2015年11月15日日曜日

『リヴァイアサン』(ホッブズ)第一部

この本は、イギリスにおいて、清教徒革命の頃(17世紀中頃)に書かれたものです。ホッブズは、人間を国家(リヴァイアサン)の素材であると認識し、まず人間の洞察から始めている。第一部はその箇所に該当しているが、有名なホッブズの政治哲学の考え方はこの第一部の十三章から十六章にかけて示されている。
その考え方は簡単に言うと次のようになる。人間は、自然状態においては、自身の生命を維持するためには何をしても許されるべきである。だが、人間というものは、相互不信に陥れば恐怖に囚われるものである。よって、自然状態において相互不信に陥れば、各人が各人に対して戦うという状況が起り、互いに殺し合い滅亡する。だからそれを回避するには、生存を保証するルールを守らせるだけの力を持った共通な権力(国家)を作る以外にはない。
注意しなければならないのは、よく引き合いに出される「万人の万人に対する戦い」が政治思想としてホッブズの一番基本的な考え方であると誤解することです。一番基本的な政治思想は「平和を希求すべし」(第一の自然法の基本部分)ということであって、そのことを可能にするものは、人間の理性である、という思想にあります。尚、「万人の万人に対する戦い」という言葉は『リヴァイアサン』ではなく、それより前に書かれた『市民論』に使われています。
やはり読み継がれてきた古典は、自分で原典に触れて、全部では無くても大事な箇所をゆっくりと読むと勉強になります。そこから、他の人の考え(先入見)になるべく惑わされずに、また当時の個別事情に惑わされずに、普遍的なものを読み取るところに面白さがあると思えます。なにしろ時代背景、現実条件が全然違うのですから。付け加えれば、その違いの理解は歴史の知識があればあるだけ深まることは容易に推測できます。

※もう少し詳しく知りたい時には、別のブログ「爺ーじの哲学系名著読解」をみてね


2015年10月19日月曜日

『資本論(第一巻)』カール・マルクス【全25章ごとの感想】

『資本論』カール・マルクス著(第一巻 岡崎次郎訳 大月文庫)
――読書感想(読解篇は、別のブログ爺~じの哲学系名著読解を参照してね――

【目 次】
第一巻(第一部)
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第二章 交換過程
第三章 貨幣または商品流通
第二篇 貨幣の資本への転化
第四章 貨幣の資本への転化
第三篇 絶対的剰余価値の生産
第五章 労働過程と価値増殖過程
第六章 不変資本と可変資本
第七章 剰余価値率
第八章 労働日
第九章 剰余価値率と剰余価値量
 第四篇 相対的剰余価値の生産
第十章 相対的剰余価値の概念
第十一章 協業
第十二章 分業とマニュファクチュア
第十三章 機械と大工業
第五篇 絶対的及び相対的剰余価値の生産
第十四章 絶対的及び相対的剰余価値
第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
第十六章 剰余価値率を表す種々の定式
第六篇 労賃
第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
第十八章 時間賃金
第十九章 出来高賃金
第二十章 労賃の国民的相違
第七篇 資本の蓄積過程
第二十一章 単純再生産
第二十二章 剰余価値の資本への転化
第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
第二十四章 いわゆる本源的蓄積
第二十五章 近代植民理論
第一巻終わり





第一章 商品 と 第二章 交換過程
一章と二章が『資本論』という本の基本的な思考の枠組みをなしていると思う。つまり、人間の営みの基本には経済活動があり、経済活動を考察するときのキーワードは「商品」である、とマルクスは言う。では「商品」とはなんだろう?この章はこの問いに対するマルクスによる回答だ(小生はフッサールが好きなので、「商品」の現象学的本質観取だと思う)。「商品」という歴史的現象から先入観を除いてその本質を取りだした。商品は人間の労働による価値生産物であるが、その価値は使用価値と交換価値という、価値についての二重性を持っているという。その意味は次第に分かってくるはず。だが、その意味がわかったとしても、その意味するところのものは本当か?それはわれわれ読者が自分で試してみるほかはない。

第三章 貨幣または商品流通
貨幣の使い方は普通誰でも知っている。しかし「貨幣」って何?という問いには答えるのが難しい。だが、チョット考えると貨幣=お金の使い方も稼ぎ方も自分の生き方の中で考えはじめた途端にとても難しくなる。

第四章 貨幣の資本への転化
段々と「資本」の話へと進む。ここで「資本」は悪だと思い始めてはいけない。そういう感じ方は宗教等々での対立と同根であり、すべての物事を良い方へは進めない。

第五章 労働過程と価値増殖過程
富を生む源泉は働くことにある。このこと自体は疑えない。その富がどうしてみんなに行き渡らないのだろう?富を公正に分配するという正義を達成する方策を、マルクスの理論を参考にして生み出すことができるのだろうか

第六章 不変資本と可変資本
「物」ならともかく労働力が「商品」であるということが、「元凶」ではなく「原因」なのだ。そのことは「資本」というものをこの二つ、不変資本と可変資本に分解して考察してみるとよりはっきりするという理論の力はたいしたものだ。

第七章 剰余価値率
数字の意味を理解するのは大切だ。数字には意図や場合によって恣意があるから。マルクスの言う剰余価値率の分母は全部の資本ではない。この数値にも意図がある。

第八章 労働日
この章に記述されている当時の悲惨な労働状況にマルクスは怒っている。実にまっとうな怒りである。その原因は「資本」による労働の搾取であり、資本主義生産体制において絞り込んで考察すれば、人間から時間を盗むことである。ここで怒りにまかせて「資本主義」を倒せば良いと考えてはマルクスも浮かばれない。現代にも受け継がれているこの不正義の是正にマルクスの理論を役立てることこそ、みんな(あえてみんなと言っておこう)に負わされた役割だよね。

第九章 剰余価値率と剰余価値量
資本主義生産体制に移っていくと動かすお金が大きくなってくる。するとできることも大きくなって、利益総額も増え、資本家にとってはよいことだ。だが同時に、すべての人間の意識のなかで価値の逆転が起こっていることには気付いていない。やがてこれが牙をむくことに・・・。

第十章 相対的剰余価値の概念
知恵や努力によって生産力が高まった結果新たに生み出された富は、相応に分配されるのが正義というものだろ!そういう智恵を生み出すためにマルクスの理論は使えそう。

第十一章 協業
みんなで協力して働いた成果は、みんなが使えるようにしないとね。ただお金だけが増えてしかもそのお金を使うことができる人が特別な人たちだけだったら怒るよね。商品の価値の二重性、使用価値と交換価値という見立ては、そのことを考えるうえでやはり深い意味がありそう。

第十二章 分業とマニュファクチュア
分業が進み専門化と高度化と機械化が進んで行って、人間の部品化が進み従って人間性が失われていく、ということは誰でも嫌なことだと思う。どうしてそうなってくるのかといういきさつ知れば、みんなで知恵を出して先手を打てるかもしれない。マルクスの理論はその一つの手助けになりそう。

第十三章 機械と大工業
資本主義的生産体制は、いよいよ経済・社会構造の歴史的発展の最終段階、機械と大工業の時代を迎える。そこにおいては、西欧近代の科学と技術の力が強大な役割を演じ、そのことで内包する矛盾が益々顕著になる一方で、同じく西欧の自由と人権の思想がそのような経済・社会の構造に徐々に反撃を加えていく、というマルクスの見立てが語られている。因みにそのような大工業は歴史必然的に崩壊して、働くものが報われる社会が到来することが予告されているが、それがどのようなものなのかは語られていない。この章は、第八章の労働日と並んでマルクスの社会観察の具体例が沢山記述されている。これらの多くの事例の記述から、弱いものの味方マルクスのモチーフがよく感じ取れるとともに、そこからマルクスが導き出した経済・社会の理論の根底にある哲学的思考(ヘーゲル弁証法)も見えてくる。

第十四章 絶対的および相対的剰余価値
絶対的だろうが相対的だろうが、とにかく、剰余生産物は人間の生まれつきの性質からは生じないが現実には生じている。理由は、人間は他人の剰余生産物なくしては生きていけないからである。もっと広くいえば人間は一人では生きられないのだ。問題は、そこにつけ込んで剰余生産物を掠め取ることを可能とする社会の構造(資本主義的生産体制)にある、とのご指摘はもっともだ。しかし、マルクスはその根源に欲望の充足手段の発展とともに増大する人間の欲望の存在を認めている。社会構造の理論とともに欲望の構造の理論が面白そうだ。

第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
みんなが互いに働いて生み出された結果である物やサービス、つまり富は結局どこにいくのだろう?公平に配分されているのだろうか、と言う素朴な疑問をしつこく忘れないでおこう。富の総量は、剰余価値と労働価値の合計で、それは三つの要因、働く時間の長さ、働きの強度、働く能率で決まる(これは既に説明済み)。どれがどう動いたらどんな結果となるかという理論とか、それと史実との整合などが述べられているが、結局それを考えるのは、冒頭の疑問に対する答えを求めるかぎり意味をなすのだろう。マルクスの理論を手がかりにすれば、それまでの経済理論よりも、よりよい社会を構想できるはずで、例えば資本主義生産様式の社会ではそれは難しい、とまでは述べられている。

第十六章 剰余価値を表す種々の定式
剰余価値率とその意義については既に七章でのべられている。しかしその後、いろいろな概念が明確になってきたので、改めてその意義を明確にした、という感じ。

第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
資本主義的生産様式は、労働の搾取の上に立ってはじめて成り立つというマルクスの理論は、労賃は働きに見合った分がお金で支払われるのだ、と思ってしまうカラクリを暴露する。商品自体に備わっている使用価値と交換価値という二重性(従って通約不可能)に加えて、労働も商品であるという意識の勘違いが加わって、そのカラクリを見えないものにしている、というマルクスの看取はお見事。だが、その二重性や勘違いを生じさせるものは、やはり人間の意識だから、ナゾの解明はまだ先にありそう。

第一八章 時間賃金
「労働の価値」が「時間賃金」で測られることには、それ自体の物理的意味としては違和感がないとしても、実は社会的にはまたまた隠された使い道があることが暴露されている。それが理解できるかどうか(マルクスが正しいかどうかとは少し違う)の分かれ目は、頭の善し悪しではなくて問題設定の動機にあるらしい。動機が不純だと何事にも目がくらむのは哲学的真理かも。

第十九章 出来高賃金
労働の価値が貨幣額に転化した形態として、前回は時間賃金が取り上げられたが、今回はもう一つの出来高賃金が取り上げられている。形態が違うと認識が違ってくる場合が多いのが現実である(=現象)。形態に囚われて本質を見失なわないよう、まずはそのことを意識しよう。そこにつけ込まれて騙されないように賢くなろう、という言い方は間違いとは言えないけど、形態に囚われているのかも。

第二十章 労賃の国民的相違
150年ほど前はイギリスと大陸ヨーロッパでの賃金格差は数倍もあって、イギリスの労働者は高い賃金を貰っていた。しかし、イギリスの労働者の生活は、大陸の労働者に比べても悲惨で、資本家は低い賃金を支払って相対的に高い剰余利益を獲得していた。だが、この程度で済んでいたのは、世界市場が今より閉鎖的だったからかもしれない。

第二十一章 単純再生産
経済社会の歴史がここまで進むと、労働者自身が資本に合体してしまい、資本の増殖が果てしなく続くというステージに入る。単純再生産は剰余価値を資本家が全部消費する場合を指しているのだが、それは事態が変化しないのではなくて、資本の大きさは変わらなくても内容つまり出所は労働者の生み出した価値によって刷新されていくこと、また再生産自体が資本主義的生産様式の社会においても果てしなく、しかも自動的に続きうるということを意味している。すると、大小いろいろな場面で再生産の方法を変えていくことで、社会を良い方向に変えることが出来るかもしれないね。

第二十二章 剰余価値の資本への転化
歴史を積み重ねて出来上がってきた資本主義的生産様式の社会においては、資本家も労働者も、剰余価値から更に剰余価値を生むような行動を取る結果となっている。もちろん、資本家は自己の贅沢な再生産に加えて享楽に必要な分も、労働者は自己の貧素な再生産に最低必要な分だけを、貨幣として獲得する。なぜそんなことになるのか?マルクスは言う「・・・所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである。・・・資本主義的取得様式は商品生産の諸法則にはまっこうからそむくように見えるとはいえ、それはけっしてこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるのである。資本主義的蓄積を終結点とする一連の諸運動段階を簡単に振り返ってみれば、このことは一層明らかになるであろう。」その原因は、誰かが悪い(例えば悪い王様とか)というのではなく、人間が歴史を積み重ねて作り上げてきた社会の仕組みにあるのであって、それは知恵がつけばつくほど気付きにくいように埋め込まれてしまっているのだ。その知恵の内実が、経済学批判という形で述べられている部分も面白いです。気持ちだけで知恵がないと問題を解決できないけど、はじめの気持ちが邪なら智恵は悪用されるだけでしょ。

第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
資本主義的生産体制の社会が進んでくると、生産は増大し、社会的富は蓄積され、働く人の数も増えてくる。しかし、労働人口は常に過剰となるようになっており、従って、労働者の生活は最低限のまま向上しない。なぜならば、労働人口は資本と独立ではなく資本によって制御されているからであり、それが可能なのは労働が資本の支配下にあるからである。資本主義的蓄積の一般法則は、蓄積が進めば相対的過剰人口が増えるということである。マルクスがこう考えざるを得ない根拠は、歴史も含めた現実の観察と経験にあるのだろう。その部分については、第8章(労働日)や第13章(機械と大工業)に続いて、本章の第五節(資本主義的蓄積の一般法則の例解)にも沢山書いてある。だが、資本が労働を支配するということを制御して、支配ではなく納得の構造をもった社会とはどのようなものなのだろうか。そのような社会を創るのにマルクスの理論を生かせたら良いと思う。

第二十四章 いわゆる本源的蓄積
富の搾取の本質は労働支配であるから、資本主義的蓄積の前史としての本源的蓄積も他人の支配に基づくということになるのだが、その歴史の実に悲惨なこと。それに比べれば19世紀のヨーロッパに花咲いた資本主義的生産様式の社会はまだマシと考えるのは誤りであって、事実はもっと悲惨ですらある。なによりそこでの主役(搾取するもの)は個々の人としては見えてこない、つまり血の通わない「資本」であり、更に前史の不自由から解放された(搾取される人も)自由の形式を取引の対等関係として持っているので、具体的に敵対する他者を意識しにくのだ。だから始末が悪い。結末は歴史的必然性によって私有の否定の否定が起こり、従ってはじめの私有はみんなの所有となるような新しい社会が到来することを暗示している。この最後のくだりは素晴らしいマルクスの推定、あるいは理念にすぎない。率直に言えば、この最後のくだりは資本論第一巻のいわば付録のようなものだと捉える方が良いのではと思う。なぜなら、本書での一番大事な部分は、相反して対立する性質を抱えている人の欲望を根底に据えた、経済と社会に関する本質的洞察であると思えるからである。

第二十五章 近代植民理論


本国とは歴史の経験が違っている植民地であるからこそ、そこで生じている経済状況が、己の理論の正しさとそれまでの経済学の誤りを浮き彫りにしている、というマルクスの言い分はなかなか説得力があるなー。

2015年7月5日日曜日

『エミール』(戸部松実訳 中央公論社)

ルソー『エミール』(戸部松実訳 中央公論社)
――読書感想(要旨は別のブログ「爺~じの名著読解」にまとめて移しました)――
ピース

序文
ルソーの二者選択的思考には、事柄の本質を掴む原理はあっても現実を乗り超える原理に欠けている面がある。
本書に関しては、善とはもう少し具体的にいうと子供に対する愛であり、実行とは方法論を示すことだろう。
「自然」はルソーのキーワードだが、その内容とはどんなものなのだろうか?

第一篇
人間が完全なものでないとしたら、そもそも教育とは可能なものなのだろうか、という問いは、そもそも共和国なるものが可能なのか、という問いと対をなしてルソーのうちにあると思う。本書は前者の問いに対して、エミールという子供を理想的な教育者としてのルソーが育てていく思考実験を通して考えていこうという筋書きとなっている。その思考実験の背景にあるルソーの人間洞察は面白い。だが、教育についての具体的提案の中味やその理由については、現代とは社会背景が異なることもあるし、なるほどと思うところと、ピンとこないところがある。だから、特に具体的方法については、現代における科学的観察に基づいた一部の研究結果、例えば『育てられる者から育てる者へ(鯨岡峻著、NHKブックス)』などを読む方が参考になると思う。

第二篇
ここでは、12,3歳くらいまでの幼年期の教育について書かれている。子供は小さな大人ではない。子供を子供として成熟させること、それが自然の目的に適った教育である。この考えの根拠となっているルソーの人間観察は鋭い。
身体的感覚(五感)、快苦、身体表現、言語表現、自己意識、勇気、欲望、愛憎、立腹、臆病、卑屈、感性、感覚、知覚、観念、記憶、推理、比較、判断、理性、事物認識、虚偽、所有、正義、支配、自由、などについて、子供は子供としてのそれらを感じ取っている。だから一番大事なのは、その感じ取る力を育てることであり、一番いけないのは、発達段階によって異なる子供の理解の程度を理解せず、しかも慣習と偏見と誤謬にまみれた大人の考えを押しつけることであり、それは人間を育てることにはならないとルソーは言う。基本的にはその通りだと思う。
しかし、ルソーには、子供の教育についても、当時の社会矛盾から逆算しているとことがある。例えば、圧政の根拠としての人間心理は子供の頃の我が儘が許される教育にあるというところが強調されているが、それはそうとしても、より大切なことがあるのではないかと感じている。先ずは絶対的に守られているという感覚、次にそこを土台として他者関係、人との共感性を育むことの方が本質的だと思う。

第三篇
この篇は12歳~15歳くらいの年頃の子供が取り扱われている。ルソーは、子供は子供として成熟するというモデルを描き、その成熟した子供は「完成した人間、つまり、愛情を持った、感受性のある存在になること、つまり理性を感情によって仕上げることが残っているだけである」存在だと言うのである。あるいは、次のようにも言う「これらを一言で言えば、エミールは自分に関係する徳はすべて持っている。しかし、社会的な徳を持つことができるために必要ないろいろな関係を知ることだけが欠けている。彼の精神が、今や受け入れようとしている知識だけが欠けているのである。」
このルソーのモデルのキーワードは自然社会であると思う。幼年期までは「教育の目標とは自然の目的そのもの」だ、とルソーは言い、この目標をクリアーした子供は、大人になって自然が社会に置き換えられても、自由で平等な共和国を可能にするというルソーの社会哲学を満たすようになるはず、と考えているからだろう。本編で述べられている子供が自然の目的をクリアーするプロセスには、人間の事物認識(自然認識)の原理が述べられており、興味深い部分であった。自然状態においてはこの事物認識の原理の基に正しい判断を下して有用な行為を行い幸福へと至るのだが、社会状態においても、この認識方法及びそれ以降のプロセスの原理は変わらない、あるいは少なくともこの原理と矛盾しないはずである、とルソーは言いたいのだろう。それは「人間の最初の理性は感覚的理性であり、それは知的理性の基礎をなしている」という言葉にも表現されている。

第四篇(「サヴォア人司祭の信仰告白」を除く)
この翻訳書は抜粋版で、四章のサヴォア人司祭の信仰告白“の部分と第五章は殆ど省略されているので、別途岩波文庫の全訳版で取り扱うことにする。
ここでは、思春期から青年期にはいる頃までが対象だが、その前提として、ルソーの人間観の一部が語られている。その人間観の根底にあるのは、自己保存が最も重要である、という考え方だが、この考えは社会哲学的な根本思想としてホッブズに由来するものでルソーが言い出したものではない。ホッブズは、自然法の第一原則を平和の希求としているが、ルソーは自己保存の欲求のことを自己愛と表現し、これを人間の唯一の根源的情念と捉えて、道徳的な観念もここに基盤があるという。サヴォア人司祭の信仰告白“以降、良心や徳といった道徳的な概念について更に小説風な記述によって説明を行っているが、それらを含めて考えるとルソーの自然観についての理解が深まると思う。
情念は自然から湧き出てくるものなので、これを否定したりするのは人間の否定に等しいから愚かなことだが、子供から青年へと成長するに従って肉体の成長だけでなく、他者との関係性において変化した情念がいろいろと出てくる。この変化した情念は殆ど悪の方へ向かう。例えば自己愛から生まれてくる自尊心は、自己愛とは違ってその満足の限度がなく、憎しみに満ちた、怒りの感情が生まれるなど。だから、情念の変化を善の方へ導くのが教育者の使命となる。具体的方法は時代が違うからあまり参考にならないが、言いたいことはよくわかる。
関係性の中で変化した情念の一つに憐愍(哀れみ、同情)が重要な意味を持って採り上げられているように思える。自尊心と憐愍を一般化、普遍化することで道徳が創られていくと言う筋書きのようだ。
ここまで読んできて、その目的は共和国の市民を育てることであり、その方法の核心は、自然に従い人為を避けることであるという、ルソーの教育論が、約二百五十年前に書かれたとは、改めて驚きを禁じ得ない。
だが、ルソーの言う自然とは一体何だろうか。それはあくまで自己保存の欲求であり、なおかつその自己保存の欲求が良心を育みうる情念の源であること、なのであろう。しかし、その後の哲学の展開を知るわれわれにとってはこの説明には十分な説得性があるとはいえないだろう。


2015年6月30日火曜日

『天災から日本史を読みなおす』磯田道史 中公新書【感想】

ピエール・ドゥ・ロンサール
『武士の家計簿』以来著者のファンである。理由は、著者の言説が、歴史の内実は生身の人間の生活から読み解かれるものであるという考え方と、古文書を専門的な技術と総合的な知識を駆使して、経験に基づいて解釈するという実に科学的(本来の意味における)な方法によって貫かれているからである。
 東日本大震災を契機に書かれた本書は、日本列島において過去に発生した自然災害の歴史も、適切な古文書を探して解読していけば相当なことが判ることを改めて教えてくれた。だが、同時に不幸な歴史は時とともに忘れ去られていくという史実も思い出させてくれた。地震、津波、噴火、異常気象のもたらす異常な風水害、これらは日本列島においては特に頻度も程度も高い。にもかかわらず、過去から学ぶことが出来ずに悲劇が繰り返されるのはなぜだろう?
 いま一歩突っ込んで考えれば、誰が学びそれを生かして実行するのか、またそうする動機はなにか?関連して悲劇に見舞われる人々の差異は?等々。本書はこれらの解明の第一歩になると思うが、その次のステップも視野に入っている。
2014年、広島市の八木地区において、そこが「蛇落地」と呼ばれていた場所に作られた団地で発生した大規模な土砂崩れによって多くの犠牲者が出た。このことに関連して、本書で次のように書かれている。「この時代の日本人は技術と経済成長の信者であった。自然はコントロール出来ると、人間優位を驚くほど信じた。土砂崩れにしろ、原発事故にしろ、この時代の思想のツケを後代の我々は、いま払っている。(改行)この地の領主が「自然に勝てる」と思い始めたのは、戦国時代のことであったらしい。・・・」。八木を治めた香川一族の子孫が著した古文書には、先祖が享禄五年(1532年)に大蛇を退治した、と自慢気に書き残されている。町史に載っている「蛇落地観音像」の写真のお顔は慈悲深く「みているうちに、なんともやりきれなくなってきた。」

2015年6月28日日曜日

『家父長制と資本制』上野千鶴子(岩波現代文庫)【感想】

 この本を読んで、フェミニズムという思想の理解が飛躍的に進んだような気がしました。といっても、もともとフェミニズムとはなんであるか殆ど理解していなかったので当たり前ではありますが。

 解放の思想は解放の理論を必要とする。その理論は三つほどあるが、共通してマルクス主義の射程から抜け出ていない。というのは、マルクス主義だけが、殆ど唯一の、近代産業社会についての抑圧の解明とそれからの解放の理論だったからである。だが、マルクス主義の解明は「家族」には及ばないのでフロイト理論が持ってこられるが、それは家族の抑圧構造を解明する理論ではあっても解放のそれではない。「フェミニズムは、フロイト理論の助けを借りて、近代社会の社会領域が「市場」と「家族」とに分割されていること、この分割とその間の相互関係のあり方が、近代産業社会に固有の女性差別の根源であることを、突きとめたのである。・・・二十世紀思想の中でマルクスとフロイトは二大巨人であり続け、この射程をわたしたち未だ脱け出ていない。」なるほど!。「マルクス主義フェミニズムは、階級支配一元説も、性支配一元説も採らない。とりあえず資本制と家父長制という二つの社会領域の並存を認めて、その間に(ヘーゲルのいう)弁証法的関係を考える。」なるほどなるほど!!。多分30代の頃の上野が考えたこの整理はとても判りやすく説得性がある。因みに、家父長制とは昔の例えば封建制下のものではなくて、近代から現代にも続いているものをさしています。
 あれから30年・・・、フェミニズム理論が女性の抑圧と解放にどのくらい役だったのかについて、更に知りたいとは思う。しかし、この本からはもっと広く、様々な差別の問題自体を感じ取ることを第一に、つぎそれを社会構造の問題として捉えてその抑圧と解放の理論を模索し続けるという視点・態度を学ぶことが出来ると思いました。爺~じ。

2015年5月22日金曜日

『人間の学としての倫理学』和辻哲郎(岩波書店)【感想と要点】

――読解篇は、別のブログ爺~じの哲学系名著読解を参照してね――
古代蓮


<感想>
和辻の言う倫理とは次のようものだ。それは、人間共同態の一番底に、それがなければ共同態として存在し得ないものとしてある、実践的行為的に自覚された共通了解である。倫理学とは、そのような倫理を、かくかくしかじかであることとして概念化したものである。
倫理、人間、世間、存在等の概念を、日本語やその由来である古代シナ語が持っていた意味を辿ることによって解明していく方法や、アリストテレスや、デカルトから始まる西洋近代思想の批判的援用も学として面白いが、和辻が倫理及び倫理学をそのように言えるわけの考察が一番面白いと思う。
そのわけとは、人々の間における日常の、それが今ここにおいてであれ、歴史においてであれ、その中におけるできごととして読み取ることによってだけで可能となる、という確信であると思う。そのできごとは、すべての物、言語、制度、等々における人間の表現としてあらわにされているのであって、倫理はそれらを通路としてのみ捉えることができるものなのであり、逆にあらゆる社会的な形成物はすべて倫理の表現なのである。そしてそのことは原理なのである。和辻のこの思想はとても説得性の有るものだと思う。
哲学的方法として一番大きな影響を受けているのは現象学、特にハイデッガーであるが、私の感想としては、その解釈や批判にちょっと異論がある。和辻が他者了解の問題は現象学では解けないと断言しているところなどがそうである。
和辻が、西洋近代哲学との対比において呈示した思想は、一言で言えば、主体的間柄、つまり主体は我れにではなく我々にあるという考えはではないかと思う。この思想は西洋近代哲学とは根本的に違っているようにみえるのだが、一方、その主体がなにか主観客観図式をベースにした超越的、神秘的な実体のようにも見え、この点についてはもっと知りたいところではある。

<要点>
この書には、人間の学としての倫理学の意義(第一章)と方法(第二章)だけがのべられている。

第一章 人間の学としての倫理学の意義
一、「倫理」という言葉の意味
倫理とは、人間共同態の存在根柢として、一般言語と同じく歴史的・社会的な生の表現として、既に共同態において実現しているものである。それは人々の間柄の道であり秩序である。だから倫理という言葉を出発点として、その意味することをどのように概念化していく(以降、和辻は一貫してこの方法を辿っていく)。

二、「人間」という言葉の意味
「人間」という言葉は、個々の「人」と言う意味と「社会」という意味の二つの意味を同時に持っている。このことは最も人間の本質を言い表している。「人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。」

三、「世間」あるいは「世の中」の意義
世間とは、「遷流性及び場所性を性格とせる人の社会である。あるいは、歴史的・風土的・社会的なる人間存在である。」
人間存在とは、人間の世間性と人間の個人性という二つの性格の統一である。この統一は、行為的連関として共同態であると同時に行為自体は個人的である。これは人間存在の構造である。

四、「存在」という言葉の意味
我々の概念としての「存在」とは、厳密に人間存在を意味する。それは、間柄としての主体の自己把持という意味から言い表せば「人間が己自身を()つこと」或いは「自覚的に世の中にあること」である。また、世の中にあることは実践的交渉においてのみ可能である点を強調すれば「人間の行為的連関である」。

五、人間の学としての倫理学の構想
以上により、倫理、人間、世間、存在という根本概念として規定したので、「倫理とは人間共同態の存在根柢である」という最初の規定も明確になってきた。
倫理学は、そのような倫理を把握するものであり、人間存在において主体的実践的に実現されているものを学問的意識にもたらすことができればよいものである。従って倫理学は同時に人間存在の学でなければならず、それが「人間の学としての倫理学」なのである。

六、アリストテレスのPolitike
アリストテレスはEthica Nicomacheaによって倫理学の祖と言われている。この著作にて取り扱っているのは全体としてのPolitike(政治学)であるが、部分としての個人のEthica(倫理)が語られているからである。
Politikeは個人及び社会組織(ポリス)の両面から考究して初めて完成する「人の哲学」であり、我々の言う人間の学としての倫理学と一致する。しかし、Politikeにおいては個人の本質内容を個人自身のうちに置くことと、人が本性上ポリス的動物であるとすることが並置されている(ソクラテスやプラトンは、アリストテレスとは異なり、個人の本質内容は個人自身ではなく普遍にある、と考えている)。我々はこの二つの考えの統一においてアリストテレスの人間の学を見なければならない。

七、カントのAnthropoligie(人間学)
カントの道徳哲学は、主観的道徳哲学という部分においては十分とは言えない。しかし、その最も深い内容においては我々の言う「人間の学」と一致している。この視点はヘーゲルの人倫と同じである。
カントのアントロポロギーは二つある。一つは経験学としてのそれであり、もう一つはこのような経験の可能根拠(=人間知)を明らかにする道徳学としてのそれである。つまり「人」を経験的及び可想的な二重性格において規定している。定言命法はこの二重性から理解できる。この原理は、人間関係の原理である。

八、コーヘンにおける人間の概念の学
コーヘンは、カントが人間自身は目的であるという原理を立てたことをもって、ドイツ社会主義の真の創設者と呼んだ。「カント自身が共同社会的法則と呼んだこの原理こそは、定言命法の最も深い、最も力強い意味を表したものであると共に、また社会主義の原理でもあると主張せられる。」

九、ヘーゲルの人倫の学
『人倫の体系』の基本はアリストテレスのEthikでもなく、カントの「主観的道徳意識の学」でもなく、普遍と個別の弁証法的展開による社会哲学である。
『精神現象学』においては、「人倫の体系と精神哲学とのいまだ熟せざる接合点を見いだし得る。」
「『法の哲学』として詳述したときには、それは<中略>初めのような人倫の哲学ではなかった。ここでは絶対的人倫がその絶対性を失っている。しかし精神の哲学に取り込まれた人倫の哲学がなんらかの形でその独立性を維持しようとしたことは、ここにも看取せられると言ってよい」。
ヘーゲルの哲学は「かく見れば人倫の哲学は、絶対的全体性を「空」とするところの人間の哲学としても発展し得るものである。<中略>かかる意味においてヘーゲルの人倫の学は、倫理学にとっての最も偉大な典型の一と呼ばれてよい。」
精神の運動と捉えるヘーゲル哲学が観念論的立場であるという批判はあり得る。フォイエルバッハ、マルクスがそうである。しかし、彼らもヘーゲルの分析した存在の構造を根本概念として使用している。

十、フォイエルバッハの人間学
フォイエルバッハはヘーゲル哲学を「神学」として批判し、「神の学」から「人の学」への転向を試みたが、あまりうまくはいかなかった。

十一、マルクスの人間存在
マルクスは、フォイエルバッハが人の社会的存在の部分をうまく把握していないことを批判し、人は常に社会的関係において有る、だから人の本質は社会的関係の総体にほかならない、と捉えた。
マルクスはヘーゲルの国家観を徹底的に覆し去ろうとしたが、ヘーゲルの人倫哲学を受け継いだのである。
だが、この「人倫の体系」の最大の問題点は人倫の絶対的全体性であり、この問題は有の立場では解かれない。「その解決に対して我々に最もよき指針を与えるものは、無の場所において「我れと汝」を説く最近の西田哲学であろう。」

第二章 人間の学としての倫理学の方法
十二、人間の問い
問いは本質的に共同の問い(=人間の問い)である。倫理学は人間存在の構造を人間の問いとして問うものだが、「問うこと」自体が「問われていること」であるという特質を持つ。倫理とは何かという問いを、問い進めるには、人間の一つの存在の仕方において存在自身を全体的にあらわにし、一つの人間関係において人間関係それ自身を根源的に把握していくほかはないのである。これが倫理学の方法を規定する第一の点である。

十三、問われている人間
倫理学は実践的な主体の学である。だから人間は実践的主体として把握されなければならない。そこで問われている「人間」は、「我れ」ではなく「我々」であり「間柄」であって、つまり主体的な間柄である。これが倫理学の方法の特徴の第二点目である。

十四、学としての目標
倫理「学」としてめざすことは、倫理である限り既に実践的行為的に分かっていることを「であること」として陳述することである。これが倫理学を規定する第三点目である。
日本語の「あり」という言葉は人間存在の顕示であり、その根柢は統覚作用を根拠とする繋辞的用法の「である」ではない。「である」は「あり」の本来的用法の「がある」が限定されたもので、それは人間の働きによるのである。「である」が存在を顕示する場所は「陳述」である。
統一・分離・結合の連関としての実践的行為的な「わけ」は、微妙な相互了解を含んで客観化されている。「ことのわけ」の陳述は人間存在の構造をあらわすのである。「ことのわけ」を分析することで人間の存在の仕方を「であること」に引き直し得るのである。

十五、人間存在への通路
主体的に、主体的な人間存在を把捉しなければならない倫理学的把捉は、人間存在の諸表現を通路とするほかはない。そのためには、個人の直接意識の事実からではなく、人間における事実を媒介として人間存在が探られなければならない。
日常生活は茫漠たる表現の海である。学的取り扱いは、「もの」が存在の表現であると言う日常的了解の地盤を隠してしまう。「そこ(隠れた地盤)にこそ主体的な人間存在が「ことのわけ」に化せられてくる急所がある。すなわち実践的行為的な連関が意味の連関に転化し来たる熔炉がある。」
社会学と倫理学は共に人間の学のはずであるから本質的には異なるものではない。そこでの根本問題は間柄である。しかし、社会学は人間存在への通路、換言すれば諸形成物の表現自体を学の対象自身としてしまっているのである。

十六、解釈学的方法
生は実は人間存在であるから、日常的な生の表現の理解はおのずから人を倫理に導く。逆にあらゆる間柄の表現すなわち社会的な形成物はすべて倫理の表現である。従って倫理学の方法は解釈学的方法であるほかはない。
文学におけるベェクの解釈学を歴史認識の理論として哲学の中へ導き入れたディルタイの解釈学は、生の哲学として学び取る価値がある。しかし、日常的なる生の表現と了解とが、哲学的理解を媒介するものとして認められていない点において問題である。


日常的な人間存在の表現から出発することを根本性とする哲学にとって、現代において、現象こそまず初めに明らかにしなければならないと主張する現象学を顧みておかなければならない。しかし、現象学的還元 は人間存在の表現を排除してしまうので、「表現せられたもの」は他者によって了解され得ず、現象はただ現象学にとってのみ己を示すだけで、日常生活において己を示しているとは言えない。ハイデッガーの現象学からの脱却はその延長点からの離脱により可能となる。その鍵は「有る物」を「表現」に、「有」を「人間存在」に転ずることである。