2017年1月3日火曜日

『古代国家はいつ成立したか』【感想・要約】(都出比呂志 岩波新書 2011/8/19)


【感想】
ピエール・ドゥ・ロンサール
「国家」とは何だろう?という問いの答えを求めて読み始めた本の一つです。一応先進国の人が、日常において意識する国家といえば近代国家ですが、その基を辿れば古代国家に行き着き、そもそもその古代国家という国家が出現してくる以前から国家になっていくプロセスは実際どうだったのか?。そこには時代や地域ごとの個別性とそれを超えた普遍性とがあるに違いなく、従って重層化された多様な社会と近代国家という共通の概念があるのだと思います。
本書は、日本列島に古代国家が成立するプロセスを、いつものように文献史学としては中国の史書を頼りにしてはいますが、主に考古学的な事実から推測しています。昔から、色々な人が想像していたことを、現代に特有な科学的手法でより確かな知識となっていくことを知るのは、とても楽しいことでした。

【要約】
はじめに
  •  国家には、土地の分配、税、生産、経済、文化、共通の思想など、多面で複雑な仕組みが要求される。
  •  国家の制度が試行錯誤される前段階を欧米の研究者は「初期国家」[1]と名付けた。
  • 著者は日本の初期国家は古墳時代(3世紀前半~6世紀末)に当たると提唱した。
  • 本書は日本の古代国家形成における古墳時代の役割を、考古学に基づいて明らかにすることを意図している。

第一章 弥生社会をどう見るか
縄文時代晩期より、朝鮮半島からの大量の渡来人が水耕農耕や生活習慣を日本列島に伝えて、弥生時代が始まった。その開始は近年の科学的分析方法の進歩によって500年ほど遡り、BC 1000年頃からとなった。
人々は集落を作り、リーダーの指導の下に協力して働き、日常生活を維持し、またおそらく自分たちにとっての必要性、例えば人口の増大などに従って生活圏を拡大していった。
そのような共同体の構成員にとっては、お互いの関係が己の生存に深く関わっており、それらの関係は、血縁関係だけではなく、共同体全体との関係であることを理解し、そう確信させる仕掛け、祭祀や伝説や規範などがあった。
共同体の生活圏の拡大は、共同体自体の拡大と外部共同体との関係を発生させた。それらは、共同体内部においては結束を固めるために統治権力を生み、共同体同士においては、双方が独立して存在することが許されない限り、戦争や調停を介しての統合へと進み続け、より大きな新しい共同体となった。
共同体の存在条件は、地理的などの自然的要因、秩序の維持などの権力的要因、仲間であることを確信させる習俗的要因がある。それらの要因は、共同体圏が拡大するにつれて、連綿と変わらぬものを内包しながら普遍的なものとして変遷し続けていった。これらのことは、既に弥生時代には始まっていた。
著者が捉えている弥生社会は、国家権力へと繋がっていくような権力の萌芽はあっても、それが住居や墳墓のあり方にまでは及ばないような同等性を持った自給的社会、とでも言えるだろう。それを著者風の考古学的言い方で言うと、「共同体のリーダーが最終段階で一部において首長になった社会」、「環濠集落が発生して拡大・集合し、城塞集落となり、最終段階で環濠集落自体が崩壊して一部において首長の居館と農民などの村落に分離してきた社会」、「地方権力すなわち「国」が争い、決着がつかず、卑弥呼を共立して邪馬台国が出現するまでの社会」などとなる。

第二章 卑弥呼とその時代
弥生時代の後期[2]には、北部九州、吉備、出雲、畿内、東海、関東、に独立した政治権力が存在していたことが考古学的な根拠によりはっきりしている。
「魏志倭人伝」には、邪馬台国についてその地理的位置の記述を含めてかなりの記述がある。それによれば、邪馬台国出現のいきさつは、独立した地方権力が争いを始めて収拾がつかなくなり、二世紀末頃に共同で「卑弥呼」を擁立して戦いを収め「邪馬台国」が出現したもので、その国情については、「卑弥呼」はシャーマン的能力を持つが、卑弥呼の力を借りながら現実の政治権力を行使する男弟がいたこと、卑弥呼は魏王朝と交流し、大使の他に流通を司る役人(西村敬三氏、吉田孝氏)を派遣[3]したこと、卑弥呼が住んで政務を執る宮殿と、望楼があり、そのまわりには防衛のための柵列が巡らされ、兵士が終日護衛していたこと、階層関係があり、法による裁きと刑の執行があり、非自由民が存在し、租税制度、市場や流通管理機関、地方監督官、が存在し、伊都国や奴国などの諸国には「(大)官と副官」という二人の統率者がいた、等々のことになる。地理的記述は謎に満ちており、その通りに辿ると海の中になってしまう。
著者は、首長の墳墓やその出土物の研究、特に前方後円墳が出現するまでの墳墓の変遷や鏡(漢鏡、三角縁神獣鏡)の編年などについての諸研究から、中央集権国家の出現自体を確信し、その成立時期は魏志倭人伝が伝える邪馬台国の成立時期に近く、その場所は畿内であると推定している。魏志倭人伝の記述の考古学的検証がいくつかなされている。宮殿、望楼、柵列は、首長の居館であって、巨大環濠集落ではない。従って残念ながら九州の吉野ヶ里遺跡は落選する。地理的記述については、中国の地理観の誤りがあったと推定される根拠[4]を示してこれを補正すると邪馬台国は海の中ではなく大和(畿内)にあることになる。従って、卑弥呼の居館は奈良県桜井市の纒向遺跡で、墳墓は箸墓古墳である可能性が非常に高いと考えている。この説は学会でも有力な説であるが、箸墓古墳の発掘が許可されない[5]ので解明が進まないこともあって未だ仮説の域を出ていない。
邪馬台国は、西日本全体を統一した後、東海から関東にかけても統治の範囲を広げ、当時の地方権力に比べて突出した権力を持った統治体制を築いた。この統治体制は、地方権力の実力と、前方後円墳という墳墓形式を継承することが正統な権力の継承であるという、いわば共通のイデオロギーに支えられたもので、著者は「前方後円墳体制」と呼んでいる。前方後円墳体制は、中央集権の権力を強化することが必要になってきた古墳時代中頃、四世紀末まで続く。

第三章 巨大古墳[6]の時代へ
四世紀に入ると、東アジアにおける国家統治の不安定化が倭国[7]をより強力な中央集権国家へと変化させはじめた。前方後円墳体制という権力継承イデオロギー的なものの代わって、朝鮮半島の鉄資源などの経済面に支えられた実力や、百済を通して伝えられてくる東晋や宋の官僚制度などの知識がものをいうようになってくる。それに伴い、畿内の前方後円墳勢力が次第に他の勢力を凌駕して中央集権体制を整えていくが、前方後円墳自体の築造は五世紀を最盛期として消滅していく[8]。
四世紀初めに、中国大陸では漢族の西晋が胡族に追われて南へ逃れ東晋を立て、華北は五世紀中頃までの五胡十六国時代を迎える。華北の統治が弱体化したことで、四世紀初めに高麗は朝鮮半島の漢族の支配地域であった帯方郡を滅ぼすが、それを脅威と受け止めた百済は倭との関係強化[9],[10]を図るとともに五世紀初めに東晋から百済王の称号を授かるなどの対抗策を講じた。
このような情勢は倭にも強い影響を及ぼした。五世紀に入ると、倭の五王[11]は中国各王朝に使者を派遣し、朝鮮半島南部における覇権を認めるよう働きかけ、最後の倭王武(雄略大王)は宋より、宋の庇護下にあった百済を除いた分についての覇権を認められた。倭の五王の外交活動や軍事行動の目的は、朝鮮半島の覇権を獲得することによって鉄資源の獲得、先進文物の確保をするっことにあった。倭の五王は、卑弥呼以来継承されてきた前方後円墳勢力であることは確かであろう。
三世紀前半に古墳時代に入ってから五世紀後半までは、中央権力の移動と、それと連動した地方の有力首長の交代もしばしば起こったが、全国的規模での権力構造の変動が四世紀後半から六世紀前半にかけて三回起こった。一回目は四世紀末~五世紀前半で、これにより大和東南部を根拠地とした中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が弱体化し、河内に拠点を持つ中枢政権とこれを支える地方の有力首長の同盟が主導権を持つようになった。二回目は五世紀後半で、全国で多くの系譜で盟主墳が断絶すると同時に全く新たな盟主墳が出現する。この出来事は、伝統的政治体制を支える有力首長同士のネットワークを破壊し、中央に権力を集中する革新的体制を敷いた雄略大王の出現と関係があると推定される。三回目は六世紀前半で、この変動の特徴は、前回の変動で断絶した多くの系譜が復活するとともに、渡来系集団が政治的力を持ったことにある。この出来事は、淀川系系譜に属する継体大王の出現と関係があると考えられている。大阪三島(現在の高槻市)の今城塚古墳は、継体大王陵 と考えられている。「記紀」に見える継体大王擁立運動は、伝統勢力の巻き返しによる反動の嵐と言える。

第四章 権力の高まりと古墳の終焉
古墳時代を通して倭国の統治権力は強化され、それを支える要因も変質してきた。成熟した古代国家の統治には、官僚、軍、税、賦役、流通、共通規範、権力秩序の維持や階層化などの存在が必要とされるであろう。古墳時代には、中央政権、首長、一般農民等の各層ごとに、これらの萌芽が考古学的な遺跡群の調査から確認できる。著者は、古墳時代を欧米の研究者が名付けた「初期国家」に位置づけられると主張している。
古墳時代に入ると環濠集落が消滅し、高床式住居が築かれた首長の居館は独立し、一般住民との隔絶性を強めていく。一方、残された一般農民もまた、小規模ながら柵列や濠で囲まれた屋敷地を築き始める。日本列島の九州から関東に至るまでの集落一般の有り様から、大王、有力首長、首長、有力農民、一般農民、隷属民といった階層分化が生じていたことが推定される。
六世紀に入るまでに墓の階層化も進み、大王は500メートルくらい、首長は100メートルくらいの前方後円墳をつくるようになっていた。一方、農民達は個別の小さな盛り土の墓と厖大な数の土壙墓に葬られていた。土壙墓は、一カ所で600から700体も埋蔵されたものもある。
租税と賦役労働が始まったであろうことは、倉庫の規模、数、あり方、巨大古墳の造営や水利土木工事等に投入された労働力の推計から窺い知ることが出来る。五世紀後半の大阪府法円坂遺跡にある大型高床式倉庫群の年間貯蔵能力は、お米に換算して必要な水田面積が今の大阪府の20~30%くらいとなる(文中データの小生換算)。古墳の築造や灌漑用水路の造成等にも多くの農民の賦役が必要なはずである。例えば河内の古墳築造だけでものべ1500万人が動員されたと推定されている(石川昇氏)。古墳時代は租税や賦役労働を課された人々と、それらを課す首長が存在する階級社会であった。
五世紀には全国の流通網も整備されていた。この頃に前方後円墳の分布が最大となり、北は岩手県角塚古墳(胆沢城近く)、南は鹿児島県の唐仁古墳群と塚城古墳群まで広がっていたが、この範囲には、大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が運ばれていた。このことは覇権の拡大が流通網の整備を伴ったものであったことを物語っている。
階層社会全体を維持管理する専門集団の存在は、「記紀」の研究から解明され始めているが、古墳から出土した刀の銘からも解明され始めている。例えば、1978年9月に公表された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣がそうである。そこに刻された銘文115文字の銘文から、五世紀後半のワカタケル大王(=雄略天皇)の時代には、身辺警護を務める軍事組織(その首人は「一杖刀」)が、その首人の八代前から存在していたことが推定された。また、この銘文によって、「記紀」に記された「人制」という官僚制の起源が六世から少なくとも五世紀後半にまで遡った。
五世紀後半の雄略大王は、急進的な中央権力の成長を目指した行動をとったと推定される。強大な地方権力であった吉備氏の反乱と没落はこのような背景から起こったものと思われ、「記紀」の記述とも整合性がある。六世紀前半、継体大王の時代に起きた磐井の乱[12]は、この時代における全国的な古墳の系譜の変化と併せて考察すると、雄略大王の強力な中央集権政策に対する抵抗運動であったことを窺わせる。
雄略大王と継体大王とでは、その支持勢力が違っていた 。また、文献史家の研究によれば、雄略大王と継体大王は家系が異なると考えている[13]。しかし、倭政権における中央権力の移動があったにもかかわらず、ともに中央政権を目指していくことが可能であったのは、東アジアと対等に渡り合って行く必要性のためであったと推定される。
六世紀以降の墓の形態から、人々の意識の変化が読み取れる。横穴式石室を持った円墳が集まった群集墳が一般化する。これは、渡来集団の文化が、この時代になって日本に広く受け入れられたことを意味している。横穴式墳墓の構造は、広い石室を造って(一族を順繰りに葬ることで)来世の家とし、死者が来世の生活を営む場を重視する思想に基づいたものであり、中国の漢代に生まれ発達したものであった。群集墓は政治的意味を帯びたものでもあった。それは、有力氏族の権力を誇示する新しい手段であったと考えられる。これらの墓の形態、規模、埋葬物、人骨、等々の科学的研究から、家族、同族、氏族のあり方の一端を知ることが出来る。例えば、従来、古墳時代は父系制の社会と考えられてきたが、意外と女性の地位が高かったと推定されている。
六世紀に入ると、首長は中央政権の設けた地方行政組織の長である国造に任命されるようになる。軍事権や裁判権を備えた国造制は、西日本では六世中頃、東日本ではそれより半世紀ほど遅れて整えられた(篠川賢氏)。畿内では六世紀後半には前方後円墳を営む首長は急激に減少し、その後突然造営されなくなり、代わりに大型の方墳が採用されるようになった。代表例は、女帝推古など蘇我氏を外戚とする大王や蘇我氏(馬子の墓と言われている横穴式の石舞台も)。それと並行して仏教祭式が取り入れられてくるが、このことは、権力の継承のための前方後円墳祭式に代わって、仏教祭式が取り入れられてきたのだと解釈することが出来る[14]。


第五章 律令国家の完成へ
初めての律令制が敷かれたのは七世紀の飛鳥京で完成は八世紀初頭と言われている。それは統治範囲(南は薩摩国から北は陸奥国まで)、身分制度 、官僚制度 、国家による土地の占有 、軍制制度等々において、(形の上では)この時点において古代国家として成熟したものと言えるからである。しかし、唐の律令制が取り入れられた背景には、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した後の危機感から急造したという事情があり、それを日本の実情に合わせながら、飛鳥京から藤原京、平城京へと遷都する過程で何度も修正しつつ作り上げられてきたものである。したがって、その完成は八世紀末の平安時代であるであるという説もある[15]。著者は、唐の律令制(に象徴される様々な統治の仕組みや条件)を日本の事情に合わせて作り上げていくプロセスを様々な遺跡のデータから説明している。
672年~693年まで政治の中心であった飛鳥京は、既に著者の定義する都市であった[16]。つまり、統治と権力の完成度を測る重要な条件は満たされていた。その後694年に隣接地に移った藤原京は近年の発掘で後の平城京に匹敵する規模であったらしいことが分かってきたが、ここで律令制の内容が更に改良されていった。
首都に相当する都市以外で都市に相当するものがあったのかどうかはよく分かっていない。古墳時代の首長居館(及び周辺の農村)は、いまのところ都市的環境は整っていないと著者は考えている。農村以外の須恵器や鉄などの生産の地や市などの交易の地で都市と言えるものはなかった。しかし、しかし、中国の『史記』や『漢書』の記述に見られ「陵邑」[17]や、古代エジプトのピラミッドタウンのように、日本列島においても巨大古墳造営に関わる人々の都市があっても不思議ではない。現に古市古墳群や百舌鳥古墳群では「造墓工房」として把握されている。

第六章 日本列島に国家はいつ成立したか
日本の古代史学会では、710年の平城遷都をもっと国家成立とする見解が支配的であり、著者も特に異存はない。しかし国家は突然出現するものではないので、著者の論点はその成立時期ではなく、開始時期、つまりヨーロッパ・北米の人類学者が成熟した国家に先立つ段階を原初国家とか初期国家とかの名前をつけて捉えようとしているようなその開始時期である。著者は、日本列島においては古墳時代が初期国家に相当するという説を提唱しているから、その開始時期は三世紀初めとなる。これについては、内外に異説があって、その紹介と反論がなされている。また、初期国家と成熟国家の最も大きな違いを土地の所有にあると考えており、日本においてのそれは、律令国家の「公地公民」制となる。
著者は、エンゲルス[18]、ウエーバーから文化人類学者等の考え、また、国家形成の契機についての、エンゲルス、K.ウイットフォーゲル、江上波夫、R.カーネイロ、G.チャイルド等の考えを紹介し、文化人類学者のH.クラッセンらの考えに賛同している。それは、首長制の次の段階である初期国家は、以下に定義される社会段階を持つというものである。
①     階層社会を基礎として
②     階層社会を生むほどの多くの人口を擁し
③     恒常的余剰を持ち
④     血縁ではなく地縁原理が支配的で
⑤     社会の分裂を回避しうる強制力のある政府を持ち
⑥     中央政府があり、支配の正当性を支える共同イデオロギーをもつ
著者は、日本列島に古代国家が成立した時期を特定する作業を通して、民族形成と国家の関係、日本国家の性格について考察している。キーワードは「われわれ仲間」という帰属意識で、これが初期国家における中央権力の拡大と共に出来上がってきた、つまり必要物資と威信財の流通、言語や民衆レベルの生活様式などの文化的な共通性が出来てくるに従って形成されてきたと言う[19]。
遺伝形質や古人骨DNA解析による研究、言語学による研究によれば、日本人とはDNAも言語も、その身体と頭脳の中に混じり合いながら、西日本から周辺に広がっていった人々である。だたし、北海道と南島ではその影響は殆どなく、各々縄文的形質を残しながら進化して現在のアイヌ人や琉球人になった。これらの認識は考古学的な知見と矛盾がない。
最後に、著者は日本の墳丘墓と古代都市形成の研究から、日本国家の特徴として興味ある意見を述べている。要約するとこうなる。「世界各地の墳丘墓のあり方を比較すると、日本の古墳時代のような、異なる墳丘形式の共存は極めて特異な現象であるから、初期国家成立時におけるこの現象は、現在の日本の国民性にまで深い影響を与えているのかもしれない。日本の初期国家では、都市が全面的には発達せず、首長や王の宮に住民を囲い込まなかったことも、ヨーロッパや中国とは異なっている。日本の古墳時代のユニークな社会体制が生まれた要因については、考古学の今後の課題になるだろう。」[20]。

最後に、本書の時代区分とその内容を表にまとめてみましたので、添付しておきます。



(表) 都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』の時代区分

弥生
時代
1200年
早期
200年
BC 1000年
~BC 800年
水耕農耕が始まった時代。採取も主な経済活動として継続していた。
縄文時代晩期より、朝鮮半島から日本列島に、人々の体格を変えるほど大量に渡来した人々が、水耕農耕や生活習慣を伝えた。
前期
400年
BC 800年
~BC 400年
米の栽培が定着し、環濠集落が出現した。環濠集落は、その環濠の構造から集落の平和を脅かす人間への防衛施設と考えられる。大きさは50メートル程で人口は50人くらいのイメージ。
武器で損傷した人骨の出土例も弥生時代になると北九州から始まって爆発的に増加する。弥生時代前期までの争いは、地理的条件で区切られた範囲の中に限られており、リーダーは環濠集落内に住み、まだ階級社会ではなかった。
中期
350年
BC 400年
~BC 50年
争いが激しさを増し、政治的まとまりが始まると共にその規模が拡大して小さな「国」が出現してくる時代。「国」と「国」同士で、耕作地や水を巡って、また中国の王との交易権を巡って争いが起こり、複数の「国」が政治的なブロック(北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲、畿内、東海、関東)を形成していった。しかし、争いの範囲はまだ政治的ブロック内に留まっている。
「国」は、中期中頃に出現するセンター集落を核にした、環濠集落がグループ化した集団と考えられる。「魏志倭人伝」に言う「国邑」、あるいは「漢書」に記載されている「分かれて百余国」の「国」に当たるものだろう。例えば「奴国」(北部九州東側)、「伊都国」(北部九州の西側)、「狗奴国」(東海地方との説がある)などが挙げられる。巨大環濠集落は、祭祀兼政治の機能、農耕以外の生産や物流センター機能も備えていたが、生活必需品を遠隔地に依存する「都市」(城塞都市)とは言えず、著者はこれを「城塞集落」と名付けている。中期末にはリーダー一族の墓が共同墓地から離れ、独立して築かれ始め、巨大環濠集落の大部分は弥生時代中期末には急速に衰退していく。
後期
250年
BC 50年
~AD 180年
弥生時代中期に形成され始めた政治的ブロックがその範囲を拡張していくとともにブロック同士の衝突が始まる。
西日本においては全体を巻き込んだ動乱が続くが収拾がつかず、地方権力の首長たちが争いを治めるべく卑弥呼を共立し、邪馬台国が出現する(2世紀後半)。
邪馬台国の場所は畿内の可能性が高いが、確定はされていない。
巨大環濠集落が解体し、リーダー一族は濠や柵列で囲まれた居館へ移り始め、墳墓も共同墓地を離れて築かれ、権力構造に基づいた首長が誕生し始め、残された一般農民は分散して村を作るようになる。
終末期
60年
AD 180年
~AD 240年
卑弥呼が王として君臨した時代。卑弥呼が魏に初めて使者を派遣(239年)。前方後円墳、前方後方墳の原形が築造され始める。
リーダーが首長へと変身し、大規模な首長居館に移り住み、一部の墓は丘陵の高みに独立して築かれ始める。
古墳
時代
350年

3世紀前半
~6世紀末
古墳が築かれた時代。世界史的意味での「初期国家」の時代。
東海の狗奴国が邪馬台国と戦い、東国の動乱が起こり邪馬台国優位で修了する(247年)。卑弥呼が没し(248年)、前方後円墳と推定される巨大な墓が築かれる。その後権力者は引き続いて古墳を築くようになり、前方後円墳をはじめとして複数の形式の古墳が併存する状況は四世紀末まで続く(前方後円墳体制)。
纒向遺跡にある大型建物の遺跡は卑弥呼の居館かもしれない。卑弥呼の墓は前方後円墳の箸墓古墳である可能性が高いが、発掘調査の許可が取れないので確定されていない。
三世紀前半~四世紀末にかけて中国王朝から受領、あるいは日本列島内で製作された三角縁神獣鏡が、威信財として古墳時代の社会秩序の形成と維持に大きな役割を果たした。三角縁神獣鏡は古墳に沢山埋葬されている。
四世紀初めに中国の統治が不安定になり、東アジア動乱の時代が始まり、四世紀半ば以降日本と朝鮮半島との交流が急速に拡大する。このことは日本の統治権力に大きな影響を与えた。
五世紀には前方後円墳の大きさが最大規模となる(伝応仁陵、伝仁徳陵)。
飛鳥・白鴎
時代

7世紀初め
~8世紀初め
律令制がなじむように整えた時代。
奈良
時代

710年に平城遷都
成熟した日本古代律令制度国家が誕生した。

※AMS分析(加速器質量分析)の発達もあって、ここ数年で弥生時代が500年程遡っている。1984年の『新版 日本史年表』(岩波書店)では弥生時代前期がBC3世紀となっており、この記述からは800年ほど遡っている。







[1] 初期国家とは、国家の制度が試行錯誤されている国家の前段階のことだが、そう名付けて国家と区別しているのには理由があるはず。それは、国家の性格を規定していった要因がここに集約されているからだろう。
[2] BC 50年~AD 180年
[3] 初めての派遣は魏志倭人伝によると238年だが239年が本当らしい
[4] この資料は、15世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図」という地図。これに記載されている日本列島の位置関係は、90度ほど右回転しているとともにかなり南によっている
[5] 天皇陵などは法規に従って宮内庁か管理しており発掘は許可されていない
[6] 全国にある古墳の数は161,560基(平成13年3月末 文化庁調べ)、wikipedia。
[7] 古墳時代の倭国は邪馬台国の続きなのであろうが、どちらの名前も中国王朝が文字に残して付けたものなので、呼び方に拘る必要はない。「日本国」と呼べるようになるのは「国家」として内外が認めた後のことになる
[8] 巨大な前方後円墳として、河内の誉田御廟山古墳(伝応仁陵)、和泉の大仙陵古墳(伝仁徳陵)が著名である
[9] 奈良県石上神宮伝の七支刀の銘文が近年解読され、372年に百済の王から倭王に贈られたものと判明した
[10] 高句麗の「広開土王碑」には、391年倭を高句麗の国境で撃退すると記載
[11] 中国の歴史書に記されている名前では、讃、珍、済、興、武。日本書紀記載の、履中、反正、允恭、安康、雄略、に当たると考えられている
[12] 磐井の乱とは、『日本書紀』によれば527~529年にかけて、筑紫国造磐井が、朝鮮半島に出兵しようとした中央軍を阻止したが鎮圧された事件
[13] 「記紀」によれば、継体大王は北陸から京都南部に移動し、大和に移って大王についたとあるので、河内で続いた雄略の系譜を継いでいないと推定される
[14] 小生注:墳墓形式の変化の仕方、538年とも言われている仏教伝来時期、渡来系の人々との関係、前方後円墳という古い体制、と続けば、蘇我氏が自然に浮かぶ
[15] 小生注:日本列島の人々にとって、新しい国の形が身についたものとなるには、その国造りを自らの経験として積み重ねる必要があったはずである。この視点は、近代の日本にとっても当てはまるだろう。そもそも国家が成立する基盤は、その時代を生きる人々の心性に現れ出る現象の共通了解なのだから、完成かどうかが問題なのではない。
[16] この地で、689年に律令のうち令だけの「飛鳥浄御原令」が発布された
[17] 造営に数十年かかり、数十万の人々が暮らす場所=都市
[18] エンゲルスはL.モルガン の『古代社会』を基礎に、『家族・私有財産・国家の起源』を書いた。ここでL.モルガンについての小生注:1818年生まれのアメリカの人類学者で、同時代のマルクスやエンゲルスの大きな影響を与えた。レヴィ・ストロースも『親族の基本構造』の冒頭において、E.B.タイラーの文章を引いて、100年近く前に逝ったモルガンを偲んでいる
[19] この思考には因果律の罠がある。ここはヘーゲル風の弁証法にお出まし願うほかはない
[20] 歴史的に多様な社会が存在したことの一例で特にユニークではないだろう。ここから人間社会の新たな本質が読み取れるわけではないが、忘れていたことを身近に思い出させくれる効果は大きいと思う



2016年11月22日火曜日

『自我の起源』(真木悠介 岩波)【感想】

2007年9月に書いた感想文の改訂版です。
夢香
 著者は巻末の補論1で「この仕事は、次のような全体構想を持つ〈自我の比較社会学〉の、第Ⅰ部の骨組みである」とのべています。ⅡからⅤ部は夫々原始共同体、文明諸社会、近代社会、現代社会、に対応するとのことだそうです。何と雄大な計画!
 第Ⅰ部に含まれている本書は、人間の自我の起源を、地球上に生命体が誕生するところまで遡って考察していますが、それは自己を意識している人間という存在自体が、重層的に構成されてきた生物体であるという認識に基づいていると、著者が考えたからだと思います。
 生物体としての人間が知識として理解されたとしても、それだけで人間の自我の起源が解明されるわけではないことは言うまでもありませんが、その知識は人間の自我というものに対する思考を深める力を持つものだと読み取れました。
 本書は、自我をもつ人間存在に対する理解を深めるために、また、生物科学などの科学的知識を短絡的に人間や社会に適用することの危うさを知るためにも、とても役立つと思います。
 追記、真木悠介は見田宗介先生の別名です

2016年11月13日日曜日

『憲法とは何か』(長谷部泰男著、岩波新書)

土地勘のないところで迷わないようにするには苦労する。新書でも結構理解するのが難しかったので、よく分からないところは自分で適当に解釈して分かったように書いてみた。それでも書いている内に長くなってしまい、残念。

「 」内は文章の引用、( )内は私の注解など

はしがき
憲法には、権力を制限することで人々の自由と権利を守る役割という側面と、人々の生活や生命を危険にさらす危険性という側面もある。
本書は、憲法が立憲主義に基づくものであるという立場を取っている(立憲主義については後述)。冷戦の終結は立憲主義の勝利をもたらした筈であったが、このことの意味は十分認識されておらず、平和、安全、環境など国境を越える様々な危機が問題となっている。

第一章 立憲主義の成立
1 ドン・キホーテとハムレット
多元的な世界
近代小説の嚆矢といわれる『ドン・キホーテ』(1605年出版)は多元的世界の出現を象徴している。中世騎士の世界に没入したドン・キホーテの冒険は、至る所で複雑に入り組む現実の網の目に囚われて挫折する。著者は、現代を代表する小説家ミラン・クンデラの言葉を引用して、近代という神なき世界の始まりを表現している。「彼(ドン・キホーテ)にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」不在の中で,世界は突然恐るべき両義性の中に姿を現しました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され,人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。」
ハムレットの「良心」
著者は、シェークスピアの悲劇『ハムレット』(1600-1602年頃)もまた、近代世界に生きる人々の苦境の表現として例示している。悩むハムレットは、宗教が分裂し価値観が多様化した世界で新たに現れつつあった個人の良心を象徴している、と。

2 立憲主義の成立
比較不能な価値の対立
「ドン・キホーテやハムレットは、自ら望んで、価値観の多元化した世界を生きたわけではない。それは如何ともし難い、与えられた事実である。できることなら、彼らも、何が真実で、何が正義かについて思い悩む必要のない、たとえば『遠山の金さん』や『水戸黄門』の描くような世界を生きることを望んだはずだ。」
異なる価値観・世界観は互い比較不能である。比較不能な価値の対立は、その価値が大切なものであればあるほど深刻となる。宗教はその典型であるが、21世紀の今においてもなお比較不能な価値の対立は世界各地で災いをもたらしている。
公私の区分
「人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代ヨーロッパに生まれた。」
立憲主義に基づいた社会の実現には、私的な領域と公的な領域を区分して、私的領域では各位が信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由を保障し、公的な領域では社会の全てのメンバーに共通する利益を見つけ出してそれを守ることが必要となる。
政治プロセスの適正化
政治のプロセスが誤った選択をしないような社会の仕組みが必要である。そのことを狙いとして、立憲主義に基づいた憲法はある。
「公的領域と私的領域の切り分けは、個人の自由を保障するためだけではなく、政治のプロセスがその役割を適正に果たしていくためにもなくてはならないものである。」
政治のプロセスがその役割を適正に果たすことを狙いとする仕組みは、他にもある。たとえば、マスメディアの報道の自由、軍備の制限などがそれである。前者には、開放された自由な政策論争を可能にするという狙いがあり、後者には、政治のプロセスが軍事問題について誤った選択をしないように選択肢の幅を予め制限するという狙いがある。

3 日本の伝統と公私の区分
日本社会の公と私
「人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。みんなが同じ価値を奉じ,同じ世界観を抱く「分かりやすい」世の中であれば、どんなにいいだろうと思いがちなものである。そうした世の中では,一人一人が生き方を思い悩む必要もなく、「正義」や「真実」を巡って深刻な選択に直面することもなく,後でその選択について責任を追及されることもない。」
丸山真男が言うように、戦前の日本型ファシズムの精神は、公的領域と私的領域が区別されていないものであった。しかもその精神を他国・民族に押し及ばそうとした。そこには、自由に選択して決断する領域はなく、自らの行動に責任を取る用意もない。
(同じようなことが現在も生じている)他国に人権侵害があるとみなせば自国の軍隊を派遣して「人道的に介入する」ことなどがそれである。国家主権の理念が人権侵害を隠蔽する危険があったとしても、主権平等・内政不干渉原則[1]を放棄することは、より戦争の多い、したがってより人権侵害の多い世界をもたらすものである。

4 本性への回帰願望?
「分かりやすい世界」へ?
「この(多元的な価値を承認し合わねばならない)近代世界に生きることに嫌気がさして,憲法を変えるとなんとかなるのではないか<中略>、人々が一つの価値観・世界観に基づいて生きる「分かりやすい」世界が実現できるのではないか、との夢を描く人がいても、それが現実的な企てかどうかは別として,これまたさして不思議ではない。<中略>日本の「歴史、伝統、文化」とか、日本人としてのDNAとか言い出す人が出てくるのは、そういう意味[2]では自然なことである。」(しかし、このような気持ちを憲法に盛り込もうとすることは立憲主義に反することであって、したがって人々を却って不幸にするものである)

5 憲法改正論議を考える
(以下、主に自民党の日本国憲法改正草案が検討の対象となっている)
立憲主義に基づいた憲法の役割は、政治のプロセスが入りこむ領域を制限したり、政治のプロセスの働き自体を損なわぬように、政治が行う選択の幅を制限することであるが、昨今の憲法改正論議にはこの理解が欠けている。
特定の価値の導入?
(私的領域に属する価値観を憲法の文言に記載することは、その価値観を認めることができない人々を排除・強制・敵視することになり危険である。)
「他人の心持ちをどうこうしようと思って、何とかなるというものではないし、憲法に書けば書けば、何とかなるというものでも、もちろんない。」
新しい人権・責務
誰もが反対しないような正しそうな善いことであっても、立憲主義に基づいた憲法に書いても意味をなさないどころか、不明瞭さを持ち込むことになるから危険となる。
プライバシーの権利や環境権は、国会の制定法や裁判所の判例を通じて具体化されなければ実効性がないから意味をなさない。
「国を守る責務」についても、同様な理由で憲法の文言に書き込んでも意味をなさない。それどころか、法律的論議とは別に政治哲学や道徳哲学の点から見て、守るべき「国」とは何であるか、その国を守る「責務」とは何であるかという問題が発生する(後述)。
九条改正論
「従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば,何の意味もない「改正」である。」(自衛のための実力の保持は現行の憲法を改正する必要なくできる)
(軍事力、軍事行動についての)従来の政府解釈で設けられているさまざまな制約を変更するなら、変更した後の軍事力、軍事行動の制約がどのようなものになるのかを明示しなければならない。例えば集団的自衛権の否定という制約を変更するならば、どこの国とどんな軍事行動について連携するのかについての定見がなければならない。例えば、アメリカが台湾を実力で防衛するとき、日本はアメリカと組んで中国と戦争するのかしないのか、など。軍事力の制限が曖昧な部分は政治を信頼してくれというのであれば、憲法は不用である。
財政均衡条項を書き込むという提案についても同じことが言える
なぜ厳格か
省略

6 「国を守る責務」について
守るべき国とは何か
自民党の「新憲法草案」に含まれている「帰属する国や社会を<中略>自ら支え守る義務」というような記述それ自体には法的な意味はない。しかしここには大きな問題が潜んでいる。国民に対して守るよう要求できる「国」とは何であろうか。
憲法が要求する「守るべき国」は、国土とも、人々の暮らしとも厳密には一致しない。刑法の内乱罪は憲法の定める統治秩序の壊乱だし、公務員に要求されているのも憲法への忠誠である。
「古代ギリシャ以来、「政治犯罪」とは、現行の憲法に対する犯罪であって、憲法によって構成される以前の裸の国土や人々の暮らしに対する犯罪ではない。」
憲法秩序と国土・暮らし
悲惨な犠牲を課す戦争をしてでも守るよう憲法が要求しうるのは,あくまで自分自身(主権者である国民)の基本原理(合意に基づいた作られた国家のあるべき姿)である。
日本人が太平洋戦争を通して守ろうとしたものは戦前の憲法の基本秩序(国体)である。「国体」の内容は天皇主権と資本主義経済秩序であった。戦後の新憲法は、国土と暮らしを守るために、それまでの「国体」を変更して作られた。
冷戦下で争われたものも、共産主義かリベラル・デモクラシーかという憲法の基本原理である。国土と人々の暮らしを守るには、憲法を書き換えるべきことに東側諸国が気付いたとき,冷戦は終わった。
テロの時代と平和主義
前項で述べた理由から、憲法第九条を変更ことは、「国を守る」ことになるのかどうか疑わしく、現行憲法の基本原理の一つである平和主義を掘り崩しかねない危険を孕んでいる。
国際的なテロの脅威に対処するためには、平和主義を犠牲にしてでも、権威主義的な国家を打倒してリベラル・デモクラシーを輸出する英米とともに戦うべきだという議論は的を射ていないように思われる。9・11テロの首謀者モハメド・アタが過激思想を身につけたのは権威主義的な国家においてではなくドイツでの大学生活においてであった。2005年7月のロンドン連続爆破テロの犯人も、イギリス国内の移民社会の出身であった。
問題所在は、伝統的なイスラム社会を基盤とする権威主義的な国家にあるのではなくて、そこで進む近代化・西欧化と国際化、さらには、リベラル・デモクラシーの理念と現実が乖離した現代の欧米社会にある。問題なのは、既に社会を束ねる力を失ってきているイスラム教という伝統的な紐帯を超えた「普遍的なイスラム原理主義」なるものが若者の心を捉え始めたことである[3]。
「日本がリベラル・デモクラシーの擁護に貢献できるとすれば、平和主義のもとで培われた日本への信頼を裏切って戦争による民主主義の輸出に加担することでも、市場万能主義の名の下に弱者切り捨ての経済政策を追求することでもなく、むしろ、現実のヨーロッパ社会のあり方を超えて,多様な価値観や文化を抱擁する公平で寛容な社会のモデルを創造することによってではなかろうか。」

第二章 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利
立憲主義を、そしてそれに基づくリベラル・デモクラシーを採らないという選択もあるが、その選択の意味を、冷戦終結の意味を探ることで考えていくのが本章のテーマである。

1 国家の構成原理としての憲法
憲法を巡る争い
冷戦は、1980年代の終わりに終結した。「冷戦とは、他の多くの戦争がそうであったように、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする二つの陣営の敵対状況であり、それは、一方の陣営(東側)が自らの憲法を変更することで終結した。第二次大戦がドイツと日本の憲法の変更によって終結したのと同様である。」
ここで言う憲法とは、憲法典の内容全てではなく、国家の基本となる構成原理を指す。もう少し詳しく言えば、憲法制定権力の担い手によって決められたものであり、その改正の限界を構成するものであり、国の危急存亡の際に政府が発動する権力(国家緊急権)による保障の対象となるもの[4]である。
憲法典[5]改正の議論には、国家の基本となる構成原理を指すという意味での憲法と言う視点が大切である。

2 ルソーの戦争状態論
ルソーのホッブズ批判
ルソーは、社会平和の実現についてのホッブズの考え[6]は誤りであると述べている。なぜなら、ホッブズは自然状態に代わって国家が作られれば社会が平和となると言っているが、国家間で現に起こっている戦争は、平和どころか自然状態では想像もつかなかったほど大規模な殺戮をしているからだ、とルソーは言う。
ルソーの見立ては次のようなものである。戦争の一因は周辺で起こるあらゆる事態が自国の平和と安全に関わるものとして懸念の材料となるからであり、そうなるのは、自然によって限界を与えられている人間の欲望とは違って、社会契約に基づく人為的構成物である国家の欲望には限りがないからである。
戦争の即自解決の道
「戦争は国家間でしか発生しない。しかし、だからこそ、それは生身の個人の命を全く奪うことなく、終結させることができるというのが、ルソーの結論である。」
国家は社会契約に基づく人為的構成物だから、この約束事を取り去れば戦争は終結する、と言うルソーの結論は空論ではない。そのことは現代の冷戦終結が示している。東欧諸国は共産主義に基づく憲法を廃止して議会制民主主義を採用することを明らかにした。
「全人類を滅亡させるに足る大量破壊兵器をもって,しかも敵対する陣営の消滅を目標として二つの陣営が対峙するとき,終末論的帰結に至ることなく対立を終結させる手段としては、ルソーの描いたもののみが考えられる。」

3 三種の国民国家
国家像の変貌
冷戦は第一次世界大戦から始まった長期の大戦争の一環であり[7]、この大戦争をもたらしたのは十九世紀後半の軍事技術の革新と、その軍事技術の革新がもたらした国家像の変貌である。
十九世紀中頃には銃火器の精度が向上し、それまで威力を発揮していたナポレオンの戦法[8]が通じなくなり、ビスマルクの戦略[9]が軍事的成功を収めるようになった。このビスマルクの戦略は、徴兵制によって大量の国民を長期に動員することを要請した。このことは国民の政治参加と民主化を推し進める必要性を生じさせ、福祉国家政策を導くことになる。
「大衆の戦争参加への強制が、全国民の安全の保障と福祉の平等な向上、そして文化的一体感の確保を国家目標とする国民国家を登場させたわけである。」
三者の闘い
その後の国民国家間における国際政治史は、このような国家目標の達成を争う、国家権力の正統性に関する争いとして理解することができる。正統性に関わり敵対したイデオロギーは主に三つあった。リベラルな議会制民主主義、ファシズム、共産主義、がそれである。この三者が第一次世界大戦後の各国の政治の基本的な枠組み、つまり憲法を決定するモデルとなった(『現代議会主義の精神史的地位』(カール・シュミット、1923年))。

4 シュミットと議会制民主主義
シュミットの議会制批判
しかし、カール・シュミットはこのうちのリベラルな議会制は既に過去の統治形態であるという。つまり、この統治形態は、教養と財産を備えた階級だけが政治に参加することが前提されているが、大衆が政治に参加し、彼らを組織し多様な私益を代表する政党が競合・対峙する現代の議会では、既にリベラルな議会制の意義は失われ「議会制度は、結局のところ、諸党派と経済的利害関係者の支配のための性悪な外装(Fassade)になって」おり、その結果、国家は社会の種々雑多な要求を全て顧慮せざるを得ない弱々しい国家「全体国家(totaler Staat)」[10]へと堕落している、と言う。
敵対関係と国家間関係
議会制民主主義に対するカール・シュミットの診断は、近代国家に対する彼の考えに由来している。その考えとは、近代国家の内部にはもはや行政しかなく、政治は存在しない、というものである。
つまり、近代国家は私闘も宗教戦争も終結させ、自国内には平和と安全を創出したが、それは社会内部の敵対関係を国家間の敵対関係へと括り出したことであり、「政治的なるもの(das Politetische)」は国家と国家の関係、「敵」と「友」をはっきり区別した関係としてもはや内部にはなく、全国民に共通する利益は立法活動を通じて実現されるはずである、というのである。
シュミットにとっては、リベラリズムの下での国家は「政治的なるもの」を直視できず、内部における利益分配装置へと退化していくものとなる。
治者と被治者の自同性
シュミットの指し示す道は、リベラリズムの下での議会制民主主義ではなくて、「治者と被治者の自同性という意味での民主主義原理を貫徹することである。」
すでに「討議を通じた真の公益への到達」は不可能なのだから、民主主義原理を貫徹するには、選挙で選ばれた代議士による討議を行うのではなくて、公開の場における大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性を目指すべきである、というのである。ここには、大衆には政策の選択は不可能で、できるのは喝采だけであるというシュミットの認識が隠されている。
ファシズムと共産主義
シュミットは治者と被治者の自同性を実現しうる体制としてファシズムと共産主義を挙げている。その体制の前提となる被治者の自同性として、前者は「民族」後者は「階級」が基準とされる。
一方、議会政民主主義は、格差を伴わない国民全体の福祉の向上は困難で、国家の政策は常に勝者と敗者を生むが、この程度が過ぎれば多数派の交代が起こり勝者と敗者も交代する、と考える。ファシズムと共産主義の自同性、国民の均質性は国民国家の当然の特質ではなく、国内における利害の対立、勝者と敗者の存在を否定しようとする特殊なイデオロギーの産物となる。

5 原爆の投下と核の均衡
原爆投下の正当化論理
広島と長崎に対する原爆の投下を正当化する通常の論理は、単純な功利主義である。つまり、全体として見れば、より少ない犠牲で日本の無条件降伏での戦争が終結する、という論理である。政治哲学者のマイケル・ウォルツァーは、この正当化論理に対して、「究極の緊急事態」という考えを原理として批判している。
「究極の緊急事態」
戦時国際法の根本原則に反する行為(例えば戦闘員と非戦闘員の区別なく一般都市を爆撃する)が正当化される「究極の緊急事態(supreme emergency)」がある。そのような場合は「強大な敵のために、政府の枠組みにとどまらず、自分たちの生き方自体が破壊されようとしているとき、通常の道徳律を踏み越えても、それを守る手段を講じなければならない場合」である。
バビッドの批判
フィリップ・バビットはウォルツァーの考えは憲法原理の対立という戦争の様相を正面から捉えていないと批判する。日本をファシズム陣営から議会制民主主義陣営へと組み込まないかぎり、日米対立はいつか再燃する。そのときにはより深刻な事態(日本の核武装で日米ソ三極対立など)をもたらす可能性があるから、アメリカとしては自国の憲法は維持して、対立する憲法原理を有する諸国を占領してでも相手国の憲法を変える必要があった、という[11]。
冷戦の終結
冷戦は、市場原理に基づく資本主義陣営と計画経済に基づく共産主義陣営の対立というように見えるかも知れないが、本質はそのような資源配分法の対立ではなくて体制の正統性をめぐる対立であった。だから、殲滅の可能性を含めた軍事的対立となった。
両陣営は、核兵器による大量報復の可能性を確保しながら長期的には相手陣営が内部矛盾によって崩壊することを期待する戦略を採ったが、ソ連の方が冷戦状態を維持する能力と気力を失い、その憲法を変更することに同意した(1990年11月)。

6 立憲主義と冷戦後の世界
リベラルな議会制の特徴
シュミットは、議会政民主主義における立法過程の偽善性を攻撃する。しかし、リベラルな議会制の特徴は、公開の審議と決定のプロセスが一般公益に対する譲歩を個別の特殊利益に対して迫る点にこそある。「観衆の存在を意識せざるを得ないこうしたプロセスが多様な利害を整序し、長期的に見れば、社会一般の利益にかなう立法をより多く実現することにつながる。」
ファシズムと共産主義は公私の区分を否定する点で共通する。思想、利害、世界観の多元性の否定は、それらと表裏をなす国民(人民)の同質性・均等性の実現を前提としているから、多元的価値の共存に意を用いる必要がない。したがって公私の区分も不用となる。
冷戦終結の意味とは
冷戦の終結は、リベラルな議会政民主主義(立憲主義)が、共産主義陣営に勝利したことを意味する。しかしそれは世界がより安全になったことを直ちには意味しない。
現実には、リベラルな議会政民主主義に基づかない国家(イラン、ミャンマー、中国など)は世界各地に存在する。国家として体をなしていない破綻国家も珍しくない。冷戦の終結後の世界においては、核兵器による大規模な相互報復可能性の下で全国民が動員される状況はなくなりなった。しかし、新たな世界状況は新たな危険を生み出している。大量破壊兵器、情報通信技術の進歩、高度に訓練された大量の兵士が不用になった(戦争が低コストとなる)テロの攻撃の脅威、地球規模での環境破壊、等々。
バビットは、国民総動員の必要性から解放された冷戦後の国家は、全ての国民の福祉の平等な向上を目指す福祉国家であることを止め、国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家(market state)へと変貌すると予測している。そうした国家は、社会活動の規制からも、福祉政策の立場からも撤退をはじめ、個人の広範な機会と選択肢の保障と引き換えに、結果に対する責任をも個人に引き渡すことになる。

7 日本の現況と課題
東アジアの対立構造
ヘンリー・キッシンジャーによれば、ナショナリスティックな情念が渦巻く現在の東アジアは、21世紀初頭の欧米諸国よりははるかに19世紀のヨーロッパに似ている、ということになる。ここで近い将来に正規軍同士の大規模な会戦が発生する可能性が大きいとはいえないかもしれないが、体制の正統性を賭けた冷戦がなお終結していないこの地域では、憲法の相違に基づいた武力行使の可能性は消滅していない。
日本が安全保障条約を締結するアメリカは、もともと他国の憲法が自国の利害と合致しないと考えるならば、武力に行使あるいは脅威を通じて、憲法の変更を迫ることにさしたる躊躇を感じない国家である。9・11以降のアメリカは、独裁体制を打倒し、自由を他国へ押し広げることが、自国における自由の保持に直結するとし、盟友を守るためであれば、武力行使を厭わないと宣言している。
憲法典の変更を言う前に
仮に日本が憲法典を変更しようとするなら、その前に三つの前提作業が必要である。この前提作業について国民の合意を練り上げること自体、憲法典の改正よりはるかに重要である。
前提作業の1番目は、「憲法とは何か」を理解することである。憲法とは国の基本秩序を規定するものであって、ここの部分を理解していないかぎり、他国との平和共存はできないし、同一の憲法原理を採る国同士の間のみでしか長期的に安定した関係はあり得ないから[12]。
前提作業の2番目は、(当然前提作業の1番目を前提とするものであり)冷戦後の世界において日本がいかなる目標を持ち、どのような憲法原理に立つ国家となろうとしているのか、を決定することである。国家の活動範囲は、これを根拠として画定される。近代国家における国家戦略と憲法との密接な関係は重要な論点であるが、軍事的意味での安全確保の必要性は国家権力の正当化根拠の一つに留まる[13]。
三つ目は、日本は「外交・防衛の面で何をし、何をすべきでないか」を改めて確認すること、である。「冷戦下において共産主義の脅威に対処するためにアメリカの核の保護を受けたことは、立憲主義に基づく議会制民主主義国であり続けようとする以上は、合理的な選択であったと言える。しかし、それ以上に、他国の体制の変更を求めて武力を行使することを厭わない特殊な国家[14]との深い絆を求めるべきか否かについては、より慎重な考慮が必要であろう。」

第三章 立憲主義と民主主義
本書では、リベラル・デモクラシーを、立憲主義を基底とする民主主義体制という意味に用いている。そこで立憲主義および民主主義という言葉の使い方について改めて整理する

1 立憲主義とは何か
二つの立憲主義
立憲主義という言葉には、広義と狭義の二通りの意味がある。本書で用いている立憲主義という言葉は、狭義の意味用いられている。
広義の立憲主義の意味は「政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みを一般的に指す。」古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったと言われるような使い方がなされる。
狭義の立憲主義は近代立憲主義とも言われ、その意味は「近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。」私的・社会的領域と公的・政治的領域の区分をして、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつくものである。公と私の領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである[15]。
近代以前と近代以降
近代以前には、人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれであった。だから近代以前の立憲主義は、価値観・世界観の多元性を前提しておらず、公私の区分も必要とされない。
近代国家は、政治権力を主権者に集中するとともに、その対極に平等な個人の析出することで誕生した。主権者は法の定立(と施行)についての排他的な権限をもつから、社会内部の伝統的慣習法に依存する中世立憲主義はもはや国家権力を制約する役割は果たし得ない。近代立憲主義は国家権力を外部から制約する役割を担うものであることがわかる。
立憲的意味の憲法
近代立憲主義に基づく憲法を「立憲的意味の憲法」ということがある。立憲的意味の憲法とは次の三つの条件を備えた憲法を指す。政府を組織してその権限を定める。個人の権利を宣言する。国家権力を分立する。
立憲的意味の憲法は必ずしも成文化されていないが(イギリスのように)、近代立憲主義に基づく国家の多くで成文化され、さらに通常の立法過程で変更できない憲法となっており(硬性憲法)、硬性憲法をもつ国の多くでは、違憲審査制が採用されている(憲法典の最高法規性の確保)。
立憲主義を理解するためには、硬性の憲法典違憲審査制度などの制度的徴表のみに囚われず「多様な価値観の公平な共存」という本質に着目することが重要である。なぜなら、立憲主義と敵対した思想家、たとえばカール・シュミットやカール・マルクス、との対立点はそこにあるからである。
九条解釈と立憲主義
憲法第九条の文言にもかかわらず自衛のための実力の保持を認めるのは、立憲主義を揺るがす危険があるという議論は、立憲主義に基づいて考えれば、手段に過ぎない憲法典の文言を自己目的化する議論であり、特定の価値観(この場合には特定の「善き生き方」)を全国民に押しつけるものである。なぜならば、自衛のための実力を保持することなく国民の生命や財産を守ることができないことはあきらかであるのに、自衛のための実力を保持することを憲法が禁じていると解釈するのは、特定の価値観を強制していると考えざるを得ないからである。
別の言い方をすると、憲法第九条が「原理」ではなく、「準則」であるという解釈は、立憲主義とは相容れない解釈である(憲法第二十一条のケースでも同じようなことを考えることができる)。

2 民主主義とは何か
「多数者の支配」への嫌悪
デモクラシーという言葉は、ギリシャ語の「多数者の支配」という言葉に由来している。多数者は貧困で知識や教養に乏しい大衆を意味し、彼らによる支配は否定的に評価されるのが通例であった。以来19世紀の末に至るまでのヨーロッパではこの評価は基本的に変わらない。20世紀初頭に大衆の政治参加が促進されたのは、近代戦が国民動員を必要としたからであった(前述)。
議会制とシュミットの批判
議会制のあり方についての理念型[16]は、フランス七月王政期に活躍したフランソワ・ギゾーによって描かれている。カール・シュミットは、リベラルな議会制は過去のものと批判した(内容は既に述べてあるから省略)
ケルゼンの議会制擁護
シュミットと同時代のハンス・ケルゼンは、次のような理由によって議会主義を擁護した。真の客観的な公益の存在に対する信念が失われた現代では、多様な利害の調整こそが政治のなし得る最大限であって、議会制はそれを実際に遂行するべきである、と。
ハーバーマスと討議の空間
現代において、なお客観的な公益の実現を目指して真剣な討議を行うことは可能だとする議論もある。ハーバーマスは、確かに議会内部の政治家は、政党に属し、互いに硬直的な議論をするだけだが、実は政敵の肩越しに国民一般に向けて語りかけているので、そのことは公論を喚起し、長期的には国政へと反映される、と考えた。
ハーバーマスのいう公共圏ないし公共空間は、せめぎ合う価値観も言葉を介した行儀のよい討議を通して、そこからおのずと公共性が立ち上がるハッピィな空間である。しかし、筆者は討議が公共の利益について適切な解決を示すには、論題の幅自体が限定されることが必要であるとの立場を取っている。従って、そのような場も限られるが、それ以外の社会生活上の表現活動では公共の利益という内容に制限されない自由が確保される、と考えている。
マディソンと大きな共和制
デモクラシーはアメリカ合衆国で順調な発展を遂げたが、アメリカ建国の父たちがもともとデモクラシーに対して好意的だったというわけではない。ジェイムズ・マディソンは、人民による政治が「派閥の横暴(violence of faction)」という危険にさらされていることを指摘し、これを取り除くのは人間の本性からして望み薄だから、この弊害を抑制するために規模の大きな「共和国」(代表制国家)つくることだとのべている(規模が大きいほど共通利害の調整を迫られるから、より広範な利益が自然と実現されると)。
デモクラシーと異なり、共和国ないし共和制(republic)という概念は、古代ローマ以来プラスのシンボルであった。マディソンが民主政ではなく共和制の観念に訴えたのはそのためだったが、後の世代から見れば彼が設立したのは大規模な民主政治であった。同時代のロベスピエールは、民主的であることはすなわち、共和的であることだとする。デモクラシーは、「公共の事柄」を意味するラテン語由来の共和制と同じ意味を担わされるようになる。
アメリカの民主主義
トクヴィルは1932年にアメリカを訪問した後、彼の国において民主政を成功に導いている要因の分析を行い、君主制下での自由を保障してきた諸条件が崩壊したヨーロッパ諸国は、アメリカ同様の民主制の下で自由を保持し続けるか、あるいは独裁の圧政の下で暮らすかのいずれかに向かうしかないと予想した。この予想は、将来の世界はアメリカとロシアによって二分されるという彼の予測と響き合う。
アメリカで発展したデモクラシーは、第二次世界大戦を通じて、誰もが疑うことのないプラス・シンボルへと変貌した。ファシズムと闘うために各国人民の忠誠心を調達する上で、デモクラシーは、他のシンボル(例えば議会制や代表制)より有効であった。だがファシズムも、シュミットの理解では、治者と被治者の自同性を目指す点ではデモクラシーであり、その点は共産主義もデモクラシーである。
それにもかかわらず、第二次世界大戦は、デモクラシーかその敵かを旗印として戦われた。ファシズム敗北後に現出した冷戦下の両陣営は、いずれも自らの体制こそが真のデモクラシーであることを標榜した。そして冷戦が終わった今、リベラル・デモクラシーだけがデモクラシーの名に値する。異なる価値観の公正な共存を許さず、支配層が人民に政治責任を全く負うとことのない体制をデモクラシーと呼ぶことは、もはや許されない。

3 民主主義になぜ憲法が必要か
プレコミットメントとは
民主主義では主権者は人民だから、憲法によって政治権力を制限する必要性はないのではないか、という考えに対する反論として、プレコミットメント(precommitment)という考え方がある[17]。それは、人や組織は常に理性的に行動するとは限らないから、制約された権力の方が長期的に見れば無制約な権力よりも強力である、という考え方である。権力の分立などもその事例である。

第四章 新しい権力分立?
1 ブルース・アッカーマン教授の来訪
2005年10月7日にイエール大学のブルース・アッカーマン教授が東大で「新しい権力分立」というセミナーが開催された。
1-1 モンテスキューの古典的な権力分立論
権力分立の眼目
18世紀前半のイギリスの政治体制をモデルにした、モンテスキューの権力分立論の骨子は以下のようなものである。国家権力を立法・司法・行政の三つに分類する。第一に、立法権と行政権を同一の人物ないし団体が持たない。第二に、司法権と立法権、司法権と行政権は分離される。第三に、三つの権力が同一の人間ないし団体が独占しない。
モンテスキューの主張は、三つの権力をそれぞれ異なる機関に「独占」させるという主張とは異なる。司法権については、独立機関を置くべきではないとしている。立法権に関しては、行政権の長が立法拒否権をもって立法に参与すべきとしている。
「要するに立法・司法・行政のうち、二つ以上の権力がすべて同一人ないし同一団体のものとなってはいけないというのが、権力分立論の眼目である。」しかし、モンテスキューは権力分立論だけではなく、最高の権力である立法権には社会の中の様々な勢力が関与すべきことも提唱している。「いいかえれば、制定された法律は、すべての社会勢力の利益に適い、その自由を保全する立法であるはずである。」
影響力
当時の政治思潮、レッセ・フェール(自由放任主義)からすれば、モンテスキューの権力分立論が人々の心を引きつけたのは理解できる。フランス革命においてもイギリスの政治体制が参考にされ、アメリカ合衆国憲法にも大きな影響を与えた(現代の二院制や立法拒否権を持つ大統領制)。しかし、時代は変わり、イギリスの統治構造も変貌を遂げ(政党政治と議院内閣制)、社会生活への政府の介入程度の拡大、一般市民の政治参加の拡大、政党の役割の増大など。近代国家においては、モンテスキューの原理は再考を要するだろう。

1-2 「新しい権力分立」
アッカーマン教授の提唱する「新しい権力分立」論の概要は以下のようなものである。
三つの政治体制
冷戦が終結して唯一の超大国となったアメリカは、自国の憲法制度をも他国へ輸出しようと試みている。しかし、ヨーロッパやアジアで新たにリベラル・デモクラシーを打ち立てようとする諸国民は、アメリカの政治制度以外の選択肢があることに留意すべきである。
リベラル・デモクラシーの政治体制は、権力分立のあり方によって、大きく三つに分類することができる。第一は、行政府の長と議会とを別々に有権者が選挙する大統領制である(アメリカが典型)。第二と第三は、いずれも議院内閣制(有権者が議会の議員を選挙し、議会が行政府の長を選任する)だが、第二の方はイギリス型で、議会や行政府の権限に対する制約が、明示的に存在しないのに対し、第三の方は、議会や行政府の権限が憲法上制約されている「制約された議院内閣制」で、ドイツや日本はこの型である。
何が望ましいのか
最悪なのは第一のアメリカ型(大統領制)である。選挙の結果によって、政策遂行不全と全権掌握という両極端に振れるからである。特に新興のリベラル・デモクラシー諸国にとっては推奨できない(ラテン・アメリカ諸国に多くの不都合な例がある)
第二のイギリス型は、新興の民主国家にとっては「選挙された独裁」に直面することになるから適切ではない[18]。イギリスにおいても、ブレア政権において首相官邸に国政上の権限を集中させることへの懸念がしばしば表明されている。
新興のリベラル・デモクラシー諸国にとっては、日本でおなじみの、第三の「制約された議院内閣制」が望ましい(理由は4で再び考察される)。
三権以外の機関の独立
なぜ権力分立が必要なのか、その原理から考えれば、司法・行政・立法以外の機関の独立を確保する十分な理由があることもわかる。例えば、選挙管理委員会の独立性の保障(モンテスキューの念頭にはなかった権力の正統性の保障、としての公正な選挙)、官僚機構の独立性と自立性、中央銀行の独立性など。
アッカーマン教授は、モンテスキューやマディソンの政治理論や憲法理論は当時の知見に基づくものだから、われわれは、現代の政治学の知見に基づいて憲法理論を再構成する必要がある、と主張しているのである。

2 首相公選論について
近年、日本で高まった「首相公選制」の問題点を明らかにする。
議院内閣制との相性
首相公選制は首相のリーダーシップを強化するには役立たず、却って政党が果たす役割を分断して政策遂行機能を不全に陥らせる可能性が高い(事例としては、1992年に導入して2001年に3月に廃止したイスラエル)。
小選挙区制との相性
小選挙区制と首相公選制の組み合わせは、各選挙区で結びついている政策論争と首相の選択とを分断し、公選制で選ばれた首相は地元利益の実現に血道を上げる纏まりのない議会と対峙する羽目となり、政策遂行機能は不全に陥りかねない。
純粋の大統領制は
現実にこの制度を長期に採用している国はアメリカだけである。既にアッカーマン教授が示唆しているように、日本では、立法権と行政権が厳密に分立したままで、国政をスムーズに運用することは至難である。制度だけ移しても、制度自体の欠陥を補う政治文化や伝統、慣習[19]も同時に移行することは難しい。
半大統領制は
フランスがそうである。このケースでは、大統領が議会少数派に属する場合には、大統領は実質的な政務からほとんど排除されてしまう。

3 日本はどこまで「制約された議院内閣制」といえるか
「最悪の体制」
大統領制が最悪で、制約された議院内閣制が一番良いなら、なぜアッカーマン教授はアメリカ合衆国の政治体制をそちらに変えるように提案しないのだろうか。この筆者の質問に対する教授の答えは、「一国の憲法の根本理念を変更することは極めて困難である」というものであった。
日本の議院内閣制
(形式は整っているが内容は?)ここでは、そのことはあとで触れることとし、アッカーマン教授が指摘した「日本における裁判所の制約が弱々しいものである」と紹介されているだけである。
官僚機構の「中立性」
戦後の日本でほとんど常に政権党の座にある自由民主党は、整合した体系的政策の遂行を目指した政治家の集まりではなかったし、むしろ、党総裁=首相の座を狙う複数の領袖が率いる派閥の連合体であり続けてきた。従って、官僚組織も自身の利益を擁護するために政府と違う政策をとる政治家や団体を操縦する余地を持つことになる。だから、イギリスと同等なほど政治的中立の立場をとることにはならない。
行政・司法への制約について
著者は二点について述べている。一点は、最高裁裁判官の人事権が内閣にあることは、見た目ほど行政の権限を強くしてはおらず、内閣の裁量は限られていること。もう一つは、制度的要因としての内閣法制局の存在である。
内閣法制局という存在
法案は内閣が提出することが多く、その法案は内閣法制局において、相応しい能力を持ったスタッフによって綿密に審査される。
以上の二つの仕組みだけではなく、日本における政治部門の「制約」が他国に比べて弱いか否か判断するには、立法・司法・行政の三権だけではなく、他の機関の独立性や権限を含めて考察することが必要である。

4 二元的民主政―――「新権力分立論」の背景
一次元的民主政と二次元的民主政
アッカーマン教授がリベラル・デモクラシーとして、どのような体制をイメージしているかを述べる。それは日本の憲法のあり方を論じるときに参考になると思われるからである。
アッカーマン教授が理想とするリベラル・デモクラシーは、アメリカが実践してきたもので、かれは二次元的民主政と呼んでいる。これはその典型例がイギリスに見られる一次元的民主政と対比される概念である。
イギリスには憲法典がなく、理論上は、イギリス議会は万能である。これにたいしてアメリカの方は硬性の憲法典がある。しかし、アッカーマン氏が二次元的と呼ぶのは、法律と憲法の制定手続きが異なっている以上のことを意味している。アメリカの憲法の規定の中には、必ずしも一国の根本原理を定めているとは言いがたいものも少なくない。また、一国の根本原理が必ず憲法典に規定されているとも限らない。

国の根本原理と憲法
一国の根本原理が必ず憲法典に規定されているとも限らない。そして憲法の変更には慎重さが要求される。政治の世界は、日常的には、さまざまな私的利害の競合と調整の場であり、社会の根本的なあり方を議論する場にはなりにくいからである[20]。
憲法政治と通常政治
政治の世界は、私的利害の競合と調整の場であるとしても、歴史上、社会の根本的なあり方の変更を求める運動が湧き起こることがある。アッカーマン教授によれば、アメリカにおいて過去3回起こりそれ以外はない。最初は独立戦争から合衆国憲法の制定に至る建国期、第二は南北戦争から戦後の復興期、第三がニューデール期である。アッカーマン教授は、国の根本的な原理を変革する政治過程を「憲法政治」、日常的な利害調整に関わる政治過程を「通常政治」と呼んで区別する。彼の言う二元的政治とはこの二つの過程が区別される政治体制を指す(イギリスの場合はこの二つの過程に区別がないことになる)。
「憲法を持つ国家について言えば、憲法の改正がすべて憲法政治に属するわけではない。また、憲法の改正によらない憲法政治も存在しうる。」[21]
アッカーマン教授の、新興のデモクラシーにとっては「制約された議院内閣制」が適しているというのは、この二次元的民主政を的確に運営するためにはその方が容易であるから、という意味である。

第五章 憲法典の変化と憲法の変化
1 「憲法改正は必要か」という質問
質問の不思議
(省略)

2 国民の意識と憲法改正
憲法典改正なしの根本変更
成熟した国家の憲法運用にとっては、憲法改正は大きな意味を持たないという議論がある(シカゴ大学のデヴィッド・ストラウス教授)。ストラウス教授は、この論拠として、ニューデール期の連邦政府の権限拡大が、アメリカの国家体制のあり方に根本的と言える変更を加えたにもかかわらず、それが憲法典を改正することなく行われた事実等を挙げている。
憲法改正が大きな意義を持った例として、人種差別の是正を目的として南北戦争後に行われた第十三修正から十五修正までの三箇条が挙げられることが多いが、これらの改正が実際上の効果を上げたのはほぼ100年後の各種の公民権法の制定およびそれを支える公民権運動の賜であった。(以下の事例省略)
フランスの事例
(省略)

3 実務慣行としての憲法
前節で、憲法の内容は、憲法自体が変わらずとも国民の意識が変われば変わりうる、あるいは憲法自体が変わったとしても国民の意識が変わらなければ憲法の内容は変わらないこともある、ことを示した。しかし、国民と意識と憲法との関係は直接的で単純なものではない。(もう少し詳しく考察してみよう)
法と道徳
オックスフォード大学の法哲学教授であったH・L・A・ハートが提唱した、規範の「慣行的理解( practice conception)」という考えがある。法と道徳は峻別され、道徳的正しさと法的に要求されることは同一ではなく、法は意図的に変更されうるが道徳はそうではなく、議会が法律を定めれば人々の権利義務関係はただちに変更されるが、道徳は、社会生活の人々の慣行(practice)として徐々に生成し、発展し、衰退するもので、「道徳の準則、原理および基準が、法と同じように意図的に創設されたり変更されたりしうると言う見方は、人々の実生活における道徳の役割と両立しない」。
一次レベルから二次レベルへ
社会生活における権利や義務を定める規範は、はじめは慣行として成立する(一次レベルの規範)。やがて一次レベルの規範が変化して曖昧になってくれば、変化のメカニズムを知り、その変化の過程においてその都度の一次レベルの規範が何であるのかを認定して判定する基準となる規範が必要になる(ハート教授の言葉で「認定のルール(rules of recognition)」。「認定のルール」を核とする規範が二次レベルの規範となる。たとえばイギリスでは「議会の制定した法こそが最高の効力を持つ規範であり、それに反する規範は効力がない」とか、アメリカや日本のように、違憲審査制度を持つ国ではその制度が認定のルールの例である。このように二段階の規範によって構成される法秩序は、近代国家と友に新たに成立したものである。
二次レベルのルールと専門家集団
二次レベルのルールは慣行として生成、定着、衰退するものであり、部分的に成文化されることもあるが、成文化されたテクストは慣行の反映に過ぎない。しかも、この慣行は社会の全構成員の行動を通じて生み出されたり、衰退したりするものではない。二次レベルのルールが生成する社会では、専門的能力を備えた集団(裁判官、弁護士、検事、法律学者など)の生成を必要とし、国民一般は自分たちが従うべき社会生活のルールが何であるのか、専門家に聞かなければ分からない[22]。憲法は典型的な二次レベルのルールである。
三次レベルのルールへ
(一次から二次への移行と同じ理由で)二次の慣行的規範を備えたる社会は三次の規範を生成させるはずであるが、この移行は実際の担い手が同一なのだから結局「二次の慣行的規範へと崩落し、吸収されることになる。手短にいえば、たとえ、憲法典のテクストを変えたとしても、その結果、肝心な認定のルールたる「憲法」がどのような変化を被るかを直接に判定するのは、限られた専門家集団だということになる。」

4 憲法とそれ以外の法
法の回復への欲求か
慣行のみから成り立つ一次レベルの規範の社会においては、そもそも憲法は必要とされない。憲法を典型とする二次レベルのルールの社会では、人々は社会生活のルールが日常の生活感覚から乖離し、経験や直感によってはそれを知ることができなくなったことを悟る。「憲法を成文化し、それ自体を意図的に制定・改廃の対象としようとする動きは、失われた法を再び自分たちの手に取り戻したいという人々の欲求の表れとみることができる。」
憲法と憲法典
だが、憲法典は二次レベルのルールとしての憲法とは違う。「二次ルールとしての「法」の生成、そして「憲法」の生成は、明の部分と暗の部分を伴う。現代社会はその両面とつき合わざる家を得ない。ハート教授の法哲学が教えるのは、「憲法改正」の意義に関する、以上のような意気を喪失させる物語である。」

第六章 憲法改正の手続き
「ここでは、憲法の中身を変えるための憲法典の改正を行うために踏むべき手続きについて考えてみたい。」
(以下簡略に)

1 改憲の発議要件を緩和することの意味
憲法改正には単純な多数決ではなく、特別多数決が採られているには理由がある。第一に、「少数者の権利の保障のように、人々が偏見に囚われるために単純多数決では誤った結論を下しがちな問題については、より決定の要件を加重することに意味がある。」
第二に、憲法に定められた社会の基本原理を変更しようとするのであれば、<中略>日常の政治過程によっては、安易に動かすべきでないはずの重要な原理を動かそうとするのであれば、保守的な態度を取る方が賢明と」いえるからである。

2 憲法改正国民投票法について
あるべき国民投票制度
ここでは三点の提案をしたい。「第一に、国会による改正の発議から国民投票まで、少なくとも二年以上の期間を置くこと。第二に、国民投票に至るまでの期間、改正に賛成する意見と反対する意見とに、平等でしかも広く開かれた発言と討議の機会を与えること。第三に、投票は、複数の論点にわたる改正について一括して行うのではなく、個別の論点ごとに行うことである。」
熟議期間の設定
各国の歴史にその例がある。例えば離婚についても同じような制度が見られるのは、一時の情に浮かされて失敗しないためである。
公正な討議の機会
職選挙法の延長線上で国民投票を考えることには大きな問題点がある。例えば公報のあり方。
「日々の政治問題を党派の競合と妥協のプロセスの中で解決しようとする通常の政治過程と、世代を超え、党派の違いを超えて日本社会の根幹に関わるルールを定める憲法改正手続きとの違いを認識した上で、この問題を考える必要がある。」
個別の論点ごとの投票
(省略)

終章 国境はなぜあるのか
二つの問題が論じられている。一つは、国家はなぜ複数存在するのかという問題、もう一つはある国家の権力はどのような範囲まで及ぶべきかという問題である(この問題は、当然に国境はいかに引かれるべきかという問題と密接に関連する)
結論の一つは、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は存在しない」ということである。この思想は、ジョゼフ・ラズの提唱した、権威に関する通常正当化テーゼ(normal justification thesis)に従っている、とのこと。

(ホッブズ、ロック、ヒューム、カント、ルソー、ベーコン等から、本書で既に紹介されている諸政治思想家たちの諸説が紹介されているが、省略する)

おわり