プリンセス・ドゥ・モナコ |
本書は【子どもたちに語る ヨーロッパ史】と【子どもたちに語る 中世】の二つが収められています(翻訳:川崎万里、監訳は前田耕作)
以下は、【子どもたちに語る ヨーロッパ史】の要点の書き出しです(一部加筆修正)。(括弧内の小文字は私の補い)
徒歩でヨーロッパからアジアへ
- ヨーロッパのイスタンブールの橋を越えると、同じトルコでもアジアになる。トルコではトルコ語が話され、羊肉の串焼きを食べ、宗教建築の円屋根にそびえるミナレットからは一定時間ごとにイスラム教の祈り呼びかける男の声が聞こえる。街には小さな商店がひしめく大きな市場があり、旅人は、宝石、革製品に目を奪われ、キラキラ光る色のついた香水の香りを吸い込む
- モスクワから鉄道で数時間のウラル山脈(標高1000m程)を越えるとアジアになる。ロシアではロシア語が話され、強い酒ウオッカを飲み、小麦のクレープ、ブリニを食べ、教会ではきらびやかな装身具をまとったギリシャ正教の聖職者が長い典礼を行い、冬は防寒具に毛皮の帽子、シャープカを被り、通貨はルーブルである
- イギリスはトンネルでヨーロッパ大陸と繋がっており、ロンドンとパリは鉄道でも三時間だ。ロンドンではミートソースの料理が、朝食はいわゆるヨーロッパスタイルの「コンチネンタル」ではなく「ブレックファースト」が好まれる。自動車は左側通行で距離はマイルで表示される。スポーツではクリケットを好み、大多数の人は英国国教会で、教会の長は君主である。元首は共和国大統領ではなく国王か女王で、通貨はポンド、言葉はもちろん英語。
- イタリアのローマはイタリアの首都と、ローマ市のごく狭い一郭に収まった小さな独立国バチカンの首都でもある。バチカン市国はカトリック教会の長である教皇を戴いている。教皇は特に南ヨーロッパ、そして全世界に暮らす信徒の精神的指導者だ。イタリアでエスプレッソコーヒーをカフェ兼バーのバールで飲み、固めの「アルデンテ」にゆでられたパスタ食べる。イタリアにはヨーロッパのあらゆる国よりも沢山の大建造物や芸術作品を見ることが出来る。イタリア語はフランス語に似ている。どちらの語源もかってヨーロッパの大部分で話されていたラテン語起源のロマン語だ
ヨーロッパは存在するか。ヨーロッパという家族
- 省略
歴史が地理に生命を与える
- ヨーロッパの特徴は何よりも地理に由来するが、歴史によって決定されてきた。各世代が両親と祖先から受け継ぎ、ついで彼ら自身の生活と個性を獲得してきた
最小の大陸
- 山はそれほど高くなく、最も高い山々アルプス、最も大きな山塊ピレネー山脈、最も長く続く山脈カルパチア山脈でさえ、超えがたいものではない。多くの河川は船で移動できる。代表的な河川はライン川とドナウ川だろう(今では二つの川は運河で結ばれ、北海と黒海が繋がっている)。陸上ではローマ人は沢山の道路を作り、今では多くの高速道路や高速鉄道が建設された。ヨーロッパ人は地上と河川と海のルートを張り巡らした。
- ヨーロッパはほかの大陸よりも小さく地表の7%、アジア大陸は30%、アメリカ大陸は27%、アフリカ大陸は20%だ。20世紀まで人々は、ヨーロッパ内の短い行程から大きなメリットを得ていた
ヨーロッパとアジアの隣人たち---戦火と文化を交える
- 中世のヨーロッパは、13世紀のモンゴル人の侵入などアジア人による侵略を何度か経験した。15世紀にはトルコ人がビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンチノーブルを占領し、ヨーロッパの南東部を征服した。ボスニア=ヘルツェゴヴィナのムスリムがその名残だ
- アジアがもたらした文化の多くはヨーロッパの文化を豊かにした。だから学者達は「インド=ヨーロッパ文化」などという言葉を使う。中世のある種の小話や寓話もアラビア数字もインド由来であり、ヨーロッパ言語では多くの単語がアジア、特にペルシャ、トルコやアラブ起源だ
人の移動---植民地化、征服、移民
- ギリシャ・ローマ時代以降、ヨーロッパ人は中近東とマグレブ(アフリカ大陸北西部)を植民地化した
- アラブ人は中世にイベリア半島とシチリア島の大部分を征服した
- 十九世紀以降多くのマグレブ人が地中海沿岸のヨーロッパ、特にフランスに移住した
ヨーロッパの東の端はどこか
- それは地理も歴史も明らかにしていない。トルコはアジアという大きな付録のついたヨーロッパの国なのか、それともヨーロッパという小さな付録のついたアジアの国なのだろうか
ヨーロッパでは海は遠くない
- ヨーロッパの36カ国で海を持たない国はわずか9カ国。ヨーロッパ大陸には海が入りこんでいる
ヨーロッパの大部分ははるか昔から開かれていた
- 広すぎない面積、海が近いこと、比較的平坦なこと、ほどほどに厳しい気候、大部分の土地が良好な経済的な適性を持つことなどを考え合わせると、ヨーロッパは非常に早くからほとんどいたるところに人が住み、利用されていたことが納得できる。先史時代の印象的な遺跡群、骨や道具や洞窟壁画がそれを物語っている
- ヨーロッパには長い歴史と記憶の蓄積がある。中国、インド、中近東の一部だけが、同様に豊穣な過去を持つ。
- しかしながら、人間の共同体としてのヨーロッパの存在がまさに問題なのだ
どうしたらヨーロッパ人になれるか?。ギリシャ人がヨーロッパを発明した。神とともにアジアからきた王女
- 一つの伝説が生まれた
地中海に面したテュロス(現在のレバノン)の王女エウロペは、ある晩夢を見ました。女性の姿をした二つの大陸が王女のことで争っていました。一方の「アジアの大陸」は王女を引き止めようとし、他方の「対岸の大陸」は神々の王ゼウスの命令により王女を海へ連れ去ろうとしました。目を覚ました王女は花を摘みに海辺にに行きました。強くて優しそうな一頭の牡牛が波間から現れ、王女をまんまと背中に乗せるや連れ去って、自分が動物に姿を変えたゼウスであると正体を明かしました。ゼウスはギリシャの大きな島クレタ島に王女を連れて行って結婚し、王女は「高貴なる息子たち」の母になりました - 神話の中でのヨーロッパの起源については二つの特徴がある。一つはエウロペは愛されるに値する女性であること。もう一つは、エウロペは具体的な現実のヨーロッパに自らが変わるのを待っているということだ
- 以後、ヨーロッパ大陸は名前を持ったが、その物語=歴史はどこに向かうのだろう。名前を与えた伝説の王女として一つの人格になるのだろうか
ヨーロッパを発掘しよう
- パリでは先史時代と原始時代の遺物が発見されている。それらの多くはケルト人で、ガリア人の時代に溯る。その後はギリシャ人がガリア地域の地中海沿岸の数地点に移住し、ついでローマ人がガリアを征服した。これらの遺跡は共通な物質的要素を示す
- 文明の共通要素は、言語の起源、芸術様式にもある。多くの言語がラテン語を起源に持ち、ロマネスク美術、ゴシック美術、バロック美術はヨーロッパ中に広がった
- ヨーロッパ文明は、思考や行動の基礎にある共通の精神や同じ文化的共同体への帰属感の上に成り立っている
ギリシャという基層。医者がヨーロッパ人とアジア人を診断する
- ヨーロッパ的意識についての最初の証言は、古代ギリシャの医者ヒポクラテスの「誓い」に現れている。医者は病人を知識によってだけでなく、良心によって治療しなければならない、と
- ヒポクラテスは気候が持つ影響との関連で、荒々しいが自由を重んじるヨーロッパ人と、平和を愛し、戦争より技芸に興味を持つけれども、たやすく暴君や専制君主に従属してしまうアジア人とを対比している(このアジアは当時のはペルシャだろう)
民主主義者、人間中心主義者、数学者
- ギリシャの遺産はなにより、民主主義と公務参加へに希求だ。ヨーロッパにおける民主主義は、古代ギリシャ以来激しい逆戻りと葛藤を経ても尚完成からはほど遠い
- ギリシャ人はヨーロッパ最初の偉大な学者であり哲学者だ。哲学者はソクラテス以降、自分を知ることを教えようとした。哲学者は神々を崇拝していたにもかかわらず、人間を宇宙の中心に置いた。彼らはヨーロッパ人に人間中心主義(ユマニスト=徳を深め人間の可能性を高める考え)であることを教えた
- キリスト教が、何より神を信仰する人間であれと説いたとき、ヨーロッパ人はギリシャ人の知恵の教訓、すなわち理性と批判的精神の価値を忘れなかった
肉体万歳
- ギリシャ人は、人間中心主義は精神だけでなく身体にの及んでいた。オリンピックを創始したのはギリシャ人だった
ローマ市民はヨーロッパ人か
- ギリシャの遺産はローマ人によって広まった。ローマ人は現代のヨーロッパの土台となる地域を占領し、ローマ帝国の西側全体で同じ言語が話され、兵士は同じ軍隊に属した。カラカラ帝は212年、帝国内のすべての自由民男子はローマ市民だという布告を出した
ラテン語を話す
- 中世以降、キリスト教によって広まったラテン語がヨーロッパ文明の基本語であった。ラテン語ほどではないがギリシャ語も同様だ
新しい神、キリスト
- ローマ人は多くの神々を崇拝しており、その宗教は特に儀式を重視していた。一方オリエントからは、心と内面の感情に訴える神々が沢山入ってきた。なかでも、元々ユダヤ人が崇拝していた神が人々を魅了した。これがキリスト教徒の神であった。
- キリスト教の信徒によれば、人間であり神であるイエス「キリスト」は、神から「塗油を受けた者」で、肉体の形を持ち、ティベリウス帝の時代に(紀元30年頃)エルサレムで十字架にかけられた(「塗油を受けた者」とは、油か水の聖なる液体で普通は額に”しるし”を受けた者を指す。洗礼では水が使われる。イエスは洗礼者聖ヨハネの手を経て神により「塗油を受けた者」で、油は王の聖別につかわれた)
新しいヨーロッパ、キリスト教
- ヨーロッパの第二の姿、キリスト教が登場した。新しい精神的指導者たちは、司教、司教に指導された司祭や修道士で、司教の中でもローマの司教が首長である教皇だ
東と離れ、やがて分裂する。ラテン語とギリシャ語の二つのヨーロッパ
- ローマ帝国の西側ではラテン語、東側ではギリシャ語が話されていた。西が危機に陥るにつれて、皇帝の権力は東へと移り、コンスタティヌス帝はアジアとの接点のコンスタティノーブルに首都を置いた。帝国東部のキリスト教会は「真正の」キリスト教信仰の継承者である正教会にあると任じている(言語はギリシャ語、教皇ではなく総主教)
- 西方教会は普遍的であることを主張し正教会から離れ続けようとして、1054年に二つの教会は公式に断絶を宣言した(教会分離)
- 教会分離は、西のヨーロッパ人と東のヨーロッパとのより根深い相違に結びついている。歴史が下るにつれて別の差異も現れて、この分断を一層深めて現代に至っている。ヨーロッパは一つなのかそれとも二つなのか、どちらなのだろうか
目に見えない今日の境界線
- ヨーロッパには目には見えない境界線がある。また、宗教的、文化的な断絶戦が敵と味方を分けている地域(旧ユーゴスラビア)もある
西ヨーロッパの分割---衝突しながら成功した移住
- 歴史は4~5世紀に、ヨーロッパ人を統合すると同時に分離した。つまり、キリスト教徒として統合すると同時に、新しい国を作ることでローマ帝国に統合されていた民族を分離した
侵略者か旅する者か
- 北方ヨーロッパと中央ヨーロッパからの民族(大部分はゲルマン人)の移動を、ガリア人を祖先に持つフランス人は「大侵入」と呼び、ゲルマン人を祖先に持つドイツ人は「民族大移動」と呼ぶ
混血の住民たち
- 異民族のローマ帝国内への集団移住はローマ人と異民族間で物品を交換し、言語や風俗を借用し合った
- 人間の交錯は発展の源泉であり「民族的純血」などは本来存しない。ガリアではローマ帝国内のガリア人とゲルマン系のフランク人がその後のフランスの発展を進めた
パンとワイン、肉とビール
- 地域の植生と気候は食習慣を規定する。だから食習慣は人間の集団を規定する。小麦のパンはヨーロッパ人、コメはアジア人、キャッサバはアフリカ人、トウモロコシはインディオ、北と東のヨーロッパはビールを飲み南と西のヨーロッパはワインを飲む
異民族が国民国家のヨーロッパをつくった
- 新来者がローマの文化を取り入れてキリスト教に改宗しても、政治的には分かれていたし、どんなに近い民族同士でも烈しく争っていた
- フランク族の首長クロヴィス(在位AD481-511)はトゥルネ(現在のベルギーにある)を出発し、ソワソン(フランスの古都)に留まってキリスト教に改宗し、西ゴート族をスペインに追い出し、ブングルト王国を滅ぼし、王国を築きパリに首都を定めた
- イギリス、フランス、スペイン、少し遅れてドイツの原型が現れた。イタリアの状況はもう少し複雑
キリスト教への改宗がヨーロッパ行きのパスポート
- 中世ヨーロッパではローマ教会への改宗は、その民族が一つの国になり文明化されることのしるしであり、徐々にすべての「異民族」はキリスト教に改宗した
シャルルマーニュは最初のヨーロッパ人?
- 八世紀から九世紀のフランク族のカロリング王朝は、ガリア、ゲルマニア、イタリアを統一支配し、そこに住むキリスト教徒の大部分を統合し、分裂後も長きにわたりヨーロッパの心臓であった(シャルルマーニュ=カール大帝=チャールズ大帝、はカロリング王朝2代目の王)
ヨーロッパ文化の礎---全土から集まった知識人と反イコノクラスム
- シャルルマーニュたちはヨーロッパに共通の文明の雛形を残した。それはキリスト教と古代ローマの偉大な文化とを結びつけた、ヨーロッパ最初の「ルネサンス」だった
- このヨーロッパが西ヨーロッパであり、宮廷にはフランク人、イタリア人、ゲルマン人、アングロサクソン人、アイルランド人の知識人が招かれた
- それはギリシャ正教で起こっていた聖像破壊(イコノクラスム)の波及を防せぎ、ユダヤ教やイスラム教とは正反対の立場でもあり、ユマニスムの発展に重要であった
八世紀のあるヨーロッパ人の波
- 移民がつねにヨーロッパを豊にしてきた。九世紀から十世紀にかけて新たな民族かキリスト教世界に入ってきた
- 西方では東のゲルマン人、ハンガリー人、スラヴ系民族(ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、スロヴェニア人、クロアチア人)がローマ教会のヨーロッパにやってきた
- 東方ではスラヴ民族がギリシャ正教のヨーロッパに加わった(主にロシア、その他バルカン、ブルガリア、セルビア)
旅する北方民族、ノルマン人
- スカンディナヴィアのノルマン人の一部は北フランスに定住し、十一世紀に大ブリテン島を征服し、一部は南イタリアに移住し、ナポリ王国とシチリア王国を作った
スペインのムスリムがヨーロッパを去り、トルコ人が到来
- 1492年、イベリア半島のキリスト教徒はポルトガルから、続いてスペインからムスリムを追いやった
- 東方ヨーロッパでは、十五世紀から十六世紀にトルコ人がビザンツ帝国を滅ぼした(1453年コンスタンティノーブル陥落したのち、ギリシャ、現在のルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアを征服したが、これらの地域が取り戻されるのは20世紀)
空の墓の不幸な征服、十字軍
- 十一世紀、ローマ教会はキリスト教の発祥地パレスチナ、とりわけエルサレムを征服すべくキリスト教徒を送り出し、エルサレムと近東にキリスト教国が作られた。以降十三世紀末まで、いろいろな十字軍が繰り返されるが結局は完全な失敗に終わる(エルサレムはイエスが十字架にかけられ、復活するまで遺体が置かれた場所に建立された聖墳墓教会のある場所)
- 十字軍によって西ヨーロッパの人々の間に軍事的拡張という危険な精神が芽生え、ムスリムには反動として聖戦(ジハード)という対抗感情を育んだ。十字軍が招いた不幸な影響は、今なお感じられる
ヨーロッパで迫害されたユダヤ人
- その宗教と風習において独自の民族であるユダヤ人は古代から存続していたが、一世紀と二世紀のローマ人によるエルサレム破壊以降、無数の小さな共同体となりヨーロッパに散らばっていた
- キリスト教会はキリストを救世主と認めないユダヤ教を非難したが、キリスト教徒とユダヤ教徒はヨーロッパで千年間、まずまず平和のうちに暮らしていた
- ところが、キリスト教徒のユダヤ教徒に対する感情は、十字軍の精神と利息付き貸付を行うことで徐々に悪化し、十二世紀以降ヨーロッパのユダヤ人に対するあらゆる迫害や集団虐殺もおこなわれた(キリスト教は原則的に利息を禁じていた)
- ユダヤ人も一般市民と平等であると認められるようになるには、十八世紀のフランス革命を待たねばならなかった
- しかし、ユダヤ人に対する憎悪感情は、十九世紀から二十世紀にかけて、疑似科学的人種理論のせいで、まさしく人種主義、反ユダヤ主義となった。この異常な状況は第二次世界大戦中、ナチによって遂行された恐ろしい民族大虐殺に行き着く
- 東方ヨーロッパでも、数多くのユダヤ人に対する迫害が起こっており、反ユダヤ主義者の人種差別は今日も消えておらず、ヨーロッパの歴史の一番おぞましいものである
流浪の民も
- ロマと呼ばれる流浪の民もまた、ユダヤ人ほどではなかったにして、激しく迫害され、虐待された(ロマとは、インドを起源として十五世紀にヨーロッパに到達した民。ボヘミアに留まった人々はボヘミアンと呼ばれた)
中世はヨーロッパの形成に不可欠の時代
- 五世紀から十世紀の中世において、ヨーロッパの共同体が成立する上で最も重要な要因が形成された
いきわたった封建制---人と人との関係
- ヨーロッパでは荘園という呼ばれる領土に貴族(領主)は城を築いて臣下と大勢の農民を支配するという、共通の経済・政治的組織、封建制を持つようになった
唯一の神、一つの教会
- 教会がヨーロッパ中を支配しており、教皇は次第に教会の唯一にして至高の聖職者となり、至るところにあった教皇領や教会領を支配した(特に西方)
都市、商人、学校
- 十八~十九世紀に産業が発達する前には、ヨーロッパ人口の90%は農民であったが、中世には多くの都会が誕生し、発達した。最も重要な都市は王と君主とその臣下たちの権力の所在地だった
- 都市には、職人がいて、市場や定期市があり、経済活動が盛んであった。十二世紀から十三世紀にかけて、シャンパーニュ地方の都市は非常に栄え新しいタイプの人々が出現した
- 裕福な商人はヨーロッパのみならずアジアやアフリカでも商売をし、銀行家でもあった。最も優良な商人たちは、イタリア人(フィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィア)、ハンザ同盟という大きな商業組合に属していたフランドル人(オランダ)とドイツ人であった
- 都市は文化の中心であった。学校が設立され、特にブルジョワの子弟に読み書き、計算を教えた。いくつかの都市では教師と学生の協同組合が大学を作った。最も有名な大学は法学のボローニャ大学と神学のパリ大学だった。学生も教師も大学から大学へとヨーロッパ中を移動し、大量の手稿本を生み出し、試験の合否による新しい進級制度を生み出した
- 都市は芸術の中心であった。1000年以降新しい建築と彫刻のスタイル、ロマネスク美術が創造された。十二世紀には、ゴシック美術がステンドグラスによって教会内を美しく彩られた光で照らした。古代以来姿を消していた演劇が上演され、祝祭が多様になり、なかでも精彩を放ったのは謝肉祭であった
- 都市で人々は豊かになり、学び、楽しんだが、貧者と犯罪者も沢山いて、都会の悲惨は深まり犯罪も増えた
国家と君主
- 十三世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパ中で、封建領主をおさえて王と君主が台頭した。広大な領土(王国や公国)もそうだが、それより狭い都市周辺の領土であっても同様で、例えば、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ケルン、フランクフルト、ニュルンベルクなどで顕著であった。
- 最も強大で、優れた組織を備えた国家がイギリスとフランスで、ついでポルトガルとスペインだった。王には、王自身が仕えるべき「王権」という抽象的な観念があった。聖職者、貴族、市民で構成されていた議会は王権をコントロールしようと努めたが、実際に成功したのはイギリスだけであった
- 民衆派といえば、不満なときは反乱を起こす以外に要求を通す方法はなかった。くり返し反乱が起きた都市はローマととパリであった(ローマは皇帝と教皇に対して、パリは王権に対しての反乱)。王たちは司法や財政を官吏・役人と呼ばれる人々に委託するようになり、統治は次第に官僚的となった
- 国家と都市が台頭する以前に、(神聖ローマ帝国の)皇帝の機能は次第に名誉職的となって、皇帝が有しているのは威光であって権力ではなくなっていた
ヨーロッパがそれとは知らずに発見し、植民地化した大陸---アメリカ
- 1492年、ポルトガルで育ったジェノヴァ生まれのイタリア人、コロンブスは、西回りでインドにいたる航路を見つけるべくスペインに雇われて出航し、四番目の大陸をそれとは知らずに発見した(数年後にイタリア人アメリゴ・ヴェスプッチが再発見して、アメリカと名づけられた)
- ヨーロッパの主要な海運民族(スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ)は新大陸を征服し、ヨーロッパと同じ特徴を持つ新しいヨーロッパをつくった
栄光と恥辱
- 新大陸の征服は、原住民の虐殺、ヨーロッパ人が持ち込んだアルコールや病気による荒廃という犠牲の下になされた。征服者たちは偉大な文明を破壊し、ヨーロッパの習俗とキリスト教を押しつけ、恥ずべきことにアフリカの黒人を奴隷として大量に移送して労働力とした。この奴隷「貿易」は十九世紀半ばまで行われ、今日のアメリカ合衆国の深刻な黒人問題の起源となった
- アメリカ合衆国は1776年の独立以来、世界で最初の民主的な国家だが、十九世紀半ばに黒人の奴隷制を廃止するには、悲惨な内戦である南北戦争を経なければならなかった
スイスの山岳民が発明したヨーロッパの民主主義
- 1291年、アルプスの三つの山岳民が永続的な同盟を結びスイス連邦が設立され、住民は一人一票の民主主義の原則に基づき首長を選び、首長は国の統治について住民のすべてに説明する義務を負った。以来スイスは平等と独立に基礎を置く国家になり、二十世紀には、戦争に巻き込まれるかもしれない国家ブロックへの加盟を拒否し、近年はEUへの加盟も拒否した。しかし、スイスは今なおヨーロッパの中心であり続けている
花開くヨーロッパ---ルネサンスとユマニスム
- 十四世紀から十五世紀の長い危機の果てに、ヨーロッパは復興する(危機とは、王が台頭して国家主権が強化された負の面としての戦争やユマニスムの衰退が起こったことか?)。
- 十六世紀に変化が加速した。新大陸の金銀は貨幣流通量を増大させることで経済を発展させ、印刷された書物は知識と文化を深め、古代美術を尊重する新しい芸術が開花し始め、ルネサンスが始まった
- ルネサンスはイタリアで始まりフランスでひときわ輝かしい作品が生まれ、ロワール河畔に沢山の美しい城が建設された
- 古代ローマのみならず、コンスタンティノーブルから避難してきたビザンツの知識人たちがもたらした古代ギリシャもまたイタリアのルネサンスに息吹を与えた。再び人間が学問と文化、そして美の中心となった
- ダヴィデ像で著名なミケランジェロ、古代の精神と福音書の精神を調和させようとしたエラスムスなどなど
ヨーロッパの分裂---カトリックとプロテスタント
- 教会の富、教皇をはじめとしたローマ・カトリック聖職者の悪しき品行、福音書の博愛の教え無視したありようが、少なからぬキリスト教徒を教会に反逆させ、離反させた。こうした改革者、プロテスタントを代表するのがドイツのマルティン・ルター(1483-1546)とジュネーブのジャン・カルヴァン(1509-64)だ
- プロテスタントは、教皇の権威、聖母マリアと聖人崇拝、中世神学を拒否し、聖書と教父(2~8世紀の時代にキリスト教の正統な理論や教説の著述を行った権威ある神学者のこと。アウレリウス・アウグスティヌス( 354-430)はラテン教父の一人で哲学者としても後世に大きな影響を与えた)たちへの回帰を求め、修道士制度を廃止して、聖職者の結婚を認めた
- プロテスタントは、イギリス、オランダ、スカンディナビア諸国などの北ヨーロッパで勝利し、カトリックは地中海ヨーロッパ、イタリア、スペイン、ポルトガルで維持された
- 二つのキリスト教はドイツとフランスを二分し、プロテスタントは少数派として、カトリックに留まり続ける王権によって迫害された。フランスではカトリックとプロテスタントが対立して恐ろしい内戦となり、1685年にルイ14世は遂にフランスからプロテスタントを追放した
泣く四旬節と笑う謝肉祭
- キリスト教改革はカトリック教会の方にも生じた
- 王や君主と臣民は大抵同じ宗教の信徒だったから、宗教的分裂は国民の分裂も生んだ
- 今日では、カトリックとプロテスタントの間には、北アイルランドを除いて敵意はほとんどないが、文化的、心理的刻印は押されている
- 一般に、プロテスタントは厳格な習慣を守るが考え方は自由、カトリックは習慣においてはより自由だが考え方は保守的だ
- プロテスタントとカトリックには、四旬節と謝肉祭という共通の傾向(慣習)がある。前者は復活祭前の断食と節制、後者はによる解放で、前者と後者との戦いはヨーロッパの大テーマなのだ
- ヨーロッパで国家が強大になった十六世紀から十七世紀における王朝や王家の願いは、ヨーロッパで最大の領土を拡大して権勢をふるうことだった
- 十六世紀にはオーストリア=スペインのハプスブルグ朝スペインのカルロス一世(=神聖ローマ帝国皇帝カール五世)とその息子フェリペ二世、十七世紀にはハプスブルグ朝と覇権を争ったフランスのブルボン王朝、特にルイ十四世太陽王・戦争王だ
- 十八世紀になると海洋を制したイギリスがヨーロッパの支配者となるが、この間ヨーロッパ人同士が相争う戦争が続いた
ヨーロッパ内外の新国家
- 1776年にイギリスはアメリカ大陸の植民地を失って、アメリカ合衆国が誕生する。この国の住民の大半はヨーロッパ人だったが、二十世紀にはヨーロッパの強力なライバルとなる
- 十八世紀には、ロシアではピョートル大帝が西洋をモデルに近代化を図り、スエーデンとプロイセンの君主も軍事力を基盤に権勢を確立した
バロックのヨーロッパ
- 十七世紀の初頭に、イタリア特にローマとトリノが近代的なスタイルの新しい芸術形式、バロックを発信する。ヨーロッパでは二つの様式、すなわち規則的で単純で左右対称の形態と、複雑で歪んだ左右非対称な形態を代わる代わる求めてきた。前者古典様式後者は近代様式と称せられる
- 十七世紀、古典様式が特にフランスとイギリスで優勢だったが、バロックはヨーロッパの大部分において建築、彫刻、絵画、音楽の各分野で広まった
・都市の例では、イタリアのトリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ナポリ、スペインのサマランカ、ボヘミアのプラハ
・画家ではフランドル人(オランダ)のルーベンス
・音楽家ではヴェネツィアのヴィヴァルディ(コンチェルト=協奏曲)、ドイツ人のヨハン=セバスチャン・バッハ(フーガ=主題の旋律が絡み合いながらの繰り返す形式)、フランスのジャン=フィリップ・ラモー(オペラ、作曲家、鍵盤楽器奏者)、イギリスで暮らしたドイツ人ヘンデル
ユマニスムから啓蒙へ、ヨーロッパ進歩思想の発展
- 強国は美術と文学の威光によっても重きをなしていた。十六世紀半ばから十八世紀半ばまではスペインの黄金の世紀だった。小説や演劇でヨーロッパ中に大きな影響を与えた
- フランスの古典主義は、(十七世紀後半)ルイ十四世の治世下におけるモリエールの文学とヴェルサイユ宮殿が広く芸術と文学の模範とされ、フランス語はヨーロッパの貴族と中産階級、教養人の言語に成って、その傾向は二十世紀まで続く
- イタリアは常に芸術の国だった。ヨーロッパの芸術家は若いうちから「グランド・ツアー」と称して、イタリアに長期間滞在して美術の原画に学ぶものとされていた
- 光は北方のイギリスからやってきた。十八世紀、圧倒的な成功を収めたイギリスの哲学が大陸を折檻してフランスの哲学者に引き継がれた
・イギリスの哲学者例、ベーコン、ホッブズ、ロック、ヒューム、アダムスミス
・フランスの哲学者例、デカルト、パスカル、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ - 一方、十六世紀以降、向こう見ずな人々が命がけでしばしば宗教を批判した。以降、科学と理性は哲学的思考を育み政治権力に対して次第に自由で不遜で大胆になった
- 「光で照らすこと」を意味する「啓蒙」はポルトガルからロシアまで、ヨーロッパ人の思考に不可欠の新しい基層となった
- たいして自由主義的でもない君主も哲学を鼻にかけて哲学者を相談役にしたりしたが、彼らと哲学者はやがて相互の幻想に気付いた。そして大抵の政府は、特にカトリック国では苛烈な検閲を徹底させ、そのため体制に異議を申し立てる著書の多くは、リベラルなプロテスタント国のオランダで偽名で出版された
近代科学の誕生
- 古代中国では、羅針盤、紙、火薬、印刷術、紙幣、時計などの卓越した科学が存在したが、その利用者は皇帝、官吏、文人などに留まっていた
- ヨーロッパでは発明を一般生活に結びつけて普及させた。およそ十五世紀以降、ヨーロッパの科学は観察、計算と理論、証明、実験、応用によって進歩した
ヨーロッパ人は地球と惑星を回転させた
- ヨーロッパ人は、既に中世に地球は平面ではなく球体であることを知っていたが、地球は不動で宇宙の中心にあるという聖書と教会の教えにかなったプトレマイオス(2世紀のエジプトの学者)の定理に異議を唱えなかった
- ニコラウス・コペルニクス(1473-1543。ポーランド生まれは研究はイタリアで)は地球を含めて惑星は太陽の周りを回っていることを、観察と計算で発見した。ヨハネス・ケプラー(1571-1630.ドイツ人)と、望遠鏡を発明し物理学の創設者であったガリレオ・ガリレオ(1564-1642.イタリア人)はその研究を進めた
ヨーロッパ人は血を循環させた
- イギリス人の医師ウイリアム・ハーヴェイ(1578-1657)は血液の循環を発見し、それ以降の医学に貢献した
ヨーロッパ人はリンゴが落ちるのを見た
- イギリス人のアイザック・ニュートン(1642-1727)は、リンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したと言われている。彼は『プリンピキア(自然哲学の数学的原理)』を著し、科学的な研究方法についての憲章とも言うべき原則を打ち立てた
ヨーロッパ人はなべを沸騰させる
- フランス人ドゥニ・パパン(1647-1712)は、シリンダーの中のピストンを動かすために水蒸気の圧力を利用する「圧力なべ」を発明したが、これは新しいエネルギーの発見であった。彼はプロテスタントだったので1685年にイギリスに亡命して、そこでこの発明をした
近代化学の創造
- フランソワ・ラヴォアジェ(1743-94、フランス人、近代化学の祖)、アレッサンドロ・ヴォルタ(1745-1827.電気学の始祖)、その他多くの人の発明は人類の知識と生活に変革をもたらした
数学機械の改良
- 多くの発明に基づき計算機が作られた。数学では特に代数学の進歩が目覚ましかった。主な数学者下記
・ルネ・デカルト(1596-1650.フランス人、哲学者として近代学問の祖とも言われている)
・ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716.ドイツ人、哲学者)
・レオンハルト・オイラー(1707-83.スイス人)
・ルイ・ド・ラグランジュ(1736-1813.イタリア出身のフランス人)
彼らはトリノ、ベルリン、パリで研究した
宇宙の構造の発見
- ピエール・ラプラス(1749-1827.フランス人、数学者)は、太陽系も地球も回転する星雲から誕生したとする「世界の体系」を提唱し、ニュートン以来のあらゆる発見を総合して『天空力学』を著した
進歩、ヨーロッパの新しい思想
- 近代科学を作った発見や発明は、ヨーロッパの学者達の共同体による共働の成果であり、そこには近代科学を巡る一つのヨーロッパが存在した
- 学者達は、蒸気機関に関わる分野に代表されるように、科学的発明が技術的発明と密接に繋がっていることをよく知っていた。このことは啓蒙哲学者の思想に繋がった
- この事実(科学と技術の発見・発明の進歩と啓蒙哲学・思想の繋がり)が、ヨーロッパの哲学者と学者のグループが企てた、大規模な共同著作の着想となった。全17巻の『百科全書、あるいは科学、芸術、技術の理論的辞典』(1751-72)だ。リーダーシップをとったのは、フランス人の哲学者ディドロと哲学者で数学者のダランベールだった
- 『百科全書』の刊行は、近代的精神の総決算とも言え、人類はヨーロッパにおいて、物質、科学、哲学の各分野で、古代以来存在したすべてのものを凌ぐ発見を成し遂げたという思想を広めた。これが「進歩」という思想であり、この考え方がヨーロッパ人を突き動かし、またヨーロッパ人が「進歩」を世界中に広めた
- 二十世紀に多くの残虐、危機、蛮行、そして無力への回帰があったことを知っている私たちは、進歩のリアリティーを疑っている。しかし、それらが一時の事故に過ぎなかったことになるよう対処しなければならなず、新たな進歩に向かって進むべきだ(進歩自体を止めてはならない)。
ヨーロッパに火をつけたフランス革命---賛成? 反対?
- 1789年、フランスに革命が起きて統治と社会のあり方がすっかり変わった。王制は廃止されて共和制が宣言され、「自由、平等、博愛」の理想が掲げられ、「人権宣言」がなされた。だが、この理想が実現していると考えられるだろうか?
- 自由と平等は寛容に至るはずだ。しかし実際には、革命家は、市民の自由を抑制し、独立した裁判によって公正に守られるべき権利を尊重せず、自分たちの敵を処刑し、恐怖による支配をした
- 共和主義者たちはフランス西部で、反対する人々に対して不寛容で残酷な戦闘を引き起こした。革命はカトリック教会や宗教をも攻撃して大多数の聖職者と信徒の憎悪を呼び起こす一方、プロテスタントとユダヤ人を他の人々と同じ市民として認めた
- 特筆すべきは、革命政府が、国王と旧体制を復活させるよう迫ったオーストリア皇帝とプロイセン王に、ついでイギリス国王とオランダに対して宣戦布告をしたことだ(1792年)。フランス革命は矛盾する二つの願望を含んでいた。それは、ヨーロッパの民衆に革命の福利と自由をもたらすことと、フランス人の征服欲を満たすこと、である
- ヨーロッパ人は革命の賛成者と反対者に二分された。新たに生じたこの亀裂は長く続き、革命と反革命、進歩主義者と反動主義者が対立し、今も尚続いている
- 当初、民衆は革命に賛成し王侯貴族は反対したが、やがて民衆もフランス革命に背を向けてますます民族主義的になり、覇権を求めて歩むようになった
ヨーロッパ統一の悪しき試み---ナポレオン
- ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)はフランスで権力を握ると、戦争をヨーロッパへと広げた。最初、ナポレオンは革命が実現した改革を完成させ、自由と更なる正義をもたらしたいと願っていた
- ナポレオンは、当初はポーランドやナポリ王国のように隣国や王朝に抑圧されていた国々で歓迎されたが、ついには全ヨーロッパがナポレオンに対抗する同盟を結ぶこととなった。中には、皇帝ナポレオンのフランスが支配するヨーロッパに抗して蜂起する民族(ナポレオンのモスクワ征服を阻止したロシア)やゲリラ(スペイン独立戦争)も出現した
ヨーロッパはロマン主義の夢を見る
- ユマニスム、バロック、啓蒙主義が誕生してヨーロッパ中に広がったように、十九世紀前半、ジャン=ジャック・ルソーを祖とする新しい文化・芸術運動、ロマン主義がスラヴやスカンディナビアから地中海沿岸まで広まった
- ロマン主義はとりわけ詩人、画家、音楽家に霊感を吹き込み、彼らは熱い情熱と夢想と自由の精神を賞賛した。ロマン主義は動きと色彩によって表現され、今日でも尚、多くのヨーロッパ人はロマン主義の感性を持っている
・ロシアの詩人プーシキン
・イギリスの詩人バイロン
・ドイツの音楽家ベートーベン、シューベルト、シューマン
・フランスの作家ヴィクトル・ユゴー、画家のドラクロア、作曲家のベルリオーズ
・イタリアの小説家マンゾーニ
・ポーランドの音楽家ショパン
・ハンガリーの音楽家リスト
などなど
機械とお金の十九世紀
- はじめ(十八世紀後半から)はイギリスで、次いでヨーロッパ大陸の国々が新しい技術を開発し、機械を製造し、産業を興した(産業革命)。必要な石炭(エネルギー源)と鉄鉱石(重要な材料)が大量に採掘され、木綿の加工から繊維産業(衣料の普及)が生まれ、蒸気機関(動力源)によって交通は飛躍的に発展し(機械の能力も飛躍的向上し)、大量の労働者は(主に農村から連れてこられて)労働者階級を形成した。労働者階級の生活環境は劣悪で悲惨であった
- 十九世紀末には電気が出現し、第二次産業革命が起こった。また、内燃機関が(新しい動力源となりそのエネルギー源として)ガスと石油が利用され、化学は(材料など人工の諸物質)染料、繊維、肥料、鋼鉄(強い鉄)などをつくりだした
- 産業に必要な資金を供給するため(のいろいろな工夫がなされ)銀行が発達し、紙幣が普及し、株式会社が生まれた。こうして資本主義が圧倒的な力を持つようになり、ヨーロッパは金銭の時代に入った。だが金持ちと貧しい人の格差が、かってないほど広がった
日常生活の激変
- ヨーロッパ人が発明したミシン、自転車、電話が人々の生活を変えたが、その後アメリカ合衆国が科学と経済の発展に寄与するようになる。アメリカのトマス・エジソン(1847-1931)は多くの発明をしたが、彼は新しいタイプの人間、技術者といえる
民族と国民の目覚め
- 十九世紀には、長い間抑圧されていた民族が目覚めた。これにはよい面と悪い面があった。よい面は民族が独立する権利に目覚めたこと、悪い面は悪しきナショナリズムが他国の独立平和の脅威となったことだ
- フランスの七月革命(1830年)はヨーロッパに新国家の形成をもたらした。ベルギーのオランダからの独立やギリシャのトルコからの独立などがそうだ
イタリアとドイツの誕生
- イタリアとドイツは民族的統一に成功して国民国家になったが、王を戴き続けた。イタリアは、フランスの支援の下にオーストリアから北イタリアのミラノやヴェネツィアを奪回し、1870年にイタリア王国が誕生した。ドイツのいくつかの国は、普仏戦争に勝利した後1871年に統合してプロイセン王を皇帝に戴く一つの国家となった
- 今日尚、ドイツとイタリアは、イギリスやフランスが中世以来獲得してきた安定感と一貫性には欠ける、若い国だということを忘れてはならない
諸国民に立ち向かうヨーロッパ
- 軍事力の上に築かれたナポレオンのヨーロッパ帝国を解体した人々は、1815年にウィーン会議を開催してヨーロッパの見取り図を描いた。だが、このウィーン体制が目指したヨーロッパは、諸国民の自由を認めないものだった(神聖同盟のヨーロッパ)
- 「神聖同盟」のヨーロッパを支配したのは、ロシア、プロイセン、オーストリア=ハンガリーの君主で、イギリスが多かれ少なかれ支援していた。会議を象徴する人物はオーストリア人の宰相メッテルニヒだった
- 1848年の民衆的な革命運動はことごとく敗北し、ナポレオンの甥がフランス共和制を廃止して帝政を復活し、ナポレオン三世となった
- 特に抑圧の犠牲になったのはポーランド国民だった。ポーランド国民は1831年に蜂起したが1863年にロシアによって鎮圧された
- 1867年、オーストリアはハンガリーに妥協したが、それは二重君主制(オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねることで連邦を形成する)による他民族支配を目指したものだった。「汝の群れを手放すな、我らは我らの群れを手放さない」とささやかれたが、「群れ」とは、ポーランド、スロヴァキア、ルーマニア、スロヴェニア、クロアチアのことだ
ヨーロッパが世界を植民地化する---ヨーロッパ-世界
- 十六世紀以降、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダが、とくにアメリカと極東アジアに領土を獲得した
- ロシアは南のウクライナを征服し、東方のアジア、シベリア征服へ向かい、はじめての帝国を形成し、帝政ロシアは十九世紀にはアジアに拡張する
- ロシアは他のヨーロッパの帝国と比較すると独特であった。地続きの広大な帝国は、ヨーロッパとアジアの境界を消失させ、ムスリムが多く住む中央アジアを包摂した。シベリアは政治犯の流刑と強制労働の地となった
- 十八世紀末から十九世紀初めにかけて、アメリカ全土がイギリス、フランス、スペイン、ポルトガルから独立した。これは最初の大きな脱植民地化であった
- 十九世紀、フランス、イギリス、ロシア、次いで統一後のドイツとイタリア--この二カ国にはごく小さな分け前しか残っていなかったが--が、アジアに帝国をか勝ち取った。フランスはインドシナに、イギリスはインドに、アフリカは一番の犠牲となり、主にフランスとイギリスが、次いでベルギーとポルトガルによって分割された
- 黒人のアフリカはヨーロッパ人によって解体された。保守主義のヨーロッパが1815年にウィーン会議を開催したように、植民地主義のヨーロッパは1878年にベルリン会議を開催し、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割を秩序づけた
- この植民地化は十字軍を連想させる。たとえ宗教的動機はなくても植民地化もまた、十字軍同様、その影響を消すことが出来ないヨーロッパの犯罪なのだ
- ヨーロッパ人は、アフリカ大陸の人々に対して、健康や教育の分野ではなにがしかの福利をもたらしたが、経済的利益は自分たちだけで搾取し、自由を奪い、尊厳を奪い、アイデンティティーを奪った
- アフリカの国々は今では独立国だが、彼らの傷が完全に塞がったわけではない。ヨーロッパは(この歴史的事実を)記憶し、こうした恥ずべき汚点が二度と繰り返されぬようにし、経済的搾取をやめ、旧植民地の方法を継いだアフリカの堕落した独裁政権への支持をやめるべきだ
- アフリカの植民地化において、一つの国が希望を体現している。南アフリカだ。ここでは二十世紀において採られていた人種隔離政策、アパルトヘイト(黒人を白人から分離して劣悪な状態に住まわせる隔離体制)が、黒人自身の闘いによって覆されて政治的平等を実現した
歴史と哲学の世紀
- 経済、科学、政治の分野でかってない変動を生きていたヨーロッパ人にとって、歴史が十九世紀の主要な関心事の一つとなった
- 歴史の研究はしばしば国民を対象とすることで発展する。偉大な作家で民主主義の闘志でもあり、長大な『フランス史』を執筆したジュール・ド・ミシュレ(1798-1874)、民族主義色の強い『フランス史』(1900-1912)を刊行したエルネスト・ラヴィス(1842-1922)はフランスの偉大な歴史家だ
- 歴史の知識はヨーロッパの人々にも、ヨーロッパの建設のためにも、非常に重要なものだ。いかに未来を準備すべきかを知るためには、過去を知り、ヨーロッパのよき伝統を発展させ、ヨーロッパの人びとの犯した過ちと罪を繰り返さないようにしなければならない。愛国主義的神話をでっち上げて歴史を操作することも避けねばならない。歴史は時代に真理をもたらし、進歩に役立つものであるべきだ
- 同じ理由で哲学も、人間とは、社会とは、歴史とは何かを理解しようとする。哲学の分野では、カントからヘーゲルまで、ドイツ思想が格別の威光を放った
- 美術や文学では一国の威光、あるいは運動がヨーロッパ中へ伝播し、継続することがある。十九世紀末、偉大な作家トルストイとドストエフスキーを擁したロシアがそうであった
- 美術では印象派が開花した。イギリス人のターナー、フランス人のマネ、モネ、ドガ、ルノワール。さらにモダン・スタイルあるいはアール・ヌーヴォーが登場し、二十世紀初頭にはキュビスム(立体派。ルネサンス以来の一点透視図を否定した)がフランス人のブラック、スペイン人のピカソなどによって、次にはシュルレアリスムが続く
学校と大学
- 十九世紀、ヨーロッパは殆どすべての子どもが読み書きを学び学校に通う最初の大陸となった。フランスでは第三共和政が無償で無宗教の初等義務教育を実施し、これが義務教育の規範となった
- 高等教育も発展した。中世に誕生した大学の教育も近代化されて、科学と歴史が教えられるようになった。しかし大学の多くは国際的ではなくなった、というのは教授や学生の大半が、大学のある国の出身者で占められるようになったからだ
学者と科学的進歩
- 科学は飛躍的に前進した。以下は著名な例
・フランスの生理学者クロード・ベルナール(1813-78)は肝臓が糖を作ることを発見
・フランスの化学者・生物学者ルイ・パストゥール(1822-95)は細菌と狂犬病ワクチンを発見
・イギリスの化学者で物理学者のマイケル・ファラデー(1791-1867)は電気化学・電磁気学
・ドイツのマックス・プランク(1867-1947)は量子論
・デンマークのニールス・ボーア(1885-1962)は原子論
・フランスのアンリ・ベクレル(1852-1908)、ピエール・キュリー(1859-1906)と妻のポーランド人マリー・キュリー(1867-1934)は放射線の発見
・神経病理学者のジークムント・フロイト(1856-1939)はそのころ精神分析を創始した - 同時代の学者は互いに交流し、さらに前に進むために支え合った
イデオロギーがヨーロッパを分割する
- 十九世紀のヨーロッパには、自分たちの考えを社会の中で実現しようとする哲学、経済学、政治学の理論が出現した。これがイデオロギーだ。それらの中で最も重要なのが、自由主義、社会主義、マルクス主義だ
- 自由主義には二つの面がある。一つは政治における自由主義で、もう一つは経済における自由主義だ
- 政治における自由主義は独裁的な考えとは対極にあり、自由と寛容を賞賛し、普通は民主主義に至る。ヨーロッパの大部分の国で議会の普通選挙を成功させた
- 経済における自由主義は、生産と交換、市場の働きを巡る経済活動を、経済法則が調整するに任せるという考えだ。この自由主義は労働者を市場の法則の犠牲にして、貧困と悲惨な生活のなかに閉じ込めた
- 十九世紀、多くの工場労働者の家族の悲惨さは恐ろしいものだった。限度のない経済的自由主義のヨーロッパ、これもまた悪しきヨーロッパだった
- 社会主義は政治的自由主義を一歩進めて、経済的自由主義とも闘った。社会を社会的正義と平等に向けて進めようとした
- ドイツ人哲学者で経済学者のカール・マルクスの考えに基づくマルクス主義(が歴史的必然と考えた社会)は、社会主義の究極の形態だ。そこでは、資本家階級と労働者階級はもはやなく、労働者独裁政権となっている
- レーニンによって激化したマルクス主義は、1917年のロシア革命を経て政権を獲得した。スターリンは(自由とは対極の独裁によって)ソヴィエト連邦をマルクス主義の極端で野蛮極まる活動空間にしてしまった。そしてにソヴィエト連邦は崩壊した(1991年12月25日)
- 科学とイデオロギーの境界で、イギリス人のチャールズ・ダーウィン(1809-82)が動物種の進化論を確立した。それは強い者が選ばれて生き残る(というのが自然の法則としての真理だ)という考えだが、ダーウインの見解のいくつかは今日強く批判されている
- いくつかのイデオロギーが科学という仮面を被り、最悪の事態を招いた。(ダーウィンの進化論という科学の仮面をがぶった)人種主義、反ユダヤ主義は、ヨーロッパの「内部に巣食う古い悪魔」の近代における再来だ
- イデオロギーは、その不合理で急進的な性格を排除しなければならず、理想的な規範に変えねばならず、その闘争の急進性を平和で率直で寛容な思考による論争に変えねばならず、ヨーロッパは平和的対話の場にならなければならない
- 経済分野は、自由を尊重する市場経済と、国家による管理とを組み合わせるべきだ。市場経済は社会の不平等を助長する傾向があるので、国家による節度ある管理によって適正化されることも必要なのだ
労働者とスポーツ
- 十九世紀には、ヨーロッパでは労働者の権利を守る組織である組合と、工場労働者を保護するための法律が誕生した
・1875年、イギリスで労働組合が認められた
・1864年、フランスでストライキを認める法律が出来た
・1884年、フランスで結社の自由が法制化された
・1880-85年、ドイツで社会保障システムが採用された
・1895年、フランスでは組合が労働総同盟(CGT)に再編され、1906年に労働省が設立された
・1864年、社会主義の影響下で、さまざまな組合と政治組織を束ねる機関がロンドンに設立される(第一インターナショナル)
・1898年、第二インターナショナルがパリで再結成された。組合とインターナショナルは労働者を守るだけでなく、法によってであれ暴力によってであれ、社会をもっと平等で正しい方向へと変革することを目指していた(労働歌=インターナショナル)
・1919年、第三インターナショナルが、レーニンによりモスクワで結成された - 個人スポーツと団体スポーツが再生した。中世が肉体を悪しきものと見なしたので、スポーツは競技場とともに消滅していた。
- 最初、スポーツは貴族のものだったが少しずつ大衆化された。やがてヨーロッパ各国対抗競技が始まり、スポーツは国内とヨーロッパ全体が同時に発展した
・体操は十八世紀末からドイツなどで行われ、スウェーデン体操と呼ばれる体操が行われた
・十九世紀半ば頃、イギリスでサッカーから新しいスポーツラグビーが生まれた
・1853年、最古のスポーツ協会のボート協会がフランスで設立された
・1882年に「フランスレーシングクラブ」が、1883年に「スタッド(スタジアム競技)」が、1908年にはスポーツの国家委員会が、フランスで設立された
・1896年に(近代)オリンピックが開催された(ピエール・クーベルタンが再興を推進した)
二十世紀、悲劇から希望へ
- 本質的なこと、すなわち、何がヨーロッパの人びと同士をを近づけ、何が遠ざけたのか、歴史はヨーロッパの人びとに統一の準備和させたのか、あるいは分裂の準備をさせたのか。この点で、二十世紀は実にドラマと陰影に富んでいる
ヨーロッパは殺し合い、地獄に堕ちた
- ヨーロッパは二度、未曾有の破壊と犠牲を生んだ世界大戦の主戦場となった。最初が1914年から1918年の第一次世界大戦で、フランス、イギリス、ベルギー、イタリア(1915年以降)、ロシア---1917年の革命後に同盟と戦争継続を放棄---、同盟と、ドイツ、オーストリア=ハンガリーが戦い、後者が敗北した。戦争は非常に恐ろしい記憶を残したから、多くのヨーロッパ人がこれを最後の戦争にしなければならないと言った
- ところが二十年後、アドルフ・ヒトラーのドイツが、オーストリアとチェコスロヴァキアを併合し、ポーランドに侵攻した。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、ムッソリーニの率いるイタリアがドイツを支持し、民主主義陣営対ナチ(国家社会主義)独裁制とファシスト(体制のシンボルである「束」に由来する)陣営の戦いになった。ドイツはオランダとベルギー、さらにデンマークとノルウエーに侵攻し、フランスを降伏させ、イタリアはセルビアとギリシャを攻撃し、ドイツとイタリアはほとんど全ヨーロッパ占領した。占領されなかったのは、抵抗していたイギリス、中立国だったスウェーデンとスイス、ドイツの友好国で参戦しなかったスペインとポルトガルだけだった。ヒトラーは、ドイツとナチズムがヨーロッパを支配することを望んでいた。それはかって企てられたヨーロッパ統一の試みの中でも、最悪のものだった
- ソヴィエト連邦は、1939年にドイツの開戦を認め、かつポーランドを分割する条約をドイツと結んだが、最後は西洋民主主義の陣営の一員として対ドイツ戦に参戦した
- アメリカ合衆国の強力な援軍があり、イタリア、次いでドイツが遂に敗北した
- この恐ろしい二つの大戦がそれぞれ後に残しのは、数百万の死者を嘆く廃墟になったヨーロッパと、国境の激変だった。国境の変更は、一方では正当だとしてもまた新たな不公正も生じて、将来の禍根を残した
- 戦争の恐怖は、二つの大戦の間と第二次世界大戦後における怪物的な政治・社会体制が犯した犯罪によって高まった。軍隊、特に警察が、血に染まった独裁者とその協力者に命じられるままにその手先となり、殺人と人権侵害を行ったのだ(怪物的な政治・社会体制とは、ナチスドイツやファシストイタリアやソ連の共産党などの独裁国家)
記憶しなければならない
- ヒトラー体制のドイツは強制収容所を張り巡らし、ドイツ人とヨーロッパ人の政治犯、そして順次、ナチの人種主義の犠牲者であるポーランド人、ロマ、なによりユダヤ人が無実のままそこに移送されて、おぞましい環境に閉じ込められた
- フランスでは、フィリップ・ペタン元帥指揮下の忌まわしいヴィシー政権の協力を得て、ユダヤ人の移送が行われた
- 1942-43年以降、ナチは人種故に逮捕された囚人、特にすべてのユダヤ人の絶滅を決定した。これがナチが〈最終的解決〉と呼んだものだ。ユダヤ人に対する民族大虐殺、「ショアー」(=ホロコースト)だ。この犯罪を記憶すべきだ。
- ナチの強制収容所と悲しき対をなすソヴィエトのシベリアの収容所「ラーゲリ」もまた、劣悪な状態で強制労働に従事させられた流刑囚で一杯だった。多くの人が亡くなった。この「ラーゲリ」も記憶すべきだ
- 独裁制の恐怖の程度は多少ましだったものの、フランコに支配されたスペイン、サラザール統治下のポルトガル、コロネル(大佐)たちに支配されたギリシャなどの独裁国家下での人権侵害も忘れてはならない
- ソヴィエト連邦と西洋の民主主義陣営は同盟して勝利を獲得したにもかかわらず、間もなく対立する。ソヴィエト連邦はポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアに共産主義体制を導入し、軍事的にこれらの国の大部分を占領した。
- ソヴィエト連邦は鉄条網と監視塔と壁(ベルリン)を設置して、東側の人びとが西側に来られないようにした。これが「鉄のカーテン」であり、ヨーロッパにおける「冷戦」であった
- ソヴィエト連邦の共産主義は、1980年代末、生活を支えるための経済を維持できず、また警察力の行きすぎによって衰退し、崩壊した
- ソヴィエト連邦に従属させられていた中央ヨーロッパと東ヨーロッパの国々はふたたび独立と自由を取り戻し、ベルリンの壁は壊され、二つに分割されていたドイツは再統一した
- ソヴィエト連邦自体は分解して消滅して、ロシアと独立国家の数々が出現、あるいは再出現した
- (ソヴィエト連邦が崩壊して出現、あるいは再出現した諸国家においては)民族紛争の脅威が重くのしかかっている。それは長年にわたり、オーストリア=ハンガリー帝国、そしてとくにロシアとソヴィエトの帝国によって国と民族が抑圧されていたからだ。最も緊迫した地域は常に旧ユーゴスラビアであり、そこはナショナリズムによって勢いづいた民族同士の残酷な紛争の舞台となっている。ナショナリズムは公正な面よりも悪しき面の方が強いことが多いのだ
ヨーロッパはもはや世界を支配していない
- ヨーロッパ人がネイティブ・アメリカンを追いやって作った国であるアメリカ合衆国は、十九世紀半ばから留まることなく次第に強大になった
- 二つの世界大戦後、ヨーロッパの主要国、ドイツ、イギリス、フランスはアメリカ合衆国に追い抜かれた
- 日本は、第二次世界大戦で敗北したものの、世界的な強国になった
- 巨大な中国が目覚めつつある
- 地理的な広大さとその人口故に亜大陸と呼ばれるインドも、おそらくいつかヨーロッパを代表する国々よりも強大になるだろう
- 技術、科学、研究の分野でも、裕福なアメリカ合衆国がヨーロッパを追い越した
- フランスとイギリスは原子爆弾を保有し、ロシアはなおも大型爆弾(水爆)を大量に保有しているが国家自体は脆弱となった
- 原子力の軍事利用の分野での唯一の強国はアメリカ合衆国だが、原子力は平和的エネルギーとして以外は利用されるべきでない
- ヨーロッパ人による支配が終焉したプラス面は、脱植民地化だ。地球上にもはやヨーロッパの被植民地民はほとんどいない。ヨーロッパの人びともまた植民地という重荷から解放された
- ヨーロッパ人が自分たちの間に、また世界に、その平和的影響力によって、繁栄、正義、文明化の意思を行き渡らせようとするとき、もはや植民地を有しているというハンディキャップを負っていない
- ところで、新たなる諸大国を前にして、個々のヨーロッパ諸国は何をすべきだろうか。それは結束して。大きな統一ヨーロッパを形成することだ。そうすれば・・・
・アメリカ合衆国、日本、やがて大国になるであろう国々と同じくらい強くなれる
・独立、自由、伝統、独自性、未来を守ることが出きる
・他国に対し自らを閉じるような輸入制限をしてはいけない(アメリカの衣服・食料、日本の自動車など)
・だが、自分たちの文化、伝統を支えている物や生活様式を平和のうちに守り、アメリカ化、日本化に飲み込まれてはならない(ワイン、ビール、パスタ、映画、テレビ番組、文学)。(それが大事なことであるのは)中欧や東欧のヨーロッパ人、そしてロシア人自身が、完全にソヴィエト化されることは免れた(ことが示している) - ヨーロッパは一つに纏まるための切り札を持っている
・フランスとドイツの間では、何世紀にもわたって絶え間ない紛争が続いてきた。そしてこのことがヨーロッパの平和と安定を揺るがしてきた。だが、いまでは両国は友人であり、一つに結びついたパートナーになっている。これはヨーロッパにとって大きな切り札だ
・二度の大戦によって引き起こされた災厄の教訓は、今度こそ理解されたと思われる。ヨーロッパ人は平和を望んでいる
・最後の大事な切り札は、ヨーロッパにはすでに政治的独裁制が存在しないことだ。つまり、すべての国が民主制であり、法と市民の権利を尊重し、いかなる拘束もない普通選挙によって選ばれた議会を持っている
・大多数のヨーロッパ人は、彼らを抑圧したものを完全に消滅させなければならないことを、またヨーロッパ人が何世紀も前から共有してきたすべてのものを活用していかねばならないことに充分気付いている - EU(欧州連合)への歩み 略年表
・1929年 フランス外相アリスティード・ブリアンがジュネーブの国際連盟の会議で、「ヨーロッパ合衆国」を提唱
・1948年 西ヨーロッパの国々でヨーロッパ経済協力機構(OEEC)発足
・1951年 フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの六カ国によるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体を創設するパリ条約が調印され、フランス人ジャン・モネを総裁にルクセンブルグで発足
・1957年 ヨーロッパ経済共同体およびヨーロッパ原子力共同体の設立に向けたローマ条約に六カ国で調印
・1967年 ヨーロッパ共同体(EC)が成立
・1973年 イギリス、アイルランド、デンマークがヨーロッパ経済共同体に加盟、ECは九カ国に拡大
・1979年 ヨーロッパの通貨を共通にする欧州通貨制度(EMS)が発足
・1981年 ギリシャが十番目の加盟国になる
・1986年 スペインとポルトガルが加盟。さらに強固な結束を目指す新条約、単一ヨーロッパ議定書に調印
・1992年 ヨーロッパの単一通貨を見越したECの強化に関する条約にマーストリヒトで調印。EU発足
・1994年 オーストリア、フィンランド、スウェーデンの加盟承認。十五カ国に
---------その後の追記--------
・1999年 欧州単一通貨ユーロ導入。アムステルダム条約発効
・2002年 ユーロ紙幣・硬貨流通開始。イギリス、スウェーデン、デンマークを除いた12カ国でユーロを導入
・2004年 旧共産圏を含む10カ国(ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、エストニア、リトアニア、ラトビア、マルタ、キプロス)が一挙にEU加盟。加盟25カ国の首脳が欧州憲法に調印
・2005年 フランスとオランダで国民投票により欧州憲法の批准拒否。欧州憲法は発効せず
・2007年 ブルガリア、ルーマニアがEU加盟。欧州憲法に代わるリスボン条約(改革条約)に首脳らが調印
・2009年 リスボン条約発効
・2012年 EUがノーベル平和賞受賞
・2013年 クロアチアがEUに加盟して、28カ国体制になる
・2015年 5月に、EU離脱が争点となった英総選挙で、キャメロン首相率いる与党・保守党が単独過半数となる
・2016年 6月23日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱支持は52%、残留支持は48%を得票
-------------------------
十五カ国から二十七カ国へ
- 上記の表の追記があるので省略
急速に、あるいはゆっくりと?
- 2005年にフランスとオランダで国民投票により欧州憲法の批准を拒否し、欧州憲法は発効しなかった。わたし(著者)はヨーロッパの更なる統一を支持するが、多くのヨーロッパ人が疑問を感じていることは理解する
- 統一されたヨーロッパはすでに驚くべき進歩を実現した。ヨーロッパ人同士が戦争をすることはもう無いだろう、民主主義は行き渡り、死刑は廃止され、加盟国に国境の無い空間(シェンゲン領域→1985年に最初の条約が調印されたルクセンブルグの村の名前が由来)が生じた
・ブリュッセルの欧州委員会は少しずつだが前進している
・ヨーロッパとは長い忍耐なのだ
・それでもヨーロッパの建設には、一層ダイナミズムを取り戻してもらいたいものだ
・政府と政治家はヨーロッパのためにもっと真摯に働くように求めるべきだ
・イギリス人がもっとヨーロッパ人になるように助けること(が必要だ)
・ヨーロッパにはイギリスのもっと積極的な参加が必要だ
・とにかく、自分たちのことなのに引っ込み思案で縮こまり、前へ進むのを怖がるような生ぬるい人びとの真似だけはしないで欲しい
・欧州懐疑論者と呼ばれる人びとが、彼らの懐疑主義を捨て去るのを助けなければならない
どんなヨーロッパ?
- EUの大きな目的の一つは、他の世界規模の集合体と釣り合いをとることだ。二十一世紀、人類はいわゆるグローバリズムによって、世界中で強者の支配を受ける状態にあるからだ・統一されたヨーロッパは430万平方キロメートルの面積に4億9000万人の人口
・アメリカ合衆国は964万平方キロメートルの面積に2億9900万人の人口
・中国は958万平方キロメートルの面積に13億1100万人の人口
・インドは330万平方キロメートルの面積に11億2200万人の人口 - 統一されたヨーロッパの優先目標は、共通のエネルギー政策や環境保護と並んで、共通経済政策の実現だろう
・ヨーロッパ共通の銀行の支配は避けるべきだ
・ヨーロッパ共通の銀行はヨーロッパを統治すべきではなく、ヨーロッパに役立つべきものだ
・単一通貨ユーロは一つの進歩だ。通貨が多様で、絶えず両替に頼っていたことが、ヨーロッパ経済発展にブレーキをかけていた。しかしEUの全加盟国が自国の通貨としてユーロを導入したわけではない(2017年2月現在、19カ国(オーストリア、ベルギー、キプロス、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、マルタ、オランダ、ポルトガル、スロバキア、スロベニア、スペイン、リトアニア、ラトビア) - トルコのEU加盟については、ヨーロッパ人の意見は非常に割れている
・私(著者)は地理的、歴史的、政治的現状から、近い未来の加入は正当化できない
・宗教的理由は重視すべきではない。ヨーロッパは政教分離が原則で、トルコはチュニジアとともにイスラム国の中で最も政教分離が進んでいる
・地理的、人口的アンバランスから生じる危険がある。トルコの国土面積は77万6000平方キロメートル人口は7400万人。EUに既に加盟した文句のつけようがないヨーロッパである国々に関してさえ、加盟国拡大が少し性急すぎたことを思い出すべきだ(つまり、トルコにはヨーロッパとして相対的に文句をつける余地があるということだが、それは何かは明示されていない) - ヨーロッパは経済、金銭、ビジネス、物理的利益だけに支配されるべきではない。文化と文明のヨーロッパであるべきだ。それがいつの時代もヨーロッパの最善の切り札、尊い遺産だ。ギリシャ=ローマ、キリスト教、ユマニスム、バロック、啓蒙時代などを思い出して欲しい
- 人権、これはヨーロッパが創り出したものだ。女性の権利、子どもの権利を大切にするヨーロッパであるべきだ。不平等、失業、排除と闘う、もっと公正ななヨーロッパ、人間と生きるものと自然のバランスを大切にすることに、一層気を配るヨーロッパ(となって欲しい!)
- よき美しきひとつのヨーロッパの実現は、皆さんの世代に託された大プロジェクトだと思う。人間には、特に若いときには、理想となり情熱を注ぐべき大きな目標が必要です。ヨーロッパの建設に情熱を傾けて欲しい
- 「どうか忘れないで欲しい、記憶なしにはよきことは起こりえないことを。歴史は公正な記憶を差し出すためにあり、そうした記憶こそが過去を通して皆さんの現在と未来を照らし出すのだと言うことを。」
おわり
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