2018年1月2日火曜日

『プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー)


テキストは、岩波文庫(大塚久雄訳1989改訳)
ベルサイユのばら

【読後感想の一言】


著者が巻末に述べている次の言葉は、100年後のわれわれに鋭く問いかけるものだ。


こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで既に上り詰めた、と自惚れるだろう」と。

【箇条書きメモ】


第一章 問題


一 信仰と社会層分化

1.         近代企業家はプロテスタント的色彩を帯びている。そのことは色々な視点からの統計資料からわかることだが、この事実だけではまだ、原因と結果の区別や因果関係は判明ではない。
2.         16世紀のドイツにおいて、プロテスタンティズムに帰依した人々は富裕な都市の市民的中産階級の人々であった。
3.         宗教改革は確かに伝統的権威主義を排除するものではあったが、却ってより専制的は支配を強制するものであった。それにもかかわらず、都市の市民的中産階級の人々が自ら進んでそれを受け入れたのは何故なのであろうか。
4.         元々富裕な人々がプロテスタントになったのだから、富裕が原因で信仰の種類が結果であるという説明も可能だが、そのような説明が出来ない場合もあり得る。例えば、(富裕か否かに無関係に)高等教育への進学比率についてはプロテスタントの方がカトリックよりも大きいことなどがそうである。
5.         多くの国における一般的社会歴史現象として、政治的被支配者集団に属する人々は営利活動に活路を見出す、ということが認められている。しかし、ドイツにおける社会歴史現象には、政治的被支配者集団に属するか否かにかかわらず、プロテスタントは経済合理主義に愛着しカトリック信徒はそうでなかった。この現象は、外面的な歴史的政治的状況だけでは説明出来ず、宗教的内面的特質に求められるべきである。
6.         われわれにとってさしあたり研究すべき点は、信仰の特性を形作っている諸要因のうち、5.で述べた意味において今日(19C)まで作用し続けているものが何であるのかを問い究明することである。
7.         6.の問いに対して、今日(19C)の現状だけを観察して漠然とした観念で解こうとしてもダメである。例えば、カトリシズムが「非現世的」でプロテスタンティズムが唯物主義的な「現世の楽しみ」を含んでいる、というような、今日におけるそのようなプロテスタンティズム的イメージは、古プロテスタンティズムとは真逆のものである。
8.         6.の問いに対して、キリスト教の信仰における内面的な形態の代表者が商人層の中から多く生れたという事実を考えてみよう。その理由を、商人という職業に適さない内面的な人の心に「拝金主義」への反動が生じたことによるのだと考えることも出来るとしても、それでは説明できない重要な事実が存在する。それは、練達な資本主義的事業感覚と強烈な形態の信仰が同一の個人や集団のうちに同時に存在したことである。プロテスタント教会やゼクテ(英語のセクト)はまさにこのことが顕著な特徴をなしている。特にカルヴァニズムは、その登場した一切の場合にそうであった。
9.         7.に関連して、6.の問いである要素は、今日のではなく、今日と古プロテスタンティズムに共通する宗教的共通点の中にあると考えることが妥当である。それは何なのであろうか(プロテスタンティズムの思想の中に、思想と行為の矛盾を許容しないという精神の存在がある、ということが前提となる)。
10.     以上のような多くの疑問に対して、関連するらしい事実が浮かび上がってくるが、これを解いていくには歴史現象上の不明確な諸事実を定式化する他はないであろう。そのためには、今までやってきた漠然とした一般的な表象の範囲での議論ではなく、宗教的諸思想の持つ固有な特徴とそれらの差異の究明という問題に立ち入らねばならない。だがその前に記しておく問題がある。それは、歴史的に解明しようとしている対象の特性に関する問題と、そもそも我々の研究の枠内において解明が可能であるということはどのような意味であるのかという問題である。

二 資本主義の「精神」

1.         「資本主義の精神」の意味は、(それ自体が研究対象の一部をなしているから)この研究の結末において得られるべきものであり、「歴史的概念構成」というものの本質に根ざしているものなのである。「資本主義の精神」は「歴史的個体」であり、それは我々が取ろうとしている観点に基づくものであるが、その観点は歴史的現象分析の手段として唯一のものではない。
2.         従って、いまここで「資本主義の精神」を定義するのではなく、例示するに留まる。その例は、資本主義の精神を包括するもので且つ宗教的なものと直接の関係を全く失っている史料ら得たもので、フェルディナント・キュルンベルガー著『アメリカ文化の姿』の中に出てくる、ベンジャミン・フランクリン(1706-90)の言葉で述べられている「精神」ある。その精神は、いわば「吝嗇の哲学」であり、その顕著な特徴は、信用できる立派な人という理想、とりわけ、自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想である。そこにはひとつのエートスがある。(エートスは集団の永続的道徳慣習であり、一時的に感情の高ぶった状態に対応する言葉であるパトスと対極する)
(ア)       時間は貨幣だ
(イ)       貨幣は増殖し子を産むものだ
(ウ)       支払いのよい者は他人の財布にも力を持つことが出来る
(エ)       信用に影響を及ぼすことは、どんなに些細な行いでも注意しなければならない
3.         資本主義自体(今日の資本主義を構成している事業体の形式や相互の基本的なルールなどをさすと思われる)は中国にもバビロンにも古代(ギリシャ)にも中世(欧州)にも存在したが、しかし、そこには2.で述べたようなエートスが欠けていた。
4.         今日よく知られてはいるがその意味が不明確な「職業義務」という思想がある。それは、単なる利潤追求の営みに過ぎないものを、資本主義社会においては「社会倫理」に特徴的なものとして各人が「職業」活動の内容を義務として意識し、行動するという思想であって、構成的な意味を持った思想である。
5.         「職業義務」という思想は、既に出来上がった資本主義を土台としてのみできるものではない(後で歴史を遡り究明される)、また現在の資本主義が存続するための条件として主体的に取得されねばならないというものでもない(既に出来上がっている資本主義的経済組織は巨大な秩序界であって、その中で個々人はその秩序に従う他はない)。
6.         「職業義務」という思想が経済淘汰により残ったとすると、その思想自体は資本主義経済以前から存在した、ということになる。
7.         金銭欲への衝動は資本主義以前も以後も変わらない。向こう見ずな営利活動は、戦争や海賊と同じく「対外道徳」として許され、「冒険」として内面的にも倫理の限界をものともしなかった。
8.         市民的資本主義経済成立の課程におけるこうした(7.のような)態度は、市民的資本主義経済成立の課程においての内面的な最大の障害であった。また、労働面の内面的な障害も、労働は伝統的な必要を満たすに足るだけをするというところにあった。民衆は、貧しい間だけ、貧しいからこそ労働をするのだ。出来高払い制の限界はここに存在することになる。
9.         低賃金は「最不適者の選択」を意味することもあり、技能や注意力や創意が必要とされる製造に関わる労働の場合には役に立たない。低賃金と責任感は反比例するからだ。
10.     高度の責任感とまじめな労働には、労働自体が自己目的となるような「天職」思想が必要となる。これは賃金の高低だけでは作り出されえない教育の結果によってはじめて生れてくるものである。事例として、宗教教育が結果的経済教育として効果があることが知られている。つまり、思考集中力と「労働を義務とする」ひたむきな態度、賃金の額を勘定する能力、克己心と節制が資本主義の要求にマッチしている。
11.     形態と精神は別々の由来でも成り立ち、その一致が実体として存在することは歴史的経験から確認されている。フランクリンの「精神」を「資本主義の精神」と名づける理由は、その心情と形態が別々の由来であっても、歴史的にみると一つのものとして一致して実在しているからである。フランクリンの工場は資本主義ではない手工業であっても、彼の精神は近代資本主義にとって合理的に一致している。1619Cの間、資本主義の精神の持ち主は「成り上がり者」であり、富裕の資本家ではなかった。資本主義的形態でなければ営まれえない事業でも、伝統的な精神によって営まれることもある(発券する銀行業務が伝統主義によらずに営まれることが許されないのは好例)。
12.     11.の事例として19C中葉までの前貸し問屋では、企業家の魂を動かしていたものは次のような伝統主義的なものであった。これらは総合して経営者の「エートス」といって差し支えない。
(ア)       伝統的な生活標準
(イ)       伝統的な利潤量
(ウ)       伝統的な労働量
(エ)       伝統的な事業経営の様式
(オ)       労働者や本質的に伝統的な顧客層との伝統的な関係
(カ)       顧客の獲得や販路などの伝統的な様式
13.     12.のようなのんびりした状況を、突然かく乱する事業者が現われて競争と成功と没落が生じることとなった(かく乱とは合理化のことである。例えば、農民の労働者への育成、販売を自ら行う、買い手の希望に合わせ品質改良する、薄利多売をする、など)。
14.     13.のような状況は、貨幣がもたらしたものではなくそうしようとする精神がもたらしたものである。財は利息の源泉ではなく事業の投資に向けられるのであり、従ってそのような精神、つまり「資本主義の精神」がある限り少し元手があれば事業を遂行することが可能となった。
15.     14.のような精神を持った個人にとって、不断の労働を伴う事業の遂行の動機は、「生活に不可欠なもの」となっている以外にはない。そのような態度、即ち事業のために人間が存在するのであり、その逆ではないという生活態度は、個人の幸福という観点からは非合理的なものである。このような、貨幣を獲得すること自体が目的であり「天職」であるかのように考える精神は、それ以前の人々から見れば、不可解不可思議不潔なもので倒錯した衝動の産物として考えるほかはない。
16.     本書の目的は、かって資本主義は、形成期の国家権力と結合することによって、初めて古い中世的経済統制の諸形態を破壊しえたように、宗教的権威との関係についても、おそらくそういうことが起こりえたのではなかろうか、と考えて、それが現実に起こったのか否か、もし起こったならそれがどのような意味を持ったのか、それを究明することである。なぜなら、貨幣の獲得自体が天職として義務付けられているという見解が、他のどの時代の道徳感覚にも背反するものであることは自明だから。
17.     非道徳的な「資本主義の精神」が、なぜ道徳的社会規範となったのであろうか。1415世紀の資本主義の先端地であったフィレンツェで道徳上危険であったこのような精神が、18世紀の辺境地ペンシルバニアでは道徳的規範であったことをどう説明することが出来るのであろうか。
18.     資本主義の精神は合理主義の発展の部分現象ではない。歴史上、合理主義の進展は決して個々の生活領域において並行して行われてきてはいない。例えば私法において、また18世紀の合理主義哲学においてもそうである。合理主義は一つの歴史的概念であり、その中に無数の矛盾を抱えている。我々の究明すべき点は、資本主義の構成要素である「天職」思想の由来を問い、合理的思考を基盤とする天職思想に含まれている非合理的本性(個人幸福から見ると非合理的)の要素の由来を問うことである。

三 ルターの天職観念-研究の課題

1.         「職業」を意味するドイツ語や英語には「神から与えられた使命」言う意味合いが含まれている。このことは、歴史的に且つ他国に亘り調べると、プロテスタントが優勢な諸民族のうちには必ず存在するが、他の諸民族には見当たらないことがわかる。更に、プロテスタントの優勢な民族においても、職業という語がもつ現在の意味合いは聖書に由来し、それも聖書の翻訳者に由来している。由来している翻訳者とはヨハネス・タウラーでルター(1483-1546)に大きな影響を与えている。
2.         宗教改革がもたらした思想は、世俗的職業の内部における義務の遂行を道徳的実践の持ちうる最高の内容として重要視した。「天職」という思想にはプロテスタントの中心的教義が表出されている。
3.         ルターは結局、宗教的原理と職業労働との結合を、原理的な基盤によって新たに打ち立てるには至らなかった(後で説明されるが、カルヴァニズムがそれを行ったことになる)。
4.         表面的に見るだけでも、宗教的生活と現世的行為の関係が、カルヴィニズムにおいてはカトリシズムおよびルター派とは全く異なる。ミルトンの『失楽園』とダンテの『神曲』の比較は、そのことをよく理解させる例である。前者には、ピュウリタニズムの現世における厳粛な関心及び世俗的な生活を使命として尊重する態度が表現されている。
5.         しかしながら、宗教改革者は誰も「倫理的文化」を目標としていたものはいない。彼らの生涯と事業の中心は「魂の救済」でありそれ以外ではない。(にもかかわらず、結果的に天職倫理という文化を生み出すことになったのであり)宗教改革の文化的影響はぜんぜん意図されなかった結果であった。歴史上、「理念」は想定外の働きをするものである。
6.         われわれが企図するところは、ただただ、歴史における無数の個別的要因から生まれでて、独自の「世俗的」な傾向をおびる近代文化の発展が織り成す網の目の中に、宗教的要因が加えた横糸を、ある程度明らかにする、ということだけである。こうしてわれわれは、近代文化の持つ一定の特徴ある内容のうち、どれだけを歴史的要因として宗教改革の影響に帰属させることが出来るか、ということだけを問題とし、特定の形態の宗教的信仰と、天職思倫理との間に「選択的親和関係」があるのだろうか、あるとすればそれはどの点であるのか、を究明していく他はない。

第二章     禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理

一 世俗内的禁欲の宗教的諸基盤

1.         歴史上禁欲的プロテスタンティズムの担い手は大体四つある。カルヴァニズム、敬虔派、メソジスト派、先例派運動から派生したゼクテ(信団)、である。われわれとって重要なことは宗教的信仰及び宗教生活の実践のうちから生み出されて、個々人の生活態度に方向と基礎を与えるような心理的起動力を明らかにすることである。
2.         われわれはまずカルヴァニズムをとりあげる。なぜなら、1617世紀に資本主義の発達が最も高度であった文明諸国、即ちオランダ、イギリス、フランスにおいて、それが大規模な政治的・文化的闘争の争点になっていたからである。当時から今日に至るまで、カルヴァニズムの特徴的な教義は「予定説」(恩恵による選びの教説)であった。
3.         予定説の内容の、1647年の「ウエストミンスター信仰告白」からの引用は省略(パブテスト派や独立派もこれと同じ)。
4.         予定説は悲愴で非人間的な教説なので、個々人は内面的に孤独化する。しかし、牧師も聖礼典もそのような個人を助け得ない。だからカルヴァニズムは、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信として、また邪悪として排斥し、世界を呪術から開放するという結果をもたらした。
5.         4.のような事態のもとでは、ピューリタンは死の恐怖を抱かざるを得なくなる。それは自卑の動機ともなり、一方で組織的戦いへの拍車となる。この二つことの由来と関連はどうなっているのだろうか。
6.         社会的組織作りの点でカルヴァニズムは卓越していた。この事実と、現世の硬い束縛から内面的に個人を解き放とうとする傾向が結びついた。その理由は、カルヴァニズム信仰による個人の内面的孤立化の圧力の下で、キリスト教の「隣人愛」がおびる他はなかった色調から生れてきた結果なのである。
7.         予定説の解釈から、労働こそ神の栄光を増し聖意に適うものと考えられことになる。それがカルヴィン派の現世における職業の性格をなしている。つまり、世俗的労働を神から与えられた天職と考える思想。これはカルヴァニズムの功利主義の根源となっている(予定説の解釈を詰める必要あり)。
8.         神から選ばれた者としてのキリストと一体になることで救われるというカルヴァニズムの思想が強い組織をもたらした。しかも、この組織力は世俗において発揮された。
9.         「理性を超えた愛」は神への愛を妨げるというピューリタンの考え方が合理性を生み出している。
10.     神の意思が現世の合理的秩序を創っている。その一つが予定説で、(ルターからカルヴァニズムへの変遷によって)「悔い改めて神から恩恵を与えられる」という思想から「神の召命の実行が神に選ばれる条件であると確信することを義務と考える」という思想へ変化した。その神の召命は「天職」を全うすることで、その態度とは、現世の合理性に基づき理性的な生活態度を取ること、となる。つまり、世俗的職業労働が宗教的不安解消の条件となった。
11.     カルヴァン派は組織的な自己審査によって「救いの確信」を「造りだす」。(死に対する恐怖死すべき人間が神から選ばれた永遠の生命を持つ存在になりうる選ばれなければならない教会や儀式では救われないから選ばれる規準は自ら創出せねばならない組織の作成&生活の中での規範を倫理として作り出す天職倫理)。
12.     キリスト教的禁欲は、東洋のそれと比較すると合理的な態度性格をおびていた。合理的性格とは、自然の地位を克服し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して、計画的意思の支配に服させ、彼の行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮の下に置くことを意味する(東洋のそれは、無方針な現世逃避と達人的な域の苦行的なもの)。
13.     西洋の合理的禁欲主義の性格は、既に古代から存在していたが、中世において最高の形態を持っていた。禁欲主義は、修道士たちをして、客観的には神の国の労働者として訓育し、主観的には彼らの霊魂の救いを確実にするものとする方法となっていた。カルヴァニズムの禁欲主義は、この禁欲を純粋に世俗内的なものに造り替えたものである。
14.     (カルヴァニズムのように、予定説を教説とし、天職倫理を生活の規範と強制するならば)救いの確証を求めて、その手段としての倫理的生活態度をもち合理的禁欲主義を実践することで、資本主義の精神の方向へ進むことになる。
15.     予定説という教説が、合理的禁欲生活を規範としかつ神の信仰へと結びつける一方法として、歴史上最初に現われた思想であった。
16.     カルヴァニズムは、予定説による救いの確証を手に入れるための組織的自己審査による確信を作り出し、この作り出したものが天職思想であり、世俗内における合理的禁欲思想である。これが歴史上どのような結果をもたらしたのかを以下に述べていく。

二 禁欲と資本主義精神

1.         霊的司牧の実践のうちに働いていた宗教的諸力こそが「国民性」の決定的形成者であった。だから、代表的霊的司牧であるリチャード・バックスター(1615-91)に注目し、その著作を資料に用いた。
2.         バクスターは、新約聖書の教えの中で次のことを強調している。富はそれ自体極めて危険なもので、道徳的にもいかがわしいものだ。
3.         カルヴァン(1509-64)は聖職者の富を歓迎した。それは富が彼らの声望を高めるからであるが、現世における財の獲得に対する疑念はきわめて真剣であった。道徳的に真に排斥すべきは、所有の上に休息をすることにあると考えられたからだ。休息は来世において与えられるもので、神の栄光を増すために役立つものは怠惰や享楽ではなく行為だけであり、時間の浪費が原理的に最も重い罪になることになる。
4.         労働は禁欲の手段であるがそれ以上のものであり、神の定めた生活の自己目的である、と考えられていた。「働こうとしないものは食べることもしてはならない」というパウロの命題は誰にでも無条件に当てはまる。
5.         トマス・アクイナス(1224-1275)は、労働は個人と全体の生活維持のために必要であると述べているが、妥当するのは類としての人間についてだけであり、個々の人間についてではない。それに対してバクスターにとっての労働は神の栄光のために働けと個々人に対する誠命としてのものであった。
6.         トマスは、社会における分業と職業編成の現象という秩序は自然的な原因で、偶然的なものである、と考え、ルター(1483-1546)は、そうした所与の秩序は神の意思の発現だから、個々人はそのうちに固く留まることが義務であると考えた。それにたいして、バクスターの考えはアダム・スミスの分業論を想起させるもので、純粋に功利主義的説明をしている。
7.         バクスターは、労働を臨時労働と確実な職業に区分している。前者は世俗内的禁欲が要求する組織的、方法的な性格が欠けたもので、後者における良心的態度による合理的な職業労働よって、自分が恩恵の地位にあることを確証せねばならないと考えていた。合理的な職業労働を求めて職を変えることは禁止ではなくて許されるもので、職業の有益さの程度は、つまり神に喜ばれる程度を決定する基準は、道徳的規準、生産する財の全体に対する重要度、私経済的収益性であった。
8.    職業のもつ禁欲的意義の強調が、近代の専門人に倫理的な光を与えるように、利潤獲得の機会を摂理として説明することは、実業家に倫理的な光を与える。自分が神の恩恵受けうる地位にあるかどうかを審査するに際して、聖書の言葉を解釈するピューリタンたちに対して、旧約の神の圧倒的な力も影響を与えている。ユダヤ教は政治や投機を志向する「冒険商人」的資本主義であって、そのエートスは賤民的資本主義のそれであるが、ピュウリタニズムの担うエートスは、合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織のそれであったがら、資本主義の発展の見地からは両者はかけ離れている。ピュウリタニズムはユダヤ教の倫理から、自分の枠に適合するものだけを採り入れた。
9.旧約聖書の規範によって生活を律することの性格学上の影響は解明は興味深いが解明は不十分だ。だが、神の選民だという信仰の復活がピューリタンの内面生活において特記すべきことであった。
10.     貴族的な遊技であれ、庶民の踊りや酒場に行くことであれ、職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽は合理的禁欲の敵とされた。
11.     宗教的には評価しがたい文化財に対する態度も懐疑的、あるいは敵対的であった。およそ「迷信」の臭いのするもの、呪術や儀式による恩恵授与は憎悪された。劇場を排斥し愛欲的なものや裸体などを一切締め出した。ピュウリタニズムの世界は互いに矛盾する無数のものを含んでいた。
12.     純粋に芸術や遊技のための文化財の悦楽には、特徴的な限界があった。それは、そのためには何の支出もしてはならない、ということである。
13.     人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いやまさしく「営利機械」として奉仕するものでなければならず、財産が大きければそれだけ禁欲的な生活態度でそれに耐え、不断の労働によりそれを増大する義務を負っていた。
14.     消費は圧殺され、営利が開放されるということは、禁欲的節約強制による資本形成という結果をもたらした。
15.     ピュウリタニズムの人生観は近代の「経済人」の揺籃を守ったのだった。ピュウリタニズムの生活理想が、ピュウリタン自身も熟知していたように、富の誘惑のあまりに強大な試練に対して全く無力だったことは確実である。これは世俗内的禁欲の先駆者である中世修道院の禁欲が陥ったのと同じであり、そこでは獲得された財産は直接貴族化に堕していくのか、それとも修道院の規律が崩壊していくのを防ぐために幾たびもの改革がなされていくかであった。
16.     強力な宗教運動が経済的発展に対し持った意義は、その禁欲的な教育作用にあったが、それが経済への影響力を全面的に現すに至ったのは、純粋に宗教的な熱狂が頂点を過ぎ、神の国を求める激情が次第に冷めた職業道徳へと解体し始めたときであった。「ロビンソン・クルーソー」(デフォーは熱心な非国教派信徒)つまり、孤立的経済人が姿を現したときであった。
17.     独自の市民的な職業のエートスが生れるに至ったのだ。市民的企業家は形式的な正しさの制限を守り、道徳生活に欠点もなく、財産の使用に当たって他人に迷惑を掛けさえしなければ、神の恩恵を十分に受け、見うべき形で祝福を与えられているという意識を持ちながら、営利に従事することが出来たし、そうすべきであった。
18.     宗教的禁欲の力は、優れた労働能力を持ち、神の歓び給う生活目的としての労働に精進する労働者を与えた。またそれは、現世における富の配分の不平等は神の特別な摂理の技であり、この差別を通して恩恵の予定に基づきなし給うのと同様に、われわれのあずかり知らぬ秘密の目的を成し遂げる給うのだ、という安心すべき保証を与えたのだ。
19.     カルヴァンは「民衆」つまり労働者や手工業者は貧しいときだけ神に従順であるといい、オランダ人(ピーター・ド・ラ・クール他)これを世俗化して、民衆は窮乏に強いられたときにだけ労働するといっているが、こういう資本主義経済の基調の定式化は、低賃金の生産性という理論のなかに流れ込んだ。
20.     この場合にも、発展の図式が繰り返される。つまり、思想の宗教的根幹が死滅するとともに、それに取って代わって功利的な傾向が知らず知らずのうちに入り込んだのだ。
21.     フランクリンの「資本主義の精神」と呼んだあの心情の本質的要素は、ピューリタンの天職意識に由来する職業的禁欲の内容として析出したものと同じだが、フランクリンの場合には、宗教的基礎付けが既に生命を失って欠落しているものである。
22.     禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果を挙げようと試みているうちに、世俗の外物はかって歴史に比類を見ないほど強力になって、ついには逃れ得ない力を人間の上に振るうようになった。ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。
23.     アメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、全く新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかっての思想や力強い理想の復活が起こるのか、それとも、そのどちらでもなく、一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる「未来人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで既に上り詰めた、と自惚れるだろう」と。
24.     ここまで来ると、われわれは価値判断や信仰判断の領域に入り込むから、それらについては純粋に歴史的な叙述に求めるべきではあるまい。われわれが次になすべき仕事は、禁欲的合理主義の意義を社会政治的倫理の内容について明らかにしていくことであろう。その次に、禁欲敵合理主義の人文主義的合理主義とその生活理想や文化的影響に対する関係、更には哲学上ならびに科学上の経験論の発展や技術の発展に対する,また精神的文化諸財に対する関係が分析されねばならないだろう。それから----
25.     近代人は、宗教的意識内容が人間の生活態度、文化、国民性にたいしてもった巨大な意義を、そのあるがままの大きさで意識することが殆ど出来なくなっている。唯物論的歴史観と文化と歴史の唯心論的な因果関係による説明は、両者とも可能なのだが、それらが結論として主張されるなら、両者とも歴史的真実のために役立つものとはならないだろう。

おわり

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