2016年8月29日月曜日

『現代社会の理論』(見田宗介、岩波新書)

ピース
恐慌を回避し繁栄を持続する形式でありうる自己完結的な純粋な資本主義であるその固有の「楽しさ」「魅力性」は、それらをめぐる熾烈な競争という積極的な動因によって増殖し展開しつづける。
だが、有限な地球環境および南北の貧困の問題が、欲望を内部化するこの資本制システムの「外部問題」としての限界として立ち現れている。
情報を禁止し、消費を禁止し、自由をその根本の理念としないような社会にわれわれは魅力を感じない。「情報化/消費化社会」システムは、世界で一番魅力的なシステムとなる希望を秘めている。「限界問題」は「消費社会」一般の不可避の帰結ではない。
だがこのシステムは、ある転向を必要としている。その転向の方向は、バタイユの「至高なもの」(小生注:朝の陽光の中に、有用性を超えた奢侈な至福がある、とか。バタイユ1897 1962年のユニークな経済論『呪われた部分』参照)に内包されていて、それをつかみ出せば「限界問題」に制限されず、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としている世界の地平が見えてくる。
尚、限界問題としての「内部問題」はこの書では深く触れられず、後の2006年に出版された『社会学入門』で取り上げられている。

【要旨】
・はじめに
近代社会と区別された現代社会を理解する理論は、「情報化/消費化社会」のシステムの構造とダイナミズムおよびそれらの矛盾とその克服法を太い線で把握するものでなければならない。
第一章では、「情報化/消費化社会」が新しい時代を画するものであることを示すとともに、その「光」の巨大さが明示される。
第二、三章では、「情報化/消費化社会」の現在あるような形式が、「限界」問題としての環境、資源問題、南北問題により必然的に帰結するシステムとダイナミズムを明確にするとともに、その「闇」の巨大さが明示される。
第四章では、現代社会の光と闇を踏まえて、理論の統合と、実践としての矛盾克服の方向が探求される。それは、「情報化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「消費化」の論理と思想の核心をつかみ出し、「情報化」と「消費化」の原理統合することをとおして〈自由な社会〉を手放さずに「情報化/消費化社会」のシステムの方向性を原的に転回するという仕方において、現実的に可能であり経験的に魅力のあるものとして展開するだろう。

一、 情報化/消費化社会の展開---自立システムの形成
1      新しい蜜蜂の寓話---管理のシステム/消費のシステム
「現代社会」の概念と類似な表現→ゆたかな社会、消費化社会、管理化社会、脱産業化社会、情報化社会、----。1950年代のアメリカに端を発する。
資本主義が、必ずしも軍事需要に依存することなく、恐慌を回避し繁栄を持続する形式として、「消費社会化」という現象をまず把握すること。
現代社会の巨視的理論にとって肝要なことは、管理化と消費化という方向が、互換し、相補するものとし、資本制システムの繁栄を保証してきたこと。
1958年のアメリカ大統領談話と『タイム』誌の記事が語った蜜蜂の寓話。→1714年のマンデヴィルは、人々の私利の追及が公益を帰結する、と述べたが、この比喩は私利を求めて生産する企業者たちの像として理解されてきた。1958年の蜜蜂は「小売店に殺到する」ことを通して繁栄を保証する。
(小生補足:この話は、コインの裏表で、要はその意味するところを把握すること。それは、欲望する生産者ではなく、一般大衆の、生産者とは変質した欲望の、程度の拡大が、経済を牽引し、結果の一つとしてそれが戦争に代替した消費となったという現象を知ること、更にそこから、人間社会の理論を導出すること、ではないだろうか)。
2      デザインと広告とモード---情報化としての消費化
生産システムの内部における現代的転回が1927年に起こった。それは、ATTホーソン工場における実験で、労働者の感情、動機、欲望が、生産能率向上に寄与する要素であったという知見である。それは、「科学的管理法」であるテイラー・システムの思考では想定していないものである。
また、1927年には、T型フォードが、デザインと広告とクレジットを柱とするGMの戦略によって生産停止となったが、これは「情報による消費の創出」時代の開幕を告知していた(内田隆三『消費社会と権力』)。ヘンリー・フォードの思考はテイラー・システムの「科学的管理法」と正確に対応している。自動車は作ることよりも売ることのほうが難しい商品になった(リースマン『何のための豊かさ』)。(小生注:ソニーは社内であったが類似の歴史を持っていると思う。井深→盛田→大賀ゲーム機が利益を稼ぎ、ロボットを断念し、現在混迷へ)
現代は、「購買のリズム(=a)が消耗のリズム(=u)(小生注:リズムとは次の商品を買うまでの時間を指す)を越えて(a>u)いればいるほど、モードの支配力が強い」(ロラン・バルト『モードの体系』)という発見がなされる時代である。
モードは自己否定を通して世界を支配し、デザインは広告の声を通してモードとなる(それ自体でモードとはならない)。デザインと広告は情報化の二つの様相として消費社会を「繁栄」させている。
3      欲望の空虚な形式。または、欲望のデカルト空間
a>uという状態は、必要でないものを欲望する自由(あるいは狂気)が出現したことを意味する。
情報の解き放つ欲望のデカルト空間(小生注:三次元の延長より成る、無限性の形式としての数学的空間)というべき「形式の自由な世界」が、「消費社会」の運動を保証する空間である。この空間は、消費社会が自己生成し続ける世界の形式である。
4 資本主義の像の転換。純粋資本主義、としての〈情報化/消費社会〉
資本制システム一般のダイナミズムを保証する空間が、〈労働の抽象化された形式〉であることと同じに、消費社会としての資本制システムの運動のダイナミズムを保証する空間は、この労働の抽象化された形式に加えて、〈欲望の抽象化された形式〉である。
資本制システム一般の存立の前提としての、〈労働の抽象化された形式〉は、二重の意味での自由な、労働主体の形成として実現される。第一に、労働主体の伝統的な共同体とその積層からの開放(移動や職業の自由など)、第二に、労働手段との直接の結合から解離されて(自然や土地や共同体の保証からの解離)、市場関係という回路を通してしか、自己を実現できない労働主体の創出、である。(マルクス『経済学批判要綱』『資本論』)。消費社会としての資本制システム一般の存立の前提としての、〈欲望の抽象化された形式〉は、マルクスのいう「労働」を「欲望」に読み替えた概念で理解することが出来る。「消費社会」は(マルクスの言う)資本制システムの論理自体の領域の拡大(労働から消費へ)による一般化である(小生注:マルクス『資本論』第一巻 第一章 「商品」において、“商品には価値の二重性が属している”と述べているが、その前提には “商品は人間の欲望を満たす、ある物 である”なのである。マルクスの労働価値説の理論には労働だけではなく原理的に欲望が組み込まれてはいるが、ただ当時はまだこのことが重要な要素として経済社会に現象していなかったから展開されてこなかったのだ、というのが私の感覚)。
〈情報化/消費化社会〉は、初めて自己を完成した資本システムであり、純粋な資本主義であり、純粋な資本主義からの脱出でも変容でもない。マルクスは、この完成した資本システム、純粋な資本主義を見ずに死んだ。
ウエーバーの言う、資本制が軌道に乗り始めるに従って生じてくる宗教性と倫理性の脱色は、(彼が考えたような)消極的な理由からだけではない。ケインズは供給よりも需要が、生産よりも消費が資本制システムにとって決定的であることを洞察し、マルクスと反対に資本主義を肯定したが、「ケインズ革命」と、その反ケインズ主義の徹底と言うべき「情報消費化」は、プロテスタンティズムの倫理の否定が不可欠であったことの、構造的な必然を解き明かしている(小生注:この意味不明)。
5 誘惑されてあることの恍惚と不安。システムの環としての幸福/幸福の環としてのシステム
竹田青嗣は、井上陽水の歌が、仮面の後ろにあるものを「知っている」が、それでもやはり、この「仮面舞踏会」の胸騒ぎに充ちた予感の世界にひきつけられずにはいられない心情を、幾重にも表現するものであることを指摘している。情報消費社会の内部に生きる1970年代以降の世代たちにとって、この誘われたままでいること、あるいはむしろ、よく誘惑するものであるか否かということを鋭敏な批判の基準として選択する仕方が、生きることの技法となっている。
必要を根拠とすることのできないものはより美しくなければならない。効用を根拠とすることのできないものはより魅惑的でなければならない。情報を通して欲望を作り出すことはできるが、これは消費社会の可能性の条件を示すだけで、どのような商品も、魅力性がなければ消費者のうちに欲望を形成できるわけではない。この美しさと魅力性とをめぐる熾烈な競争が、〈情報化/消費化社会〉の、固有の「楽しさ」「魅力性」を増殖し展開しつづける、積極的な動因である。
マルクスは大衆の消費過程について、「家畜が餌を食うことは家畜自身のよろこびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることには変わりがない」と語っている。この命題は正しいが反転してみることができる。「大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりがない」と。花の色彩と蜜の味は誘惑の必要から生まれたものであっても、人間が幸福なもののメタファーの原基としてきたものである。
6 システムと外部
(前項で)〈システムの環としての幸福〉というものが、そうであるゆえに批判される根拠はなく、(むしろ)この社会の「楽しさ」「魅力性」がこのシステム存立の不可欠な契機であることをおさえておかなくては、(現代)社会のリアリティーの核をはずした認識といえよう。その上で、現代社会理論は、このシステムの「限界」に立ち現れる問題系を視野に入れなければならない。
(その問題系のひとつは「外部問題」であり)その第一は、自然との臨界面における環境、資源・エネルギー問題である。消費社会のシステムが解き放つ欲望の無限空間と地球の有限性との矛盾である。第二には、このシステムと外部社会との臨界面における南北問題である。欲望の無限空間に向けて離陸するときに、離陸された「必要」の地の側はどうなるのかという問題である。
外部問題の他に、「内部問題」と呼ぶべき問題系がある。これは、このシステムの相関項として形成される主体の形式(その主体の形式は脱根拠化された欲望の無限性という経験がわれわれの生の世界の経験の現実性にもたらす帰結に関係する)、人間たちのリアリティーとアイデンティティーの変容をめぐる問題系であるが、それ自体として別に取り上げる(小生注:ただしこの問題系は2006年『社会学入門』で全面的に取り上げられる)。
20世紀の経験は、人間の自由を原理とする社会でなければ、たとえ理想と情熱から出発したとしても、必ず抑圧システムに転化する社会であることを示した。最後の章では、自由を原理とする社会の形式が、情報化と消費化という二つの力戦の潜勢する射程を開くという仕方で、この限界問題を乗り越えていくという展望を素描する。

二、 環境の臨界/資源の臨界。現代社会の「限界問題」Ⅰ
1、『沈黙の春』:省略
2、水俣:省略
3、環境
1950年代のアメリカ、195060年代の日本で起こったことは、大量消費社会および、この社会が外部として開発する地域で発生した。欲望のデカルト空間は、消費のための消費、(社会)構造のテレオノミー的な転倒の完成された形式である(小生注:テレオノミーとは偶然と必然だけでは説明できない「種族維持的合目的性」とも言うべき概念)。
4、資源:省略
5、「ブームタウン」。自立システムの限界
大量生産→大量消費、システムの内実は、大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄、というシステムである。このシステムは、欲望を内部化する資本制システムの「自己準拠化」の限界として立ち現れる。

三、     南の貧困/北の貧困。現代社会の「限界問題」Ⅱ
1、限界の転移。遠隔化/不可視化の機制
環境・公害問題の転移をもたらすメカニズムとして、環境社会学者が言う「ダブルスタンダード」、あるいは基準の落差という問題がある。環境政策についての国際協定がなければならない。
(限界問題は)生産と消費の起点と末端における臨界を、「外部」の諸社会、諸地域に転化することをとおして遠方化することによっても行われてきたが、それも限界にある。
2、「豊かな社会」がつくりだす飢え
理論として徹底した考察は、「発展」「開発」が望ましくないものである可能性を排除してはならない。
「もしも穀物が肉食用家畜に飼料にされることなく、またそうした穀物の配分が平等になされたとすると、世界には一日一人当たり薬5000カロリーに達する十分な食料があることになる」(ハンフリー/バトル『環境・エネルギー・社会』)。などの記述。
3、「人口問題」の構造
「南の人口問題」は、抽象的な「究極の原因」でもなく主観的な無知や「心構え」の問題でもなく、単なる貧困の問題でもなく、構造的に過渡的な局面の一契機である。
4、貧困というコンセプト。二重の剥奪
貧困は、金銭を持たないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭を持たないことにある。貨幣からの疎外以前に、貨幣への疎外がある。この二重の阻害が、貧困の概念である。
南の貧困」を巡る思考は、この第一次の引き離し、GNPへの疎外、原的な剥奪をまず視界に照準しなければならない。
5、「北の貧困」。強いられた富裕
ロスアンジェルスで自動車がないことは、「ノーマルな市民」としての生活が殆どできないということである。東京やニューヨークでは、巴馬瑶族(広西チワン族自治区の少数民族)の10倍の所得があっても実際に「生きてゆけない」。これらは、この社会のシステムによって強いられる客観性であり、構造の定義する「必要」の新しい地平の絶対性である。
現代の情報消費社会のシステムは、この新しい「必要」の地平を含めて、必要から離陸した欲望を相関項とすることを存立の原理としている。「北の貧困」は、システムの内部に生成されながら外部化されるものである。
福祉という領域は、基本的に傷つけられやすいものとなっている。それは、福祉というコンセプトが、その原的な目的性においてではなく、システムの矛盾を補欠するものとして、消極的な定義しか受けていないからである
6、情報化/消費化社会の「外部」
現代の情報化/消費化社会のシステムは、古典的な資本制システムの矛盾を克服し、20世紀の後半をかけてなされた「社会主義」との対照実験をとおして、相対的な優位を獲得したが、そのシステム自体の内に矛盾と欠陥を持っている。
このシステムの外部は生きることの自然的、共同体的な基盤を解体し、貨幣を媒介としてしか生きられないシステムの中に編入されてゆく。この原的な解体と剥奪によってはじめて、生存と幸福の絶対性として貨幣の「必要」が形成される。けれども、このシステムは、原理上「必要」には無関心である。この問題は、「南の貧困」「北の貧困」に共通に貫かれている。

四、 情報化/消費化社会の転回。自立システムの透徹
序 「それでも最も魅力的な社会」?
現代の情報化/消費化社会のシステムは、それでも世界で一番魅力的なシステムである。情報を禁止するような社会、消費を禁止するような社会に、われわれは魅力を感じない。自由をその根本の理念としないような社会に、われわれは魅力を感じない。
それを可能にするには、情報について、消費についての原的な考察(魅力の根拠、不可避の未来である根拠の考察)をとおして、情報/消費のシステムの全く新しい形態を構築することである。その条件と課題を明確にするところまではしておきたい。
1、消費のコンセプトの二つの位相
バタイユは「自然の三つの奢侈」である食と死と性についての考察をふまえた上で、人間という存在自体が一種の豪奢な消尽であると述べる。生産主義的な社会理論、人間理論の一切に形に対する批判し、後の現代の消費社会論に強力な基底を用意した。
けれども、この消費社会の理論の核心部分に、見えにくい転位があったように思われる。それは、バタイユの消費社会論における消費は「充溢し燃焼しきる消尽」であり、ボードリヤール以降では「商品の購買による消費」を意味している。現代社会は巨大な偽造体であるといえる。バタイユを通して、有用性の彼方の消費というコンセプトを、精錬してつかみ出してくることが、消費社会の理論の批判に有効である。
2、消費の二つのコンセプトと「限界問題」
「限界問題」が「消費社会」一般の不可避の帰結であるかどうかは未だ決定できない。けれども、ある転向を必要としている。バタイユの「至高なもの」は「限界問題」により制限されない。
3、無限空間の再定位。離陸と着陸
「必要」への地平ではなく、生きることの歓びという地平への着地の仕方は、一つの社会システムのテレオノミー(目的性)を、いっそう原的な地平に着地する仕方だが、それはこの社会の活力の運動する空間の開放性を、有限なものの内部に閉ざすことはない。
4「ココア・パブ」
ゼネラル・ミルズ社の「ココア・パブ」は楽しさとイメージで市場価格を原料のとうもろこしの25倍以上にした。イメージは情報作り出し、それにより資源の消費を1/25にした。情報化それ自体は、消費社会が収奪的でないような方法を作り出す条件である。
5、情報化と「外部問題」。方法としての情報化
狭義の「情報」のコンセプトは、第一には認識、第二には設計という手段の側面であるが、再三の様相として自己目的的に幸福の形態としての無限空間である。
第一の事例として、UNEPの地球環境モニタリングシステム等が挙げられる。第二の事例として省エネ技術開発等が挙げられる。第三の様相については次節で述べる。
6、情報のコンセプトの二つの位相
現代社会の理論としての情報化社会論の系譜には、「脱産業社会論」と「高度産業社会論」があるが、前者が「産業主義的」社会の経済全体の彼方を見晴るかす視座であるにたいして、後者は産業社会の原理の内部であるにすぎず、この二つの理論には位相のずれがある。
情報の第三の様相は、知性や感性や魂の深さのような次元に属し、人々の洞察のベースとなるような経験でもあり、かけがえのないものという核心を持ち、非物質的な空間への視野の開放という射程を持つ、未だ名づけられていないものである。
7〈単純な至福〉。離陸と着陸
バタイユの不羈(ふき)自由奔放で束縛しえない・こと(さま))の思考が指し示す極限のかたち「至高性」と、バタイユとは対極的な資質を持つイヴァン・イリイチが「外部問題」を解決する唯一の方法として示している「自立共生的」のなかの生の様式である「歓びに充ちた節制と開放する禁欲」は、交差している。だが、バタイユは禁欲の道ではなく不羈の仕方で歓びを追求することによりそこに到達している。
とすれば、われわれの情報と消費の社会は、生産の彼方にあるものを不羈の仕方で追求するなら、外部の収奪は必要としないことを見出すはずである。
ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていること、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということを、見出すはずである。

結、情報化/消費化社会の転回
現代の〈情報化/消費化社会〉という巨大な歴史の実験が、大衆的規模で実証していることは、人間はどんなものでも欲望することができるし、人間が見出す幸福の形態には限りがないということである。
〈情報化/消費化社会〉は、自然解体的でもなく他者収奪的でもないような仕方で、あの直接的なものの歓喜の(無限に変幻することも、そうでないことも自由であるような)世界を生きることへの出口を、われわれに開いて見せているはずである。

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