高坂正堯『国際政治 改版---恐怖と希望』中公新書1966年(要旨)
(⇒ )は私の補記。
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フレンチレース |
序章 問題への視角
Ⅰ 権力闘争の変質
「複雑怪奇」
独ソ不可侵条約締結に、平沼内閣総理大臣は「複雑怪奇」という言葉を発して退陣したが、それは国際政治における権力政治的視野の欠如にあった。日本が確固たる意思を持たずに太平洋戦争に迷い込んだ主原因も、この欠如にある。
国際政治を見る目
人々は現実を見るとき、事実を認識し、その意味を判断する「想定」を持っている。国際政治を見る場合は、国内政治を見る場合より単純な想定をする。
国際政治の変質
19世紀中頃から第一次世界大戦までの期間は、いまだ国際政治における権力政治が赤裸々に公然と行われていた。しかし第一次世界大戦以後、各国家は「平和」の名において国際政治の問題を語り始めた。ソ連のレーニンもアメリカのウイルソンも権力政治の否定を唱え、イデオロギー的な言葉で大衆に呼びかけ、それまでとは異なった言葉と行動原則に基づいた「新しい外交」が出現した。
問題のありか
第一次世界大戦前、人々は普遍的な秩序は求めず勢力均衡の秩序で満足していた。しかし悲惨な大戦の後、人々はより確固たる秩序をもとめるようになった。各国は国際秩序に関する自国の信念を裏切ることができなくなり、そのかぎりのおいての行動制限が生じることになった。
平和への志向はイデオロギー的な色彩を持ち、政治権力によって後押しされている。秩序は価値体系と力で裏付けられるのであるから、結局、秩序を求めて権力闘争が行われることになる。しかし、その権力闘争の性格は複雑化している。
現在の国際政治は権力政治であることをやめたのではない。いかなる平和を求めるかという形で、権力闘争が行われている。現在の国際政治の理解は、その複雑な権力闘争の性格の理解に始まり、その理解に終わる。
Ⅱ 国際政治の三つのレベル
善玉・悪玉説
昔から人々は、非難すべき悪人や悪いものを見出して血祭りに上げ、戦争の原因も単純明快な善玉・悪玉説に求め続けてきたが、その思考法では問題の解決はできない。次々に悪玉が作られ、それを打ち破った善玉が次々と期待を裏切ったが、この善玉・悪玉思考は人間に奥深く根差している。
問題の単純化
善玉・悪玉的な考え方と並んで見逃せないのは、国際政治の構造を、諸国家が武器を持って対峙するものと単純化することである。平和の問題を語るには、国家間の利益 関係や各国家の価値観 を考慮しなければならないから、国際政治はより複雑化している。
常識の数だけ正義はある
世界に普遍的正義はない。人々の行動様式と価値体系は、歴史的なものとして、いわば「常識」として成立している。それは、意識するより遙かに深く心の中に食い込んでいる。国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。従って、国際間の平和の問題は、この三つのレベルの複合物であり、複雑で困難なものである。私は、このそれぞれにおいて、平和の問題を考察しようと思う。
第一章 軍備と平和
Ⅰ 勢力均衡
均衡策の起源と性格
「均衡」という考え方は中世的行動原則が消滅して混乱状態にあったイタリアで生まれたもので、秩序が崩壊した後の状況を安定させるための苦肉の策であった。しかし根底には、社会の多様性に起因する対立が無政府状態を生まぬようにする配慮があった。
外交の任務は、国の利害の主張と国際社会の根本的破壊を避ける中間点の模索であり、第一の任務は、大きな損害リスクがある「力比べ」を避けるために諸国家の利害関係を正しく捉えることであった。
第一次世界大戦は、各国の独立維持と全面戦争回避という勢力均衡の目的が達成出来なかった点において、勢力均衡原則が極めて不十分なものであったことを示した。この認識は、理想主義的思想家、学者、現実主義者、外交関係者に共通していた。
勢力均衡原則の欠陥
そもそも勢力均衡を測る基準である国家の「力」を捉えるは困難であり、その判断は間違えやすい。勢力均衡原則は、各国が不安を少なくするために、「余力」を生み出して有利な均衡を目指そうとすれば、それは他国にとっては、不利な均衡となり自国の不安が増大することである、というジレンマを抱えている。更に余力や有利の判断には、合理的な計算だけでなく、人間の心理も関係する。勢力均衡原則の欠陥は、冷静な判断が出来ない危機において特に顕著となる。
第一次世界大戦の性格
この戦争は、勢力均衡の欠陥・不完全性が集積して起こったように思われる。プロシアとフランスの対立と新勢力にたいする恐れの蓄積 、特に多民族帝国オーストリア は、上記の恐れがバルカン半島の民族主義によって下から覆されるという恐れによって強化されていた(有名なサラエボ事件 )。
大戦の始まりも展開もすべての人間の希望と期待に反し、戦争の期間は数ヶ月内の予想が実際には数カ年続き、戦争による破壊はヨーロッパ文明に致命的打撃を与えた程凄まじく、人々が思いもしなかった破壊と損害生み、国際社会の破滅を防ぐという勢力均衡原則の存在理由を根本から揺さぶった。
19世紀に始まる工業文明の発展は、近代国民国家の権力を強大化し、動員しうる人的、物的資源の量を飛躍的に増大させ、それが第一世界大戦の戦争の惨禍も準備した。ドゴール将軍は『フランスと戦争』で次のように述べている。「長年の変化の集積が、大変動によって突如として現れた。普通選挙、義務教育、工業化と都市化、新聞、政党、労働組合、そしてスポーツなどが集団的精神を育てた。近代の大衆的行動と機械化が大衆動員を準備し、戦争を特徴づける残酷で突然のショックにも、耐えるようにした」
総動員される国民
第一世界大戦は、工業力の飛躍的発展によって政治権力を強大化したヨーロッパの諸国民国家においては、国民の総動員が必要となりまた可能となった戦争であった。政治家は国民を総動員するために大衆の情熱 に訴え始め、人々の心を奮い立たせた。情熱を持って戦われた戦争は冷静な利害の計算の入る余地を困難とし、利害関係を見極めて対処する外交官達が、国民の誤った事実認識、先入観、イデオロギーにおいて非難されがちになった。国際政治が大衆の情熱によって動くようになり、勢力均衡原則の目的が叶えられない現実が出現した。この状況は現在も続いている。平和を求めるために勢力均衡原則に代わるものが探し求められるようになっている。
Ⅱ 軍備縮小
原則的賛成と不実行
軍事力の均衡で平和に至るという考え方の内で最も急進的な案は「軍事力なき平和」であり、その最終目標は国家の軍備全廃と国際軍が世界秩序の維持を担うことであった。ヨーロッパ諸国で常備軍制度が採用された18世紀には多くの思想家 が軍縮を提案し、軍備の破壊力が著しく増大した19世紀末にも戦争の悲惨さが警告された 。
しかし、軍事力の均衡による平和の代案としての軍事力なき平和の案は、夥しい量の提案、原則的賛成、めざましい努力、そして完全な失敗という印象的な記録を残して来た。軍事力なき平和という考えは、原則的には賛成されたが実行はされなかった。
同じような経過は、第一次世界大戦後も第二次世界大戦後も繰り返された。軍縮の必要性と意図の真面目さが表明されたが、具体的成果は得られなかった。より現実的な軍備制限すら、ワシントン体制 など数えるほどしかなかった。
原則的賛成と不実行
軍事力の均衡で平和に至るという考え方の内で最も急進的な案は「軍事力なき平和」であり、その最終目標は国家の軍備全廃と国際軍が世界秩序の維持を担うことであった。ヨーロッパ諸国で常備軍制度が採用された18世紀には多くの思想家 が軍縮を提案し、軍備の破壊力が著しく増大した19世紀末にも戦争の悲惨さが警告された 。
しかし、軍事力の均衡による平和の代案としての軍事力なき平和の案は、夥しい量の提案、原則的賛成、めざましい努力、そして完全な失敗という印象的な記録を残して来た。軍事力なき平和という考えは、原則的には賛成されたが実行はされなかった。
同じような経過は、第一次世界大戦後も第二次世界大戦後も繰り返された。軍縮の必要性と意図の真面目さが表明されたが、具体的成果は得られなかった。より現実的な軍備制限すら、ワシントン体制 など数えるほどしかなかった。
公正な軍備縮小の困難
公正な軍縮には大きな障害があった。第一の障害は公正な軍備縮小が困難なのことであった。具体的には軍備削減の基準を決めることが困難なこと及び軍備縮小が実施されたかどうかを確認するという問題の存在だった。
権力闘争との結びつき
国際政治における権力闘争の存在自体が軍縮の第二の障害であった。1946年3月、アメリカが提案した原子力の国際管理に関する提案であるバルーク案 の失敗例は、そのことを如実に表している。ソ連がバルーク案に反対した理由は、一見永遠平和を求めるかのようなこの提案は、実は力の均衡がアメリカに有利である現状を固定すること、より具体的には核兵器をアメリカが独占することになるのをソ連が恐れたからであった。
核の管理と保証
バルーク案の失敗は、力の均衡、国際間の権力闘争に加えて「管理」というより具体的な問題を解くことの困難という、軍縮における第三の障害を明らかにした。
有効な管理機関がなければ核兵器の秘密開発が可能となり、その疑念自体が平和を乱すに十分なほど力の均衡を崩壊することができる。しかし、管理に服することは軍縮に服するのと同じくらい自国の立場を弱めるものだから、非核保有国にとっては、核の管理機関を設置することは安全保障を他の国の手に委ねる結果を招くことになる。さらに、ミサイルの開発は核兵器を極めて短時間で遠距離に運搬するから、核兵器の管理協定違反で得られる利益、つまり国際政治における権力闘争の優位を極めて大きくした。軍縮に関する国際管理のジレンマは、核時代において更に深まった。
ホッブズ的恐怖の状況
軍縮の根幹には、イギリスの歴史家ハーバート・バターフィールド(1901-71)が「ホッブズ的恐怖の状況」と名付けたジレンマ がある。密室でピストルを持つ二人の人間という単純な例は、国際政治における相互の恐怖と武器の関係 を浮き彫りにするとともに、未来を予測する人間の理性 に注目させる。
これまでの検討は、強い政治的緊張が存在している場合に、軍備縮小だけを一方的に進行させることが不可能であることを示している。
Ⅲ 軍備規制と一方的段階的軍縮
『三酔人経綸問答』のジレンマ
中江兆民は『三酔人経綸問答』で、「軍備なき平和」と「力による平和」の間には超えがたいジレンマ があると指摘していたが、現代国際社会には勢力均衡原則と軍縮が抱えるジレンマが存在する。核兵器の出現によって「力による平和」があまりに危険であり、さりとて「武器なき平和」が実現不可能であることが次第に明確となってきた。「われわれは・・・戦っても勝負のない戦争と、達し得られない平和の中間に生きていくことだろう」というウォルター・リップマン の予言は多分正しいだろう。しかし、この困難な現実問題に対して知的苦悩を経た考え方が現れるようになってきた。
ダレスの大量報復理論
「力による平和」の代表例で、国際政治に対する道義主義 と軍事力に関する単純な考え方を基本としているJ・F・ダレス の大量報復理論 と、その対極にある一方的全面的軍縮 は、ともに、軍事力の果たす機能と人間の意図とを単純化して、それらの間にある複雑な相関関係を捉えていないという欠陥を持っている。だから “複雑”の内容と対処可能性を具体的に理解する必要性が生じることになる。
しかし次第に、「力による平和」が、チャーチル の言う「恐怖の均衡」「恐怖による平和」を意味することが分かってきた。「恐怖の均衡」は核兵器による全面戦争となればともに法外な破壊を被るから米ソが戦争できない状態となることを指しているが、1940年代後半にソ連の陸上兵力は欧州をほぼ完全に破壊できた状況でも存在しており、アメリカがソ連に対する対決姿勢を見せるたびに、仏・英が必死に制約したのはこのためであった。
軍備の相互的自制
あまりに巨大な破壊力を持つ核兵器を用いた全面戦争になれば人類は破滅するから、それはあり得ない選択であるということが、核兵器の保持・製造が出来る唯一の国家であったアメリカとソ連の共通認識となりつつあった。そのような状況下で、軍備が現実世界で果たしている複雑な役割の検討が始まり、次第に軍事力と軍備の使用の意図との相関関係に目を向けた「軍備規制」と言う考え方が出てきた。
1959年1月、アメリカの戦略理論家ウォールスタッターにより、短時間で目標地点に核兵器を運ぶことができるミサイル開発が先制攻撃を有効とし、先制攻撃に対する抑止力には報復能力が必要で、現在は報復能力の条件 が満たされていないから、このまま放置すれば核戦争は起こりうるという、論文が出された。以来、奇襲先制攻撃の防止、抑止力の確実安定化の問題が論じられ、そのプロセスを通じて「軍備規制」という考え方が具体策に結びついてきた。
同時に、国際政治の権力闘争において、核兵器以外の通常兵器を用いた限定戦争 は依然有効な手段であり続けていた。核時代における限定戦争に如何に対処すべきかは、キッシンジャー などの制限戦争論者の関心事であり、キッシンジャーの答えは、政治状況に応じて使用すべき軍事力を選択する、というものであった。
軍備規制の考え方は、軍事力は「最も小さな悪」として選択される手段であり、それを使用するか否かの意思決定は、使用した場合に予想される結果がもたらす効果と損害の評価に基づいて決められる、というものである。武力行使とその効果との間の関係についてのこの認識は、現在の戦略理論の基礎になっている。マクナマラ やフランスのボーフル はその代表例である。
軍備規制という考え方のポイントは以下の三つ
① 国際社会に緊張が存在する時には、合意による軍縮は出来ないことを承認する
② 軍備の存在を承認した後に、それが使用される可能性の減少を追求する
③ お互いの信頼の回復に答えを求めず、信頼や善意に基づかなくても軍備が使用される可能性を減らすことを追求し、それが信頼の回復の第一歩と考える。
軍備規制の目的は以下の三つ
① 軍備の使用が相互の損失であることを明確にする
② 軍備の使用が偶発的であることの可能性を減ずる
③ 軍備の競争が無制限に行われることを制限する
そして、それらの目的を達成するための措置は
第一に、抑止力(⇒何かを手控えさせる力)を「脆弱でない」ものとすること
第二に、抑止力として必要である以上の軍備を持たないことである
1962年にソ連がキューバに持ち込んだミサイルをアメリカがソ連に撤去させた発生したキューバ危機 の事例、所謂ベトナム戦争 =第二次インドシナ戦争では、結局米軍はエスカレーションの代価に見合う効果を得られないまま撤退した事例、が挙げられている。
対立国間の交流
軍備規制が可能であるための一つの柱は軍備の相互的自制だが、もう一本の柱はコミュニケーションの維持である。国際政治におけるコミュニケーションの維持の重要性は、極めて伝統的な叡智と言えることであり、常識的なことであった。例えば、日露戦争時の日本の指導者が、開戦時から戦いの止め方を考えて、諸外国との交渉手がかりを保っていた。
軍備規制は「力による平和」と言う考え方に基づいているが、国際政治における平和を維持するための実行体制を持っているという観点から見れば、人間の叡智に支えられていると言える。
軍備規制の代表的理論家シェリング は、軍備規制を「敵となるかもしれない国との間の軍事協力のすべての形式」と呼んでいる。
中国の核兵器開発
軍備規制は「力による平和」としての限界を持っている。その欠点は核兵器の存在する今日では、見過ごすことは出来ない。米ソ間の平和に挑戦するものが現れると、軍備規制によって安定したこの状況が、米ソいずれかの軍備拡張によって破られる恐れがある。その中で一番現実に可能性があるのは、アメリカが不信感を持っている中国が核兵器を開発したことに対して、アメリカが反ミサイル・ミサイルを開発しようとすることである(⇒中国は1964年に核実験に成功。本書の初版は1966年)。そうなると、ソ連の核抑止力を無効にするから、ソ連も反ミサイル・ミサイル開発を始めて軍事競争が再開することになるだろう。
軍備規制は米ソによる全面核戦争の危険を減らしたが、新たに核拡散による国際政治の不安定化という問題が発生する。既に核兵器を保持している国がそうではない国に対して核兵器を持つなと言うことは正当性に欠けるから、基本的に核兵器の拡散を防止することはできないがらだ。
第二の問題として限定戦争の増大が懸念される。軍備規制は限定戦争までなくすることが出来るかどうかは大いに疑わしいからだ。第二次世界大戦後から今日まで、67頁の表に36ヶ記載されているように数多くの限定戦争が発生している(⇒防衛省のデータによれば1945年から21世紀初頭までの限定戦争は87ヶで、1/3がアジアとなっている) 。軍備規制によって全面核戦争の危険が減れば減るほど、限定戦争という手段を人々が安心して大胆に使用すると考えられる。
軍備規制の心理的危機
「恐怖の均衡」の下で、恐怖と疑いに満ちたな平和な社会に長く住み、さら限定戦争での通常兵器の大胆な使用という悲劇的現実を日常的に目の当たりにすることは、社会心理学者のE・フロムが述べているように 人々を心理的危機に追いやるだろう。そして、そのことによる社会的危険が蓄積すれば最後には大きな厄災が訪れるかもしれない。
われわれは不安な平和の中を切り抜けていくだけでなく、それをよりよい世界に変える目標を必要とする。そこで「一方的段階的軍備縮小」が問題となってくる。
一方的段階的軍縮の困難
軍備削減→緊張緩和→軍備削減、という好循環が成立するには、そのプロセスを管理する機構が必要だ。しかし、1946年3月にアメリカがソ連に提案した原子力の国際管理に関する提案(バルーク案)の失敗は、それが困難であろうことを示唆している。
だが、すでに軍備規制が平和の維持に有効であるという経験を経た今の段階においては、緊張緩和策と強硬手段とを交えて、相手側の反応を見ながら、賢明に行動し、対立を和らげながら、終極的には緊張緩和に向かうことも出来るかもしれない。つぎの章では、一見疑いもなく平和的活動である経済活動と国際政治との関係を扱ってみよう。
第二章 経済交流と平和
Ⅰ 経済と権力政治
自由貿易の楽観論
国家間の経済交流こそ平和な世界を形成する最も優れた方法であるという信念は古くから存在し、今日においても極めて広範に抱かれている。貿易は「相互の自利」を生み出すという考えは、軍備縮小と同じくらい古く,かつ根深い考え方である。
他国の富の二重の機能
自由貿易という平和の方法に関する過去の記録は余り芳しいものではなかった。アダム・スミスは『国富論』において富の二面性 を指摘して重商主義 的な考えを批判した。この指摘は当時の歴史的文脈においては正しかったが、工業化が進み、戦争と権力闘争が大きな比重を占める国際社会では隣国の富を喜んでばかりはいられなかった。
自由貿易は「相互の自利」だけではなく,相互の競争と対抗をもたらした。実際、1870年代における保護主義の復活は,この競争と対抗がもたらしたものだった。
ルソーの悲観論
ルソーは「依存関係があるところ、支配関係が生まれる」と見通していたが、国家の関係も同様で、経済的な相互依存の関係の増大も、しばしば一国による他の国の支配をもたらすことになる。各国が自給自足を目標にするのは、国家の独立にとって必要だったからだ。
しかし、国家は自国の独立を願いはしても、他国の独立を真剣に考えはしない。一国で自給自足することは、工業化が進行した19世紀では困難であった。イギリス経済への依存から独立することを求めたドイツは、間もなく他国を支配し、経済圏を拡大しようとした。他国も同様でであり、こうして経済圏の拡大を求めて国際的な対立が現れることになる。
工業化と権力政治
他国に先駆けて工業化に成功し、19世紀初めより世界経済において独占的地位 を占めたイギリスに続いて、フランスやドイツ などヨーロッパ諸国は工業化に成功し、ヨーロッパ国際政治の権力構造は大きく変化した(縦の権力増大)。更に、工業文明を確立して帝国主義 に基づいて世界の各地に進出したヨーロッパ諸国は、他の世界を圧倒し、支配するようになった(横の権力増大)。ヨーロッパの人々は、帝国主義の批判者として著名なホブソン(1858~1940) の『帝国主義論』にもあるように 、自分たちの優れた文明を世界に伝えることを自認していた。(レーニンはホブソンの「資本輸出論」とR.ヒルファディング(1877~1941)の「金融資本」の概念を採用して『帝国主義論』(1916)を書いた)。
工業化による大衆の動員
工業化のもたらした権力の増大は、世界政治の権力政治的構造を変化させ、政治単位を拡大し、大衆の動員を可能とし、二十世紀前半の二つの戦争という大変動を準備した。第一世界大戦の結果はより大きな政治的単位の必要性を一層明白にし、これが第二次世界大戦の要因にもなった。
テクノロジー、特に交通、通信の発達は、統治を容易にし、国民を政治に参加させながら支配することを可能とした。カール・マンハイムが「社会の基本的民主化」 と呼んだもの、すなわち政治の民主化と権力増大過程は不可分に結びついていることが明らかになった。この変化は、経済的に見れば国民経済の成立と増大であり、精神的に見ればナショナリズム(個人と国家の同一化)の高まりと捉えられる。
帝国主義はヨーロッパの世界支配の現象であると同時に、より大きな政治単位を求める現象でもあった。イタリアの統一 、アメリカの南北戦争(1861-65)での北による南の統一、ドイツの統一は、その証拠と受け取られた。フランスの政治学者トクヴィル が、将来世界はアメリカとロシアという二つの巨大な国によって支配されると予言したことが現実味を帯びて来ていた。第二次世界大戦は、第一世界大戦の結果を見た各国がその勢力圏の拡大に奔走した結果と言える。ドイツは「生存圏」、日本は「大東亜共存圏」を作ろうとした。
Ⅱ 権力政治と経済交流の分離
米ソの勢力圏
以上のような歴史的過程の結果、第二次世界大戦後に米ソの両極体制 が出現した。アメリカ・西欧とソ連は、各々が占領した地域を各々の原理に基づいて政治・経済・社会体制の変革を進め、その影響下にそれぞれの勢力圏を構築していった。占領地域の体制の変革が、権力政治的考慮だけからなされたというのは正しくないが、それが権力政治的意味を持つものであることは疑いがない。
しかし、この勢力圏は、それまでの勢力圏とは性格を異にしていた。すなわち、力強き者による力弱き者の、力ずくの収奪は行われていない。この点こそ、かつての帝国主義と今日の米ソの勢力圏との基本的違いである。
支配-従属関係の終了
一方的関係は、実力(=軍事力)による圧迫を伴わないかぎり長続きはしない。そして、国際政治の関係が複雑に結合している現代は、国民国家の大衆世論の力と巨大な軍事力の使用制約がきわめて強い時代だから、強大な軍事力を持つ国がそうではない国を、力ずくで一方的に支配する関係は終了した。
米ソ勢力圏のそれぞれが強力に維持されているのは、各勢力圏を支配している強国とその圏内の他国が相互の利益に役立つからである。これはまた、あらゆる権力現象に見られるもので、はじめは赤裸々な力による支配おこなわれるが、支配者はその地位の永続を願うが故に自らの利益を被支配者に分かち与えねばならない、という法則とも言える。この法則は第二次世界大戦後の米ソの勢力圏についても働いたように思われる。
協力か従属か
近代工業の発展は、米ソの各勢力圏内においての経済交流の必要性を増大し、同盟は軍事的協力関係よりも次第に経済協力体制という色彩を強めてくる。
しかし、交流は依存を生みやすく、依存は支配を生みやすい。従って、経済交流の効果一般について楽観的な結論を引き出すことは出来ない。例外はあっても勢力圏内の関係が相互の利益に役立っているため、赤裸々な干渉によらなくても、米ソの「力」が各勢力圏内の体制に反する政府の出現を妨げることは可能なのである。各勢力圏内においては、弱小国の政府の質が自国の国民的利益を守る上で決定的な重要性を持つことになる。
米ソの「力」の質の差によって対処の形は異なるとしても、各勢力圏内において自国の利益を主張する政府の存在が問題(⇒考慮すべき課題)となってくる点は同じである。
経済統合のための闘争
米ソの勢力圏の出現で見てきたように、勢力圏という地域的統合は相互に対抗関係に立つものであり、国際政治の権力闘争を生み出すものである。まず、参加していない者に脅威を与え、逆に脅威は統合を促進させる 。
だからと言ってすべての地域的統合を批判するのは正しくない(⇒一般的な政治ブロック化批判)。普遍的世界的な統合が得られるには、世界はあまりに多くの面で、あまりにも烈しく分裂しているからである。しかし、地域的統合には限界があることは明らかである(⇒世界国家設立には限界がある)。
米ソの勢力圏の境界がはっきりしてくると関心は発展途上国に向けられ、米ソともに政治的目的を持って経済援助が行われるようになった。そして、経済協力や経済統合の結びつきが発展途上国との関係でとくに問題となってきた。だが、米ソともにそのために実力に訴えることはなく、米ソの対立は切迫したものにはなっていない。
しかし今後は、発展途上国における人民革命を主張する中国の出現が、状況を再び切迫したものにするかもしれない。アメリカと中国は発展途上国で現在起こりつつある巨大な変化について完全に異なった見方 をとっているからだ。発展途上国の開発が、アメリカと中国の間の巨大な権力闘争に巻き込まれる可能性は否定できない。
Ⅲ エゴイズムと相互の利益
南北問題
経済交流が平和を生み出すという考え に対する最大の挑戦は、南北問題、すなわち先進諸国と発展途上国の間の巨大な富の差の存在である。それはある意味では帝国主義の後遺症であり、アジア、アフリカ諸国に目に見えない大きな傷を与えた。しかし、それはまた基本的には歴史の事実と考えた方が良い(⇒資本主義のせいではない、と言いたい?)。
南北格差を放置すれば、経済交流という現象に内在する困難によってそれは一層拡大していく。南北格差の解消を目指すなら、先進諸国は発展途上国の経済発展に資するような特別な努力をする必要がある。この考えは過去十数年間オランダのティンバーゲンやスエーデンのミュルダールなどの経済学者達が繰り返し論じてきた。
ミュルダールは、国民国家を超えて世界に適用した福祉世界 という理念を掲げているが、本人も認めているように福祉世界は福祉国家 よりもはるかに実現しにくい。なぜなら、福祉国家は既に存在した国民国家の中で発展したのに、福祉世界はそのような枠組みとなるべきものを持っていないからである。
自尊心の問題
南北問題には、各国のエゴイズムが障害となって現れてくる。人は自分を他人と比較して、他人よりも豊かになろうとして働くのであり、他人のために働くのではない。ルソーの言う「自愛心」ではなく「自尊心」 に駆られて働くのである。不幸にして、国家もまた同じであり、ルソーは国家間の止むこと無き権力闘争の原因はここにある、と考えていた。経済交流が平和をもたらすという考え方に批判的であったルソーの、第二の論点はここにある(⇒第一の論点は「依存あるところに支配あり」だった)。
自国中心の態度と制度
感情的にも制度的にも、自国の利益の方が各国に共通の利益よりも認識され易く受け入れられ易い。
発展途上国にとっては、先進諸国が、貿易のありかたなどの経済政策を変更することによって発展途上国の産業の発展を助ける方が、経済援助よりもはるかに有効である。しかし、先進国にとっては、経済政策の変更で生じる自国の困難(例えば労働者の反発)の方が経済援助の増額より困難である。発展途上国の発展という、双方にとっての共通の利益は、自国中心の態度と制度という側面でも各国のエゴイズムの壁に阻まれる。
経済開発の前提条件
十数年前(1950年代)からの経験により、発展途上国の経済開発の複雑さが次第に分かってきた。そして、なにより安定した強力な国の政府の存在が重要であり、その下において一定の教育水準と資本の蓄積が非常に重要であることが分かってきた。
経済開発とは単に経済上の問題ではなく、それを可能にするような社会の存在が問題となる。発展途上国では現在そうした社会は存在しないから、経済開発と同時かそれに先んじて、社会の変化が必要となる。
国家形成の難問
ヨーロッパの歴史を見ても分かるように、国家 の形成はきわめて困難でその過程は長い。その長く困難な過程を経験していない多くのアジア、アフリカの新興国は、国家の実体をなすものを持っていない。
南北問題は、帝国主義の与えた最大の損害を明らかにした。それは、帝国主義が、植民地の人々の価値観を、そして民族性を破壊したことである。独立心の喪失を最も恐れたガンジーの言葉 はそのことを端的に表している。国家形成の前提を破壊された植民地の人々は、大きなハンディキャップを背負わされて自国の経済開発も進めざるを得ないのである。
南北問題は、国民主義(ナショナリズム) が野放しにされてはならないことを示すと同時に、国家の必要性が厳然として存在することを明らかにしている。人々はその国家の価値体系から離れて能力を発揮することは出来ないからである。そして、このことこそ、次に検討する普遍的な秩序による平和への試みを不可能なものにする根本的な原因なのである。
第三章 国際機構と平和
国際機構のジレンマ
国民国家が並立する状態は、基本的には国際的な無政府状態なのだから、問題の解決は、各国がその主権の一部または全部を委譲した世界連邦を作ることでなければならない、という議論が現れるのは、理論的には自然な展開だろう。「国際機構による平和」という思想は主権国家の並立する国際政治の状況と同じくらい古い思想である。
この思想は今日でも依然として平和思想の中核を構成しており、平和に対するわれわれの考え方の際立った弱点になっている。十分な理論的検討がなされず、いつか完全な国際機構が出来るとき、永遠の平和が訪れると単純に考えているのである。しかし、その障害が何であり、その最大の欠点が何かを知らない理想主義は、理想への憧れにすぎない。
国際機構による平和の提唱は、アベ・ド・サン・ピエール などによって17世紀から18世紀の初めに纏まった形をとり、以後の平和思想の原型となった。ルソーはサン・ピエールの平和提案にひかれながらもその根本的な欠点を見逃さなかった。ルソーは『サン・ピエールの永久平和計画の評価』 において、サン・ピエールの提案を批判している。
批判の第一点は、各主権国家はその提案に賛成しないだろう、という点だった。戦争をもたらす主権国家の並立状況が、戦争を除去する国際機構の樹立を妨げるはずだ、と。
批判の第二点目は、この提案には大きな危険があるという点だった。それは、すべての理想がそうであるように、権力闘争の手段として使われる、と。『サン・ピエールの永久平和計画の評価』の後半を次のような皮肉を込めた言葉で終えている。「このような大計画(アンリ四世が目論んだ「国際機構による平和」という計画)は将来あり得るかもしれないので、これを讃えるとともに、それが実行されなかったことに安堵しよう。というのは、この計画は人類をたじろがせるような暴力的な手段によってしか実現されないからだ」
正義は複数個ある
すべての秩序は力の体系であると同時に価値(=正義)の体系である。国家においても、国民が基本的な価値の体系を共有しているからこそ秩序が成立し、権力による強制の支えがなければ共通の価値体系も育たない。それは、ヨーロッパにおける国民国家の長く複雑な成立過程を見ても明らかである。
カントも国際機構のジレンマと権力闘争に利用される危険性を指摘している(『永遠平和のために』)。国際機構に対するルソーとカントが共通に持つ考え方から、一つの論点が導かれる。それは、国際社会における秩序は、ただ単に力を一カ所に集めることによって得られるような簡単なものではないということである。
カントはさらに、相互に独立した国家が隣接し合いながらも分離していること(=戦争状態)の方が、国際機構が作られるよりもましであるとのべている。
全面核戦争を回避することが全体の利益であることは明らかであるにもかかわらず、各主権国家は、軍縮が有効であるような国際的な強制力を持つ管理機構の設置には賛成しない。それは、単なるエゴイズムや全体的利益を認識しえない邪悪さや愚かしさのためではなく、すべての主権国家がその運命を託することが出来るような唯一の正義が具現されている世界ではないからであろう。この問題の核心は、現在の国際社会においてはそのような正義は存在しないということにある。
国際機構の強制力
現実の国際機構の歴史は、これまで行ってきた理論的な考察を裏付けている。国際連盟は、集団的安全保障の体制を作ろうとして連盟規約に記載したが、規定の解釈決議を見れば分かるように実際には集団的安全保障体制は存在しなかった。国際連合は、国際連盟の失敗からより強い権限を持った国際機構を目指して作られたが、常任理事国が拒否権を持つことで、強制力に関するかぎり国際連合憲章の規定は殆ど死文となった。
このような状況をもたらしているものは、前項で述べた「国際機構のジレンマ」によるものだが、国際連合憲章の規定が殆ど死文となった根源には、相互の不信感に加えて、ソ連と西欧諸国とが異なったイデオロギー、すなわち価値観或いは正義を持っていることにある。
異なった正義の原則という事実を踏まえてみるならば、アメリカの国際連合における動きが権力政治的なものであったことは否定できず、この点につては、18世紀初頭におけるヨーロッパ覇権争いに際して、アンリ四世のとった動きと同じであると言える
朝鮮戦争 の教訓
朝鮮戦争から、重要な一般的教訓を引き出すことが出来る。それは、異なった正義と力と利害の対立する現在の世界において、作られうる国際機構の強制行動は、一方の正義の押しつけという性格を帯びるということであり、したがって、強制力を持つ国際機構を作ろうとすることが不可能でもあり、望ましくもないことである、という教訓である。
「政治家の技術と分別に活動の余地」を与えるという意味において、国際連盟も国際連合も決して無力な存在ではない。しかしその力は、国際連合の起草者達の考えたように、強制力から生まれているのではない。では、国際連合の力とは一体何なのだろうか。
Ⅱ 世論の力
フォーラムとしての国際連合
国際連合の役割が、安全保障理事会を中心とした強制力を持った国際機構というものから、総会を中心とする国際世論が形成されるフォーラムへと発展してきた。それは決して間違った見方ではないし、一定の効果も上げてきた。
より大切なことは、アジアやアフリカ諸国が加盟した結果(本書の出版時点では東西独逸や中華人民講和国未加入)、より中立的な討議の場所となった総会の討論を通じて、長期的には、軍縮、人権、南北問題、などについてのコンセンサスが現れてくることろう。
しかし、世論の正しさと有効性を信ずる考え方も、人びとが犯しやすい誤りであることには注意しておく必要がある。E・H・カーが名著『二十年の危機』で述べたように、世論の神格化こそ、大戦間の外交を無力化させた大きな要因だったのである。われわれは同様の誤りを犯さないよう、国際世論の機能、とくに世論の機能をきびしく分析しなくてはならない。
世論の力と実力
国際連合設立後今日までの間に生じた国際武力紛争から引き出せる明確な結論は、背後にある力関係が結果を決めると言うことである。疑いもなく、国連における討議は実力を背景にした権力政治に取って代わるものではない。
国際連合の二つの機能
一つは、諸国間、特に対立国の間のコミュニケーションを常に保つこと、もう一つは、紛争解決の目標が平和の回復という形で追求されるため、紛争に対処する広い枠組みを与え、譲歩する側は「名誉ある撤退」の機会を捉えることが出来るようになることである。
世論に対する受容性
各国が世論を尊重するかどうか、世論の受容性ということが問題となってくる。言論の自由が許され、政府の行動を批判できる国と、そうでない国とでは、前者の方が受容性が高いことは明らかである。しかし、その国に言論の自由があっても世界世論に対する受容性が高いとは限らない。現代の巨大社会では、人びとの同調性が強くなっているからである。
Ⅲ 国際連合の意味
権力政治は変わった
第二次世界大戦後の権力政治は、大きく変わった。それまでの権力闘争の目標は領土の獲得であったが現在は「人の心を求めての闘争」となっている。このような、権力闘争の性格変化は、第二章で述べた権力の横と縦への拡がりという歴史的過程とともに起こってきた。レイモン・アロンの言うように 、隷属化していない大量の人々の動員と政治的参加が必要となり、したがって世論を支配し大衆の心を捉えることが必要になったからだ。
国家間の交渉が限られていた古典的な国際政治においては、それぞれの主権国家は政治的、経済的に独立した存在であり(それが主権国家ということの意味であった)、その相互間の紛争解決の手段として軍事力が制限的に使われた。しかし、経済的な相互依存の増大とコミュニケーションの発達は、経済関係による他国の行動の操作と、宣伝による他国の世論の操作を可能にした。
そのことは、エリート対エリートの関係に限られていた国際関係に、国民外交、民間外交(マス対マス)、対角線外交(マス対エリート)がつけ加えられた。国際関係が複雑化し、国際政治においても世論への呼びかけが極めて重要な権力政治的行為となってきた。
しかし、世論への呼びかけは、理性に訴える説得ということだけではなかった。19世紀の思想家たち(例えばベンサム)は、世論を理性的合理的なものと考え、それが故に世論の力の強まりが平和を保障すると信じることが出来た。しかし、実際に世論の力が強まってくるにつれて、人びとはそれが必ずしも理性的合理的なものではないことに気付かざるを得なかった。例えば「威信」という言葉が19世紀半ばあたりから次第に使われ始めたことに表れている。力の誇示とシンボルの利用を主軸としたヒットラーのナチ運動の成功は世論の合理性を信ずる人々に対して壊滅的打撃を与えた。
フロイト(1856-1939)は、人間の行動を支配するものは意識的なものではなく、下意識を呼ばれる非合理的なものだと主張した。パレート (1848-1923)は、政治において最も重要なものは、神話によって代表される「非論理的行動」だと述べた。人間の行動が非合理性に支配されるという19世紀末に現れたこれらの思想は、歴史におって証明された。
威信の政策と体制の政策
現在、各国はその威信を高めることを念頭に置いて行動している。スプートニク の打ち上げはソ連の威信を著しく高め、農業政策の失敗は逆に低下させた。冷戦期のベルリン問題 は、米ソ両国の行動価値の基準が威信であることの証左であった。やがてソ連の方がベルリンの壁を築かなければならなくなったことは、重要な威信のゲームにおけるソ連の敗北を意味していた。
威信の政策と並んで、現在の権力闘争の主要な形式は、ある普遍的原理に立つ国がその原理の及ぶ範囲を広げることであった。ある国がどのような政治・経済体制を取るかということは、決して単なる国内問題ではなく、国家間の力関係に影響を与えるものだからである。イデオロギーの対立は権力闘争と離れたものとして存在するものではなくて、その最も重要な局面の一つなのである。
アメリカの力とソ連の力とは、その質も機能も違っており、勢力が伝わる経路も違っている。アメリカの場合には、各種の私企業の作り出す多元的な経済関係が最も有効な経路であり、従ってその支配は経済的性格をおびるのに対して、ソ連の場合には、それは共産党の経路通じてなされるから、政治的性格が強い。その結果、国家の力を制御する点ではソ連の方が有利であるが、同盟国間の関係が悪化したときには、力の経路が多元的であるアメリカの利点が優る。それらは、米仏関係 と中ソ関係 においてよく示されている。
政治の場としての国際連合
現在の権力闘争がこのようなものであるとするならば、国際連合がその重要な舞台、すなわち政治の場となっていることは明らかである。したがって、すべての政治の場がそうであるように国際連合は対立の側面と調和の側面とを持っている。
国際連合にはさまざまな利害、力、思想の葛藤が現れる。アメリカもソ連も、国際連合において自己の立場を宣伝することに努めたし、国際連合の権威を利用しようとした。しかし、国連の場において、妥当な理由に基づく非難が討議を通じて行われたことは、非難にルールと重みを与えた。
国際連合は、各国を代表する人々が常に同じ場所にいることで国家間の連絡を容易にする場を提供している。より大事なことは、国連代表や国連職員や関連団体による中立的世界の存在である。平和を求める価値観を共有する人々が繋がる点からも、国際連合は政治の場における調和の側面と言えるだろう。
国際連合における共通の紐はあくまでも限られたものであり、これに対して立場の相違はあくまで大きい。これこそ、国際連合の機能をこれまで消極的なものに限ってきた根本的理由であった。国際連合は、武力衝突という現象を凍結することは出来ても、問題を解決して紛争を除去することは出来ないのである。
休戦ライン
国際連合の役割とその限界を最も象徴的に表しているのが、世界のあちこちにひかれた休戦ラインである。第二次世界大戦後、今日までに起こった大きな武力衝突はすべて休戦という形で収拾された。そしてそれは、何らかの形で国際連合の監視下に置かれた。しかし、それらはすべて恒久的な講和条約という形で解決されるところまでには行っていない。
パレスチナ問題 では、いまだ恒久的な平和条約は結ばれず、第二次中東戦争 (=スエズ動乱)後に、国連は侵略以前に復帰という形(旧状復帰⇒後述右)で停戦させて国連軍を送り休戦ラインを監視させている。
カシミール紛争 では、カシミールの帰属をめぐるインドとパキスタンの争いは、1947~48年と1965年の2回の大規模な戦闘行為を引き起こしているが、両者の主張は根本的に対立し、いまのところ、解決の試みはすべて失敗している。
朝鮮においても同様の歴史が残っている(別記参照)。
国際連合の力の限界
限られた力とは極めて不十分な力である。しかし、国際連合の発展は、その限られた力を増大しようとすることによってではなく、逆に、その力の限界を認めながら、それを賢明に使うことによってもたらされることを、国際連合の歴史は示しているように思われる。
現在の国際機構の決定は、少数派が同意または黙認しているかぎりにおいて有効であり、その限度を超えて国際機構の力を強めようとすることは、かえって逆作用を生むものでしかない。国連軍による南北朝鮮の統一という試みは、ソ連と中国が実力によって反対することによって失敗に終わり、かえって世界戦争の危険さえ生まれることになった。
黙認と公然たる反対の差は微妙なものである。しかし、それが現在の国際機構を見るとき、極めて重要な点なのである。1960年のコンゴーの内戦 に対する国連軍の派遣は、その良い研究例を与えてくれる。秩序を維持して平和を回復するという使命を果たすために、国連軍が立ち入らざるを得なくなったこの問題は、内戦に伴う各政治勢力の正当性の問題と、東西冷戦下において「浸透 」を企てる政治勢力の正当性の問題を含んでいた。国連軍は権限を強化して一方の政治勢力に対して武力行使を行い鎮圧に成功し、国連軍の使命は果たされた。武力行使に対する反発が公然たる反対ではなく黙認であったからだった(朝鮮戦争とは異なり)。だが、現在の世界では政治勢力の正当性についての共通の基準はないため、国連軍への一致した支持は国連軍の権限強化に伴って消滅し、その威信を低めることになった。
UNプレゼンス方式
過去の記録は、国際連合が紛争を解決することは出来ず、それを局地化し、中立化することができるだけであることを示している。現在の国際連合の中心的機能であるUNプレゼンスによる防止外交(⇒集団的安全保障から防止外交へ)は、こうした認識の上に立ち、紛争を局地化する国際連合の能力を、より広く、そしてできるだけ先制的に、用いようというものである。
この方式の起源は1952年のスエズ動乱の成功だが、1958年のレバノン危機 、1959年のラオス内戦 初期のラオス調査団 、1960年のコンゴー駐留国連軍、1962年の西イリアン駐留国連保安軍(⇒西ニューギニア領有を巡るインドネシアとオランダの紛争 に派遣された強制力のない国連軍)、1963年のイェーメン監視団 、1964年のキプロス駐留国連平和維持軍(⇒キプロス内戦 時に派遣された強制力のない国連軍)、と続く。
第二次大戦後の戦争の多くが内戦だが、この場合には国連が有効に介入するのは困難だろう。また、内戦の当事者達が戦い続けることを決意していると国連は無力だろう(例えばアルジェリア内戦 。名目上はフランス本土の一部に長い間居住する植民者が戦い続ける意志が強固であったケースを指すのだろう)。
国際連合の権威
国際連合の役割を限定して考えることは、現実の可能性ということから必要であるだけではなく、その将来の発展という見地からも導き出される要請なのである。そして国際連合の局地化機能は、その力ではなく権威によって有効になっている。
では、その権威とは何だろうか。権威に従うことは同意ではない。権威は、実力の行使でもなければ説得による同意でもない、その中間のなにものかである(ハンナ・アレント)。
国際連合の権威は、権威を持つものと権威を感じるものの相互関係において少しずつそして時の経過とともに増大させていくことができるだけなのである。今から150年前にイギリスの外相キャッスルリー が述べた言葉 は今でも依然として妥当する。
自己の理念と利益を守りながら、国際機構の権威を高めるように行動することは出来ないだろうか。こうしてわれわれは、いくつかの普遍的解決方法を検討したあとで、結局各国の行動という個別的な問題に帰ることになる。平和な世界を作るような方向に行動する国家とはどのようなものであろうか。
終章 平和国家と国際秩序
Ⅰ 国際社会と国内体制
帝国主義論
平和な国家とは何か、という問いかけは、思想家たちが平和の問題と取り組んだとき常に中心的な問題であった。そしてそれぞれの思想家が見出した解答は通俗化された形で、われわれの平和に対する見方の根幹をなしている。国家の平和的な性格に関する理論の中で、現在最もよく知られているのは帝国主義に関するいくつかの理論である。これらの理論は、19世紀から20世紀にかけての歴史的現象の教訓を一般化しようとしたものであり、国家を侵略的なものにする要因についての理論を与えている。それらの理論は大別して二つに分けられる。一つは資本主義経済の欠陥に原因をみる経済学的理論(すでに触れたホブソン、レーニンの帝国主義論)もう一つはシュンペーター(1883-1950)やベブレン(1857-1929ヴェブレン)が主張する工業化の過渡期の社会現象に原因をみる社会学的理論である。
シュンペーターとベブレンの理論は、工業化が完成しない段階において、工業化前の社会の残存物が工業化社会の技術と結びつくところに帝国主義の原因を求めるもので、その考え方の原型は、ともに人間社会の進歩を信じた思想家コント(1798-1857)とスペンサー(1820-1903)に求められる。
シュンペーターとベブレンは、資本主義社会では、そこで指導的役割を果たしている人々の生活様式を見れば、彼等は征服戦とか対外的冒険主義などは厄介な妨害物と感じるだろうし、帝国主義を起こすのは、以前の社会に存在した戦争のための機構や戦争のための階級(貴族)の残存物と考えているから、反帝国主義であろう。
以上の経済学的理論と社会学的理論は、帝国主義の現象についてある程度の説明を与えても、すべての説明を与えるものではない。また、国家を侵略した一つの基本的要因を見出してはいるが、それが国家を侵略的にさせる唯一の要因ではない。したがってそれを除去しても、国家が平和的になるとは決まっていない。
おそらく、帝国主義の論者達が帝国主義の原因を求め、(⇒ある一つの原因を見つけると)それを除去すれば平和が訪れると考えたのは、工業化に対する彼等の楽観主義のためであるように思われる。それはコントやスペンサーの場合には明らかであるが、ホブソンの場合もすでに述べたように楽観主義的側面があり、マルクス主義も資本主義が打倒されたあとにユートピアが訪れると考える点において楽観的であろう(レイモン・アロンは「終末論的楽観論」と呼んでいる)。
それゆえ帝国主義論者達は、工業化の与える力をいかに制約するかという、重要な問題を検討せず、その代わりに国家を侵略的なものとする要因をあるものに求め、これを非難し、それが除去されれば平和が訪れると考えた。この誤りは通俗化された帝国主義論の場合に甚だしい。その偏狭な楽観主義は、人々をしてある特定の戦争原因の除去に奮い立たせ、平和の名において戦争を行う危険性を帯びている。資本主義に戦争の原因を求める理論を、現在の世界に単純かつ偏狭に適用するならば、資本主義の原因を除去するために戦争が起こることは明らかである。
アメリカの理論家ロストウ が、共産主義を、古い伝統的社会から工業化社会に移行する過程にある社会が一時的にかかりやすい病気と定義するとき、そこには楽観主義が作用している。そして、低開発諸国をその病気から守る必要を力説することは、アメリカをして「聖戦」を行わせることになるであろう。
平和国家の現実
われわれは近代史において平和国家であることを自認して出発した国家が、国際政治の権力闘争の風に当たるにつれて、他と異なることのない国家に転じていった例を3回経験している。アメリカの建国、フランス革命、ロシア革命である。今日世界最強の軍備を持っているアメリカの体制を平和的と言い切ることは出来ない。フランス国民はナポレオンの征服に興奮し、これを讃えた。ソ連の外交政策は社会主義国の平和的な性格を信ずる人々に幻滅を与える歴史であった。
アメリカは権力政治が盛んに行われているヨーロッパとは無関係の、新しい、平和な国家として出発した。彼等の多くは、アメリカが民主主義体制という平和な体制であることに、平和な国家である理由を求めた。しかし、民主主義とヨーロッパからの孤立の因果関係は逆であった。権力政治に参加しなかったから、弱い政府と常備軍で済ますことが出来たのだ。
フランス革命では、戦争は王や貴族達がするもので、革命によって戦争と平和の問題を人民自らが決する政治体制を創ったのだからフランスは平和国家になったと考えた。しかし、オーストリアやプロシャなどが、フランス革命に介入したことは事情を一変させた。カルノー (1753-1823)は徴兵制を考え出して実現し史上初の徴兵制度を生み出した。
ロシア革命で成立したソ連も、理念的に考えられた社会主義の平和的な性格がどのようなものであれ、現実の社会主義体制は各国家の抗争の中に生きる国家であった。ソ連は干渉戦争に始まる各国との抗争の中に生きなくてはならず、その必要はスターリンの独裁体制を過酷ならしめた。国際政治政策は、通常の国家と何ら変わることはなく、社会主義国の平和的な性格を心から信ずる人々に幻滅を与えることになった。独ソ不可侵条約とハンガリー革命の鎮圧は、そのもっとも大きなものにすぎない。
昔から外交について、二つの異なったイメージが作り出されてきた。一つは「大使とは、嘘をつくために送り出されてきた正直な人間」(策略型)、もう一つは「相互の利益の発見こそ外交の常道」(調和型)。策略型の外交は、東ローマ帝国とイタリア都市国家において行われ、ヨーロッパ国家体系の初期にも用いられた。それはすべて、非常な混乱の時期であった。
ヨーロッパの外交は策略型から調和型に変わっていった。東ローマ帝国の外交の相手が異なった文明であったのに対し、ヨーロッパ諸国が同一の文明によってつながれていたことは決定的な重要性を持っていた。このような状況では、恒常的な利益の方が一時的な利益よりも重要であり、またそれを重んずることが出来るからである。
混乱した国際政治の状況は、策略型の外交を必要とするが、その策略型の外交が混乱をいっそうひどくし、悪循環がもたらされる。昔から、すべての独裁者は外国の脅威を理由にその国内の権力の増大を図ってきた。そしてこの権力の増大が今度は他の諸国に脅威を与え、対抗措置をとらせ、その結果、外国の脅威が現実化することになって、再び独裁者はその権力の増大を行うという循環が成立することになる。
「悪は弱さから生まれる」
こうして、国際政治の状況と各国家の外交の性格の間の循環を、いかに良い方に向けるかということが、基本的な課題であることがわかった。その第一の条件は各国家の国内体制だろう。国家を平和なものにし、国際社会を秩序あるものとする国内体制について、楽観論や決定論を拒否して考察した18世紀の思想家たちの考え方は重要な示唆を与えている。
「いっさいの悪は弱いことから生ずるものだ。子供は弱くなければ悪くない、強くしてやれば善くなる。なにごとでもできる人は決して悪いことをするはずはない」『エミール』。
ルソーは、世界平和は相互に独立してあまり交流を持たない孤立する状況でしか生まれないと説いたが、明らかにこの理想状態は現在の世界では実現しそうもないように見える。しかし、第二章(経済交流と平和)において検討したように、経済交流における相互依存関係が支配従属関係へと変わる危険な側面や、南北問題における解決の要点が独立性の回復や維持にあること、を考えると、ルソーの理想境はがぜん現実味を帯びてくる。
相互依存と独立は矛盾しないのである(⇒相互依存と独立が矛盾するから主権国家同士が平和共存出来ないのだ。その根底にあるのは、ルソーの思想を引いて言えば、自尊心=欲望=エゴイズム)。だが、そのためには独立を保つ力は制約されたものでなければならない。
カントは、永遠平和のための第一確定条件として「各国家における公民的体制は共和的でなければならない」と述べている。カントの言う共和制 とは、誰が政治権力を持つかではなく、権力の行使の仕方、統治の方式に関する区別であり、専制の対極として政治権力の行使が制限されているものである。
カントは民主政治において多数の専制が起こることを認識していたので、世論の機能について単純な楽観主義など持っていなかった。世論の力への盲信は、後世の通俗化によって起こったのである。国際機構に意味を与える国家体制が、世論の力が強い国家ではなく、その権力が制約されている国家であることは、第三章で分析したように明らかである。
一章から三章を通しての検討から、平和的な国家の条件について次のような三つの教訓が導かれるだろう。
① 平和な国家は、その独立性を守るだけの力を持っていなければならないが、その軍備によって国家が軍国主義化されていてはならないし、その軍備を十分に規制することが出来なくてはならない。
② 経済的に言えば、他国に支配されざるをえない国家も、他国を支配しなければならない国家も、ともに平和な国家ではない。
③ 国家の権力は制約されていなければならず、言論の自由の欠如、多数の専制、ある理念への狂信などは、国家権力の制約を著しく困難にするものとして退けられなくてはならない。
上記基準は行動指針を与えはするが、今まで述べてきたように、それだけを実現しようとしてもできるものではない、混乱した国際政治の状況においてどう生きるかという問題が残っているのである。
Ⅱ 現実への対処
国家の行動準則の欠如
現代の国際政治状況は混乱し、計り知れぬほど大きな困難を各国家に投げかけている。それは、邪悪な国家が存在するからでも人々の道徳が堕落したからでもなく、他の国がいかなる行動様式をとるかを理解できないか、あるいは信用できないからである。その理由は、国家の行動準則の欠如にある。
安定した国際政治の状況には、各国の行動を規律する準則が存在する。国際法はそのもっとも代表的なものである。国際法が強制力を背景にした明確な法規でないことは否定しえないが、各国の行動に一つの基準を与えてきたこともまた事実である。
近代国家体系における「国境」という規定および「内政不介入」という原則は、一体となって、各国の行動様式を大きく規律していた基本的な基準である。近代国家体系を構成する主権国家は「自己の領土において臣民 を現実に拘束する力」をもち、国境は国家の主権が及ぶ範囲を規定する。国境の確定は内政不介入原則に基礎を与え、国家間の権力闘争は自国領土の拡張という形をとり、国家間の権力闘争の結果は条約によって承認された国境線となって現れ、国家間の武力衝突は政府機関同士の行動となって現れる。
戦争法規は全体として戦争行為を国家間の権力闘争の手段として認めながら、それを制約するという考えの上に立脚している。例えば中立という制度は戦争法規の代表的なものであり、戦闘行為が及ぶ範囲を限定するという機能を持っている。
戦争規定は強制力によって保証されていないが、それを破ることが損害を受ける場合には、各国家の行動準則となった。しかし、現在はこうした準則が国際政治の現実とかけ離れたものになり、守ることが極めて困難になった。したがって、各国家の行動を導くものとしては不十分なものになってしまった。
例えば、ミサイル戦争やゲリラ戦などの全体戦争(⇒総力戦)においては、戦闘員と非戦闘員の区別が不可能なので、戦争行為を制限する法規を守ることが極めて難しく、さらに、準則に違反することによって法外な利益さえ得られるからである。また、自衛戦争と国連憲章の要求する軍事行動以外を非合法化するという現在の態度は正しいと考えた場合には、多くの戦争行為を現実には法の支配の外に置くことになることも否定できなくなる。
国境線の確定と内政不干渉の原則は、現在の国家間の権力闘争に枠組みを与えることが出来なくなった、と言うこともできる。言葉の厳密な意味において、内政不介入ということは行えないことだからである。そのことは、第一次世界大戦におけるドイツの敗戦が劇的に示している。ドイツが領土の中に敵軍を入れなかったにもかかわらず敗れた、その一因は経済封鎖であり、もう一つは宣伝戦だった。
現代の国家は、自国の領土を越えて経済関係を設定してこれに依存しているから、経済力を利用して他国の内政に大きく介入することが可能である。さらに自由主義と共産主義という異なった正義の体系の存在は、政府の正当性について対立する二つの基準が存在することであるから、主権国家間の武力紛争と内戦や革命戦争の区別を曖昧にし、内政不干渉の原則を無効にする。これらのことによって、近代国家体系における国家の行動様式の準則を示してきた国際法は、その基礎から揺るがされている。
現実主義の立場
国際社会が、正義と力が対立して混乱状況に直面した場合、人々の態度は二つに分かれる。一つは、この混乱状態を直接に直そうとするものである。この考え方が、ある大国の力と結びつかない場合には、国際連合や国際法を強化する考え方となる。しかし、それは不可能なことだけではなく、望ましくもないことはすでに述べたとおりである。
したがって、可能であるのはこの混乱状態を間接的直すことだけであり、その方法はすでに論じてきた。その最も代表的な方法は、状況を凍結することである。状況の凍結は対立の原因そのもの、すなわち国家の行動を規律する準則がないことを除去しようとすることを断念することから始まる。そして、国家間の対立を、あたかも単純な力の闘争であるかのように考え、対処していく。
このような現実主義は、異なった正義の対立という、国際政治の本質に根ざす困難の認識に根ざしでおり、権力闘争に対処することだけに満足しているものではないが、権力闘争を離れて直接に対立を解決しようとすることが不可能であるだけでなく、かえって望ましくないことを認識しているがゆえの立場を選ぶのである。
力の闘争の現状を凍結するという考え方は、少なくとも米ソ対立の場合は有効に働いた。すでに述べたように、米ソ両国が両国の勢力の境界線を力で変えることが出来ないのを知ったとき、米ソ間の緊張は徐々に緩和し始めたのであった。そのようなことが過去においても起こったことは、18世紀の国際法学者ヴァッテル(1714-1767)の言葉 が示している。チャーチルの言葉 も同じような考え方の上に立って、冷戦の始まりに当たって、境界線の固定化に努力することを説いている。
事態の凍結はほんの第一歩である。この方法は国際政治の状況をよい方向への循環に変えることは出来ない。それどころか、例えば封じ込め政策のように、事態の凍結を図る手段自身が策略型の外交である場合には、その行い方によっては悪循環をひきおこす。そうならないように、凍結という考え方には国際秩序への志向は必要なのだ。
国際間の権力闘争への対処は第一歩にすぎない。やがては対立を解決することが出来るという希望が存在しなくてはならない。現実主義は絶望からでた権力政治のすすめではなく、問題の困難さの認識の上に立った謙虚な叡智なのである。
この点についての例証として、あらゆる武力行使が起こったときの解決策に「旧状復帰」という考え方がある。それは事態の凍結という態度と共通するもので、国際連合などでだいたい慣行のようになってきている。この原則は、この原則が次第に国際社会における国家の行動準則として定着するであろうことを希望しており、対立の原因はやがて別の手段で解決されるようになるという希望を保持し、つまり、権力闘争に対処しながら、その対処の仕方において、国家の行動準則を形成する方向に動くことが必要であることを認めている。それは国際法や国際連合を、国際政治の状況と各国の外交の型のあいだの循環をよい方向に向ける弁や、ポンプの役割を果たすものとして、高く評価するのである。ただ現在は、それらにすべてを託することが出来るほどは強くないのである。
したがって残された道は、各国が自己の理念(⇒価値観)と利益(⇒経済)を守りながら、その行動(⇒対処療法)をつうじて国際法を作り、国際連合の権威(⇒国家が自律的に従う力)を高めていくことしかない。現在のように国際法の規制力が弱く、国際連合の権威に挑戦することが容易であるときには、ある国家は自国の国家目的を追求するに際して、法外な方法によって法外な利益をうることが出来るかもしれない。しかし、それは明らかに悪循環を起こす行為である。
現在の政治家は、その国の国家目的を追求するに当たって悪循環を起こさないような選択をとること、出来れば、よい循環を起こすような選択をとることを要請されている。それは、力と利益の考慮によって動く現実主義者にも要請されている最小限の道徳的要請なのである、
絶望と希望
国際政治に直面する人々は、しばしばこの最低限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある、しかし、彼は絶望してはならないのである。昔から人々はこのジレンマに悩んできた。
例えばソ連との冷戦という困難な状況にあって、アメリカの外交を立案したジョージ・ケナン は、異なった正義の大系を持つ巨大な国家ソ連に、なんとか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決しえない対立であった。彼は出来ることしながら、すぐには出来ないことが、いつかはできるようになることを希望したのであった。ケナンは深く愛読したチェーホフ(1860-1904)の作品の中で、特に短編『往診中の一事件』を好んだ。著者は最後にこのチェーホフの短編の一部 を引用した後、以下のように結んでいる。戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力し続けなくてはならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間のつとめなのである。
おわり
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