2018年2月28日水曜日

フッサール『イデーンⅠ』のあとがき部分の要約


フッサールイデーンⅠに対する「あとがき」の要約

「哲学および現象学的研究のための年報」第11巻(1930


(作成2005年7月、修正2015年11月)
既に一部を公表しているが、私の「超越論的現象学」に対する誤解を解くためにかいたものである。誤解が生じている理由は、人々が、現象学のもつ方法や研究上の根本的に新しい部分について見落としているので、現象学が抱いている自負を理解する事ができないからである。その自負とは、哲学上の全ての問題が解決へと至るに違いない道程を切り開き、一歩を踏み終えたということである。

哲学というものは、理念上は、全般的な学であり、かつ根本的な意味において「厳密な」学、でなければならない。哲学の理念は、見かけ上はその時々の妥当として実現されるが、無限の歴史的過程において実現されるものである。今日の実証的諸学問は、その基礎付けの仕方からして、そのような理念を現実には殆ど満たしていない。そのために、哲学に対する懐疑的態度がのさばり出て来ているが、私はそのような態度よりは、かかる理念の意味を志向的に解釈して、その実現の可能性を示したいと思っている。そのための唯一の方法は、究極の認識前提に立ち戻って問い直すことである。そうすると、人は全般的な主観的な存在および生へと連れ戻され、即ち、あらゆる意味付与と存在確証との根元的な場所である「超越論的主観性」というものに連れ戻されるのである。現象学に対する世の中の異論は、「現象学的還元」の持つ原理的に新しい側面を理解せず、したがって、世界内的主観性(人間)から「超越論的主観性」への上昇を理解しないところから出ているのである。

この「イデーン」という書物は、純粋現象学もしくは超越論的現象学という命名の基で新しい学の基礎付けを試みるものである。新しい学といっても、それはデカルト以来の哲学全体によって準備されたものであるが、新しい「超越論的主観性」という「経験領野」に関係付けられている。したがって、超越論的主観性は、思弁的構築の産物ではなく直接的に経験される一つの絶対的に独立した王国である。しかし、その経験は、これまで、本質的理由のために、手の届かないところにとどまっていた。超越論的経験は、自然的な世界的な経験の態度を変更する事で可能となるもので、この態度変更による方法を「現象学的還元」というのである。

この第一巻において、提示される事実は範例としてのものであり、「超越論的現象学」を経験的学として基礎付けるためのものではない。問題となっているのは「アプリオリ」な学である。この学は、超越論的主観性の経験領野における経験としての事実を、単に、純粋可能性としてだけ要求するにすぎない。そのような事実的な諸体験を、直接体験として普通に感じ取る可能性(純粋な直観的諸可能性)と同列に置いた上で、それとは連動せずに自由に経めぐりさせて超越論的主観性の本質構造を「アプリオリ」として取り出すのである。このように超越論的なものへと向かう還元が、同時にまた「形相」へと向かうさらなる還元が、現象学の入り口の方法である。この方法を習得すると、本当に普遍的な本質直感に基づいた新世界が見えてくるようになる。

この第一巻において取り扱われる形相的現象学はその一部であることの説明。フッサールの表現では「超越論的主観性の直接的に洞察されうる本質諸構造の王国にだけ、限られる」。形相的な記述は数学的諸学問とは違う事の説明。数学的諸学問は「演繹的な」諸学問であるので少ない公理に基づき無限の演繹がなされるが、超越論的領圏(形相的な記述はこれに含まれる)については、一切の演繹以前にある無限の認識をもつ。

全ての哲学は現象学の基礎の上に成り立つ。しかし、それは哲学がアプリオリな学であるほかはないということを意味するのではない。この第一巻の「超越論的主観性の形相的本質に関する一つの学を樹立する」という課題設定には、その課題を達成すれば、事実的な超越論的主観性に関する学も達成するという考えは含まれていない。これは、純粋数学が厳密な自然科学を可能にしたことを思えば予見される。純粋可能性に関する学が、事実的現実性に関する学よりも先行しなければならない。

現象学(超越論的現象学)と心理学(「記述的」心理学)の差異の説明的解明。現象学は現象学的還元により自然的態度を変更する。自然的態度にあるときは、人は自分を通常の意味における自我として経験する。つまり、私は、人間を「心的」観点において、主題にする。そうすることで「内的経験」にだけに従う、ひとり知覚され得るような、純粋に記述される、最も根原的な認識へと至ることが可能となり、独立した学が成立する。しかし、そのための条件は、この「内的直観領圏の事実上の諸事実」に関する学を目標にせずに、本質学を目標にすること、言い換えるとそのアプリオリいかんを問う事である。

そこで、現象学的還元(エポケー)を行うと(超越論的現象学的還元、つまり、自然的かつ内観心理学的な態度の変更)、心理学的主観性は、そこに事物が存在すると信じられるゆえんであるところの、身体に付属した心というものの存在意味を失うであろう。

何かが存在するという信念を遂行しないでおくこと(エポケー)が、経験世界に関して何を意味するかを会得することが決定的に重要である。エポケーにより、「純粋に、そのもととして見られた限りにおける、意識世界」という全般的現象に対する世界が開けてくる。そうすると、自然的態度を基礎として認識された世界は、全て超越論的諸現象によって取って代わられ、「超越論的主観性の王国」が開かれる。

そうすると、私は、客観的に存在する世界の中の客観的な実在ではなくて、この世界に対する主観として定立される。

現象学者は、世界についても、人間という自我についても、何も判断しない。判断するのは、世界に先立ち自身独自に存在する超越論的自我に関して、である。一切の世界的存在は、超越論的自我の内で、存在妥当性を得る。心理学的内実(現象学的心理学的内実)と現象学的内実(超越論的現象学的内実)は相互に転化することができる。超越論的地盤こそ、一切の哲学的認識の唯一的な地盤である。

純粋な内観心理学にとどまらしめずに、そこから転じて超越論的現象学へと向かわしめたあの「微妙な差異づけ」こそは、哲学の存在と非存在を決定する要の位置に立つものである。これを理解するには、哲学的思索を行う根本動機について自己自身で納得していることをよく考えてみる他はない。そうすると、それはおのれの主観性に立ち戻って省察することであることが分かるであろう。

そのような動機は、われわれを、自然的実証性を越えて外へと連れ出す。私はこうした動機を隈なく明らかにしようと志し、もろもろの道を歩んできた。この道は、それに自身がその哲学の発端・原理の一部をなす。何らかの発端・原理というものは自ら発端・原理から始めようとして初心に帰る人のみが生成しうる。その道は、自然的な素朴な態度から始める他はない。それらもろもろの道の中から、私は本書において(該当箇所は、第一巻、第二編、第二章=現象学的基礎考察、意識と自然的現実)選び取った道の概略は以下。この道は、先ず最初に、通常の心理学的な意味における「現象学的」自己省察のありさまを採る。そうすると、そこで自己省察している者たるこの私は、一つの固有本質の場を所有するに至る。この固有本質の場には、あらゆる経験確証が伴っていて、そこでの客観世界は、私にとって確証された存在妥当をもつにいたる。この固有本質の場は、私自身が身体と心とを具えた人間として私にとって妥当してくるような統覚をも、その内に含んでいる。そして次のことにも気付くようになる。この私の固有本質の場は、他ならない私の自我として、世界に存在妥当を与えるゆえんであるところの自我として、絶対的定立されうるものである。世界は、私自身の純粋な生の内から、また、そのような生の内で開示されてゆく他人たちの生の内から、意味および確証されうる妥当を、獲得してくるからである。このように絶対的に定立された固有本質の場としての私こそは「超越論的な自我」にほかならない。ここで言っている絶対的定立という意味は、わたしは世界を、端的に存在するものとして所有するのではなく、逆に、今から後は、私が所有するのは、私の新たな態度に基づいて与えられるところの私の自我である。

この考えを徹底してゆくと、超越論的現象学的観念論が生じてくるが、これは心理主義的観念論と最も尖鋭に対立する。「第一巻、第二編、第二章=現象学的基礎考察、意識と自然的現実」の叙述には欠けているものがある。それは、超越論的独我論の問題に対して、もしくは超越論的な諸主観共存性に対し、明白な態度が決定されていない事である。そこで問題にされていたのは、次のような必然的な洞察を獲得するための、動機付けの一つの道であった。つまり、客観的認識の可能性を突き詰めていくと、純粋に自立した自我に立ち戻るということ、この自我は、世界認識の前提を成す以上、世界的に存在するものとして前提される事はできないということ、したがってその自我は、現象学的還元により超越論的な純粋さを獲得せねばならないということ、これである。だがしかし、超越論的観念論を採るという決定は下さないまま、決定的に重要な哲学的意義を持った思考過程を考え抜くこと、そのためには超越論的主観性の地盤を確保しなければならないということだけを明瞭にしおくだけでよかったかもしれない。以下の段落内文章は省略。

超越論的現象学は観念論の歴史的問題に解答を与えようとするものではなく、それ自身により根拠付けられた独立した学であることの説明。

超越論的現象学的観念論が、実在論により攻撃されている観念論と根本的に異なる事の説明(と言っているが、超越論的現象学的観念論自体の説明が多い)。なにより次の差異が重要。超越論的現象学的観念論は、実在的世界の現実的存在を否定しているのではなく、世界の意味を解明することを唯一の課題としている。世界の意味を解明するという意味は、生と実証学とを支える、誰でも世界が存在すること自体は疑わない、ということ自体を理解し、その正当性の根拠を解明することである。「全般的な合致というこの形式における経験の連続的進行は、一つの単なる想定に過ぎず、そうは言っても一つの正当な妥当性を具えた想定であるということ。したがって、世界は、これまでまた今も現実的に合致するものとして経験されるものであるにも拘らず、その世界の非存在は、絶えず依然としてあくまで考えられうるものであるということ。これである。」。そのような意味解明の結果、実在的世界は、なるほど存在はするが、超越論的主観性への本質的に関係付けられた相対性を持つものである、なぜなら実在的世界は、超越論的主観性の志向的意味形成体としてのみ、その存在するものとしてのおのれの意味を持ちうるから。自然的生とその自然的な世界所有は、それ自体何か誤りに陥っているのではなく、次のような制限を持っているのである。それは、自然的生は超越論的態度へと移行する動機を持たないということ、現象学的還元を通して超越論的自己省察を行うという動機を持たないということ、これである。以上の意味が明らかになるのは、共同諸主観に関する経験が、超越論的経験にまで還元されたときである。超越論的な諸主観共存性こそ、実在的世界が客観的なものとして、「万人」にとって存在するものとして、構成されてくるゆえんのものなのである。心理学的主観性が絶対的なものとして定立されているかぎり、しかもそれでいて世界はそうした心理学的主観性の単なる相関者にすぎないとみなされようとするかぎり、その観念論は背理であり、そうした観念論は、これまた同じく背理である実在論が攻撃している心理学的観念論に他ならない。十八世紀に出た偉大な観念論者達、バークレー、ヒューム、ライプニッツなどは自然実在的意味における心理学的領圏を越えてはいるが、心理学的主観性と超越論的主観性との差異について十分な考察が及ばなかった。このことと、イギリス的感覚主義(自然主義)に災いされていたことが、観念論と実在論の不毛で非哲学的な論争が続いていたことの理由である。

超越論的現象学的心理学と当時の心理学との根本的な相違についての注釈の追記。それは、心理学的自然主義に縛られたロック的伝統の持つ意味とも、志向性の心理学ではあっても師匠のフランツ・ブレンターノ学派の持つ意味とも別の意味を持つ。

ここでは、フッサールの、哲学に対する哲学及び哲学を学ぶ人たち対する期待が描かれている。以下に、そのなかからの抜粋を箇条書きにする。

---本書はただ、次のようなことを試みようとした一試図にすぎないものと見なされるべきである----即ちそれは、哲学の根本的端緒・原理、それもカントの言葉を繰り返して言えば、「学として登場しうるであろうような」哲学の、根本的端緒・原理を、確立しようということ、これである。

---ともかく筆者にとっては、次のような洞察が、不可疑のものであったしまた不可疑のものであり続けていたからである。すなわち、哲学というものは素朴に無造作に始まることはできず、したがってその点で実証主義的諸学問とは同じではないのであり、実証的諸学問ならば、自明的に存在するものとして前提されるあらかじめ与えられた世界経験の地盤の上に居を定めるものだということ、これである。

---ひとえに、自らの目論見の意味と可能性についての根本的な省察のうちにのみ、哲学というものは、根ざすことができる。そうした省察を介してこそ、哲学は、なによりも先ず初めて、純粋経験というおのれに特有の絶対的な地盤を、自発的にわがものとしなければならず、そうしておいて次に、この地盤に十全的に適合する根原的諸概念を、自発的に創り出さねばならず、このようにして総じて一般に、絶対に透明な方法において前進してゆかなければならないのである。

---ところが、一つなる哲学というものをわれわれは所有していない状態に陥っているのである。けれども、この一つなる哲学こそは、理念として、哲学と称されるもののすべての根底に存しているものではあるまいか。---哲学が哲学である以上持つその意味に含まれているものは、基礎付けの徹底主義であり、絶対的な無前提性への還元であり、ある根本方法である。その根本方法たるや、端緒・原理から始めようとする哲学者が、ある絶対的地盤を自ら確保するゆえんをなすような底のものであり、この地盤こそは、通常の意味での「自明」とされる一切の前提の前提をなすものであって、この前提が絶対的に洞察され明らかにされねばならないのである。

---すなわち、端緒・原理の学、「第一の哲学」という学にまでなってゆくということ、そしてこの第一哲学の根本問題から、一切の哲学的諸学科、否それどころか一切の学問全般の基底が、発現するのだということ、このことがこれまで隠蔽されたままであるほかななかったのである。

---筆者は今老境に至って、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するに至っている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を摑んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいであろう、と。筆者としては望むらくは、―――もしも自分に長寿が叶えられたならば―――、やはりなんとしてでもなお哲学者に成りえんものと、わずかに期待している。

---けれども、世の人々はどうか次の点を自らよく見極めてもらいたい。ここに、端緒・原理から始める現象学として提出される、本書のごとき部分的成果のうちに、右の私の確信は若干の根拠を持ってはいないかどうかを、である。

---自らの端緒・原理を摑もうとして格闘する者のみが、(本書を参考にしえない人の振舞いとは)別様の振舞い方をするであろう。というのは、そうした者は自分にこう言い聞かせざるをえないからである。すなわち、汝ノ事柄ガ問題ニナッテイル、と。

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