2019年12月3日火曜日

デカルト『方法序説』ダイジェスト

感想】
数学や理科が好きな子は、この本を読むと良いと思いました。本当のことは、先人に学び
ベルサイユの薔薇
ながらそれを批判できるくらい自分で考えることによって知ることが出来る、ということがわかるのではないでしょうか。

この本は今から370年ほど前に著された、近代学問・思想の原点が示されている古典です。もともと、当時のいわば先端科学技術に関する主著である「屈折光学」「気象学」「幾何学」の序として著されたもので、デカルト自身が、「この序説が長すぎて一気に読みきれないといけないから六部に分けてある(そんなに長いとは思えないのですが)」、と書いてあるほどですから、何が書かれているかは比較的容易に理解できます。
しかし、その内容には哲学的にとても深いものが含まれていて、それは、自然を対象にしたものに限らず「何が真理で何が偽物なのか」について考えるための方法なのです。真偽は自分で考え、自分で納得したものであって、他人のそれではないのです。知識を学ぶことも大切ですが、真偽を判断する方法を学ぶことは更に大切なのです。
デカルトの言葉としてよく引き合いに出される「我思うゆえに我あり」とは、デカルトが「何が真理で何が偽物なのか」ということをとことん突き詰めていった末に辿り着いた言葉だと思います。つまり、すべてが夢かもしれないと疑い尽くしたけれども、どうしても疑えないことが一つだけある、それは、そう考えているこの自分が考えている、ということ自体である、と。この思想は、先ず、自然科学をそしてその応用である科学的知識に裏付けられた技術を飛躍的に発展させました。あまりすばらしい発展だったので、その結果である知識に圧倒されて、デカルトが示したこの思想自体は現代においてかえって忘れられてしまったように思えます。

【第一部】学問に関するさまざまな考察
 良識(理性と同義、「自然の光」という言い方にも繋がる)はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。
・わたしは考察と格律(決めごと)によって一つの方法を作り上げ、この方法によって、人並みの精神と短い人生の達しうる最高点にまで少しずつ知識を高める手立てがあると思われた。
 わたしは子供の頃から人文学で養われてきた。けれども、学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。というのは、多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気付き、わたしを基にして判断する自由を選び取った。
 他の世紀の人々と交わるのは(古典の読書のこと)旅をするのと同じで、あまり多くの時間を費やすと異邦人になってしまい、身の程知らずの計画を目論みかねない。
 私は何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気付いていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほどゆるぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。
 わたしは神学に敬意を抱き、天国に到達したいと望んでいて、そこへ導く啓示された真理はわれわれの理解力を超えているがきわめて確かなものなので、それらの真理の検討を企てて成功するには、天から特別な加護を受け、人間以上のものであることが必要だと考えていた。
・哲学は幾世紀も昔から、生を享けたうちで最も優れた精神の持ち主たちが培ってきたのだが、それでもなお哲学には論争の的にならないものはなく、従って疑わしくないものは一つもない。わたしは、真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽と見なした。
・ほかの諸学問については、その原理を哲学から借りている限り、これほど脆弱な基盤のうえには何も堅固なものは建てられなかった筈だ、と判断した。
 以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄し----(真と偽を区別することを学びたいという強い願望をたえず抱いていて、旅をしてさまざまな経験を積むことになる。1618年頃)。
・そこ(旅)から私が引き出した最大の利点は次のことだ。つまり、われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々の大勢の人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだことだ。こうしてわたしは、われわれの自然(=生まれながらの)の光をさえぎる沢山の誤りからだんだん解放されたのである。

【第二部】学問探究方法の規則
・その頃私はドイツに居た。わたしは終日ひとり炉部屋に閉じこもり、心ゆくまで思索にふけっていた。その思索の最初の一つは、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、一人だけで仕上げた作品ほどの完成度が見られないこと、同様に、唯一の神が掟を定めた真の宗教の在り方は、他のすべてと、比較にならぬほどよく秩序づけられているはずなのは確かであること、(etc)。従ってわれわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理性のみによって導かれた場合ほど純粋で堅固なものであることは不可能に近い。
・ 私は次のように確信した。一個人が国家を、学問の全体系や、その教育のための秩序をその根底からすべて変えたりするのは理に反している、と。けれども、私がその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてに対しては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。後になって、ほかのもっとよい見解を改めて取り入れ、前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるために、である。
・だが、理性によって導きいれられたのではない意見をすっかり捨てることを始めようとも、思わなかった。その前に十分時間をかけて、とりかかった仕事の案を立て、私の精神が達しうるすべての事物認識に至るための真の方法を探究してからだと思ったのである。
 この三つの学問(論理学、幾何学、代数)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法探究しなければ、と考えた。(そのためには)次の四つの規則で十分だと信じた。
1)明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れない。
2)問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割する。
3)思考を、単純なものから順番に複雑なものの認識へと順番に導く。
4)すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさない。
・(今日では数学という一つのジャンルに含まれる)これらの学科において、比例だけを一般的に検討すればよい、比例をいっそうよく考察するためには、これを線として想定すべきこと(上記四規則の、普遍数学、解析幾何学、高次方程式への適用によって成功を収めたので)。
・しかし、(数学に用いた)この方法でわたしが一番満足したのは、自分の精神が対象を明瞭かつ判明に把握する習慣をだんだんとつけてゆくのを感じたことだ。それら(数学以外)の学問の原理はすべて哲学から借りるものであるはずなのに、わたしは哲学で未だ何も確実な原理を見出していないことに気がつき、何よりも先ず、哲学において原理を打ち立てることに努めるべきだと考えた。

【第三部】この方法から引き出した道徳上の規則のいくつか
 理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定にとどまることのないよう(仮の)道徳を定めた。
1)わたしの国の法律と習慣に従うこと。
2)自分の行動において、どんなに疑わしい意見でも一度決めた以上、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと。
3)運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように、つねに努めること。
 以上の格律の結論として、この世で人びとが携わっているさまざまな仕事をひととおり見直して、最善のものを選び出す。
  以上の三格律は、(自分が判断力を獲得する)時節が来て他人のより優れた意見を取り入れたり、よく判断することで知識や善を獲得したりする自分を教育し続けるという計画に基づいたものである。
・これらの格律をこのように確かめ、これらを、わたしの信念の中で常に第一であった信仰の真理とあわせて、ひとまず別にした後は、自分の意見の残り全部について、それらを自由に捨て去ることが出来ると判断し---(この企てを達成するために炉部屋を出て旅に出る。1620年3月頃)。
・数学や物理学の後世に残る研究もして九年経過し、スコラ哲学より確実な哲学の基礎も求めるに至っていなかったが、(とあることが契機になって)新たな学問を構築するために今度はオランダに隠棲した(1928年末)。

【第四部】神の存在と人間魂の存在証明。
・しかしすぐその後で、次のことに気がついた、すなわち、このように全てを偽と考えようとする間も、そう考えているこの私は必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理を哲学の第一原理としてためらうことなく受け入れられると判断した。
・私は一つの実体であり、その本性は考えることだけにあって、いかなる物質的なのものにも依存しない。わたしを存在するものにしている魂は、身体からまったく区別され、しかも身体より認識しやすい。
・一般的に一つの命題が真で確実であるためには何が必要か考えてみた。(そして)次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることは全て真である、これを一般的な規則としてよい。
 わたしが疑っていること、従ってわたしの存在はまったく完全ではないこと、-----自分より完全である何か(完全な存在の観念)を考えることをわたしは一体どこから学んだかを探索しようと思った。そうして残るところは、その観念はわたしより真に完全なある本性によってわたしの中に置かれていて、その本性は、つまり一言でいえば神である本性である。
・続いてわたしは、他の真理を探究しようと思い、幾何学者の扱う対象を取り上げた。そして、すべての人がこれらの証明(幾何学の)に帰する確実性は、明証的に捉えることだけに基づいているのに気がつき、また、それらの証明の中には、その対象の存在をわたしに保証するものは何ものもないことに気がついた(例えば、三角形の内角の和は二直角であるという観念は明証的に判明であるが、その三角形自体の存在を保証するものは何もない)。これにひきかえ、完全な存在者についての観念には存在が観念の中に含まれていることをわたしは見出した(神の存在証明)。
・神の観念と魂の観念が感覚の中には決してなかったのは確かである(また、想像力に基づいて神の観念を導出することも出来ない)。想像力も感覚も、知性が介入しなければ何もわれわれに保証することが出来ない。
・睡眠時の想像が時には覚醒時と同様かそれ以上に生き生きとして鮮明であるとしても、理性はやはり次のように教えるのである。われわれが完全無欠ではないゆえに、われわれの思考もすべてが真ではありえないのだから、思考の持つ真理性は、夢の中においてよりも、むしろ目覚めて持つ思考において、間違いなく見出されるはずであると。

【第五部】自然学の諸問題の秩序。
その頃、いわゆるガリレオ裁判などスコラ哲学の自然学に反する学説に対する宗教弾圧が行われ、デカルトも自説をあからさまに公開することを断念した(『宇宙論=世界論』は生前に公刊されず)。第五部と六部では、そのような当時の様子が伺える。
第五部では、主にデカルトの自然学の概要について述べられている。その対象は、天体、地球、光、地上の物体、物質の変化、生命体とそれに含まれる人間自体に及んでいて、それらの考え方が近代科学の基礎となっていることがよく分かる。
・例え神が最初はこの世界にカオスの形しか与えなかったと仮定しても、同時に神が自然法則を設定し、自然がいつもそのように働くよう協力を与えたとさえするならば、創造の奇跡(天地創造)を損なうことなく次のように信じうるのである。つまり、純粋に物質的なものはすべて時間とともに、現在われわれが見るようなものになりえたのだろう、と。
・可能な限りわれわれの行動を真似る機械があるとしても、だからといってそれが本当の人間ではない、と見分けるきわめて確実な二つの手段がある。それは、言葉や記号を使うことと、自身の認識によって働く理性であり、この手段は動物と人間を区別するにも用いられる。

【第六部】自然の探究においてさらに先に進むために必要なこと
・わたしは、これら(自然学に関する知見とその応用)を隠しておくことは力の及ぶ限り万人の幸福を図るべし、という掟に照らして大きな罪を犯すことになると思った。なぜなら、これらの知見は次のことを私に理解させたから。すなわち、われわれが人生に極めて有用な知識に到達することが可能であり、実践的哲学を見出すことができ、この実践的哲学によってわれわれを取り巻くすべての物体の力や作用をはっきり知ってそれぞれ適切な用途に用いることができ、こうしてわれわれはいわば自然の主人にして所有者たらしめること。
・人生の短さと実験の不足とによって妨げられさえしなければ、その道を辿って間違いなくその学問が発見されるはずだと思われたので、この二つの障害に対して次のこと以上によい策はないと判断した。それは、自分の発見したことを忠実に公衆に伝え、優れた精神の持ち主が更に先に進むように促すことだ。先の者が到達した地点から後のものが始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである。実験については、知識が進めば進むほど、それが必要になることをわたしは認めていた(必要なだけではなく、膨大になることも説明がされている)。
・実験がこれらの結果の方をきわめて確実なものとし、そうした結果が演繹される原因の方は、結果を説明するのには役立っても、証明するのにはそれほど役立たない。それどころか反対に、原因の方こそ結果によって証明されるのである。そしてわたしはそういう諸原因を仮説と名付けた。
わたしが、自分の国の言葉であるフランス語で書いて、わたしの先生たちの言葉であるラテン語で書かないのも、自然の理性だけをまったく純粋に働かせる人たちのほうが、古い書物だけしか信じない人よりも、いっそう正しくわたしの意見を判断してくれるだろうと期待するからである。

2019年11月15日金曜日

『ケインズ』伊東光晴 岩波新書1962年

「 」は本文引用、( )は私の補い

はしがき
ハニーブーケ


 経済学の歴史には大きな曲がり角がいくつかある。アダム・スミス(1723~1790年。経済学の父、『国富論』1776年)、リカード経済学の成立(1772~1823年。近代経済学創始者、比較優位理論)、マルクス経済学の出現(1818~1883年。『資本論第1巻』1867年)、1870年代の限界革命(生産の立場に立つ労働の価値「労働価値説」ではなく、需要の立場、換言すれば個々人の欲望に基づいた経済学「限界効用理論」。これにより経済学の数学化が進んだ)、そして一番新しい曲がり角が1930年代にケインズによって拓かれた新しい経済学の成立(資本主義社会変革の可能性を拓いた『雇用・利子および貨幣の一般理論』通称『一般理論』)
 長い間、経済学の正流は、自由競争さえあるならば経済社会は調和ある状態を続ける、ということを論理的に明らかにすることであった。しかし19世紀の後半以後、自由競争が現実のものとなると、それはなにもしないことであり、現実の説明をするに過ぎないものとなった。
 新しい経済学は、それまでの経済学の予定調和観の誤りを経済分析の武器を通して指摘し、国家の政策無くしては失業問題の解決も、不景気の克服も不可能であることを論証した。新しい経済学は政治を経済という基礎から批判するものであり、政治経済学の復活であったと言える。
 第一線で活躍している政治家も実業家も、実は過去の経済理論の奴隷である、という諺があるが、ケインズ経済学の登場も古い政治家や実業家の通念とは摩擦を引き起こした。しかし、新しい経済学が古い通念に取って代わるにつれて、現実の経済社会も、同じ資本主義でありながら大きな変化を見せ始めた。
 私は、ケインズ経済学の生誕の背景である1920年代から30年代にかけてのイギリス資本主義に目を向け、この危機(1929年には世界恐慌も発生した)に対処する伝統的経済学の政策と、ケインズの政策との対立を、ケインズ自身に内在して描いていこうと努めた。
 ケインズは、イギリスにとって真理であり叡智であったものを、資本主義国どこにでも当てはまる真理であり叡智であるものに高めたといわれている。
 本書の特徴の一つ目は、ケインズは植民地帝国主義国家としての老大国イギリス特有の三つの階級の利害抗争を元に新しい経済理論と政策を作ったのだが(三つの階級については後述)、この点について、伝統的理論とケインズ理論の対立が、海外投資を中心とする資本と国内産業に関係する資本の利害の抗争にあるという視点から意味づけた部分にある。著者が杉本栄一教授から与えられて研究テーマの一つとのこと。
 本書の特徴の二つ目は、イギリス経済思想の視点から見れば、ケインズ理論はそれまでの経済学を支配してきたベンタム主義的思想の否定の上に築かれている部分にある(イギリスの伝統的考え方である功利主義的なものを否定し、人間の期待・行動・幸福・利害は計測・計算では理解不能であり、経済学にとってより重要なのは、人間と人間関係の内的洞察の方である、というような意味だろう)。宮崎義一氏から多くを学んだとのこと。
 本書の特徴の三つ目は、新しい資本主義をつくりだす武器としてのケインズ理論という視角を強調したところ(例えば乗数理論⇒後述)。都留重人先生の影響が大きいとのこと。

序説

*ケインズは、20世紀以来「衰えていくイギリス社会と、第一次世界大戦以来揺るぎだした資本主義経済とともに歩み、その変質のための処方箋を書き、しかもその処方箋が資本主義そのものの変化を可能にしたという意味で、一人の偉大な”経済”学者であった」

*ケインズは、現実をいろいろの意味で変えた。例えば下記
 ・自由放任主義を批判し、公共投資や景気振興策など経済政策の重要性を説いた
 ・貨幣制度を変えることに努力し、金本位制から離れて管理通貨への移行に積極的
 ・資本主義が変貌した。例えば、景気を自動的に調節するメカニズムの制度化
 ・ケインズの理論は他の多くの近代経済学者のような書斎だけのものではなかった
 ・ケインズの理論は経済学者のみならず政治家や実業家を変え多数の追従者を生んだ

*ケインズ理論は生まれるべくして生まれた。それは同時代のいろいろな経済学者も別々に同じような考えに達していることから、明らかであろう

*ケインズの多様な肩書きは多方面での活躍及び特異な人間性を暗示している。下記参照
 ・ケンブリッジ大学キングス・カレッジの教師兼会計官
 ・29歳で、イギリスを代表する経済学雑誌「エコノミック・ジャーナル」の編集者
 ・第一次大戦後のパリ平和会議大蔵省主席代表
 ・大蔵大臣顧問
 ・国民相互保険会社社長
 ・三つの投資会社の経営者
 ・「ネーション」後に「ニュー・ステイツマン・アンド・ネーション」誌の社長
 ・イギリス貨幣制度を動かしたマクミラン委員会の委員
 ・王立インド通貨委員会の委員
 ・第二次大戦後の世界金融のあり方を決めたブレトン・ウッズ協定のイギリス代表とそれに基づく国際通貨基金と国際復興開発銀行の理事
 ・二十世紀文芸運動の一つであったブルームズベリー・グループの一員
 ・国立美術館の理事
 ・音楽美術奨励会の会長
 ・後に貴族となって上院議員
 ・ロシア・バレーのバレリーナ、ロポコヴァの夫

*本書の章立ては以下
Ⅰ(第一章) 三つの階級・三つの政党ーーーケインズの階級観ーーー
 1920年代、イギリス経済学の変貌に対処した持論家としてのケインズ。ケインズの階級観と経済分析をもととする政治批判
Ⅱ(第二章) 知性主義ーーー若き日のケインズの思想ーーー
 人間ケインズの若い時代の彼に焦点を合わせて、19世紀の人間像と異なる20世紀の人間像を問題にする
Ⅲ(第三章) 新しい経済学の誕生
 主著『一般理論』の解説
Ⅳ(最終章) 現代資本主義とケインズ経済学
 ケインズ理論が残したものを検討するために、現代資本主義とケインズの理論との関係を問題にする

Ⅰ(第一章) 三つの階級・三つの政党ーーーケインズの階級観ーーー

 ”階級”と言えば、よく知られているマルクス経済学の階級観(労働によって商品の価値を生み出さない地主および資本家と、労働によって商品の価値を生み出すとともにその価値の一部を地主や資本家に搾取されている労働者という二つの階級が対立して存在するのが資本主義的生産様式に基づいた社会である、という階級観)が思い浮かぶが、ケインズのそれは、資本家階級を利子や年金で暮らす階級と企業経営に携わる階級に分けて前者を非活動的階級、後者を労働者階級と一緒にして活動的階級と捉えている。つまり社会の階級を三つまたは二つに区分している。ケインズの社会階級区分は、資本主義社会において現実に生じている諸問題に対する諸施策が、資本主義社会の中のどのグループの利益になるのかという点を経済理論によって明確にするための基盤となっている。
 この章のもう一つのポイントは、ケインズが、当時のイギリス及び世界の趨勢であった金本位制への復帰に対して真っ向から反対したこと、およびその理由である。それらは、1920年代という、第一次世界大戦後に先進的な資本主義国で大きく経済構造が変わってしまった社会に対する、新しい経済学の提示とほぼ同義であった。つまり、古典派経済学がよって立つ基盤としての自由放任主義の理論は、ただ単に経済の現状説明でしかないことであり、必要とされている経済学は優れて政治経済学として資本主義社会における諸問題を実際に解決に導く理論であるべきだ、と。またその経済的思想を人間や社会に対する根源的見方という視点から見れば、貨幣の信用の根拠を外部の物質、つまり金など、ではなく人間の内にある知性、つまり管理通貨制度に基づき得るのではないか、と。

チャーチルとケインズ

*チャーチルの手紙「わたくしはルーズベルト大統領と会っていると、次第にあなたの考えに近づくのを覚えます。」
*ケインズの返信「私の考えに近づかれたとのことですが、残念なことにわたくしは今考えをを変えたばかりです」

1920年代の経済問題

 1920年代の主要資本主義国における経済状況は、日本から始まった恐慌が一巡し、1923年からは景気は上昇に転じ、アメリカは繁栄を謳歌していた。しかし、産業革命以来、世界の工場として揺がなかったイギリスのみが例外であった。

*イギリスの失業者数は1920年末には52万人であったが、1921年は190万人であり、1923~28年まで絶えず100万人を超えていた
*イギリスが大戦中(第一世界大戦1914~18年)の戦費を賄うために失った海外投資は全海外投資の四分の一であり、その三分の二がアメリカで処分され、そのために世界の金融の中心がロンドンからニューヨークに移りだしていた
*イギリスでは、自国の経済が停滞した理由についての大方の見立ては、世界金融の中心としてのロンドン・シティの地位の低下が、大戦のために採らざるを得なかった金本位制の離脱によって生じたから、というものであった
*金本位制は、19世紀の100年間イギリスの物価を安定させ、なにより金本位制下のイギリスは世界経済の中心であった。だから、イギリスは金本位制を含めて全てを戦前の状態に復帰しようという考えを持つのは自然ではあった(だが世界の経済は変化していた)
*金本位制への復帰は世界の資本主義のスローガンでもあって、第一次世界大戦で金本位制を離脱した32カ国の先進資本主義国のうち28カ国が1928年までに復帰した
*ケインズは1923年11月には『貨幣改革論』を出版して内外の金本位制復帰の潮流に警告を発し、問題を三つに要約した上で現在の保守政権の政策がイギリス社会におけるどのような人々の利益になるのかを明確にして国民の正しい判断を得ようとした。これは1923年12月の総選挙に向けての優れて政治的意味を持つものであった

三つの問題

 互いに関係するものではあるが、問題を三つに要約して世に問い、自身の政策を提言した。一つは、デヴァリエーション(平価切り下げ)かデフレーションか、という問題。何れも貨幣価値の安定をめざしていても、安定点の基準を現在の水準にとるのか、戦前の水準をとるのか、で異なったものになる。現在進行しているのは後者だがそれで良いか、と問うた。二つ目は、物価の安定か為替の安定か、という問題。貿易関係者やシティ筋は後者を重視することを望んでいるが、それで良いのか、と問うた。三つ目は、金本位制に復帰すべきかどうか、という本質的問題で、ケインズはイギリスや世界の風潮とは反対に復帰すべきではないと主張した。

三つの階級

 ケインズはイギリスの社会を以下のように三つあるいは二つの階級に分けて捉えていた。三つの階級とは投資者の階級、企業家の階級、労働者の階級で、初めの階級は非活動的階級に、後の二つはまとめて活動階級に属すると捉えていた。
 ケインズはイギリス経済の問題を対象としながら、同時に資本主義経済の本質をつかみ出している。社会階級の捉え方もその一例なのだろう。つまり、社会には経済的活動階級と非活動階級があって、前者が資本主義経済を良い方に導く、と。

*イギリスにおける個人の”投資”は、古くは国債を買うことであった。しかし資本主義が発展してきて海外投資が増大してくると、シティで起債される植民地などの公共債やアメリカの鉄道株や社債などを買うことがそれに加わってきた
*イギリスでは19世紀末から株式の公開が始まり、株の一部が公衆に売り出されるようになってからは株式会社が変質して、従来は一体であった経営者と資本家を企業家と投資者に二分した
*ケインズは、投資者の階級を、資本と経営の分離という経済社会の変質により生じてきた者と、イギリス社会に根を深く張っているイギリス特有の海外投資者とを合わせて一つの階級として捉えている

金本位制復帰はいかなる階級への利益をもたらすか

 前述の三つの問題に対する施策がどの階級に利益になるのか、とケインズは分析し、平価切り下げは企業家と労働者に不利で投資家には有利、為替の安定重視は海外への投資階級には有利だが国内の活動階級には不利、金本位制への復帰はどの階級にとっても不利であると考えた。

*戦前平価への切り下げは結局デフレーション政策を取らざる得なくなり、企業家にとっては利潤減退や規模縮小や物価の下落による債務の実質増大をもたらし、労働者にとっては不況による失業をもたらし、投資家にとっては富の実質増大をもたらす。戦前回帰がデフレーション政策を取らざるを得なくする理由は、ポンド下落による価格上昇(ポンドで表示される商品価格の数字は大きくなる)から生じる輸出不振を補う以上に商品価格を低下させることが難しいという判断(商品の生産に要する費用は現実の貨幣価格なので)と、またそうなればポンド価値を維持せねばならないからである
*2番目の問題に対しては、為替の安定は貿易リスクを減少させる一方、国内物価の変動が海外物価の変動に左右されることになるから、海外投資者(投資階級)にとってプラスで国内経済の活動階級にとってはマイナスとなる
*3番目の問題に対しては、現実の経済は戦前とは一変しており、金本位制に復帰することはイギリスの行動の自由をアメリカ連邦準備局に引き渡すことになると判断される(どの階級にとってもマイナス、つまりイギリスにとって良いことはない)。なぜなら、アメリカ合衆国は増大した生産力を背景にして金不胎化政策をとって金の価格を一方的に定めているから

海外投資の変質

 第一世界大戦後には、海外投資の内容が変質し、シティが目論んでいるような戦前の金本位制下での古典派経済学に基づいた自由な海外投資は出来なくなっているというのがケインズの見立てであった。
 過去100年間イギリスを支配してきた自由放任主義の理論は、海外投資と国内産業との利害の対立をあり得ないものと考えていたが、海外投資と国内産業の利害の対立は表れだしているというのがケインズの見立てであった。

*大戦後には、世界の工場としてのイギリスの地位が揺らぎだし、海外への投資が国内に環流しない構造になって、投資家階級と企業家階級の利害が一致しなくなった。海外投資への依存は海外逃避ともいえるもので、イギリス国内に対立と分断を生み、経済をますます低下させる。海外逃避はポンドの流失と国際収支の赤字を増大させ、それを補う輸出の増大も難しく、したがって為替は下落し、それによって多少輸出は増加するだろうが、それに見合う(イギリスの)海外需要増は不十分と判断されるから為替の下落は防げない。同時に国内産業の原価は増大し、物価は上昇し、賃金は低下し、失業も増える(海外投資階級の優遇策は活動階級を弱らせ、国内の企業家と労働者を苦めて相互に対立させ、イギリスの衰退を加速させる)
*したがって、海外投資のために為替の安定を狙った政策は、海外投資家階級にとってはプラスかもしれないが活動階級にとってはマイナス
*「イギリス経済学の基礎に横たわっている二大対立である、海外に根を持つ資本としからざる資本の対立、そこから発生する海外市場優先策と国内市場優先策との対立を、ケインズは金本位制への復帰か否かの問題の中に見いだすのである。」
*自由放任主義は労働と資本の自由移動を前提した為替と利子の自動調整原理を想定しているが、現実にはこの前提はあり得ないものになっているとケインズは考える
*労働の移動はかなり硬直性を持っており、投資についても現状には「シティの起債市場組織と投資信託法規とが対外投資に不当な特恵を与えており、また警戒心が、善悪様々な理由から現在国内における新資本投資の企てを圧迫している。」

ケインズの提案

 金本位制度復帰に代わるケインズの提案は、海外投資を国内産業への新投資に転換させることで、国内産業の長期資金を金融市場で賄わせ、併せて失業問題を解決しようとするものであった。

*資金の需給分析:イギリスの投資者階級は尚多額の資金を海外に投資する力を持っている。国内産業は戦争以来の疲弊を回復するためと、新興国特にアメリカに対抗するための新しい資本を必要としていたが、投資の規模と資金量は私的努力の限度を超えている
*金本位制の実態分析:実体はドル本位制となっており、また為替安定を主眼とする制度にすぎず、イギリスが必要な資金を調達する方策としても役立たない
*社会問題分析:アメリカと違って100万人規模の失業問題が継続している
*歴史分析:過去100年間、金本位制の下でイングランド銀行は利子率をコントロールすることで金の出入りをコントロールし、為替と国内物価の安定を図ることが出来たが、現実はそれが出来ない経済となっている
*実施方策:金本位制に復帰しないで通貨管理制度を導入し、国家による為替管理と国内投資政策を採ることで、自由な海外投資を抑制して国内に振り向け、金保有高に拘束されずに国内経済の必要に応じて自由な銀行券の発行し、政策の中心は利子率の変更と操作による国内貨幣量の調節によって国内物価の安定を図ることである

三つの政党

 ケインズは机上の経済学者ではなく、自己の理論に基づいて現実を動かすべく政党に対して積極的な働きかけをしたが、その望みは果たせず、イギリスは第二次保守党内閣の大蔵大臣となったチャーチルのもとで1925年に金本位制復帰へと走ることになる。

*「ケインズの政策は、イギリス社会をまず階級的としてとらえ、つぎにイギリス経済の再生産構造を分析した上で、それが、投資者階級の利益のために推進されているのであり、それは活動階級の利益の犠牲のみならず、イギリス自体の利益をそこなうものであることを明らかにした。と同時に、その基礎をなす三つの階級はそれぞれの利益を推進させる政治的主体を持っていた。」
*保守党は金利生活者(投資者の階級)の利益を促進する政党、自由党は企業家階級の利益を守りイギリス中産階級の知性を代表する政党、労働党は1918年の国民代表法によって男子についての普通選挙権が確立して以来労働者の利益の代表である政党
*ケインズは自由党支持であった。だが、「海外投資と本国への投資を区別するケインズの考えは「小イギリス的な香りを帯びている」と見られた。自由党員は長い間小イギリス的な言葉でものを考えなくなっていたので、ケインズの考えはなお孤立したのである。」
*1924年の選挙において、その四日前に流された「今日ではおおよそ偽造されたものだろう考えられている」反共ニュースが大きく影響し、保守党は400名をこえる当選者で大勝利となった。また労働党は151名に、自由党は小選挙区制という制度制度のもあって40名のみで大敗した

チャーチルの経済的帰結

 イギリスは1925年3月に利子率を5%から4%引き上げてポンドの投機的人気をあおり、戦前の平価に回復させた後に金本位制に復帰したが、ポンドは実力より10%の高評価であったために国際競争力に打ち勝つには10%の値下げを強いられた。だが、それは困難なことであった。特に国際競争が激しく、しかも賃金が費用の大部分を占めていた石炭産業は生産を続けることが出来なくなった。

*ケインズは、アメリカのインフレーションが進行して物価が10%上昇することを念じたがそうはならなかった
*1925年6月、石炭業の企業者は賃下げと労働時間の延長を組合に申し入れたが、労働組合は実力で反撃に出ようとしたので、政府は労使交渉期限が切れようとした7月31日に、1926年4月まで補助金を出すことで賃金切り下げを回避させた。だが、事態を先延ばしするだけであった
*時評家であったケインズは、金本位制回帰を回避できなかったことの次善策として、企業家階級は物価を下げることを、労働者階級には、労働者階級は5%の賃金切り下げを受け入れることを、金利生活者階級である財産保有者には所得税増税をすることを提案するが、保守党政権下では受け入れられなかった
*1926年4月末、石炭業に対する補助金が切れると同時に企業は再び賃下げをを提案た。炭鉱組合労働組合会議評議会の援助のもとにゼネ・ストの用意に入った。5月2日政府は交渉を打ち切り、4日朝、バスも鉄道も新聞も止まった。ゼネ・スト参加者は275万人だった。デヴァリエーションかデフレーションかという問題の提起とその結果についてのケインズの予想は的中したということになる
 ・保守党の政府は積極的に労働者に反撃を加えた。自家用車を大量動員し、ホワイト・カラーや学生などの素人で運転手や配達人を作り、これらの人と労働者の衝突防止のために武装警官隊が動員した。新聞が止まっていることを利用してチャーチルは政府の日刊紙「ブリティッシュ・ガゼット」を発行して労働者攻撃の世論を一方的につくりだした
 ・食料品の欠乏は、市民、労働者を不安に陥れ事態は労働者に不利に進んで5月12日に9日間のゼネ・ストは中止された。炭鉱組合は11日までストライキを継続したが、資金は尽き、炭坑夫は飢えに迫られてやむなく職場に復帰しだした。賃金は切り下げられ、労働時間は延長され、会社の条件は受け入れられた
 ・この間二人の人間が労働者に同情的であり、しかも世論を動かそうとした、一人はカンタベリー僧正、もう一人はケインズであった。前者は人道的立場から、後者は科学的立場からの労働者援護であったと言える
 ・ケインズの言葉「社会正義の観点に立てば、炭鉱労働者の賃金を切り下げるべきであると主張することは不可能である。<中略>彼らは4.40ドルと4.86ドルとの間の〔わずかな開き〕を埋めようとするシティのおやじたちの焦燥を満足させるために、大蔵省とイングランド銀行とで企んだ『根本的調整』を、身をもって代表するのである。彼等(および次に続く他の人々)は金本位の安定を保証するになお必要な『わずかな犠牲』である。」
 ・ケインズはベルリンに講義に行ったとき、次のように語ったといわれている。「あれ(ゼネ・スト)は革命や反乱の兆候ではなく、忠誠な、よく訓練された労働組合員が、かれらの義務を果たしたひとつの例であった」と
 ・イギリスに続いて多くの国が金本位制へ復帰したが、自国の通貨の力を過大評価して金本位に復帰した国とその逆があり、代表的にはイギリスとフランスであった。イギリスは国際競争の場においてはフランスのような国の圧力をもうけることになる
 ・日本は、金本位制復帰に際して自国通貨の力を過大評価した方の国であったから、デフレーションが国内経済を襲った。このときにイギリスにおけるケインズの役割を担ったのが石橋湛山だったといえるだろう(「東洋経済」の石橋湛山は「小日本主義」を掲げて、対外拡張を図る軍国主義日本の進み方に対して合理的に反対した数少ない人であった。第二次世界大戦敗戦後の1956年に首相となったが病のため二ヶ月で辞任した)

ケインズと政党

 ケインズは経済的処方箋を書き、それが政策になって力を発揮するように進んで政治の世界に身を置く人間であったから、自由党を支持し、保守党を嫌い、労働党に対しては自分が属する階級ではないと明言した。しかし自由党は衰退の一途を辿りケインズの政党を失うこととなる

*「かれ(ケインズ)は保守党は知性も能力もなく、ただ財産と家柄によって社会の支配者として立っている頑固者の集まりであると考え、自由党はイギリス中産階級の知性を代表し、人間の知性と努力とで社会を革新していく人達の集まりと考えていた。」
*しかし、自由党は1929年5月の選挙で59名にすぎず、保守党は260名、労働党は286名で第二次労働党内閣が成立した。以後自由党は衰退の一途をたどり、政界は三党鼎立から二党対立の時代に入った。

ケインズ理論の中核

 ケインズは政党を失ったが、三階級構成による社会把握は彼の経済理論の根幹をなすことになった。経済を支えるのは活動階級であり、不況時に非活動階級が社会の必要とする資本を出さないのは彼等の「貨幣愛」のためであるからこの階級の利益を抑えるべきだと(「貨幣愛」という概念の意味については後述)

*『一般理論』において、「貨幣を山に埋めて掘り出すという不生産的な消費もまた役立つことを主張して、マルサスを高く評価したことから、ケインズはマルサスの系譜に属すると考えられている。」しかし、著者はケインズの不況対策をみれば、ケインズはスミス、リカードの系譜に属するという。つまり、スミスは重商主義に対抗して国内の生産力増強を主張し、リカードはマルサスの不生産的消費に対抗して生産力の体系を作ったように、ケインズの政策は海外投資ではなく国内投資による生産力の増加を図るものだった、と(経済は社会の活動的階級よって支えられる、と)
*また、経済は活動的階級によって担われるはずであるという直感は、彼の非活動的階級に対する反感が基盤にあるのだろう(⇒次章へ)

Ⅱ(第二章) 知性主義---若き日のケインズ---

マーシャルとケインズ

 19世紀後半を代表するイギリスの経済学者で、ケインズのケンブリッジ大学での師であり、夫人と共にケインズを可愛がってくれたマーシャルに対して、ケインズは「19世紀ヴィクトリア時代の偽善と道徳、鼻持ちならない倫理主義」を嗅ぎ取った。

*この感覚は20世紀になって世に出て行く多くの青年たちに共通のものだった
*マーシャル経済学の結論はレッセ・フェール(自由放任主義)であったが、同時にマーシャルは学生にイースト・エンド(ロンドンの貧民街)に行って温かい心養えと言った。つまり貧民街に行って何もしない(自由放任)、これは鼻持ちならぬ偽善だと

ソサエティーとその思想---ベンタム主義への批判と叡智主義

 ケンブリッジの”ソサエティー”に属したケインズは、そこで直観と知性を重視する哲学者で、当時ソサエティーに大きな影響力を持っていた哲学者ムーアの影響を強く受けた。ソサエティー及びムーアとの出会いは彼を一生支えていた知性主義の糧を育んだ。

*”ソサエティー”とは1820年代につくられたケンブリッジの学生の秘密グループで、多くの著名人が参加していた
*ムーアの哲学は、当時のイギリス思想を支配していたベンタムの功利主義哲学に異議を唱えて、善や価値は算出できず直観によるほかなく、全体の価値は単に部分の価値の合計ではなく関係の問題分析を理性や知性によって行わねばならないとした
*ケインズの知性主義的人間とは、人間の知性に信頼を置き、人間を差別せず、惰性と安逸むさぼる人間に対しては激しい批判を浴びせ、危険を冒しても自分の直観と知性を信じて行動する人間を指す

ブルームズベリー・グループ---若い芸術家の集団

 ケインズは、芸術・美を中心とした集まりであったトリニティー・カレッジ(ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ)の「真夜中の会」、後のブルームズベリー・グループにも参加していた。世俗的であった彼は一人異質であり、思想的影響は受けず、1920年代後半このグループから離れていった。しかし、ケインズは、そこでソサエティー以来の反逆精神を友情の中で長く維持させ、絵画の素養と弁舌と文章の辛辣さを磨いた。

知性主義の二側面---ケインズの人間観

 イートンからキングス・カレッジへのエリートの道を進み、また、ソサエティーからブルームズベリー・グループに所属していたケインズの知性主義は、鼻持ちならないエリート意識を感じさせるものの、それも彼の思想を規定し、階級観を形作っていた。

*ケインズから見れば、労働者と企業家の相違は、知性あるものとないものの違いであり、平等化政策は能力に基づく収入の差を肯定するものであり、経営と資本の分離という発想の背後には、能力あるものが企業家たり得るという考えがあった
*労働党は自分の政党ではなく、自由党を高く評価したのも知性による選別であり、能力さえあるなら資本を借りることが出来て企業家になれるというビジネス・デモクラシーという考えに災いされていた
*知性のある者が指導的立場に立つのは当然であり「選ばれた少数者の叡智に信頼を置く」人であり、世襲によって豊かな生活をして社会の指導者になっている人には痛烈な批判を浴びせ、相続税強化を主張した。労資の対立ではなく、活動階級対非活動階級との対立という観点もここにある
*反共主義者でありマルクスを問題としなかったが、安逸な帝政ロシアとソヴィエトのどちらを選べと言われたら後者を選ぶという人間であった「旧いロシアの残忍性と愚劣さからは何も生まれることが出来なかったが、新しいロシアの残忍性と愚劣さの背後には理想が何か一点ひそんでいると思うのである。」と
*非活動階級批判の根拠は、この階級の存在が資本主義の特性だからでは全然なく、封建主義の社会体制から引き継いだ世襲原則にあるのであって、これが個人主義的資本主義の知性を衰退させている、というものであった
*要するにケインズは、能力や知性がなくても財産があり家柄が良ければ指導者となれるような社会は亡びると、同じことだが世襲原則に執着することが社会制度を滅ぼす最大の原因であると信じていた
*(ケインズにとって、世襲原則を取り除くというのは、金利生活者を取り除くことと同義であるから)金利生活者を取り除くことで資本主義は尚発展する、つまり修正資本主義観が生まれた(⇒『一般理論』に基づけば、利息自体ではなく金利生活者が利息を特権的に獲得することを問題としているのだろう)

自由放任主義批判

 ケインズが自由放任主義を批判したのは、知性主義者ケインズにとっては、問題があるのに何もしないことには耐えられなかったからである。

*自由放任主義は100年以上もイギリス経済学の主流であったが、更に19世紀半ばよりダーウィンの進化論の影響受けて強化されていた(『種の起源』1859年刊)
*ケインズは自由放任主義の経済的な中心は金本位制度であった。金という自然を根拠にした統制経済に反対し、経済の拡大とそれに応じた信用と貨幣量は人間の判断で決めるべきである、と考えていたからである

投機家ケインズ---フロー分析からストック分析への転換をもたらしたもの---

 ケインズは、経済学に、従来のフロー(お金の流れ)分析だけではなくストック(お金の蓄積)分析を取り入れた。経済社会はベンサム的な功利主義的原則に従うではなく蓋然性の社会である考えたからである。このような考えを持つことが出来た背景には、投機家としてのケインズがあったのだろう。

*ケインズは投資家ではなく投機家(利子・配当ではなく価格変動で利を得る人)であり、世襲財産はなかったが必要なお金はそれで稼いだ(投機で稼ぐのは、人間が営む現実の経済社会を見抜く才覚であって、自分は世襲に頼る非活動階級ではなく、活動階級に属すると思っていただろう)
*アダム・スミス『国富論』もマルクス『資本論』もフローを問題にしていたが、ケインズは富の価値(価格)の変動が与える影響を経済学に取り入れた
*株価の騰落はかなりの程度大衆心理によって変動するにもかかわらす均衡が得られる、という体験もケインズが経済社会に対する発想の糧になったのかもしれない

ケインズの結婚

 ケインズは42歳でロシアバレー団のバレリーナのロボコワと結婚したが(ロボコワは夫と別れてケインズと結婚した)、これは若き日のケインズの思想の変化、すなわち合理主義が後退して叡智主義が前面に出てきたことと軌を一にしている。この変化によって『新しい経済学』が形を整えだした。

*ケインズの女性観は19世紀と違っていた。婦人解放を叫ばなかったが婦人参政権運動を手伝った。自由党に、産児制限、婚姻法、婦人の経済的地位向上など、女性の自由のための改革を求めた
*ロボコワとの結婚と同時期に、ブルームズベリー・グループと決別し、ソサエティー時代のケンブリッジ合理主義の精神は、ケインズの中において変化してきた
*「既存の道徳を破壊する側から、自分ではその権威を否定しながら、社会を上手く統治するためには、その必要を認める側に変わった。知性主義とともに彼の中にあったケンブリッジ合理主義は後退して、彼の叡智主義---知性によるコントロールという思想が前面に出だした。”批判”は”計画”に代わった。」

Ⅲ 新しい経済学の誕生

 伝統的理論に取って代わる新しい理論は、全く新しい発想に基づく乗数理論と流動性選好理論を二本柱にしている言ってよい。その発想の基底には、資本主義の発展に伴って飛躍的に向上した生産力を持つに至った経済社会においては新しい諸問題が発生(例えば失業)しているから、それをコントロールするためには外的な自然ではなく人間の叡智に基づいたもの、また現実の諸問題を解決する施策の提示が可能なもの、伝統的なベンサム的な功利主義の視点とは違って人間社会の蓋然的現象を取り扱えるもの、でなければならない、という哲学がある。

1 新しい現実 古い理論

資本主義の危機

 新しい現実とは、第一次世界対戦終了後の世界の社会経済状況、とりわけイギリスの社会経済状況のことである。古い理論とは伝統的な古典派経済学の理論のことで、一口で言えば”需要・供給・価格決定論”である。古い理論はこの新しい現実の問題に対して適切な処方箋を書くことが出来なかった。

*1929年10月24日にニューヨークのウォール街を襲った株の大暴落は、世界恐慌となって資本主義諸国に波及していった。不況は長期化して、(大戦の損害も少なく勝者でもあった)アメリカは四年ほどで生産も収入も半分になり、失業者は3%から25%になった。社会にとっては特に失業者問題が重要であった
*大不況に対してイギリスでは下記の三つの政策が採られた
 ①均衡財政政策⇒税収の減少に応じて支出を減らす伝統的政策
 ②保護貿易政策⇒1931年1月、イギリスは90年ぶりに自由貿易の幕を閉じた
 ③賃金の切り下げ政策⇒人間の生存に直接関わる重大な問題であった

古い経済観

 第1図は、財の需給関係を示した代表的な図であるが、伝統的な経済学は、この”需要・供給・価格決定論”を財の市場だけではなく、労働市場、金融市場、などあらゆる市場にあてはめた。しかし、それは間違いであった。


*”需要・供給・価格決定論”の各市場への適用とは次のような考え方である
 ・財の市場では生産(供給)と消費(需要)を等しくする価格が市場価格を決める
 ・金融市場では貯蓄(供給)と投資(需要)を等しくする価格が利子率を決める
 ・労働市場ではr労働者(供給)と雇用者(需要)を等しくする賃金が賃金率を決める
 ・更に国際間では為替率の変動により取引の均衡が保たれる(等価交換が可能となる)

*伝統的経済学の考え方を更に詳しく言えば下記のようになる
 ・第一に、与件(現在の技術・資源・嗜好・制度など)が変わらなければ、人々は価格(商品価格、利子率、賃金率)をめやすとして自分が一番得になるように行動する、と考える。例えば労働者は、働いて得られる賃金と働く時間の長さで計られる苦痛の量(限界効用逓減法則)を考慮して判断するから、労働供給曲線は右肩上がりの形状が定まり、雇用主は、賃金の高低で雇用者の数を調整するから、労働需要曲線は右肩下がりとなって、労働の需要曲線と供給曲線労働の需要曲線と供給曲線の交点が自然と定まる、と考える
 ・第二に、需要曲線と供給曲線は与件が変われば動く、と考える
 ・第三に、市場での競合状態が確保されていれば、価格(商品価格、利子率、賃金率)は需要曲線と供給曲線の交点に自然に落ち着こうとする、と考える

*このような経済像から、伝統的な経済理論は次のような結論を導く
 (イ)需給不一致が生じるのは競争状態が確保されていないからである。したがって国家のなすべきことは独占の排除、即ち自由競争の確保である⇒自由主義の原則
 (ロ)伝統的な経済理論に従って合理的な行動をとりさえすれば、人々は最大の満足を得られるのだが、それが出来るかどうかはその人の能力いかんである。言い換えれば、価格(商品価格、利子率、賃金率)に適応できるか否かは各人の判断で行い、その結果は自分で責任を負わなければならない⇒個人主義の原則
 (ハ)政府が経済に干渉することは、自由主義の原則と個人主義の原則による調和を攪乱するから、政府のなすべきことを最小限にとどめる安価な政府であるべきであり、財政はこの調和に無関係なように収入と支出が等しい均衡財政であるべきだ
*しかしながら、「価格を持って経済を動かす戦略的な要因と見なす」というこの考え方は、外国製品との競争に対しては、関税をかけて(価格を政府が操作して)国内産業を保護をするという、伝統的な経済理論の結論とは矛盾する考えに繋がっていた

ケインズの苦闘

 現実における何より重要な問題は失業問題であった。伝統的な理論からの結論は、賃金が需給曲線の交点まで低下しないのは、つまり失業が生じるのは労働組合という独占によって賃金が下がらないからである、端的に言えば、失業の原因は労働者の行動それ自体の中にある、というものであった。1920年代から30年代の初めにかけて、(政策立案に関与する立場でもあった)ケインズはこのような見方に、理論的にではなくて直感的に反対したが、受け入れられなかった。
 「新しい経済学」誕生のきっかけを作ったものは、大量失業に対する伝統的な対策---賃金切り下げ政策に対するケインズの反発であった。しかしそれは経済理論に基づいたものではなく、”ソサエティー”仕込みの直観に基づいたものであり、彼の理論はまだ伝統的理論に属する師のマーシャルの経済理論の内にあった。

自動車が故障してしまった。運転技術だけではどうにもならない

 不況は一時的なもの(だから失業も一時的なもの)であるとする伝統的理論は、アメリカでもイギリスでも失業者があふれている現状の前で次第に信頼を失っていった(経済理論を自動車に例えているのだろう)。

*伝統的な理論では、失業者は自分の意思で働かない怠け者ととらえていたが、アメリカにおいて最も景気が回復した1937年、好況の絶頂においてもなお七人に一人の割合で現に存在していた失業者を、常識では怠け者と捉えることは出来なかった
*「こうした中にあって、新しい理論は、ケインズの同僚、R・カーンによってまず切り開かれ、後に”乗数理論”として”新しい理論”の柱を形作るものが彼の『国内投資の失業に対する関係』(1931年)にあらわれた。同じくケンブリッジのJ・ロビンソン夫人も新しい考えに到達しつつあった。ケインズはこのような人達の側面援助を得て、1934年の末に草稿を書き上げ、多くの友人、後輩の提案を参考にしながら、1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版するのである。」

2 『一般理論』の骨組み---(ⅰ)
 
 『一般理論』の骨組みの中で、主に乗数理論と有効需要の原理とそれらに基づく政策提言が説明される。資本主義社会における失業者の存在が理論的に明確にされるほか、投資の有効性、所得や貯蓄の経済的意味などが理論的に明確にされる。

新しい労働市場分析

 ケインズの新しい労働市場分析をL・R・クラインは第9図のように表現している。伝統的経済理論によれば失業者は一時的に発生するかもしれないが恒常的には発生しないことになるから、現実の説明ができない。なぜなら、伝統的な理論による労働市場分析では、労働需要に無関係に雇用者数は一定数(N0)存在しているということを見落としていたからである。
 (資本主義経済社会において自身の労働を商品として売ることによって生活の糧である商品を購入するための賃金を得る労働者にとっては、労働需要が少ないからといって、その時代の人間であるならこの賃金以下では暮らせないという事実を見落としていた)


*第9図と、第1図を労働市場における需給関係に置き換えた図を想像して比較すると、その違いは明白で、つまり労働供給曲線の左側が水平となっていることに気づく。
*失業者数つまり非自発的失業者は、N0 から労働供給曲線と労働需要曲線との交点で示されているN1を差し引いた数となる
*伝統的理論では(一時的失業はあったとしても)完全雇用が前提されていたのであり、新しい理論では(恒常的失業はあり得るという)不完全雇用が前提されている
*新しい理論でも、A点より右側は伝統的な需給曲線と同じで、それ以上雇いたいなら賃金を上げなければならない。
*新しい理論は、労働供給曲線の完全雇用と不完全雇用の両方を含むから、”一般理論”と呼ばれる
*伝統的理論は、資本主義社会で雇用されている労働者は自分で働く時間の長さ(本質はマルクスも指摘しているように労働条件だろうが)を自分で決めることが出来ないという点を見落としていた
*新しい理論は、労働の需要曲線が左に寄りすぎていると失業が生じることを示しているが、右に寄せる条件を探すには資本主義社会のメカニズムを理解する必要がある

有効需要の原理とセー法則

 ケインズは、第9図の雇用労働者数(ON1)は生産量(供給量)で決まるから、失業者が発生するのは生産量が少ないからであり、生産量は第11図(有効需要の原理)の総供給曲線と総需要曲線の交点であるA点(需給一致点)によって決まる、と考えた。需要と供給は常に一致しているのではなく、アンバランスの状態からAに向かって変化していくが、A点における生産量の水準O0が完全雇用出来る水準以下であれば失業が生じることになる。


 伝統的な理論では第12図のように社会全体の需要量と供給量とは常に一致している状態であることを暗黙裏に想定しており、供給を制限する条件は、資本や資源が十分であるならば労働供給量の制限以外にはなく、つまり完全雇用の状態まで生産量と雇用は増大して経済が自然に押し上げられ、従って失業については考える必要が無いことになる、とケインズは考える。



伝統的理論が社会全体の需要量と供給量とが一致していると考えた根拠は、古典派以来の「セーの法則」であって、「セーの法則」は間違っている、とケインズは言う。

*「セーの法則」とは、貨幣は商品交換の媒体に過ぎないので、結局は商品が作られることによってはじめて商品が買われることになるのだから、生産が需要を作り出すのであり、部分的過剰は価格の動きで調整されるから、全ての商品が同時に過剰に生産されることはなく、社会全体でみれば需要と供給は常に同じとなる、という理論である
*(セーの法則に代表されるような古典派経済理論の根幹にある誤りを理論的に示すためには)まず資本主義社会における社会全体の生産量とは何を指し、またそれをどう測るのかという問題と、社会全体の需要の内訳について述べねばならない

社会全体の生産量はどうして測るのか

 ケインズの答えは、社会全体の生産量は社会全体の所得で測られるというものであった(この時点で経済は所得で動かされることが直観される)。
即ち、生産=所得。

*個々の生産者の生産とは、原料などを購入して、それに労働を加えて商品を作り、それを販売し利潤を得るという一連の活動であるから、社会全体の生産を考えると、原料などでもある商品は相殺されて、社会全体の生産額とはこの原料などを差し引いた残りである賃金と利潤、即ち所得になる

消費性向と有効需要の原理

 (古い時代とを違って、生産が、即ち供給が需要を作るのではなくてその逆であって、有効な需要を作り出すことが問題であり)社会全体の需要の内訳は、消費と投資の二つだけというのがケインズの答えであった。
即ち、需要=消費+投資。

*個人や企業が購入する、あるいは、消費する量が需要量であるから、社会全体の需要量の内訳は、供給の場合と同様に、企業が原材料などに支払う分を相殺して、消費需要(生活に必要な消費)と投資需要(生産に必要な設備や機械など)だけとなる
  
*以上より、需要の内の消費需要と所得の関係をケインズは第13図のように考えた
 消費需要曲線の角度は0~45度 ⇒ 一般心理法則として成立
 所得=消費+貯蓄 ⇒ 所得のうちで消費に回した残りが貯蓄
 平均消費性向=C/Y,平均貯蓄性向=S/Y ⇒ 定義(後で使う)
 限界消費性向=ΔC/ΔY、限界貯蓄性向=ΔS/ΔY ⇒ 定義(後で使う)
  

*以上より、需要の内の投資需要と所得の関係をケインズは第15図のように考えた
 ・投資がI量なされると、第11図ではD-D曲線が、第13図ではC-C曲線がIだけ上にずれる(第15図では1兆円という一定量が書かれている)
 ・すると、第11図のA点は右上方に移動して総需要(有効需要)が増大し、第13図ではE点へ移動して、第15図では所得がYからYに移動する


*第15図を用いて、失業が発生するメカニズムと有効需要の原理(経済の規模は社会全体の需要の大きさに支配されるという原理)を理解することが出来る
 ・I-I曲線がY1の所得水準にあるときが総需要量(有効需要)と総供給量が一致しているので、そのときの生産量を作り出すのに必要な労働量が完全雇用の労働量以下であると、非自発的失業が生まれる
 ・I-I曲線が上に上がると所得すなわち生産量と雇用量が上がり、下がれば逆になる。こうして経済の規模は、社会全体の需要の大きさによって支配されるというのがケインズの有効需要の原理である

投資と貯蓄の関係

 以上から、新しい経済学において最も重要な考え方が導かれる。
即ち、投資=貯蓄。

*所得=消費+貯蓄、需要=消費+投資、需要=生産=所得 投資=貯蓄
 ・この式は、第13図と15図を比べてみればSとIが同じ意味を持つとも理解出来るし、経済運動は投資に貯蓄が等しくなるまで所得を増減する、とも理解できるし、毎年の新たな生産(所得)が貯蓄であると同時に投資でもある、とも理解できる
 ・「この投資と貯蓄との関係(の意味)をいっそう明確したのが、新しい経済学の中心と言われる”乗数理論”である。」

乗数理論

 (乗数理論の本質 ⇒ 資本主義経済は、投資が所得と消費の間の循環を無限に発生させ、いわば消費を媒介にして、少しずつ影響が少なくなりながらも無限に所得が所得を生む構造を持っている。なぜなら経済社会は、計算可能な貨幣の信頼のもとで、直接的にも間接的にも相互に売買をおこなうことでみんなが繋がっているから)

*乗数理論を表す式 ⇒ 〔所得増〕=〔投資増〕x〔乗数〕
            〔乗数〕=〔限界消費性向を公比とする無限等比級数の和〕
       数学公式から無限等比級数の和は 1/(1-r)、rは公比で1.0以下

 ・事例1:投資額=100億円、限界消費性向=9/10 ならば「乗数」は10となる
    ⇒ 所得増=1000億円、消費増=900億円、貯蓄増100億円(=投資額)
 ・事例2:投資額=100億円、限界消費性向=8/10 ならば「乗数」は5となる
    ⇒ 所得増=500億円、消費増=400億円、貯蓄増100億円(=投資額)

乗数理論の実践的意味

 乗数理論の実践的意味は、伝統的な理論とは全く異なる発想に基づいた理論によって、実際に有効な政治経済的施策を生み出すことを可能にしたことにある。

*第一は、「自由放任主義の予定調和観の批判を、経済分析の武器を通して理論的に明らかにしたこと」。セーの法則が妥当していれば自然と完全雇用状態になって、定常的失業者の存在は説明できない。乗数理論は投資の量で雇用者数が変わることを示しているから、非自発的失業者の存在を説明できるとともにその解消策を考えることが出来る
*第二は、「伸縮的な財政政策の登場」。伝統的考えでは、政府の財政は小さくかつ収入と支出の額は常に同じにして、予算の影響が民間企業の活動に跳ね返らないようにしなければならない、というものであった。乗数理論の示す判断は逆であり、民間投資が過小なら、政府は投資をし、税収より支出を多くして有効需要を作り出し(増税は逆効果で赤字財政は許容)、民間投資が過多で景気が過熱しているなら、税収より支出を少なくして有効需要を減らさねばならない、となる
*第三は、「政府の活動が民間企業の経済活動と矛盾するという自由主義時代の通念に対して、両者が矛盾ではなく協調することを明らかにしたこと」。乗数理論は、政府投資がその何倍もの仕事を作り出す可能性を示し、自由放任主義の否定は企業からみても利があることを示した
*第四は、「金融市場に対する政府の干渉を合理化したこと」。これはケインズが重視した点で、次節で述べる

伝統的な金融市場批判

 金融市場に関する伝統的理論は、第1図に示した需要・供給・価格決定論の金融市場版であって、資金の需要(投資)と供給(貯蓄)とが利子率(価格)の自由な動きによって均衡する、というものであるから、利子率を政府や中央銀行などが人為的操作することは「投資と貯蓄との均衡を破壊して、金融市場をいたずらに混乱させるだけだ」ということになる。ところが乗数理論によれば、投資と貯蓄は利子率に無関係なのだから、人為的に利子率を操作しても、両者の不均衡などあり得ないことになって、「金融市場に対する政府の干渉を合理化したこと」になる。

*伝統的理論は、投資と貯蓄は利子率の変動を通じて等しくなる(投資・貯蓄・利子決定論)と考えているが、ケインズの新しい理論は、投資と貯蓄は所得の変動を通じて等しくなる(投資・貯蓄・所得決定論)と考えている
*伝統的理論の誤りは所得の変化を考えていなかった点にあって、利子率が上がれば貯蓄は増えるが、所得が増えても貯蓄は増えることを見逃していた。伝統的理論は利子に関して所得が一定の場合だけを考えていたのに対して、新しい理論は所得が一定の場合も変化する場合も考えているので”利子の一般理論”と呼ばれる
*利子率が第18図のI曲線とS曲線の交点である均衡状態の利子率より低く、I曲線とS′曲線の交点の利子率であったために、投資がI′まで増大したとすると、伝統的な理論なら、投資と貯蓄のアンバランスを均衡させるように利子率が上がるはずである。だが、事実は投資増分だけ貯蓄増となり、利子率には関係なく貯蓄曲線はS′に移動する


*動くのは所得(生産=産出高)であるというケインズの新しい理論(”所得”という変数項を経済理論の中核として組み入れた、という言い方も出来ると思う)は、伝統的理論に支えられていた政策のみならず、経済思想も大きく変化させた。失業対策のための賃下げ政策が所得の減少をもたらし、景気回復の逆効果になるという判断は、上記の視点からも改めて理解できる

結合の誤り

 賃下げが個々の企業においては利潤を増やすとしても、社会全体としては所得の減少となって、その利潤はもとのもくあみになりかねない。個々人が所得に対する貯蓄率を増やしたところで、社会全体でみれば貯蓄額は変わらない(貯蓄=投資)。普通「結合の誤り」という言い方をケインズは強調している。

*このような考え方は、若き日のケインズに影響を与えた哲学者ムーアが主張した有機的統一体の原則、つまり全体の価値は部分の価値の合計ではないという見方と似ている
*「消費者は何割貯蓄するかを決めることは出来る。しかし貯蓄の総額を決めることは出来ない。動くのは所得(産出高)である。」というケインズの理論は、貯蓄は経済規模を縮小し、所得を減らし、失業を増やすという、思いもよらぬ結論を引き出した(ここで貯蓄とは、限界貯蓄性向の上昇を指し、それは社会全体の所得を減少させるというのは乗数理論の結論)
*「貯蓄は美徳ではないかもしれない。このような考えが経済思想史の上で与えた影響は実に大きかった。」

3 『一般理論』の骨組み---(ⅱ)

 『一般理論』の骨組みの中で、主に利子についての考察がなされ、そこから流動性選好利子論が導かれ、経済社会に対するフロー(一定期間における収支)だけではなくストック(ある時点における資産価値)の重要性が述べられる。投資者階級が安全性を求める性向はケインズの言葉で言えば貨幣愛と呼ばれ、貨幣愛が失業の原因と述べられる。最後に『一般理論』の要約とケインスの政策の一項がもうけられている。

利子は何に対する報酬か

 伝統的理論では、利子は節約に対する報酬であった。しかし、ケインズは、利子は貨幣の持つ「流動性」(価値の安定性と商品交換の利便性)という性質を手放すことに対する代価であると考えた。

*1920年代から30年代にかけて、ケインズはイギリスを取り巻く社会の利子率が平均して20年前よりも50%も高くなっている事実に注目していた、というのは伝統的な理論では説明が着かないからである
 ・当時、世界の資金需要は減少し、供給の方は増大しているのに利息は上昇していた
 ・投資・貯蓄・利子率決定論を理論的に否定したケインズにとって、これに代わる利子率決定の理論の提示は必要なことだった

*伝統的な利子論は、利子は節約に対する報酬なので「貯蓄(供給)~投資(需要)」曲線(第1図を金融市場に適用した図で、縦軸の価格は利子率)の貯蓄曲線は右肩上がりとなる
*しかし、ケインズは、所得が増えれば節欲程度が同じでも貯蓄は増えるし、節欲したからといって、例えばタンス預金には利子はつかない、と反論する
*更にケインズは、利子が付くかどうかは節欲した後に、それを現金で持つか債権(人に貸す)で持つかどうかにかかっているのであり、その判断基準は何であるのかを考えた。つまり、現金で持つのがよいのか、それとも債権で持つのがよいのかと
*現金は額面の値は変わらないから価値の安定性があり、また商品との交換可能性が高いという便利性もある。貨幣の持つ安定性と交換可能性をという性質をケインズは「流動性」と名付けた
*債権の場合はどうだろうか。今、現金で債券を購入するということは、その時点での市場の利率に従って、ある期限の経過後に受け取ることが出来る利息の額とその債権を持っている権利が保障される、という約束が成立していることである。債権購入後に利率が上昇すると、期限の経過後に受け取ることが出来る利息の額は変わらないが、その利息の額と同じ額を生む債権の価格はより少なくてよいことになるから、債券の価格は下落する、つまり債券を買う人はより少ない貨幣額でしか支払わないことになる

利子率の高さはどうしてきまるのか

 現在の利子率は、債権が売買される市場において、将来に利率が高くなる(従って債権価値が下がる)と予想して今債券を売る人と、その反対に利率が下がると予測して今債券を買う人の数が一致する。その一致した時点においての利子率が現在の利子率となる(将来における利息と債権価値の和が、現在のそれと同額になる利子率の上昇幅は現在の利率によって異なる⇒将来の利子率の変動は誰も分からないが、現在の利子率は決まる)。

*受け取りが約束されている利息額と、現時点での債権価値の合計額が、将来のある時点での債権価値と受取利息額の合計に等しくなるような、現時点の利子率に対する将来の利子率の上昇幅が決まる。現金で持っていた方が得になるのは、3%の利子率なら0.09%の上昇以上、5%なら0.25%以上、10%なら1%以上となる
*人間の予測は千差万別だからこそ、このような債権の売買が成立する。例えば、現在の利子率が3%とすると、将来のある時点において現在よりも0.09%以上利子率が上昇すると予測する人は債券を売って現金を持とうとするだろうが、その予測が当たるかどうかはわからない
*社会全体の貨幣量が定まっているとき、流動性の大きさを貨幣量に一致させるのが利子率であり、流動性に変化がないなら貨幣の量が増せば利子率は下がることになる

ケインズ利子論のビジョン

 ケインズの利子論から、ケインズが提唱した新しい経済学のビジョンが伺える。それははベンタムの功利主義的発想の否定(将来に対する蓋然性を組み込んだ経済学)であり、貨幣の蓄蔵手段という役割の意味の発見(貨幣のフローだけでなくストックも経済活動に影響を与える)であった。

*(流動性選好利子論から伺えるケインズの経済に対する見方は、伝統的な理論の背景にあるベンタム的功利主義とは全く違うことは、もう明らかだろう)
 ・第一に、社会の調和は、正反対の予想が生まれて初めて可能である
 ・第二に、将来予想が読めないことを認めた上で、様々な人が予想によって、現在における一つの行為を確定していくところに、現実に即した経済学が生まれる
 ・将来のことは分からないから、よほど利子率が高くない限り資産を現金の形で持つ、という投資者の行動が、利子率を高め、投資量を少なくし、その結果、有効需要を減少させて失業者を増大させる。「失業の原因は、投資者階級の安全性を求める「貨幣愛」である。これが当時の経済状況に対するケインズの認識であった。」
 ・ケインズは貨幣の役割には、伝統的理論も認めている、尺度の役割、交換手段の役割に加えて、蓄蔵手段の役割というの三つがある、と考えている。『一般理論』で貨幣の一般理論という意味はここにある

*流動性選好説の重要な点の一つは、利子率の決定をストックに関係づけたところにある(それまではフローに関係づけていた)
 ・ケインズが批判した金利生活者の富は、彼自身の節倹によるのではなく、先祖のストックによるものもあろうし、老資本主義国イギリスにおいては、この富そのものの価値の変化に着目しなければならなかった
 ・アダム・スミスもリカードも、貯えられたものの価値が変化するという問題は採り上げていない
 ・1920年代における物価変動の問題(インフレ、デフレ)も過去に貯えられた富の価値や貸借上の利害を大きく左右するものであった
 
資本の限界効率と投資の決定

 企業家が事業を営むのに必要な資金を投資家から借りるか否かの判断基準は、予想利潤率(=資本の限界効率)が利子率を上回るか否かである。ケインズは資本の限界効率が株価(=債権価値)に支配されないわけにはいかないと考えた。すると、雇用という社会的に最も重要である雇用量を決定する投資が、不安定な大衆心理に支配された利子率と予想利潤率によって支配されることになる。ケインズはその対策を、利子率と投資に対する政府によるコントロ-ルに求めた。

*予想利潤率は将来の利子率と同様に予測できないのだが、株式市場における株価は予想できないこの二つの値に基づいて現在におけるある社会的な根拠のある数値として示される、つまり社会的なものとして客観的に表現される、と言える
 ・株式市場の発達によって、株主と経営者が分離した社会であることが前提される
 ・利子率が変わらなければ、予想利潤率が上がれば株価は上がる
 ・企業家は株式市場から資金を調達する限り、主観とは別に客観的株価に支配される
 ・ケインズは株式仲買人を玄人と大衆に分けた。前者は後者のリーダーだが、前者は後者が考えるであろう値付けをする。丁度マスコミが大衆の世論を作り出すように
 
『一般理論』の要約とケインズの政策

 『一般理論』の要約は省略するが、ケインズが当時最も重視していた失業問題について、その原因と対策が改めて纏められている。

*原因:「伝統的理論は問題を労働市場だけに求めて、賃金が需給を一致させない高い水準に留まっているためだ、と結論した。ところがケインズは失業をいう労働市場の問題を解くために、生産物の市場の分析に入り、次に生産量を決めるものとして、問題を金融市場に求め(生産量=所得⇒有効需要⇒投資⇒利子率&資本の限界効率)、最後に投資者階級の安全性を求める行為---彼の表現ですれば「金利生活者の貨幣愛」が原因であるとした。」
*対策:①消費性向を高めること、②利子率を下げて民間投資を増やすこと、③民間投資が足りないときには政府投資あるいは人為的財政赤字をつくり有効需要を作り出すこと、であるが、中心は投資政策であり、従って、管理通貨制度が必要であった
 ・①は特に非活動的階級を念頭に置いた租税政策による平等化だが、即効性に欠ける
 ・②は投資家階級の貨幣愛に対する直接的削減策なので重視された
 ・③は②の政策には限界があるので政府投資が今後必要というケインズの主張に合致

ケインズの戦争観

 輸出と輸入は有効需要の増と減だから、貿易黒字は乗数効果を生み、その国の経済は繁栄する。しかし、「貿易の黒字によって国内経済の矛盾を解決するのは(ロビンソン夫人のいう)近隣窮乏化政策である。そこに戦争の原因がある。これがかれ(ケインズ)の考えである。」

ケインズは平和主義者であったか

 ケインズは同じケンブリッジ合理主義のラッセルのような反戦主義者ではなく、ものごとを知性によって計画し処理することに生きがいを感ずる人間であった。『一般理論』では、乗数理論と流動性選好説を二本の柱として戦争の原因を論じている。要するにケインズの提唱する新しい経済に基づいた「新しい体制が古い体制に比して平和にとって好もしいものである」と結論する

ケインズはインフレ主義者か

 インフレーションかデフレーションかという問題に対するケインズの基本的判断基準は彼の階級観にあった。企業家階級の立場に立ち、活動的階級である企業家と労働者の味方でとして非活動的階級である金利生活者を非難するケインズの方策はデフレではあり得ず、緩やかなインフレであった。従って政府が採るべき政策は、有効需要の向上と物価の上昇策であり、それによって完全雇用と金利生活者の安楽往生を目指すものであった。

貯蓄は美徳か

 ケインズの『一般理論』が与えた大きな社会的影響は、貯蓄に対する彼の攻撃であった。貯蓄は美徳であるという考えは、それまでは資本主義を擁護する最大の(倫理的)武器であった。つまり貯蓄が累積したものが資本だから、資本の否定は美徳の否定であったからである。貯蓄も節欲(これは宗教的倫理観に基づいている)も個人的には美徳かもしれないが、社会的には悪であることを『一般理論』は論証した。

*アダム・スミス、リカードの時代とは資本主義は変質していた、つまり資本は十分蓄積され、生産力はありあまり、ただ需要が不足していた
*「貯蓄が社会的に善となるか悪となるかは、実はこのような資本主義の変質と無関係ではなかったのである。」

ケインズの資本主義観

 マーシャルは、資本主義は絶えず発展していく経済であると捉え、マルクスはやがて亡びる社会であると見たが、ケインズは、資本主義は放っておけば断崖から滑り落ちるものだと捉えてこれを絶えずずれ落ちないように支える力と理論が必要であると考えた。支える力は国家であり、理論は新しい理論『一般理論』となる。

Ⅳ 現代資本主義とケインズ経済学

 ケインズ経済学が政治家の武器になり、実業家を動かし、人々の通念にとって代わりだすのは第二次世界大戦後まで待たねばならなかった。「しかしこの間ケインズ理論も彼を離れて発展しだした。われわれはまずこの問題をとりあげよう。」と述べられた後、現代から見たケインズ経済学の価値と弱点が述べられる。

*「ケインズの予見の正しさが人々に理解されたのははるか後のことであった。もちろんその理由の一端は、彼の激しい気性、いかなる人をも許さない峻烈なコトバ、その時々で揺れる感情、彼の指導者意識、人を見下す叡智主義などが災いしていた。」
 
 

投資決定論の修正

 『一般理論』は乗数理論と流動性選好説という二本柱の上に築かれていた。だが、流動性選好説はイギリス経済の特殊性を多分に反映していたため、アメリカにおいては”利子率が下がっても投資は増えない”という事実によって理論としては軽視された。しかし、新しい投資決定の研究に人々を向かわせたことでケインズ理論の発展のいくつかの型を生み出した。

*”利子率が下がっても投資は増えない”というのは、オックスフォード大学で、ロックフェラー財団の援助を受けて、今までの経済理論が仮定していた前提を検証した研究結果
*イギリス経済の特殊性とは、金利生活者が一つの階級をなしていたこと
*利子率が低下しても投資は増えない理由の定説はない。アメリカには別の因子があったのかもしれない、例えば投資が自前とか、銀行融資の上限とか、利潤率率に比べて利子率の影響が小さいとか
*今日、ケインズィアンの人達は利子率の変化が投資に殆ど影響を与えないと考えており、その点ではケインズの考えは誤っていた
*ケインズの投資決定論が”利子率が低下しても投資は増えない”という点では誤りではあっても、イギリス国内の投資に対するケインズの具体的提案は、1930年代の半ばにおけるアメリカの大不況の中、イギリスは景気は回復しているという事実に寄与している

ケインズの見なかったもの

 ケインズおよびその後継者たちの理論では、後進国の経済問題に多く存在している、産業部門間の不均衡という問題を「抽象化し」それを解くには不十分であったし、独占の問題と理論に組み入れていなかった。しかし『一般理論』の最大の弱点は、投資のつかみ方であった。ケインズは、投資を消費と同じように、有効需要を作り出すものという点で捉えたが、投資は資本も蓄積するという点を見ていなかった点である。

*独占については、1930年の初めには、近代経済学はすでにこの問題を俎上に載せおり、現在の理論はより発展している
*もし投資が一定で有効需要が作り出せないときの解決策は二つしかない。一つは無駄な投資をすることである。もう一つは増加する生産力に合わせて需要を作り出す方策だが、それはケインズが明らかにしたように投資を増加する以外にはないから、絶えず投資を増し、成長していかない限り不況が来ることになる


ケインズ主義の二つの流れ

 『一般理論』以降ケインズ主義は大別して二つの立場、あるいは二つのイデオロギーに分かれた(といっても、自由放任主義を主張する伝統的な経済理論は既に社会通念としてはケインズ主義に取って代わられつつあったのだが)。第一は、「生産は企業の自由、需要は政府の計画」である。第二は、「経済構造の変化と改善のためにケインズ経済学を利用する」である。

*第一の立場は、自由主義経済を唱える保守的な人々に受け入れられたが、それが現実に社会的に受け入れられるには第二次世界大戦の経験、即ち軍需生産が資本の利益と一致するという経験が必要であった。第二次世界大戦後、失業と不況の除去という大義名分のもとに、資本による国家財政の利用は拡大し、予算規模も増加の一途をたどりだした
*第二の立場は、公共投資や総合開発や総合開発だけではなく、電源開発が民間企業を圧迫するところまできたときに資本の立場からは激しい反発を受けた。しかし、イギリス労働党の中にも入り込み、社会主義者からも認められるようになった
*重要なことはケインズ的な政策が資本主義経済の姿を変えだしたことであった。それは国家の資金が特定の産業に流れ出し、資本と官僚の癒着した経済構造を生み出した。このような事態を、マルクス主義は国家独占資本主義と呼び、近代経済学者は一国内に私的企業と国の資本が同時に存在するという意味を込めて二重経済または混合経済と呼んだ。
*「ケインズの理論が客観的に果たした役割は、古い自由主義の経済を倒し、このような新しい経済に資本主義を変える武器を提供したことであった。」

ビルト・イン・スタビライザー

 ケインズ経済学者は第二次世界大戦後の社会を変えだした。失業は個人の責任から社会の責任となり、政府が景気対策の前面に躍り出た。資本蓄積の大部分が富者の蓄積によるのだから不平等は致し方ないという通念も、節約は社会的に悪、貯蓄の増大は有効需要を減らし失業と不況を作り出すというケインズ理論の前に破れた。代わって、不平等をなくす政策、例えば社会保障制度、失業保険、累進課税が脚光を浴びた。一方、それらの施策の実施は私企業と国家の癒着を生み、独占を生んだ。だが、結果として資本主義経済における景気変動の幅を縮めるメカニズム(ビルト・イン・スタビライザー)が、社会の構造に組み込まれた。

*(1910年~1960年までのアメリカのGDPの推移から)第二次世界大戦度のアメリカは戦前のような恐慌には襲われてない
*「独占とケインズ主義が結んだとき、自由主義時代に代わる新しい資本主義の段階に入ったのである。単なる独占段階の資本主義はその中間に位置する鎖の時代であったというのは言い過ぎであろうか。」

新しい労使関係

 ケインズ主義は労働運動に新しい問題を提出した。古い時代には個々の企業、個々の産業の立場に立って資本が労働組合に対処していたが、新しい立場は社会全体の需要を資本全体の立場から動かすという総資本の立場であった。

*資本は賃金上昇分を物価に転嫁し、政府による有効需要の増加と独占と結合によって生産性が向上しても価格が下がりにくくなった(価格の下方硬直性)
*価格の下方硬直性の意味するところは、企業は生産性を上げれば特別利潤が増加することであり、長期的視点での技術革新に投資が可能となった。

新しい病

 ケインズ主義は1930年代のような不況と失業という資本主義の病を克服したが、別の病に取り憑かれだした。第一の病は無駄な投資による社会の悪しき変質である。多額な資源が軍事支出として浪費されるだけではなく、それに伴って軍と企業の癒着、仮想的の必要性の増大、国際緊張の利用、自由な思考の抑制という状況が出現した。第二の病は、物価の上昇の度合いが各国で異なることが国際収支を悪化させ、その改善に有効需要削減を余儀なくされることである。

戦後の国際通貨制度---ケインズの最後の努力

 1944年に、戦後の世界経済と金融制度を決めるための協定、ブレトンウッズ協定がアメリカのブレウッズにて44カ国の参加を得て成立した。協定の内容は、アメリカの利益を守る部分が多く取り入れられてはいたが主要な点でケインズの考えに基づいていた。しかし、戦後の動揺は設立された機構、国際通貨基金と国際復興開発銀行(=世界銀行)よりも大きかった。1945年、ケインズはアメリカからの借款に関する英米間の協定を纏め、1946年に設立された二つの機構の総裁に任命されたが、その年に死去した。
 ケインズ主義者は、新しい経済学が生み出した新しい病は、新しい経済学と悪しき政治の結合によるものだと考える。第一に、なすべき公共投資は、軍需生産によらずとも社会保障、公衆衛生、学校教育設備、国内開発事業等いくらでもあるから病は政治の問題であり、第二に、物価の上昇は、寡占経済に伴う大企業の独占力の抑制と、賢明な政治による有効需要の増加によって起こりえない、と。
 現在(1962年頃)のアメリカの国防予算は500億ドルである。冷戦が解消されて(1991年にソ連が実際に崩壊したのだが)が平和的に利用されることは可能だろうか?資本主義のもとで既存の独占の利害と衝突したときに、果たしていそれが可能であろうか?ケインズ左派の人々は社会主義が唯一の解決になると考える。

ケインズとマルクス

  ケインズの経済学は、マルクスの理論や伝統的な理論とは全く違う特徴を持っていた。一言で言えば、後者の理論は一つの原理の上に築かれた首尾一貫した体系であり、ケインズのそれは現象を現象として説明するために、利用できるものを色々組み合わせるというもの、(従って、現実に存在する政治経済的問題を解決する特徴を持ったのもの)であった。
 ケインズとマルクスの違いの内で重要なものは国家についての見方であった。ケインズの場合は、国家は経済問題についていつも「救いの神」であり、不況と失業という自由経済の弊害を取り除くものであった。マルクスの場合は、国家は資本主義(生産体制の社会経済)である以上、資本の利益を排除して行動し得ないものであった。
 「ケインズによってもたらされた新しい経済学の重要性は、自由主義時代を止揚(ヘーゲル弁証法用語で、この場合は、存在する矛盾を新しい考え方で解消して乗り越えること)し、国家の財政の積極的な意味づけを行い、ビルトイン・スタビライザーを作り出し、価格の動きを変え、利子と貯蓄の絶対的不可侵性を打ち破るなど、新しい資本主義経済を現実につくり出したことであろう。このような点こそ、立場のいかんにかかわらず、ケインズの理論が検討されなければならない点である。」