『資本論』カール・マルクス著(第一巻 岡崎次郎訳 大月文庫)
――読書感想(読解篇は、別のブログ”爺~じの哲学系名著読解”を参照してね――
【目 次】
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第二章 交換過程
第三章 貨幣または商品流通
第二篇 貨幣の資本への転化
第四章 貨幣の資本への転化
第三篇 絶対的剰余価値の生産
第五章 労働過程と価値増殖過程
第六章 不変資本と可変資本
第七章 剰余価値率
第八章 労働日
第九章 剰余価値率と剰余価値量
第四篇 相対的剰余価値の生産
第十章 相対的剰余価値の概念
第十一章 協業
第十二章 分業とマニュファクチュア
第十三章 機械と大工業
第五篇 絶対的及び相対的剰余価値の生産
第十四章 絶対的及び相対的剰余価値
第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
第十六章 剰余価値率を表す種々の定式
第六篇 労賃
第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
第十八章 時間賃金
第十九章 出来高賃金
第二十章 労賃の国民的相違
第七篇 資本の蓄積過程
第二十一章 単純再生産
第二十二章 剰余価値の資本への転化
第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
第二十四章 いわゆる本源的蓄積
第二十五章 近代植民理論
第一巻終わり
第一章 商品 と 第二章 交換過程
一章と二章が『資本論』という本の基本的な思考の枠組みをなしていると思う。つまり、人間の営みの基本には経済活動があり、経済活動を考察するときのキーワードは「商品」である、とマルクスは言う。では「商品」とはなんだろう?この章はこの問いに対するマルクスによる回答だ(小生はフッサールが好きなので、「商品」の現象学的本質観取だと思う)。「商品」という歴史的現象から先入観を除いてその本質を取りだした。商品は人間の労働による価値生産物であるが、その価値は使用価値と交換価値という、価値についての二重性を持っているという。その意味は次第に分かってくるはず。だが、その意味がわかったとしても、その意味するところのものは本当か?それはわれわれ読者が自分で試してみるほかはない。
第三章 貨幣または商品流通
貨幣の使い方は普通誰でも知っている。しかし「貨幣」って何?という問いには答えるのが難しい。だが、チョット考えると貨幣=お金の使い方も稼ぎ方も自分の生き方の中で考えはじめた途端にとても難しくなる。
第四章 貨幣の資本への転化
段々と「資本」の話へと進む。ここで「資本」は悪だと思い始めてはいけない。そういう感じ方は宗教等々での対立と同根であり、すべての物事を良い方へは進めない。
第五章 労働過程と価値増殖過程
富を生む源泉は働くことにある。このこと自体は疑えない。その富がどうしてみんなに行き渡らないのだろう?富を公正に分配するという正義を達成する方策を、マルクスの理論を参考にして生み出すことができるのだろうか
第六章 不変資本と可変資本
「物」ならともかく労働力が「商品」であるということが、「元凶」ではなく「原因」なのだ。そのことは「資本」というものをこの二つ、不変資本と可変資本に分解して考察してみるとよりはっきりするという理論の力はたいしたものだ。
第七章 剰余価値率
数字の意味を理解するのは大切だ。数字には意図や場合によって恣意があるから。マルクスの言う剰余価値率の分母は全部の資本ではない。この数値にも意図がある。
第八章 労働日
この章に記述されている当時の悲惨な労働状況にマルクスは怒っている。実にまっとうな怒りである。その原因は「資本」による労働の搾取であり、資本主義生産体制において絞り込んで考察すれば、人間から時間を盗むことである。ここで怒りにまかせて「資本主義」を倒せば良いと考えてはマルクスも浮かばれない。現代にも受け継がれているこの不正義の是正にマルクスの理論を役立てることこそ、みんな(あえてみんなと言っておこう)に負わされた役割だよね。
第九章 剰余価値率と剰余価値量
資本主義生産体制に移っていくと動かすお金が大きくなってくる。するとできることも大きくなって、利益総額も増え、資本家にとってはよいことだ。だが同時に、すべての人間の意識のなかで価値の逆転が起こっていることには気付いていない。やがてこれが牙をむくことに・・・。
第十章 相対的剰余価値の概念
知恵や努力によって生産力が高まった結果新たに生み出された富は、相応に分配されるのが正義というものだろ!そういう智恵を生み出すためにマルクスの理論は使えそう。
第十一章 協業
みんなで協力して働いた成果は、みんなが使えるようにしないとね。ただお金だけが増えてしかもそのお金を使うことができる人が特別な人たちだけだったら怒るよね。商品の価値の二重性、使用価値と交換価値という見立ては、そのことを考えるうえでやはり深い意味がありそう。
第十二章 分業とマニュファクチュア
分業が進み専門化と高度化と機械化が進んで行って、人間の部品化が進み従って人間性が失われていく、ということは誰でも嫌なことだと思う。どうしてそうなってくるのかといういきさつ知れば、みんなで知恵を出して先手を打てるかもしれない。マルクスの理論はその一つの手助けになりそう。
第十三章 機械と大工業
資本主義的生産体制は、いよいよ経済・社会構造の歴史的発展の最終段階、機械と大工業の時代を迎える。そこにおいては、西欧近代の科学と技術の力が強大な役割を演じ、そのことで内包する矛盾が益々顕著になる一方で、同じく西欧の自由と人権の思想がそのような経済・社会の構造に徐々に反撃を加えていく、というマルクスの見立てが語られている。因みにそのような大工業は歴史必然的に崩壊して、働くものが報われる社会が到来することが予告されているが、それがどのようなものなのかは語られていない。この章は、第八章の労働日と並んでマルクスの社会観察の具体例が沢山記述されている。これらの多くの事例の記述から、弱いものの味方マルクスのモチーフがよく感じ取れるとともに、そこからマルクスが導き出した経済・社会の理論の根底にある哲学的思考(ヘーゲル弁証法)も見えてくる。
第十四章 絶対的および相対的剰余価値
絶対的だろうが相対的だろうが、とにかく、剰余生産物は人間の生まれつきの性質からは生じないが現実には生じている。理由は、人間は他人の剰余生産物なくしては生きていけないからである。もっと広くいえば人間は一人では生きられないのだ。問題は、そこにつけ込んで剰余生産物を掠め取ることを可能とする社会の構造(資本主義的生産体制)にある、とのご指摘はもっともだ。しかし、マルクスはその根源に欲望の充足手段の発展とともに増大する人間の欲望の存在を認めている。社会構造の理論とともに欲望の構造の理論が面白そうだ。
第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
みんなが互いに働いて生み出された結果である物やサービス、つまり富は結局どこにいくのだろう?公平に配分されているのだろうか、と言う素朴な疑問をしつこく忘れないでおこう。富の総量は、剰余価値と労働価値の合計で、それは三つの要因、働く時間の長さ、働きの強度、働く能率で決まる(これは既に説明済み)。どれがどう動いたらどんな結果となるかという理論とか、それと史実との整合などが述べられているが、結局それを考えるのは、冒頭の疑問に対する答えを求めるかぎり意味をなすのだろう。マルクスの理論を手がかりにすれば、それまでの経済理論よりも、よりよい社会を構想できるはずで、例えば資本主義生産様式の社会ではそれは難しい、とまでは述べられている。
第十六章 剰余価値を表す種々の定式
剰余価値率とその意義については既に七章でのべられている。しかしその後、いろいろな概念が明確になってきたので、改めてその意義を明確にした、という感じ。
第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
資本主義的生産様式は、労働の搾取の上に立ってはじめて成り立つというマルクスの理論は、労賃は働きに見合った分がお金で支払われるのだ、と思ってしまうカラクリを暴露する。商品自体に備わっている使用価値と交換価値という二重性(従って通約不可能)に加えて、労働も商品であるという意識の勘違いが加わって、そのカラクリを見えないものにしている、というマルクスの看取はお見事。だが、その二重性や勘違いを生じさせるものは、やはり人間の意識だから、ナゾの解明はまだ先にありそう。
第一八章 時間賃金
「労働の価値」が「時間賃金」で測られることには、それ自体の物理的意味としては違和感がないとしても、実は社会的にはまたまた隠された使い道があることが暴露されている。それが理解できるかどうか(マルクスが正しいかどうかとは少し違う)の分かれ目は、頭の善し悪しではなくて問題設定の動機にあるらしい。動機が不純だと何事にも目がくらむのは哲学的真理かも。
第十九章 出来高賃金
労働の価値が貨幣額に転化した形態として、前回は時間賃金が取り上げられたが、今回はもう一つの出来高賃金が取り上げられている。形態が違うと認識が違ってくる場合が多いのが現実である(=現象)。形態に囚われて本質を見失なわないよう、まずはそのことを意識しよう。そこにつけ込まれて騙されないように賢くなろう、という言い方は間違いとは言えないけど、形態に囚われているのかも。
第二十章 労賃の国民的相違
150年ほど前はイギリスと大陸ヨーロッパでの賃金格差は数倍もあって、イギリスの労働者は高い賃金を貰っていた。しかし、イギリスの労働者の生活は、大陸の労働者に比べても悲惨で、資本家は低い賃金を支払って相対的に高い剰余利益を獲得していた。だが、この程度で済んでいたのは、世界市場が今より閉鎖的だったからかもしれない。
第二十一章 単純再生産
経済社会の歴史がここまで進むと、労働者自身が資本に合体してしまい、資本の増殖が果てしなく続くというステージに入る。単純再生産は剰余価値を資本家が全部消費する場合を指しているのだが、それは事態が変化しないのではなくて、資本の大きさは変わらなくても内容つまり出所は労働者の生み出した価値によって刷新されていくこと、また再生産自体が資本主義的生産様式の社会においても果てしなく、しかも自動的に続きうるということを意味している。すると、大小いろいろな場面で再生産の方法を変えていくことで、社会を良い方向に変えることが出来るかもしれないね。
第二十二章 剰余価値の資本への転化
歴史を積み重ねて出来上がってきた資本主義的生産様式の社会においては、資本家も労働者も、剰余価値から更に剰余価値を生むような行動を取る結果となっている。もちろん、資本家は自己の贅沢な再生産に加えて享楽に必要な分も、労働者は自己の貧素な再生産に最低必要な分だけを、貨幣として獲得する。なぜそんなことになるのか?マルクスは言う「・・・所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである。・・・資本主義的取得様式は商品生産の諸法則にはまっこうからそむくように見えるとはいえ、それはけっしてこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるのである。資本主義的蓄積を終結点とする一連の諸運動段階を簡単に振り返ってみれば、このことは一層明らかになるであろう。」その原因は、誰かが悪い(例えば悪い王様とか)というのではなく、人間が歴史を積み重ねて作り上げてきた社会の仕組みにあるのであって、それは知恵がつけばつくほど気付きにくいように埋め込まれてしまっているのだ。その知恵の内実が、経済学批判という形で述べられている部分も面白いです。気持ちだけで知恵がないと問題を解決できないけど、はじめの気持ちが邪なら智恵は悪用されるだけでしょ。
第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
資本主義的生産体制の社会が進んでくると、生産は増大し、社会的富は蓄積され、働く人の数も増えてくる。しかし、労働人口は常に過剰となるようになっており、従って、労働者の生活は最低限のまま向上しない。なぜならば、労働人口は資本と独立ではなく資本によって制御されているからであり、それが可能なのは労働が資本の支配下にあるからである。資本主義的蓄積の一般法則は、蓄積が進めば相対的過剰人口が増えるということである。マルクスがこう考えざるを得ない根拠は、歴史も含めた現実の観察と経験にあるのだろう。その部分については、第8章(労働日)や第13章(機械と大工業)に続いて、本章の第五節(資本主義的蓄積の一般法則の例解)にも沢山書いてある。だが、資本が労働を支配するということを制御して、支配ではなく納得の構造をもった社会とはどのようなものなのだろうか。そのような社会を創るのにマルクスの理論を生かせたら良いと思う。
第二十四章 いわゆる本源的蓄積
富の搾取の本質は労働支配であるから、資本主義的蓄積の前史としての本源的蓄積も他人の支配に基づくということになるのだが、その歴史の実に悲惨なこと。それに比べれば19世紀のヨーロッパに花咲いた資本主義的生産様式の社会はまだマシと考えるのは誤りであって、事実はもっと悲惨ですらある。なによりそこでの主役(搾取するもの)は個々の人としては見えてこない、つまり血の通わない「資本」であり、更に前史の不自由から解放された(搾取される人も)自由の形式を取引の対等関係として持っているので、具体的に敵対する他者を意識しにくのだ。だから始末が悪い。結末は歴史的必然性によって私有の否定の否定が起こり、従ってはじめの私有はみんなの所有となるような新しい社会が到来することを暗示している。この最後のくだりは素晴らしいマルクスの推定、あるいは理念にすぎない。率直に言えば、この最後のくだりは資本論第一巻のいわば付録のようなものだと捉える方が良いのではと思う。なぜなら、本書での一番大事な部分は、相反して対立する性質を抱えている人の欲望を根底に据えた、経済と社会に関する本質的洞察であると思えるからである。
第二十五章 近代植民理論
本国とは歴史の経験が違っている植民地であるからこそ、そこで生じている経済状況が、己の理論の正しさとそれまでの経済学の誤りを浮き彫りにしている、というマルクスの言い分はなかなか説得力があるなー。
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