2025年4月12日土曜日

高坂正堯『国際政治 改版---恐怖と希望』中公新書1966年

 高坂正堯『国際政治 改版---恐怖と希望』中公新書1966年(要旨)

(⇒ )は私の補記。

フレンチレース

序章 問題への視角

Ⅰ 権力闘争の変質

「複雑怪奇」

独ソ不可侵条約締結に、平沼内閣総理大臣は「複雑怪奇」という言葉を発して退陣したが、それは国際政治における権力政治的視野の欠如にあった。日本が確固たる意思を持たずに太平洋戦争に迷い込んだ主原因も、この欠如にある。

国際政治を見る目

人々は現実を見るとき、事実を認識し、その意味を判断する「想定」を持っている。国際政治を見る場合は、国内政治を見る場合より単純な想定をする。

国際政治の変質

19世紀中頃から第一次世界大戦までの期間は、いまだ国際政治における権力政治が赤裸々に公然と行われていた。しかし第一次世界大戦以後、各国家は「平和」の名において国際政治の問題を語り始めた。ソ連のレーニンもアメリカのウイルソンも権力政治の否定を唱え、イデオロギー的な言葉で大衆に呼びかけ、それまでとは異なった言葉と行動原則に基づいた「新しい外交」が出現した。

問題のありか

第一次世界大戦前、人々は普遍的な秩序は求めず勢力均衡の秩序で満足していた。しかし悲惨な大戦の後、人々はより確固たる秩序をもとめるようになった。各国は国際秩序に関する自国の信念を裏切ることができなくなり、そのかぎりのおいての行動制限が生じることになった。

平和への志向はイデオロギー的な色彩を持ち、政治権力によって後押しされている。秩序は価値体系と力で裏付けられるのであるから、結局、秩序を求めて権力闘争が行われることになる。しかし、その権力闘争の性格は複雑化している。

現在の国際政治は権力政治であることをやめたのではない。いかなる平和を求めるかという形で、権力闘争が行われている。現在の国際政治の理解は、その複雑な権力闘争の性格の理解に始まり、その理解に終わる。


Ⅱ 国際政治の三つのレベル

善玉・悪玉説

昔から人々は、非難すべき悪人や悪いものを見出して血祭りに上げ、戦争の原因も単純明快な善玉・悪玉説に求め続けてきたが、その思考法では問題の解決はできない。次々に悪玉が作られ、それを打ち破った善玉が次々と期待を裏切ったが、この善玉・悪玉思考は人間に奥深く根差している。

問題の単純化

善玉・悪玉的な考え方と並んで見逃せないのは、国際政治の構造を、諸国家が武器を持って対峙するものと単純化することである。平和の問題を語るには、国家間の利益 関係や各国家の価値観 を考慮しなければならないから、国際政治はより複雑化している。

常識の数だけ正義はある

世界に普遍的正義はない。人々の行動様式と価値体系は、歴史的なものとして、いわば「常識」として成立している。それは、意識するより遙かに深く心の中に食い込んでいる。国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。従って、国際間の平和の問題は、この三つのレベルの複合物であり、複雑で困難なものである。私は、このそれぞれにおいて、平和の問題を考察しようと思う。


第一章 軍備と平和

Ⅰ 勢力均衡

均衡策の起源と性格

「均衡」という考え方は中世的行動原則が消滅して混乱状態にあったイタリアで生まれたもので、秩序が崩壊した後の状況を安定させるための苦肉の策であった。しかし根底には、社会の多様性に起因する対立が無政府状態を生まぬようにする配慮があった。

外交の任務は、国の利害の主張と国際社会の根本的破壊を避ける中間点の模索であり、第一の任務は、大きな損害リスクがある「力比べ」を避けるために諸国家の利害関係を正しく捉えることであった。

第一次世界大戦は、各国の独立維持と全面戦争回避という勢力均衡の目的が達成出来なかった点において、勢力均衡原則が極めて不十分なものであったことを示した。この認識は、理想主義的思想家、学者、現実主義者、外交関係者に共通していた。

勢力均衡原則の欠陥

そもそも勢力均衡を測る基準である国家の「力」を捉えるは困難であり、その判断は間違えやすい。勢力均衡原則は、各国が不安を少なくするために、「余力」を生み出して有利な均衡を目指そうとすれば、それは他国にとっては、不利な均衡となり自国の不安が増大することである、というジレンマを抱えている。更に余力や有利の判断には、合理的な計算だけでなく、人間の心理も関係する。勢力均衡原則の欠陥は、冷静な判断が出来ない危機において特に顕著となる。

第一次世界大戦の性格

この戦争は、勢力均衡の欠陥・不完全性が集積して起こったように思われる。プロシアとフランスの対立と新勢力にたいする恐れの蓄積 、特に多民族帝国オーストリア は、上記の恐れがバルカン半島の民族主義によって下から覆されるという恐れによって強化されていた(有名なサラエボ事件 )。

大戦の始まりも展開もすべての人間の希望と期待に反し、戦争の期間は数ヶ月内の予想が実際には数カ年続き、戦争による破壊はヨーロッパ文明に致命的打撃を与えた程凄まじく、人々が思いもしなかった破壊と損害生み、国際社会の破滅を防ぐという勢力均衡原則の存在理由を根本から揺さぶった。

19世紀に始まる工業文明の発展は、近代国民国家の権力を強大化し、動員しうる人的、物的資源の量を飛躍的に増大させ、それが第一世界大戦の戦争の惨禍も準備した。ドゴール将軍は『フランスと戦争』で次のように述べている。「長年の変化の集積が、大変動によって突如として現れた。普通選挙、義務教育、工業化と都市化、新聞、政党、労働組合、そしてスポーツなどが集団的精神を育てた。近代の大衆的行動と機械化が大衆動員を準備し、戦争を特徴づける残酷で突然のショックにも、耐えるようにした」

総動員される国民

第一世界大戦は、工業力の飛躍的発展によって政治権力を強大化したヨーロッパの諸国民国家においては、国民の総動員が必要となりまた可能となった戦争であった。政治家は国民を総動員するために大衆の情熱 に訴え始め、人々の心を奮い立たせた。情熱を持って戦われた戦争は冷静な利害の計算の入る余地を困難とし、利害関係を見極めて対処する外交官達が、国民の誤った事実認識、先入観、イデオロギーにおいて非難されがちになった。国際政治が大衆の情熱によって動くようになり、勢力均衡原則の目的が叶えられない現実が出現した。この状況は現在も続いている。平和を求めるために勢力均衡原則に代わるものが探し求められるようになっている。


Ⅱ 軍備縮小

原則的賛成と不実行

軍事力の均衡で平和に至るという考え方の内で最も急進的な案は「軍事力なき平和」であり、その最終目標は国家の軍備全廃と国際軍が世界秩序の維持を担うことであった。ヨーロッパ諸国で常備軍制度が採用された18世紀には多くの思想家 が軍縮を提案し、軍備の破壊力が著しく増大した19世紀末にも戦争の悲惨さが警告された 。

しかし、軍事力の均衡による平和の代案としての軍事力なき平和の案は、夥しい量の提案、原則的賛成、めざましい努力、そして完全な失敗という印象的な記録を残して来た。軍事力なき平和という考えは、原則的には賛成されたが実行はされなかった。

同じような経過は、第一次世界大戦後も第二次世界大戦後も繰り返された。軍縮の必要性と意図の真面目さが表明されたが、具体的成果は得られなかった。より現実的な軍備制限すら、ワシントン体制 など数えるほどしかなかった。

原則的賛成と不実行

軍事力の均衡で平和に至るという考え方の内で最も急進的な案は「軍事力なき平和」であり、その最終目標は国家の軍備全廃と国際軍が世界秩序の維持を担うことであった。ヨーロッパ諸国で常備軍制度が採用された18世紀には多くの思想家 が軍縮を提案し、軍備の破壊力が著しく増大した19世紀末にも戦争の悲惨さが警告された 。

しかし、軍事力の均衡による平和の代案としての軍事力なき平和の案は、夥しい量の提案、原則的賛成、めざましい努力、そして完全な失敗という印象的な記録を残して来た。軍事力なき平和という考えは、原則的には賛成されたが実行はされなかった。

同じような経過は、第一次世界大戦後も第二次世界大戦後も繰り返された。軍縮の必要性と意図の真面目さが表明されたが、具体的成果は得られなかった。より現実的な軍備制限すら、ワシントン体制 など数えるほどしかなかった。

公正な軍備縮小の困難

公正な軍縮には大きな障害があった。第一の障害は公正な軍備縮小が困難なのことであった。具体的には軍備削減の基準を決めることが困難なこと及び軍備縮小が実施されたかどうかを確認するという問題の存在だった。

権力闘争との結びつき

国際政治における権力闘争の存在自体が軍縮の第二の障害であった。1946年3月、アメリカが提案した原子力の国際管理に関する提案であるバルーク案 の失敗例は、そのことを如実に表している。ソ連がバルーク案に反対した理由は、一見永遠平和を求めるかのようなこの提案は、実は力の均衡がアメリカに有利である現状を固定すること、より具体的には核兵器をアメリカが独占することになるのをソ連が恐れたからであった。

核の管理と保証

バルーク案の失敗は、力の均衡、国際間の権力闘争に加えて「管理」というより具体的な問題を解くことの困難という、軍縮における第三の障害を明らかにした。

有効な管理機関がなければ核兵器の秘密開発が可能となり、その疑念自体が平和を乱すに十分なほど力の均衡を崩壊することができる。しかし、管理に服することは軍縮に服するのと同じくらい自国の立場を弱めるものだから、非核保有国にとっては、核の管理機関を設置することは安全保障を他の国の手に委ねる結果を招くことになる。さらに、ミサイルの開発は核兵器を極めて短時間で遠距離に運搬するから、核兵器の管理協定違反で得られる利益、つまり国際政治における権力闘争の優位を極めて大きくした。軍縮に関する国際管理のジレンマは、核時代において更に深まった。

ホッブズ的恐怖の状況

軍縮の根幹には、イギリスの歴史家ハーバート・バターフィールド(1901-71)が「ホッブズ的恐怖の状況」と名付けたジレンマ がある。密室でピストルを持つ二人の人間という単純な例は、国際政治における相互の恐怖と武器の関係 を浮き彫りにするとともに、未来を予測する人間の理性 に注目させる。

これまでの検討は、強い政治的緊張が存在している場合に、軍備縮小だけを一方的に進行させることが不可能であることを示している。


Ⅲ 軍備規制と一方的段階的軍縮

『三酔人経綸問答』のジレンマ

中江兆民は『三酔人経綸問答』で、「軍備なき平和」と「力による平和」の間には超えがたいジレンマ  があると指摘していたが、現代国際社会には勢力均衡原則と軍縮が抱えるジレンマが存在する。核兵器の出現によって「力による平和」があまりに危険であり、さりとて「武器なき平和」が実現不可能であることが次第に明確となってきた。「われわれは・・・戦っても勝負のない戦争と、達し得られない平和の中間に生きていくことだろう」というウォルター・リップマン の予言は多分正しいだろう。しかし、この困難な現実問題に対して知的苦悩を経た考え方が現れるようになってきた。

ダレスの大量報復理論

「力による平和」の代表例で、国際政治に対する道義主義 と軍事力に関する単純な考え方を基本としているJ・F・ダレス  の大量報復理論 と、その対極にある一方的全面的軍縮 は、ともに、軍事力の果たす機能と人間の意図とを単純化して、それらの間にある複雑な相関関係を捉えていないという欠陥を持っている。だから “複雑”の内容と対処可能性を具体的に理解する必要性が生じることになる。

しかし次第に、「力による平和」が、チャーチル の言う「恐怖の均衡」「恐怖による平和」を意味することが分かってきた。「恐怖の均衡」は核兵器による全面戦争となればともに法外な破壊を被るから米ソが戦争できない状態となることを指しているが、1940年代後半にソ連の陸上兵力は欧州をほぼ完全に破壊できた状況でも存在しており、アメリカがソ連に対する対決姿勢を見せるたびに、仏・英が必死に制約したのはこのためであった。

軍備の相互的自制

あまりに巨大な破壊力を持つ核兵器を用いた全面戦争になれば人類は破滅するから、それはあり得ない選択であるということが、核兵器の保持・製造が出来る唯一の国家であったアメリカとソ連の共通認識となりつつあった。そのような状況下で、軍備が現実世界で果たしている複雑な役割の検討が始まり、次第に軍事力と軍備の使用の意図との相関関係に目を向けた「軍備規制」と言う考え方が出てきた。

1959年1月、アメリカの戦略理論家ウォールスタッターにより、短時間で目標地点に核兵器を運ぶことができるミサイル開発が先制攻撃を有効とし、先制攻撃に対する抑止力には報復能力が必要で、現在は報復能力の条件 が満たされていないから、このまま放置すれば核戦争は起こりうるという、論文が出された。以来、奇襲先制攻撃の防止、抑止力の確実安定化の問題が論じられ、そのプロセスを通じて「軍備規制」という考え方が具体策に結びついてきた。

同時に、国際政治の権力闘争において、核兵器以外の通常兵器を用いた限定戦争 は依然有効な手段であり続けていた。核時代における限定戦争に如何に対処すべきかは、キッシンジャー などの制限戦争論者の関心事であり、キッシンジャーの答えは、政治状況に応じて使用すべき軍事力を選択する、というものであった。

軍備規制の考え方は、軍事力は「最も小さな悪」として選択される手段であり、それを使用するか否かの意思決定は、使用した場合に予想される結果がもたらす効果と損害の評価に基づいて決められる、というものである。武力行使とその効果との間の関係についてのこの認識は、現在の戦略理論の基礎になっている。マクナマラ やフランスのボーフル はその代表例である。

軍備規制という考え方のポイントは以下の三つ

国際社会に緊張が存在する時には、合意による軍縮は出来ないことを承認する

軍備の存在を承認した後に、それが使用される可能性の減少を追求する

お互いの信頼の回復に答えを求めず、信頼や善意に基づかなくても軍備が使用される可能性を減らすことを追求し、それが信頼の回復の第一歩と考える。

軍備規制の目的は以下の三つ

軍備の使用が相互の損失であることを明確にする

軍備の使用が偶発的であることの可能性を減ずる

軍備の競争が無制限に行われることを制限する

そして、それらの目的を達成するための措置は

第一に、抑止力(⇒何かを手控えさせる力)を「脆弱でない」ものとすること

第二に、抑止力として必要である以上の軍備を持たないことである

1962年にソ連がキューバに持ち込んだミサイルをアメリカがソ連に撤去させた発生したキューバ危機 の事例、所謂ベトナム戦争 =第二次インドシナ戦争では、結局米軍はエスカレーションの代価に見合う効果を得られないまま撤退した事例、が挙げられている。

対立国間の交流

軍備規制が可能であるための一つの柱は軍備の相互的自制だが、もう一本の柱はコミュニケーションの維持である。国際政治におけるコミュニケーションの維持の重要性は、極めて伝統的な叡智と言えることであり、常識的なことであった。例えば、日露戦争時の日本の指導者が、開戦時から戦いの止め方を考えて、諸外国との交渉手がかりを保っていた。

軍備規制は「力による平和」と言う考え方に基づいているが、国際政治における平和を維持するための実行体制を持っているという観点から見れば、人間の叡智に支えられていると言える。

軍備規制の代表的理論家シェリング は、軍備規制を「敵となるかもしれない国との間の軍事協力のすべての形式」と呼んでいる。

中国の核兵器開発

軍備規制は「力による平和」としての限界を持っている。その欠点は核兵器の存在する今日では、見過ごすことは出来ない。米ソ間の平和に挑戦するものが現れると、軍備規制によって安定したこの状況が、米ソいずれかの軍備拡張によって破られる恐れがある。その中で一番現実に可能性があるのは、アメリカが不信感を持っている中国が核兵器を開発したことに対して、アメリカが反ミサイル・ミサイルを開発しようとすることである(⇒中国は1964年に核実験に成功。本書の初版は1966年)。そうなると、ソ連の核抑止力を無効にするから、ソ連も反ミサイル・ミサイル開発を始めて軍事競争が再開することになるだろう。

軍備規制は米ソによる全面核戦争の危険を減らしたが、新たに核拡散による国際政治の不安定化という問題が発生する。既に核兵器を保持している国がそうではない国に対して核兵器を持つなと言うことは正当性に欠けるから、基本的に核兵器の拡散を防止することはできないがらだ。

第二の問題として限定戦争の増大が懸念される。軍備規制は限定戦争までなくすることが出来るかどうかは大いに疑わしいからだ。第二次世界大戦後から今日まで、67頁の表に36ヶ記載されているように数多くの限定戦争が発生している(⇒防衛省のデータによれば1945年から21世紀初頭までの限定戦争は87ヶで、1/3がアジアとなっている) 。軍備規制によって全面核戦争の危険が減れば減るほど、限定戦争という手段を人々が安心して大胆に使用すると考えられる。

軍備規制の心理的危機

「恐怖の均衡」の下で、恐怖と疑いに満ちたな平和な社会に長く住み、さら限定戦争での通常兵器の大胆な使用という悲劇的現実を日常的に目の当たりにすることは、社会心理学者のE・フロムが述べているように 人々を心理的危機に追いやるだろう。そして、そのことによる社会的危険が蓄積すれば最後には大きな厄災が訪れるかもしれない。

われわれは不安な平和の中を切り抜けていくだけでなく、それをよりよい世界に変える目標を必要とする。そこで「一方的段階的軍備縮小」が問題となってくる。

一方的段階的軍縮の困難

軍備削減→緊張緩和→軍備削減、という好循環が成立するには、そのプロセスを管理する機構が必要だ。しかし、1946年3月にアメリカがソ連に提案した原子力の国際管理に関する提案(バルーク案)の失敗は、それが困難であろうことを示唆している。

だが、すでに軍備規制が平和の維持に有効であるという経験を経た今の段階においては、緊張緩和策と強硬手段とを交えて、相手側の反応を見ながら、賢明に行動し、対立を和らげながら、終極的には緊張緩和に向かうことも出来るかもしれない。つぎの章では、一見疑いもなく平和的活動である経済活動と国際政治との関係を扱ってみよう。


第二章 経済交流と平和

Ⅰ 経済と権力政治

自由貿易の楽観論

国家間の経済交流こそ平和な世界を形成する最も優れた方法であるという信念は古くから存在し、今日においても極めて広範に抱かれている。貿易は「相互の自利」を生み出すという考えは、軍備縮小と同じくらい古く,かつ根深い考え方である。

他国の富の二重の機能

自由貿易という平和の方法に関する過去の記録は余り芳しいものではなかった。アダム・スミスは『国富論』において富の二面性  を指摘して重商主義 的な考えを批判した。この指摘は当時の歴史的文脈においては正しかったが、工業化が進み、戦争と権力闘争が大きな比重を占める国際社会では隣国の富を喜んでばかりはいられなかった。

自由貿易は「相互の自利」だけではなく,相互の競争と対抗をもたらした。実際、1870年代における保護主義の復活は,この競争と対抗がもたらしたものだった。

ルソーの悲観論 

ルソーは「依存関係があるところ、支配関係が生まれる」と見通していたが、国家の関係も同様で、経済的な相互依存の関係の増大も、しばしば一国による他の国の支配をもたらすことになる。各国が自給自足を目標にするのは、国家の独立にとって必要だったからだ。

しかし、国家は自国の独立を願いはしても、他国の独立を真剣に考えはしない。一国で自給自足することは、工業化が進行した19世紀では困難であった。イギリス経済への依存から独立することを求めたドイツは、間もなく他国を支配し、経済圏を拡大しようとした。他国も同様でであり、こうして経済圏の拡大を求めて国際的な対立が現れることになる。

工業化と権力政治

他国に先駆けて工業化に成功し、19世紀初めより世界経済において独占的地位 を占めたイギリスに続いて、フランスやドイツ などヨーロッパ諸国は工業化に成功し、ヨーロッパ国際政治の権力構造は大きく変化した(縦の権力増大)。更に、工業文明を確立して帝国主義 に基づいて世界の各地に進出したヨーロッパ諸国は、他の世界を圧倒し、支配するようになった(横の権力増大)。ヨーロッパの人々は、帝国主義の批判者として著名なホブソン(1858~1940) の『帝国主義論』にもあるように 、自分たちの優れた文明を世界に伝えることを自認していた。(レーニンはホブソンの「資本輸出論」とR.ヒルファディング(1877~1941)の「金融資本」の概念を採用して『帝国主義論』(1916)を書いた)。

工業化による大衆の動員

工業化のもたらした権力の増大は、世界政治の権力政治的構造を変化させ、政治単位を拡大し、大衆の動員を可能とし、二十世紀前半の二つの戦争という大変動を準備した。第一世界大戦の結果はより大きな政治的単位の必要性を一層明白にし、これが第二次世界大戦の要因にもなった。

テクノロジー、特に交通、通信の発達は、統治を容易にし、国民を政治に参加させながら支配することを可能とした。カール・マンハイムが「社会の基本的民主化」 と呼んだもの、すなわち政治の民主化と権力増大過程は不可分に結びついていることが明らかになった。この変化は、経済的に見れば国民経済の成立と増大であり、精神的に見ればナショナリズム(個人と国家の同一化)の高まりと捉えられる。

帝国主義はヨーロッパの世界支配の現象であると同時に、より大きな政治単位を求める現象でもあった。イタリアの統一 、アメリカの南北戦争(1861-65)での北による南の統一、ドイツの統一は、その証拠と受け取られた。フランスの政治学者トクヴィル が、将来世界はアメリカとロシアという二つの巨大な国によって支配されると予言したことが現実味を帯びて来ていた。第二次世界大戦は、第一世界大戦の結果を見た各国がその勢力圏の拡大に奔走した結果と言える。ドイツは「生存圏」、日本は「大東亜共存圏」を作ろうとした。


Ⅱ 権力政治と経済交流の分離

米ソの勢力圏

以上のような歴史的過程の結果、第二次世界大戦後に米ソの両極体制 が出現した。アメリカ・西欧とソ連は、各々が占領した地域を各々の原理に基づいて政治・経済・社会体制の変革を進め、その影響下にそれぞれの勢力圏を構築していった。占領地域の体制の変革が、権力政治的考慮だけからなされたというのは正しくないが、それが権力政治的意味を持つものであることは疑いがない。

しかし、この勢力圏は、それまでの勢力圏とは性格を異にしていた。すなわち、力強き者による力弱き者の、力ずくの収奪は行われていない。この点こそ、かつての帝国主義と今日の米ソの勢力圏との基本的違いである。

支配-従属関係の終了

一方的関係は、実力(=軍事力)による圧迫を伴わないかぎり長続きはしない。そして、国際政治の関係が複雑に結合している現代は、国民国家の大衆世論の力と巨大な軍事力の使用制約がきわめて強い時代だから、強大な軍事力を持つ国がそうではない国を、力ずくで一方的に支配する関係は終了した。

米ソ勢力圏のそれぞれが強力に維持されているのは、各勢力圏を支配している強国とその圏内の他国が相互の利益に役立つからである。これはまた、あらゆる権力現象に見られるもので、はじめは赤裸々な力による支配おこなわれるが、支配者はその地位の永続を願うが故に自らの利益を被支配者に分かち与えねばならない、という法則とも言える。この法則は第二次世界大戦後の米ソの勢力圏についても働いたように思われる。

協力か従属か

近代工業の発展は、米ソの各勢力圏内においての経済交流の必要性を増大し、同盟は軍事的協力関係よりも次第に経済協力体制という色彩を強めてくる。

しかし、交流は依存を生みやすく、依存は支配を生みやすい。従って、経済交流の効果一般について楽観的な結論を引き出すことは出来ない。例外はあっても勢力圏内の関係が相互の利益に役立っているため、赤裸々な干渉によらなくても、米ソの「力」が各勢力圏内の体制に反する政府の出現を妨げることは可能なのである。各勢力圏内においては、弱小国の政府の質が自国の国民的利益を守る上で決定的な重要性を持つことになる。

米ソの「力」の質の差によって対処の形は異なるとしても、各勢力圏内において自国の利益を主張する政府の存在が問題(⇒考慮すべき課題)となってくる点は同じである。

経済統合のための闘争

米ソの勢力圏の出現で見てきたように、勢力圏という地域的統合は相互に対抗関係に立つものであり、国際政治の権力闘争を生み出すものである。まず、参加していない者に脅威を与え、逆に脅威は統合を促進させる 。

だからと言ってすべての地域的統合を批判するのは正しくない(⇒一般的な政治ブロック化批判)。普遍的世界的な統合が得られるには、世界はあまりに多くの面で、あまりにも烈しく分裂しているからである。しかし、地域的統合には限界があることは明らかである(⇒世界国家設立には限界がある)。

米ソの勢力圏の境界がはっきりしてくると関心は発展途上国に向けられ、米ソともに政治的目的を持って経済援助が行われるようになった。そして、経済協力や経済統合の結びつきが発展途上国との関係でとくに問題となってきた。だが、米ソともにそのために実力に訴えることはなく、米ソの対立は切迫したものにはなっていない。

しかし今後は、発展途上国における人民革命を主張する中国の出現が、状況を再び切迫したものにするかもしれない。アメリカと中国は発展途上国で現在起こりつつある巨大な変化について完全に異なった見方 をとっているからだ。発展途上国の開発が、アメリカと中国の間の巨大な権力闘争に巻き込まれる可能性は否定できない。


Ⅲ エゴイズムと相互の利益

南北問題 

経済交流が平和を生み出すという考え に対する最大の挑戦は、南北問題、すなわち先進諸国と発展途上国の間の巨大な富の差の存在である。それはある意味では帝国主義の後遺症であり、アジア、アフリカ諸国に目に見えない大きな傷を与えた。しかし、それはまた基本的には歴史の事実と考えた方が良い(⇒資本主義のせいではない、と言いたい?)。

南北格差を放置すれば、経済交流という現象に内在する困難によってそれは一層拡大していく。南北格差の解消を目指すなら、先進諸国は発展途上国の経済発展に資するような特別な努力をする必要がある。この考えは過去十数年間オランダのティンバーゲンやスエーデンのミュルダールなどの経済学者達が繰り返し論じてきた。

ミュルダールは、国民国家を超えて世界に適用した福祉世界 という理念を掲げているが、本人も認めているように福祉世界は福祉国家 よりもはるかに実現しにくい。なぜなら、福祉国家は既に存在した国民国家の中で発展したのに、福祉世界はそのような枠組みとなるべきものを持っていないからである。

自尊心の問題

南北問題には、各国のエゴイズムが障害となって現れてくる。人は自分を他人と比較して、他人よりも豊かになろうとして働くのであり、他人のために働くのではない。ルソーの言う「自愛心」ではなく「自尊心」 に駆られて働くのである。不幸にして、国家もまた同じであり、ルソーは国家間の止むこと無き権力闘争の原因はここにある、と考えていた。経済交流が平和をもたらすという考え方に批判的であったルソーの、第二の論点はここにある(⇒第一の論点は「依存あるところに支配あり」だった)。

自国中心の態度と制度

感情的にも制度的にも、自国の利益の方が各国に共通の利益よりも認識され易く受け入れられ易い。

発展途上国にとっては、先進諸国が、貿易のありかたなどの経済政策を変更することによって発展途上国の産業の発展を助ける方が、経済援助よりもはるかに有効である。しかし、先進国にとっては、経済政策の変更で生じる自国の困難(例えば労働者の反発)の方が経済援助の増額より困難である。発展途上国の発展という、双方にとっての共通の利益は、自国中心の態度と制度という側面でも各国のエゴイズムの壁に阻まれる。

経済開発の前提条件

十数年前(1950年代)からの経験により、発展途上国の経済開発の複雑さが次第に分かってきた。そして、なにより安定した強力な国の政府の存在が重要であり、その下において一定の教育水準と資本の蓄積が非常に重要であることが分かってきた。

経済開発とは単に経済上の問題ではなく、それを可能にするような社会の存在が問題となる。発展途上国では現在そうした社会は存在しないから、経済開発と同時かそれに先んじて、社会の変化が必要となる。

国家形成の難問

ヨーロッパの歴史を見ても分かるように、国家 の形成はきわめて困難でその過程は長い。その長く困難な過程を経験していない多くのアジア、アフリカの新興国は、国家の実体をなすものを持っていない。

南北問題は、帝国主義の与えた最大の損害を明らかにした。それは、帝国主義が、植民地の人々の価値観を、そして民族性を破壊したことである。独立心の喪失を最も恐れたガンジーの言葉 はそのことを端的に表している。国家形成の前提を破壊された植民地の人々は、大きなハンディキャップを背負わされて自国の経済開発も進めざるを得ないのである。

南北問題は、国民主義(ナショナリズム) が野放しにされてはならないことを示すと同時に、国家の必要性が厳然として存在することを明らかにしている。人々はその国家の価値体系から離れて能力を発揮することは出来ないからである。そして、このことこそ、次に検討する普遍的な秩序による平和への試みを不可能なものにする根本的な原因なのである。


第三章 国際機構と平和

国際機構のジレンマ

国民国家が並立する状態は、基本的には国際的な無政府状態なのだから、問題の解決は、各国がその主権の一部または全部を委譲した世界連邦を作ることでなければならない、という議論が現れるのは、理論的には自然な展開だろう。「国際機構による平和」という思想は主権国家の並立する国際政治の状況と同じくらい古い思想である。

この思想は今日でも依然として平和思想の中核を構成しており、平和に対するわれわれの考え方の際立った弱点になっている。十分な理論的検討がなされず、いつか完全な国際機構が出来るとき、永遠の平和が訪れると単純に考えているのである。しかし、その障害が何であり、その最大の欠点が何かを知らない理想主義は、理想への憧れにすぎない。

国際機構による平和の提唱は、アベ・ド・サン・ピエール などによって17世紀から18世紀の初めに纏まった形をとり、以後の平和思想の原型となった。ルソーはサン・ピエールの平和提案にひかれながらもその根本的な欠点を見逃さなかった。ルソーは『サン・ピエールの永久平和計画の評価』 において、サン・ピエールの提案を批判している。

批判の第一点は、各主権国家はその提案に賛成しないだろう、という点だった。戦争をもたらす主権国家の並立状況が、戦争を除去する国際機構の樹立を妨げるはずだ、と。

批判の第二点目は、この提案には大きな危険があるという点だった。それは、すべての理想がそうであるように、権力闘争の手段として使われる、と。『サン・ピエールの永久平和計画の評価』の後半を次のような皮肉を込めた言葉で終えている。「このような大計画(アンリ四世が目論んだ「国際機構による平和」という計画)は将来あり得るかもしれないので、これを讃えるとともに、それが実行されなかったことに安堵しよう。というのは、この計画は人類をたじろがせるような暴力的な手段によってしか実現されないからだ」

正義は複数個ある

すべての秩序は力の体系であると同時に価値(=正義)の体系である。国家においても、国民が基本的な価値の体系を共有しているからこそ秩序が成立し、権力による強制の支えがなければ共通の価値体系も育たない。それは、ヨーロッパにおける国民国家の長く複雑な成立過程を見ても明らかである。

カントも国際機構のジレンマと権力闘争に利用される危険性を指摘している(『永遠平和のために』)。国際機構に対するルソーとカントが共通に持つ考え方から、一つの論点が導かれる。それは、国際社会における秩序は、ただ単に力を一カ所に集めることによって得られるような簡単なものではないということである。

カントはさらに、相互に独立した国家が隣接し合いながらも分離していること(=戦争状態)の方が、国際機構が作られるよりもましであるとのべている。

全面核戦争を回避することが全体の利益であることは明らかであるにもかかわらず、各主権国家は、軍縮が有効であるような国際的な強制力を持つ管理機構の設置には賛成しない。それは、単なるエゴイズムや全体的利益を認識しえない邪悪さや愚かしさのためではなく、すべての主権国家がその運命を託することが出来るような唯一の正義が具現されている世界ではないからであろう。この問題の核心は、現在の国際社会においてはそのような正義は存在しないということにある。

国際機構の強制力

現実の国際機構の歴史は、これまで行ってきた理論的な考察を裏付けている。国際連盟は、集団的安全保障の体制を作ろうとして連盟規約に記載したが、規定の解釈決議を見れば分かるように実際には集団的安全保障体制は存在しなかった。国際連合は、国際連盟の失敗からより強い権限を持った国際機構を目指して作られたが、常任理事国が拒否権を持つことで、強制力に関するかぎり国際連合憲章の規定は殆ど死文となった。

このような状況をもたらしているものは、前項で述べた「国際機構のジレンマ」によるものだが、国際連合憲章の規定が殆ど死文となった根源には、相互の不信感に加えて、ソ連と西欧諸国とが異なったイデオロギー、すなわち価値観或いは正義を持っていることにある。

異なった正義の原則という事実を踏まえてみるならば、アメリカの国際連合における動きが権力政治的なものであったことは否定できず、この点につては、18世紀初頭におけるヨーロッパ覇権争いに際して、アンリ四世のとった動きと同じであると言える

朝鮮戦争 の教訓

朝鮮戦争から、重要な一般的教訓を引き出すことが出来る。それは、異なった正義と力と利害の対立する現在の世界において、作られうる国際機構の強制行動は、一方の正義の押しつけという性格を帯びるということであり、したがって、強制力を持つ国際機構を作ろうとすることが不可能でもあり、望ましくもないことである、という教訓である。

「政治家の技術と分別に活動の余地」を与えるという意味において、国際連盟も国際連合も決して無力な存在ではない。しかしその力は、国際連合の起草者達の考えたように、強制力から生まれているのではない。では、国際連合の力とは一体何なのだろうか。


Ⅱ 世論の力

フォーラムとしての国際連合

国際連合の役割が、安全保障理事会を中心とした強制力を持った国際機構というものから、総会を中心とする国際世論が形成されるフォーラムへと発展してきた。それは決して間違った見方ではないし、一定の効果も上げてきた。

より大切なことは、アジアやアフリカ諸国が加盟した結果(本書の出版時点では東西独逸や中華人民講和国未加入)、より中立的な討議の場所となった総会の討論を通じて、長期的には、軍縮、人権、南北問題、などについてのコンセンサスが現れてくることろう。

しかし、世論の正しさと有効性を信ずる考え方も、人びとが犯しやすい誤りであることには注意しておく必要がある。E・H・カーが名著『二十年の危機』で述べたように、世論の神格化こそ、大戦間の外交を無力化させた大きな要因だったのである。われわれは同様の誤りを犯さないよう、国際世論の機能、とくに世論の機能をきびしく分析しなくてはならない。

世論の力と実力

国際連合設立後今日までの間に生じた国際武力紛争から引き出せる明確な結論は、背後にある力関係が結果を決めると言うことである。疑いもなく、国連における討議は実力を背景にした権力政治に取って代わるものではない。

国際連合の二つの機能

一つは、諸国間、特に対立国の間のコミュニケーションを常に保つこと、もう一つは、紛争解決の目標が平和の回復という形で追求されるため、紛争に対処する広い枠組みを与え、譲歩する側は「名誉ある撤退」の機会を捉えることが出来るようになることである。

世論に対する受容性

各国が世論を尊重するかどうか、世論の受容性ということが問題となってくる。言論の自由が許され、政府の行動を批判できる国と、そうでない国とでは、前者の方が受容性が高いことは明らかである。しかし、その国に言論の自由があっても世界世論に対する受容性が高いとは限らない。現代の巨大社会では、人びとの同調性が強くなっているからである。


Ⅲ 国際連合の意味

権力政治は変わった

第二次世界大戦後の権力政治は、大きく変わった。それまでの権力闘争の目標は領土の獲得であったが現在は「人の心を求めての闘争」となっている。このような、権力闘争の性格変化は、第二章で述べた権力の横と縦への拡がりという歴史的過程とともに起こってきた。レイモン・アロンの言うように  、隷属化していない大量の人々の動員と政治的参加が必要となり、したがって世論を支配し大衆の心を捉えることが必要になったからだ。

国家間の交渉が限られていた古典的な国際政治においては、それぞれの主権国家は政治的、経済的に独立した存在であり(それが主権国家ということの意味であった)、その相互間の紛争解決の手段として軍事力が制限的に使われた。しかし、経済的な相互依存の増大とコミュニケーションの発達は、経済関係による他国の行動の操作と、宣伝による他国の世論の操作を可能にした。

そのことは、エリート対エリートの関係に限られていた国際関係に、国民外交、民間外交(マス対マス)、対角線外交(マス対エリート)がつけ加えられた。国際関係が複雑化し、国際政治においても世論への呼びかけが極めて重要な権力政治的行為となってきた。

しかし、世論への呼びかけは、理性に訴える説得ということだけではなかった。19世紀の思想家たち(例えばベンサム)は、世論を理性的合理的なものと考え、それが故に世論の力の強まりが平和を保障すると信じることが出来た。しかし、実際に世論の力が強まってくるにつれて、人びとはそれが必ずしも理性的合理的なものではないことに気付かざるを得なかった。例えば「威信」という言葉が19世紀半ばあたりから次第に使われ始めたことに表れている。力の誇示とシンボルの利用を主軸としたヒットラーのナチ運動の成功は世論の合理性を信ずる人々に対して壊滅的打撃を与えた。

フロイト(1856-1939)は、人間の行動を支配するものは意識的なものではなく、下意識を呼ばれる非合理的なものだと主張した。パレート (1848-1923)は、政治において最も重要なものは、神話によって代表される「非論理的行動」だと述べた。人間の行動が非合理性に支配されるという19世紀末に現れたこれらの思想は、歴史におって証明された。

威信の政策と体制の政策

現在、各国はその威信を高めることを念頭に置いて行動している。スプートニク の打ち上げはソ連の威信を著しく高め、農業政策の失敗は逆に低下させた。冷戦期のベルリン問題 は、米ソ両国の行動価値の基準が威信であることの証左であった。やがてソ連の方がベルリンの壁を築かなければならなくなったことは、重要な威信のゲームにおけるソ連の敗北を意味していた。

威信の政策と並んで、現在の権力闘争の主要な形式は、ある普遍的原理に立つ国がその原理の及ぶ範囲を広げることであった。ある国がどのような政治・経済体制を取るかということは、決して単なる国内問題ではなく、国家間の力関係に影響を与えるものだからである。イデオロギーの対立は権力闘争と離れたものとして存在するものではなくて、その最も重要な局面の一つなのである。

アメリカの力とソ連の力とは、その質も機能も違っており、勢力が伝わる経路も違っている。アメリカの場合には、各種の私企業の作り出す多元的な経済関係が最も有効な経路であり、従ってその支配は経済的性格をおびるのに対して、ソ連の場合には、それは共産党の経路通じてなされるから、政治的性格が強い。その結果、国家の力を制御する点ではソ連の方が有利であるが、同盟国間の関係が悪化したときには、力の経路が多元的であるアメリカの利点が優る。それらは、米仏関係 と中ソ関係 においてよく示されている。

政治の場としての国際連合

現在の権力闘争がこのようなものであるとするならば、国際連合がその重要な舞台、すなわち政治の場となっていることは明らかである。したがって、すべての政治の場がそうであるように国際連合は対立の側面と調和の側面とを持っている。

国際連合にはさまざまな利害、力、思想の葛藤が現れる。アメリカもソ連も、国際連合において自己の立場を宣伝することに努めたし、国際連合の権威を利用しようとした。しかし、国連の場において、妥当な理由に基づく非難が討議を通じて行われたことは、非難にルールと重みを与えた。

国際連合は、各国を代表する人々が常に同じ場所にいることで国家間の連絡を容易にする場を提供している。より大事なことは、国連代表や国連職員や関連団体による中立的世界の存在である。平和を求める価値観を共有する人々が繋がる点からも、国際連合は政治の場における調和の側面と言えるだろう。

国際連合における共通の紐はあくまでも限られたものであり、これに対して立場の相違はあくまで大きい。これこそ、国際連合の機能をこれまで消極的なものに限ってきた根本的理由であった。国際連合は、武力衝突という現象を凍結することは出来ても、問題を解決して紛争を除去することは出来ないのである。

休戦ライン

国際連合の役割とその限界を最も象徴的に表しているのが、世界のあちこちにひかれた休戦ラインである。第二次世界大戦後、今日までに起こった大きな武力衝突はすべて休戦という形で収拾された。そしてそれは、何らかの形で国際連合の監視下に置かれた。しかし、それらはすべて恒久的な講和条約という形で解決されるところまでには行っていない。

パレスチナ問題 では、いまだ恒久的な平和条約は結ばれず、第二次中東戦争 (=スエズ動乱)後に、国連は侵略以前に復帰という形(旧状復帰⇒後述右)で停戦させて国連軍を送り休戦ラインを監視させている。

カシミール紛争 では、カシミールの帰属をめぐるインドとパキスタンの争いは、1947~48年と1965年の2回の大規模な戦闘行為を引き起こしているが、両者の主張は根本的に対立し、いまのところ、解決の試みはすべて失敗している。

朝鮮においても同様の歴史が残っている(別記参照)。

国際連合の力の限界

限られた力とは極めて不十分な力である。しかし、国際連合の発展は、その限られた力を増大しようとすることによってではなく、逆に、その力の限界を認めながら、それを賢明に使うことによってもたらされることを、国際連合の歴史は示しているように思われる。

現在の国際機構の決定は、少数派が同意または黙認しているかぎりにおいて有効であり、その限度を超えて国際機構の力を強めようとすることは、かえって逆作用を生むものでしかない。国連軍による南北朝鮮の統一という試みは、ソ連と中国が実力によって反対することによって失敗に終わり、かえって世界戦争の危険さえ生まれることになった。

黙認と公然たる反対の差は微妙なものである。しかし、それが現在の国際機構を見るとき、極めて重要な点なのである。1960年のコンゴーの内戦 に対する国連軍の派遣は、その良い研究例を与えてくれる。秩序を維持して平和を回復するという使命を果たすために、国連軍が立ち入らざるを得なくなったこの問題は、内戦に伴う各政治勢力の正当性の問題と、東西冷戦下において「浸透 」を企てる政治勢力の正当性の問題を含んでいた。国連軍は権限を強化して一方の政治勢力に対して武力行使を行い鎮圧に成功し、国連軍の使命は果たされた。武力行使に対する反発が公然たる反対ではなく黙認であったからだった(朝鮮戦争とは異なり)。だが、現在の世界では政治勢力の正当性についての共通の基準はないため、国連軍への一致した支持は国連軍の権限強化に伴って消滅し、その威信を低めることになった。

UNプレゼンス方式

過去の記録は、国際連合が紛争を解決することは出来ず、それを局地化し、中立化することができるだけであることを示している。現在の国際連合の中心的機能であるUNプレゼンスによる防止外交(⇒集団的安全保障から防止外交へ)は、こうした認識の上に立ち、紛争を局地化する国際連合の能力を、より広く、そしてできるだけ先制的に、用いようというものである。

この方式の起源は1952年のスエズ動乱の成功だが、1958年のレバノン危機 、1959年のラオス内戦 初期のラオス調査団 、1960年のコンゴー駐留国連軍、1962年の西イリアン駐留国連保安軍(⇒西ニューギニア領有を巡るインドネシアとオランダの紛争  に派遣された強制力のない国連軍)、1963年のイェーメン監視団 、1964年のキプロス駐留国連平和維持軍(⇒キプロス内戦 時に派遣された強制力のない国連軍)、と続く。

第二次大戦後の戦争の多くが内戦だが、この場合には国連が有効に介入するのは困難だろう。また、内戦の当事者達が戦い続けることを決意していると国連は無力だろう(例えばアルジェリア内戦 。名目上はフランス本土の一部に長い間居住する植民者が戦い続ける意志が強固であったケースを指すのだろう)。

国際連合の権威

国際連合の役割を限定して考えることは、現実の可能性ということから必要であるだけではなく、その将来の発展という見地からも導き出される要請なのである。そして国際連合の局地化機能は、その力ではなく権威によって有効になっている。

では、その権威とは何だろうか。権威に従うことは同意ではない。権威は、実力の行使でもなければ説得による同意でもない、その中間のなにものかである(ハンナ・アレント)。

国際連合の権威は、権威を持つものと権威を感じるものの相互関係において少しずつそして時の経過とともに増大させていくことができるだけなのである。今から150年前にイギリスの外相キャッスルリー  が述べた言葉 は今でも依然として妥当する。

自己の理念と利益を守りながら、国際機構の権威を高めるように行動することは出来ないだろうか。こうしてわれわれは、いくつかの普遍的解決方法を検討したあとで、結局各国の行動という個別的な問題に帰ることになる。平和な世界を作るような方向に行動する国家とはどのようなものであろうか。


終章 平和国家と国際秩序

Ⅰ 国際社会と国内体制

帝国主義論

平和な国家とは何か、という問いかけは、思想家たちが平和の問題と取り組んだとき常に中心的な問題であった。そしてそれぞれの思想家が見出した解答は通俗化された形で、われわれの平和に対する見方の根幹をなしている。国家の平和的な性格に関する理論の中で、現在最もよく知られているのは帝国主義に関するいくつかの理論である。これらの理論は、19世紀から20世紀にかけての歴史的現象の教訓を一般化しようとしたものであり、国家を侵略的なものにする要因についての理論を与えている。それらの理論は大別して二つに分けられる。一つは資本主義経済の欠陥に原因をみる経済学的理論(すでに触れたホブソン、レーニンの帝国主義論)もう一つはシュンペーター(1883-1950)やベブレン(1857-1929ヴェブレン)が主張する工業化の過渡期の社会現象に原因をみる社会学的理論である。

シュンペーターとベブレンの理論は、工業化が完成しない段階において、工業化前の社会の残存物が工業化社会の技術と結びつくところに帝国主義の原因を求めるもので、その考え方の原型は、ともに人間社会の進歩を信じた思想家コント(1798-1857)とスペンサー(1820-1903)に求められる。

シュンペーターとベブレンは、資本主義社会では、そこで指導的役割を果たしている人々の生活様式を見れば、彼等は征服戦とか対外的冒険主義などは厄介な妨害物と感じるだろうし、帝国主義を起こすのは、以前の社会に存在した戦争のための機構や戦争のための階級(貴族)の残存物と考えているから、反帝国主義であろう。

以上の経済学的理論と社会学的理論は、帝国主義の現象についてある程度の説明を与えても、すべての説明を与えるものではない。また、国家を侵略した一つの基本的要因を見出してはいるが、それが国家を侵略的にさせる唯一の要因ではない。したがってそれを除去しても、国家が平和的になるとは決まっていない。

おそらく、帝国主義の論者達が帝国主義の原因を求め、(⇒ある一つの原因を見つけると)それを除去すれば平和が訪れると考えたのは、工業化に対する彼等の楽観主義のためであるように思われる。それはコントやスペンサーの場合には明らかであるが、ホブソンの場合もすでに述べたように楽観主義的側面があり、マルクス主義も資本主義が打倒されたあとにユートピアが訪れると考える点において楽観的であろう(レイモン・アロンは「終末論的楽観論」と呼んでいる)。

それゆえ帝国主義論者達は、工業化の与える力をいかに制約するかという、重要な問題を検討せず、その代わりに国家を侵略的なものとする要因をあるものに求め、これを非難し、それが除去されれば平和が訪れると考えた。この誤りは通俗化された帝国主義論の場合に甚だしい。その偏狭な楽観主義は、人々をしてある特定の戦争原因の除去に奮い立たせ、平和の名において戦争を行う危険性を帯びている。資本主義に戦争の原因を求める理論を、現在の世界に単純かつ偏狭に適用するならば、資本主義の原因を除去するために戦争が起こることは明らかである。

アメリカの理論家ロストウ  が、共産主義を、古い伝統的社会から工業化社会に移行する過程にある社会が一時的にかかりやすい病気と定義するとき、そこには楽観主義が作用している。そして、低開発諸国をその病気から守る必要を力説することは、アメリカをして「聖戦」を行わせることになるであろう。

平和国家の現実

われわれは近代史において平和国家であることを自認して出発した国家が、国際政治の権力闘争の風に当たるにつれて、他と異なることのない国家に転じていった例を3回経験している。アメリカの建国、フランス革命、ロシア革命である。今日世界最強の軍備を持っているアメリカの体制を平和的と言い切ることは出来ない。フランス国民はナポレオンの征服に興奮し、これを讃えた。ソ連の外交政策は社会主義国の平和的な性格を信ずる人々に幻滅を与える歴史であった。

アメリカは権力政治が盛んに行われているヨーロッパとは無関係の、新しい、平和な国家として出発した。彼等の多くは、アメリカが民主主義体制という平和な体制であることに、平和な国家である理由を求めた。しかし、民主主義とヨーロッパからの孤立の因果関係は逆であった。権力政治に参加しなかったから、弱い政府と常備軍で済ますことが出来たのだ。

フランス革命では、戦争は王や貴族達がするもので、革命によって戦争と平和の問題を人民自らが決する政治体制を創ったのだからフランスは平和国家になったと考えた。しかし、オーストリアやプロシャなどが、フランス革命に介入したことは事情を一変させた。カルノー  (1753-1823)は徴兵制を考え出して実現し史上初の徴兵制度を生み出した。

ロシア革命で成立したソ連も、理念的に考えられた社会主義の平和的な性格がどのようなものであれ、現実の社会主義体制は各国家の抗争の中に生きる国家であった。ソ連は干渉戦争に始まる各国との抗争の中に生きなくてはならず、その必要はスターリンの独裁体制を過酷ならしめた。国際政治政策は、通常の国家と何ら変わることはなく、社会主義国の平和的な性格を心から信ずる人々に幻滅を与えることになった。独ソ不可侵条約とハンガリー革命の鎮圧は、そのもっとも大きなものにすぎない。

昔から外交について、二つの異なったイメージが作り出されてきた。一つは「大使とは、嘘をつくために送り出されてきた正直な人間」(策略型)、もう一つは「相互の利益の発見こそ外交の常道」(調和型)。策略型の外交は、東ローマ帝国とイタリア都市国家において行われ、ヨーロッパ国家体系の初期にも用いられた。それはすべて、非常な混乱の時期であった。

ヨーロッパの外交は策略型から調和型に変わっていった。東ローマ帝国の外交の相手が異なった文明であったのに対し、ヨーロッパ諸国が同一の文明によってつながれていたことは決定的な重要性を持っていた。このような状況では、恒常的な利益の方が一時的な利益よりも重要であり、またそれを重んずることが出来るからである。

混乱した国際政治の状況は、策略型の外交を必要とするが、その策略型の外交が混乱をいっそうひどくし、悪循環がもたらされる。昔から、すべての独裁者は外国の脅威を理由にその国内の権力の増大を図ってきた。そしてこの権力の増大が今度は他の諸国に脅威を与え、対抗措置をとらせ、その結果、外国の脅威が現実化することになって、再び独裁者はその権力の増大を行うという循環が成立することになる。

「悪は弱さから生まれる」

こうして、国際政治の状況と各国家の外交の性格の間の循環を、いかに良い方に向けるかということが、基本的な課題であることがわかった。その第一の条件は各国家の国内体制だろう。国家を平和なものにし、国際社会を秩序あるものとする国内体制について、楽観論や決定論を拒否して考察した18世紀の思想家たちの考え方は重要な示唆を与えている。

「いっさいの悪は弱いことから生ずるものだ。子供は弱くなければ悪くない、強くしてやれば善くなる。なにごとでもできる人は決して悪いことをするはずはない」『エミール』。

ルソーは、世界平和は相互に独立してあまり交流を持たない孤立する状況でしか生まれないと説いたが、明らかにこの理想状態は現在の世界では実現しそうもないように見える。しかし、第二章(経済交流と平和)において検討したように、経済交流における相互依存関係が支配従属関係へと変わる危険な側面や、南北問題における解決の要点が独立性の回復や維持にあること、を考えると、ルソーの理想境はがぜん現実味を帯びてくる。

相互依存と独立は矛盾しないのである(⇒相互依存と独立が矛盾するから主権国家同士が平和共存出来ないのだ。その根底にあるのは、ルソーの思想を引いて言えば、自尊心=欲望=エゴイズム)。だが、そのためには独立を保つ力は制約されたものでなければならない。

カントは、永遠平和のための第一確定条件として「各国家における公民的体制は共和的でなければならない」と述べている。カントの言う共和制 とは、誰が政治権力を持つかではなく、権力の行使の仕方、統治の方式に関する区別であり、専制の対極として政治権力の行使が制限されているものである。

カントは民主政治において多数の専制が起こることを認識していたので、世論の機能について単純な楽観主義など持っていなかった。世論の力への盲信は、後世の通俗化によって起こったのである。国際機構に意味を与える国家体制が、世論の力が強い国家ではなく、その権力が制約されている国家であることは、第三章で分析したように明らかである。

一章から三章を通しての検討から、平和的な国家の条件について次のような三つの教訓が導かれるだろう。

平和な国家は、その独立性を守るだけの力を持っていなければならないが、その軍備によって国家が軍国主義化されていてはならないし、その軍備を十分に規制することが出来なくてはならない。

経済的に言えば、他国に支配されざるをえない国家も、他国を支配しなければならない国家も、ともに平和な国家ではない。

国家の権力は制約されていなければならず、言論の自由の欠如、多数の専制、ある理念への狂信などは、国家権力の制約を著しく困難にするものとして退けられなくてはならない。

上記基準は行動指針を与えはするが、今まで述べてきたように、それだけを実現しようとしてもできるものではない、混乱した国際政治の状況においてどう生きるかという問題が残っているのである。


Ⅱ 現実への対処

国家の行動準則の欠如

現代の国際政治状況は混乱し、計り知れぬほど大きな困難を各国家に投げかけている。それは、邪悪な国家が存在するからでも人々の道徳が堕落したからでもなく、他の国がいかなる行動様式をとるかを理解できないか、あるいは信用できないからである。その理由は、国家の行動準則の欠如にある。

安定した国際政治の状況には、各国の行動を規律する準則が存在する。国際法はそのもっとも代表的なものである。国際法が強制力を背景にした明確な法規でないことは否定しえないが、各国の行動に一つの基準を与えてきたこともまた事実である。

近代国家体系における「国境」という規定および「内政不介入」という原則は、一体となって、各国の行動様式を大きく規律していた基本的な基準である。近代国家体系を構成する主権国家は「自己の領土において臣民 を現実に拘束する力」をもち、国境は国家の主権が及ぶ範囲を規定する。国境の確定は内政不介入原則に基礎を与え、国家間の権力闘争は自国領土の拡張という形をとり、国家間の権力闘争の結果は条約によって承認された国境線となって現れ、国家間の武力衝突は政府機関同士の行動となって現れる。

戦争法規は全体として戦争行為を国家間の権力闘争の手段として認めながら、それを制約するという考えの上に立脚している。例えば中立という制度は戦争法規の代表的なものであり、戦闘行為が及ぶ範囲を限定するという機能を持っている。

戦争規定は強制力によって保証されていないが、それを破ることが損害を受ける場合には、各国家の行動準則となった。しかし、現在はこうした準則が国際政治の現実とかけ離れたものになり、守ることが極めて困難になった。したがって、各国家の行動を導くものとしては不十分なものになってしまった。

例えば、ミサイル戦争やゲリラ戦などの全体戦争(⇒総力戦)においては、戦闘員と非戦闘員の区別が不可能なので、戦争行為を制限する法規を守ることが極めて難しく、さらに、準則に違反することによって法外な利益さえ得られるからである。また、自衛戦争と国連憲章の要求する軍事行動以外を非合法化するという現在の態度は正しいと考えた場合には、多くの戦争行為を現実には法の支配の外に置くことになることも否定できなくなる。

国境線の確定と内政不干渉の原則は、現在の国家間の権力闘争に枠組みを与えることが出来なくなった、と言うこともできる。言葉の厳密な意味において、内政不介入ということは行えないことだからである。そのことは、第一次世界大戦におけるドイツの敗戦が劇的に示している。ドイツが領土の中に敵軍を入れなかったにもかかわらず敗れた、その一因は経済封鎖であり、もう一つは宣伝戦だった。

現代の国家は、自国の領土を越えて経済関係を設定してこれに依存しているから、経済力を利用して他国の内政に大きく介入することが可能である。さらに自由主義と共産主義という異なった正義の体系の存在は、政府の正当性について対立する二つの基準が存在することであるから、主権国家間の武力紛争と内戦や革命戦争の区別を曖昧にし、内政不干渉の原則を無効にする。これらのことによって、近代国家体系における国家の行動様式の準則を示してきた国際法は、その基礎から揺るがされている。

現実主義の立場

国際社会が、正義と力が対立して混乱状況に直面した場合、人々の態度は二つに分かれる。一つは、この混乱状態を直接に直そうとするものである。この考え方が、ある大国の力と結びつかない場合には、国際連合や国際法を強化する考え方となる。しかし、それは不可能なことだけではなく、望ましくもないことはすでに述べたとおりである。

したがって、可能であるのはこの混乱状態を間接的直すことだけであり、その方法はすでに論じてきた。その最も代表的な方法は、状況を凍結することである。状況の凍結は対立の原因そのもの、すなわち国家の行動を規律する準則がないことを除去しようとすることを断念することから始まる。そして、国家間の対立を、あたかも単純な力の闘争であるかのように考え、対処していく。

このような現実主義は、異なった正義の対立という、国際政治の本質に根ざす困難の認識に根ざしでおり、権力闘争に対処することだけに満足しているものではないが、権力闘争を離れて直接に対立を解決しようとすることが不可能であるだけでなく、かえって望ましくないことを認識しているがゆえの立場を選ぶのである。

力の闘争の現状を凍結するという考え方は、少なくとも米ソ対立の場合は有効に働いた。すでに述べたように、米ソ両国が両国の勢力の境界線を力で変えることが出来ないのを知ったとき、米ソ間の緊張は徐々に緩和し始めたのであった。そのようなことが過去においても起こったことは、18世紀の国際法学者ヴァッテル(1714-1767)の言葉 が示している。チャーチルの言葉 も同じような考え方の上に立って、冷戦の始まりに当たって、境界線の固定化に努力することを説いている。

事態の凍結はほんの第一歩である。この方法は国際政治の状況をよい方向への循環に変えることは出来ない。それどころか、例えば封じ込め政策のように、事態の凍結を図る手段自身が策略型の外交である場合には、その行い方によっては悪循環をひきおこす。そうならないように、凍結という考え方には国際秩序への志向は必要なのだ。

国際間の権力闘争への対処は第一歩にすぎない。やがては対立を解決することが出来るという希望が存在しなくてはならない。現実主義は絶望からでた権力政治のすすめではなく、問題の困難さの認識の上に立った謙虚な叡智なのである。

この点についての例証として、あらゆる武力行使が起こったときの解決策に「旧状復帰」という考え方がある。それは事態の凍結という態度と共通するもので、国際連合などでだいたい慣行のようになってきている。この原則は、この原則が次第に国際社会における国家の行動準則として定着するであろうことを希望しており、対立の原因はやがて別の手段で解決されるようになるという希望を保持し、つまり、権力闘争に対処しながら、その対処の仕方において、国家の行動準則を形成する方向に動くことが必要であることを認めている。それは国際法や国際連合を、国際政治の状況と各国の外交の型のあいだの循環をよい方向に向ける弁や、ポンプの役割を果たすものとして、高く評価するのである。ただ現在は、それらにすべてを託することが出来るほどは強くないのである。

したがって残された道は、各国が自己の理念(⇒価値観)と利益(⇒経済)を守りながら、その行動(⇒対処療法)をつうじて国際法を作り、国際連合の権威(⇒国家が自律的に従う力)を高めていくことしかない。現在のように国際法の規制力が弱く、国際連合の権威に挑戦することが容易であるときには、ある国家は自国の国家目的を追求するに際して、法外な方法によって法外な利益をうることが出来るかもしれない。しかし、それは明らかに悪循環を起こす行為である。

現在の政治家は、その国の国家目的を追求するに当たって悪循環を起こさないような選択をとること、出来れば、よい循環を起こすような選択をとることを要請されている。それは、力と利益の考慮によって動く現実主義者にも要請されている最小限の道徳的要請なのである、

絶望と希望

国際政治に直面する人々は、しばしばこの最低限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある、しかし、彼は絶望してはならないのである。昔から人々はこのジレンマに悩んできた。

例えばソ連との冷戦という困難な状況にあって、アメリカの外交を立案したジョージ・ケナン は、異なった正義の大系を持つ巨大な国家ソ連に、なんとか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決しえない対立であった。彼は出来ることしながら、すぐには出来ないことが、いつかはできるようになることを希望したのであった。ケナンは深く愛読したチェーホフ(1860-1904)の作品の中で、特に短編『往診中の一事件』を好んだ。著者は最後にこのチェーホフの短編の一部 を引用した後、以下のように結んでいる。戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力し続けなくてはならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間のつとめなのである。

おわり


2022年8月13日土曜日

エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書kindle版2022/3/23 大野舞訳 抜粋)

夢香
この文章は、『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書kindle版 大野舞訳)に収録されている、エマニュエル・トッドの四篇の著作のうちの「第一篇 第三次世界大戦はもう始まっている(2022/3/23収録)」の要約です。(⇒ )は私の補足。

⚫印は、本文の見出し

第一篇 第三次世界大戦はもう始まっている

⚫”冷酷な歴史家”として

 戦争の悲惨な映像を目にするのは一人の人間として耐えがたいが、本書は”冷酷な歴史家”として書いたものであることを理解してほしい。

⚫『戦争の責任は米国とNATOにある』

 ロシアによるウクライナ侵攻の戦争について、感情に流れているように見えるヨーロッパとは異なって、アメリカでは地政学的視点からも論じられている。その代表格、シカゴ大学教授の国際政治学者ジョン・ミアシャイマーは「戦争の責任は米国とNATOにある、なぜなら、ウクライナのNATO入りは絶対に許さないとロシアは明確に警告を発してきたのにもかかわらず、アメリカとNATOがこれを無視したからだ」と述べている(著者も同感だと)。

⚫ウクライナはNATOの“事実上”の加盟国だった

 ジョン・ミアシャイマーはもう一つの重要な指摘をしている。「ウクライナのNATO加盟、つまりNATOがロシア国境まで拡大することは、ロシアにとっては、生存に関わる『死活問題』であり、そのことをロシアは我々に対してくり返し強調してきた」と。私はこの点にも同意するとともに、ヨーロッパを戦場にしたアメリカに怒りを覚える。

⚫ミュンヘン会談よりキューバ危機

 西側メディアでは「ウクライナ問題でプーチンと交渉し、妥協することは、融和的態度で結局ヒトラーの暴走を許した1938年のミュンヘン会談の二の舞になる」と日々語られている。しかしミアシャイマーは、歴史のアナロジーで言えば「ミュンヘン会議」より1962年の「キューバ危機」になぞらえるべきだと言い、それには、冷戦終結後の歴史を振り返る必要があると説いている。

⚫『NATOは東方に拡大しない』という約束

 冷戦後、NATOはロシアに対して「東方に拡大しない」と約束したが、この約束は破られた。画期は二つあった。一つ目は1999年、ポーランド、ハンガリー、チェコのNATOへの加盟。二つ目は2004年、ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、スロベニア、エストニア、ラトビア、リトアニアのNATOへの加盟。この歴史の少し詳しい内容は下記。

・1990年2月9日、アメリカのベーカー国務長官はソ連のゴルバチョフ書記長に「NATOは東方へはインチたりとも拡大しないと保証する」と約束し、翌日には西独のコール首相が「NATOはその活動範囲を広げるべきではないと考える」と伝えた
・2008年4月のブカレストでのNATO首脳会議で「ジョージアとウクライナを将来的にNATOに組み込む」ことが宣言され、その直後、プーチンは緊急記者会議を開き「強力な国際機構が国境を接するということはわが国の安全保障への直接的な脅威とみなされる」と主張した。つまりこの時点でロシアは明確なレッドラインを示して、警告を発した
・2014年2月22日、ウクライナで「ユーロマイダン革命」と呼ばれる親EU派による「クーデター」が発生してヤヌコビッチ政権が倒される
・これを受けて、ロシアはクリミアを編入し、親露派が東部ドンバス地方を実効支配した。それは住民の大部分が、この「クーデター」を認めなかったからだ

⚫ウクライナを「武装化」した米国と英国

 ミアシャイマーは、ロシアの侵攻が始まる前の段階で、すでにウクライナは「米英の衛星国」「NATOの”事実上”の加盟国」になっていた、と指摘している。実際、米英はすでに大量の兵器を送り、軍事顧問団を派遣し「ウクライナ」を武装化していた。

⚫「手遅れになる前にウクライナ軍を破壊する」が目的だった

 ロシアにとって、クリミアとドンバス地方をウクライナが奪還することは看過できないことだった。ロシアがウクライナに侵攻した目的は、それか可能になる前にウクライナ軍を破壊することだった。

⚫ウクライナ軍が抵抗するほど戦争は激化

 ミアシャイマーは、ウクライナ軍の成功の一つ一つが、ロシアにとって「生存をかけた問題」であるこの戦争を、より暴力的な方向へと向かわせると述べているが、私も同感だ。

 マリウポリが見せしめのように攻撃されていたのは、「アゾフ大隊」の発祥地だからだ。つまり、「アゾフ大隊」は、 2014年に白人至上主義思想の外国人義勇兵も含めた民兵組織として発足したネオナチ極右勢力なのである(文春編集部注:日本の公安調査庁も「ネオナチ組織がアゾフ大隊を結成した」としていたが、現在はHPから削除されている)。

 プーチンの言う「非ナチ化」とは、「アゾフ大隊」を叩き潰すという意味だ。

⚫米国にとっても「死活問題」に

 ミアシャイマーは「ロシアはアメリカやNATOよりも決然たる態度でこの戦争に臨むので、いかなる犠牲を払ってでもロシアが勝利するだろう」と結論する。しかし、私は、この問題はアメリカにとっても「死活問題」となるから、ロシアの勝利はないと考える。

 アメリカにとって「死活問題」となる理由は、もしロシアが勝利するようなことがあれば、アメリカ主導の国際秩序や世界経済システム全体が崩壊する可能性があるからだ。

⚫我々はすでに第三次世界大戦に突入した

 ウクライナ問題は、元来はソ連崩壊後の国境の修正という「ローカルな問題」だった。しかし、冷戦後のアメリカの対ロシア戦略は「グローバル化=世界戦争化」という結果をもたらしてしまった。アメリカの地政学的思考を代表するポーランド出身のズビグネフ・ブレジンスキーは、「ウクライナなしではロシアは帝国になれない」と述べている(邦訳『地政学で世界を読む---21世紀のユーラシア覇権ゲーム』日経ビジネス文庫)。著者は「我々はすでに第三次世界大戦に突入した」と言う。

⚫ 「20世紀最大の地政学的大参事」

 プーチンが「20世紀最大の地政学的大惨事」と呼んでいる事態は次のようなことだ。「共産主義体制の終焉」と「(ソ連という)国家の解体」という二重の意味を持っていた「ソ連崩壊」は、直後の「無政府状態」がために、ソ連時代に人工的に作られた国境がそのまま尊重される結果となったこと。

 (⇒補足すれば、西側諸国が、下記ような事実を評価しないばかりか、ロシアという民族・国家を貶めているというプーチンの意識があるのだろう)

・ロシアは、人類史上最も強固な全体主義体制を自らの手で打倒した
・東欧の衛星国の独立を受け入れ、ソ連の解体も受け入れた
・バルト諸国、カフカスや中央アジアの諸共和国の独立も平和裏に受け入れた
・「スラブ」民族の核心部である「広義のロシア」、つまりロシア(大ロシア)、ベルラーシ(白ロシア)、ウクライナ(小ロシア)、の分裂すらも受け入れた。つまり、ベルラーシとウクライナが分離独立した

 ロシアによるクリミア編入もドンバス地方における親露派実効支配の支援も、「人民自決権」に照らせば、それなりの正当性を持っている。しかし西側諸国においては、「とんでもなく忌まわしいこと」とみなされている。

⚫ 冷戦後の米ロ関係

 冷戦後のロシアは「西側諸国との共存」を目指したけれども、国家経済面においても軍事面においても、ロシア人はアメリカを中心とする西欧に裏切られた。

 ソ連崩壊直後、欧米は新自由主義者の助言者を送り込み、1990年から1999年までの間、アメリカ人顧問の助けを借りて経済自由化の乱暴な企てが推進されたが、ロシア経済と国家を破綻させただけだった。そのため、ロシアがプーチン主導で経済的に立ち直るのに、多大な努力を要した。

 アメリカは「NATOは東方に拡大しない」という約束は守らず、結局、ロシアを軍事的にも囲い込んだ。軍事的緊張を高めてきたのはロシアではなくNATOの方だった。

⚫ 戦争前の各国の思惑

 ソ連崩壊後のアメリカの思惑は、ロシアをアメリカに対抗できない従属的な地位に追いやることであり、そのためにウクライナを西側に引き入れることが効果的だと考えていた。一方、ロシアの思惑は、アメリカに対抗できる大国としての地位を維持することであり、ウクライナがロシアから引き離されることは、自国の死活問題と考えていた。

 ロシアが明確に示したレッドラインがアメリカを中心とする西側諸国から無視され続けている状況下において、アメリカとイギリスによるウクライナの「武装化」がこれ以上進み、軍事的にもロシアから引き離されることを恐れたロシアはウクライナへの侵攻を決断した。

 今の状況は、「強いロシアが弱いウクライナを攻撃している」と見ることができるが、地政学的により大きく捉えれば「弱いロシアが強いアメリカを攻撃している」と見ることもできる。

⚫ 超大国は一つだけより二つ以上ある方がいい

 一つの国家が、誰もブレーキをかけられない状態で世界全体に絶対的な支配力を及ぼすのが、よいことであるはずはない。超大国は一つだけより二つ以上ある方が、世界の均衡が取れるのだ。冷戦の勝利に酔うアメリカが、「全世界の支配者」として君臨するのを阻止できる唯一の存在は、ロシアだった。

 2003年、イラクに対してアメリカが独善的に行動したときも、”西側の自由な空間の保全”に貢献したのはロシアだったし、スノーデンをあえて受け入れることで”西洋の市民の自由の擁護”に貢献したのもロシアだった。そのことにわれわれは感謝すべきだ。

 第二次世界大戦で、ソ連は2000万人以上犠牲を出しナチスドイツの悪夢からヨーロッパを開放することに貢献した。だが、冷戦後の西側の振る舞いはその歴史を忘れたかのようだ。

 それどころか、ロシアが回復に向かうにつれて「ロシア嫌い(ロシア恐怖症)」の感情が強まり、プーチン率いるロシアの権威主義的民主主義体制が、それ自体として憎しみの対象となったことには唖然とする。

⚫起きてしまった事態に皆が驚いた

 注目すべきは、第一次世界大戦の時のように、実際に戦争が始まってしまった事態に皆が驚いたことだ(⇒想定外のことが起こっていること自体が注目に値する、と)。

 ウクライナ人は「アメリカやイギリスが自分たちを守ってくれる」と思っていたのに、そこまでではなかったと驚いているはずだ。

 米英の軍事顧問団はポーランドに逃げてしまい、ウクライナ人は大量の武器を手にしつつも単独でロシアと戦っている。要するに、アメリカとイギリスはウクライナ人を”人間の盾”にしてロシアと戦っているのだ。

 現在は、米国とウクライナは固い絆で結ばれているように見える。だが、長期的に見て、この”裏切り”によってウクライナ人の反米感情が高まる可能性は否定できない。

⚫米国の誤算

 アメリカの戦略家達の文献からは、彼等が真面目に考えているのかどうかが分からなくなる。だが、「戦争がアメリカ文化の一部になっている」ことはみえてくる。アメリカは第二次世界大戦後も常に戦争をしてきた。アメリカには「他国を侵略することも普通のことだ」と考える基盤がある。

 アメリカがこれまで行ってきた戦争の相手は弱小国だったが、今回は大国ロシアが事実上アメリカを敵に回している。アメリカは、プーチンがここまでの決断をして大規模にウクライナに侵攻し、アメリカ主導の国際秩序に正面から刃向かうとは思っていなかっただろう。

 アメリカの外交は、現在、混乱を極めている。一月前には「最大の敵」であったはずの中国に急遽協力を依頼し、厳しい制裁を科していたベネゼエラとの関係改善を急ぐなど、アメリカの動揺が窺える。

⚫ロシアにとっても予想外

 ロシアは、西欧諸国、とくにヨーロッパがこれほど強硬に出るとは予想してなかったはずだ。ロシアのエネルギー資源に依存するヨーロッパ(特にEUの中心であるドイツ)は、ウクライナ侵攻問題に本格的には介入できない、とロシアは考えていたはずだ。

 ロシアは軍事的にも自信を深めていた。軍事技術においてアメリカに対して一定の優位に立っているだけでなく、「アメリカ軍の真の実力」には疑問符がついているからだ。「空母キラー」と呼ばれる超音速ミサイル分野では、アメリカに4年は先んじていると言われているし、そのそも「空母」も時代遅れの代物である可能性が高い。また、ステルス機F35の実践での有効性にも疑問がある。さらにロシアは核大国なのだ。

⚫共同体家族のロシアと核家族のウクライナ

 ロシアの最大の誤算は、ウクライナ社会の抵抗力を見誤ったところだ。人類学から見れば、ウクライナとロシアは異なる社会で、私の専門領域である家族システムで言うと、ロシアは「共同体家族」社会である。一方、ウクライナは「核家族」社会なのだ(データは断片的だが、19世紀の歴史家アナトール・ルロア=ボーリューの『ロシア皇帝の帝国』(1897年~1898年)の描写を読めば、そのことが分かる)。

 共同体家族社会は、平等概念を重んじる、秩序だった権威主義的な社会で、集団行動を得意とする。こうした文化が共産主義を受け入れ、現在のプーチン大統領が率いる「ロシアの権威主義的民主主義」の土台となっている。だから西側メディアが、「戦争を引き起こした狂った独裁者」としてプーチン一人を名指しして糾弾するのは端的に言って間違っている。

 だから、プーチンが「ロシア人とウクライナ人の一体性」を言い、ウクライナ人が「自分たちはロシア人と違う」と言うのは筋が通っている。プーチンのような人物が権力の頂点にいるのは、ロシア社会自身が、彼のような権威主義的な指導者を求めているからだ。

 他方、少なくとも中部ウクライナ社会(「小ロシア」地域)は核家族社会だったから、英・仏・米のような自由民主主義的な国家に見られる家族システムであり、その点を取り出せば”西側の国”と見ることも出来る。

⚫『国家』として存在していなかったウクライナ

 「民主主義」が成立するには、まず「国家」が建設されていなくてはならない。また、民主主義は「強い国家」なしには機能しない。個人主義だけではアナーキーとなって、民主主義は機能しない。ところが、現在のウクライナと言う地域には、「西部」「中部」「南部・東部」の三つの非常に異なる地域があって、ソ連が成立するまで、そこには「国家」が存在しなかった(⇒ソ連成立後、ウクライナとベルラーシはロシア連邦とは区別されて国際連合に加入しているが、実質ソ連の傘下にあって、国家とは言えない)

 「西部」はリヴィウを含む地域で、「ユニアト信徒(ウルライナ東方カトリック教会の信徒。儀式は東方典礼を受け継ぎつつもローマ教皇の首位権を認める)ウクライナ人」が住んでいて、ロシアからは、ほぼポーランドとみなされている地域。

 「中部」はキエフ《地名変更「→キーウ」》からドニプロより少し先まで広がる「小ロシア」と呼ばれる地域で、「ギリシャ正教のウクライナ人」が住んでいる地域。ここは、ウクライナ語を話し、核家族構造が見られる言わば”真のウクライナ”。

 「南部・東部」は黒海沿岸地域とドンバス地方からなる、プーチンが歴史に倣って「ノヴォロシア(新ロシア)」と呼んでいる、ロシア語で話すロシア系住民が住んでいる地域。

⚫『親EU派』とは『ネオナチ』

 2014年の「ユーロマイダン革命」(ヤヌコビッチ政権を、プーチンに言わせれば違法に倒したクーデター)を最も積極的に指導したのは、「新EU派」と西側メディで好意的に報じられている勢力だが、実はウクライナの極右勢力だ。この勢力は西部ウクライナにおいて最も盛んであり、かってナチスドイツ側についた歴史を持つ「ネオナチ」だ。

 中部ウクライナの人々はロシアに対して警戒感を持ちながら、西部ウクライナ人の極右思想に距離を置いていた。

 クリミアやドンバス地方のロシア系住民は、「ユーロマイダン革命」をクーデターとみなしてこれを認めていない。だから、ロシアは住民投票を経てクリミアと編入し、親露派がドンバス地方を実効支配出来た。

⚫ネオナチと手を組んだヨーロッパ

 2014年2月、ヤヌコビッチ政権が倒される直前にドイツ、フランス、ポーランドの外相がウクライナのキーウに居た。これは、ウクライナの極右勢力とヨーロッパが手を結んだかのような振る舞いであり、この時点でヨーロッパはロシアとの潜在的な紛争状態に入った。

 ヤヌコビッチ政権崩壊以降、ウクライナ東部では、言語的・文化的にロシアに近い住民が攻撃に曝され、これをEUは是認した。この攻撃はおそらく武器を持って実行されたので、プーチンは「ウクライナに居るロシア人の保護」を主張した。

⚫家族構造とイデオロギーの一致

 「人種」「言語」「宗教」以上に、その社会のあり方を根底から規定しているのは、「家族」だ。40年ほど前に立てたこの仮説は『世界の多様性 家族構造と近代性』(日本語訳2008年藤原書店)に纏めてあるが、世界の各地においてこの仮定は有効だ。

 いずれの共産主義革命も、本格的に工業化する以前の「外婚制共同体家族」(父親と妻帯の息子たちが同居する家族)の地域で起きている(⇒ウクライナは共同体家族と異なる核家族)。表題にある「イデオロギー」は「政治経済体制」のこと。

⚫共産主義を生んだロシアの家族構造

 少し前の表題「共同体家族のロシアと核家族のウクライナ」で触れていた、『ロシア皇帝の帝国』(1897年~1898年)を読めば、ロシアは共産主義と親和性を持っているが、少なくともウクライナ中部(小ロシア)はそうではないだろう。

 『ロシア皇帝の帝国』から、ロシア革命以前のロシア農村社会の描写に関して著者が引用した部分の要点を下記した。

・家族は、父や長老の権威のもとにある家父長制の大家族である
・村落共同体は、ミール(自治集会)のもとにある
・家族や村落共同体が、人々を共同体生活に適応しやすいように育成してきた
・ムジク(農民)は仕事を引き受けると、特に村を離れると、すぐにアルテリ(自主的協同組合)をつくる
・アルテリは共産主義的傾向を持ち、連帯を実践する
・アルテリは、組合の自然発生的な形態、ロシア的な形態なのだ
・アルテリは、大家族か小さな共同体のようなもので、平等主義的で、村の親密な関係や家 父長的な風習を工場にもたらしている
・国家は、産業活動をも家父長的なものに保とうとする
・ムジクであれ経営者であれ、あらゆる階層のロシア人は、法律には敬意を払わないが、権威には敬意を払う
・この国では、どんなイニシアチブも上から降ってくることに慣れている
・この国が、ある日、国家社会主義の冒険的な道を歩み始め、ヨーロッパの最も民主的な諸国に追いつき、追い越すことがあっても、驚かないだろう

⚫家族構造の違いから生じたホロドモールの惨劇

 ホロドモールの惨劇は、スターリンが農業集団化を進めたときに、小ロシアでは思い通りには行かず、これを強行する過程で抵抗する農民の数百万人が人為的な大飢饉で死んだ史実(1932年~1933年)。(⇒この惨劇の家族社会的背景には次のような状況があった)

・ロシア人はウクライナ人を「少し劣ったロシア人」とみているところがある
・ピラミッド型社会のロシア人からすると、ウクライナ人は「自分勝手で、アナーキーで、ポーランド人みたいだ」とみえる
・外婚制共同体家族のロシア社会では、行き過ぎた個人主義には、おのずと抵抗を覚える
・帝政時代のロシア貴族は、長男を優遇する長子相続制を拒んでいる

⚫ボリシェヴィズムが初期から定着したラトビアの家族構造

 「外婚制共同体家族」と「共産主義」の一致は、ロシアの外でも確認できる。

・「外婚制共同体家族」のバルト三国は、ロシア革命に積極的に関わった
・ラトビアは1917年10月のクーデターで決定的な役割を果たし、レーニンの全幅の信頼を得、さらに共産党の政治警察の創設にラトビア人活動家が積極的に関与した
・1917年時点でのバルト三国におけるボルシェヴィズムの勢力は、その選挙結果から、家族構造に埋め込まれた共同体主義を見事に反映していた

⚫「ヨーロッパ最後の独裁者」を擁するベルラーシの家族構造

 ベルラーシ(白ロシア)のルカシェンコ大統領はヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれている。ベルラーシも外婚制共同体家族であり、1917年時点でボルシェヴィズムが活発であった地域で、今日ではロシア(大ロシア)以上に「権威主義体制」に執着している。

⚫「近代化の波」は常にロシアからやって来た

 ウクライナは、歴史的、社会学的にまとまりを欠いた地域で、なんらかの重要な近代化現象がここから生まれたことはなかった。

 16世紀から20世紀にかけて、ウクライナにとっての「近代化の波」は、何れもロシアから来た。「共産主義」も「共産主義の打倒」と「改革の波」も、モスクワで発生した動きが、先ずはロシア語でウクライナ各地に伝播していった。

 ウクライナは、ロシアという”中心”に対して、常に”周辺”として「保守的」な態度を示してきた。1917年から1918年にかけては、「反ボルシェヴィキ的」かつ「反ユダヤ主義的」な態度をとり、1990年以降はロシアより強い「スターリニズムへの執着」が見られる。

 ウクライナは「独自の推進力」を持っていないために、自らの独自性を主張し且つロシアから逃れるには、別の勢力の支配下に入る必要性が出てくることになる。アメリカやヨーロッパに近づいたのはそれが理由だった。

 ところが、ウクライナが地理的に西に位置し文化的にも西側近いと親近感を抱いて来た西側諸国は、1991年にウクライナが独立したことが持つ主たる意味を見誤まった。つまり、「モスクワとサンクトペテルブルグで進んでいる民主主義革命からウクライナが切り離された」ことを西側諸国は理解できなかったのだ。

⚫国家建設に成功したロシアと失敗したウクライナ

 ロシアは1990年代に危機の時代を迎えたが、国家の再建に成功した。それは「国家に依存する秩序」という伝統があったからだ。「国家によって完全に制御された軍隊」の再建にも成功した。

 ウクライナは、独立から30年以上経過しても十分に機能する国家を建設できていない。それは「国家」という伝統がなかったからでだ。軍隊も、アメリカやイギリスの支援なしには再組織化できなかった。

 ウクライナが国家建設に失敗したことに関しては、アメリカ以上に西欧諸国に重い責任がある。ドイツを始めとして西欧諸国は、ソ連時代の遺産としての高い教育水準を持ったウクライナから「安価で良質な労働力」を吸い寄せてきた。その結果、ウクライナは独立以来人口の15%を失って5200万人から4500万人に激減した。しかも本来ならば国家建設を担うべき優秀な若者が、よりよい人生をもとめて国外に出てしまった。ロシアの侵攻が始まる前から、ウクライナは破綻国家と呼べる状態だった。

⚫プーチンの誤算

 おそらくプーチンとしては、「母なるロシア」に回帰させることで、「破綻国家」である「小ロシア(ウクライナ)」の秩序を立て直そうとしたのだろう。しかし、回帰どころか「反ロシア」の感情がウクライナ社会を方向付ける一つの存在様式になってしまった。これが、ウクライナに侵攻したプーチン最大の誤算と言える。

 現在ウクライナの人々は、「自分の国のために死ぬことも出来る」と見られているが、この戦争が、ウクライナの人々に「国として生きる意味」を見出させたと言えるかもしれない。ウクライナで起きている事態は、全く新しいタイプの歴史的変動で、今後何十年もかけて深く分析されるべきだ。

⚫ロシアはすでに実質的に勝利している

 ロシアが奪った土地は、すでにウクライナ領土の20%から25%で、しかもこの地域にはウクライナ産業30%から40%もある。過去のヨーロッパの戦争と比較しても、今回のロシアの「戦果」は、ルイ14世やフリードリッヒ二世のそれより大きい程だから、西側メディアの報道とは異なり、ロシアはすでに実質的に勝利している。

 今後、手に入れたロシア語圏地域をロシアがどう制御していくのかという問題が生じるだろう。すでにウクライナの人々のアイデンティティーに組み込まれている「反ロシア」感情が残るだろうし、そのことは、プーチンがネオナチと呼んでいるウクライナの極右勢力であるアゾフ大隊にも多くのロシア語話者も加わっている事実によっても裏付けられる。

 それ以上に問題とすべきことは、今後「反アメリカ感情」が生まれてくるかどうかだ。アメリカはウクライナを裏切り、ウクライナを”人間の盾”としてロシアと戦っているからだ。

⚫西欧の誤算

 ロシアの侵攻は、特にドイツとフランスにとっては誤算だった。イギリスと違って、事前にロシアの侵攻を察知しておらず「まだ交渉は可能だ」と考えていたからだ。さらに、ウクライナのNATO加盟がロシアにとって「死活問題」であること、アメリカとイギリスによるウクライナ軍の武装化の程度について、十分な認識を持っていなかったからだ。

 西欧の人々は、まさかヨーロッパで戦争が起きるとは思っていなかった。現在の「ヨーロッパ人」は”戦争は遠い過去のこと”にしたがっているからだ。戦争が始まったとき、私は「ウクライナ人がヨーロッパ人なら、武器を持って戦わない」と思った。だから、ウクライナ人はヨーロッパ人ではなく「ロシア人」であったのであり、この戦争が暴力的な側面を見せているのは、”旧ソ連圏の内戦”、しかもアメリカとイギリスの支援による”内戦”なのだ。

⚫欺瞞に満ちた西欧の”道徳的態度”

 暴力的な軍事攻撃に対して、ロシアを糾弾するヨーロッパの”道徳的態度”は自然なリアクションだ。しかし、ヨーロッパの行動は無責任で欺瞞に満ちている。欺瞞の例は下記。

・最後の一人がロシア軍によって殺されるまでウクライナに武器を供給し続けること
・ロシアの天然ガスの供給路を確保しながら、つまりロシアの戦争に出資しながらロシアに経済制裁を科すこと

⚫オルガルヒへの経済制裁は無意味

 ロシアは、国家が全てをコントロールする中央集権国家だから、新興財閥オルガルヒは政治権力を持っていない。プーチンと”その取り巻き”に無用な制裁を科すことは、必要な交渉を困難にし、戦争を更に深刻化させるだけだから、無責任な行為だ。

 ロシアの残忍さを糾弾し、プーチンと”その取り巻き”を「戦争犯罪人」と名指しするのは、ヨーロッパ人が無力だからであり、自分の卑劣さを隠そうとしているからだ。

 「戦争」は醜く卑劣なものだ。アメリカはイラクに対して、まともな理由なくして戦争を始め、ロシアがウクライナでしている以上に醜悪な行為をしてきた。

⚫「ロシア恐怖症」

 ヨーロッパ人のロシア嫌い、つまり「ロシア恐怖症」は、「ロシアの問題」ではなく「ヨーロッパ自身の問題」だ。無意味になりつつある「ヨーロッパ」という政治的・通貨的なまとまりを無理に維持するために、「ロシア」という”外敵”を必要としているのだ。

 ヨーロッパ人のロシア嫌いの高まりは、ヨーロッパにとっては損失だが、アメリカにとっては「戦略的成果」だ。ロシアとヨーロッパを引き裂くことが、ブレジンスキーのようなアメリカの地政学者が想定する「国益」に叶うのだ。

⚫暴力の連鎖

 西側メディアは見落としているが、ロシアはソ連崩壊後の混乱から回復し、社会は安定に向かっている。そのことは、人口動態にも明確に表れている。

 私が今恐れているのは、この戦争に対する西側の強硬姿勢がロシアをより暴力的にしてい、「暴力の連鎖」が起こることだ。ソ連時代の暴力性がロシアに戻ることを恐れている。

 西側メディアでは、ロシア軍がウクライナ市民を攻撃し、病院を爆破し、子どもたちを殺す映像が連日流されている。しかし、ここで行われているのは「戦時の情報戦」であることも忘れてはいけない。

 ある国への攻撃は、その国の悪い側面を引き出し、それがその国に対する攻撃を増大するという悪い連鎖を必ず引き起こす。例えば、中東では比較的リベラルで民主的だったイランの体制が、アメリカの厳しい制裁によってむしろ抑圧的なっている。

⚫「消耗戦」が始まる

 事態が落ち着いてくれば誰もが冷静に考え始める。その考えるための要素をいくつか挙げてみる。最初に考えられるのは「消耗戦」の状態になることで、そこでは軍事面より経済面が重要になる。今回の場合は、具体的な注目点は中国がロシアをどれだけ支援するかだ。

⚫中国はロシアを支援する

 「人間は基本的に賢明である」という前提で思考を始めるが、もしアメリカのウクライナにおける軍事行動が成功したら、アメリカは、北朝鮮、台湾、ベトナムに対しても似たような行動を起こすだろうし、ロシアが倒されれば、どんな形にせよ、次に狙われるのは中国だと、中国の指導層は考えているはずだ。だから中国は、公の場ではロシアに交渉を求めながらも、最終的にはロシアを支持すると考えている。

 つい1ヶ月前まで「中国こそ第一の敵」と名指ししていたバイデンが、中国に対して「ロシアへの武器の供給や支援はするな」と脅迫したのは、あまりに滑稽だ。

⚫米国と西側の経済は耐えられるのか

 歴史的に非常に興味深い状況に立ち会っている。というのは、経済的に相互に依存している世界において、ブロックに分割された対立が生じているからだ。例えば、西側諸国が行っているロシアの対外資産凍結は「所有権の否定」だが、これは反資本主義的思想を世界に広めることだ。

 問われるべきは、ウクライナがロシアの侵攻に耐えられるか、ロシアが経済制裁に耐えられるか、ではなくて、「これほどグローバル化した危機に、アメリカと西側はどれほど耐えられるか」なのである。

⚫経済の真の実力はGDPでは測れない

 「付加価値の合計」であるGDPは、第二次大戦後のある時期までは「実際の生産力を測る指標」として意味を持ちえたが、産業構造が変容してくるなかで「次第に「現実を測る指標」としてのリアリティを失っていった。モノではなくサービスの分野では現実から乖離した評価がなされやすい(例えば訴訟の多い米国の弁護士費用のGDPへの計上額)。

⚫ウクライナ相手に貿易赤字だった米国

 アメリカは、いわば「幻想の経済大国」だ。というのは、実物経済の面では世界各地からの供給に全面的に依存していて、軍事と金融面での世界的覇権を握っているのは、むしろこの実物経済を現実として維持するためだからだ。

 ここで2002年の著作『帝国以後』(邦訳 藤原書店)の引用がなされているが省略して結論だけ言えば、アメリカは、ソ連崩壊から間もないウクライナを相手に貿易赤字となるほど、生産力(⇒ウクライナが必要とするモノの)を持たない国だった、ということだ。

⚫経済における「バーチャル」と「リアル」の戦い

 ウクライナ戦争が「グローバル化=世界戦争化」し、さらに「消耗戦」となることで生じつつあるのは、経済における「バーチャル」と「リアル」の対立だ。

 経済における「バーチャル」と「リアル」の対立は、「アメリカ」と「中国・ロシア」の対立とも言えて、これはかっての冷戦とは異なる新事態だ。というのは、経済的な耐久力が問題となる「消耗戦」が、グローバル経済の相互依存の世界で生じているからだ。

⚫対露制裁で欧州は犠牲者に

 これから特に注目すべき点は、ヨーロッパがどう振る舞うかだ。アメリカとロシアの経済的な結びつきは殆ど無いが、ヨーロッパとロシアは経済的相互依存関係にある。ヨーロッパとロシアは、経済協力を大いに進めるべきなのだ。

⚫米国の戦略目標に二重に合致したウクライナ

 冷戦終結後、アメリカは、ロシア問題に関して、下記のような二つの目標を持っていた。ウクライナはこの二つの戦略を同時に達成する地域だった。

・第一は、ロシアの解体
・第二は、冷戦の対立構造を維持し、ユーラシア西部(ヨーロッパとロシア)の統一の阻止

 もう一つの目標がアメリカにはあった。それは自国の経済(消費)を維持するために、世界の富への統制力を確保すること(政治・軍事)。だからアメリカは、世界の人口と経済活動の主要部分を担うユーラシア大陸に戦略的関心を持ち続けた。その結果を一言で表現すると次のようになる。「世界の安定にアメリカが必要、というレトリックが真に言わんとするところは、世界の不安定がアメリカには必要」ということだ。

⚫NATOと日米安保の目的は日独の封じ込め

 NATOや日米安保は、極論すれば、アメリカの支配力を維持するためのもので、「反ロシア」という立場に立つ動機の大部分も、同様だ。

⚫現実から乖離したゼレンスキー演説

 戦線が安定し、事態が収束してくると、ヨーロッパは、自分たちが無駄な犠牲を払っていることに気付くだろう。ゼレンスキーは、「ウクライナの次にロシアに狙われるのはあなたの国だ」と言って、ヨーロッパ諸国を戦争に引き込もうとしているが、実際の戦況は、その主張と正反対だ。

 そもそも、ロシアがウクライナ以外の領土への侵攻を考えているとは、思えない。すでにその人口規模から見て広大すぎる領土を抱え、その保全だけでも手一杯だ。

⚫エストニアとラトビアという例外

 エストニアとラトビアにはロシア系住民が住んでおり、彼等が「二流国民」という扱いを受けている面がある。更にラトビアは、皮肉にも1917年の選挙で、ロシア国内でもっともボルシェヴィキへの投票率が高かった地域だ(⇒つまり、この二つの国に対してロシアが侵攻する動機がある)。

 だが、感情の波が収まった時点で、アメリカとヨーロッパの根本的な利害の違いが現れるだろう。ロシアとの経済的パートナーの代表であるドイツは、この世界大戦の終息のために重要な役割を担うだろうことが期待される(⇒エストニア、ラトビアにロシアが侵攻する場合には尚更、世界大戦終息に向けてドイツが重要な役割を果たすだろう、と)。

⚫予測可能な国と予測不能な国

 西側メディアの報道とは違って、ロシアは一定の戦略(⇒すでに説明したように、防衛戦略として)的合理性に基づいて行動している。ヨーロッパの行動も、中国の「合理的」で「暴力的」な行動も、ある程度予測できる。予測不能なのは、まず、国家機能が十分でないウクライナ。今回の行動には非合理的な無謀な試みが多い(クリミア奪還や給水阻止、ドンバス地方の奪還の試みなど)。

⚫ポーランドの動きに注意せよ

 非合理的な行動で地政学的リスクになりかねないもう一つの国が、ポーランドだ。それは歴史的事実から判断される。

⚫最も予測不能な米国

 最も予測不能で多大なリスクとなり得るのがアメリカの行動だ。プーチンを中心とするロシアとは対象的に、中枢がないからだ。その判断根拠は以下。

・アメリカの”脳内”は、雑多のものが放り込まれた”ポトフ”のようだ
・「ロシアの体制転換」など、無責任で予測不能な失言を繰り返すバイデンの思考は不可解
・トランプも対露外交を展開出来なかった
・アメリカは誰が権力を握っているのか分からない
・思想的には、ミアシャイマーのような冷静な現実主義者がいる一方で、破壊的な対外強硬策を後押ししているビクトリア・ヌーランドのようなネオコン国務次官もいる
・断固たるロシア嫌いのヌーランドは、ウクライナ情勢の担当官で、2014年の「クーデター」にも深く関与したと指揮されている
・「反ロシアの動き」はバイデン以前から始まっていたが、ここにきて攻撃的な反ロシアの"核”(⇒ネオコン達)が一層可視化されている状態になっている
・ネオコン達はロシアの体制、プーチン体制の破棄を望んでいる

(補足:ネオコン=新保守主義。1970年頃から米国で盛んになった政治思想で、国防・安全保障、競争原理に基づく自由市場、キリスト教信仰、伝統的価値観・規律の復活、を重視する。ネオは保守に転向したという蔑視の形容詞だがネオコンの政策は保守的ではない)

⚫「ネオコン一家」ケーガン一族

 ネオコンはブッシュ時代は共和党側だったが、反トランプになった後はヒラリー・クリントンと民主党側に転じている。(⇒以下、最近のアメリカの政策影響を与えているネオコンの例として、ケーガン一族が紹介されている)

・ロバート・ケーガン:ネオコンの代表的論客。国務長官ビクトリア・ヌーランドの夫。「世界の民主主義の行方は、すべてアメリカ軍にかかっている」と妄想している
・フレデリック・ケーガン:ロバート・ケーガンの弟。軍事専門家。
・キンバリー・ケーガン:フレデリック・ケーガンの妻。戦争研究所所長。(⇒戦争研究所は、連日示されている「ロシア侵攻図」作成している)
・ドナルド・ケーガン:ロバート・ケーガンとフレデリック・ケーガンの父。ギリシャ古代史の大家。軍事史の専門家。
・アメリカの「反ロシア」のネオコンの中心部に、皮肉にも「ロシア的家族構造」が見える

 アメリカ地政学のエスタブリッシュメントの世界には、緊張や迷い、そして不確実性が見られる。一方に合理的で現実主義的な傾向があり、他方に直接行動主義的で過激なネオコン的傾向があり、どちらが最終的に主導権を握るのか分からない。暴力的であってもロシアが求めていることは明確である。一方、アメリカが考えていることは一向に見えこないのは世界の安定にとって大きなリスクとなっている。

⚫世界を”戦場”に変える米国

 アフガニスタン、イラク、シリア、ウクライナと、アメリカは軍事介入を繰り返してきた。それは、脅威になる隣国もない世界一の軍事大国だから戦争で間違いを犯してもアメリカ自身は侵攻されるリスクが無いからだ。

 共産主義が崩壊してから、アメリカは世界中で戦争状態を維持させてきた。自ら関わった地域を全て”戦場”に変えた。「戦争」はアメリカの文化やビジネスの一部になっている。

 アメリカは「世界を戦争へと誘う教育」を世界各地で進めているかのようだ。アメリカによる「戦争教育」を受け入れるかどうかこそが問われるべきだ。

⚫米国の”危うさ”は日本にとって最大のリスク

 こうしたアメリカの行動の”危うさ”や”不確かさ”は同盟国日本にとっては最大のリスクだ。当面、日本の安全保障に日米同盟は不可欠だとしても、不必要な戦争に巻き込まれる恐れがある。アメリカの行動の信頼性を吟味する必要がある。

 アメリカに頼り切って良いのかどうという疑いがあるかぎり、日本は核を持つべきだ。日本の核保有は、以前から提案してしたが、その必要性は更に高まっている。そもそも「核とは何か」を改めて冷静に考える必要がある。

⚫核を持つとは国家として自律すること

 核を持たないことは、他国の思惑やその時々の状況という”偶然”に身をまかせることだ。アメリカの行動が”危うさ”を抱えている以上、日本が核を持つことで、アメリカに対して自律することは、世界にとっても望ましい。

 ウクライナの危機は、「核」が「通常戦」を抑止するのではなく、「核」を保有すすことで「通常戦」を行うことが可能なのだという、新たな事態が生じた。日本にとっては、中国がロシアと同じような行動に出るかもしれないという、新たな状況が生まれたのだ。

⚫「核共有」も「核の傘」も幻想にすぎない

 核抑止力が有効であることを前提すれば、「核共有」も「核の傘」も幻想であり、選択肢は自国で核保有するのしないのか以外はない。核の不均衡は、それ自体不安定要因となる。中国に加えて北朝鮮も核保有国になる状況下では、日本の核保有は地域の安定になる。

⚫米国に対する怒り

 日本が抱えるジレンマは、ヨーロッパに対しても問いかけるべきだ。ヨーロッパで壊滅的な政策を進め、ヨーロッパで戦争を始めたアメリカに対して、私は今、怒っており、アメリカに対する敵意は絶対的なものになった。

⚫西洋は「世界」の一部でしかない

 ヨーロッパで起きている戦争のために日本がロシアに制裁を行うのは滑稽だ。西洋が「世界」を代表していとい考えはうぬぼれであり、国連総会での対ロシア決議やG20での議論を見ても、世界の大半の国はロシアの勝利を望んでいるようにも見える。彼等は「西洋の傲慢さ」にうんざりしている。

⚫長期的に見て国益はどこにあるか

 この危機が去った後も、中国とロシアは同じ場所に存在している。見失ってはならないことは「長期的に見て国益はどこにあるか」だ。ロシアと良好な関係を維持することは、地政学的条件を含めてあらゆる面において日本の国益に適う。


2021年3月28日日曜日

磯田道史『感染症の日本史』文春新書kindle版

 

『感染症の日本史』磯田道史著 文春新書kindle

 

ボケ

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が世界的に蔓延して1年ほど経過する。感染症が社会に大きな影響をもたらすことは誰でもそう思っていても、どのくらいなのかについてはなかなか理解されていないと思う。このことについては、ジャレド・ダイヤモンドという人が書いた『銃・病原菌・鉄』を読んだときにナルホドと思ったが、今回は、NHKの歴史番組「英雄達の選択」だったかな、の司会をしている磯田さんが書いた本書を読んでみた。

本書は、学校で習う歴史とは違って、一般人が感染症に罹患した史実を学ぶことによりCOVID-19被害防止に役立てることを目的に書かれている、と冒頭に記されている。つまり、一般人の史実という細部に、一般人に役立つ歴史の内実が宿っていると。磯田さんは歴史家なので、感染症の被害防止に役立てる知恵には医学的(自然科学)なものと、もう一つ歴史的(社会科学)なものがあり、正体のわからないものに対しては後者の知恵を生かすことが大切だ、と述べている。つまり、例えば今回のcovid-19のように、その正体が不明な部分があるときには、科学的証拠を追求するだけでなく、歴史や別の場所(外国とか)での経験を素早く役立てる(真似するとか)ように行動することが大切だと。もっとも、この点については、科学の本質も経験にあるので、covid-19に対する日本政府の対応を批判する根拠としてはちょっと弱い感じ。

採り上げられている史実の出典は、古文書を含めた諸文献と、既出の優れた著作の引用があって、前者は「歴史は細部に宿る」という著者の考えに基づいたお得意の古文書類で、後者は著者の師匠で、数値データを根拠にその背後にある史実を暴き出すことで著名な速水融先生の著作『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店20062月)』を筆頭に、興味ある本が沢山紹介されている。詳細はここでは省略するが、本書の内容の骨子は次のようなものとなる。

日本においても古代から感染症に襲われており、それが社会に甚大な影響をもたらしてきた。その対処法が「おまじない」から急激に合理的なものに変化したのは近世(江戸時代)になってからで、その知恵には当然限りがあるとしても驚くべきものがある。感染防止のためにいろいろな知恵が実際に効果を発揮した理由は、人びとが身につけてきた生活態度に負うところが多く、時の政府(藩レベルでの例外はあったが)の政策ではなかったことは明治時代になってからも同じであった(今でも基本的に同じという感じ)。人命救助と経済政策の両立問題はいつの時代も生じていたが対処方法は時代と地域で違っていた。100年程前に世界的に猛威を揮い、日本でも内地(現代の日本とほぼ同じ領域)だけでも45万人ほどの死者を出したいわゆるスペイン風邪(今は、それがインフルエンザの一種であることが判明している)は特に現代のCOVID-19と関係が深い事例として興味深いものがある。

以下に本書内容の内で、史実を中心として抜粋したものである。尚、データ等の出典名は原則省略してある。


 

 

第一章 人類史上最大の脅威

 

○人類史上の多くの危機の内、頻繁確実にやって来て一番多くの人命を奪ってきたものは感染症の流行であった

 

・火山の破局的噴火は一万年に一回くらいで、生じると世界が破局に至るが同時代の地上で遭遇する確率は1%程度(人生100年で計算すると)。日本の付近での直近では7,300年前に九州の鬼界カルデラで発生した

・大津波は100年に一回ほどだから、同時代の生涯に出くわす頻度は10%レベルで被害想定32万人以上

・ウイルスの「パンデミック」は20世紀以降に限っても、数十年に一度ほどの頻度で頻発し、スペイン風邪(1917年)、アジア風(1957年)、香港風邪(1967年)、新型インフルエンザ(2009年)、その他、エイズ、エボラ出血熱、sarsmersなどもある

・中でも、スペイン風では数年にわたり世界人口の1/21/3が感染し、全人口の35%程が死亡した(5000万人以上)。同時期に起こった第一次世界大戦での死者数は1000万人

・今回のCOVID-1920208月時点での死亡者は80万人を超えている(⇒2021/1/24PM3:00 NHK news web情報では212万人に増えている)。

 

○病原菌(ペスト、コロナ、梅毒などの細菌だけではく、ウイルスも含めて)による感染症の拡大は、歴史的に見れば「 社会的・技術的・経済的 な 革命」 の たび に、また、定住化、都市化、人の交流化が進むたびに増大している

 

・遺伝子解析によると、ヒト型コロナウイルスが初めて発生したのは8000年ほど前らしい(『感染症の世界史』等の著者で、環境問題の研究者の石弘之氏によれば)

・インフルエンザと同じくコロナウイルスは野生動物間でだけ感染していたが、ヒトにも感染するようになり、現在では7種類ある。その内のsarsmers、今回のCOVID-19の三つ感染症は21世紀以降ヒトに感染するようになった新しいウイルスによるものであった

・中世ヨーロッパでのペストの流行の背景には「中世農業革命」があったし、大航海時代(15世紀半ば~17世紀は半ば)には感染症が世界に拡大した

 

○近世(江戸時代)日本における感染症(梅毒、コレラなど)は、外国との交流窓口であった長崎から入ってきた。そのため、幕末には「西洋=病原菌」と見る状況があり、これが日本史を動かすエネルギーになった面がある

 

・近世前期の日本人の遺骨調査で男子の1/2,女子の1/3に梅毒感染の痕跡が見られている

・豊臣秀吉が朝鮮半島出兵の基地にして、全国から人びとが集まっていた名護屋城では「肥前わずらい」と呼ばれた感染症が発生したが、これは全国に感染した梅毒のこと

・徳川家康の次男、秀康は梅毒で鼻が欠損したため二代将軍になれなかったという説もある

1822年、コレラが世界的に流行し、日本にはオランダ商人経由で波及した

1857年、ベリー艦隊の一隻が長崎に寄港してコレラが発生し、江戸に飛び火して3万人とも26万人とも言われている死者が出た(『感染症の世界史』石弘之)。

・幕末、蘭学医たちは命がけでコレラと闘った。洋学塾を開いて天然痘予防に貢献した緒方洪庵は「事に臨んで賤丈夫となるなかれ」と弟子達を鼓舞したが、医者の犠牲者も出した

 

○明治政府設立間もない頃、「太政官布告」(当時の日本政府の最高機関の布告)によって、日本初の「検疫」と、結果的には「近代的な感染症対策」、今で言えば「国民への生活面での自粛要請」布告した

 

・きっかけは、1871(明治四年)の米国駐日公使から明治政府にもたらされた情報(日本中の家畜の死亡もあり得る「牛疫」という家畜伝染病がシベリア海岸で発生した)

・布告内容は牛の防疫に留まらず人にも及び、はじめての検疫になった他、その内容は国民生活の細部に立ち入ったものも含まれていた

ü  体や衣服を清潔に保つこと(病原菌の繁殖防止だろう)

ü  掃除をすること(病原菌の繁殖防止だろう)

ü  天気の良い日は窓を開けて換気すること(病原菌の繁殖防止・殺菌だろう)

ü  酒を断てとまでは言わないが、飲み過ぎないこと(体力の低下防止だろう)

ü  「房事」(性生活)を節制して回数を減らすこと(体力の低下防止だろう)

 

100年ほど前に3年間ほど世界で大流行したスペイン風邪(当時はウイルスによるインフルエンザとは知られていない)は、今回のCOVID-19を理解する重要な参照例となる。特に『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ---人類とウイルスの第一次世界戦争』(速水融著 藤原書店2006年)は基本参考図書である

 

・日本の内地(当時の外地、即ち朝鮮、台湾、千島列島、樺太の南半分を除いたもの)だけで45万人、「外地」を含めると74万人が死亡した

・世界では国や地域によって死亡率が異なっていて、大体の数値は以下。欧米と日本0.31%、中国0.82%、インドネシア3%、インド6% (後世になってから、過去の統計から算出された死亡者数の増加で推定)

・日本でも波状的に三回襲ってきた

 第一波:19185月~7月 高熱で寝込む者がいたが死者はいない

 第二波:191810月~翌年5月頃 死者266千人

 第三波:191912月~翌年5月頃 死者187千人 第二は波より死亡率大(5%)

・速水融先生が集めた当時の新聞記事から、政府もメディアも「特別な伝染病である」とは警告していない

・ 与謝野晶子は、感染拡大防止作に対する政府の無策を具体的に挙げて泥縄式で対応が後手に回っていると批判している

・ 軽巡洋艦「矢矧」がシンガポールに寄港したために船内でクラスターが発生し、469名の乗員のうち48名が死亡し、「機関停止漂泊寸前」に陥った

・この際「矢矧」にはシンガポールから巡洋艦「明石」の乗員も乗り組んでおり、彼等が感染せずに航行を支えたのだが、実は「明石」は欧州方面に派遣されていたために、乗員は既にスペイン風邪の免疫が獲得されていた、と推定されている

 

日本には、手洗いをする「禊ぎの文化」と「内(家)と外」を峻別する「ゾ-ニング文化」があって、それが感染症抑止に効いているのかもしれない

 

・江戸時代の宮中では「宿紙」という薄墨色の再生紙が使われていて、一度外に出ると汚れた外の空気に触れるので、反故紙が宮中で何度も漉き直されて使われていた

・この感覚は、頭部が「清」で足元が「次」という身体のゾーニングにも通じる

 

第二章 日本史の中の感染症---世界一の「衛生観念」のルーツ

 

○「日本書紀」の記述と考古学の研究から、1700年ほど前の崇神天皇即位5年目に発生した疫病を収める過程で、大和国三輪山麓に最初の王権と伊勢祭祀の原点が生じた

 

・崇神は初代神武から数えて10代目の実在可能性のある最初の天皇(井上光貞)

・ここで日本書紀に出てくるポイントとなる神は、天照大神、三輪山の神(大物主)、などで、崇神は疫病収拾のためにこれらの神に祈った

・天照大神を、崇神が自身の娘に託して御殿の外で祭ったのが伊勢祭祀の原点

・考古学の対象は、三輪山麓纏向遺跡とその出土品(馬具)や箸墓古墳(卑弥呼の墓説あり)、同時期の備前車塚古墳やその出土物(三角縁神獣鏡)と隣接する大神神社の社伝など

・巨大古墳が多い三輪山麓には、当時の日本最初の都市が形成されていたという説もあり、海外交流(遺跡出土品)と人口集中が疫病を蔓延させたのかもしれない

 

○仏教伝来などで大陸との交流が進むにつれて、また律令制が整い都市化が進むにつれて、たびたび感染症に襲われた

 

6C、敏達と用明の兄弟、聖徳太子(用明の子)とその両親と妃も天然痘で死亡と見られる

8C(天平時代)、天然痘の大流行。735738年にかけて当時の人口の3割(100150万人)が死亡したとする研究もあり、藤原不比等の四人の息子も天然痘で死んだと見られ、聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって奈良の大仏を建立した

 

○感染症に対して無力であった時代には、人びとは疫病封じに「まじない」を行い、疫神は接待で買収も出来る八百万の神の一つで、仇敵ではなかった

 

・京都の祇園祭もそのひとつで、祭りで配られる粽(ちまき)につけられていた厄除けのお札は神話に由来する物語が効能の根拠となっている

・仇敵ではない疫病神から見えてくるのは、嘘や世襲権利の許容、感染免除依頼先の疫病神と人間の互酬関係、「甘えの構造」という理解、疫病神との「共生」思想、疫病神も歓待すれば買収・契約・交流できる「客人(まれびと)」思想などがある(西洋文明とは異質だと)

 

○前近代の日本人は、いろいろな「貼り紙」(「まじない」を表現する物品)をしてきた

 

・「貼り紙」は地方毎に多様な形を取っており、効能の根拠は神話や物語にあって、それらは昭和の初期まで残っていた地域もあった

・だが、日本全体で見れば江戸後期からインテリに思考が合理化しはじめ、非合理な信心を「迷信」と断じるメンタリティーが生まれてきていた

 

○江戸後期の医学者であった橋本伯寿は、感染症の観察体験に基づいた感染予防思想を提示し、隔離方策を幕府に進言したが取り上げられなかった。しかし、その予防思想は民間において実行されていた

 

・感染症対策としての隔離自体は古代からあった(伝染などの概念に基づくのではない)

・橋本伯寿は甲斐出身で、長崎で西洋医学を学び、「痘瘡・麻疹・梅毒・疥癬」を伝染病と判断し、「伝染」という事実の認識に基づいた予防法を提示した。消毒の概念のみならす免疫獲得の概念すら持っていたが、幕府の天然痘医一門との対立もあって、彼の主張の価値は幕府には認められなかった(幕府にとっての価値と医学者にとっての価値=一般人の価値は違っていた)

 

○スペイン風邪の世界的流行に対する日本政府(特に内務省)の政策は杜撰であり、米国政府に比べても、また江戸末期と比較してすらも、隔離対策を軽んじたものであった

 

・米国ロサンゼルス市はこの感染症の応急策として、細部にわたって人びとを規制する強制力を持った新取締規則を制定して実行した(今から見れば人権上問題があるとしても)

・同地駐在の日本領事はこの規則をすぐ翻訳して19181012日に本国の外務省に送り、外務省は内務省衛生局長にこれを「ご参考までに」と渡したが内務省は反応せず、1920114日に内務次官が「マスクとうがいをせよ」と言っただけであり、警視庁の衛生係が新聞を介して「なるべく人の集まる場世に行かぬが良い」と広告しただけであった

・政府が国民に対して強制的な感染拡大防止規制をしなかった背景には、国内では米騒動が、海外ではロシア革命という社会主義革命が起こっている状況下において、史上初の政党内閣(原首相)にとっての政治的リスク回避があったからとも推定される

・米国のセントルイス市は、明らかに死者を減らすことが出来ていたが、日本政府は第二波・第三波と襲ってくる中で、それを素早くまねることは出来なかった

 

第三章 江戸のパンデミックを読み解く(当時の文書に基づいた)

 

○宝井馬琴は、文政三年(1820年)9月から11月まで「感冒」が大流行したと随筆集の中に書き残しているが、その詳しく鋭い記述から以下のような状況が読み取れる

 

・感染力は非常に強いが症状は比較的軽い

ü  一家十人なら十人皆免るる者なし

ü  軽症なら四、五日で回復し、大方は服薬もしない

ü  重症でも『傷寒』(今のチフスの類)のように発熱がひどく、譫言を言う者もいるが、その場合でも十五、六日も病臥すれば回復し、この風邪で死ぬ者はいない

・感染範囲は広く、伝搬状況を感染地域と時期のズレから推定している

ü  江戸は9月下旬より流行し10月が盛り、京・大坂・伊勢・長崎などは9月が盛ん

ü  旧暦で9月、10月は寒い盛りではないので季節性インフルエンザではなさそう(もしかすると新型かも)

 

○文政四年に第二波が襲来した可能性があることを別の資料から推定できる

 

・『日本疾病史』(明治45年(1912年)刊 富士川游著)には、文政四年(1822年)2月に江戸諸国に風邪が流行したと記されている。『日本疾病史』は比類なき貴重な感染症通史で、京都大学でデジタルアーカイブかされてネット閲覧可とのこと

・『時還読我書』(多紀元堅著 1845年)には、(このときの風邪は)症状として「吐血する者が多かった」と記述されているので、文政三年の風邪とは別物かもしれないが変異したものかもしれない

・『松屋筆記』(江戸後期の国学者小山田与清の随筆)では、感染力が凄まじく、また「だんほう風」と名付けられた、と書かれている

・馬琴の『曲亭雑記』には、「だんほう風」は京摂から安房、上総、西南甲斐、伊豆、信濃。越後までも流行した、記している

・大阪方面の史料では『あすならふ』という近世大阪の風聞集では、文政三年の頃に暖冬だったが翌年正月より極寒となり、風邪我流行した、と書かれている

 

○江戸期の流行性感冒の呼称には、「地域名」「人名」「流行り歌」の三パターンがあったが、資料を追っていくと、当時イメージされていた感染経路なども浮かび上がってくる

 

・「お駒風邪」。1776年(安永五年)正月~220日頃までの京畿(畿内)で流行った感冒で、馬琴に依れば名前の由来は流行っていた浄瑠璃に出てくる淫婦の名

・「谷風」。1784年(天明四年)の天明飢饉の最中に流行った感冒で、当時無双の力士も罹患したのでその名がついた

・「お七風」「アンポン風」「薩摩風」など、いろいろな名前が付けられていた1802年(享和二年)の感冒は、前年末の長崎、翌年2月頃の関西、4月頃には関東に達した

・感冒は西からやって来て数ヶ月で関東にまで感染が広がるというイメージ、またアンポン(インドネシア東部の島名)とか「薩摩」の名前は実際の感染源を示しているわけではないが、遠方東南アジア方面からやってくるとイメージがもたれていたことを伺わせる

 

○感染症の流行は経済に影響し、特定商品の物価は高騰し営業自粛も起こっていた

 

1803年(享和三年)3月から諸国で麻疹が流行では、現代の値段に換算して、みかん800円、梨23万円、橙1000円などとなる

ü  病気の時に欲せられる果物が高騰し、松茸などは安値だった

ü  「一文50円」で換算

ü  街道沿いの茶屋や旅籠屋は大方閉店休業していた

・冬期の風邪の流行時には、江戸では湯屋が午後四時頃には閉まっていた

 

○定額給付金のようなものもあった(窮民お救いの沙汰)

 

1820年(文政三年)の「だんほう風」の際には一人\12,500位の金銭が支給された

1803年(享和三年)の麻疹の際には、米が現物支給された

ü  裏長屋の町人を対象として男は五升、女は四升、三歳以上の子どもは三升の米が支給された

ü  表通りに店を構える町人は借家でも給付対象外であった(裏長屋の貸家の住人のようにその日暮らしの庶民とはいえないので、所得制限があった)

 

○医療支援のようなものもあった

 

・幕末の安政六年(1859)のコレラの流行時には、大阪道修町(薬種問屋の町)の商人たちが協力して「虎頭殺鬼雄黄円」という薬を配った

ü  このときには江戸だけで10万に以上が死んだと言われている

ü  但し、「虎頭殺鬼雄黄円」の効能は疑問であったであろう

・同じ頃、大阪の東町奉行が「法香散」(あるいは「芳香散」)という薬を施し、幕府は「芥子泥」という貼り薬を勧めた

ü  いずれも効能がないであろう

・因みに江戸時代の感染症に用いられて効能があったという記述のある漢方薬もいくつかあるが、総じて症状緩和、患者の体力回復など経験に基づいた対処療法であったのだろう

ü  例えば、柴桂湯、葛根湯、小柴胡湯、紫葛解肌湯

 

○江戸の侍社会における感性拡大防止策の目的は藩主を守るためであり、方法は隔離であった

 

・それでも15代の将軍の内14人が疱瘡に罹患したほど感染防止は困難であった。隔離政策の基本は現代で言う「自粛」のことで「遠慮」と呼ばれていた

ü  江戸幕府は、疱瘡(天然痘)、麻疹、水痘を法定伝染病に指定して、感染した幕臣は35日間の登城を「遠慮」する決まりであった(1680年~)

ü  天皇も、疱瘡の“ケガレ”から徹底して防護されていたはずなのに15名中7名が疱瘡に罹患した

ü  将軍が感染症に罹患すると「遠慮」(自粛)により経済活動が著しく低下した

・隔離政策の実際の方策は各藩によりまるで違っていた

ü  岩国藩の隔離政策は自粛要請ではない強制隔離で、藩主の感染をゼロであった。また同時に生活保障(病人、看護人、同居人に対する「退飯米」の支給)も行われた

ü  大村藩(長崎)の隔離政策は、病人を山中の小屋に放置する“棄民”のようなものであり、負担は病人を出した家であったから、病人を出した家は大抵破産した

ü  津山藩(岡山)では少年の藩主が川遊びに出かける時にゾーニングが行われていた(感染者のいない経路を通る)。また、1802年に疱瘡が発生した時の死者の推定を「超過死亡」(過去の統計から推測される死亡者数からの増加数)で推定した

 

○「名君」の誉れ高い米沢藩の上杉鷹山が、寛政七年(1795)の痘瘡流行時に行った政策の目的は、藩主の感染防止ではなく、領民の生活保全であった

・その施策は「隔離政策」に真っ向から反するものであった

ü  初夏に痘瘡流行の兆しが出て76日に鷹山が出した命令は「家族に流行病の罹患者がいても、出勤しても良い」というものだった

ü  この命令は藩主の安全第一を考える当時の常識とは真逆であった

ü  鷹山は自分の感染リスクを認識していなかったのでは全くないことは、米沢藩の医療リテラシーの高さ、鷹山自身の西洋医学の知識は勿論、そもそも疱瘡の伝染性は既に庶民でも知っていたことから明白

ü  鷹山がそのような命令を出した意図は「行政機能をストップさせないこと」であり、そうすることで領民の困窮を回避することであった

ü  鷹山は次々に患者支援策を打ち出した。まず「生活困窮者の洗い出し」から着手し、家庭看護の崩壊に心を配り、江戸から天然痘専門の医者を呼び寄せて対策チームの指揮を執らせ、医療の無償提供をし、都市と山間部の医療格差是正に取り組んだ

ü  「江戸時代に、藩主よりも領民の方が大事だという意識を持った為政者がいたのだ」と磯田さんは述べている

ü  鷹山は被害規模の数値も残しており、感染者は8,389人で死亡率は25%に達していたことがわかる(当時の米沢藩の推定人口は、『岩波 日本通史第1131p2 速水融著』によると10万人とあるから、感染率は8.4%となって、全人口のうちの2%以上が死亡したことになる)。

 

第四章 はしかが歴史を動かした

 

○今後COVID-19より強力なウイルスによるパンデミックが起こる可能性が指摘すされる中、磯田さんは最も感染しやすい「麻疹」(はしか)の歴史を調べることが大切と考え、古文書などの記述から以下のようにいくつかの興味ある史実を抽出している

 

・はしか質の概要は以下

ü  基本再生産数は1218(新型コロナウイルスや季節性インフルエンザの基本再生産数は23)だから、はしかに免疫がないと殆どの人が感染する

ü  致死率は現代の先進国でも0.10.2%だから、ワクチンは勿論近代医療もない時代ではその脅威は深刻

ü  発症初期の少し症状が少し収まった頃に感染力が強まるという特徴をもち、人類の活動形態からみれば質が悪い(COVID-19は症状に無自覚な人が感染させるので、人間の活動形態からみれば、同様に質の悪い感染症と言える)

・江戸時代には、はしかの大流行が13回あり、平均すると20年に一回の大流行があったことになる

ü  当時麻疹から肺炎に移行する率は5%位で、そのうちの三人に一人は落命するから感染者の致死率は2%にもなり、特に子どもがかかりやすい恐ろしい病気であった

ü  平均して20年に一度の大流行は、麻疹の免疫が一生涯続くことの証しだろう

 

○麻疹という病気の歴史は、中国では宋の時代、日本では平安時代、西洋でも五世紀あたりなので、人類がこの病を認識し始めてから大体1000年ほどはありそうだ。

 

・日本の史料で最初にはっきりと麻疹が登場するのは長徳四年(998)

ü  天台宗の僧侶、皇円がまとめた歴史書『扶桑略記』には「赤斑瘡」(あかもがさ)と記されている

ü  「赤斑瘡」(あかもがさ)は「もがさ」と呼ばれていた天然痘とは区別されている

・「はしか」と呼ばれたのは鎌倉時代からのようで、室町時代の終わりには「イナスリ」と呼ばれていた

ü  武田信玄の兄は大永三年の「イナスリ」の流行により7歳で亡くなっているから、信玄が跡継ぎになれたのは、はしかのせいとも言える

・平安時代の麻疹の流行は、平均20年周期くらいで起こっていたが、これについては『栄花物語』に詳しく記載されており、次項に紹介する

 

○『栄花物語』の詳細な記述から、平安時代における麻疹に関する経験的知識は侮れず、科学的視線も見出される。『栄花物語』とは九世紀後半の宇多天皇から堀河天皇までの約二百年間を記した歴史物語で、同時代の女性知識人によって「仮名」で書かれたものである

 

・三位以上の貴族の妻は感染しなかったが四位以下の妻は沢山感染し、下人たちの感染は少ない、と記されている

ü  察するに、貴族にはソーシャルディスタンスや免疫の概念すらあったようだ(三密で感染、上位は隔離対策、下人は早期免疫)

998年、次の1025年、次の次1077年と、時代を追って流行を認識し、比較し、記述している

ü  麻疹の免疫が一生涯有効なことも認識していた

ü  過去と現在の病状を比較照合して、共通の傾向を見出そうとしている

 

○『多門院日記』から、中世の麻疹流行状況が見て取れる

 

・『多門院日記』は奈良興福寺にある塔頭(小院)で文明十年(1478年)から江戸時代初期の元和四年(1618年)にわたり書き継がれた、近畿地方の情勢記録

・感染状態に地域格差があったと思われる。特に室町後期は乱世のために地方と中央が分断され、感染経路も遮断されたからだろう

ü  老人が罹患したのが珍しいという記述は、生涯免疫の概念があったことを物語る

ü  畿内では他国に比べて死者が少ないという記述は、日本列島内の感染形態に違いがあったことを物語る

 

○江戸時代も1700年頃を境に人びとの思考が世俗的・現実的になり、生活レベルも向上し、「先進国化の萌芽」が生じ、それに伴って麻疹パンデミックの状況も変化した。香月牛山という医者の書いたという医書『牛山活套』等から、その状況が伺える

 

・宝永五年(1708年)秋から翌年の春にかけて全国で麻疹が流行したが、治療力の向上が推定される

ü  香月牛山が京都で実際に診た500人以上の患者からは一人も死んだ者はいない、との記述がある

ü  香月牛山の治療法は、患者の体力回復に資する有効な対処療法であった。「葛根連𧄍湯」を用いたという記述などからそれが裏付けられる

 

○江戸時代も宝暦から安永にかけて(1750頃から1780年あたりにかけて)「都市経済」が発達したため、麻疹パンデミックが起こりやすくなった

 

・屋内で店を構える、江戸の老舗と呼ばれるような外食産業が生まれてきた

ü  それまでの外食産業といえば屋外での屋台であったの

・都市化は、人びとの往来を盛んにしたので麻疹パンデミックも起こりやすくなった

 

○江戸時代も19世紀に入ると、日本全国で起きた麻疹拡大の状況が史料からある程度追えるようになり、感染症は大陸や朝鮮半島から海を越えてもたらされることが医学生間では意識されていた

 

・享和三年(1803年)に全国で起きた麻疹流行は多くの医書がとりあげていて、その状況は以下のようなものであった

ü  享和三年三月初旬に朝廷の医官で幕府の医学館教授から幕府の奥医師多紀桂山へ送った手紙から、前年に朝鮮で麻疹が流行し対馬経由で長門(山口)に伝わり、それから東西に広がったことがわかる

ü  幕府の奥医師で家康以来の医者の名門であった多紀氏の多紀元堅(桂山の五男)の著『時還読我書』から、四月中に感染が始まり五月には拡大したことがわかる

ü  『朝鮮医事年表』(思文閣出版)から、朝鮮では享和二年に麻疹が流行し、王と王妃が1029日には感染し、約二週間後に快癒したことがわかる

ü  大槻玄沢著『麻疹啓廸』に、長崎から江戸に帰ってきた医生から聞いた話として、感染経路が述べたれている。それによると2月の初めに(噂としては)唐船により長崎に上陸した麻疹が23ヶ月間に東北地方を含めて日本列島に伝播した、とある

ü  『麻疹必用』(1824年?)には、死に至る患者は多くはないが、頭痛・頸部リンパ節腫・腰部悪性瘡・手足不自由などの後遺症がはなはだしいと記されている(後遺症に注目している)

ü  『医事雑話』(岩永方房(藿斎))には、赤ん坊は感染すると命落とし、妊婦は発熱で堕胎する、と書かれている(子どもと妊婦はしかに注目している)

 

○幕末、文久二年(1862年)に発生した麻疹パンデミックを、江戸の地誌『武江年表』、小城藩(佐賀藩の支藩)に残された『小城藩日記』などの一連の文書(手紙など)、公式の伝記『孝明天皇紀』等から、特に長崎と京都の動向を追ってみると、この感染症の性質および感染症が社会・政治に及ぼす歴史的影響も見えてくる

 

・長崎の状況はから、感染経路や症状、社会的影響例などが伺える

ü  感染源は二月に長崎に来航した西洋船らしい(『武江年表』に、江戸での感染が始まった後に伝わった話として記述されている)

ü  424日付小城藩士の手紙に佐賀藩主鍋島直大が長崎で罹患したと記され、五月になると佐賀藩士の間で麻疹が流行し、528日に予定されていた小城藩における医学と軍学の試験が延期された

ü  長崎市中は四月以前に相当感染が拡大していただろう。というのは、鍋島直大の父、鍋島閑叟は開明藩主代表で、息子に牛痘の予防接種を受けさせていたほどなので、藩主は最大のソーシャルディスタンスが採られていたはなのに感染しているから

ü  佐賀藩への感染経路は、長崎で感染した藩主を佐賀藩へ船で連れ帰ったためと疑われる、というのは428日付小城藩士の手紙にはそう記されているから

・京都では、東アジアで最も感染症への防御力が高かったと思われる天皇を擁する宮廷でさえ、いわば「朝廷崩壊」が起こり、そのことが以後の大きな影響をもたらしたのではないかと考えられる

ü  68日に伏原三位(宣諭)の息子が麻疹に罹り、宣諭が朝廷への出仕を遠慮することになった。ことの意味は重大であり、(致死率が高いと認識されていた)疱瘡並の厳しい通達が出された

ü  というのは、伏原家は代々公家の教育係を務め、宣諭の父の宣晴は後の明治天皇(睦仁親王)にも儒学を教えており、その睦仁親王は孝明天皇の唯一の後継者だったからである

ü  伏原三位は教育係として子どもたちに日常的に接しているので、その孫が罹患したのは偶然とは言えないかもしれない

ü  69日には、御所の世話人たちについても、本人や家族が麻疹に罹患したら自宅待機となり、輪番の交代者も不在となった

ü  宮中に出された遵守基準は天然痘並みに厳しく、感染者は75日間御所へ出仕禁止、感染者の同居あるいは食事を共にするものも出仕禁止であった(濃厚接触者も定義)

ü  七月八月(現在歴では大体89月)と朝廷の人手が全くたりなくなった。配膳の取り次ぎをする御手長五位や帝の身の回りの世話をする近習五位などの公家も皆麻疹に罹り、御所の詰め所が空になったほどである

ü  京都全体では商業地から御所周辺へと感染が広がり、公家では家ごとに10人ほど感染しているとの記述がある。これは雇い人を含めて平均的に10人前後で世帯が構成されている公家の家では退飯が罹患するという異常事態であった

ü  文久二年閏八月十一日付(西暦186294日)『孝明天皇紀』には、初夏以来京都で麻疹が流行したので、祇園社と護浄院で祈禱したと記されている

ü  文久二年閏八月十八日に非常に重大な「事件」が起こる。それは、孝明天皇が親王をはじめ、公家たちに対して、改めて攘夷の意思を強く表明足した事である

ü  孝明天皇にとっての攘夷とは、観念的なものではなく、感染症を媒介として「異国は日本を害する」との現実に根差した認識を反映したものでもあった(認識と言うより感覚的嫌悪感かもしれない)

 

第五章 感染の波は何度も襲来する---スペイン風邪百年目の教訓

 

既に第一章で、速水融先生の著作などを基にして、100年前のスペイン風邪(流行性感冒と呼ばれていた)の史実が今回の新型コロナウイルス感染対策に重要な参考になることが示されていた。この章では、その参考にすべきことが整理して示されている。

今回の新型コロナウイルスによる感染症COVID-19の対処方法に関する、本書の著者の考え方や具体策については大部分省略した。

 

○スペイン風邪感染の波は、1918年の5月から二年間にわたり、致死率を高めながら三度も襲ってきた。今回の新型コロナウイルスは、新型つまり未知な部分があるならばなおのこと、歴史の教訓を生かすべきであり、また、歴史の細部に注目すべきである

 

・あまり死者が出なかった春先からの第一波の状況から確認されること(第一章参照)

ü  少し感染が弱まっても気を弛めてはいけない

ü  政府もメディアも「特別な伝染病である」とは警告せず、感染拡大防止に対する政府の対策は後手に回っていて、これが第二波の悲劇を生んだ

ü  政府はセントルイス市など外国の有効な対策事例を知ってはいたが、行動には移さなかった

ü  大相撲5月の夏場所で感冒による休場力士続出でも、イベントや集会や外出の規制等はしなかった(効果は知っていても)

1918年の冬場に発生して266千人の死者を出した第二波の状況から確認されること

ü  ウイルスの感染効率は「高温・湿潤」より「低温・乾燥」のほうが高まる

ü  変異ウイルスが致死率を増大させた

ü  経済的打撃が生じること、特に貧困層には大打撃となった

ü  医療崩壊が生じること

1919年の冬場から始まって187千人もの死者を出した第三波の状況から確認されること

ü  死者数は第二波よりも減ったが致死率は更に上がって5%だった

ü  クラスターの発生が拡大要因となった。191912月上旬の軍隊での「初年兵」の大量感染が各地で発生した

ü  19201月頃になって、新聞各紙がようやく隔離の必要性などを呼びかけるようになった

ü  3月に内務省はこの感冒が伝染病であることを決定した。これは長野県当局が、3月になっても新しく感染者の死亡者が出ている状況の報告に対する、内務省衛生局長の回答(後手の象徴)

 

○スペイン風邪の歴史の細部から見えてくる、その他のこと(主として『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(速水融著)で述べられている速水先生の判断)

 

・ロンドンでバスの運転手に多数の死者が出た。神戸の市電の運転手の欠勤で運行本数が減った。これは「ヒトの移動・密集・接触」する場が流行の拠点となっていたことの証左だろう

1920年は、神戸市でマスクの使用が奨励されたが、アメリカのように強制的に、マスクを付けないと電車に乗せない、というほどではなかった。これは、ペナルティーを科す西洋文化と要請と自粛の日本文化が対比的であることの証左であろう

・京都の伏見にある小学校では、父兄が、感冒の流行地である阪神方面への修学旅行の延期を申し入れたが、学校側が変更不可能とした。これは、教育行政に「決まったことを変えられない」組織伝統があることの証左だろう。今日においても「教育長はもっと柔軟に感染症に対処するべき」が歴史の教訓

・感染第二波の時、京都の死亡率が東京よりも高く、最も高かった。これは、修学旅行による人の流入が感染拡大によるものだろう

・青森県の人口は多くないのに感染によって大きな被害が出たことは、人流が感染の一因である証左だろう。つまり、青森が函館・室蘭と繋がる航路の結節点であり、北海道は全国からの出稼ぎ労働者が集まるとこであり、青森から北海道への出稼ぎ労働者が多かったから

・サンフランシスコとセントルイスは、活動制限の解除が早すぎて「第二波」が生じた

 

第六章 患者史のすすめ---京都女学生の「感染日記」

 

パンデミックの歴史を研究していると、患者の側から見た歴史という視点が欠けていることに気づく。患者側から見た個人の証言が極めて重要で、この細かな経験の集積こそ現代の私たちが学ぶべき「命を守るための歴史」と言える。

ここでは、スペイン風邪パンデミックに直面した京都の一人の女学生の日記「十二歳のスペイン風邪 大叔母の百年前日記 野田正子日記抄」(季村敏夫編『河口から』六号、2020年)の内容が紹介されている。とても興味深いが書略する。

その興味とは、スペイン風邪は感染率50%致死率1%で過半数の人が罹患して免疫を持つことで終息したが、この間公的組織は感染防止のための積極的施策は殆ど何もしなかった。しかし、人びとは今まで通りに、ウイルス感染も自然現象と認識しているかのように暮らしていた、というこの史実から何が学べるのかという部分であった。

 

第七章 皇室も宰相も襲われた

 

スペイン風邪は宰相を含む政治家達や皇室にも伝染していた。本章では、指導者達の「患者史」から見えてくる、パンデミックが歴史に及ぼす影響と、後世に参考となる感染対策が述べられている。

採り上げられている史料は、大正期を代表する政党政治家であった原敬が残した詳細な『原敬日記』を中心に、『大正天皇実録』、『昭和天皇実録』、大正天皇の侍従武官をつとめた四竈孝輔の『侍従武官日記』、秩父宮雍仁親王の『雍仁親王実記』である。

 

○政友会総裁で宰相の原敬は、激変する内外の政治情勢における激務の下で罹患し、半年あまりにわたる後遺症に悩まされた。政友会の後ろ盾であった元老山県有朋も感染して危篤状況に陥った。指導者層の間でも常態化していた三密状態でクラスターが発生しており、その点においても政治は大きな影響を受けていた

 

・スペイン風邪の第一波は大正7(1918)5月から7月頃まで、第二波は10月から翌85月頃まで、第三波は12月から翌9年(1920年)5月頃まで、当時の日本全国(樺太・朝鮮・台湾を含む)を襲い、内地だけで45万人の死者を出した

ü  外地を入れると死者数は74万人。いずれの数値も速水先生が「超過死亡」という考え方で再計算した値。不十分なことが明白である当時の内務省衛生局調査では、内地の死者数は38万人となっている(厚生労働省の公式数値も38万人を採用している)

・スペイン風邪前後の原敬首相のスケジュールを、内外の情勢を追記して時系列で並べると、感染症に罹患する条件(激務・ストレス・寒冷・三密)が揃っていることがわかる

ü  191711月(ロシア暦では10月)にロシアの十月革命勃発(第一次大戦終盤)

ü  19183月にロシアがドイツと単独講和締結し、日本はロシア革命政権に干渉する意図の元に英米などと共同でシベリア出兵を決定する

ü  1918年(大正7年)1021日。工業倶楽部の晩餐会に出席

ü  1023日。閣議でシベリア出兵計画に必用な軍備増強増税案が閣議決定されるが、議会には増税は未決定と説明することも決定(注記:当時は閣議決定内容の公表義務なし。もっとも、議事録すら20144月迄作成されず)

ü  1023日夜。交詢社の晩餐会に出席。交詢社とは福沢諭吉が提唱した日本初の社交クラブで、実業家の親睦団体

ü  1024日昼。伏見宮の「国産奨励会」出席。高価な輸入食材に国産品が使えないかと賞味する会で食事しながら食材評価、と歓談

ü  1025日。皇室典範増補の件が閣議で出る。当件は、皇室の地位に係わる重大な件であると同時に、原にとっては気苦労な件であった。互いにいがみ合う元老山県有朋と枢密院重鎮の伊東巳代治の間をうまく取り持たねばならなかったから

ü  1025日夜。北里研究所が社団法人になった祝宴に出席。感染症研究の最先端の場所で三密集会が開催されている

ü  1026日午後。伊藤博文の命日。西大井で墓参後、午後3時の汽車で腰越別荘に到着後、夜になって385分の発熱、翌々日夜平熱、1029日午前帰京。多分2324日の三密で感染し、26日の墓参時の寒さが引き金となったのだろう

ü  1030日。天皇出席の枢密院会議を「遠慮」。流行感冒後一週間経過していないと「遠慮」という江戸時代のルールが生きていた。この会議のテーマは「米騒動」という重大案件であった(スペイン風邪が宰相欠席という重大な支障をもたらした)

ü  119日になっても全快せず

ü  124日。東京各組案団体の連合会で演説。体調不良を押して出席

ü  125日(日曜日)。風邪全快せず。腰越で休養

ü  19193月~4月にかけても、原敬日記に風邪が全快しないと記述がある

1918年(大正7年)211日、長老山県有朋がスペイン風邪に罹患して重体になった。以降、山県が仮に死んだ場合の政界構想を巡る原敬らの行動記録から、スペイン風邪が政界権力構図にもたらした影響を窺い知ることが出来る

ü  211日、原敬宰相が山県家に電話をして、山県有朋が39℃発熱して流行性感冒に罹患していることを確認

ü  211日~214日の間、田中陸相(後に陸軍から政友会に転じて首相となる田中義一)が小田原在住の山県を見舞い、その足で逗子在中の山県の腹心平田東助に面会

ü  田中義一は、もし山県が死去の時は、非政友会の大隈重信が宮中に取り入り実権を握らぬように、後任に政友会総裁も務めた西園寺公望を立てることを提案し、原敬との間では、色々と策をこらしがちな平田を早く取り込むべきとなど、生々しい政治的やりとりがなされる

ü  215日。原宰相が葉山御用邸に大正天皇を拝謁し、山県死後は他より陳言があっても西園寺を降任に命じるよう根回しをする

ü  ここで見えてくるのは、明治の元勲の後ろ盾がないとすぐに動揺する政党内閣の内実、一人の長老がインフルエンザに罹るだけで政権が揺らぎかねない政治的不安定さだろう

 

○皇室の中にも罹患者が出ているが、その状況から見えてくるもののなかで注目すべきものの一つは、大正期に陸軍における反実仮想力(まだ現実ではない事態を想定する能力)の欠如だろう

 

・『大正天皇実録』の記述で特徴的なことは、『明治天皇紀』や『昭和天皇実録』に比べて、天皇自身だけではなく、皇太子や秩父宮についても、健康状態や病気に関する記述が少ないことである。これは多分天皇が病弱であったための編集者の配慮だろう

ü  スペイン風邪に大正天皇が罹患したかどうかの記録はない

・後の昭和天皇、時の摂政皇太子は、スペイン風邪の第二波が押し寄せた頃の大正7年(1918年)113日にインフルエンザを発症し、翌日から12日間床に伏す

ü  感染した場は、1027日の文展・日展が最も疑わしい。日展で皇太子に拝謁した、天皇の御用掛なども務めた側近の土方久元はがやはりスペイン風邪に罹り114日に他界している

・感染隔離対策が最も厳重に為されているはずの天皇周辺にスペイン風邪が入りこんだのは、侍従武官の間で感染の連鎖が発生していたからかもしてない

ü  大正7年(1918年)1028日、侍従武官長の自宅で罹患者多数発生、欠勤

ü  1031日、大正天皇の侍従武官、四竈孝輔が欠勤。筋肉痛、突然の悪感と急激な発熱など、スペイン風邪の記録に良くでてくる症状発症するも117日に快方へ

ü  このころ、シベリア出兵でロシアに派遣されていた侍従武官達の帰国などで宮中も人の出入りが激しかった

ü  1111日、四竈孝輔が侍医の診断を受け出仕許可を得る。2回お風呂に入って痰が出ずに異常なければ「遠慮」しなくても良いという江戸期の清めの思想が宮中周辺には残っていたのかもしれない。1112日には四竈が大正天皇に拝謁可能となる

ü  1113日、栃木で陸軍大演習が行われ、天皇が出席。当時の世界情勢下では軍隊出兵が感染拡大の一つの要因になっていたが、日本もそうであったであろう

・満17歳の秩父宮は大正9年(1920年)116日になってスペイン風邪を発症し、翌日に肺炎の症状も出て、血清療法が試みられた。その症状は大変重く1ヶ月近く体を動かすことも出来なかった

ü  第三波は軍隊から始まっている。中でも近衛師団は大正8年(1919年)1218日の段階で、罹患者1137名、死亡者29名と全国でも最悪の被害を出していた

ü  新年の観兵式へは天皇の行幸が止められた(天皇の感性防止であり、観兵式自体は行われた)

ü  大正9年(1920年)111日、士官学校生徒に感染者が出たため、陸軍士官学校内にあった皇族の男子学生の宿舎である東皇族舎の出入り口で警戒態勢が敷かれた

ü  12日、士官学校内でマスク着用徹底指示(それまでは徹底していなかった)。秩父宮に予防注射(後に医学的効果ないことが判明している)

 

第八章(文学者達のスペイン風邪)と第九章(歴史人口学は「命」の学問―――わが師・速水融のことども)は省略する