指摘することが出来る。一つは実際的なものであり、もうひとつは原理的なものである

軍事力による防衛の実際的困難

l  実際的な困難は、民主的政治過程が、(公共財である)防衛問題について合理的な審議と決定をなし得るか否かという問題に関わっている

Ø  第一に、有権者やその代表が、私的利益ではなく、社会全体の利益を念頭に置いて審議・決定に参加する必要がある

Ø  第二に、有権者やその代表は、必要な情報をすべて正確に知り、冷静かつ合理的に社会全体の利益を計算した上で、採決に加わるべきである

Ø  第三に、採決の結果は、政府諸機関により忠実にスムースに執行されねばならない

l  こと防衛問題に関して、上記のような条件が満足するには、民主的政治過程の欠陥はあまりに大きいという見方も充分成り立つ

Ø  第一に、有権者は、そしてその代表でさえ、防衛に関する情報を多くは知らされないことが通常であること

²  防衛に関する情報をすべて公開すれば国の安全を損なうのは確かである

²  しかし、与えられた情報が限定されると、有権者及び議会が軍事問題について的確な判断を下す能力も限定される

l  19648月のトンキン湾事件[18]2003年の対イラク戦争[19]はその事例

Ø  第二に、防衛サービスに携わる政府諸機関が、はたして社会全体の利益を念頭に置いて政策の立案や執行に当たるかという疑いがある

²  (他の政府諸機関に比べて)組織防衛はその疑いが強い

²  人命に関わる危機的場面で、公務を遂行する行動よりも命を惜しむ行動をとるのは自然だろう

Ø  第三に、(民主主義国家において、政府の政策決定の正当性を高めようとすることが、政策決定を誤った場合にはかえって損害を大きくする)

²  有権者やその代表は(正確な情報を欠きやすいのは前述の通りだが、加えて冷静な計算能力も欠きやすく)、一時の民族感情や根拠の無い幻想に突き動かされがちとなる

²  民主主義国家においてその程度が大きいのは、他の政治システムに比べてより多くの人員と物量の処分が可能となるからであり、特に徴兵制が採られている場合にはそうである

Ø  第四に、以上のような問題が解決され、国内の民主的政治過程が理想的に機能したとしても、国際社会全体としては囚人のディレンマ問題が立ちはだかる

²  軍縮が戦争の危険を少なくする、つまり全体の利益になるはずであるにもかかわらず、各国が軍拡競争に走る危険性がある

合理的自己拘束

l  国内の政治過程が非合理的な決定を行う危険や、個々の国家にとって合理的な行動が国際社会全体としては軍拡競争などの非合理な状況もたらす危険に対するための方策として、合理的な自己拘束という考え方がある

Ø  合理的な自己拘束の分かりやすい説明は、トロイ戦争を終えて帰路についたギリシャ神話の英雄オデッセウスが、魔女セイレンの美声に惑わされないように自分を帆柱に縛り付けるように部下に命じる話である

Ø  憲法により、その時々の政治的多数派によっては容易には動かし得ない政策決定の枠を設定し、且つそのことを対外的にも表明することは、合理的自己拘束である

²  憲法第九条による軍備の制限は合理的自己拘束の一種とみることができる

Ø  「ことに、第二次世界大戦において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることが出来ず、民主主義の前提となる理性的な議論の場を確保し得なかった日本の歴史に鑑みれば、「軍備」と言える存在の正統性を予め封じておくことの意義は大きい。」

原理的困難

l  国際的な集団的安全保障についての原理的困難は、国内平和を実現するための方策が国際社会の平和を実現する方策へと拡張し難いということにある。なぜなら国家は個人ではないからである

Ø  ルソーが指摘したように、国家は仮想の人格であり、人為的構成物であるから、生身の人間とは違って自己保存の権利(自然権)を持たない(から生存を脅かす争いを停止させることの出来る権力に、その自然権を委ねて平和を得ることは出来ない)

l  権威の正当化テーゼ[20]を前提とすれば、国民は自己保存に役立つ場合に限って国家の権威に従うべきだから、国家間の平和を維持するためであっても、戦争や武力行使に従事するよう強制する国家の指示を、国民が受け入れる理由は薄弱となる

Ø  古代アテネやローマの市民は、兵役に服し外敵と戦うことも含めた共和制への積極的参加こそが「善き徳にかなう生」の道と考えていたから、戦死は善き市民としての徳を示す行為、充実した意味のある生であったことを示す出来事となる

²  「ハンナ・アーレントは、どうやらそのような古典古代の市民像を理想的な人の生き方として描こうとしているかに見える。そこでは、公と私の区分はむしろ憂うべき非難の対象であり、公での生活こそが人に生きる意味を与える。」

Ø  立憲主義が前提とする国家は、市民の生に包括的な意味と目的を付与する国家ではない

²  リベラルな立憲主義に基づく国家は、市民に生きる意味を与えないし、「善き徳にかなう生」がいかなるものを教えない

²  リベラルな立憲主義に基づく国家は、われわれ一人一人が、自分の生の意味を自ら見いだすものと想定されている

²  そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬように市民を強制することは困難となり、兵士は傭兵か志願兵に頼るほかはない

Ø  日本政府は、徴兵制は意に反する苦役を課することになり、憲法の認めるところではないとの立場をとるが、これは立憲主義に普遍的に妥当するもので、日本国政府に固有のものではない

Ø  徴兵制を採るべきでは無い理由はもっと根底にある(その説明はないが、今までの文脈から推定するに、立憲主義の国家については下記のようなことか、しかしそうなると、原理的困難ではなくて実際的困難に分類されることになるが)

²  (徴兵制下では防衛問題についての選挙民の関心が必然的に強まり、従って民主的政治過程が重視されるようになる)

²  (そうなると、実際的困難のところで説明されていたように、防衛問題について合理的な審議と決定をなし得ることが非常に困難となる)

Ø  徴兵制ではなく、職業的常備軍を置くことによるマイナス面もある

²  防衛政策に対する民主的な歯止めがかかりにくくなる

²  人民一般と乖離した独自の利害を念頭に置いて行動しがちとなる

l  徴兵制であっても職業的常備軍であっても、合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる



3 穏和な平和主義へ

l  以上の考察から、憲法第九条を持つ現在の日本にとって、広い意味における平和主義を実現するためのいくつかの選択肢の評価が浮かび上がる。これらは可能な方策のすべてではないが、過去に戦争の廃絶を目指して提示された方策の主なものは含んでいる

穏和な平和主義

l  第一に、各国が自衛のための何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢がある。これを「穏和な選択肢」と呼ぶことにする

Ø  ゴーティエが示した、囚人のディレンマ問題解決の延長線上にある選択肢である

²  他国の裏切りには自国も必ず裏切りで応ずることが前提されている

²  集団的安全保障で国際平和を維持しようとするという考え方となる

Ø  憲法第九条を合理的拘束として捉えるとするならば、この選択肢の場合には次のような前提を要する

²  保持しうる実力組織にはおのずと限界がある

²  実力の行使が必ずしも「際限なき地獄」には至らない

l  「穏和な選択肢」を可能とするような前提を実際には満たすことが出来ないならば、憲法第九条は合理的拘束として役目を果たせなくなる(従って平和を保つことが出来ずにチキン・ゲームに突入する)

Ø  「そうであれば、むしろ完全な非武装を貫くという選択の方が優れているのではなかろうか。」(既述の、チキン・ゲームの項参照)

Ø  憲法九条の下では、個別的自衛権は認められるが、集団的自衛権は認められない、というのが現在の政府の見解(これについての著者の見解は下記)

²  政府見解は、国連憲章によって認められている権利を、自国の憲法で否定するのは背理だといわれることがあるが、それはもちろん背理ではない(認められている権利を行使しない自由がある)

²  「集団的自衛権は、自国の安全と他国の安全とを鎖でつなぐ議論であり、国家としての自主独立の行動を保障するはずはない。」のだから、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、充分にあり得る選択肢である

l  「自国の安全が脅かされているとさしたる根拠も無いのに言い張る外国の後ろについていって、とんでもない事態に巻き込まれないように」

l  憲法第九条は合理的自己拘束として機能することが期待されている

²  自国の利害損得の計算を離れて国家間の関係はない。国家間に友情があるいう考えは自国の利益にとって極めて危険な情緒論である

l  ドゴール将軍は「国家には同盟者はあり得ても、友人はあり得ない」と喝破している

Ø  以上を踏まえた上での問題は、憲法第九条の文言自体からは、集団的自衛権が否定されているという解釈は、一義的には出てこないではないかというものである

²  問題は、一義的に出て来るのかどうかにあるのではなく、解釈があること自体が重要なのである

l  これは国境線の確定に似ている。一旦引かれた線を守ることには合理的理由があり、国境の後退には限りがないのである

²  この問題は、憲法再二十一条において認められている表現の自由が、その憲法の文言自体には手がかりのない基準を使って、具体的制約が合憲か否かを判断せざるを得ないのと同様である(4章、5章参照)

パルチザン戦の遂行

l  第二の選択肢としてとして、憲法第九条の下では、政府が軍隊を保持することは許されないが、人民が武装は許される、というものがある

Ø  想定しているのは、外国の軍隊が侵攻してきた場合に、抵抗しないよりは抵抗した方がよりましであると考える場合である

Ø  憲法の制約対象が政府の権限及び活動に限られるという考えに対しては、政府ではなくて人民が武装するのは筋が通った理屈である

Ø  しかし、憲法第九条の前提に「際限なき地獄」を何としても回避するという考えがあるのであれば、パルチザン戦の遂行はその「際限なき地獄」の典型だから、ここに矛盾が発生する

²  「日本人の大部分が戦争は「際限なき地獄」と考えているのだとすれば、そうした民衆がパルチザン戦に突入したときに起こる状況の凄絶さは、筆舌に尽くしえないであろう。」

非暴力不服従

l  第三の選択肢として、組織的不服従運動で対抗するという考えがある。この考えが成り立つには、人類一般が理性的であり、良心的に行動することが前提されている。しかし、もしそうであれば、戦争と平和にかかわる問題は既に消滅している

Ø  相手方が占領活動に係わる戦争法規を遵守すること、例えば拷問や強制収容といったテロ行為によって組織の壊滅を図ることがないということが前提されている

Ø  また仮に不服従運動に関わる市民に犠牲が出た場合には、そのことに良心の呵責を覚えて士気を失うであろう程に相手側の兵士の民度が高いことも前提される

「善き生き方」としての絶対平和主義

l  第四の選択肢として、「善き生」を貫くために、結果には関わらず絶対平和主義を採るのが道徳的に正しい選択である、という考えがある。この選択肢は、個人的信念に留まるならともかく(価値観の異なる人々が公平に平和共存できる社会の構築を目指すという)立憲主義とは整合しない

Ø  例え、パルチザン戦や組織的不服従運動が、実効的解決に繋がらず、あるいは相手方の血みどろの圧政に繋がるとしてもこの「善き生」を貫くのがこの考え方

Ø  「善き生」に関する観念は多様であり、相互に比較不能であるというのが、立憲主義の基本的前提

「世界警察」、そして「帝国」

l  第五の選択肢は、世界統一国家による「全世界を覆う警察サービス」で戦争を回避するという方策である。現時点ではこの種の警察サービスが継続的に組織されることは現実的とは言えないし、また必ずしも望ましいものとは言えない

Ø  大規模な警察サービスを組織することと自国の利益とが一致するか否かはその時々の状況に依存する

²  朝鮮戦争と湾岸戦争では、これに似た警察サービスが大規模に組織されたが、アメリカ合衆国を中心とする当事国には自国の利益との一致があったからである

²  1994年に、ルワンダで何十万人ものツチ族がフツ族の掌握する政府によって虐殺されたとき、国連安全保障理事会は唯それを見守るだけだった

Ø  「警察サービス」という旗印が、ときに自国の利害や自国の唱道するイデオロギーの実現に利用される恐れがある

²  「きわめて怪しげな国際法上の正統性の下に、アメリカとイギリスが行った2003年の対イラク戦争がそうではなかったという保証はあるだろうか。」

l  世界統一国家による「全世界を覆う警察サービス」が可能であったとしても、それは世界「帝国」の成立であり、必ずしも望ましい事態とは言えない(以下の記述が示す可能性が実現するような世界国家のことを「帝国」と呼ぶ、と考えた方が分かりやすい)

Ø  帝国のもとでは国境は消滅するが、同一のルールに従って闘う対等者が消滅するかわりに非対称的な正と邪の区別が発生し、「ならず者」を取り締まる警察活動が単一の権威により行われる

²  「帝国」の下では、人権の尊重という単一のイデオロギーが権力の行使を一元的に正当化する

²  現在の国境の内部には、それぞれに他とは比較不能な固有の価値を持つ文化や生活様式が日々再生産されているが、それが「正」「邪」という価値判断で否定される

²  「アメリカの頂点とする複合的テットワークによって構成される「帝国」の出現を祝賀する言説は、「人権」という概念そのものが、多様な価値観の平和共存を図る手段であることを、忘れているように思われる。」(現実に生じている現象の理解からのみ普遍的なものは洞察されうる)

Ø  厖大なコストがかかるだけではなく、「「愛国心」ないし共通の善の観念が「帝国」の市民に共有され、しかも市民参加の渦巻きが限りなく膨張する運動として維持されることが要求される。」

²  (その「愛国心」ないし共通の善の観念に共感しない人々は排除され、かつ帝国以外には生きる場所がない。)

l  カントが『人倫の形而上学』の法論の末尾で指摘したように、異なる言語、宗教、文化からなる世界全体を統一する国家よりも、より小さな単位からなる国家群の方が、結局は紛争発生の危険は小さくなると考えることも出来よう

九条改正はほんとうに必要か

l  以上、憲法第九条を持つ現在の日本にとって、(既に説明してある)広い意味における平和主義を実現するためのいくつかの選択肢を評価してきたが、立憲主義と衝突しない限りで検討に値する選択肢は「穏和な平和主義」しかない。その場合には、憲法九条の改正は必要がない

Ø  「穏和な平和主義」が憲法九条の文言と衝突するのではないかと考えるのは、(法律用語で言えば)第九条を原理ではなく、準則として捉えるからである

²  準則はある問題に対する答えを一義的に定めるのに対して、原理は答えをある特定の方向へ導く働きに留まるものである

²  道路の交通規則や手形・小切手の効力に関する規定の多くは準則

²  表現の自由などの憲法上の権利の保障を定める規定のほとんどは、原理を定めているに留まる

Ø  憲法第九条が準則ではなく原理であることの説明は以下のようになる

²  国家間の対立を「囚人のディレンマ」ではなく「チキン・ゲーム」と見立てれば準則として理解することも可能だが、それが世界全体をより平和にすることにはさして役立たないことは既に説明したとおり

²  準則として見ることの根拠となる他の議論(パルチザン戦、非暴力抵抗、善き生き方のとしての絶対平和主義、世界警察への依存)は平和を実現する現実的手段とは考えにくく、それぞれ前提する戦争観とも整合しない

²  「穏和な平和主義」は、国家間の安全保障の枠組みを通じて世界全体の平和を目指し、軍備の保持がもたらす実際的、原理的困難の克服を目指すのであるから、憲法第九条を合理的自己拘束として理解すれば、それを準則と考える理由はない(平和を目指すのであって一義的な答えを定めるのではない)

Ø  憲法第九条が準則ではなく原理であれば、自衛のための最低限の実力を保持するために、この条文を改正する必要はない。そのことは、既に述べたように、憲法二十一条を改正する必要がないのと同じである

Ø  さらに、今まで原理を示すものとして扱っていた条文を、従って特に改正する必要もないとしてきた条文を改正するすることが、どのようなメッセージを他国に送ることになるのかという政治的意味合いも考慮する必要がある

平和的手段による紛争解決

l  外交や経済支援、教育・民政等の分野における民間団体の協力などのような、平和的手段による国際紛争解決の方策は、実力行使に比べて、より低廉なコストにより永続的な平和の確立に貢献しうる点で、遙かに優れている

l  東西冷戦が終結した現在、国家間の戦争よりもむしろ、破綻国家で生じている紛争と、その中で行われる人権侵害こそが国際の平和に対するより重要な脅威となっている、という認識にからすれば、平和的手段の重要性は更に増していくだろう

l  ジョン・ブレイスウェト教授の近著『修復的司法と応答的規制』の示すアイデアは、平和的手段は実力による平和の維持という方策の関係を整理するための手がかりとなる

修復的司法とその応用

l  「修復的司法」とは刑事司法と並ぶ犯罪への対処手法で、その中核をなすのは、修復的会談である

Ø  修復的会談とは、加害者と被害者の双方が、それぞれ信頼する人々とともに顔を合わせ、それぞれの悲しみ、苦痛、現在の気持ちなどを語り合い、その中で加害者の公正と傷つけられた正義の回復の道を探り出そうとするものである

Ø  ブレイスウェトは、(修復的会談が)被害者の満足度も、加害者の更生の蓋然性も、刑事司法による対処に比べれば高まることを指摘する

l  従って、犯罪への対処には、修復的司法と刑事司法の全体を通じて次のようにする方が、より低コストで効果的な犯罪対策が実現する

Ø  まず修復的司法の試みがなされる

Ø  それが失敗したときに利害損得を計算する相手の功利的側面に訴えかける「抑止」的処罰を行う

Ø  それが功を奏しない相手については、収監等の手段によって「無害化」をはかる

l  ブレイスウェトによれば、こうした考え方は、破綻国家における平和の回復にも役立つ

Ø  戦争法規や国際人道法を心得ない軍閥や民兵に対して、ただちに国際的な刑事法廷での訴追を行うのではなく、むしろ、地域ごとの加害者と被害者との修復的会談を試みることで社会関係を修復する

Ø  良心に訴えても効果のない軍閥に対しては、暴行や略奪を止めて社会的秩序が確立されることが自分にとっても長期的利益に繋がるという相手方の効用に訴える

Ø  それらの平和的手段に効果が見られないことがわかってはじめて、実力による介入や刑事訴訟等の抑止や無害化が試みられるべきである

Ø  大規模な人権侵害事件の後、修復的会談を通じて社会的関係を修復する試みは、旧ユーゴスラビアやインドネシアなど、世界各地で行われている

l  和解や説得の試みは、実力に基づく強制的手段に完全に置き換わるものではなく、それを背景とすることで効果をもたらすものである



終章 憲法は何を教えてくれないか

l  (先ず復習)「立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便宜とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定ける理念である」

Ø  立憲主義には次のことが求められる

²  生活領域を公と私とに人為的に区分する

²  社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないように自制する。従って、立憲主義は、ありのままの人間が、自然に受け入れられる考え方ではない

Ø  立憲主義は西欧起源の思想であるが、多様な価値観の公正な共存を目指そうとする限り、地域や民族にかかわりなく、頼らざるを得ない考え方である

²  比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。今も世界のいたるところで、そうした闘争は続いている

Ø  立憲主義に基づく憲法は、人の生きるべき道や、善き生き方について教えてくれるわけではない。それが教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことが出来るかである

²  日本国憲法は立憲主義に基づく憲法の典型である

²  立憲主義は、人の生きるべき道や善き生き方は個々人が自ら考え選び取るべきものである、と考える

²  憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」も宗教の代わりにならない(著者はそう言っているが、前後の文脈から、宗教の代わりというよりも、絶対的な真理ではなく相対的な観念という表現が良いと思う)

²  憲法は、様々な信仰を持つ人々や無信仰を奉ずる人々が共存する術を教えるだけである

Ø  立憲主義は現実を見るように要求する(哲学で言えば、形而上学批判となろう)

²  違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人が沢山いるという現実を見るよう要求する

²  現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるのか、という現実を見ることを要求する

l  従って、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある

l  ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではあり得ても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない

Ø  立憲主義的憲法は、民主政治のプロセスが、自分では処理しきれないような問題を抱え込まないように、民主政治で決められることを予め限定する枠組みである

²  立憲主義的憲法は、根底的な価値観の対立を公の領域に引きずり込まぬように人為的に線引きをする

²  立憲主義的憲法は、大きなリスクを伴う防衛の問題について、短期的考慮で勇み足をしないように人為的に線引きをする

²  これらの線引きで引かれた線は「自然」な線ではないからこそ、一旦後退を始めると、踏みとどまるべきところは何処にもない

l  「立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性に基づいてはいない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力を続けなければ、もろくも崩れる。」

Ø  世界の国々の中で、立憲主義を実践する政治体制は、今も少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(偶然の幸運)である

l  「(国家の主権、国境、人権、個人の尊重など)こうした観念は、いろいろな問題を解決するに際して、自分で考えないですませるための「切り札」として使うには便利な道具である。自分で考えるということは、<中略>そうした「切り札」など実はないとあきらめをつけることである。」

Ø  (人類が滅亡しないためには、世界が平和に共存できる術を現実に即して生み出し続けるほかはない。ホッブズは『リヴァイアサン』で言う、「それを可能にするのは人間の理性である」と。ヘーゲルは『法の哲学』で言う、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と)
終わり


[1] コロンビア大学のルイス・ヘンキン教授の整理にもとづく記述
[2] (立憲主義という考え方は、古くはルソーが気づいていたように、主権の二重性、つまり主権は国家と国民がともに持っているが、国家と国民が対立するというアポリア、を解くための一つの方法として編み出されてきたもの、と考えても良いと思う)
[3] ワイマール共和国:1919年7月のワイマール憲法制定から、1933年のヒトラー政権の成立まで存在したドイツ共和国
[4] ベンサム(17481832年)は、イギリスの哲学者、経済学者で功利主義の創始者
[5] コンドルセはフランス革命期の政治家兼数学書
[6] 南北戦争(18611865年。戦死者50万人と言われている)
[7] 194610月から12年ほど続いたフランスの政治体制
[8] (ここで述べられているのはいわゆる天賦人権論で、ロックに代表される)
[9] 16世紀中頃から17世紀前半の約1世紀間、宗教改革後のプロテスタントとカトリックに間の起こった血なまぐさい争い
[10] 16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者モンテーニュが代表的
[11] 政治思想家であるリチャード・タックの説明からの引用
[12] オランダの法哲学者(15831645年)で「国際法の父」と呼ばれている
[13] イングランドの哲学者(1588 1679年)で『リヴァイアサン』が著名
[14] 哲学者リチャード・ローティー(19312007年。アメリカの哲学者)の指摘で、例えば旧ユーゴスラビア分裂時の大量虐殺(19921995年にかけてのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は言語や血統は同じでも宗教が異なるセルビア人とボシュニャク人などの間の)、20世紀末のインドネシア・ボルネオ島での首狩・人肉食事件(背景には、第二次大戦後の民族独立国家の統治と、部族で異なる信仰・習俗という現実の乖離がある)等
[15] 民主的な手続きを通じても犯すことの出来ない権利を、硬性(通常の立法過程で変更できない性質の)の憲法典で規定し、それを保障する任務を、民主政治のプロセスから独立した地位を持つ裁判所に委ねるという制度で、現代の立憲主義諸国で広く採用されている
[16] 179545日,スイスのバーゼルで締結されたフランス共和国とプロシアとの和平条約。休戦条約ではあったが、以後10年ほど平和が保たれワイマールにおける古典主義文芸の全盛を可能にした
[17] 『空想より科学へ』(エンゲルス)では、国家の位置づけは「階級対立のうちに運動してきた従来の社会は国家を必要とした」となるから、共産主義の世界となって階級対立がなくなれば必然的に「国家の消滅」ということになる
[18] アメリカがヴェトナム戦争への本格介入を行う契機とされた事件で、公海上を航行するアメリカ駆逐艦が北ヴェトナム海軍から不意打ちを受けたとされる事件だが、実際には公海上ではなくて北ヴェトナムの領海内で沿岸施設の攻撃作戦に従事しており、また84日に起こったとされる二度目の駆逐艦への攻撃(第二次トンキン湾事件)はアメリカの捏造であったとされる
[19] 戦争開始前、アメリカ・イギリス両政府が開戦を正当化するため、イラクの軍事力、特に大量破壊兵器に関してその脅威を誇張する情報を意図的に流布した疑惑
[20] 既に説明されているラズのテーゼ