『純粋理性批判(カント1781---岩波文庫)[1]』
(抜粋)
【目次】
献辞
第一版序文
第二版序文
緒言
Ⅰ 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
緒言(1)
第一節
空間について
l 空間概念の形而上学的解明(2)
l 空間概念の先験的解明(3)
l 上記の諸概念から生じる結論
第二節
時間について
l 時間概念の形而上学的解明(4)
l 時間概念の先験的解明(5)
l これらの概念から生じる結論(6)
説明(7)
先験的感性論に対する一般的注(8)
先験的感性論の結語
第二部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
Ⅰ 論理学一般について
Ⅱ 先験的論理学について
Ⅲ 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
第一部 先験的分析論
第一篇 概念の分析論
第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
第一節
悟性の論理的使用一般について
第二節
判断における悟性の論理的機能について(9)
第三節
純粋悟性概念即ちカテゴリーについて(10-12)
第二章 純粋悟性概念の演繹について
第一節
l 先験的演繹一般の諸原理について(13)
l カテゴリーの先験的演繹への移り行き(14)
第二節
l 純粋悟性概念の先験的演繹
l 結合一般の可能について(15)
l 統覚の根原的-総合的統一について(16)
l 統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である(17)
l 自己意識の客観的統一とは何かということ(18)
l およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えるにある(19)
l およそ感性的直観はかかる直観において与えられた多様なものが結合せられて一つの意識になり得るための条件としてのカテゴリーに従っている(20)
l 注(21)
l カテゴリーは経験の対象に適用され得るだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない(22-23)
l 感官の対象一般へのカテゴリーの適用について(24-25)
l 純粋悟性概念の一般的に可能な経験的使用の先験的演繹(26)
l 悟性概念のかかる先験的演繹から生じた結論(27)
l この演繹の要約
第二編 原則の分析論(判断力の先験的理説)
緒言 先験的判断力一般について
第一章
純粋悟性概念の論について
第二章
純粋悟性のすべての原則の体系
第一節
一切の分析的判断の最高原則について
第二節
一切の総合的判断の最高原則について
第三節
純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示
第三章
あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について
付録
第二部
先験的弁証論
緒言
第一篇
純粋理性の概念について
第一章 理念一般について
第二章 先験的理念について
第三章 先験的理念の体系
第二篇
純粋理性の弁証法的推理について
第一章 純粋理性の誤謬推理について
第二章
純粋理性のアンチノミー
第一節
宇宙論的理念の体系
第二節
純粋理性の矛盾論
第三節
これらの自己矛盾における理性の関心について
第四節
絶対に解決せられねばならぬ限りにおける純粋理性の先験的課題について
第五節
すべてで四個の先験的理念によって示される宇宙論的問題の懐疑的表明
第六節
宇宙論的弁証論を解決する鍵としての先験的観念論
第七節
理性の宇宙論的自己矛盾の批判的解決
第八節
宇宙論的理念に関する純粋理性の統整的原理
第九節
これら四個の宇宙論的理念に関して理性の統整的原理を経験的に使用することについて
第三章 純粋理性の理想
第一節
理想一般について
第二節
先験的理想について
第三節
思弁的理性が最高存在者の現実的存在を推論する証明根拠について
第四節
神の存在論的証明の不可能について
第五節
神の存在の宇宙論的証明の不可能について
必然的存在者の現実的存在に関するすべての先験的証明における弁証的仮象の発見と説明
第六節
自然神学的証明の不可能について
第七節
理性の思弁的原理に基づくあらゆる神学の批判
先験的弁証論・付録
純粋理念の統整的使用について
人間理性にもちまえの自然的弁証法の究極意図について
Ⅱ 先験的方法論
緒言
第一章 純粋理性の訓練
第一節
独断的使用における純粋理性の訓練
第二節
論理的使用に関する純粋理性の訓練
自己矛盾に陥った純粋理性を懐疑論によって満足させることの不可能性について
第三節
仮説に関する純粋理性の訓練
第二章 純粋理性の規準
第一節
我々の理性の純粋使用の究極目的について
第二節
純粋理性の究極目的の規定根拠としての最高善の理想について
第三節
臆見、知識および信について
第三章 純粋理性の建築術
第四章 純粋理性の歴史
付録[2]
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(第一版に記載されていたが第二版で削除された部分)
Ⅳ(第一版の目次)
索引
Ⅰ(人名)、Ⅱ(事項)
第一版序文(1781)
人間はある種の認識について、理性をもってして退けられずかつ答えられない問題に悩まされる。理性が退けられないのは人間の“自然的本性”の故であり、答えられないのは理性を超えているからである。
その問題に対して、理性は原則から出発して次々と条件を遡ってそれらの原則を使用していくが尽きることが無く、ついに一切の可能的な経験的使用を超える原則(経験による吟味を超えている)を使用せざるを得なくなり形而上学にいたる。その形而上学は、現代の(当時の)数学や自然学が裏付けている成熟した判断力に基づいて、人間の自然的本性に対する無関心を装う人々が侮蔑するものであるが、理性が一切の可能的な経験的使用を超える原則を使用せざるを得なくなるという、その理性に対する要望である。
そこで、その様な理性、経験に一切かかわり無く得られる認識をし得る能力としての理性能力一般を批判することが必要であり、これを純粋理性批判という。
以下省略。
第二版序文(1787)
---以下部分抜粋・要約---
p27:----理性認識は対象に対して二つの仕方で関係しうる。ひとつは対象とその概念とを規定するだけであり(理論的認識)、もうひとつは対象を実現することである(実践的認識)。その何れについても、理性が対象をまったくア・プリオリに規定する、純粋な部分だけをとりだして論究されなければならない。
p27:数学は全体として純粋であり--------いったい形而上学において学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由はどこにあるのだろうか-----------形而上学において少なくとも数学及び自然科学を模倣してみたらどうか------。
p33:我々の認識はすべて対象によって規定されねばならぬと考えていた。---中略--。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定せられねばならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試したらどうだろう。
p34:つまり経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない、そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念[カテゴリー]に従って規定せられ、またこれらの概念と一致せねばならない、ということである。
p34:こういう対象について言うと、これを考えようとする(かかる対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考方――つまり我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物の中へ自分で入れるところのものだけである、という新方法による考方とみなすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから判ると思う(ここでの注釈に“純粋理性の命題の対象を実験することは原理的に出来ないが、我々がア・プリオリに承認しているような概念や原則については可能である。”と言う説明が理由とともになされているが、理解できない)。
p35:形而上学は、この第一部門{先験的感性論}でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えられ得るのである。---中略---ところが形而上学のこの第一部門では、我々のア・プリオリな認識能力のかかる演繹から、形而上学の全目的にとって一軒頗る不利であるような、いかにも奇異な結果が生じる、ところが形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門[先験的論理学]の趣旨なのである。
p38:----しかも幾何学および自然科学を範として形而上学の全面的革新を企てることによってかかる変革を成就しようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。---思弁的純粋理性の特性は、――第一には、思惟の対象を選択する仕方の相違に従って、自分自身の能力を徹底的に検討し、――また第二には、自分自身に課題を与える様々な仕方を遺漏なく枚挙し、---。
40p:――即ち空間と時間とは、感性的直観の形式にすぎない、それだからまた現象としてのものの存在を成立せしめる条件に他ならない、――また我々の悟性概念に対応する直観が与えられえないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまた物を認識するに必要な要素を一つももたないことになる、ということである。つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物だけである。
p41:我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える、即ち第一には現象としての客観であり、また第二には物自体としての客観である。
以下略。
緒言
I.
純粋認識と経験的認識との区別について
我々のうちに生じるどんな認識もすべて、時間的には経験をもって始まる。しかしそうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。
経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識をア・プリオリな認識と呼ぶ。それに対立するものをア・ポステリオリな認識(経験によってのみ可能な認識)と呼ぶ。
ア・プリオリな認識のうち、経験的なものを含まない認識を純粋認識という。疑問:経験にかかわりないが経験的なものを含む認識(ア・プリオリな認識)とは何か?
II.
我々はある種のア・プリオリな認識を有する、そして常識でも決してこれを欠くものではない
経験は、何かあるものがこうであるということを教えはするが、しかしそのものが「それ以外ではありえない」ということは教えない。だから、ある命題がそれ以外にないという必然的な判断を持つなら、その命題はア・プリオリな判断である。また、経験は厳密な普遍性を与えないから、ある判断に厳密な普遍性が属する場合には、それはア・プリオリな判断である(かかる普遍性はこの判断が特殊な認識源泉から生じたことを意味している)。
(判断ばかりではなく)概念についてもア・プリオリな起源を持つものがある。例えばある物体や非物体的なものに対してもっている経験的なもの一切を取り除いてもなお残る性質がある。それは実体、実体に付属するものとして考えるところの性質である。
III. 哲学は一切のア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を必要とする。
ア・プリオリな認識のうち、我々の判断の範囲を経験の外に拡張するようなもの、即ち超越的認識があり、理性はこれを究明しようとする。
純粋理性の課題は神、自由および不死であり、この課題の解決を目的とする本来の学を形而上学というが、従来の形而上学の方法は、理性がそのような能力を持っているかどうかの検討をしていないので独断論的である。
我々の理性は概念を分析して認識を与え、分析は概念を拡張せず分解するだけだが、新たにア・プリオリな概念を付加する。
IV.
分析的判断と総合的判断との区別について
主語Aと述語Bの関係を含む判断(命題)において、その関係は、Bの概念がAの概念にふくまれる場合と、含まれない場合の二種類が可能である。前者を分析的判断、後者を総合的判断と名づける。分析的判断を開明的判断、総合的判断を拡張的判断とも呼ぶ。例えば、「物体はすべて延長を持つ」という命題は分析的判断であり、「物体はすべて重さを持つ」という命題は総合的判断である。
経験的判断は本性的にすべて総合的判断であり、分析的判断はすべてア・プリオリな判断である。
ア・プリオリな総合的判断は経験を要しない判断であり、例えば「生起するものはすべてその原因を持つ」という命題がそれである。これは、因果関係の認識が我々にとって必然的かつ普遍的であることを示している。
要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、総合的原則即ち拡張の原則に基づいている。
V.
理性に基づく一切の理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれている
数学的命題はすべてア・プリオリな総合的判断である。例えば「七と五の和は十二である」と言う命題は、主語部分は七という概念、五という概念、それらを加えてひとつの数字とするという概念は含まれるが、その加えられた結果が十二になるという概念は含まれていない。にもかかわらず、それが普遍的かつ必然的に十二であることは理解される(小生の追記:初めは身近な指を用い、次に石ころを用い、そのうちに一対一の対応ができなくなるほど大きな数を取り扱うようになっても同様に和算を理解できる根拠は直観であり経験ではない)。即ち、この命題を認識するということは、主語に含まれる概念の外に出てア・プリオリに概念を拡張していることになる。幾何学の命題「直線は二点間で最短である」も同様である。直線の概念は形状であり、この命題には最短という概念がア・プリオリに付け加わり概念が拡張されている。
自然科学はア・プリオリな総合的判断を原理として含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は不変である」という命題は、物質という概念に含まれていない、量(質量)が不変という概念が付け加わっている。ア・プリオリにこの概念が付け加わっているということは、我々は物質という概念の外に出てから新たに概念をア・プリオリに拡張していることになる。
形而上学の命題も同様にア・プリオリな総合判断が含まれる。即ち、我々が認識を直観によりア・プリオリに拡張することができるという原則が用いられる。例えば「世界にはそもそも始まりがなければならない」という命題がそうである。
疑問:数学や自然科学の命題は、ア・プリオリな総合判断であると同時に仮定であり仮説である。即ちいつでも拡張された概念に含まれうる。形而上学におけるア・プリオリな総合判断はどのような意味を持つのだろう(形而上学の目的に対する答えを出しうる原理なのだろうか?)。
VI.
純粋理性の一般的課題
純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いに含まれる。
純粋数学はどうして可能であるか、純粋自然科学はどうして可能であるか、という問いに対する答えは、それが現実に存在しているから。疑問:これは答えになっていないと思う
「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが存在する。「形而上学の論究する対象は知ることができるのかできないのか」という問いも存在するが、別の言い方をすると「学としての形而上学はどうして可能であるか」という問いとなる。
人間性に欠くことのできない学であるところの形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。
VII. 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分
理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力なので、純粋理性批判と名づけ得るような特殊な学の構想が生じる。
我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を、それがア・プリオリに可能である限りにおいて、「先験的」と名づける。
先験的哲学はまったく思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。
この体系は二つの区分を持つ。第一が純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論である。更なる小区分に必要なことはさしあたり以下のようなことである。人間の認識には二つの根幹がある。それは感性と悟性である。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。
Ⅰ 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
1 緒言
我々の認識が直接に対象と関係する方法、思惟が手段として求めるところの方法は直観である。
我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力を感性という。対象は感性を介して我々に与えられる。感性のみが我々に直観を給する。対象は悟性によって考えられ、悟性から概念が生じる。
対象が表象能力(感性)に与える作用によって生じた結果は感覚である。感覚を介して対象に関係するような直観を経験的直観という(経験的直観ではない直観が在る事を示している)。経験的直観のまだ規定されていない対象を現象という(我々が対象を直接認識するには、直観を何かにより規定する必要があることを暗示している)。
現象において、感覚と対応するものを現象の質料と名づける。現象の内容をある関係において整理するものは現象の形式と呼ばれる。現象の質料はア・ポステリオリにのみ与えられるが、現象の形式は我々のうちにア・プリオリに具わっている。従って、この形式は一切の感覚から分離して考察せられねばならない。
感覚に属するものを一切含んでいない表象は、先見的意味において“純粋な表象”と呼ばれる。感性的直観一般の純粋形式は、我々の心のうちにア・プリオリに見出され、現象における一切の多様なものは、この形式によって、ある関係において直観される。感性のうちのこのような純粋形式は“純粋直観”と呼ばれる。ある物体の表象から、悟性の思惟するもの(実体、力、可分性など)を分離し、更に感覚に属するもの(不可入性、硬さ、色など)を分離してもまだ我々の中に残されたものがある、それは延長および形態である。かかる空間的なものが純粋直観に属する。
ア・プリオリな感性の諸原理に関する学を、先験的感性論と名づける。純粋思惟の諸原理を含む学を先験的論理学と名づける。先験的感性論と先験的論理学と対立するものである。
対象から、悟性が概念によって思惟するいっさいのものを分離して経験的直観を残し、そこから感覚に属するものいっさいのものを分離して純粋直観(現象の形式)だけを残す。この最後に残った現象の形式こそ、感性がア・プリオリに与え得る唯一のもの、即ち純粋直観である。空間と時間がア・プリオリな認識の原理であることが判るが、このことを以下に考察する。
第一節 空間について
2 空間概念の形而上学的解明
[前文]
我々は、空間については、我々の外感によって対象を我々の外にあるものとして表象することをもって、時間については、我々の内感によって自分自身の内的状態を直観する形式として認識する。
空間と時間とは一体何であるのか、現実に存在するものか、物の単なる規定か、物と物の関係か、物自体に属するのか、我々の主観的性質(直観の形式)にのみ付着しているものでもあるのか、これから究明していく。
先ず空間の概念[3]を究明するが、この究明にあたり用いる「解明」という言葉は、ある概念に属する明瞭な表象を意味し、「形而上学的」という表現の意味は、この概念がア・プリオリに与えられたものとして明示するところのものを含むことである。
[本文;空間概念の形而上学的解明]
(1) 空間は、多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではない。
対象を我々の感性を通して感覚として表象するには、そもそも空間の表象が根底になければならない。従って、その空間表象は、外的現象の経験によって得られるものではありえない(外的現象そのものが、空間表象によってのみ初めて可能となる)。
(2) 空間は、ア・プリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。
我々が空間について考える時、空間のなかに対象が存在しないと考えることはできるが、空間そのものが全く存在しないとは考えられない。従って、空間は、現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能とする条件である。即ち、空間はア・プリオリなものであると同時に(我々の感性が外的直観を我々に与える場合には)必然的表象である。
(3) 空間は、物一般の関係に関する論証的概念でも一般的概念でもなく純粋直観である。
我々は、ただ一つの空間(それに先立つ空間を表象できないところの)しか表象できないから空間は論証的概念ではない。一般概念であるところの個々の空間という概念は、感覚的なものを含み、かかる唯一の空間を制限することによって生じたものであるから、かかる唯一の空間は一般的概念ではなく、経験的直観でもなく純粋直観である。だから、幾何学の原則はすべてア・プリオリな直観から導来されている。例えば「三角形の二辺の和は他の一辺よりも大きい」という命題は、直線とか三角形という一般的概念から導来されたものではない。
(4) 空間は、与えられた無限量として表象せられる。と、いう点からもア・プリオリな直観である
どのような概念でも、無限数の可能的表象を自分のもとに包括していると考えることはできても、自分のうちに包括しているように考えることはできないから。
3 空間概念の先験的解明
先験的解明とは、ア・プリオリな総合的認識の可能が、或るア・プリオリな原理に基づいて理解され得る場合に、この或るア・プリオリな概念の原理としての説明をいう。
幾何学の命題を例にとり、空間表象は純粋直観であることを繰り返し説明している。幾何学の命題の例として「空間は三次元を持つ」を新たに記載している。
対象よりも前にあり、その対象の概念をア・プリオリに規定する外的直観が我々の心意識にどうして内在し得るのだろうか。それは、この外的直観が、認識主観の内に、主観的性質として、従ってまた外感一般の形式としてのみ存在するからである。
上記の諸概念から生じる結論
a) 空間は物自体の規定ではない。物の規定は、かかる規定が属するところの物が存在する前には直観され得ないが(空間はされ得る)
b) 空間は、外感によって表象せられる一切の形式にほかならない、換言すれば、空間は感性の主観的条件であり、この条件においてのみ外的直観が我々に可能なのである。
空間という直観形式は実在性を持つと同時に、観念性をも持つ。空間は、外的対象として現れ得るところのものに関しては実在性を、物が理性によって物自体として、換言すると我々の感性の性質を顧慮せずに考えられるならば、その物に関しては観念性を持つ。つまり、我々は空間の経験的実在性と先験的観念性を主張する。空間の先験的観念性とは、我々が一切の経験を可能ならしめる(主観的)条件を捨てて、空間を物自体の根拠に存するところの何かあるものと考えるならば、空間は無である、ということである。
空間以外には、外的なものに関係する主観的表象でア・プリオリに客観的であるものは存在しない。また、そのような主観的表象は観念性を持たない。
空間表象によって直観せられるものは物自体ではない。我々が外的対象と呼ぶものは我々の感性の単なる表象である。この感性の形式が空間である。空間という形式の真の相関者である物自体は、この形式によっては認識され得ない。従って物自体は、経験においてはまったく問題にならない。
第二節 時間について
4 時間概念の形而上学的解明
(1) 時間は、なんらかの経験から抽象された経験的概念ではない。
我々は、同時的存在(同じ時に存在する)も継時的存在(異なる時に存在する)も、時間表象がア・プリオリに根底になければ表象し得ない。
(2) 時間は一切の直観の根底に存する必然的表象である。
我々が現象を時間から除き得るが現象一般に関して時間そのものを除くことはできない。だから、時間は、ア・プリオリに与えられている。現象の現実性は時間においてのみ可能である。時間は現象を可能ならしめる普遍的条件である。
(3) 時間関係を規定する必然的原則や、時間一般に関する公理が可能であることは、時間のア・プリオリな必然性によるものである。
時間は一次元のみを持っている。だから多くの異なる時間は同時的ではなく継時的である。このような原則(命題)は経験から導来されるものではなく、時間のア・プリオリな必然性によるものである。
(4) 時間は論証的概念でも一般的概念でもなく感性的直観の純粋形式(純粋直観)である。
多くの異なる時間は、唯一の時間のそれぞれの部分にほかならない。『多くの異なる時間は同時的に存在し得ない』という命題は一般的概念から導来せられ得ない。この命題は総合的命題であり、時間表象のうちに直接含まれる。
(5) 根原的な時間表象は、もともと無限定(無限)なものとして与えられていなければならない。
或る一定の長さをもつ時間(部分的時間)は、何れもその根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能であるから、その唯一の時間はもともと無限でなければならない。
或る対象の持つ時間的量は、かかる制限を受けた部分的時間によって規定されたものとしてのみ表象されうるから、全体的な時間表象は、概念によって与えられたものではなく、直観としてこれらの部分的表象の根底に存しなければならないことになる。
5 時間概念の先験的解明
これについてはすでに4-(3)で記述したが、二点付け加える。それは――力学における変化の概念と運動の概念が時間表象によってのみ、また時間表象においてのみ可能であるということである。換言すると、矛盾対当関係をなすような述語を(例えば、或る場所における存在とその同一場所における非存在とを)同一の対象に結びつけることができるのは時間表象がア・プリオリな内的直観であるからである。即ち継時的に存在するということは、時間表象においてのみ可能である。
6 これらの概念から生じた結論
a) 時間は、それだけで存立する何かあるものではなく、また客観的規定として物に付属しているような何かあるものでもなく、我々のうちに一切の直観を生ぜしめる主観的条件である。
b) 時間は、内感の形式である。換言すると、時間は我々自身と我々の内的状態との直観形式である。時間は、我々の内的状態における種々な表象の関係を規定するものである。
c) 時間は、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である。一切の現象は時間に従っている(心意識の規定として内的状態に属し、この内的状態は内的直観の形式的条件に従うから)。感覚の一切対象は時間のうちにあり、また必然的に時間関係に従っている。
我々の直観の仕方を度外視すると(それは対象をそれ自体あるがままのものと解することと同じ)時間はまったく無である。時間は、現象に関してのみ客観的妥当性を持ち、我々の感性を無視して物一般について言うならばもはや客観性を持たず、我々の直観の主観的条件にほかならない。われわれは『一切の物は時間のうちにある』と言うことはできない。物一般という概念は、物を直観するという仕方を度外視するからである。『現象(感性的直観の対象)としての一切のものは時間のうちにある』という原則(命題)は客観的に正しいし、ア・プリオリな普遍性を持つ。
だから、我々は時間の経験的実在性を主張し、時間が絶対的実在性を要求することを一切拒否し、時間の先験的観念性を主張する。時間が絶対的実在性を持つなら、我々の感性的直観の主観的条件が度外視され、時間は自存するものとしても、物自体に付属するものとしても無である。対象そのものを現象とみなさない限り、時間は客観的実在性を失う。
7 説明
時間に経験的実在性を認めながら、絶対的先験的実在性を拒むという私(カント)の理論に対する非難の内容は、「変化は現実に存在し、変化は時間においてのみ可能であるから、時間は現実的なもの(主観に属するものではない)である」というものである。この非難に対する回答は以下のようなものである。時間は内的直観の現実的形式(現実に存在するものではない)であり、対象そのものに属するのではなくて、対象を直観するところの主観に属するのである。
空間が観念性を持つという私(カント)の説に反論できない人からかかる非難がなされる理由は以下のようなものである(この人たちも空間の絶対的実在性は証明できないと思っているにもかかわらず、時間については上記の非難がなされる)。彼等の見解によれば、外的現象の現実性は厳密には証明されえないが(外的現象は単なる仮象かもしれないから)、内感の対象の現実性は否定できない何かあるものである(意識によって直接に明確だから)。ところが彼らは、外的対象と内定対象とが表象として現実性を持つことは否定できないにせよ、とも現象にほかならないということに思い及ばないからである(現象は対象自体及び対象を直観する形式を考察するという二つの面をもつが、この直観形式は主観において求められるものであるにも拘らず現象自体に必然的に属するから)。
時間と空間とは二つの認識源泉であり、これらの源泉からそれぞれ相異なるア・プリオリな総合的認識が汲みだされ得るのである。要するに時間と空間とは、一切の感性的直観の両つの純粋形式であり、これによってア・プリオリな総合的認識が可能になるのである。また、それ故にこそ現象だけがこれら両形式の通用する領域であり、この領域外に出れば、時間と空間とはもはや客観的に使用されえない。時間と空間が、経験に限定された実在性を持つということは我々の経験認識の確実性を損なうものではない。疑問:以下この段落に記されている内容は理解できない。
先験的感性論は空間と時間以外の要素を含み得ない。その理由は、感性に属する他の一切の概念は何か経験的なものを前提にしているから。時間と空間を結び付けている変化の概念すら、何か経験的なものを前提にしているので含まれない。疑問:この説明は同じことを別の言い方をしているだけでは?
8 先験的感性論に対する一般的注
Ⅰ まとめると次のようになる。我々の一切の直観は、現象を表象する仕方である。我々が直観するところの物はそれ自体としては、我々が実際に直観しているところのものと同じものではない。もし我々の主観を除き去るならば、或いは我々の感性一般の主観的性質だけでも除き去るならば、空間および時間における対象の一切の性質や関係はもとより、空間および時間そのものすら消失する、かかる性質や関係は現象であるから、それ自体存在するものではなくて、我々のうちにのみ存し得る。空間および時間は、対象を知覚するかかる仕方の純粋形式であり、感覚一般はその質料である。我々がア・プリオリに(一切の現実的知覚よりも前に)認識し得るのは、空間および時間だけである、だから、空間および時間は純粋直観と呼ばれる。これに反して感覚は我々の認識において、ア・ポステリオリな認識即ち経験的直観と呼ばれる。空間および時間は我々の感性そのものに絶対に、また必然的に付属する。我々が完全に認識し得るのは、我々の直観の仕方、換言すれば我々の感性だけである。我々の認識は主観に付属するところの空間および時間という条件の下でのみ可能である。我々に与えられているのは、対象自体ではなくてこの対象の現れであるところの現象だけである。
我々の感性は、対象の乱雑な表象に他ならず、物自体に属するところのものはその乱雑な堆積物下にあり、我々はこの堆積物を我々の意識において判別する(分明に区別し、判明する)ことをしていない、という見解は、感性および現象の概念を不純にする。判明でない表象と判明な表象との区別は論理的な区別であって表象の内容には関係がない。常識で用いている法の概念・思想は、使用に際しては意識していない種々な表象を含んでいるが、それだからといって、このような常識的概念は感性的であり単なる現象であるということはできない。法の概念は悟性に存し、行為の道徳的性質を示すもので、決して現象ではない。それに反して直観における物体の表象は、対象に属するものは何も含んでいない。我々の感性は、現象を究明しようとも、対象自体の認識とは甚だしく異なる(疑問:この文に記されている内容は理解できない)。
ライプニッツーヴォルフの哲学は、感性と知性の区別を全く論理的な区別とみなしているところが、我々の認識の本性および起源に関する一切の研究に対して間違った観点を示すものである。
さまざまな現象について、感性一般の関係に通用するものと、そうではなくて個々の感官の特殊な受け入れ方や特殊な組織にのみ通用するものとを区別するのが普通だが、このような区別は経験的なものである。
先験的感性論にとって第二の重要な事柄を十分に明らかにする事例を次に述べる。それは幾何学の命題は、ア・プリオリな総合的命題として、必然的確実性をもって認識せられる、ということである(疑問:この小生の把握は正しいか?)。空間および時間は、一切の(外的および内的)経験の必然的条件として、我々の一切の直観の主観的条件にほかならない、従ってかかる条件に関係する一切の対象は単なる現象であり、主観的条件にかかわりなく、したがってまた対象自体に特殊な仕方で、それ自体だけで与えられるようなものではない、このような理由から、かかるものの現れ方であるところの形式については、多くのことをア・プリオリに言いうるけれども、しかしかかる現象の根底にあると思われるところの物自体については何ごとも言い得ない、ということである。
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
先験的感性論の結語
省略
第二部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
Ⅰ 論理学一般について
我々の認識は心意識の二つの源泉から生じる。一つは表象を受けとる能力であり、もう一つはこれらの表象によって対象を認識する能力である。別の言い方をすると、印象に対する受容性と悟性概念の自発性である。第一の能力により我々に対象が与えられ、第二の能力により対象がこれらの表象との関係において思惟される。だから、直観と概念が我々の一切の認識の要素であり、どちらか一方が欠けても認識は成立しない。直観と概念は、純粋であるか経験的であるか、二つのうちのいずれかである。ここで、経験的であるとは、実際に現在している対象に対する感覚を含む場合であり、純粋とはそのような感覚を一切含んでいない場合を意味する。感覚は感性的直観の質料と呼ぶことができる。純粋直観は形式だけを含み、この形式をもって何かあるものが直観される。純粋概念は、対象一般を思惟する形式だけを含んでいる。純粋直観或いは純粋概念のみが、ア・プリオリに可能である。経験的直観或いは経験的概念はア・ポステリオリにのみ可能である。
我々の心意識がなんらかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受けとる能力、即ちこのような受容性を感性と言うのに対して、みずから表象を生み出す能力、即ち認識の自発性は悟性である。悟性は何ものをも直観し得ないし、また感性は何ものをも思惟できない。感性と悟性が結合してのみ認識が生じる。我々は、感性と悟性を分離し区別する大きな理由をもっている。だから、感性論を悟性論一般に関する学即ち論理学から区別する。
論理学は二つの目的をもって論及せられる。一つは一般的な悟性使用の論理学であり基本的[一般]論理学と呼び、一つは特殊な悟性使用の論理学であり個々の学オルガノンという。
一般論理学は純粋論理学と応用論理学に分かれる。一般的であって純粋な論理学は、ア・プリオリな原理のみを論究し、従って悟性および理性の規準になるものであるが、悟性および理性の使用を形式面のみに関して限り、先験的であろうが経験的であろうがその内容を問わない。一般論理学が応用論理学と呼ばれる場合があるが、それは一般論理学が心理学の呈示する主観的、経験的なものに悟性を適用する場合であるから、対象の差異にかかわらず悟性の使用を論じる限りでは一般的ではあるが経験的原理を含んでいるので、悟性一般の基準ではありえない(単なる常識の浄化剤に過ぎない)。
そのようなわけで、一般論理学においては、本来の学である純粋理性の学を成すべき部分(純粋な一般論理学)を、応用論理学を成す部分から区別せねばならない。純粋な一般論理学は、思惟の単なる形式のみを論じるものであり、経験的原理を含まないものである。
Ⅱ 先験的論理学について
直観には純粋直観と経験的直観があるので、対象を思惟する時にも純粋思惟と経験的思惟の区分があり得る。そうすると、一般論理学は、表象の起源がどこにあろうとも、ただ表象に適応され得る悟性形式だけを論究する。
ア・プリオリな認識でありさえすればすべて先験的認識だと言うのではない。----以降に書かれているその理由・説明は理解できない。
対象にア・プリオリに関係するような概念(直観ではない)、純粋思惟の作用としてのみ対象に関係するような概念の存在を期待して、そのような思惟が成り立つ条件であるところの純粋悟性および純粋理性認識に関する学の理念を構想し、即ちかかる認識の起源、範囲及び客観的妥当性を規定する学は、先験的論理学と呼ばれてしかるべきであろう(一般論理学は経験的理性認識に関係する)。
Ⅲ 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
「真理とは何か」という昔からの問題は、「真理とは認識とその対象との一致である」という定義が認められまた前提されている(この質問は、論理学者の循環論証の侵犯か無知の告白かを期待したものであろう)。しかし、我々の知ろうとしていることは、認識の真理を表示する普遍的標徴はなんであるか、ということである。
真理の普遍的標徴は、質料(対象を認識した内容)に関する認識の真理には要求せられ得ない。なぜならば、その認識の真理を表示する普遍的標徴であるならば、その認識の関係する対象の差異にかかわりなく妥当するものでなければならないから。
ある認識が、論理的形式には一致していても、なおその対象に矛盾することはあり得る。従って、一般論理学は形式に関する誤謬ではなくて内容に関する誤謬を発見しうるような基準を持たない。
一般論理学は、悟性及び理性による認識の形式に関する仕事全体をその要素に分解して、これを我々の認識を吟味する一切の論理的原理として提示するが、この部分を分析論と名づけてよい。分析論は、真理の少なくとも消極的な規準である。認識の単なる形式は、この認識に関する実質的(客観的)真理を与えるには不十分である。オルガノン(認識の道具)であるかのように誤想された一般論理学は詭弁術であり弁証論と呼ばれている。
オルガノンとみなされた一般論理学は常に仮象の論理学であり、従ってまた弁証的である。そこで、私(カント)は、弁証的仮象の批判に関する部分を弁証論と名づけて、この論理学のなかに加えた。
Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
先験的論理学では、我々は悟性を孤立させまた思惟の部分だけを我々の認識から取り出す。この部分を先験的分析論という。先験的分析論は、悟性の経験的使用を判定する基準である。純粋認識の使用は対象が直観において我々に与えられていることに基づくものであり、純粋悟性概念が適用されるのは、経験によって直観され、与えられる質料が適用される。純粋な悟性認識と悟性の原則だけを用いて経験の限界を超出することは、純粋悟性の誤使用であり、このような弁証的仮象の批判に関する部分を先験的弁証論と名づける。
第一部 先験的分析論
この分析論の主旨は、我々のア・プリオリな全認識を、純粋悟性認識の諸要素に分析することである。この学が完全なものであるのは、ア・プリオリな悟性概念の全体という理念と、この認識を構成しているすべての概念をかかる理念に基づいて適確に分類することによってのみ、従ってこれらの概念を関連させて一つの体系にすることによってのみ成立する。先験的分析論は、純粋悟性の概念[カテゴリー]を含むものである「概念の分析論」と純粋悟性の原則を含む「原則の分析論」の二編からなる。
第一篇 概念の分析論
概念の分析論は悟性能力そのものの分析である。この分析の主旨とするところは、ア・プリオリな概念を悟性においてのみ求め、悟性の純粋使用を分析することで悟性概念の可能を究明するところにある。
第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
我々が認識能力を働かせると種々の概念が生じる、また、我々はこれらの概念によりこの認識能力を知る。これらの概念はやがて多く集まるが体系はできない。
先験的哲学は、純粋悟性概念を一個の原理に従って残らず発見する。もしそうでないのなら、一切は任意や偶然に左右される。
第一節 悟性の論理的使用一般について
悟性の認識は概念によるもので、直観ではなく機能に基づく。ここで言う機能とは表象に秩序を与える統一作用を意味する。悟性は概念を判断に用いる。悟性の一切の作用を判断に還元することができるから、悟性は判断の能力である。悟性は思惟の能力である。思惟は概念による認識である。判断は、対象の間接的認識であり、従ってまた対象の表象のまた表象である。あらゆる判断は、我々の表象を統一する機能である。それだから、もし我々が、判断における統一の機能を完全に剰すところなく表示し得さえすれば、悟性の一切の機能は残らず発見できる。
第二節
9 判断における悟性の論理的機能について
判断一般からその一切の内容を度外視して判断の形式だけに着目すると、我々は判断における思惟の機能が次表のごとく区分されることを知る。→表省略(何故この表のような内容となるのか理解出来ない)
第三節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて
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一般論理学は、認識の一切の内容を無視して、表象が他所からあたえられることを待っている、そしてこれらの表象を分析的操作によって概念にする。これに反して先験的論理学は、先験的感性論が純粋悟性概念に素材として提供した多様なものを既に持っており、思惟の自発性はこれらの多様なものを総合する。
総合の内、この多様なものがア・プリオリに与えられている場合には、純粋な総合となる。総合は、我々が認識の起源を究明しようとする場合に、先ず着目せねばならない第一のものである。
総合は構想力の作用にほかならない。構想力は我々の心の機能であるが、無意識的であり、また欠くことのできぬものである。
一般的に表象された純粋総合は、純粋悟性概念を与える。純粋総合はア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合である。多様なものの総合における統一は、総合という概念によって必然的になる。
一般論理学は、種々な表象を分析により概念の基に包括する。先験的論理学は、表象の純粋総合を概念に形成することを教える。対象をア・プリオリに認識するために、我々にあたえられていなければならないものは、第一に純粋直観における多様なものであり、第二には構想力によるこの多様なものの総合であるが、これだけではまだ認識を与えない。かかる純粋総合に統一を与える概念が加わることで認識が与えられる。この概念は悟性に基づいている。
判断の含む表象に統一を与えるのも、直観を含む表象の単なる総合に統一を与えるのも、悟性であり、即ち、分析的統一により判断の論理的形式を成立させ、また、直観における多様なもの一般の総合的統一によって悟性の表象に先験的内容を配するのも悟性であり、この表象を純粋悟性概念と称する。
純粋悟性概念をアリストテレスの意図するところと全く同一であるのでそれをカテゴリーと名づける。→カテゴリー表の記載省略(何故この表のような内容となるのか理解出来ない)。
カテゴリー表は、総合の根原的に純粋な概念のすべてを列挙した表である。悟性はみずからのうちにこれらの概念をア・プリオリに含んでいる。即ち悟性は、これらのカテゴリーによってのみ、直観の対象を思惟できる。このカテゴリー表の区分は、共通な一個の原理、即ち判断する能力(この能力はそのまま思惟する能力でもある)に基づいて体系的に製作されたものである。アリストテレスのカテゴリーには原理がなかったため不完全である。
カテゴリーは純粋な派生的概念を持つ。これを純粋悟性の客位語と名づける。客位語の一例は、力、動作、受動などを因果性のカテゴリーに位置付けるなど。
11
なおこのカテゴリー表については、いろいろ適切な考察を試みることができる。以下略。
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ところが昔の哲学者達の唱えた先験的哲学[形而上学]に関する諸書には、純粋な悟性概念を含むような章がいまだに温存されているのである。以下略。
第二章 純粋悟性概念の演繹について
第一節
13 先験的演繹一般の諸原理について
幸福とか運命などというような概念に対する権利問題の演繹(権利の要求を説明すること)に関して、我々は明白な権原を、経験によってもまた理性によっても証明し得ないので、かかる概念を使用する権能を明らかにすることができない。
ア・プリオリな純粋使用に供せられ得るような若干の概念があり、これらの概念が演繹を必要とされる。この概念がア・プリオリに対象に関係する仕方の説明を純粋悟性概念の先験的演繹と名づけ、事実に基づく経験とその反省によって得られる事実に関する演繹、即ち経験的演繹と区別する。
感性の形式としての時間と空間という概念や、悟性の概念としてのカテゴリーのように、ア・プリオリな概念について、経験的演繹はそれらの意味からして原理的にできず、演繹が必要ならば、それは先験的演繹でなければならない。
ア・プリオリな概念についても、一切の認識と同じく、それを産出せしめる機因ならば経験のうちに求めることができる。即ち経験を成立せしめるところの最初の機縁をなすのは感覚的印象である。ところで経験は質料と形式を含み、この形式は我々のうちにある源泉から生じた純粋直観と純粋思惟により概念を作り出す。我々の認識能力がここの知覚から出発して一般的概念に到達しようとする最初の努力を追及する道を開いたロックは評価されるが、ア・プリオリな純粋概念の演繹は先験的演繹のみがあり、ロックが道を開いたような経験的演繹方法ではありえない。
ア・プリオリな純粋概念の演繹は先験的演繹のみであるとしても、どうしてそれが是非とも必要であるのかはまだ明らかにされていない。先に我々は先験的演繹を用いて空間及び時間の概念を根原まで追及し、それぞれの客観的妥当性をア・プリオリに解明しかつ規定した。一切の幾何学的認識はア・プリオリな認識そのものによって、直観に与えられるのである。これに反して純粋悟性概念となると、かかる概念そのものについてのみならず空間についても、先見的演繹を求める必要がどうしても生じてくる。純粋悟性概念は、直観や感性などの述語によってではなく、ア・プリオリな純粋思惟の述語によって対象を規定する、従って感性の条件には一切かかわりなく、一般的に対象と関係するからである(一般的対象と関係するとどうして先験的演繹が必要となるの?)。純粋悟性概念は、もともと経験に基づくものではないから、ア・プリオリな直観においても、およそ経験に先立ってこれらの概念の総合の基礎となるような対象を呈示することはできない。だから純粋悟性概念は、その使用の客観的妥当性や制限などに関して疑惑を引き起こすばかりではなく、この概念が空間概念を感性的直観の条件を超えて使用したがるところから、空間概念をも曖昧にするのである。このような理由から、読者は、純粋理性の領域に先ず一歩踏み入れる前に、かかる先験的演繹がどうしても必要であることをどうしても心得ておかねばならない。要するにここのところが、一切の可能的経験の限界を超出して諸人のいたく愛好する領域、即ち純粋理性による知見に達しようとする要求を一切放棄するか、それともこの批判を完成するかという、二つに一つの大事な瀬戸際なのである。(この段落の意味はよく掴めていない)。
空間と時間は、現象としての対象を可能ならしめるア・プリオリな条件を含むものであるから、かかる直観における総合が客観的妥当性を持つ。換言すると、対象は、純粋直観(空間と時間)を介してのみ現象として可能となる(経験的直観の対象となりうる)。
これに反してカテゴリーは、対象が直観に与えるための条件を我々に示すものではない。現象が現れても必然的に悟性の機能に関係せねばならないということにはならない。悟性は、かかる対象を現象として可能ならしめるア・プリオリな条件を含んでいない。ここに、感性の領域では出現しなかった困難が現れる。即ち、思惟の主観的条件がどうして客観的妥当性を持つのか、換言すれば、対象の一切の認識を可能ならしめる条件となるのか、という困難である。例えば、原因という概念をとりあげてみると、この概念は、あるものAに、Aとは異なるBがある法則に従って結合されるという、特殊な種類の総合を意味するが、現象がなぜBのようなものを含むのかという理由はア・プリオリには明白でない。にもかかわらず現象は我々の直観に対象を提供する(直観は思惟の機能を必要としないから)。
原因の概念は、まったくア・プリオリに悟性のうちにその根拠を持つものでなければならないか、それとも単なる妄想としてぜんぜん放棄されねばならないか、二つのうちの何れかである。純粋悟性概念を経験の所産として論じようとすると、かかる概念の使用はまったく本来の特性を失ってしまうだろう。
14 カテゴリーの先験的演繹への移り行き
総合的表象とその対象が合致する場合は、対象が表象を可能にするか、表象だけが対象を可能にする場合の二つである。前者は経験的なもので、現象における感覚に属するものはこれである。後者の場合は、表象は対象を現実的存在に関して産出し得るものではないが、直観により対象が与えられ、概念により対象が思惟されることを条件に、対象を規定している。およそ、経験は感性的直観の他に、直観において現れるところの対象に関する概念をも含むものである。すると対象一般に関するかかる概念は、ア・プリオリな条件として一切の経験的認識の根底に存することになる。一方、思惟の形式に関する限りではカテゴリーによってのみ経験が可能になるので、カテゴリーは必然的にかつア・プリオリに経験の対象に関係することになる。
ア・プリオリな概念の先験的演繹は一個の原理をもっている。その原理は、かかる概念が、経験を可能ならしめる条件であるということである。経験を可能ならしめる客観的根拠をなすような概念であるカテゴリーと、表象だけが対象を可能にする場合である可能的経験のこのような根原的関係により、ア・プリオリな概念が対象に必然的に関係する(この段落の意味はこれで良いか?)。
ロックは、悟性の純粋概念は経験において見出されると考えたにもかかわらず、そのような概念によって経験の一切の限界を超出する認識に達しようとした間違いを犯した。ヒュームは、この純粋概念がア・プリオリな起源をもたねばならないことには気付いていたが、概念自体が悟性に結合されていないのに、悟性がかかる概念を対象においては必然的に結合されていると考えねばならないということはどうして可能なのか、という問題を説明できなかった(悟性がかかる概念によってみずから経験の創作者になり、悟性の対象は経験そのもののうちに見出されることに思い及ばなかったのではないか)。経験的導来は、ア・プリオリな学的認識の実際、即ち純粋数学及び一般自然科学に適合するものではない、従ってこの事実により否定される。
我々は、人間理性を伴って、ロック(超出哲学)とヒューム(懐疑論)の暗礁の間を無事通過し、理性にその限界を示しはするが、しかしまたその合目的活動の全領域を理性のために開放しておくことを試してみたい。
カテゴリーは、対象一般に関する概念である、そしてこの対象の直観はカテゴリーによって、判断の論理的機能の一つに関して規定せられる。例えば、定言的判断において、実体のカテゴリーを物体の概念に適用すると、経験における物体の経験的直観は常に主語であり単なる述語とみなされない。他のすべてのカテゴリーについても同様である(どのように同様なのか?)。
第二節 純粋悟性概念の先験的演繹
15 結合一般の可能について
多様なもの一般の結合は、表象能力の自発性の作用なので感官によっては我々のうちには現れない。この自発性は感性から区分されるため悟性と呼ばれねばならない。およそ結合であればそれは悟性の作用にほかならない。このような悟性の作用を総合と名づける。あらゆる表象のうちで結合は客観によって与えられ得る表象ではなくて、主観自身によってのみ創られ得る唯一の表象である。結合は実に主観の自発的作用だからである。
結合の概念は、多様なものという概念と、総合という概念に加えて、統一という概念を必然的に伴っている。要するに結合は、多様なものの総合的統一の表象である。この統一は、ア・プリオリに一切の結合の概念よりも前にあり、単一性のカテゴリーのようなものではない。すべてのカテゴリーは、判断における論理的機能を基礎とするが、しかし、判断においてはすでに結合が考えられ、従ってまた与えられた概念の単一性が考えられている。それゆえ、我々はこのような単一性を、判断における種々な概念の統一の根拠を含み、従ってまた悟性の論理的使用においてすら、悟性の存立を可能ならしめる根拠を含むところのものに求めねばならない。
16 統覚の根原的-総合的統一について
「私は考える」という意識を産出するところの自己意識(自覚)を純粋統覚という。純粋統覚は根原的統覚とも名づけられ、他の統覚からは導来せられず、従って経験的統覚と区別される表象である。純粋統覚は、私の一切の表象が可能である限り、あるいは少なくとも無でない限り、その表象に伴い得なければならない。純粋統覚は、一切の思惟の前に与えられ得る表象である直観に必然的に関係するが感性に属するとはいえない。なぜなら、純粋統覚は自発性の作用だから。直観が与える多様な表象や、「私が考える」という表象など、私の多様な表象が私に属しているということは、それが、すべて私の表象として、一個の共通な自己意識のうちに共在し得るための唯一の条件に必然的に従わねばならない、ということである。このような根原的結合を統覚の統一と言う。また統覚の統一は、ア・プリオリな認識を可能にすることを言いたいがために自己意識の先験的統一とも名づける。
統覚の統一という原則こそ、人間の認識全体の最高の原理である。この根原的結合は悟性のなせる業である。即ち悟性は、ア・プリオリに結合する能力であり、また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない。この原理がなければ、直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することができず、即ち意識の同一性を表象することができない。また、この原理がなければ、多様な表象を一個の意識のうちに包括することができず、私の意識しているさまざまな表象に応じて、それだけさまざまな自己をもつことになるだろう。
統覚の必然的統一という原則は、私の一切の表象は常に私の表象であるという点において、分析的命題であるが、それにも拘らずこの原則は、直観において与えられた多様なものの総合を必然的なものであるとし、かかる総合がなければ、自己意識の完全な同一性は得られないと言うのである(だから?)。直観と同時に自己意識によっても同時に多様な表象が与えられたならば、悟性は直観もするだろうが、悟性は思惟するだけである(ここの意味はこれで良いか?)。従って私の悟性は、直観において私に与えられた多様な表象に関して、同一の自己を意識する。そのこと自体また一個の表象をなし、表象の必然的総合をア・プリオリに意識していることになる。(ここの段落で言いたいことで前の段落と違うところはなにか?)
17 統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である
感性に関して一切の直観を可能ならしめる最高原則は、直観における一切の多様なものが二つの形式的条件(空間と時間)に従うことである。悟性に関して一切の直観を可能ならしめる最高原則は、直観における一切の多様なものが統覚の根原的統一の諸条件に従うことである。
意識の統一は、表象がある対象に対して持つところの唯一の関係をなすものであり、表象の客観的根拠・条件であり、表象を認識にするところのものであり、悟性を可能とするものである。
感性的直観の純粋形式である空間は、それだけでは認識とはいえない。例えば一本の線を認識するためには、実際に線を引いてみて、直観において与えられた多様なものの一定の結合を総合的に生ぜしめねばならない。意識の総合的統一は、一切の認識の客観的条件であり、およそ直観が私にとって客観となるための条件である。
この命題(統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である)の意味は結局次のようなことである。与えられた直観に基づく表象は、私の表象として、従ってまた統覚において総合的に結合されたものとして、これを「私は考える」という一般的表現として総括し得るための条件に従わなければならないということである。
この原則は、自分が表象しさえすれば同時にその表象の対象が存在するような悟性があるなら、そのような悟性には妥当する原理とはならない。しかし、人間の悟性は思惟するだけで直観はできないから、かかる総合作用を必要とし、この原則を最高原則とせざるを得ない。つまり、我々は、自ら直観するか或いは空間および時間による直観の仕方とはべつの直観を基礎とするような悟性を、まったく考えることができないということである。
18 自己意識の客観的統一とは何かということ
統覚の先験的統一は、直感において与えられた多様なものを結合して客観即ち対象とする。なぜなら、それが、内的直観の純粋形式が、与えられた多様なものを含む直観一般としてのみ、意識の根原的統一に従うところの根拠だからである。統覚の先験的統一は意識の客観的統一と呼ばれ、意識の主観的統一と区別されねばならない。意識の主観的統一とは、統覚の経験的統一のことであるが、これは内感の規定であり、偶然的であるところの意識の経験的統一であるので、与えられたものに関して必然的でもなく、普遍的に妥当するものでもなく、主観的に妥当性をもつにすぎない。
19 およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えるにある
論理学者達が判断に関して与えている説明、即ち、主語と述語との間に成立する関係の表象であるという説明は、かかる関係が本来どのようなものであるかを決定していない。
判断は与えられた認識に統覚の客観的統一を与える仕方にほかならない。判断の含む繋辞「----ある」の旨とするところは、統覚の客観的統一にあり、与えられた表象の客観的統一は、その繋辞によって主観的統一から区分される。例えば、「物体は重さを持つものである」という命題が、経験的で偶然的な判断であっても、その繋辞は、根原的統覚に対する表象の関係とこれらの表象の必然的統一とを表示するからである。ここで言おうとしていることは、判断に含まれる表象は、経験的直観において互いに必然的に結びつくのではなくて直観の総合における統覚の必然的統一によって互いに必然的に結びつく、ということである。
20 およそ感性的直観はかかる直観において与えられた多様なものが結合せられて一つの意識になり得るための条件としてのカテゴリーに従っている
感性的直観において与えられた多様なものは、必然的に統覚の総合的統一のもとに統摂せられる。与えられた表象(直観でも概念でも)に含まれている多様なものは、判断の論理的機能であるところの悟性の作用によって統覚一般のもとに統摂せられる。だから、一切の多様なものは意識一般において結合され、それが経験的直観において与えられる限り判断の論理的機能の一つに関して規定される。カテゴリーは対象の直観を、判断の論理的機能の一つに関して規定するものであるから、感性的直観における多様なものは、それが判断の論理的機能に関して規定されている限り、一つの意識になり得るための条件として、カテゴリーに従うのである。
21 注
「およそ感性的直観はかかる直観において与えられた多様なものが結合せられて一つの意識になり得るための条件としてのカテゴリーに従っている」という上記の命題は、カテゴリーの演繹の手始めである。
直観により(或いは経験により)与えられる多様なものは悟性の総合よりも前に与えられていなければならないが、なぜそうなのかは、ここではまだ答えられていない。カテゴリーは悟性に対する規則であり、悟性は認識の質料を結合しこれに秩序を与えるだけに過ぎない。しかし、カテゴリー(カントのカテゴリー表の内容)によってのみア・プリオリな統覚の統一を生ぜしめる。だが、「カテゴリーによってのみア・プリオリな統覚の統一を生ぜしめる」ということが説明されえないのは、時間と空間だけが純粋直観(我々に可能な直観の形式であるところの)であることが説明されえないのと同様である。
22 カテゴリーは経験の対象に適用され得るだけであってそれ以外の物の認識には使用せられ得ない
対象を思惟することと、対象を認識することとは同じではない。数学的概念は、それ自体だけではまだ認識ではない。空間および時間における物は、経験的表象によってのみ、我々に与えられる。カテゴリーは経験的認識を可能ならしめるためだけのものであり、かかる経験的認識は経験と呼ばれる。だから、カテゴリーが物の認識に使用されるのは、物が可能的経験の対象と見なされる場合だけに限る。
23 表題なし(挿入表題;対象に関するカテゴリーの使用を制限する上掲の命題は極めて重要である)
対象に関するカテゴリーの使用に対して限定が規定されることは、先験的感性論が、対象が我々に与える感性的直観の純粋形式に対して限界を規定した(経験の限界を超えれば、空間と時間は我々に何ものも示さないという)のと同様である。空間および時間(純粋直感)は、感性を根拠にしなければまったく現実性を持たないが、カテゴリー(純粋悟性概念)はそのような制限を受けないから、それが客観的実在性をもたないところの単なる思考形式となることが可能となるが、その場合にはそのような概念に意味と意義が無い。
私が、対象の直観はしかじかで『ない』というだけで、その直観に含まれているものが一体なんであるのかを指摘し得ないとすれば、それは認識ではない。例えば実体の概念、即ち主語としては存在し得るが、述語としては存在し得ないような『何かあるもの』の概念は、経験的直観がこの概念に適用される場合を私に実際に示さない限り、思考だけによるかかる規定に対応するような物が一体存在しうるかどうかを、私は全く知りようがない。
24 感官の対象一般へのカテゴリーの適用について
純粋悟性概念(カテゴリー)は、悟性だけによって直観の対象一般に関係する。だからこそカテゴリーは単なる思考形式であって、これによってだけでは一定の対象は与えられない。カテゴリーによる多様な物の結合は、統覚の統一によるものであり、これは先験的であるとともに知的なものである。一方、我々は、感性的直観のある種の形式が我々のうちにア・プリオリに具わっており、この形式は表象能力即ち感性の受容性に基づいている。だから、自発性としての悟性は、与えられた多様なものに基づき、統覚の総合的統一に従って内感を規定することができる。また、感性的直観においてア・プリオリに与えられた多様な物を結合するところの統覚の総合的統一を、我々(神的存在ではない)の直観の一切の対象が必然的に従わねばならない条件と考えることができる。こうして、カテゴリーは単なる思考形式から客観的実在性を持つことができるようになる。換言すると、カテゴリーは、直観において我々に与えられ得る対象(我々は現象についてのみア・プリオリな直観を持ち得るから、単なる現象としての対象)へ適用されるようになる。
感性的直観における多様な物の総合は必然的なものであり、ア・プリオリにのみ可能であるが、これを形象的総合と名づけられてよい。形象的総合が、カテゴリーにおいて思惟される先験的統一にのみ関係する場合には、構想力の先験的総合と呼ばれねばならない。構想力とは、対象が現に存在していなくても、これを直観的に表象する能力である。構想力が自発的である限り、かかる構想力を産出的である呼び、そうでない場合には再生的と呼び区別する。ア・プリオリな認識の可能を説明するために、産出的構想力による総合は役立つが(別の言い方をすると産出的構想力は先見的哲学に属する)、再生的構想力による総合は役立たない(先験的哲学には属さず心理学に属する)。
---略---つまり内感について言えば、我々自身の主観を、この主観がそれ自体あるところのものに従って認識するのではなくて、これを現象としてのみ認識する、ということを承認せざるを得ないのである。
25 表題なし(挿入表題;私は、私自身について「現象」として認識する)
私と異なる或る客観を認識するには、カテゴリーによる客観一般の思惟と直観を必要とする。同様に私が私自身を認識するには、私が私自身を(カテゴリーを用いることによって)思惟しているという意識の他に、(内感という制限的条件に従った上で)私の内にある多様なものの直観を必要とする。私は、私自身については、感性的直観において自分自身に現れるままの自分を認識しうるのみである(現象としての私を認識しうるのみである)。
26 純粋悟性概念の一般に可能な経験的使用の先験的演繹
純粋悟性概念の先験的演繹では、カテゴリーが、直観一般に対するア・プリオリな条件であることが示されたが、ここでは、カテゴリーが、およそ我々の感官に現れる限りの対象に対して、それらを結合する法則に従ってア・プリオリに認識しうる条件であることを示す。
覚知の総合という概念は、経験的直観における多様なものの総合という意味であり、経験的総合である。これに対して統覚の総合は知性的総合であってまったくア・プリオリにカテゴリーに含まれる。(以下この段落にてカントが何を言おうとしているのか判然としない)。
カテゴリーは、自然法則をア・プリオリに規定する概念であるが、自然における多様なものの結合を自然自体から得てこないにもかかわらず、どうして自然をア・プリオリに規定し得ると思えるのか、という難問(アポリア)が存在する。このアポリアは次のように考えれば解決する。即ち、自然における法則は物自体に属するのではなく、物の表象である現象に属するから、物自体が我々に知られないどのような物であろうとも、我々は、自然の現象を我々自身にア・プリオリに具わっている感性と悟性の能力により規定することができる。換言すると、およそ我々の経験一般は、感性と悟性のア・プリオリな能力により可能となっている。
27 悟性概念のかかる先験的演繹から生じた結論
我々は、可能的経験の対象についてしかア・プリオリな認識を持つことができない。なぜならば、我々は、カテゴリーによるのでなければ、対象を思惟することはできず、思惟された対象を認識するにはカテゴリーに対応する直観によらねばならず、この直観はすべて感性的直観であり、この認識は、対象が与えられている限り経験的認識であるから。ア・プリオリな認識の対象は、それが与えられている限り、経験的認識ではないので、可能的経験の対象であるしかない(可能的経験とはここでは即ち経験的ということと同義となる)。
経験と経験の対象に関する概念が必然的に一致するのは、概念が経験を可能にするからでありその逆ではない。なぜなら、純粋悟性概念(カテゴリー)はア・プリオリな概念であるからである。
この演繹の要約
純粋悟性概念は、現象の規定一般としての経験を可能ならしめる原理である。この演繹は、かかる原理の解明である。統覚の統一は感性の悟性形式である。この演繹は、経験をかかる統一の原理より解明したものである(我々は、認識形式と悟性形式をア・プリオリに持っていると考えざるを得ないということをカントは言っているのだろう。しかし、それらの演繹=証明については今ひとつ納得しかねる)。
第二篇 原則の分析論(判断力の先験的理説)
一般論理学の分析論では、概念、判断および推理を論じるが、この区分は高級認識力であるところの悟性、判断力および理性(これら三つを悟性一般と呼ぶ)と一致している。
しかし、一般論理学では、理性に対する基準を含みうるのに対して、先験的論理学ではこれを含めない。なぜなら、理性の先験的使用は客観的妥当性を有せず、仮象の論理学としての先験的弁証論にふくまれるから。
だから、ここ論究しようとする原則の分析論は、判断力に対する規準ということになる。この規準はカテゴリーを現象に適用することを、判断力に教えるものである。
緒言 先験的判断力一般について
悟性一般を規則の能力とするならば、判断力は、何かあるものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力である。悟性のほうは規則によって教えられもし準備されもするが、判断力は一個独特の才能であって、はたから教えられるというわけには行かない、ただ習練を必要とするものである。医師、裁判官などがそれぞれに関する規則を知っていても、これらの規則を適用する段になると、ややもすれば過ちを犯すことがある(判断力という天成の能力が欠けていると、どんな規則でも誤用されないとは限らない)。実例が判断力を鋭利にするのは、実例のもつ唯一の大きな効用であるが、反面、悟性による知解の適正および正確という点にかけては、実例はむしろこれを幾分阻害するきらいがある。実例というものは、規則を、その実例の経験の特殊な事情にかかわりなく全く一般的に十全に了解しようとする悟性の努力を弱め、結局は規則を、原則としてよりはむしろ単なる方式として使用する習慣をつけるからである。
一般論理学は、判断力になんら指定を与え得ない。先験的論理学は、純粋悟性を使用する場合に判断力を一定の規則により正しく整えかつこれを安全にすることを本務としている観すらある。
そこでこの判断力の先験的理説は、二つの章を含む。第一章は、純粋理性概念が使用せられるための唯一の感性的条件、即ち図式論を論究する。第二章は、この条件の下で純粋悟性概念からア・プリオリに生じて、しかも他の一切のア・プリオリな認識の根底に存するような総合的判断、即ち純粋悟性の原則を論究する。
第一章 純粋悟性概念の図式論について
「円」という概念は、皿という経験的概念において直観されるから、この場合は、対象は概念と同種なものである。
ところが、純粋悟性概念と経験的(つまり感性的)直観とを比較してみると、両者は異種的であり、純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出されない。それならば、直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能であろうか、従ってまたカテゴリーを現象に適用することはどうして可能だろうか。このきわめて自然でしかも重要な問題こそ、純粋悟性概念が現象一般に適用されることの可能を証示するためには判断力の先験的理説を必要とする本来の理由なのである。
一方でカテゴリーと、他方で現象とそれぞれ同種的であって、しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならない。このような媒介的役目をする表象は純粋であり、知性的であり、感性的でなければならない。このような表象が即ち先験的図式である。
先験的時間規定が普遍的であって、ア・プリオリな規則に基づく限り、かかる時間規定はカテゴリーと同種である。また、時間が多様なものの経験的表象に例外なく含まれている限りにおいて、時間規定はまた現象と同種である。だからカテゴリーを現象に適用することは、かかる先験的時間規定を介して可能になるのである(可能になるといっているのであって、そうだといっているのではない?)。
我々にとって意義を持ちうる限り、カテゴリーは物自体に全く関係しない。ア・プリオリな純粋概念は、カテゴリーとしての悟性の機能の他に、感性の形式的条件(時間)を含む。カテゴリーの使用は感性だけに限られる。そこで、感性の形式的条件(時間)を純粋悟性概念の図式と名づけ、また悟性が図式を取り扱う仕方を図式論と名づける。
概念を形象化する一般的方法のかかる表象(構想力が、ある概念に形象を与えるところの表象)を、この概念に対する図式と名づける。
我々の純粋な感性的概念の根底に存するのは、対象ではなくて図式である。例えば、三角形の図式は、思考のうちにしか存在しない。形象は産出的構想力の経験的能力による所産である。形象は図式を介してのみ概念と結びつかねばならない(ようなもので)のであって、それ自体概念と完全に一致するものではない。これに反して純粋悟性概念(カテゴリー)の図式は、形象には当てはまり得ないような何か或るものであり、この図式はまた構想力の先験的所産であり、換言すれば、表象が統覚の統一に従ってア・プリオリに一つの概念において結合せられねばならぬ限りにおいて、内観の規定一般に関係するような所産である。
外感に対する量の純粋な形象は空間である。感性一般に対する一切の純粋な形象は時間である。悟性の概念としての量の純粋な図式は数である。数は同種な直観における多様なもの一般の総合的統一にほかならない。つまり私は総合的統一において、時間そのものを直観の覚知において産出するのである。
実在と否定の対立は、同一の時間が充実しているのと空虚であるのとの相違である。「何か或るもの」が時間を充たしている限り、そのものの量としての実在性の図式は、時間における実在の一様な連続的産出にほかならない。
実体の図式は、時間における実在的なものの常住不変性である。
原因と原因性との図式の本質は、多様なものの継起にある。
相互性(相互作用)の図式は、双方に対する普遍的規則の同時存在である。
可能性の図式は、種々の表象の総合と、時間一般の諸条件の一致である(例えば、反対のものは同一のものについては同時には存在し得ないが、継時的に存在することは可能である)。
現実性の図式は、或る一定の時間における現実的存在である。
必然性の図式は、あらゆる時点のおける対象の現実的存在である。
上述したことから、カテゴリーの図式は時間規定を含み且つこれを表示している。図式はいずれも、規則に従うア・プリオリな時間規定にほかならない。この時間規定は、カテゴリー表の順序に従い、一切の可能的対象に関して時間系列、時間内容、時間秩序および時間総括に関係するのである。
第二章 純粋悟性のすべての原則の体系
前章で、先験的判断力が純粋悟性概念を総合的判断に使用する機能を持ち得るための一般的条件についてだけ考察した(図式はア・プリオリな総合判断を可能とするものである)。
第一に、ア・プリオリな原則の証明が、もはや客観的には不可能だとしても、主観的源泉から引き出し得ることを妨げるものではない。第二に、研究の対象をカテゴリーに関係する原則に限り、研究範囲に先験的感性論の原則や制限と数学的原則を含めない(時空は形式であり概念でも原則でもない。悟性の超越的使用は誤用である。数学は直観に基づくア・プリオリな総合判断である)。分析的判断の原則を総合的判断の原則と対立させて言及することにより、総合的判断を説明する。
第一節 一切の分析的判断の最高原則について
一切の判断の一般的な条件は、その判断が自己矛盾を含まないという事である(矛盾律)。しかし、たとえ判断に自己矛盾を含まないにしても、概念の結合が対象と一致しない事がありうるし、判断の根拠がア・プリオリにもア・ポステリオリにも与えられていない事もあり得るから、その判断が誤りであるとか根拠がない場合が生じうる。
矛盾率は、分析的認識に関しては普遍的でかつ十分な原理とみなされるが、認識の真理の規定根拠をなすものではない。
第二節 一切の総合的判断の最高原則について
分析的判断にあっては、与えられた主語、即ち概念について何ごとかを言う、即ち述語を付け加えるためには、私はこの概念にとどまっているだけでよい。ところが、総合的判断にあっては、私は与えられた概念の外に出て、この概念において与えられているところのものとはまったく別のものを、この概念に関係させて考察するわけである。
与えられた概念と、外にある概念を関係させて総合させるには媒介者が必要である。この媒介者(総括者)は内感と時間である。それらの判断の表象を総合する能力は構想力であり、表象の総合的統一は統覚の統一に基づく。
或る判断が客観的実在性を持つには、認識が対象に関係し、対象の表象を経験に関係させなければならない。時間と空間も、その表象は単なる図式であり、もし経験の対象に必然的に適用されないのなら客観的妥当性と意義は持たない。
経験が可能であるということは、つまり我々の一切のア・プリオリな認識に客観的実在性を与えることである。経験は、現象の総合的統一に基づいている。経験は、現象を総合的に統一する一般的規則を根底としている。
一切の総合的判断の最高原理はこういうことになる、即ち、いかなる対象も、可能的経験における直感の多様な内容の必然的条件に従うものである。ここでいう必然的条件とは、直観の形式、カテゴリーとカテゴリーによる統一、先験的統覚、時間における構想力の総合によるカテゴリーの図式化、である。
ア・プリオリな総合判断はこのようにして可能となる。そしてこう言うのである、経験一般を可能ならしめる条件は、同時に経験の対象を可能ならしめる条件であり、それ故にまたア・プリオリな総合判断において客観的妥当性を有すると。ここで言う条件とは直観の形式、図式、カテゴリー、統覚、である。
第三節 純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示
原則が成立するのは、まったく純粋悟性の功に帰せられるべきである。純粋悟性は規則の能力であり、またそれ自体原則の源泉であり、この原則によって必然的に規則に従う。我々は、少なくとも自然法則については、それが悟性の経験的使用の法則とみなされれば必然的な性格を帯び、ア・プリオリに妥当する根拠(即ち原則)に基づいて規定されていることを推定する。だが、自然法則は、現象の特殊な場合に対する原則の適用であるから、より高い原則、即ち悟性の総合的原則に従っている。悟性の総合的原則のみが、規則一般の条件と、規則のいわば指数(?)とを含むところの概念を与える。経験は、この規則に従う事例を与える。
数学のように、純粋直観から得られた原則は、ア・プリオリな純粋原則であっても、純粋悟性に含めない。しかし数学的原則の可能とそのア・プリオリな客観妥当性との根拠をなすところの原則は含める。
純粋悟性概念(カテゴリー)を経験に適用する場合に、純粋悟性による総合は、直観だけに関係するもの(純粋悟性を数学的に使用する)と現象一般の現実的存在に関係するもの(純粋悟性を力学的に使用する)とがある。
純粋悟性のすべての原則は次のように表示される。
1、直観の公理
2、知覚の先取的認識
3、経験の類推
4、経験の思惟一般の公準
前二者は直観的確実性を持ち、数学的原則と名づける。後二者は論証的確実性しか持たず、力学的原則と名づける。つまり私は純粋悟性の原則を内感に対する関係において見ているのである。
1、直観の公理
その原理---直観はすべて外延量である。
〈証明〉
空間及び時間における直観としての現象は、空間及び時間一般を規定する綜合と同じ綜合によって表象される。だから、およそ現象はすべて量であり、しかも外延量である。
私がここで外延量というのは、そのなかでは部分の表象が全体の表象を可能にするような量のことである。幾何学的公理は、もともと外延量としての量にのみ関係する。
公理はア・プリオリな総合的命題であるが、内包量(程度を表象する量)についての問いに関する命題は綜合的命題ではあるが普遍的ではなく個別的であり、数式と呼ばれて良い。例えば、7+5=12という命題は分析的命題ではなく、直接的に確実な総合的命題であるが公理ではない。
現象の数学に関するこの先験的原則によって、その正確さを保ちつつ経験の対象に適用されることが可能となる。現象は物自体ではない。
2、知覚の先取的認識
その原理---およそ現象においては感覚の対象をなす実在的なもの(質料)は内包量即ち度を有する
〈証明〉
知覚の対象としての現象は、客観一般に対応する質料(感覚における実在的なもの)を、単なる主観的表象として含んでいる。ところで経験的意識から純粋意識にいたる漸減的変化は可能であり、従って逆に純粋意識から始めて、感覚の量を漸増する変化も可能である。感覚はなるほど外延量は持たないが、しかしそれにも拘らず覚知の作用により或る種の量を持つ、これが内包量である。知覚は感覚を含んでいるから知覚の対象にもまた内包量がある。
経験的認識に属するものを、ア・プリオリに認識し規定し得るような認識を、先取的認識と名づける。現象はア・プリオリには認識せられないところの感覚を含んでいる。すると、感覚(知覚の質料としての)は、もともと先取的には認識せられ得ないわけである。しかしおよそ感覚一般としてア・プリオリに認識されるようなものがあると仮定するならば、それは特殊な意味で先取的認識と呼ばれてよい(空間と時間において、形態なり量なりを純粋に規定する事は現象の先取的認識と言ってよい)。
感覚だけによる覚知は或る瞬間を充たすにすぎないから、現象の覚知は、部分から全体的表象へ進むような継続的綜合ではない、それだから感覚は現象において外延量を持たない。ところで経験的直観において感覚と対応するものは実在である、それだから現象における実在的なものは、量を持つがそれは外延量ではない。
数多性は否定即ち零に近接することによってのみ表象せられ得る。それだから現象における実在はすべて度を有する。
量においては、いかなる部分ももはや部分を含まぬような単純なものではない、このような量の特性を量の連続性と名づける。すると現象一般は連続的な量ということになる、即ち現象の直観に関しては外延量としての、また単なる知覚に関しては内包量としての、連続量である。
変化の原因については、悟性はア・プリオリには我々に何も告げない。その理由は、悟性はかかる原因の可能を洞察できないというばかりではなく、変化の原因は不変なもののなかにあるにも拘らず、変化は現象のある種の規定(経験しか教えることが出来ないところの)だけに関する、というところにある。すると我々が、経験を基礎として構成されている自然科学を先取的に認識しようとするのは、我々の原則の体系の統一を損なわざるを得ないわけである。
それにも拘らず我々は、この第二原則に由来する多大の影響を証拠立てるものを欠くわけではない。知覚における実在はすべてある度を有し、そしてこの度と否定即ち零との間にはどこまでも漸減する度の無限の段階が存するとすれば、およそ現象における実在するものが全然欠けていることを証明しうるような知覚や、従って経験のあろう筈はない。現象における実在はいずれも度を有し、この度は、現象の外延量は不変であるにも拘らず、かかる無限の段階を経て漸減し、ついに無(空虚)に達し得るからである。
---自然科学者は、体積を等しくした場合でも、種類の異なる物質(現象における実在)の量にそれぞれ大きな差異のあることに気付いている。そこで殆どすべての自然科学者は、この相等しい体積(外延量)はあらゆる物質において空虚な空間を含んでいなければならない、と推論する。こういう自然科学者は形而上学的前提を極力避けていると称しながら一つの形而上学的前提に立っている。つまり、彼らは空間における実在的なものは一様であって、外延量によってしか区別せられ得ないと想定しているのである。しかし彼らは、かかる前提における根拠を経験によって求めることが出来なかった、それだからこの前提はまったく形而上学的なものである。私はただ純粋悟性の原則に基づいて、現象における実在的なものを、度の上からは等しいが、集合量とその外延量だけから見ると異なっていると想定したり、そればかりかこのことを、悟性のア・プリオリな原則なるものによって主張するのは誤りである、ということを明らかにしただけである。
---それだから、『どうして悟性は、現象に関して何ごとかをア・プリオリに言い得るのか、そればかりか本来まったく経験的なものを、即ち感覚に関するところのものにおいて、現象をどうして先取的に認識し得るのか』という問いは、今なお解決に値する問題であるといってよい。
感覚の性質(例えば色、味など)は、まったく経験的なものであって、---従って一切の感覚は、なるほどア・プリオリにしか与えられないが、しかしその特性、即ち或る度を持つという性質は、ア・プリオリに認識せられ得るのである。我われがア・プリオリに認識し得るのは、現象における実在的なものはすべて度を有するということだけであり、それ以外のことはすべて経験に委ねられている。
3、経験の類推
その原理---経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である
<証明>
経験とは、知覚によって客観を規定するような認識である。それだから経験は知覚の綜合であるが、この綜合そのものは意識における知覚の多様な内容の総合的統一を含んでいる。覚知は経験的直観における多様なものを、空間及び時間においてただいっしょに並べ或いはつらねて置いたものにすぎないから偶然的なものである。ところで、時間における客観の存在は時間一般における結合によってのみ、換言すればア・プリオリに結合するところの概念(だからこの概念は必然的なもの)によってのみ規定せられ得る。だから、経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である。
時間の三様態は常住不変性、継起及び同時的存在である。だから、現象の時間関係に関する規則も(時間の三様態に対応して三つあり、それらは)一切の経験よりも前にあり、経験を初めて可能ならしめるものである。
(なぜならば、この類推は統覚の必然的統一に基づいているからである)。それだからまた「一切の経験的な時間規定は、一般的な時間規定の規則に従わなければならない」という法則をなすのである。
(時間に関する)これらの原則が考慮に入れるのは、現象や現象の経験的直観の綜合ではなくて、現象の現実的存在および現象のかかる現実的存在に関する現象相互の関係にすぎない。しかし、現象の現実的存在は、ア・プリオリには認識せられ得ない。
直観の公理と知覚の先取的認識(二原則)とは、数量およびそれと共に、量としての現象の規定が使用せられ得る(量的なものをア・プリオリに構成し得る)。そこで、これら二原則を構成的原則と名づける。
現象の現実的存在をア・プリオリに規則に従わせる原則は、構成的原則ではなく統整的である。我々に或る知覚が、他の知覚に対する時間関係において与えられている場合に我々がア・プリオリに言い得ることは、この与えられた知覚に他のどのようなまたどれほどの量の知覚が必然的に結びついているのかということではなくて、どうしてこの知覚が現にあるところの存在に関して、かかる時間的様態において〔即ち与えられた知覚との時間関係において〕、初めの知覚と必然的に結びついているか、ということである(時間が経っても、見ているものは変わらないことの根拠を問うている。普通、変わるとき、即ち変化の認識を、対象自体ではなくてその属性が変わると考えることでこの二つを区別する)。数学で類推と言えば二つの量的関係が相等しい事であり、即ち常に構成的であるが、哲学では二つの質的関係の合い等しい事である。それだから経験的類推は、一つの規則にすぎず現象の対象に関するところの原則として構成的に妥当するのではなく、まったく統整的にのみ妥当する。
これらの類推は、悟性の先験的使用としてではなく、その経験的使用としてのみ意義と妥当性を持つものであり、従って現象はそのままカテゴリーのもとに包摂されるのではなくて、カテゴリーの図式のもとに包摂されねばならない、ということである。もしこれらの原則の関係せねばならない対象が物自体であるとしたら、かかる対象について何ごとかをア・プリオリにかつ総合的に認識することはまったく不可能だからである。それだからこれらの原則が適用せられる対象は現象にほかならない。カテゴリーの図式をカテゴリーに対する制限的条件として、原則の方式という名でカテゴリーに並置することになるであろう(カントのこの辺の説明はとても苦しいみたいに思える)。
A 第一の類推 実体の常住不変の原則
現象がどんなに変易しようとも実体は不変であり自然における実体の量は増しもしなければ減りもしない
<証明>
(この段落の文章自体の意味がよく掴めていないが、大体次のような内容か?。現象は瞬間の表象であるから、各々の瞬間に対応する現象は変易していると考えられる。しかし、現象を規定している実体は基体としての時間即ち純粋直観形式としての時間との関係で常住不変である、ということを言わんとしているみたい。)
---覚知は継時的であり絶えず変易しているから、我々は覚知によるだけでは、かかる多様なものが経験の対象として同時に存在しているのか、或いは前後的に継起しているのか規定する事ができない。だから、我々が(経験を可能とするには)常住不変のものが存在しなければならない。---常住不変のものが時間そのものの経験的表象の基体なのである---。要するに常住不変性は、一切の現実的存在の恒常的な相関者としての、従ってまた一切の変易と一切の同時的存在としての相関者としての時間を表現するのである。---現実的存在は、この常住不変性によってのみ一つの量をもつ、この量を持続と名づける。単なる継起においては、現実的存在は絶えず起滅し、およそ量というものをもち得ないからである。---現象においては、この常住不変なものが対象そのものであり、実体である。
---実際「実体は常住不変である」という命題は、類語反復である。この常住不変性こそ、我々が実体のカテゴリーを現象に適用する理由にほかならないからである。---この証明は、元来ア・プリオリな綜合命題に関するものであるから、---。
(この段落の文章自体の意味がよく掴めていないが、段落末の文節が結論。)---要するにかかる常住不変性は、(現象における)物の現実的存在を我々に呈示する仕方にほかならない。
或る実体の種々な規定は、その実体の付随性と呼ばれ、付随性は、実体の現実的存在に関するから、常に実在的なものである。実体の付随性が特殊な現実的実在をもつということになると(例えば物質の一つの付随性としての運動)、この特殊な現実的存在に対して実体の現実的存在を実体の自存性と呼ぶ。---実体は常住不変であるからと言って、変易することのあり得るものだが、或る実体の現実的存在を本来の実体と切り離し、これを本来の常住不変な、根原的なものとの関係において考察するのは、我々の悟性使用の条件にかんがみて、どうしても避け得ない事である。だから、実体のカテゴリーを関係という綱目下に入れるのである。つまり実体のカテゴリーは、それ自身が関係を含むというよりは、むしろ関係の条件なのである。
---つまり変化するところの当体はすべて常住不変であり、その状態だけが変易するのである。(つまり、常住不変という概念は、我々が対象を認識する瞬間は時間の様態であり、時間は変化しているにもかかわらず、その間実体は変わらないことをア・プリオリに認識できると考えるために提出されたものだが、それとは区別して、実体の状態が変化するすることについて説明している。)
現象における実体は、一切の時間規定の基体をなしている。---このようなわけで常住不変性は、現象が物或いは対象として、可能的経験において規定せられるための唯一の必然的条件である。(つまり、人の経験が現実のものか幻想なのかは区別できる根拠があるといっているのでは。)
B 第二の類推 因果律に従う時間的継起の原則
一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する
<証明>
---つまり変化の概念は、存在および非存在(継起する一切の現象は、実体の規定の継時的な存在と非存在である)というまったく正反対の二つの規定を持つ同一の実体が存在すること、従ってまたこの実体が常住不変であることを前提としているのである。
---単なる知覚によるだけでは、相ついで現れる現象の客観的関係はけっきょく規定され得ないのである。---この関係が規定されたものとして認識されるためには、(前後の状態が)必然的に規定せられると考えられねばならない。---総合的統一の必然性を具えている概念と言えば、純粋悟性概念のほかにはあり得ないが、この概念は知覚のうちには存在しない。---この場合に、総合的統一の必然性を有する概念は、因果関係の概念である。---それだから我々は、現象の継起を、従ってまた一切の変化を、因果律に従わせることによってのみ経験(として)可能ならしめるのである。従ってまた経験の対象としての現象自身も、この法則(因果律)に従って可能となるのである。
現象における多様なものの覚知は常に継時的である。また部分の表象は、---(この段落文節レベルで意味不明。)
---それだから何によらず出来事の覚知は、或る知覚に続いて起きた別の知覚に他ならない。---生起するところのものの知覚においては、相ついで継起する知覚の秩序を必然的にする規則が存在する。
---覚知の主観的継起を、現象の客観的継起から導来せねばならない。---つまり私はかかる継起においてのみしか覚知を処理し按排し得ないと言う意味に他ならない。
---或る出来事〔B〕がいかなる時にも必然的に他の出来事〔A〕についで継起する場合に従わねばならぬ条件は、〔A〕の内になければならない。---(〔B〕は〔A〕を規定できないが、その後の出来事は規定する事になるから)そうするとこの出来事は、条件付のものとして、これを規定するなんらかの条件を確実に指示するわけである。
---つまり我々の知覚だけによるのでは、一つの現象を他のどんな現象からも、時間関係の上から区別せられないということになる。---しかしこのようなものは、何か主観的なものにすぎないのであって、なんら客観を規定するものではない。
それだから我々が、何かあるものの生起を経験的に知ると言うときには、我々はなんらか或るものがこの生起よりも前にあり、生起するものは規則に従って、このものについで継起するということを前提しているのである。
---しかしこういう見方をすると、原因の概念は全く経験的な概念にすぎなくなり、またこの概念が与えるところの規則、即ち生起する一切のものはすべて原因を有するという規則は、経験そのものと同じく偶然的なものになるだろう。---しかし時間における現象の総合的統一の条件としてのこの規則(出来事の系列を規定する規則)を重視する考えが、もともと経験そのものの基礎になっていたし、従ってまたかかる考えはア・プリオリに経験より前にあったのである。
そこで我々は次のことを実例によって示す必要がある、即ち---我々は継起を客観に帰して、これを我々の覚知における主観的継起と区別する、しかしこのことは知覚のかかる秩序をたのいかなる秩序にもまさるとみなすことを我々に強いるような規則が根底になければ不可能である、またかかる規則による強制こそ、客観における継起の表象を初めて可能ならしめる、ということである。
---かかる意識はけっきょく表象にほかならない、---これらの表象になんらかの客観的実在性を帰するのはどうしてだろうか。---対象に関係するということは、表象の結合を或る仕方で必然的にし、これらの表象を一つの規則に従わせるというだけである、―――また逆に、ある種の秩序が我々の表象の時間関係において必然的であることによって、これらの表象に客観的意義が与えられる、ということである。
―――以下省略―――
C 第三の類推 相互作用或は相互性の法則に従う同時的存在の原則
およそ一切の実体は空間において同時的に存在するものとして知覚される限り完全な相互作用をなしている
<証明>
経験的直観において、二つの知覚が相互的に継起し得る場合には、これらの物は同時的に存在する。---知覚の相互継起の根拠は客観に存すると言うためには、互いに別々でありながらしかも同時的に存在するこれらの物の規定が相互的に継起することを表現するような悟性概念を必要とする。---そして一つの実体が他の実体を規定する根拠を相互的に含む場合には、実体間のかかる関係は、相互作用の関係である。それだから空間における二つ以上の実体の同時存在は、実体間の相互作用を前提としてのみ、経験において認識せられ得る。
(我々が同時的存在を認識できるということは、いくつかの現象がお互いに時間関係において継起する順序に依存しないで表象できることにより可能となるということである)
(現象としての多様な実体が孤立しているとすれば、実体の同時的存在は知覚できない。例えば二つの実体の現実的存在が規定されたとしても、それらの時間関係が継起するものなのか同時的存在なのかを区別する事は出来ない)
---以下四段落省略---
---すると経験の三類推の要旨は、次のようなものになる、―――一切の現象は唯一の自然のうちに存し、またかかる自然のうちに存しなければならない、このア・プリオリな統一を欠くと、経験の統一はまったく不可能となり、従ってまた経験において対象を規定することも不可能になるからである。
---以下一段落省略---
4、経験的思惟一般の公準
1 経験の形式的条件(直観および概念に関するものは、可能的である)。
2 経験の実質的条件(感覚)と関連するものは、現実的である。
3 現実的なものとの関連が、経験の普遍的条件に従って規定されているものは、必然的である。
<説明>
様態の概念は、認識能力に対するこの概念の関係を表現するに過ぎない、ということである。或る物の概念がすでに十分に完全であっても、私はなおこう問い得るのである、―――この対象は単に可能であるのかそれとも現実的なものであるのか、もし現実的なものであるとしたら、それはまた必然的なものであるのか、と。
様態のカテゴリーが、物と物の可能性、現実性或は必然性とに係わるべきであるならば、かかるカテゴリーは何れも可能的経験とその総合的統一とに関係せねばならない。
---要するに綜合を含む概念は、もしその綜合が経験を含まないとすれば空虚と見なされねばならぬ、従ってまたおよそいかなる対象にも関係し得ないのである(純粋概念も、この概念の対象は経験においてしか見出せないので、経験に属する)。---例えば、二直線によって囲まれた図形と言う概念には矛盾が含まれていないが不可能である。(不可能であるという)その根拠は概念にあるのではなく、空間とその規定との条件にある。
---物を認識する概念(物において変易するものは物の状態に属する或る物であるとか、その物は必然的に他の物を継起させる性質を持つとか、その物の実体の状態が他の物の実体の状態に必ずある結果を引き起こし、またその逆も成り立つというような或る物を表象するとか)の客観的実在性は、これらの概念がおよそ経験における知覚の関係をア・プリオリに表現するのでなければ認識せられ得ないのである。我々はこのような客観的実在性を、もとより経験にかかわりなく認識するのであるが、しかし経験一般の形式と、対象の経験的認識を可能ならしめる唯一のものであるところの総合的統一とに対する一切の関係を無視しては認識し得ないのである。
---実体、力、相互作用などというまったく新しい概念を、知覚が我々に提供するところの材料から構成する場合に、かかる概念の結合の実例を経験そのものに仰がないとしたら、我々は単なる空想的概念を作り出すにすぎないだろう、---。---実在性は、経験の質料としての感覚のみに関するものであって、思惟における関係の形式にはかかわりがないからである。
しかし、私は、物がア・プリオリな概念によって可能になる(これらのア・プリオリ概念が常に経験一般の形式的でかつ客観的な条件である限りにおいて)ということを主張しようとするところなのである。
---我々が構想力において用いる形式的綜合が、現象の覚知においてその現象の経験的概念を用いるところの綜合とまったく同一であるということが、かかる物の表象(三角形、量一般、連続量の可能など)を結びつけるところのものである。---我々は、前もって経験そのものをもっていなくても、物の可能を認識しまたかかる可能の特性を示すことが出来る。しかしそれはやはり経験一般においてなにか或るものが対象として規定せられるための形式的条件に関してだけの事である。
物の現実性を認識するための公準は、知覚を必要とする、従ってまた我々が意識している感覚を必要とするのである。
物の単なる概念のなかには、物の現実的存在という特性は決して見出されえるものではない。物の現実的存在が問題とするのは、このものの知覚が概念より前にあり得るかどうか、ということだけである。尤も物の現実的存在が、知覚の経験的結合の原則(類推)に従っていくつかの知覚と関連していさえすれば、---我々は経験の類推の手引きに従って、我々の現実的知覚から可能的知覚の系列を辿って、この物(の現実的存在を認識すると言う意味で)に達することができるわけである。---ところが物の現実的存在を間接的に証明しようとするこの規則に有力な非難を加えるものに観念論がある。そこでかかる観念論に対する論駁をここへ挿入する(第二版で挿入)次第である。
***
観念論に対する論駁
観念論には二通りある。一つはデカルトが言う蓋然的観念論(疑えないものは唯一「私が存在する」という経験的主張だけで、外的対象は疑わしく証明できないとするもの)であり、もう一つはバークリーの独断論的観念論(外的対象は虚妄であるとするもの)である。後者は先験的感性論において論駁した。前者については、要求されている証明には、外的なものに関して我々は単に想像するだけではなく経験もしているということ、即ちデカルトが疑い得ないとした経験すら、外的経験を前提としているという証示が含まれねばならない。
[定理]
私のそとにある対象即ち空間における対象の現実的存在を証明するところのものは私自身の現実的存在の単なる、とはいえ経験的に規定された意識である。
<証明>
私は私自身の現実的存在を、時間において規定されたものとして意識している。---時間における私の現実的存在の規定は物の実際的存在(常住不変なもの)によってのみ可能である。時間における私の現実的存在の意識は、この時間規定を可能ならしめる条件の意識と必然的に結合している。---私自身の現実的存在の意識が同時に、私のそとにある他の物の現実的存在の直接的意識なのである。
注一 この観念論(デカルトの蓋然的観念論)は、「内的経験だけが唯一の直接的経験であり、外的な物はこの内的経験から推及されたものにすぎない」、と想定しているが、これは極めて不確実である。外的経験こそ本来直接的なものである(外的直観の単なる受容性を、およそ想像の特性をなすところの自発性から区別せねばならない、ということは明白である)―――我々は内感に信を置いて外感を想像したり推及したりするのではなく、外感を直観する能力に信を置くと考える方が妥当である、と言っているのだろう。なるほど外的経験によっても、我々自身の実際的存在の意識は可能でないにせよ、しかし時間における我々自身の実際的存在の規定即ち内的経験は、外的経験によってのみ可能なのである。内的経験そのものは間接的にのみ、また外的経験によってのみ可能である。
注二 ---『私』という表象に含まれている私自身に関する意識は、決して直観ではなくて、思惟する主観の自発的活動によって生じた知性的表象である。それだからこの『私』は、直感から得られるようないかなる述語をももつものではない。
かかる『私』は、常住不変なものとして、内感における時間規定の相関者の用をなし得るようなもの―――つまり経験的直観としての物質における不可入性と同じようなものである。
注三 ---外的な物の直観的表象は(夢や狂気の場合の)構想力のはたらきから生じた結果にすぎないこともままあり得るから、---これ(多分→外的経験一般により可能である内的経験一般が、実はまったくの想像にすぎないのではないということ)は経験一般の特殊な規定に従い、また一切の現実的経験の表徴に関連して決定せられねばならない問題である。
第三の(必然性の)公準について---。---してみるとかかる必然性の表徴は、可能的経験を成立せしめる法則にのみ見出されるということが判る。---『生起する一切のものは仮言的に必然的である』、―――これが世界において生起する変化を、一つの法則に従わせる原則である。---それだから『何ものも盲目的な(無原因な)偶然によっては生起しない』という命題は、ア・プリオリな自然法則である。---『自然における必然性は、盲目的(運命;中島義道)な必然性ではなくて、条件付の(原因から説明され得る)必然性であり、従ってまた理解できる(原因から説明せられ得る)必然性である』という命題もまた同様である。---空虚に関する問題は、むしろ理想的理性の解決すべき課題である。理想的理性は可能的経験(物理学世界)の領域を超出する、そして可能的経験そのものを包括しかつこれに限界を付するところのものの判定を旨とするのである。それだから空虚は、先験的弁証論において考察せられねばならぬ問題である。---四つの命題(世界には空隙は存在しない、飛躍は存在しない、偶然(原因がわからないもの)は存在しない、盲目的必然(運命のようなもの)は存在しない)を、先験的起源を有するすべての原則と同様に、この順序に従いまたカテゴリー表に応じて説明することは、我々の容易になしうるところであろう。
---現実的なものの範囲は、必然的のものの総量よりも広大であるかどうか、という問題がる。---しかしこれもまた理性の法定でしか裁き得ない問題である。---現象としての一切の物は、ただ一つの経験の総体と連関とだけに属するのか、或は私の知覚は(一般的な連関に従って)二つ以上の可能的経験にも属し得るのかどうか、という問題である。---質量的にまったく異なるような経験の領域が存在するのかどうかということは、悟性には決定できない問題である。---従ってまた一切を包括する経験はただ一つではなくて二つ以上ありえるなどということは、与えられたところのものからは推論され得ない。
---絶対的可能という概念は経験的にはまったく使用せられ得ないものである。この概念は、悟性の一切の経験的使用の範囲を超出する理性にのみ属する。---この問題の解明を後の論究に譲った次第である。
---私が様態の原理に公準という名称を付した理由を述べておく必要がある。---それだからある概念に、ア・プリオリな規定が総合的に付け加わる場合には、証明とまではいかないにせよ、少なくともその主張が適法であることの演繹をこの命題に付可することが、是非とも必要である。
---様態の三原則(可能性、現実性、必然性)は、客観的な総合的命題ではなく、主観的な綜合命題である。---かかる原則は或る実在するものの概念について何ごとも主張するものではなく、ただこの概念に認識能力を適応するのである。---それだから様態の三原則が或る概念について述べるところは、その概念を産出する認識能力のはたらき具合にほかならない。ところで数学における公準は、ある種の綜合しか含まない実用的命題である、即ち我々は、この綜合によってある対象をまず我々に自身に示しておいて、それからこの対象の概念を産出するのである。例えば『与えられた線をもって、与えられた点から平面上に一つの円を描くこと』という命題は証明され得ない(我々がア・プリオリに認識できる円というものの概念が、このような手続きで描いた図形であるということを証明できない)。---これとまったく同じ権利を持って、様態の三原則を公準と名づけることが出来る。
***
原則の体系に対する一般的注
およそ物の可能は、カテゴリーだけから了解できるものではない、そのためには我々は必ず直観を持ち合わせていて、これによって純粋悟性概念の客観的実在性を現示しなければならない、―――これは大いに注意して然るべき事柄である。---つまりカテゴリーは、それだけでは認識にならないのであって、ただ与えられた直観から認識を形成するための思考形式にすぎない、ということが確認されるのである。それだからカテゴリーだけでは、決して綜合的命題を作り得ない訳である。---例えば『偶然的に存在するものはすべて原因を持つ』という命題を、純粋悟性概念だけから証明する試みがかって成功しなかったのはこの故である。---それにも拘らず『偶然的なものはすべて原因をもたねばならない』という命題が、まったく概念だけから何びとにも明白であることは否定できない。しかしそうなると偶然的なものという概念は、様態のカテゴリーを含むのではなくて、既に関係のカテゴリーを含むと解せられているわけである。---こういうわけで或る物が偶然的と見なされる場合に、この物は原因を持つといえば、それは分析的命題である。(この段落では、偶然性についても説明しているようであるが、説明の内容は良くわからない)。
---我々はカテゴリーによって物の可能を理解し、従ってまたカテゴリーの客観的実在性を明らかにするために直観を必要とするが、しかしこの直観は必ず外的直観でなければならない。---我々は内感の形式としての時間を直線によって比喩的に理解するのは、一切の変化を認識するには常住不変な直観が必要だが、内感にはそのようなものがまったく見出されないからである。
するとこの説全体の結果はけっきょくこういうことになる。―――純粋悟性の原則はいずれも経験を可能ならしめるア・プリオリな原理にほかならない、そしてア・プリオリな総合的命題もまたすべて経験だけに関係する、それどころかかかる綜合的命題の可能そのものが、まったくこの関係を基礎としているのである。
第三章 あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について
我々はいま純粋悟性の国(島)を遍く巡り歩いて、---そしてこの大洋こそ仮象のまことの棲家なのである。---また発見を求めて群れつどう船人たちを徒な希望をもって欺きつつ彼らを冒険の淵に巻き込む、しかも舟人達は彼等の希望を捨て去ることもできず、さりとてまたこれを成就することもできないのである。---今や立ち去ろうとするこの国の地図に一瞥を与えて、次の問題を考察しておくことは有益であると思う。その第一は、もし我々の定住し得るような土地がこの国以外にはまったく存在しないとしたら、---やむを得ず満足せねばならぬかどうか、―――また第二には、いったい我々はどんな権原があってこの土地を我々自身のものであると主張するのか、また---我々の身の安全をどうして保ち得るのかという問題である(アメリカ大陸の地理上の発見から300年ほど経過しているが、その所有権が議論されていたという時代背景がある:中島義道)。
---悟性が自分自身のうちから得てくる一切のものは、経験から借りてきたものではないにも拘らずまったく経験的使用のためだけのものである。---純粋悟性の諸原則は、---いわば純粋な図式だけしか含んでいないのである。経験はその統一を、---総合的統一のみに仰ぐのであり、また現象は、---かかる綜合的統一とすでにア・プリオリに関係しまたこれと一致していなければならないからである。悟性のかかる規則はア・プリオリに真実であるばかりでなく、また我々の認識と客観との一致であるところのあらゆる真理の源泉である(これらの規則は、一切の認識の総括としての経験を可能ならしめる根拠を含んでいるから)。---とはいえ我々は、真実であるところのものが単に述べられているだけでは十分ではないと思う。---それだからこの批判的研究には確かに一つの利点がある、---即ちこの利点は次のような事情を明らかにするところにある。―――悟性は---一つだけはどうしても自分になしえない事がある、それは悟性使用の限界をみずから決定し、また何が自分の全領域のうちにあり何がそのそとにあるかを知るということである。---
---なんらかの原則における概念の先験的(超越的)使用とは、この概念が物一般即ち物自体に適用されることである、また経験的使用とは、この概念が現象だけに適用される事である。しかし悟性概念に関しては一般に経験的使用だけしかあり得ないことは、次の事情から明白である、―――悟性の概念と悟性の原則とは、可能的経験を形成するための所与に関係するのである。こういうことがないと、概念や原則はまったく客観的実在性をもたないことになる、そして悟性の単なる戯れにすぎなくなるのである。---
---我々は感性の条件に、したがってまた現象の形式に頼らない限りいかなるカテゴリーをも実在的に規定することができない、―――換言すれば、カテゴリーの対象の可能を理解できない。そしてカテゴリーの対象となるものは現象だけである、それだからカテゴリーの適用は現象だけに限られねばならない。
【第一版に記載され、第二版で削除された部分(下巻付録Ⅲの17)】
---我々は個々のカテゴリーの定義を省略した。---定義を必要としなかったし、---たとえ定義しようとしたところで、定義しうるものではないからである(定義できない例;『主語』の定義は何かと問う時に、主語とは○○である、と答えたら定義しようとするものを既に使用していることになる;中島義道)。もし我々が概念という特性を、感性的条件を一切除き去って、これを物一般の概念と見なすならば、カテゴリーは判断における単なる論理機能であり、物そのものを可能にする条件と見なされるにすぎなくなる。そうなるとカテゴリーは、いったいその使用と対象とをどこに求め得るのか、従ってまたその意義と客観的妥当性を持ち得るのかということが、まったく理解できなくなるのである。
---常住不変なものという概念を度外視すれば(常住不変なものは、実在と否定を対立させて説明することを可能にする時間を度外視する事になり)、実体の概念は主語という論理的表象だけになる。論理的表象だけでは実体は規定されない。原因の概念について言えば、かかる時間というものを度外視すれば、純粋カテゴリーにおいて私が見出すのは、―――何かあるものが存在して、そのものから他のあるものの現実的存在が推及せられ得る、ということだけだろう。しかし、それでは原因と結果は区別されていないはかりか、原因の概念は対象に適用される仕方に関して規定され得ない(推及せられ得るにはまた条件が必要で或るから)。『偶然的なものはすべて原因を持つ』という命題は、(非存在の可能を条件としているが、かかる時間をというものを度外視して)変易というものを表象しないとすれば、実体の非存在そのものの可能を推及することはできないのである。
概念が論理的に可能である(その概念が矛盾を含んでいない)ということを、物が先験的(ここでは先験的=超越論的を「経験を可能にする」という意味に使用している。即ち実在的)に可能である(その概念に或る対象が対応する)ということとすり替えようとするごまかしは、無経験な人たちを欺きまた満足させることができるだけである。
【第一版に記載され、第二版で削除された部分(下巻付録Ⅲの18)】
---カテゴリーは、一般的な感性的条件を介してのみ一定の意義となんらかの対象にたいする関係とをもち得る。---カテゴリーそのものは定義せられ得ない。判断一般の論理的機能、例えば―――単一性と数多性、肯定と否定、主語と述語等を規定しようとすれば、循環論証に陥らざるを得ない、定義そのものが一つの判断であり、従ってこれらの機能を既に含んでいなければならないからである。しかし純粋カテゴリーは、物の直観における多様なものがこれらの論理的機能のいずれかによって思惟されねばならない限りにおいて、物一般の表象にほかならない。(量は『分量の判断』、実在性は『肯定的判断』、実体は『究極の主語』で思惟され得るところの規定だが)ところで物に関して、この機能がそれに適用されねばならないというものが、どのような物であるのかはこの場合不定である。
---悟性がア・プリオリになし得るのは、可能的経験の一般形式を先取的に認識することだけである、---。悟性の諸原則は、現象を解明する原理にすぎない。存在論(神の存在論ということ;中島義道)は、物一般のア・プリオリな綜合的認識(例えば、原因性の原則)を体系的理論として示し得ると称しているが、こうなってみると存在論という誇らしげな名称は、純粋悟性の単なる分析論という控えめな名前に席を譲らねばなるまい。
---感性的直観の条件がすべて除き去られた純粋カテゴリーによっては、対象はまったく規定されない〔従って認識されない〕、ただ対象一般に関する思惟が種々な様態に従って表現されるだけである。---即ち―――純粋カテゴリーは、ア・プリオリな綜合的原則たるに足りぬものである、―――また純粋悟性の諸原則は、経験的にのみ使用せられ得るだけで、決して先験的に使用せられ得るものではない、従ってまた可能的経験の範囲外では、およそア・プリオリな綜合的原則なるものはまったく存在しない、ということである。
---つまり純粋カテゴリーには(判断における)なんらかの使用条件―――換言すれば、いわゆる対象なるものを概念のもとに包摂するための形式的条件が欠けているのである、と。---純粋カテゴリーはおよそ対象と称せられるものにはまったく適用せられ得ないのである。---従ってかかる純粋カテゴリーによるのでは、およそ対象を考えることもまた規定することもできないのである。
【第一版に記載され、第二版で削除された部分(下巻付録Ⅲの19)】
(この部分は、物自体について良く説明している。カントは第一版において、現象一元論、即ち構成力の中に感性と悟性を含めたが、第二版ではこれを訂正して、二元論、即ち外的経験=感性、内的経験=悟性とした。その理由はカントが言いたい事を誤解されないためであった;中島義道)
---現象という概念は、先験的感性論によって制限を付せられているが、しかしこの概念はそれ自ら可想的存在の客観的実在性を既に暗示している、---対象を現象的存在と可想的存在とに区別し、従ってまた世界を感覚界と悟性界とに区別して差し支えない、---この両者が我々の認識に与えられる仕方の差異に関するのである(区別は)、そしてこの差異に応じて両者はそれ自体類的に異なるものとして区別せられる、と。感官が我々に何かあるものを、それが現象として現れるままに示すならば、それだけでもこの何かあるものはそれ自体一つの物であり、非感性的直観、即ち(純粋)悟性の対象でなければならないであろう。---そしてかかる認識のみが、絶対的に客観的な実在性を持つものであって、---それだからカテゴリーの経験的使用のほかに、なおカテゴリーの純粋でしかも客観的に妥当するような使用があるのかもしれない、---。実際、そうなると我々の前には、まったく新奇な領域が開かれることになる、つまりその領域というのは、いわば精神において考えられた(それどころか、恐らくはまた直観されもした)世界である、そしてこの世界は我々の純粋悟性が事とするところの世界〔感性界〕に劣らぬ―――いや、それよりもはるかに高尚なものであるだろう。
悟性はこれらの表象(現象によって表象された)を、客観的直観の対象として『何か或るもの』(X)に関係させる、---しかしこのXは、その限りにおいて先験的客観にすぎない。---我々はXを知らない、---Xは統覚の統一の相関者として感性的直観における多様なものの統一に役立ち得るだけである、そして悟性はこの統一によって多様なものを結合し、対象の概念を作り出すのである。---この先験的客観は、認識の対象そのものではなくて、対象一般の概念―――換言すれば、感性的直観における多様なものによって規定せられる対象の概念のもとに包摂された現象の表象にほかならない。
(この段落は、前段落の最後の部分の繰り返ゆえ省略)
しかし我々はなぜ感性の基体だけで満足しないで可想的存在を現象的存在に付け加えるのか(それは先験的感性論の帰結、即ち現象の領域は物自体に関係する事ができないから)、---。---果てしのない循環論法を生じさせまいとすれば―――現象という語は、既に『何か或るもの』(物自体)に対する関係を指示している、そしてこの『何か或るもの』の直接の表象は、なるほど感性的表象ではあるが、『何か或るもの』は感性にかかわりのない対象でなければならない。
ところでここから可想的存在の概念が生じてくる。しかしこの概念は、積極的概念ではなく(感性的存在が積極的存在)『何か或るもの』一般に関する思惟にほかならない(感性的直観の形式はいっさい度外視される)。---可想的存在が、一切の現象的存在から区別される真正の対象を意味するためには、感性的直観とは異なる別種の直観、即ちかかる対象が与えられるような直感を想定する理由を持たねばならない。---我々は感性的直観が唯一の可能的直観一般であることを証明できなかった(証明できたのは、感性的直観は我々にとって唯一の可能的直観であるということ)。しかし我々はまた、別種の直観が可能であることも証明できなかった。---我々の思惟は概念の単なる形式にすぎないのではあるまいか、また感性を除外してもなお客観というものが依然として存続するのかどうか、という疑問が残されているのである。
私が現象一般を関係させるところの客観は、『何か或るもの』一般に関するまったく不定な思考である。かかる対象は、可想的存在と呼ばれ得るようなものではない、我々はこの対象がそれ自体何であるか知らないし、一切の現象に対して一様であるところの概念よりほかの概念を持たないからである。私は、かかる先験的対象をカテゴリーによって考える事はできない、---。カテゴリーの純粋使用は可能(矛盾を含まないという意味)であるが、客観的妥当性は持たない。---つまりかかるカテゴリーは、思惟の単なる機能にすぎないのであって、これによっては、対象は我々に与えられない、ただ直観において与えられるほどのものが思惟されるだけである。
---もし我々が、(現象に対応する対象をその)対象を直観する仕方を、〔物自体としての〕対象の性質自体から区別して感覚的対象と名づけるならば、この同じ対象を―――その性質関して直観しないとしても―――〔物自体としての〕その性質に従って悟性的存在と名づけるか、さもなければまったく我々の感官の対象にならないような別の可能的な物を悟性によってのみ考えられた対象として、悟性的存在者と名づける、ということである。するとここに問題が生じる、それは―――我々の純粋悟性概念は、かかる悟性的存在に関して意義を持ち得るのではあるまいか、またこの悟性的存在者を認識する仕方たり得るのではなかろうか、という問題である。
ところが個々には初めから曖昧な点があり、---悟性は、感性のほかに何かあるもの一般としての悟性的存在者というまったく無規定な概念を、悟性によってただ一つの仕方で認識しうるような規定された一定の概念と考えたがるのである。
---可想的存在を我々の感性的直観の対象でないような或る物と解するならば、それは消極的意味での可想的存在で---、悲感覚的な直観の対象と解するならば、それは知性的直観(これは我々の直観の仕方ではない)を想定する事になる。だがこういうのが積極的な意味では可想的存在というものであろう。
そうすると感性に関する理論は同時に消極的な意味での可想的存在に関する理論である、---。悟性はかかる仕方で考察するためにカテゴリーを使用することはできない(カテゴリーは感性的直観の統一に関してのみ意義を持つから)。---知性的直観はまったく我々の認識能力の範囲外にある---。
---経験的認識から思惟を一切除き去るとしたら、およそ対象の認識というものはまるきり残らなくなる、---。これに反して直観をいっさい除き去ってもなお思考の形式は残る。---しかしカテゴリーはそれによって広大な対象領域を規定するものではない。
---可想的存在(感性の対象としてではなく物自体として純粋悟性により考えられるような概念)というこの概念は、感性的直観を物自体にまで拡大しないために、従ってまた感性的認識の客観的実在性に制限を加えるために必要なのである。---我々は、蓋然的(自己矛盾は含まなくても、客観的実在性がどうしても認識できない場合を言う)には現象の領域よりも遠くへ達するような悟性を持つにしても、感性の範囲外で我々に認識を与えるような直観、従ってまた悟性が感性を越えて実然的に適用されうるような直観はもとより、可能的な直観の概念すらも持ち合わせていないのである。
それだから対象を現象的存在と可想的存在とに区分し、また世界を感覚界と悟性界とに分かつことは、積極的意味ではまったく承認せられ得ない、しかし概念を感性的概念と知性的概念とに区分するなら、差し支えない(知性的概念に対して対象を規定するわけではなく、かかる概念を客観的に妥当すると称するわけでもない)。---悟性が感性によって制限されるのではなくて、むしろ悟性は物自体を可想的存在と名づけることによってのみ、感性を制限するのである。しかし悟性はまた直ちに自分自身にも制限を加える、即ち物自体をカテゴリーによって認識するというのではなくて、これを未知の『何か或るもの』という名で考えるだけにとどめるのである。
---近代の学者の著作の中で、感覚界及び可想界という語のまったく別の用法を---感覚界と名づけ---悟性界と名づけ---以下略
それだから我々が、感性は対象をそれが現れるままに示すし、また悟性は対象をそれがあるがままに示すと言うときには、その『あるがまま』は、経験的意味に解せらるべきであって、先験的意味に解せらるべきではない。---我々にあっては、悟性と感性とが結合してのみ対象を規定しうるのである。
---カテゴリーの単なる先験的使用を諦めかねる人があるならば、カテゴリーを用いて何なりと綜合的命題を拵えてみるがよい(それはできない)。---綜合的命題に含まれている概念が、経験に関係しないで、物自体(可想的存在)に当てはまるということになると、いったいこの人はどこからかかる綜合的命題を得てくる積りなのか。互いに論理的(分析的)なつながりをもたない概念を総合的命題において結合するために、この命題が常に必要とするところの第三のもの〔直観〕は、この場合どこにあるのだろうか。---純粋でまったく可想的な対象という概念は、かかる対象に適用さるべき原則をひとつももたないのである。---また蓋然的、可想的な領域は、かかる可想的対象のために場所を明けておくおくにせよ、それは空虚な空間と同じく、経験的原則の使用を制限するだけの役には立つものの、しかし経験的原則の範囲外にあるような認識に与えられる別の対象を含むことも、またこれを提示することもできないのである。
■付 録
経験的な悟性使用と先験的な悟性使用との混同によって生じる反省概念の二義性について
---反省は、---心意識の状態である、---与えられた表象が我々の相異なる認識源泉〔感性と悟性〕に対するそれぞれの関係の意識である。---まず第一に問題になるのは、我々の表象は両つの認識のいずれに属するのか、表象が結合され或は比較されるのは、悟性においてなのかそれとも感性においてなのか、ということである。---判断はすべて、それどころか表象の比較にしてからが、すべて反省を必要とする。---表象が純粋悟性に属するものとして比較されるのか、感性的直観に属するものとして比較されるのかを判別する作用を、先験的反省と名づける。---ところで概念の心意識の状態において互いに対となりうる関係は四通りある、即ち同一と相違、一致と反対、内的なものと外的なもの、及び規定され得るものと規定するもの(質料と形式)である。---論理的反省は単なる比較にとどまるといってよい、先験的反省は、表象相互の客観的比較を可能ならしめる根拠を含むものである。---先験的反省は、我々が物についてア・プリオリに判断しようとする場合には、どうしても免除され得ない義務である。
一、同一の相違
ある対象が、その度毎に同一の内的規定と量を持って現れると、その対象は『多』物ではなくて『一』物である。しかし、この対象が現象だとすると、概念としてはこれらの物が同一であったとしても、同一時においてかかる現象の占める場所の相違は、感官の対象そのものの数的相違を成立せしめる十分な根拠になる(ので『多』となりうる。二滴の水の例)。---ライプニッツは、現象をすべて物自体と考え、従ってまた純粋悟性の対象とした(ので『一』としか捉えられない。ライプニッツの『不可識別者同一の原理』批判)。
二、一致と反対
実在が、純粋悟性によってのみ表象せられる場合には、実在と実在との間には、反対はまったく考えられない(例えば3-3=0は考えられない)が、これに反して、現象における実在的なものはそれを考えられる。(ここでは、純粋悟性は、現象に関しては経験的にしか使用せられないから、反対という心意識を生じさせる感性のもたらす経験を使用することが出来ないのでこうなる?)。
三、内的なものと外的なもの
純粋悟性の対象にあっては、この対象と異なるものとまったく関係をもたないものだけが『内的なもの』である。これに反して、空間における現象的実体の内的規定は関係である。我々は、空間において実体を知るのは、引力によるか斥力と不可入性によるか、二つのうちのいずれかである(関係によって内的規定となる)。ところが、純粋悟性の対象となると、実体は内的規定と内的実在に帰せられる力とをもっているに違いない。---しかし、私が、私の内感が私に示すところの付随性の他に、どんな内的付随性を考えてみることができるだろうか。そして私の内感が私に示す付随性といえば、それ自体思惟であるか、さもなければ思惟に類似するもの(?)か、この二つしかないわけである。ライプニッツは---(以降よくわからない)
(私たちが物質というものを認識するということは、物自体を認識するのではなく現象を認識するのであるが、物質を現象として認識するということは関係により規定された付随性によるほかはない。しかし、純粋悟性が対象を認識するということは、そのような物質の認識の仕方だけではなく、対象自体が持っている内的実在に帰せられる力に基づくところの思惟自体である、と言っているのだろうか?。)
四、質料と形式
質量という概念は『規定せられ得るもの』一般を、また形式という概念は『規定するもの』一般を意味する。(以降省略するが、概要は以下。ライプニッツ以前の論理学者の用いた質料と概念の説明。ライプニッツは質料が形式より前にあると考えたが、それは間違いで、その逆であることの説明。)
■反省概念の二義性に対する注
---概念に感性或は純粋悟性のいずれかにおいて与える場所(中島義道;この文章は明確性を欠く。正確には感性と純粋悟性を加えたものを置く場所と、純粋悟性のみ置く場所の二つの場所を)を、先験的場所論と名づける----。---多くの認識が一つの概念或は名目のもとに集められている場所も論理的場所と名づけられてよい。アリストテレスの『トピカ』は、かかる考えに基づいている(カントは、トピカを純粋悟性の場所として捉えているが、トピカを利用して無制限な空論を展開する人を批判している)。
先験的場所論は、先の四つの名目しか含んでいない。これらの名目はカテゴリーとは異なる。かかる名目は、物の概念(が形成される)よりも前に(われわれの心意識に現れ出る)物の表象の比較を行うに過ぎないからである。しかし、かかる比較は反省を必要とする----。
---概念を対象に適用しようとすると、先ず先験的反省が必要となり、これを欠くと批判的理性が承認し得ない総合原則が生じてくる-----、即ち純粋悟性の対象と現象との混同に基づくのである。
----ライプニッツは、---一切の対象を悟性と悟性による思惟の形式的概念と比較するだけで、物の内的性質を認識し得ると信じたのである。---ロックは、概念発展説の体系に従って、悟性概念をすべて感覚化した、----。悟性と感性とは、それぞれ表象を生じせしめる二つのまったく異なる源泉であり、しかもこの両者が結合してのみ,物に関して客観的に妥当する判断をなしうるのである。
以下四つの段落は四項目にわたるライプニッツ批判。項目のみ記す。
一、ライプニッツは、感覚の対象を物一般として、悟性においてのみ比較した。
二、ライプニッツは、---この項意味不明
三、ライプニッツは、単子論において、内的なものと外的なものとの区別を悟性との関係のみ-----。
四、ライプニッツは、時間及び空間論で、これらの感性形式を知性化しているが、-----。
***
第二部 先験的弁証論
緒言
Ⅰ 先験的仮象について
我々は先に弁証論一般を仮象の論理学と名づけたが、しかしこのことは弁証論が「確からしさ」の学という意味ではない。確からしさは不十分な根拠に基づいた真であり、まやかしでもない。まして現象と仮象とは、同一視されてはならない。
我々の当面の仕事は、経験的仮象(例えば、視覚的仮象)を論じるのではなく、先験的仮象を論究することである。純粋悟性の諸原則は、まったく経験的にのみ使用されるべきである。純粋悟性の先験的使用を命じる原則は超越的原則と言い、それに対して経験的使用の原則は内在的原則と言う。
先験的弁証論は、超越的判断の仮象を発見し、またそれと同時に仮象のために欺かれるのを防ぐというだけで満足することになろう。先験的弁証論において我々が取り扱うのは、人間性にとって自然的な、従ってまた我々にどうしても避けることのできないような錯覚である、そしてこの錯覚は、もともと主観的原則に基づくものであるにも拘わらず、これを客観的原則とすりかえるのである。それだから、純粋理性の自然的弁証論と言うものが存在するのであって、これは人間にとって避けがたいものなのである。この自然的弁証論は、愚かな人が知識の不足のために巻きこまれるような弁証論や、或いは詭弁化が分別のある人をはぐらかすために巧みに考案した弁証論のようなものではなくて、およそ人間の理性につき纏ってどうしても除きようのない弁証法なのである。
Ⅱ 先験的仮象の所在としての純粋理性について
A 理性一般について
我々の一切の認識は、感性に始まって悟性に進み、ついに理性に終わるが、直観の供給する素材を処理して、思惟の最高の統一に従わせる物としては、理性より高いものを我々のうちには見出せない。理性の第一の能力は、論理的能力であって、間接的に推理する能力である。これに反して理性の第二の能力は、先験的能力であって、自ら概念を産出する能力である。ところがここで理性を論理的能力と先験的能力とに区分するとなると、理性というこの認識源泉のいっそう高い概念が求められねばなるまい、つまりかかるいっそう高い概念が、これらの両概念を統摂するわけである。----悟性概念のカテゴリー表が同時に理性概念の系図を示すだろうということを期待してよさそうである。
------悟性は規則の能力であり、理性は原理の能力である。------およそ一般的命題は、たとえそれが経験から(帰納によって)得られたものにせよ、すべて理性推理の大前提として使用せられ得る。しかしそれだからと言って、一般的命題そのものは原理ではない。------概念によって特殊なものを普遍的なものにおいて認識するならば、私はかかる認識を原理による認識と言ってよいかもしれない。そうすればおよそ理性推理は、いずれも認識を原理から引き出す形式だということになる。
------(この段落は何を説明しようとしているか良くわからないが)------少なくとも次のことだけは明らかである、即ち―――原理(自体)による認識は単なる悟性認識とはまったく異なるものである、------。
悟性は、規則を用いて現象を統一する能力であると言ってよい。これに対して理性は、悟性の規則を原理のもとに統一する能力である。それだから理性は、直接に経験やまたなんらかの〔経験的〕対象に関係するのではなくてもっぱら悟性に関係し、概念によって悟性の多様な認識にア・プリオリな統一を与えるのである。従ってこの統一は理性統一と名づけられて良い、そしてかかる理性統一は、悟性によってなされ得る統一とはまったく別種のものである。
B 理性の論理的使用について
直接に認識されるものと推論されるものとの間には区別がある。--------およそ〔理性〕推理には、理由となる一個の命題〔大前提或いは大命題〕と、これから引き出されるいま一個の命題〔小前提或いは小命題〕があり、最後にこの推論の結果(理由と帰結との関係)〔結論〕がある。-------直接推理(悟性推理)-----理性推理〔三段論法〕------してみると理性が悟性認識の究極の統一を成就しようとしていることは、これによって明らかである。
C 理性の純粋使用について
問題はこういうことになる、―――理性自体即ち純粋理性は、総合的原則ないし規則をア・プリオリに含んでいるのかどうか、またかかる原理は本来どのようなものであるのか、ということである。
第一に、理性推理は、直接に直観に関係して直観を規則のもとに統摂するものではない。理性が関係するのは〔悟性〕概念と判断である。第二に-------それだから(論理的使用における)理性一般に特有な原則の本務は、条件付の悟性認識に対して無条件的なものを見出すにある、そしてこの条件をもって悟性の統一が完成されることは明白である。
ところが純粋理性のかかる原則は、明らかに総合的命題である。------無条件者は、かかる無条件者を条件付きのものから区別するところの一切の規定に従って考察され得るわけだし、またこうしてア・プリオリな多くの総合的命題に素材を与えるに違いない。
しかし純粋理性のかかる最高原理から生じる原則は、およそ現象に関してはいずれも超越的原則ということになるだろう。------するとここに次のような問題が生じる。条件の系列(現象の総合、或いは物の思惟一般の総合における)は、無条件者まで遡るものである、とういう原則は客観的に正しいかどうか、-----かかる客観的妥当性をもつような理性命題は、もともと存在しないのであって、------理性のかかる欲求は、私に言わせると何か誤解によって、----条件のまた条件へと遡る理性推理のなかへ、なんと甚だしいごまかしが忍び込むことだろうか、というような問題である。こういう問題の解明が、この先験的弁証論における我々の仕事である、そして我々は今この弁証論を、人間理性の内奥に深く隠されているところのその源泉から引き出してあからさまにしたいと思うのである。第一篇では純粋理性の超越的概念を論究し、第二編では純粋理性の超越的、弁証的理性推理を究明するつもりである。
第一篇 純粋理性の概念について
第一章 理念一般について
--------。悟性概念から生じて、経験の可能を超出するような概念は理念即ち理性概念である。------。
第二章 先験的理念について
-----我々が理性推理の形式を、カテゴリーに倣って直観の総合的統一に適用すれば、これらの概念を純粋理性概念即ち先験的理念と名づけることが出来る、そしてかかる理念は、経験の全体における悟性使用を原理に従って規定することになるだろう。
------それだから条件の総合における全体という純粋理性概念は、悟性の統一を出来るなら無条件者まで遡らせるために、少なくとも課題として必然的であり、また人間理性の自然的本性に基づいているのである。-------
------それだから純粋理性概念の使用は常に超越的である。これに反して純粋悟性概念の客観的使用は、その性質上必ず内在的でなければならない、このほうの客観的使用は可能的経験にだけ制限されているからである。-----
----要するに先験的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する、それだからこれらの理念に完全に合致するような対象は、経験においては決して現れ得ないのである。------
-----つまり悟性は理性概念によって、なるほど対象を悟性概念に従って認識する以上には認識しないが、しかしかかる認識においてもっとよく指導され、またもっと遠くまで達しうるのである。-----
以下略
第三章 先験的理念の体系-----省略
第二編 純粋理性の弁証的推理について
我々はこう言ってよい、―――先験的理念(純粋理性概念)は、理性が理性の法則に従ってまったく必然的に産出したものであるにせよ、しかしこの単なる先験的理念の対象は、我々がそれについて何も知るところのないような何か或るものにすぎない、と。
こういう弁証的推理は、理念の数と同じく三種しかない、-------第一種は先験的誤謬推理、-----第二種はアンチノミー、------第三種は純粋理性の理想と名づけようと思う。
第一章 純粋理性の誤謬推理について-----省略
第二章 純粋理性のアンチノミー
----弁証的推理の第一種は、〔主観即ち心の〕あらゆる表象一般の主観的条件の無条件的統一に関係するもので、定言的理性推理に相応する(先験的誤謬推理、唯心論に断然有利だが根本的欠陥を有する)。-----第二種は、現象における客観的条件の無条件的統一をその内容とするもので、仮言的理性推理に相応する(アンチノミー)。------第三種は、対象一般を可能ならしめる客観的条件の無条件的統一を主題とするものである(純粋理性の理想)。
理性を現象の客観的総合に適用するとなると、人間理性の新しい現象が出現する。これは、純粋理性にとって極めて自然な自己矛盾である。先験的理念が、現象の総合における全体的全体性に関するものである限り、これらの理念をすべて世界概念と名づける。それに対して、およそ存在し得る一切の物の成立条件の総合における絶対的全体性は、純粋理性の理想を生じせしめる。
第一節 宇宙論的理念の体系
-----第一に、純粋な先験的概念を生じせしめるものは悟性だけであり、理性は元来概念を産出するものではなくて、可能的経験がどうしても蒙らざるを得ない制限からせいぜいカテゴリーを解放するにとどまり、従って悟性概念を経験的なものの限界を超えて拡張しはするが、しかしまたこれらの概念を経験的なものに結びつけておこうとする。だから、理性は条件の側における絶対的全体性を要求し、カテゴリーを先験的理念に仕立て、また経験的総合を継続してついに無条件的なものに達することにより、この経験的総合に絶対的完全性を与える必要がある。理性は、『条件付のものが与えられていれば、条件の総体も、従ってまた絶対に無条件的なものも与えられている、そして条件付のものはかかる無条件的なものによって可能である』という原則に従って、このことを要求する。第二に、ここに用いられるカテゴリーは、それによって総合が一つの系列をなすようなカテゴリーだけである。また、理性が要求する系列は、条件の上昇的系列(理由を遡る、背進的)だけである。
----カテゴリー表に倣って宇宙論的理念の表を作成するために、第一に時間と空間をとりあげ-----時間はそれ自体系列である---------現在の時点を過去の時間に関して条件付のものと見なすことが出来る(この瞬間は、先立つ時間の全経過によって初めて生じる)------空間はそれ自体系列をなすものではない--------しかし空間の多様な部分の総合は継起的である、つまりこの総合は時間において行われ、従って一つの系列を含む-----空間は他の空間により限界を付けられるから条件付のものである。--------(量のカテゴリー)
第二に、空間において存在するもの即ち物質は条件付のものである(系列を背進的に遡ることを理性は要求する)。-----物質は究極の分割により、物質の実在が消滅して無に帰するか、部分を持たぬ「単純なもの」になるか、二つのうちの何れかである。------(質のカテゴリー)
第三に、-----空間は他の空間によってのみ規定されるから原因性(因果性)のカテゴリーのみ系列を持つ条件付のものである。------(関係のカテゴリーの原因性)
第四に、-----様態のカテゴリーのなかで、現実的存在における偶然的なものだけは、常に条件付のものと見なさなければならない。理性はこの系列の全体において無条件的必然性を見出すことになる-----(様態のカテゴリーの必然性)
第一の注意は、絶対的完全性という理念は現象の解明に関することであって、物一般の全体性という純粋悟性概念とは係わりがない、ということである。
第二の注意は、かかる総合は、系列の含む前提の一切を合わせてそれ以上もはや他の前提を必要としないような場合に、かかる前提の系列において見出される完全性にほかならない、ということである(理性が求めるものは無条件者)。
無条件者は二通りあり、無条件的なものが全系列にある場合(系列の背進が無限で完結の期がない)、無条件的なものが系列の一部分である場合(系列の始まりをなす『第一のもの』があり、時間系列においては「世界の始まり」、空間系列においては「世界の限界」、物質の系列においては「単純なもの」、原因の系列においては「自発性(自由)」、変化する物の現実的存在の系列においては「絶対的な自然必然性」と呼ばれる。-----以下略。
第二節 純粋理性の矛盾論
-----要するに先験的矛盾論は、純粋理性のアンチノミーおよびこのアンチノミーの原因と結果に関する研究である。我々が悟性の原則を使用するために我々の理性を経験の対象に適用するだけにとどめないで、経験の限界を越えて理性の拡張を敢えてしようとすると弁証的命題が生じるのである、そしてこれらの命題は、経験において実証される見込みもなければ、さりとて反駁されるおそれもない。-----
純粋理性のかかる弁証論において、自然に発生する問題が三つある。①純粋理性がアンチノミーに陥る命題とは何か、②このアンチノミーの原因、③かかる矛盾に陥ってもなお理性に開けている確実性はあるのかどうか、またあるとすればそれはなにか。-----以下略
先験的理念の第一の自己矛盾(第一アンチノミー)
【正命題】
世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
世界が時間的な始まりをもたなければ、現時点までに無限の時間が過ぎ去っている。一方、現時点には現実に世界が存在している。世界が現実に存在するためには、それまでの時間系列における多様なものの継時的総合が完結していなければならない。ところが、無限の時間が経過したとすると、多様なものの継時的総合は完結されえないから世界は存在し得ない。だから、世界は時間的始まりをもつ。
世界が空間的に限界を有さないとすると、世界は同時的に存在する多様なものの無限の全体となる。一方、我々は限界を越えた量については直観することは出来ないから、これを限界内の部分に分けて完結した後に総合するしかない。この作業は同時にはできないから継時的にすることになるのだが、世界が同時的に存在する多様なものの無限の全体とすると、この作業には無限の時間が必要になり、この総合は完結せず、従って世界は存在しないことになる。だから、世界は空間的に限界を有する。
【反対命題】
世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
世界が時間的始まりをもつとすると、その前は世界の存在しない時間、空虚な時間が存在したことになる。一方、時間は物の生起の条件であるが、世界が存在しなければ物の生起はあり得ないから、そのような空虚な時間に継続して世界が生起されることはあり得ない。だから、世界は時間的始まりをもたない。
世界が空間的限界を持つとすると、その限界の外には世界が存在しない空虚な空間が存在することになる。一方、空間とは対象を直観する形式であるから、対象が存在しない空虚な空間は意味を失う。だから、世界の存在の意味がある限り、世界は空間的に無限である。
第一アンチノミーに対する注
【正命題に対する注】(キーワードである「無限」及び「無限の全体」という概念の解説)
無限な世界が不可能であることを、無限量というものに対する誤った概念を根拠にすることで証明すると次のようになる。「量が無限であるということは、その量以上の大きさの量はないことを意味している。ところがどんな量でも、それに一単位量以上付け加えればもとの量より大きくなるから、どんな量でも最大ということはあり得ない。だから、無限な世界というものは不可能である」。
以上の無限の概念は、我々の言う『無限の全体』とは異なっている。だからそのような間違った無限の概念をこの正命題の証明には用いることは出来ない。無限の全体によって表象されるのは、最大量の概念ではなく、任意の単位とかかる全体との関係だけである。量は単位によって数として表象され、数は与えられた量に対して無限に表象されうるものである(例えば、円の中の点の数)。だから、数学的な無限および無限な全体は我々にとって表象しうるものであるし、さまざまな単位をとればさまざまな無限の全体を表象することができる。先験的な無限性の概念は、ある与えられた量をある単位によって測定し尽くして継時的に総合しようとしても、その測定数に限りがないのでその作業は完了しないということを意味している。
そうすると、現時点で確かに存在している世界全体(与えられた全体)について、純粋直観の形式である時間と空間において直観し得るものである限りにおいて、時間或いは空間の単位で測定した場合に、時間については内的世界全体について、空間については外的世界全体について、系列を背進的に遡った総合が完結するはずである。従って、時間に関して言えば、現時点までに無限の時間が過ぎ去ったということはあり得ず、故に世界は始まりを持っているし、空間についても同様に世界は無限に延長されるものではなく有限である。
【反対命題についての注】(世界の無限性に対する異論・反論に対する注)
反対命題に対する証明の根拠は「もし世界が有限ならば、空虚な空間と空虚な時間とが世界の限界を形成せざるを得なくなり、それはあり得ない」という反論に基づいている。
ライプニッツ学派は、「世界が限界を有することは可能であるが、その場合に世界の始まる前の時間や、世界の外の空間を仮定することは不可能である」と言っている。この説の後半部分についてカントは以下の理由で賛成している。「空間も時間も直観の形式であり対象ではない。ライプニッツ学派の用いている仮定は対象についてのみ当てはまるから、かかる仮定は不可能である」。しかし、カントは、世界の限界を想定するならば、その外にある空虚な空間および世界の始まり以前にある空虚な時間という二つの不可解なものを想定せざるを得なくなると言い、ライプニッツ学派を批判している。
また、ある人たちは、この反論の根拠を認めることを避けようとしている。その内容は、世界の始まりを考える代わりに、時間以外の条件を前提にしない現実的存在を考え、世界の延長の限界の代りに、世界の制限を考えることにより、つまり物事の認識に際して、時間と空間という人間がア・プリオリに持っている能力を適用することを避けていることだが、それらの人は可想界なるものを思い込んでいるだけである(注記:具体的に当時、どのような人々がどのようなことを主張しているのか良くわからない)。可想界なるものは、現実世界に関する直観の条件であるところの時間と空間という形式が除去されているから、何か世界一般という一般的概念にすぎないもので、我々に与えられている感覚界や現象界とは相容れないし、総合的命題(例えば「世界には限界がない」など)も成立しない。
先験的理念の第二の自己矛盾(第二アンチノミー)
【正命題】
世界においては、合成された実体は全て単純なものから成っている、また世界には単純なものか、さもなければ単純なものから成る合成物しか実在しない。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
合成された実体が、単純なものから成っていないとする。その場合に、命題が存在する限り合成という考えを排除することは出来ないが、合成という考えを一切排除することができないとすると、合成された実体自身が多くの合成された実体からなることになり、実体自身が常住不変な存在物でなければならぬことと相容れない(どこまで遡っても合成された実体を構成するものが確定されないので、実体が存在しないことになるということか?)。だから、あり得る場合は、合成された実体と、合成という考えを援用しない実体即ち単純なものが存在する。
【反対命題】
世界におけるいかなる合成物も単純な部分からなるものではない、また世界には、およそ単純なものはまったく実在しない。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
第一命題について。合成された実体が、単純なものから成っているとすると、その場合に、単純なものは一つの部分空間を占めるが、一つの空間を占める実在的なものは多様なものを含んでいるから単純なものは合成されたものとなり自己矛盾に陥る(従って、第一命題は単純なものを合成物の直観から追放した)。
第二命題について。世界における絶対に単純なものは理念であるが、かかる理念の客観的実在性は実証されるものではない。もし、この先験的理念に対して、経験的対象が見出されたとすると、かかる対象の経験的直観は多様なものを一切含まないようなものでなければならないが、それを推論し尽くすことは不可能である。しかし、単純なものの実在は、その単純なものに対する経験的直観が多様なものを一切含まないことを要件としている。従って、世界には単純なものはまったく存在しない。
【正命題に対する注】(この正命題を単子論の弁証的原則と名づける)
実体的全体(単純なものから必然的に合成されている全体)は合成物として『一』をなす全体である。空間も時間もその部分は全体においてのみ可能であり、空間も時間も観念的合成物とは言い得ても、実在的合成物とはいえない。
この正命題を拡張しすぎることには注意を要する。合成されたものから単純なものを推論するのは、それ自体だけで存立しているものにのみ通用する。実体の状態に属するもの(実体の状態の付随性)はそれ自体だけで存立するものではない(この言い方は古典力学の自然観に基づいているような気がする。例えば、物質と運動を実体とその付随性と捉えているのではないだろうか。)。従って、一切の合成物に対してこの正命題を無差別に主張することは出来ない。
単純なものとは、合成されたものの中に必然的に与えられている限りの単純なもののことである。ライプニッツの言う単子(モナド)は、単純な実体として直接与えられたものであって合成物の要素として与えられたものではないから、我々の言うような意味での単子は原子と呼ぶのが適切だと思う。だからこの正命題を「先験的原子論」と名づけても良いが、原子という語は既に別の意味(多分今日で言う自然科学でいうところの原子だろう)で用いられているので「単子論の弁証的原則」と名づけたい。
【反対命題についての注】(単子論者の反論に対する注)
この反対命題の証明根拠は、まったく数学的なものである。-------(単子論者たちは)むしろ外的直観と実体一般の力学的関係とを、空間を可能ならしめる条件として前提するのである。ところで我々は、現象としての物体を知り得るだけであるが、かかる物体は空間を、一切の外的現象を可能ならしめる条件として必然的に前提しているのである。------しかしもし物体が物自体であるというのなら、彼ら(単子論者)のこの証明は効力を有するであろう。
この反対命題の含む第二の命題は、ある独断論的主張と対立している。この独断論的主張は、内感の対象-即ち思惟する『私』が絶対に単純な実体である、ということを証明しようとするのである。-----ところで思惟する主観(『私』)は同時にこの主観自身の客観であるから、かかる自己意識だけでは自分自身を分かち得ないという特性を持っている------。それにも拘らずかかる主観が外的に直観の対象と見なされるならば、この主観自身も現象において合成せられることになるだろう(だからそのような主観は単子即ち単純なものではないことになり矛盾が生じる)。(第二命題の注についての記載の意味は良くわからないところが多い)。
先験的理念の第三の自己矛盾(第三アンチノミー)
【正命題】
自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
自然法則の原因性を遡っても終わりがない、即ち第一の始まりはない。一方、自然法則の主旨は、ものの生起はア・プリオリに規定された原則の存在が条件である。そうすると自然法則とは異なるもので、また絶対的な自発性を持つ原因性、即ち、先験的自由が想定されなくてはならない。
【反対命題】
およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。
【証明】(カントの言わんとするところ、小生流に記述した)
先験的自由が存在すると仮定すると、かかる自発性を規定する自発的自由も存在することになる。換言すると、それより前にある状態からは生じてこない状態を前提にすることになるので因果律に反する。また、作用原因の継時的状態のこのような結合は、経験の統一を不可能とする。従って、先験的自由なるものは内容のない空虚な思惟物に過ぎない。
第三アンチノミーに対する注
【正命題に対する注】(自由の理念は、行為の絶対的自発性の概念にすぎない)
理性は、自由にもとづく第一の始まり自然原因による系列の中にあることを主張する。しかし、例えば私が椅子から立ち上がるというような、行為の原因性は、現象の系列の絶対的に第一の始まりであると言わなければならない。
【反対命題についての注】(実体に対して、自由という先験的能力は絶対に許されない)
-------世界における実体はこれまでずっと存在し続けてきたし、また少なくとも経験の統一は、かかる前提を必要とする、それだから実体の状態の変化の系列もまたこれまでずっと存在し続けてきたと想定することはいささかも困難ではない。------実体に対して、自由という先験的能力を認めたならば、経験と夢とを区別する標徴は大方消滅してしまうだろう。
先験的理念の第四の自己矛盾(第四アンチノミー)-----略
【正命題】
世界には、世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対に必然的な存在者であるような何かあるものが実在する。
【証明】()
【反対命題】
およそ絶対に必然的な存在者などというものは、世界のうちにも世界の外にも、世界の原因として実在するものではない。
【証明】()
[1] カント哲学の基本構成(竹田青嗣2004/10/13ACC横浜);①『純粋理性批判』→独断論(スコラ哲学からスピノザ、ライプニッツへ)と経験論(ロック、ヒューム)を止揚することが狙いであり、(真)に相当する部分の形而上学批判。②『実践理性批判』→形而上学を本質的に批判すると道徳哲学が哲学の中心課題として現れる。(善)に相当する形而上学批判。③『判断力批判』→美と崇高を、認識(判断)でもあると扱っている。「美」は主観的だが客観的、個別的だが普遍的、これを解け。「美」の本質は、------な人間精神の「自由な運動性」である。①②が決定的に重要。
[2] カントは第一版において道徳論を含めた著述をしたつもりであったが、かえってその前提となる部分があいまいとなって理解されなかった。第二版において、あいまい性を取り除くために削除した道徳論の部分をこの付録に記述した(後に『実践理性批判』として著される)。従って、この付録をあわせて読むことでカントの考えをより理解することができる。
[3] 空間は純粋直観であるので厳密性には欠ける用法ではある
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