主題は、ヨーロッパ近代の政治原理が、どういう構成で成立したのか、という問題である。補足すると、その政治理論成立の現実的条件と論理的条件を区別して押さえた上で、前者の条件を取り払っても後者の問題を考える余地を残すことである。以下主題の説明。
人類の歴史の中で、ヨーロッパ近代の持った意味は巨大である。それは、単に事実においてだけではなく、人間の科学的認識をその構造の中から成立させるとともに、その認識を構造に組み込んできたからである。ヨーロッパ近代は、政治の問題についても、その不可解なカラクリを見抜き、自覚的営みとしての政治生活を築くようになったのである。
政治という人間の活動においては思想の契機が重要である。現実主義は、政治という事実の問題においては思想ではなく事実が重要であり、政治を動かすものは力であり思想ではない、端的に国際政治において最後に物言うのは軍事力である、と考える。しかし、軍事力が機能するには要員が組織の規律に服さねばならない。一般に社会的事実というものは思想を契機とするものである。
人間が社会として共存可能なのは、社会を構成している人々の行動様式が定着しているからである。その行動様式は政治の働きでつくられる。紛争の解決も政治の働きのひとつであり、軍事力や物理的暴力の行使もそこに組み込まれている。だから政治の作用は人間の命に関わるものである。その様にして秩序を保つ関係は権力の関係であり、権力の関係を含んでいる人間の共存状態が政治社会である。
政治は権力の関係を含んではいるが、極限のところにおいて行使される暴力によってだけでは人間が人間を支配することは出来ない。人間を支配する政治というものは、究極的にはあるカラクリを持っている。そのカラクリは古代から存在し、歴史が古いほど無自覚で、近代人から見れば迷信に基づく恐怖であったとしても、その共同体のメンバー共通の信念であるのだから何らかの思想と言える。その思想によって営まれる社会生活はきわめて人間的でかけがえのない価値を持った文化なのである。
古代人の思想の骨格は、呪術と血縁関係である。この前者と結びついて宗教が生まれ、後者と結びついて道徳倫理が生まれた。現代においても、政治に対して宗教が影響を持つ国もあるし、家族的道徳の名残とも言える君主制度を持つ国もある。
社会というものは、単なる人間の集まりという物理的実体ではなく、そこに所属する人間に共通の観念、思想というものを不可欠の構成要素として存在するものである。伝統的な社会においては、その社会を成立させる観念、思想に対して、個的人間の内側からの自覚的認識は乏しく、従ってまた、その観念、思想よって営まれている政治のカラクリを自覚していることはなかったと言える。
ヨーロッパ近代は、政治社会の歴史の中で、人間の観念、思想、行動様式のメカニズム、政治のカラクリ、を見破り自覚した。無自覚に事実を構成するものとしてではなく、自覚的に観念を構成するものとしての政治思想は、政治の革命をおしすすめた。政治の革命をおしすすめたこの政治思想は、イデオロギーと呼ばれる。
現存の社会秩序、例えば生まれつき身分が決まっている秩序などが、自然の一部分であるとみんなが信じている限り、その社会は安定している。なぜなら、それは人間の力をもって変えることができないと考えるからである。しかし、その秩序が征服等の歴史的偶然であると自覚すれば、そうはいかなくなるのが人間の本性である。
人間の力ではどうにもならない自然というものと、歴史の偶然に過ぎないもの、人間の関係で決まっているものとが、はっきり区別されることが、政治社会のカラクリを自覚すると言うことである。この自覚すると言うことが、人間の社会を大きく変えることになる。
経験を自覚して方法的に反省することで学問が生まれてくる。自然を対象とするならば、自然の観念が組み替えられて自然科学が生まれ、社会を対象とするならば、社会の観念が組み替えられて社会自体が自覚的に改めうる対象となった。社会のメカニズムの自覚化作業は、近代政治思想の不可欠な前提である。
政治思想というものは、歴史の流れの中において現実的制約を免れないものである。また同時に、政治思想というものは、その時代の世界観を規定する。デカルトに始まる近代思想においても、政治思想の変革が、自然科学的世界像の変化に制約されると同時に、人間の自由の観念や社会を組み替えることの可能性を自覚させることが諸科学を支え、新しい世界観を貫徹してきた。
以下順を追って、中世政治思想の解体、近代政治思想の現実的前提である主権国家と権力の問題、政治理論が論理的に貫徹されていったポイント、近代とは事実上の前提が全く異なってきた現代という時代の問題をどう処理するのかについて述べる
一 中世政治思想解体の諸相
1 中世的政治像 その一般性とヨーロッパ的個性
中世という概念は、土地が生産を支え、農民と軍人が区別されて身分的な上下関係も持ち、農民も都市住民も共同体の中で規制されている等の点で、世界の各地において共通に理解されている。しかし、ヨーロッパにおいては他の地域とは異なった特徴を持っている。
その特徴は、他の地域、例えば中国や日本においては、同一民族が連綿と同一の土地に住んでいたのに対して、ヨーロッパにおいては、民族大移動によってローマ帝国に侵入してきたゲルマン人によって築き上げられたことに由来する。
そのゲルマン人達は奴隷ではなく家族を持つ農奴の地位にあり、古代の高い文化が失われる前にその地にやってきて、その文化を継承しながら自分たちの世界を創った。そのことは政治生活において大きな意味を持つ。ヨーロッパ中世は暗黒時代ではなくダイナミックな飛躍の時代であった。
他の地域とは異なり、ヨーロッパの政治生活の基本的な単位は少なくとも二回変わっている。ギリシャに始まりローマに受け継がれた都市国家という単位と、ゲルマン人が受け継いだキリスト教共同体という単位である。近代の地域国家が直ちに国民国家であるという感覚は彼らにとっては自明ではなかった。
ゲルマン世界における中世ヨーロッパの政治的構造は、最底辺には地域や民族などの多様な共同体があり、その上に軍事貴族があり、軍事貴族間には忠誠、契約関係と支配機構としての封建制度があり、地域の中には軍事貴族間の第一人者としての国王がいた。しかもヨーロッパ全体は、観念的には統一された帝国であるとともに一つのキリスト教社会というイメージで捉えられていた。このような政治社会は「中世ヨーロッパにおける普遍世界(社会)」と呼べる。
中世ヨーロッパにおける普遍社会においては、そこで人びとの一生を管理していたのは宗教的権威に基づいたキリスト教の教会であった。教会は暴力装置を持たず、必要に応じて軍事貴族達の力を借りていた。そこに高度な政治的能力が発達し、権威と権力の二元性が確立された。
その様な政治社会において、人びとの行動様式を制御するものは、単純再生産経済に基づく伝統と、古代的で神から与えられた権威主義であった。これを理論化するものは神学の大系であり、それに基づいて政治像を作り上げた人がトマス・アクイナスであった。
トマスは、アリストテレスとキリスト教を材料に、神を頂点とする宇宙像をつくりあげた。それは世界の秩序全体の調和を示し、人間は理性的で社会的な動物であるとした。ここで言う「理性」とは、自然にかなった秩序の中にあるもの、この秩序を理解する能力を指している。この「理性」の意味するところは、後にヨーロッパ近代思想によって根底から転換されることになる。
2 ルネッサンス 人間の理念と現実
中世の思想を打ち崩した大きな力は、宗教改革とルネッサンスであった。ルネッサンスにおいて、人間は自身の力を発揮させ、あらゆる領域で無限のものを追求しはじめた。その無限のものとは、真理や美だけではなく、富や権力でもあった。従ってそこには中世的安定ではない激しい競争も生じてくることになった。
ルネッサンスの文化運動のなかで、政治思想に寄与する部分が一番遅れて姿を現してくる。そこには、人間自身に対する新しい理念や尊厳などの自信に満ちた面と、エゴイストで無力で弱い人間がもたらすみじめな生活の現実という面とが、対立的に鮮やかに浮かび上がって現れてくる。
そのような政治社会において、現実を徹底的に洗い出し、現世における権力のメカニズムを冷徹に描き出したのがマキアヴェリであった。また、人間の理念から現実を見直して、その理念にふさわしい政治生活を想像して描き出したのがモアの著作『ユートピア』であった。
マキアヴェリの考え方は革新的なものであった。それは、人間というものは、その本来からして社会秩序の中に生まれてくるもので、その社会秩序は自然の本性から尊重していくものだという考え方を、徹底的に打ち破ったということである。
マキアヴェリにとっては、現実の人間は自身の利害に基づいて行動するものであり、その様な人間がつくりだす社会において、政治の秩序を創り出すのは権力を追求する人間であり、従って政治の秩序は権力支配の形を取るということであった。即ち政治の問題は国家の問題、「stato」の問題、端的に支配と手段の問題であった。これは、政治の問題を共同体の秩序の問題とする従来の考え方の転換であった。
モアのユートピア思想は、現実の悲惨さを見ることによって、人間の理念にふさわしい社会、悲惨ではない社会を構想することから生まれた。ユートピア思想には三つの大事な核がある。一つは、人間が平等な労働に従事する世界であること、二つ目は万人の平等な労働によって万人に余暇が生まれること、三つ目は何より戦争を避けること、である。これらは当時の人の現実においては空想ではあるが、文化に対する深い理解と現実を変革したいという欲求がなければ構想できないもので、ルネッサンスがもたらした一つの大事な寄与である。
3 宗教改革と新しい価値
ルネッサンスは中世の解体ではあるが、中世ヨーロッパ普遍世界の頂点に咲いた花であるといえる。これに対して、宗教改革は、この普遍世界の底辺から、アルプスの彼方の土臭いドイツからルターに担われて、ルネッサンス的な世俗化に対する逆説として、宗教自体の改革として現れてくる。
宗教改革は、ルネッサンスとは逆に、人間の尊厳ではなしに人間の無力化を説き、人間は宗教的な意味では自己を救済する力がなく、従って救いは世俗の制度即ち教会からではなく、神のみから直接に、神の恵みを受け入れたときにのみ来る、と考える。
この考えは、人間の内面、魂が直接に神を求めることによって、人間の内面生活、また個人の良心において、思想的に絶対的な意味をもたらし、宗教組織の解体へ、個人の内面の自律性へ、と思想の展開を促した。だが、このことが直ちに政治的な意味での個人の価値という思想に繋がったのではない。
この考えは、ルターが弾圧する立場を取ったドイツ農民戦争のように農奴解放の契機ともなった。しかし、その考えが政治的に大きな意味を持ったのは、ヨーロッパ普遍世界の頂点にあったローマ教会との対立において、思想的内面を分割し、地域国家の権力を教会の権威から切り離したところにあった。
そうなると、国家の権力とルターが解放した個人の内面、良心との関係は深刻な問題を孕むことになる。ルターはその問題に対して、良心のために服従することをすすめる。それは内面と良心を切り離すことになるのだが、一方、人間の内面の自立という、より根源的な価値が貫かれることとなった。
カルヴァンは宗教改革の意味を更に徹底し、神と神によって創られたとされたこの世界とを全く切り離した。中世社会においては、人間世界の道徳規準を神が保証するものであったが、カルヴァンは、このような考えは人間の判断を神に強要するもので、もともと神の判断は人間には全く分からないものであると考え、神を絶対化し人間を徹底して無力化した。
従って、カルヴァンにとっては、現世は、中世的意味での非理性的で、非合理で秩序のないものとなる。だから、もし神の思し召しに叶うようにするためには、人間の関係を制御して、アナーキーなものから合理的な組織を作らねばならぬことになる。この部分においてはマキアッヴェリと同じ考えということになる。中世における理性の意味の転換が起こり始めているのである。
4 宇宙像の解体と政治の世界
中世的な政治像を解体した今ひとつの決定的な契機は宇宙像の崩壊であった。コペルニクスに始まり100年後のガリレオにかけて、ルネッサンスが解放した人間の自由な想像力が、中世における世界観、即ち完結した理性的で秩序ある宇宙像、世界像を解体し、中世の権威を崩壊させていく。
宗教改革を背景として中世ヨーロッパ普遍世界に対抗して現れてきたものは、地域国家を単位として再編成された共同体構造、権力と権威が表裏一体となった絶対主義の形であった。一方、一切の被造物から神秘性をはぎ取るカルヴァンの思想は、絶対主義に対抗する理論と客観的自然認識を深める精神をもまた準備した。
二 近代政治思想の現実的前提
1 絶対主義と近代国家
近代国家は近代政治思想の現実的前提であり、その土台はヨーロッパ絶対主義政治体制によってつくられた。中世においては、国家の経済は主として国王の直轄地や専売などによって賄われ、兵力は地主や貴族の武力に依存していた。それに対して近代国家は、いわば紙切れ一枚で徴税や徴兵を行うという、それまでの政治世界から見れば奇跡に近い仕組みを持っている。
絶対主義の国家はマキアヴェリの使った意味での「stato」の系列であり、また国家が君主の私有財産である家産国家であった。王朝は官僚制と常備軍という二つの手段によって、貴族の持っていた多元的な権力を吸い上げて、絶対主義の権力を獲得していった。
しかし、このような実力、暴力だけでは政治社会というものは成り立たない。そこで絶対主義は、公共の福祉、人民の安寧ということを言い立てて、それに宗教を利用した。ルターの宗教改革は地域国家の権威を普遍的教会から解放したが、そのことは、多元的となった宗教の選択を権力が決めることにつながり、具体的には国教会制度を生み出し、人間の内面においても権力が強制することとなった。
絶対主義の時代は、政治における実力の契機と個人における思想、宗教の契機が極端に現れ、それらが交錯していた。国際政治においてはパワー・ポリティクスが思想、宗教を無視すると同時に、政治生活における闘争が利害調整を越えた深刻な問題となって、凄惨な宗教戦争をも生み出した。
政治思想にとっての絶対主義の問題は、端的に二つの問題、権力の問題と自由の問題である。この問題はそれらに対応する新しい概念、即ち前者は主権、後者は人権という概念を作り上げていく。
2 自由の問題
絶対主義の時代においては、自由の問題はまず抵抗の問題であった。この抵抗には二つの根があった。一つは、中世社会における伝統的な、また身分的な特権が国家権力で侵されることに対するものである。もう一つは、絶対主義となっても尚人間を縛っている社会を変革しようとする志向をもったものである。後者は宗教改革結びついており、主としてカルヴィニズムを始めとする信仰であった。この時代のカルヴィニズムは、いわばジュネーブに本部を持つ革命運動のようなものであったといえる。
この抵抗運動には、上記二つの根が結びついていたが、それは宗教が媒体となって精神的確信をあたえたからであった。その精神的確信によって、抵抗が内面に根拠を持つ運動となり、やがて、圧政に抵抗する根拠としての、人間が本来持っている権利という理論が生まれてくる。
だが絶対主義の時代にあっては、社会は依然として身分的な構造を持っていたので、抵抗運動は個人の抵抗であるよりも現実的には身分の抵抗であった。その意味で自由の問題は未だ抵抗の問題であり、自由それ自体もまだ積極的な価値を獲得していなかった。
3 権力の問題
それに対して権力の問題は、主権という新しい概念の登場によって理論付けがなされた。主権という概念は、国家内においては、身分、地域、宗教、言語などの様々な違いを含んだ社会の中に存在する多様な権力のすべてに優越する権力を意味し、対外的にはヨーロッパ普遍世界に対する地域国家の独立性を意味するものであった。主権の概念は16世紀フランスのボーダンによって理論化された。
ボーダンは、宗教戦争を克服するには、信仰により政治的差別がなされないことが必要であるという考えのもとに、国家の権力としての主権という概念を提示した。主権はどのような国家にも存在するもので、その国家の主権を握っている個人とは区別された抽象的なものと考えられ、そのことで政治が理論の問題となり得た。同時代に、国民に信仰の自由、内面の自由を認めるナントの勅令がフランスのアンリ四世による出されている。
しかし、17世紀のルイ14世の時代にフランス絶対主義の全盛を迎えたときには、ナントの勅令も撤廃され、国王の信仰を信じるもののみが忠良な国民とされ、政治が理論的問題ではなく信仰の問題となった。主権は、特定の人格から切り離されることができない専制的な連想を持った概念となり、恣意的ではあっても抽象的ではない明確な意味を持つようになる。
ところで、近代国家を生み出した革命が、この専制的な連想を持つ主権という言葉を葬らず、国民主権という言葉で国民と主権とを結びつけてしまったことの意味合いは、あとに問題となって残されてくる。
4 人格と自然
神の創造した秩序ある自然という中世の自然観が崩壊し、地域国家における絶対主義の権力と個人の自由という二つの要素の葛藤という問題が生じてくると、身分社会を権力で締め上げたように、自由の問題に関しても、絶対主義国家のなかでの自然法の観念の再編成という形で現れた。
この自然法においては、既に中世的宇宙像や宗教から区分され始めているから、人間の本性から導かざるを得ないことになってきていた。そこで人間の本性は「人間の自然」と考え、その人間が作る社会の秩序を維持するには、権力者と被支配者の間での約束が必要であるという説が現れてきた。これは神学に対抗しつつ権力と自由の問題を解く一つの理論であった。
しかし、この理論は、「人間の自然」の自然という言葉自体が曖昧で、人間の人格や道徳の世界と自然の世界が区分されていない過渡的な構成物であった。この時代には自然の認識が進み、自然自体が明らかにされていけば行くほど、人間の問題はそれ自体深刻になっていった。
自然認識に対する根源的な問題は、端的にデカルト哲学に示される。自然は、人間精神から切り離されて人間の五感に訴える経験科学としての自然科学の対象となる。すると、人間が考えること自体の可能性が問題となってきて、ひいては人間の政治についての見方も自覚的なものに変化していく。
三 近代政治思想の原理構成
1 原理構成の諸段階
ここでは、近代政治思想の理論的前提の問題を取り扱う。中世ヨーロッパ普遍世界から近代の地域国家という政治社会へと移り来て、この国家というものが、従来のように解釈するものではなく理論的に構成すべき対象になってきた。
国家を構成するという問題は、マキアヴェリの考えのように、権力者が自らの権力でそれを行うという段階を越えて、すべての人間が自らの社会生活をどう組み立てるかという問題に変わってきた。そうなると、政治社会を考えるには、まず人間に立ち返り、人間が自らを顧みること、即ち哲学の問題となるのである。
近代哲学の特徴は、世界解釈の独断論ではなく、人間の世界認識のメカニズムを考え、人間の能力を自己吟味する問題に課題を限るところにある。そのことを最も端的に作り上げたのがカントであり、それは人間が対象とする世界と、人間自身の人格の世界が区分された「人間の哲学」である。
近代哲学の出発点は、自然に対する科学的認識が端緒となっているが、哲学的認識が深まるにつれ、自然の世界の自律性、人間の感性が対象化する客観的存在としての自然、に対して区分された人格としての人間の自律性、が益々明確にならざるを得なくなる。
人格としての人間の自律性が確立されてくると、自由の問題は、抵抗の問題という消極的なものから、それ自体が積極的な価値に変化し、根源的な原理の問題となっていく。そして、社会というものは自然的な所与の存在ではなく、結局個々の人間が構成しているものであるという思想が成立してくる。
現代では社会という言葉を国家と区別して使うが、近代思想が成立してくる時代においては、社会は政治社会のことを意味していた。即ち社会とは支配と被支配の関係、権力の成立によってはじめて成り立つものと捉えられており、換言すると国家と社会の原理的区分は存在しなかった。
政治社会における権力の問題に対して大きく言って二つの考え方があった。一つは被治者の同意を得た範囲の中での使用に限る、権力の制限という考え方であり、今一つは権力それ自体を被治者が奪ってしまうというものである。後者の考えが、近代国家一つの原理である人民主権の思想である。
権力は暴力の要素を含んでいるが、これを排除せず近代原理が成立するということは、その暴力が単なる物理的なものではなく、人間的なもの、暴力は自然としてそこに存在しているのではなく人間の思想という契機によって成り立つものである、という認識が確立したからである。このことは、政治社会のメカニズムを人間の内側から見通していく視点の端的な現れである。これは「権力の物理性の分解」と言える。
近代原理は、国家というものが人間の組織であり、いわば一つの結社だという考え方を導く。当たり前に思えるこの考え方は、実は今でも当たり前ではない場合がある。例えば日本の建国記念日が二月十一日(神話での建国日)であるということがそうである。
ヨーロッパ世界でこの近代原理の認識が確立したのは17~18世紀で、更に詳しくは、ホッブズが『臣民論(市民論)』を書いた1642年頃から始まり、ロックを経て、ルソーが『社会契約論』を出した1762年頃にかけてのことである。
2 政治の革命と思想の革命
思想の原理的展開は、現実と向きあっている中で起きるものであって、ただ頭の中だけで起きるのではない。思想の革命は政治の革命と並行して起こるのである。ホッブズ、ロック、ルソーはそれぞれイギリス清教徒革命、イギリス名誉革命、フランス革命の時代に生きていた。
上記三つの革命のうち、思想の革命と最も緊密に結びついていたのは、宗教と不可分の関係にあったイギリス清教徒革命であろう。宗教は全人間的な心をつかむという特徴を持ち、イギリス革命は、絶対主義のもとでの国教制度への反対から始まるという点において宗教とは不可分な政治的意味を持っていたからである。(以下この節においては、殆どイギリス清教徒革命に関して述べている)
政治の革命の要点をなした政治と宗教の分離は、思想的転換をもたらすものであるが、原理的にはルターの宗教改革以来確立されていた。だが、この革命の推進力となったカルヴィニズムの流れをくむ信仰は、逆に宗教不寛容の立場を取るに至っていた。従って、カルヴィニズムは、その宗教の不寛容という点について原理的にも精算しなければならなくなってくる。
政治社会にとって更に重要なことは、宗教自体の持つ組織、即ち教会の問題であった。教会は宗教組織であるとともに、人びとが生まれながらそこに属していている政治組織でもあり、その政治は、いわば君主である法王の権威及び役人として上から任命された各級の聖職者により行われていた。
カルヴィニズムなどの改革派は、このような教会制度を否定し、教会を新しい信仰を持つ人間の相互組織と認識していた。また、メイフラワー号の清教徒達は既に1620年時点において、アメリカの新植民地社会運営に関する契約書を作り上げていた。宗教と結びついた現実の政治的変革は、政治思想革命に先だって始まっていた。
清教徒革命の時代に現れてくる多様な政治社会構想は、以前の、例えばモアの『ユートピア』(あり得ない社会)に比較して、構想力や理想主義という点では類似であっても、決定的に違う点がある。それは、その構想が、今、ここにおいて実現できるという確信に支えられていたという点である。
この革命は、宗教の変革と結びついて伝統的な偶像を破壊していくが、その偶像は、権力の側だけではなく自由の側、人民の側にも存在した。例えば13世紀のマグナカルタや、それ以前のノルマン人からのイギリス人の自由という神話等は、イギリス人の伝統的特権という偶像だったといえる。
この思想の革命の中で、自由の根拠が、イギリス人の伝統的特権という考え方から、人間が人間である限り何人によっても要求できる権利、という抽象的な人間の権利という考え方へと移っていく。そしてそれが平等の概念に繋がりイギリスに共和制をもたらしたのである。
この共和主義は、思想の革命をもう一歩推し進めた。革命運動は、自由と平等という思想に支えられて、絶対主義国家の一切の特権を精算するだけではなく、権力機構そのものを乗っ取り、国家を組み替えてしまった。そうすると、権力の根拠は結局広い意味での人民主権にならざるを得なかった(人民主権の意味がここではまだ不明瞭であったので、広い意味の人民主権と書かれている)。
イギリス革命では、思想の転換を支えたのが宗教であったので、最もラディカルな党派の主張が盛り込まれた「人民の協約 (Agreement of the People)」にも、人民主権の考え方に基づいた近代憲法の草案とも言える内容とともに、権力の制限として、第一に信教の自由を求める自由の保障を強く要求している。
これに対して、後のフランス革命においては、思想的には宗教との結びつきはなくなり、人間の自由というものはむしろ宗教からの解放の中に求められ、ラディカルな党派ほど人民主権一辺倒で宗教的寛容からは遠ざかっていく。だが、そのことが「理性」崇拝といういわば人為的信仰を作り出すこととなった。
思想の革命は政治の革命と相まって遂行されていったが、その過程において、国家と個人の関係における自然と理性という言葉の意味が転倒されていく。つまり国家は自然から切り離され、個人の自由と平等が自然であり、理性は秩序の中にあるのではなく、秩序を作る人間の能力となっていった。
3 人間と文化(Ⅰ)
政治の革命と、それに関連する思想の変革によって、直ちに人間の社会認識の原理的問題まで解かれていったのではない。それはホッブズ、ロック、カント、ルソーなどの思想家、哲学者達による悪戦苦闘の「哲学的思考」の積み上げによって解かれていく。
そのことはまた、人間と文化という問題を解いていくことだとも言える。つまり、人間というものから、およそ文化によって付け加わった一切のものを、一旦思考の中ではぎ取り、人間自身を自然にまで還元し、そこから世界に対する知的認識の営みである文化や、人間の実践的構築物である社会を再考することであるとも言える。
例えば、自然法の理論家グロチウスの『戦争と平和との法(1625)』では、人間の本性は社会性であるという命題から考察が始まるが、ホッブズの『リヴァイアサン(1651)』では、人間を自然にまで還元することで、個としての人間の認識という問題から考察を始める。
ホッブズは、人間を生物体としての自然にまで還元し、他の生物との区分の根拠を理性(推理能力)に置き、自己保存の維持を自然権として第一に前提する。この考えは、平等思想に根拠を与え、身分制度を否定し、「人間の哲学」の端緒をなすものであった。
当時の時代背景を考慮すれば、「人間にとって自然であることを罪とするのは、人間の存在自体が罪だというのと同じだ」というホッブズの言葉はまさに千金の重みを持っている(当時の時代背景と千金の重みの部分の説明は次節に出てくる)。
しかし、ホッブズのこの考えは、各人の普遍闘争が必然であることを予測せざるを得なくし、それを回避して、安定した平和な世界を創るには、強大で無制限な権力(ホッブズの言う国家)を要求することになる。
ホッブズの思想の前提となる人間像は、平和で安定した社会を他の権力者に依存せざるを得ない点で他律的ある。その様な他律的な人間達が、安定した権力を物理的にも社会的にも自ら、従って自律的に創り出すにはどうしたらよいのかという問題は、経験的には了解不能な難問である。
この難問の発生する主な根拠は、生存権の前提となっている富の有限性にあったと言える。つまり、理性は富の不足を予測し、人に先んじてそれを獲得すべく争うからである。次の世代のロックは、この問題を、「理性的で勤勉な人間」の労働が富を生産すると考えることによって解決する(ロックについては次節で更に述べられる)。
4 人間と文化(Ⅱ)
当時の時代背景、伝統的思想においては、感性はいやしいもので理性により抑制されるべきものと考えられ、また、高尚で理性的な人間は生産労働をすべきではないと考えられていた。そこには身分制度と労働との結びつきが隠されていた。また、その考え方の中に一貫して流れていたものは、人間の感性、欲求を解放すれば社会の秩序が崩壊するという恐怖に他ならなかった。
ギリシャ、ローマの時代では、自由人は生産労働に従事するものではなく、それをするのはアリストテレスが「ものを言う道具」と呼んだ奴隷であった。プラトンの哲人王の構想は、国事に携わり、身体を労することでなくて心を労すること(思弁生活)を一身に統一したものであった。中世においては聖職者身分がこれに付け加わり、祈ることは働くことよりも高尚な仕事であった。
宗教改革は、生産労働を人間の本分とし、人間が神から与えられた使命を果たしていく働きであるとした。だが、そのような行動様式は、魂の救いや永遠の賞罰を拠り所としたものであり、人間の内側からの原理的自覚に基づいたものではなかった。また、人間の感性に対してはきわめて厳しく、なかんずくルネッサンス的官能には敵意すら持っていた。
それに対して、ホッブズやロックのように、生物体としての個々の人間が持つ第一の資質は感性、感覚であると捉える考え方や、ロックの言う「理性的で勤勉な人間」に価値をおくという考え方は、従来の思想、文化を根底から覆すものであった。
ホッブズにおいては古い理性の考え方が残っていたので、人間の感性を第一の資質としながら、欲望の解放に基づく無秩序を回避する手段としての他律的強制権力を想定せざるを得ないという自己矛盾に陥った。
ロックの時代は経験科学のしくみがより明らかになり、そのことがベースになって、ロックは更に徹底的に感性的認識を追求することが出来た。そして労働という概念によって、「理性的で勤勉な人間」に価値をおく理性として、伝統的な古い理性の考え方を転換し、ホッブズの自己矛盾を解いた。いわば、人間は、感性的人間の論理的自律を獲得したと言える。その自律の証を私有財産と位置づけた。
ロックは、「すべて感覚のうちになかったものは、一つとして知性のなかには存在しない」として、人間の感性を第一の資質としたのだが、理性という高次の能力を論理的には問題にしなかった。その点においてカントの認識論は卓越しているが、実践哲学の領域における労働の観点が抜け落ちている。ドイツ哲学においては、ヘーゲルによってその問題は解かれ、「奴隷の主人はまさにそのことによって奴隷である」という認識が成立する。
ロックが示したように、感性的人間が個人として自律すると、国家というものは、相争う人間を外部から強制して秩序を作る権力ではなく、他国との争いや自国内の紛争を解決するための共同の装置、人間の相互組織である、という考え方が成立するようになる。
政治思想は歴史の制約、つまり、いま、ここに現実に生きている社会の継続的制約、を受けるものである。その意味で、ロックの理論に取り込まれている人間観は、現実には当時のイギリスの有力者達、彼らは「理性的で勤勉な人間」とは言えない人々の中にある人間性から抽出されたようにも見える。また、現実に存在する貨幣や相続原理も、勤勉な個人が労働から得る私有財産の範囲を著しく逸脱させ、ロックの思想は現実に存在する私有財産の格差を正当化するようにも見える。
更に、ロックは、無知で強欲な人間は、死後の地獄などの宗教的恐怖心がなければ欲望に負けてしまう、と言い、財産も教養もない、つまり庶民の感性的欲求を全面的に解放したわけではなかった。ロックの思想は、結局有産階級にだけ当てはまる、という批判には無理からぬところがある。
ロックの理論を構成する人間にピッタリ当てはまるのは独立自営の農民であった。だが、名誉革命後のイギリスでは、既に農場主と工場主及びそれぞれの労働者が出現する時代になっており、独立自営の農民の様な人々は急減していた。ロックの理論を構成する人間は、むしろアメリカにおいて生き残っていた。だから、19世紀初頭のアメリカにおけるジャクソン・デモクラシーが可能となった。
ルソーの段階におけるフランスにおいては、絶対王政が絶頂期を過ぎて頽廃の度を増しながら延命していた。また、技術的、経済的条件は政治体制とは無関係に拡散するものなので、文明が進み、都市生活は豊かで華美となり、上述したようなロック的人間は既に存在していなかった。そして農村はそれらの負担を一切背負わされていた。
一方、当時のフランスにおいては、啓蒙思想の全盛期で、絶対王政及びその背景にあるカトリック国教に対する急進的な批判が盛んであり、人間個人に関する感性の全面的な解放が行われ、人間の欲望、快楽への欲求が文明の原動力であるという考えが出現していた。この考えは、すべての人々を対象とするという意味においてロックよりも民主的であるとは言える。
しかし、欲望の解放に対するこのような考え方には、それが生存の手段への欲求であるという、ホッブズやロックの原点が既に脱落していた。すると、感性の解放が秩序を崩壊して富を生むことが出来なくなる、と言う恐怖は脱落し、従って富が生まれ文化が形成される根拠を問う必要がなくなり、そして、人間の感性と結びついた理性の契機、というロックの思想も脱落してしまっていた。
だが、それでは現実の文明社会が成り立たないのではないかという考えが出てくるのも無理もないことであり、欲望の解放を法律と道徳によって秩序づけようとする考え方が出てきた。その法律の内容とは「公益と私益の一致する法」であり、道徳とは「人類全体の利益となるように行動する」というものであった。
しかし、快楽を求めることだけを本性とする人間には 、その様な法は作れるはずもないし、そのような道徳も人々の日々の生活指針にはならず、要するにその思想は、現実の文明社会を成立させるにはどうしたらよいかという問いに対する、答えとなり得ない答えであった。
ルソーはその様な法や道徳の考え方を徹底的に糾弾した。当時の文明社会に対するルソーの認識は「大衆が暗黒と貧困にのたうっている一方、一握りの強者富者が権勢と富との絶頂にいる」状態で、社会は「公共の理性が教えるとの正反対の格律を各人に強制する」ために、人間の心情は堕落し、倒錯に陥り、そこにあるのは「虚偽にして軽薄な一つの形骸、徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に過ぎないというものであった。
このルソーの認識の背後には、人間の尊厳への強烈な欲求があった。この欲求を理論化し、人間性の回復を求めるのに「人間の哲学」に付け加えたものは、歴史の理論であった。つまり、人間のあり方は社会で規定され、社会は歴史で作られる、と考えたのである。
ルソーは、ホッブズやロックと同様に人間観を根底から再考し、本能だけで行動する自然人にまで還元して、人間は生存本能(自愛心)とともに哀れみの本能(憐憫)を持っていると考え、当時の社会について、人間は文化を築くことによってこの哀れみの本能を失い、心情が倒錯し、自分の作りだしたものの奴隷になっている、と批判した(人間疎外)。
人間疎外に対するルソーの批判は痛烈きわまる弾劾で、ロックの言う「理性的で勤勉な人間」で言う理性や感性の解放は現に起こっている事実に照らしてみれば偽りであり、理性を人間の利己心と結びつけ、私有財産を人間疎外の始まりとして批判し、それまでの人間観と文化を根底から否定した。
しかし、ルソーはそこで「自然に帰って熊と一緒に暮らす」わけにはいかないと明言し、人間疎外が起こるのは人間が道徳的に悪いからなのではなく、本質的な問題は社会「制度」の問題、より正確には制度化の問題であると考えた。そして人間が人間らしく生きることの出来る社会の構想に取りかかることになる。
すると社会に対するルソーの考え方は、それは人間の作り上げた組織である、というホッブズやロックの考え方に類似してくるが、その社会はメンバーすべての人間が自由に人格を発展させることのできるようなもので、メンバーが共同で作り上げるもので、運営もメンバーが行うものでなければならなかった。だから、ルソーは、人間の自由の実現を人民主権の一点にかけるようになった。だが、ルソーは、満腔の同情を寄せていた喘ぎ苦しむ農民達の怯懦を嘆かずにはいられなかった。
人民主権に基づいて自由の実現をもたらす社会制度は、当然自然の本能だけでは作り上げることは出来す、自然を越えた人間の能力、文化を築く実践能力、つまり理性を復権させねばならなくなる。しかし、ルソーには、抽象化された人間像の原型が成り立たず、現実にも制度を支える人間が見いだせず、ルソーの人間像はホッブズのそれに劣らないほど不安定となる。
だが、ルソーはそこに、ホッブズのように、他律的で架空の支配者を想定するのではなく、庶民であっても自律して社会を担う可能性を見いだせる原理を考えた。それは、結局人間というものは、秩序の主体として社会に参加することによって、不完全な人間から自律的な人間となり得るものである、逆に、そのことを可能とするのは、社会自体、具体的には社会の制度である、というものであった。
ロックとは異なり、ルソーにとって、人間は社会の制度を担うことの中ではじめて自律が可能となるものであった。社会及びその制度は、主体的で自律した人間を創り上げるものでなければならず、従って制度というものに担わされた役割は重大となった。そして社会とは政治社会即ち権力の関係を含んだものであるから、権力と制度の問題が問われてくることになる。
5 権力と制度
ホッブズ、ロック、ルソーを経て、権力というものの神秘性がはぎ取られ、それは人間によって構成されるもの、従って自然の所与ではなく、自然的力を集約する思想的契機があってはじめて成り立つものであるという考え方がはっきりする。
だが、ホッブズやロックにおいては、権力の根源を主権に置いてはいても、それを国民の代理人という概念で説明する以外には無かった。ロックの場合には、そのことは「信託としての国家」という思想に現れている。ロックにとって人間は自律的存在であるから、国家が人民の信託に応えられないときには革命権を認め、人民の代表を含むと言うことを根拠にして国王に対しての議会の優位を主張する権力機構の制御が問題となった(モンテスキューの機構論にはその様な背景がない)。しかし、ホッブズにとって人民は自律的でないから機構論を展開する契機はない。
ルソーの場合には、人間の行動様式を制御する制度化の問題を構想する点ではホッブズと同じである。だが、ホッブズのように他律的な権力者にその課題を預けて済むとは考えるはずもなく、またロックのように自律的人間をあてにすることもできず、人民自身が制度の主体となる人民主権を主張することになる。
しかし、人民主権とは何を意味するのであろうか。君主主権の場合は、君主の命令が他の人によって行われていると理解することは容易だが、人民主権の場合には、人民が人民に対して命令することの理解には、より深い根拠が問われなければならない。
先ず、人民とは何であるのかが問題となる。ルソーにとってその人民とは、バラバラな人間の集合ではなく、それらの人間の集合が行った意志決定に従う限りのものであった。つまり、人民とは政治社会即ち国家なのである(趣味のサークルなら、気に入らなければ脱退すればよいが、国家の場合にはそうはいかない)。
すると、ある人民が他の人民に命令する社会というものは、自由な社会といえるのかという問題が生じる。しかしルソーは、その権力がすべての国民の参加による意思決定に基づいたものであって、かつすべての人民を拘束するものであるならば権力がもたらす負担は誰に対しても平等になるから、それは自由な社会である、と考えた。そしてルソーは、人民主権を保証する機構論に注力する(ルソーは従って代議制に反対する)。
しかし、ルソーにとって重要なのは機構論ではなく制度の問題であった。ルソーは人民主権の権力の根拠として「一般意志」という概念を提示し、人民が、一般意志を根拠にした相互の権力関係を通して鍛えあうという、そのような制度への道筋、制度化の問題が機構論より重要であると考えたのである。
「一般意志」とは、愚かで利己心に惑わされ易い人民がであっても、かれらが集まって、本当にまじめに討論するならば、そこから正しい公共の利益が見いだされる、という考えに基づいた、人民の意志のことで、個々人民の意志の単なる総和ではない。一般意志を強制することは「自由であるように強制する」のだ、とルソーは言い切るのである。
すると、自由の意味も、ロックのように個人単位で完結するというのではなく、社会制度の運営に携わることによってはじめて成立することになる。政治への参加は単に権力を制限する手段ではなく、自由になるための根本的条件になってくるのである。
以上によって、政治社会のカラクリを、感性と接点を持った人間理性に根拠を置いた人間の内側から見通すことによって、権力の神秘性を自覚的に解体し、国家や社会の組織は人間の必要に従って組み直すことができるものである、という政治思想が生み出された。ルソーの人民主権論は、このような論理の貫徹である。
結び 遺産と現代
1 近代国家と政治の観念
近代国家は政治の革命により生み出されたが、その成立に当たって事実上の前提となっていたものは、中世ヨーロッパにおける普遍社会に対する地域国家であった。地域国家における政治社会の形を力によってつくりだしたのは、主権という概念で象徴される絶対主義の権力であった。政治の革命によって絶対主義国家を組み直すには思想の革命が必要であり、思想の革命により近代国家、国民国家という政治社会の形をつくりだすには、新しい政治原理が必要であった。
ホッブズ、ロック、ルソーの思想を基に説明してきたこの新しい政治原理には、絶対主義を精算していく段階に応じて異なる内容が含まれている。しかし、それらの思想には次のような共通した部分がある。①国家というものは、自然の所与としての存在ではなく、自然を越えた人間の能力によって作られる。②社会というものは、その人間集団が、ある特定の行動様式に従っている限りにおいて実在するもので、これは制度の問題である。③この制度を支える行動様式は、人間の生存と結びついたものとしての理性、という人間の高次な能力に基づいたものである。
上記三人の思想家に共通な特色を別の面(思想は歴史的制約を受けるが、同時にその制約を取り払っても尚後世に意味をもたらす理論を含んでいる、という面。序説の冒頭参照)、から考えてみる。その第一は、何れも産業革命以前の社会に生きていたことに由来する。産業革命が生産のあり方を一変したとき、そこにイデオロギー性の問題が生じた(例えばマルクス『ユダヤ人問題に寄せて』)。しかし、それらの理論の根底にある「人間の能力の自覚」は、人間の生み出した抽象物(科学、技術、法律、更に具体的には所有権が社会の変遷即ち産業革命以前から産業資本主義へまた金融資本主義へと変遷するにつれてその意味が抽象化していく事態→例えば『債権の優越的地位(我妻栄)』など)を使って巨大な生産力を放出するという事実を作り上げた近代という時代をもたらした 。
その第二は、彼らの言う社会が、政治社会、歴史的には近代国家であったことに由来する。そこでは、権力と自由の折り合いをつける問題に対して、権力の制限と人民主権という二つの解き方があった。そこに共通する部分は、権力の必要性の根拠を「制度を支える行動様式の保障」に置いたこと、更に重要なこととして「権力の制限の要求が結局人民主権なしには貫かれなかった」ことである。現実の近代国家はこれらの原理のそのままの実現ではないが、その深い影響を受けている。
革命によって成立した政治社会はいわば革命の制度化である。それは被治者の選択によって成立するものであり、従って近代国家は、その選択を保証する制度として、選挙権、思想の自由、言論の自由、結社の自由が必須である、ということになる。
被治者の選択によって成立する近代国家における権力というものは、それ以前の社会における権力よりも却って強力となる。なぜなら、権力が国民の選択を媒介として、すべての国民の富と力を直ちに自身の力として使うことが出来るからである。例えば税であり軍隊である。ナポレオンの率いたフランス国民軍の強さはそのことを端的に示している。
近代の政治原理は思想的契機に依存するが(三の5「権力と制度」の冒頭参照)、それは権力に内在する暴力が思想に依存することを意味している。軍事力について言えば、人民武装であるということが、その本質をなしていることになる。これはデモクラシーの論理的帰結であると言える。現代におけるスイスの民兵制度、武器保有の権利が保障されているアメリカの憲法はその例である。
革命権とそれを裏付ける人民武装は、近代の政治というものの考え方をはじめて確立したと言える。ナポレオン率いるフランス国民軍がヨーロッパを蹂躙すると各地で抵抗運動が起こり、絶対主義国であるプロイセンでは国民皆兵制度敷いてそれに抵抗した。プロイセンで起こったことは権力が武力を独占する武断政治であった。
プロイセンの軍事制度を輸入した日本の明治政府を含めて、武断政治においては、権力が暴力的契機を背景に無力な被治者に臨むこととなる。その場合には、政治というものが権力にとっては容易になるのだが、常に軍事が政治を支配する可能性を持っている。日本においても、そのことは痛く経験したことである。
それに対して、人民武装のように、武力が権力者の独占物ではなく逆に権力者に向けられるという事態は事情を一変させる。政治という仕事が、先ずは軍事と明確に区別され、暴力による決済ではなくて、その本来の機能が社会の経営であると考えることになるからである。逆に言えば、最後の手段が権力に独占されていると、このように考える風土は非常に育ちにくいのである。このような政治観念の成立は、革命の制度化としての近代国家の、いわば宿命的パラドクスである。
革命は、それが最後の革命であるためには、革命によって処理すべき問題は全部制度の中で解決済みである主張せざるを得なくなる。つまり憲法という機構を信仰の対象とする努力をすることとなる。だがそのことは、新しく発生した諸問題をこの機構によって解決して行く努力とともに、不断の制度化の努力として、制度の幅を広げるという逆説を生む。
2 諸前提の変容と現代の問題
このようにして生まれた近代国家が歴史の中で作り上げたもの、近代思想の諸前提が近代思想それ自体によって変容されたものは、現代への遺産として引き継がれ、現代における基本的な二つ問題を生み出す元となった。ひとつは、近代政治思想の前提となる人間像は産業革命以前のものであったこと、もうひとつは生み出された近代国家が絶対主義を代位した国民国家であることに由来する(結び1の三段落目の二つの問題に対応している)。
一つ目の問題は、近代の科学が巨大な生産力を持った工業化社会を生み出したことから生じた。工業化社会は人間の生存手段における新しい様式の必然性によって、一つの階級社会であった。そこではルソーの夢見たような牧歌的な自営農民は消えていた。そのような人間像を前提に構成されたルソーの政治理論を批判し且つ彼の歴史哲学を継承して、文明の全体を問うた社会主義が生まれた。
だが、一つ目の問題はそれだけには留まらない。技術や工業はそれが抽象物に依存しているが故に、それ自体の法則性を持って加速度的なテンポで自己運動を始め、近代的な政治概念外の社会、階級社会の中で、深刻な政治的問題を生み出した。更に工業社会の発展は専門分化を伴い、それが故に専門家自身が、その発展が人現社会に何をもたらすのかを考えて、その自己運動を統制することが出来なくなってきた。
工業社会は生産力の飛躍的な向上をもたらし、かっての時代の多くの問題を解決する条件を生み出した。しかし一方、分業の細分化、労働と成果の間の長い回路など、人間の作り上げた網の目は、個人を絡め取り、人間を自然から遠ざけて、工業社会という怪物の前に人間自体を無力化してきた。生産力の向上は人間の感性の解放を可能にしたが、同時に労働する人間における理性の契機を見失わせていった。
政治はこのような現代の問題を解けるであろうか、ルソーが言うように一般意志に基づいて人間を自由にし、無力感から解放しその尊厳を取り戻すことが出来るであろうか。国家は今なおそのような政治の単位として、かっての意味を持つのだろうか。ここに第二の問題が問われてくる。
ルソーの時代の地域国家は「われわれの社会」としての具体性を持ち得た。近代社会の強大な生産力は原料の調達と製品の販路を求め世界にあふれ出し、植民地支配を打ち立て、ついに帝国主義戦争へと至った。この植民地支配は現代における南北問題として未だ殆ど解決されていない深刻な問題である。地域国家の枠は社会生活の単位として小さすぎるようになったのである。
国家の問題を更に深刻にしているのは戦争の問題である。人民主権という考え方は、元々君主主権を置き換えるものであったが、主権という絶対主義の生み出した観念そのものを破壊したものでは毛頭無かった(「二近代政治思想の現実的前提」の3の4段落目参照)。主権は国内的に権力の所在を示すだけではなく、対外的には国家が戦争をする権利の確認、国家を越えた権威の否定でもあった。
ルソーの政治理論で果たされなかった国際平和の組織に関して、カントは永久平和の理念を述べ実現条件として軍備の全廃や政治の民主化をあげた。実際、絶対主義の家産国家的な考え方や、秘密外交を精算すれば、平和が維持できるという期待は根強く続いた。しかし、プランス革命以後の現実は、その期待とは全く違う道を辿ることとなった(産業革命→帝国主義→現代)。
そして現代において、人類が生き延びるためには、主権国家の枠を問題にして、国家主権そのものを再考する必要が出てきた。この問題について、近代の政治というものの考え方をはじめて確立したと言える人民武装から出発して考えてみることにする。
人民主権の反面としての人民武装は十九世紀の間にすっかり意味を失った。ロックが言うように、利益と象徴とによる制度化が成功すれば、「天に訴える」必要はそう簡単に生まれるものでない。しかも、権力が集権的暴力装置を持っている場合には、革命の成功には常備軍の好意的中立を保つことが不可欠の条件であり、人民武装はせいぜい最後の手段としてのバランスを意味するものに過ぎなかった。
だが、軍事技術の発達はこのバランスを決定的に覆した。自由の保障としての人民武装の意味の終わりを最も生々しく示したのは1871年のパリ・コミューンの悲劇であった。近代国家においても民兵制度の意味は次第に小さくなり、イギリスでは二十世紀には制度自体が消滅する。
人民武装が消滅していったその同時代には、近代国家、国民国家が次第に帝国主義へと進み始め、軍備の拡張を競い、ついには文明の生み出した武器を使って人類を滅亡させかねない危機を生み出す。現代においてのその象徴は核兵器である。
軍事技術が発達した果てに出現した核兵器は、伝統的な意味での国防や安全等の考え方の再考を迫るものである。例えば、現代アメリカの国際政治学者モーゲンソーは次のように言っている。「核戦略というものは、自国の国民を守れるものではなく、潜在敵国が自国民に攻撃をかけてくるのを抑止できるだけである。もしその抑止が失敗した場合、政府は自国民の破壊の源泉になる。」
ここで問われている問題は、近代国家の原理、近代政治思想の論理の枠組みを全く超えた問題であり、近代思想の処理能力を超えた問題である。この現代の問題は、技術や核兵器ばかりではなく、まさに近代によって解き放たれたものの上に出現したもので、人間がつくりだしたものが非人間化し、人間に対立し、人間を非人間化しているところに特色がある。
それでは近代思想は、現代には全く無意味になったのか、近代思想の原理の持つ意味は全く失われたのか、次節で考えてみたい。
3 批判の精神
先ず近代国家の問題について考えてみる。1871年のパリ・コミューンで革命というものが終わったのではなかった。1917年にはロシア革命、1949年には中国の成立、1959年にはキューバ革命が起こった。これらの革命が起こった地域は何れも政治の革命が生み出した近代国家ではなかった。このことは、現代においても尚、「権力の物理性の分解」を可能にした近代政治思想の原理的認識が有効であったことの証である(「三 近代政治思想の原理 1原理形成の諸段階」の8段落目参照)。
人民武装の意味するところは現代にも引き継がれている。民兵制度を廃止したスターリン体制が粛清により大量に人命を奪い、そうではない中国は「階級敵」でさえ生命を奪わなかったこと、アメリカにおける武器保有の権利は、それが現代では犯罪に使われて問題となっていても、その権利自体は存在していること、がその現れである。その意味を理解できず、最終的な「暴力装置」を独占して治安の維持に使うことに注力しているような権力は、政治というものを根本から考え直す必要がある。
更に、高度工業国家においても、それが近代政治思想の現実的な前提である主権国家というものであり、その主権国家が、人間の生物的な存在を脅かすほどの危機もたらしているという事態の中に、権力の物理性の分解をもたらすような原理的認識が、その意味を生々しく見せつけている。佐世保闘争における小田実の行動思想、加藤周一が伝えるワシントンにおける反戦デモ風景、などにその例が見られる。
次に人間の問題について考えてみる。原理的にはむしろこちらの問題の方に困難が多い。近代がこれほどまでに人間の生存条件を変えてしまったとき、ルソーが持ち得た楽観(森に帰らず公共生活の中に理性を回復し、人間が叡智的存在即ち人間になる)をなお持ち続けることが出来るだろうか。
ローマの帝政は、生産から切り離された市民に対して、植民地からのあがりで「パンとサーカス」を与える代わりに政治的自由を奪った。これからの工業化社会が、少数の知的エリートだけが創造的な仕事を、しかも無目的におしすすめ、大多数の人間が徒食して、倒錯した感性への惑溺に気晴らしを求めるような未来図は、ただの妄想なのだろうか。
現代の問題は近代思想の処理能力を超えた問題であると言わざるを得ない。なぜなら、近代政治思想の理論的前提となった近代思想家たちの人間像は、現実によって乗り越えられ、それを支える条件は失われたと考えざるを得ないからである。
問題はそれだけではない。ホッブズやロックの人間理解、更にそれを批判したルソーの人間理解が、現代の政治思想の理論的前提としては不十分であるといわざるを得ないからである。人間の社会をつくっている思想的契機を自覚化したことは、近代思想家達の「人間の哲学」の原理的な功績ではあるが、人間というものは未開社会以来文化の所産であって、この思想的契機は近代科学と結びついた理性だけに限られるものではなく、もっとひろいもの、ゆたかなものである。
大事なことは自覚である。この、もっとひろいもの、ゆたかなものを原理的に自覚化することこそ、まさに現代の政治思想の理論的前提であり、現代政治哲学の本当の課題である。この課題の核心は、依然として感性と結びつきながらでしかあり得ない理性、人間の自律性、自己と自ら生み出した文化とを規律する能力としての理性、の問題にある。この視点を失わぬ限り近代思想家達の仕事は原理的意味を失ってはいない。
まさに現代において人間が生み出した現実が、この視点の確認を迫っている。もっとものっぴきならない現実は、核兵器である。そこに賭けられているものは、贅沢でも安楽でもないまさに人間の生存であるからである。核兵器だけではなく一切の戦争の道具を放棄することなく、現代における理性は成り立たないと言える。
問題はこのレベルに留まらない。核兵器を生み出した近代科学、さらにこれを世界政策の道具として用いている近代国家、それらを支えている人間の行動様式としての文化、これらのメカニズムを見通して、人間を抑えつけている巨大な既成事実を組み直すことこそ元来近代思想の精神、人間の自覚としての「人間の哲学」の意味である。
現代の巨大な現実を前にしてその問題に立ち向かうとき、その巨大な現実を偶像として崇拝したり、人間の理性が無力に思えたり、人間の自由が空想に見えたりするかもしれない。しかし、この現代は、近代思想に基づいて、かっての偶像を打ち倒し、そのカラクリを見破って人間に引き戻すことから生まれた。
現代の状況において、そのカラクリを見破るには、より原理的な認識が必要であり、その認識を与えるものは人間の自覚である。自由の理念を裏付けるもの、現代における理性をつくるものは批判の精神である。
2009/10記