『呪われた部分』 (ジョルジュ・バタイユ著1946年)生田耕作訳
緒言
本書は、富の生産よりも「消費」=「蕩尽」が第一の原理である普遍経済学を提示しようとするものである。
第一部
基礎理論
(一)普遍経済の意味
一 地球上のエネルギー-流動に対する経済の依存性
経済学は物理学とは違って、その現象を個別化することも、個別化された現象の普遍的関連を決めることも難しい。産業の発展や社会紛争や世界戦争を含む人類の全事業を含んだ経済の普遍データを調べないと分からない原因や結果があっても不思議ではない。経済力を絶え間なく発展させる以上は、地球上のエネルギー流動と結びついた普遍的問題を提示すべきである。
二 組織の成長に役立たぬ剰余エネルギーを利得なしに損耗する必要性
人間の経済活動は、宇宙的現象としてのエネルギーの流動によって地表上に生じる運動がもたらす色々な可能性を、目的に適うように使用することである。しかしこの運動には、人間が気付いていない側面と諸法則がある。生命の領域を巡るエネルギーの全般的方向は人間によって変えうるのか、それともその逆なのか?人間は、生命系全体の物質的条件を認識しえないために、重大な過ちを犯し続けている。
生命体は地表のエネルギー流動から己の維持に必要な分以上のエネルギーを受け取っている。この過剰エネルギーは消費しなければならない。
三 機構すなわち有限的全体(生命体とその集団)の貧困と生命界の資産過剰
富を構成するエネルギーを惜しみなく消費しなければならないということは、活動の理想を生産力の発展のうちに見ることに慣れた精神には受け付けられないものであり、合理的経済を基礎付ける判断とは逆行するものである。
エネルギーは個々の生命体にとっては欠乏しても、生物全般にとっては過剰である。
*(⇒自然科学的には、地表に太陽から輻射熱として注がれたエネルギーは仕事をしながら長短の時間をかけて流れゆき、平衡的である限り、全体量としては増大も減少せずに再び宇宙に放射される。生命体もその流れを利用して生きている。過剰なエネルギーという表現は、地表におけるエネルギー流動が平衡的であると同義。もし平衡的でないなら、地表の温度は絶対零度=-273℃へ向かって低下するか、物質がすべてガス化して宇宙に拡散する温度まで上昇することになる)
四 過剰エネルギーの破局的消費としてみた戦争
人間にとっての過剰なエネルギーを自ら制御できなければ、破滅あるのみである。古代社会において、有用性を見出せないような立派な建築物を作ったり、熱狂的な祭りを行ったりしたのは、この過剰なエネルギーの消費である。近代人はサービス産業などで消費しているが不十分であり、悲劇的な戦争による破壊で大量の消費を賄っている。
技術が可能にした近代工業の発展は、それ自体が過剰の産出者となって二つの世界大戦の原因となった。過剰生産を非生産的事業に用いて消費しなければならない。例えば贈与することである。局限経済の視野から全体を視野に入れた普遍経済へ移行しなければならない。ここではただ、成長の拡大は、却って経済原則の顚覆を、またそれらを基礎付ける倫理の顚覆を要求するとだけ言っておこう。
(二)普遍経済の諸法則
一 生化学エネルギーの過多と、成長
生命体の原理からして、生物が消費したり蓄積したりするエネルギーは、生きるのに必要なそれよりも過剰である。そのことは、成長(植物に顕著)と繁殖のことを考えれば明らかである(⇒巨大に繁茂する樹木など)。
二 成長の限界
生命の最も根源的な条件は太陽のもたらすエネルギーであるが、成長は地表に限られるから限界がある。ここで倫理的判断の二重起源について注意を促したい。昔は非生産的栄誉に対して価値が認められたが、今日では価値は生産に準じてもたらされる。つまり消費よりエネルギーの獲得と生産が優先する(⇒しかし生産には限界がある)。
三 圧力
地球の表面は可能な限り生命で覆われている。空き地が出来ればたちまち生命で満たされる。つまりそこには圧力がある。もし生命の成長が阻止されれば、成長をやめるのではなく成長を渇望し、元々与えられている過剰なエネルギーはその圧力を高めて沸騰し、炸裂スレスレの充溢(出血)の運動となって流出する。
この状況は利害や計算の手には負えない。欲望と矛盾するからだ。ではどうするのかと言えば、結局瀉血するのだから不快にではなく(⇒戦争などによる)、消費することが問題、しかも重大な問題となるのである。
*(⇒生命体には過剰なエネルギーから生じる本質的な圧力、人間的には欲望がある。それを溜め込んでおくと爆発するのは必定。悲劇をもたらさない爆発のさせ方は蕩尽である、とバタイユは言う。バタイユが好きな岡本太郎は「芸術は爆発である」と言った。だから生命圏全体を視野に入れた蕩尽原理に基づいた普遍経済を構築したい、と)
四 圧力の第一効果。拡張
この圧力を正確に提示するのは難しいが、生命が水域や地表から空中に進出する状況などから、その背後に想定せざるをえないもの、つまりそのような力のことを指す。この圧力に対しての第一効果(⇒対処可能性、生じうる結果)は、樹木が空に向かって伸長して光合成をするなど、生命体の成長・進化である。
五 圧力の第二効果。浪費あるいは奢侈
この圧力の第二効果(⇒対処可能性、生じうる結果)の顕著な例は死である。しかし、生命体全体で見れば一方の死は他方の成長でもある。生命を総体としてみれば、成長は破壊に対する一種の補償に過ぎない。地球上での生命の歴史は、過剰なエネルギーの浪費つまり奢侈の結果である。
六 自然の三つの奢侈。食、死、及び有性生殖
一番費えを要としないのは緑色微生物で、植物は動物より費えを要せず、肉食猛獣は略奪者としての絶えざる蹂躙によってエネルギーの莫大な浪費をしている。
食物の採取には偶発的なかたちで死が伴う。死は運命的に訪れるもので、あらゆる奢侈のなかで最も高くつくものである。また死は、誕生するものに絶えず場所を空けておくものであり、それなくしては自分たちが存在しないものであるにもかかわらずわれわれが不当に呪詛しているものである。
「実を言えば、死を呪うとき、われわれは自分自身を恐れているのに過ぎないのだ。死は他ならぬわれわれの意志であり、その厳しさがわれわれを震え上がらせるのだ。われわれは自らがその先鋭な形態に他ならない豪奢な過剰運動から逃れることを夢見て自分を欺くのだ(⇒ほんとうは逃れられぬのに逃れることを夢見る)。いやもしかすると最初自分に対して偽るのは、やがてそれ(=意志)を意識の厳しい頂点まで高めることによって、その意志の厳しさをよりよく感受するために他ならないとも言えそうである。」
「死の奢侈性は、この点で、性のそれと同様に、最初はわれわれ自身の否定として、次いで、急転して、生命がその転回である運動の深遠な真相として、われわれの眼前に現れる。」
有性生殖は、食及び死と共に、エネルギーの消費を確保するための贅沢な回り道の一つである。生殖は、生み出される個体はまた個体を生み出す他者に生命を与える、つまり贈与する。動物にとって、生殖は一瞬のうちに可能の極限にまでにまで高められるエネルギー資源の突飛で熱狂的な浪費の機会である。「人間の場合それ(生殖活動に伴う浪費)はおよそありとあらゆるかたちの破壊を伴い、財産の一大犠牲を誘い―――肉体の殺戮を空想させ―――そして最後には死の不条理な奢侈と過剰に結びつくのである。」
七 労働と技術による拡張、および人間の奢侈
人間の活動は根底において生命のこうした普遍的運動によって条件付けられている。しかし人間においては、労働と技術によってエネルギー資材を増大させ、生命の成長運動の拡張を可能にする。それは多分連続的でもないし無限でもない。
人口曲線の下降は恐らく突発した徴候変化の最初の兆しである。今後第一に重要なことはもはや生産力を発展させることではなく、その生産物を贅沢に消費することである。
人口充満と産業平和の一世紀(1815年に戦争に明け暮れたナポレオン三世の帝政が終焉してから1914年の第一次世界大戦勃発まで)の後、発展・成長が一時的に限界に遭遇し、二度の世界大戦が富と人命の最大の狂宴(消費)を指令した。だが、これらの狂宴は一般的生活水準の著しい上昇と期を一にしている。
労働と技術によって、人間は授けられた限界を超えて、その拡張を可能にした。そのことは、人間が生命の圧力の提供する剰余エネルギーを激しく、豪奢に、消尽するのに生きとし生けるもののうちで最も適している、ことを示している。
八 呪われた部分
「人間が生命の圧力の提供する剰余エネルギーを激しく、豪奢に、消尽するのに生きとし生けるもののうちで最も適している」という真理は逆説的である。
「この逆説的性格は、充溢が頂点に達したとき、その意味がさまざまなかたちで隠蔽されるという事実によってさらに強調される。」
(エネルギーが過剰となって充溢が頂点に達するその時に)富の本分に、すなわち無報酬の贈与や浪費に戻ろうとする動きは、全て隠蔽される。機械化された戦争は人間の意志とは無縁なもののように見せかける。生活水準の上昇は奢侈の要求として現れないどころか、大資産の奢侈に反対する抗議が、しかも公平の名の下に行われる。公平を悪し様に言うつもりは毛頭ないが、公平が自由の深い真理を包み隠していることを指摘するくらいならいいだろう。公平の仮面の下に、じつを言えば普遍的自由が必要性に隷属して色あせた無味乾燥な容貌を呈しているのである。このような自由とは、もはや危険な解放でもなく、隷属の危険に対する補償であって、危険を引き受けようとする意志などではない。
富の蕩尽に対するわれわれの反応には一種の呪詛感がまつわりつく。すなわち、戦争の怪物的な形態への変質、蕩尽の不公平な奢侈的浪費への変質、という二重の変質に対する呪詛感。この「呪われた部分」は、富の増加がかってない最大のものとなる瞬間にその意味をわれわれに明示する。
九 「個的」観点に対する「普遍的」観点の対立
呪詛感は不安を前提し、不安は生命の横溢による圧力の欠如を個別的意味として告げる。全体として見た生命物質の充溢に基礎を置く普遍的観点に立つならば、不安は意味を持たなくなる(⇒従って、呪いは消える)。
現在の歴史的状況は、普遍的な観点に対する判断が個的な観点から始められる、という特徴を持っている。個的観点から出発すれば、問題の第一は資源の不足であり、普遍的観点から出発すれば、問題の第一は資源の過剰となる。普遍経済は貧困や成長を考察するが、資源の不足と過剰の双方が遭遇する限界と、過剰物の存在から生じる諸問題の決定的性格をも考慮する。
例えば、インドの貧困を例にとれば、この問題はこの国の人口成長から、またそれと産業成長の不釣り合いと切り離せないが、インドの産業成長はアメリカ資源の過剰物と切り離せない。今日の世界を特徴付けるものは人間の生命によって及ぼされる圧力の不均等性である(⇒力の不均等が差圧を発生させてついに爆発がおこるのは普遍原理)。
インドの人口成長の圧力がアメリカに及ぼす危機的脅威は、戦争の問題を抜きには語れない。危機を臨界点以下にするために、普遍経済はアメリカの富の無償譲渡を提唱する。
十 普遍経済の解決法と「自意識」
普遍経済が明らかにするのは、第一に、爆発的緊張の限界まで高められたこの世界の性格である。爆発的緊張の、めくるめく動きを止める力が無い限りにおいて、人間生活の上には呪詛がのしかかっている。
この呪詛を取り除くのは人間次第であって、呪詛を基礎付ける動きが意識の中にはっきりと浮かび上がらなければそれを取り除くことが出来ない。(⇒呪詛があると真実を見ようとせず、奢侈を公平に反するとして否定し、浪費を戦争に費やす。だから、生産・成長・貯蓄ではなくて、消費・贈与・蕩尽に価値を見出すような意識改革が必要)。
普遍経済の研究は、意識によって人間の歴史的諸形態の繋がりを自覚させる。「従って普遍経済学は現在のデータに意味を与える、歴史的データの記述から始まる」
第二部 歴史的資料(一) 消費社会
(一)
アステカ族の供犠と戦争
*(⇒アステカの記述は、大体『メキシコ事物起源考』(16世紀中葉の著者、スペインのフランシスコ派修道士ベルナルディノ・デ・サーグンの著1880年)に依る)
一 消費社会と企業社会
経済の全体的な動きを明らかにするために、いくつかの社会事象について概説する。まず一つの原則、それは、結果としては浪費を生み出す運動は多様であるということである。資源は色々の仕方で、蕩尽や成長に使われる。無限の成長はあり得ないから、知識の発達と結びついた成長であってもそれは同じである。人類の進化という歴史観に基づいた人間学は訂正を要する。(⇒ダーウィンの進化論の否定ではなく、進化論者の論の否定)
成長に隷属した人間は既成社会に囚われない(自由な)人間とは違っている。企業の必要に応えるために気ままに振る舞うことをやめた途端に、人間生活の様相は変化する。生真面目な成長人間は文明化し、温和化する。だが温和を人生の価値と混同したり、温和の持続を詩的活力と混同したりする傾向がある。こんな有様では人間が広く物事に関して獲得する明瞭な認識も全き自己認識にはならない。そのような人間性は、労働の果実を自由に享受すること無く働くために生きる、労働の捧げられた人間性である。民俗学や歴史に語られる無為な人は、無論完成された人間とは言えないが、われわれが自分に欠けているものを知る助けになる。
二 アステカ族の世界観における蕩尽
アステカ族精神的にわれわれと対極に位置している。彼らは文字を使用し天文学の知識や大きな石の建築物を作る技術も持っていたが、建築したピラミッドの頂上で人間を生贄として殺していた。
*(⇒アステカ族は、1522年にスペイン人によって滅ぼされるまで、メキシコ盆地で一世紀ほどの間栄えた王国を築いた氏族)
彼らの世界観は、その活動目標という点でわれわれと完璧且つ異様に対立している。彼らの思考の中では蕩尽が、われわれの思考における生産に劣らぬ位置を占めていた。われわれが労働することを心がけるのと同様に、彼らは犠牲にすることを心掛けた。
太陽そのものが彼らにとっては犠牲の表現であり、太陽は人間そっくりの神であり、その神は灼熱の炎の中に飛び込んで太陽になった。アステカ族には下記ような神話がある。
*まだ昼が無くて神しかいない頃、誰が世界を照らす役目を引き受けるのかについての会議が開かれた。そこで、誰にも問題にされず腫れ物だらけの神が、皆に言われて自ら灼熱の炎のなかに初めに飛び込んで太陽となった。言い出すのは初めだったが炎の中に飛び込んだのは二番目だった神が月になった。次いで全ての神々は風の神ケツァルコアトルによって皆殺しにされて心臓を抜き取られた。新しく生まれる星達の生命の糧に代えられるために。
三 メキシコ人の人身御供
(アステカ族の)神官達はピラミッドの頂で、生贄を石の祭壇の上に横たえて、黒曜石の短刀でその胸を突き刺して心臓を抜き去り、それを太陽に向かって差し伸べた。生贄は殆どが捕虜であり、そうすることで戦争が太陽の生命にとって必要であるという考え方を正当化した。
生贄には色々な犠祭が伴っていた。一年も前から優雅な暮らしを与えられる選ばれし者から生贄の祭壇から階段の下へ投げ下ろされる並の者まで、その数は毎年二万人ほどもいた。死者の皮は剥がされ、神官がその血まみれの皮を身にまとい、聖別された肉は食された。
四 死刑執行人と生贄との親密関係
アステカ人達は、男や女の生贄に対して、彼らが要求する食物などを与えたり、慰めたり、死への不安に耐えられるように色々な工夫をしたりして、人間的に接していた。戦争捕虜を連れ帰ったある戦士が、やがて生贄になるその男を息子と見なし、その男は戦士を父とみなしていた、という記録も残されている。
五 戦争の宗教性
捕虜の生贄を可能にする条件があった。それは戦争および死の危険へ挑戦するという価値観であった。後者は、生命の源である太陽と大地に進んでその身を捧げること(生贄になること)に繋がっている。
六 宗教の優位から軍事的効果の優位へ
(戦争が多かったからといって)アステカの社会は軍事では無く宗教が社会の支柱であり続けた。打算抜きの純粋な暴力(⇒生贄を捧げてそれを食す)と闘争の誇示的形態(⇒進んで死の危険に挑む形態)が横行する好戦的社会であった言える。軍事社会は一種の企業社会であり、目的を未来に託して発展することを目指すものであるから供犠の狂気は排斥される。奴隷の大量虐殺に象徴される富の消費ほど軍事組織に反するものは無い。
しかし、蕩尽の精神的原理は対内(⇒内的、心的、宗教的)暴力にあるから、陶酔的生贄制度は、捕虜を王国内の王の代わりに生贄にするという見え透いた緩和策である。(⇒対内暴力は自分に向かうのだから陶酔の下で生贄として死ぬのは自分のはずなのに、権力者は気分だけ死んだことにして生き残り、肉体的に死ぬのは捕虜である、という緩和策)
七 供犠あるいは蕩尽
「この緩和策に着目するとき、生贄奉納の底に横たわる一つの動きが表面に浮かび上がる。」
表面に浮かび上がるのは次のようなことか。有用性のために物化・俗化することで、それらと自分たちとを切り離して生命体としての基底の繋がりを断った後、供犠を執り行って物化した生贄を聖の世界に復活させる、つまりその繋がりを回復する。そのような供犠とは、生命が誤魔化し得ない陶酔(沸騰、熱狂、そして充溢)と暴力(生贄の殺戮)と、物化すなわち有用性を否定することの代償としての蕩尽を行うことである。乱痴気騒ぎで肉体も精神も暴力に晒したとしても死ぬのは生贄であって、自分たちの命だけは繫ぐということである。この考えに至る根拠を箇条書きにしてみると次のようになるようだ。但し、厳密には考察できない。人間を物の次元にまで完璧に還元出来ないからだ。
*人間と物は主体と客体の関係にあって、根底において内的参与(繋がり)の関係として合一する(⇒人間と自然物は根底において融合していると人間は感じ取っている)
*人間の奴隷的用途は、人間を物に変える(⇒植物はもとより動物もあまり抵抗なく物化出来るが、ときどき感謝などと言いながら祭儀をせざるを得ないのが人間なのだ。だが、対象が人間の場合はより複雑な手続き必要とする)
*破壊は人間と動植物との関係を否定する最良の方法だが、供犠においては普通全面的には消滅はさせない。それは供物の喫食が全部食べずに聖体拝受だけで済むことが示している(⇒破壊はそのくらいにしておかないと、人間は戦争で破滅するであろう、と暗示している)
*労働に従属し、他人の所有物と化した奴隷(囚人・生贄・捕虜)は、労役用の獣と同格の、物である
*奴隷はもう一人の自分であるという意識がある。そのような意識は奴隷を物化すると同時に己自身にも物としての制限を加えざるを得ない。それは、自分のなかにある物の部分が聖なる生命に還ることで、戦で死ぬことの正当かつ神聖な悦ばしい理由となる
奴隷は物化された世界つまり物の世界を生きている。物の世界は、俗の世界であって決してあるがままの世界では無く、太陽が遮られた曇りの日の景色みたいなものである。私の眼前にあるのは、太陽が遮られることで浮かび上がってきた事物ではなくて宇宙なのである。太陽の光で見えてくる聖の世界があると感じるのは全く正当なことなのだ。
光は生命の内奥性を授ける。内奥性は生命の奥深いありようであって、主体はそれを自身と同じものとして、且つ宇宙の透明性として認めるのだ。
あるがままの姿を物の次元に還元するのは奴隷状態に限られたわけではない。最初の労働が物の世界の礎を据え、以来人間は少なくとも働いている時間には、自らその世界の事物の一つと化してしまった。かかる堕落から逃れようと、あらゆる時代の人間は努力してきた。その異様な神話の中で、その残虐な祭儀の中で、当初から人間は失われた内奥性を求めているのである。
宗教とは、その幾久しい努力であり、その苦悩に満ちた探究である。常に目指すものは、人間を現実の次元から、物の貧しさから引き離し、崇高な次元へと戻すことである。宗教によって、物化した動植物を内的世界に戻し、そこから人間は聖なるお告げを受け取り、そのお陰で今度は人間が内的自由に戻される。
この深奥な自由の意義が破壊の中で示されるのである。破壊の本質は有用な物を利得なしに蕩尽することである。供犠は、供物を営利から切断した後それを破壊する。それは、再び現実には戻れない破壊の領域を創出することであり、このことで暴力をそこに閉じ込めて解放するのである(⇒つまり、供犠による暴力封じ込めは、共同体の滅亡防止のための社会の安全システムになっていた、と)。
(⇒以降上記の考えが繰り返される。少し補足されている部分だけを下記する。)
*今後の事を気遣う必要が無ければ、財産の消費に躊躇する理由が無くなる
*無節操な蕩尽は己の内奥を同胞に開示する。隔離された諸存在が通じ合える道である
*供犠に関与する人間は暴力の危険にさらされるが、それを回避する儀式的形態がある
*共通労働組織を構成する人々には、労働や保存への配慮が必要となる一方、暴力の制限された解放(生贄だけが暴力の対象)としての内奥性の解放が必要となる。しかし、それは共同体の維持に役立つ段階であって、企業の段階までは達してはいない(⇒労働に代わり企業=資本が、人間の根源的自由を制限する段階になると、全員が意図しないうちに生贄になっちまうと?)
八 神聖にして呪われたる生贄
生贄とは有用な富から除かれた一種の剰余である。この剰余は保存されずに蕩尽されるだけの呪われた部分となる。
生贄は聖別から死に至るまでは、余命幾ばくも無い祭典の中で歌い、踊り、奉納者達とともにあらゆる快楽を享受する。
(⇒バタイユはサーグン達の著書『メキシコ事物起源考(1880年刊)』多くを引用しているが、彼らが聞いた現地人の話からの解釈なので、どの程度までが本当なのか解りようがない部分もあるが、次のことは確からしい)
*人身御供の内幾人かは神々に捧げられるのを栄光とみなしていたことはあり得る
*人身御供達は自発的では無かった
*死の狂宴(生贄の儀式)は異邦人に感銘を与えるが故に黙認されていた
*身内の中から選んだ子供らを生贄にしたが、生贄の逃亡を防ぐのが困難だった
*供犠の熱狂が苦悩を凌駕するのは生贄外国の捕虜である限りであった
(二)対抗的贈与(「ポトラッチ」)
一 メキシコ社会における誇示的贈与の普遍的重要性
アステカ族の「民の長」(王、主権者、souverain=至高者)にとって、誇示的諸費に専念するのは職務の一つであった。より古い時代には、供犠の締めくくりとして彼自身が人身御供となって無限の意味を沿える役目を果たしたに違いないが、結局のところ彼の権力が彼の命の代わりにその富を与え、かつ遊ばねばならなかった。
主権者は最高の金持ちであったが、その他の人々もその力に応じて出費しなければならなかった。それは己の力を示す機会が与えられたことでもあった。祭りの饗宴には莫大な消費が伴った。
二 富裕者と祭式用浪費
メキシコの「商人」と彼らが従っていた習慣について、スペインの編年史家達は正確な報告を残している。商人達は、時に闘いながら危険な長旅を指揮したので敬意が払われていたが貴族の対等者までの力はなかった。
メキシコの大「商人」たちは利得の定法に正確には従わず、或る種の気風を保っていた。彼らは売るのではなく贈与による交換を行っていた。彼らは王から贈り物を受領して、各地の国の領主にその富を進物し、その領主達は別の進物を王に届けさせた。
このような慣行における交換物は、ただの物ではなく、その贈与は栄誉の表示であり、与えることは己の富と幸運(威力)の表明であった。商人達は遠征から帰るや否や、真っ先に饗宴を催して人々招き、山のような贈り物や接待をした。祭典は幻覚を生み出す麻薬の吸引から始まり、酔いが覚めると来客達は互いに自分の幻覚を語り合うのであった。
それほど頻繁ではないが、神聖な式典であるバンケツァリストリと呼ばれるお祭りの時に、「商人」は破産するほど出費の嵩む饗宴を催し、奴隷達を生贄に供した。着飾った奴隷達は客達がよく見えるように壇上に登らされ、礼を尽くした接客をさせられた。生贄の刻限が迫ると、商人達は奴隷の一員のごとく身支度をして、奴隷と神官が待ち受ける神殿に赴いた。奴隷達は武装して、途中で略奪に来る戦士たちから身を守った。もし途中で捕らえられたら「商人」は戦士に代償を支払わねばならなかったからである。生贄の式には君主も臨席し、その後「商人」の家で人肉喫食が行われる。
三 北西部アメリカ・インディアンの「ポトラッチ」
アメリカ北西部インディアン達は、民俗学者達によってポトラッチと呼ばれる奇態な交換方式を今も尚行っている。それは、前述したようなメキシコの「商人」達の常習的贈与のようなもので、獲得の欲求ではなく損失或いは浪費の欲求に答えるものである。
ポトラッチは商業と同じく富の流通手段であった。首長が別の首長に贈与するのは、大抵の場合、侮辱し、挑発し、債務を負わせることが目的であった。受贈者はこの挑戦に応じなければならなかった、より気前のよい贈与によって。
ポトラッチの形式には、贈与だけではなく破壊も含まれている。破壊は、建前上は受贈者の神話的祖先に捧げられ、殆ど供犠と変わらない。19世紀、北西部沿岸のインディアンの首長の間で、双方の奴隷を相手の面前で殺戮し合った。また、村落を焼き払ったりカヌーを焼き払ったりした。シベリア北東部のチュクチ族が高価な橇犬を屠る例もある。(以上の例は『社会学年報』1923-1924年号掲載「贈与論、原始的社会における交換の形態および動機」マルセル・モース著、からの引用)。
四 「ポトラッチ」の理論(1) 権力「獲得」に帰着する「贈与」の逆理
ポトラッチは宗教的行動と経済的行動の関連を匂わせてはいるが、そこに共通する法則を前者からは見出せないだろう。しかし、「普遍経済」の意味によって定められた観点からならば、ポトラッチが成立する経済的法則を見出すことが出来る。
このポトラッチという奇妙な制度には、われわれの振る舞いの数々を説明できる法則があり、従ってまたそれは「普遍経済」の面で重要である。もし、われわれのうちに、理性が追求する有用性には還元出来ないエネルギー消費・浪費・蕩尽の運動があるならば、この過剰分の消費が問題となる。この過剰分の消費は物の破壊か贈与しかなく、このことで獲得するものは、超越・力・権力である。贈与には与える主体の超越という効能があるのである。
五 「ポトラッチ」の理論(2) 贈与の見かけ上の無意味性
ポトラッチにおける贈与には利子をつけた返済が行われる。そのことで負い目を取り除くことが出来る。利子を受け取ればそのことを耐え忍ぶことになる。贈与だけ見れば無意味だが、このやりとりの中に意味が生じ、浪費・蕩尽の「普遍経済」原理が見えてくる。
六 「ポトラッチ」の理論(3) 「身分」の獲得
ポトラッチによって贈与者が獲得するものは身分である。威信、名誉、身分は権勢(権力)とは違う。権勢が実力や他人の地位・財産を奪うような特権から進んで逃れる場合には、威信が権勢に代わることができる。権勢と失うことが出来る能力の一致は根本的なものである。実力や特権は、人間的には贈与することができる価値より低位にある。自分の生命を全部賭ける人間の優越の結果は栄誉となる(⇒己の生命を物化して超越に贈与・蕩尽する)。それは実力や特権とは別物で、熱狂的衝動、無制限なエネルギー浪費運動の現れである。戦争と栄誉の意味は、ポトラッチに示される生命資源の無分別な消費による身分獲得に結びつけて考えないと、充分には把握できない。
七 「ポトラッチ」の理論(4) 基本法則
ポトラッチは人間の根本的多義性をわれわれに教える。そこから以下の如き諸法則を引き出すことが出来る。そのことは根底において決定的な力の機能を提示する。
「ある時期に、ある地点で、恒常的に社会が処分できる過剰資源は、全き占有の対象とはなり得ない、しかしその過剰分の浪費の方は占有の対象になりうる。」
「浪費の中で占有される物は、それが浪費者に与えるところの、彼によって一種の富として獲得され、そして彼の「身分」を決定づける威信である。」(⇒威信財、例えば古墳時代の銅鐸)
「逆に、社会内での「身分」は、道具や田畑と同様に占有されうる。例え究極的には利得の源泉になるにせよ、理屈から言えば手に入れることも出来たはずの資源を、思い切りよく浪費することによって、身分のもとが決まることには変わりようがない。」(⇒身分は占有されうるが、浪費が身分をきめることは変わらない)
八 「ポトラッチ」の理論(5) 多義性と矛盾
人間は、過剰分を浪費するだけでなく、他者に対する優越性を目指して誇示的に蕩尽するためにより多くの獲得を渇望する。この行為は、有用性を否定しながらそれを肯定するという矛盾に陥らせる。そのことによって、人間の存在が一種の曖昧性に陥ってそこから抜けられなくなるのである。また、遊びは過剰な事物を無益に使用したいという願望である。その点では誇示的蕩尽と同様である。
人間は掌握不可能にしたい(⇒蕩尽、破壊したい)と望んだものを掌握しようと努める、という矛盾の下で曖昧性に陥るのだ。(⇒この「曖昧」は、ハイデガーが用いた用語=「情状性」「了解」とともに人間実存の三契機の一つである「了解」の頽落形態か?)
身分は、こうした歪んだ意志(⇒人間存在の矛盾を放置したいという意志)の所産である。身分を基礎付けているのは聖なるもの(威信、身分、名誉)であり、身分は聖なる序列であって事物とは反対のものであり、功利的使用の道具であるハンマーとは無縁なものである(⇒『存在と時間』の道具存在を思い出す)。
しかし、(身分に属している)曖昧性は俗世界の営みを和らげ、欲望の激しさから意味を奪うことでそれを喜劇に変える。
われわれの本性の中で行われるこうした妥協(⇒曖昧性)は、歴史において錯誤をもたらし、作術・失策・陥穽・搾取・怒りの連続を予告する。それは、掌握できないもの、つまり儚くも詩としか、情念の深み、あるいは内奥としか呼びようがないものを、影のようなものを、掌握(⇒物として)しようとする限り必然的なことなのである。
ポトラッチの矛盾は、広く供犠も含めて歴史の事実(⇒行為の記録)のみならず、思考の営みの中で露呈される。
九 「ポトラッチ」の理論(6) 奢侈と貧困
無辺(制限のない)の生命界から切り離された諸存在が生の要求をすると、利害なるものを創りだし、それに向けて活動をする。だがそれでも生命の普遍的運動は個々の諸存在の要求を越えて行われるから、結局利己主義は欺かれることとなる。結局「富者の欺瞞は真実に変えられる。」(⇒蕩尽しないで溜め込めば、爆発するという真実に直面するだけ)
ポトラッチは贈与なので供犠のようには蕩尽をしていないとはいえ、生産的消費から富を奪い取る制度であることにはかわりない。供犠は、有用な産物を世俗的流通から引き離す。ポトラッチの贈与は、もともと実用的でない物品を流動させる。原初的奢侈産業がポトラッチの基盤である。
奢侈は、それを享受する連中のさもしい計算があらゆる面で破綻するとしても、太陽の光輝に連なる富の中で光り輝くものであり、情熱に呼びかけるものであり、充溢という真実への無限なる生命界の復帰である。今日の社会は、この富の真理が貧困へ移し替えられている途方もない偽物である。本物の奢侈は富への完全な侮蔑を要求する。
「もし弊衣の輝きと無関心の陰気な挑戦がなければ、軍隊の搾取と、宗教瞞着と、資本家の着服の彼方に、今後なんぴとも富の意味を、すなわちそれが告知する自爆的、浪費的、かつ氾濫的なものを見出すことは出来ないであろう。欺瞞は、結局、生命の充溢を氾濫に捧げると言えるだろう。」
第二部
歴史的資料(二) 軍事企業社会と宗教企業社会
(一)
征服社会―――イスラム教
*(⇒本章の記述は、『カイエ・デュ・シュド』誌の特集号(1947年)に掲載されたエミール・デルマンガン(⇒バタイユは著者の学識、誠意に敬意を払っている)の見解とモーリス・ゴドフロア=ドモンビヌ著『イスラムの制度』(1947年)を参照している)
一 マホメット教にたいする意味付けのむずかしさ
イスラム教は仏教、キリスト教とともに世界三大宗教の一つである。信者は定められた倫理規定を果たしさえすれば死後の幸福が約束される。唯一神を妥協なしに主張し、キリスト教の三位一体は唾棄すべきものとする。マホメット(AD571-362年)は、神の使徒で神の神聖には近づけない啓示の栄誉に浴した一個の人間とする。背景にはユダヤ・キリスト折衷教の伝統が認められるが、言及されるアブラハムもイエスも単なる預言者。マホメット教信者による征服、帝国崩壊、モンゴルとトルコの侵攻、今日におけるマホメット教勢力の衰微は、よく知られた史実である。
(⇒上記説明は表面的なので、もう少し詳しく記述してみると、次のようになる)。
マホメットが話しかける言葉は仏陀やキリストのようにわかりやすくかけがえのないものではない。仏陀もキリストもわれわれに話しかけるが、マホメットは別の人間に向かって語りかける。
「神は制圧者を好まず」とコーランは言うが、イスラム教の諸価値において自由と寛容を強調するのは適当ではなく、至上権が遍く専制的な点を見逃してはならず、自由とは反乱の中で確立されるもの(としての)不服従と同じものだ。
イスラムという言葉そのものが服従を意味している(神に服従する)。この宗規は、多神教徒の部族からなるアラブ人のむら気な男性的性格、個人主義とは対立し自由と真反対である。
聖戦(ジハード)が、非教徒ではなく自らに対する戦いであるとか、初期の征服物語にあるよう慈悲であるとか、そのような緩和された性格をイスラム教徒の主義から切り離して評価するのは間違いである。彼らの主義からすれば、非教徒に対してなら一切の暴力は善なのである。
イスラム教は征服の方法的努力に応用された戒律である。
二 聖遷(ヘジラ)以前のアラブ族の蕩尽的社会
聖遷以前のアラブ世界には群小の族集団があり、そこでは部族間の掟の下で猜疑的な個人主義と詩的なものの重視、誇示的贈与と浪費が盛んであった。そしてコーランの教訓「より多く得んがために与えてはならない」からみても、おそらくポトラッチの儀礼的形態が存在したであろう。
*(⇒聖遷=ヘジラとは、AD622年=イスラム暦元年位に、マホメット一派がメッカで迫害を受けたのでメディナへ移ったという史実)
イスラム以前のアラブ族は、アステカ族以上に軍事企業社会ではなかった。アステカは軍事的支配権をふるったが、アラブ族はそうではなかった。
三 草創期のイスラム教、あるいは軍事企業に帰着した社会
マホメットはヘジラ以降、メッカを奪還し、習俗に縛られたアラブの部族世界秩序を破壊してイスラム教という新秩序の下に統一し、軍事的に征服し、それを新たな一つの共同体として創り上げた。その原動力は敬虔主義(⇒信仰の内面性・敬虔・実践化)的ではあっても、その結果は資本の蓄積が支配する経済を生み出す原理(⇒蓄積と成長と力の原理)と同じである。そのことにおいては、資本主義の起源についてのウエーバーやゾンバルトの考えと同様であって、H・ホルマの言うように、初期イスラム教はユダヤ教や清教徒と変わりはない。も少し説明すると次のようになる。
*当時のアラブ世界は血縁で結ばれていた共同体なのでヘジラはその切断すなわち死を意味していたので、マホメット達が生き残るためには血縁以外の新しい絆を必要とした
*イスラム教の清教主義的行動(⇒イギリスの清教徒的行動)は、無秩序がはびこってしまった工場の管理者のそれに似ている(⇒生産力向上目的での無駄撲滅、整理整頓)*コーラン及びハディースは、イスラム以前の詩歌の気まぐれな世界と対照をなす。その説明は以下
・(⇒『コーラン』は、唯一神アッラーが人々を導くために、預言者ムハンマドにアラビア語でくだした言葉(=啓示)を集成した書物。『ハディース』は、預言者ムハンマドの言行に関する伝承)
・ムルワ(イスラム以前の「雄々しさ」)の代わりにディン(信仰と服従)を信望
・部族内の血の復讐は禁止するが非教徒に対してはOK
・幼児殺害(間引き)、禁酒、対抗的贈与の禁止、社会的に有益な施しの勧め
・極度の気前よさは俄に嫌悪の対象、気前よさに属する個人的自尊心は呪われる
・「金離れがよく、一徹で、野性的で、乙女を愛しかつ愛される戦士、部族の詩の主人公」は「教理と祭祀の絶対的遵法者である敬虔な兵士」に席を譲る
・そして、合同祈祷のしきたりが外部から絶えずこの変化を確立する
・人心を統合して機械化する軍事教練にそれが例えられたのは適切である
蓄積する厳格性と消尽する濫費生(酒井訳:鷹揚性)との循環交代は、生物にしても社会にしても力組織の成長を可能にするエネルギー使用における普通の出来事である(⇒バタイユの仮説)。イスラム教の場合には、当初から無際限な成長に向かって開かれていた権力への道であり、またそれを可能にしたのは幸運(⇒状況の偶然性)と最小限の必要性(⇒必要エネルギーは最小で、過剰分は成長・拡大へ)であった。もう少し説明すると以下のようになる。
*熱狂を鼓吹して人々を集めるのは比較的容易だが、蓄積されている力を何かに適用すべく解き放ち飛翔するためには、なすべき何ものかを与えなければならない
*イスラム教は、それが誕生した部族と絆を断たざるを得ないという死に該当する脅しを受けたので、別の絆を設定せねばならないという、結果的に見れば幸運に恵まれた
*聖遷は、血縁の破棄と同時に、宗教的形式を採用する者たちに開かれた選択的同胞愛に基づく新しい共同体の立場を確立することになった
*キリスト教は贖罪者である一人の神の個的誕生からから始まるが、イスラム教は血縁も土地もなかった一つの新たな種類の共同体としての国家の創建から始まる
*イスラム教は、血縁や地縁を基盤とする既成社会の枠内に普及していたキリスト教および仏教とはとは別個なものであり、それは新たな教えに基づく社会の設立であった
*イスラムの原理はある意味で完璧であり、宗教の長は同時に立法者であり、裁判官であり、軍の総帥であった、という意味において妥協的なものは必要なかった
*イスラム社会の連繋の源は意志の力であったが、その意志には連繋を断ち切る力はなかった(⇒意志とは、それを信じるほか生きる道のない教説を個人が選択をした意志)
イスラム教は、無駄なく目的を達成する見事に組み立てられた一個の機械であった。征服の経験がハディースとして、コーランと並んで体系的な拡張の手段に仕立てられて、ますます成長する閉鎖的勢力組織に(内部の)破壊を伴わない新たな資源を授けた。この動向は資本の蓄積による産業の発達を呼び起こすものである(⇒資本主義と同根である)。イスラムのこの完璧性には代償が伴っていた。その代償とは、より大きな力を求めることで「生命は即自の処分能力を喪失する」(⇒バタイユの仮説)と言うことに基づいている。イスラム教は、「宗教を道徳と、施しと、そして祈祷の励行に限ることによって、生贄を切り詰めたのである。」(⇒宗教を軍事の下に置いて征服に利用した)。もう少し説明すると以下のようになる。
*キリスト教社会および仏教社会が政治に奉仕することで精神的衰弱に陥ったが、イスラム教は、宗教的生活が軍事的必要へ完全服従することで、もっと精神的衰退に陥った(⇒それは「生命は即自の処分能力を喪失する」ことを意味した、と)
・イスラム教徒は部族社会の浪費性だけでなく、一切の活力消費を遍く放棄
・供犠の中で最高度に達する対内暴力は、初期イスラム教においては二義的役割
・イスラム教は蕩尽ではなく、資本主義と同様に、利用可能な諸力の蓄積
・イスラム教はいかなる劇化(ドラマ化:酒井訳)とも、心ときめく観劇とも無縁
・イスラム教には、磔によるキリストの死や仏陀の入滅の陶酔に当たるものはない
*イスラム教は、暴力を解き放つ軍事的主権者の様であり、暴力を耐え忍ぶ宗教的主権者と対立する。軍事的主権者は決して生贄には捧げられないからである(⇒バタイユ風の理由)。
・軍事的主権者は暴力を外部に導き、内部の蕩尽から共同体の生命力を守るために存在する(⇒蕩尽は滅亡に至る、と軍事的主権者は考える。バタイユは違う)
四 後世のイスラム教、あるいは安定への復帰
勝利と征服によってイスラム帝国が成立するや否や、イスラム教は成長に向かっての活力の源であることをやめて、空疎で硬化した枠組みだけが残った。ここに、イスラム教の意味は失われた。イスラム帝国は被征服諸国の影響を速やかに迎え入れ、それを受け継ぎ、奇妙なことにイスラム以前のアラブ文明の土台が再び見出されるようになった。フランスへの影響についての補足をしてみると以下のようになる。
*かの諸部族のムルワの如きのもが、暴力が浪費と、愛が詩と結びつく騎士道的価値が保存されていた。フランス人がイスラム教から受け継いだものは、マホメットからの寄与ではなく、この禁じられた価値に属するものである
*アラブ世界の騎士道制度はイスラム世界とは全然無縁なものであるが、フランスの騎士道的宗教に影響を与えている
*フランスの騎士道的という表現は、十字軍(11~13世紀)の時代に、詩的な、情熱の価値と結びついて新たな意味を帯びることになった
*フランス南部(オック語圏)における、情熱の詩である騎士道詩の誕生は、11世紀のアンダルシアにおけるアラビア語詩の全盛と深い関係があることが知られている
(二) 非武装社会―――ラマ教
*(⇒本章の記述はイギリスの外交官サー・チャールズ・ベルの遺作『ダライ・ラマの肖像』(1946年刊)を参照している)
一 平和な社会
「極端な例を挙げることによって、対照はいっそう顕著になり、諸要素の働きがいっそう理解しやすくなるものだ。」文明の一典型の見本として、ローマや中国ではなくイスラム社会を取りあげたのもそういう事であった。今度は、非武装社会について、キリスト教会の代わりに、ラマ教(⇒チベット仏教の別名)を取りあげる。
チベットは、攻守両面で無能力な非武装社会である。なぜだろうか、地理的条件、仏教の教え、主権者は高位の聖職者、などの理由が考えられるが、類似の他国と比較すればそれぞれの理由に反論があり得る。いずれにせよ、侵略を前にして完全な無気力な反応とは奇妙なことだ。
二 近代チベットと、そのイギリス人編年史家
ダライ・ラマ13世(1867-1934年)と長続きした交流を持った最初の白人であるチャールズ・ベルのこの著作は、手ずから渉猟した資料集、諸々の事件に係わり合った一証人の編年史である。彼の主張は、イギリスがチベットを援助して独立を確保させ、中国の軛から独立させるべきだというものであった。しかし、イギリスは中国とインド間の緩衝国としてのチベットの価値を理解していたが、行動は慎重であった。
チャールズ・ベルがラサに一年間逗留した時、チベット政府を軍事政策に引き入れようとした。しかし、そこで大きな障害に遭遇した。「彼が遭遇した障害はまさしく経済上の一種の逆説を明らかにするものだ。人間社会の種々な可能性と、一種の均衡の普遍的条件が、そこからいっそうはっきり浮かび上がる」。
三 ダライ・ラマの純宗教的権力
チベットの歴史の概要は次のようなものである。AD640年、当時何人かの王によって支配されていたチベットに、仏教が伝えられた。8世紀には、チベットはアジアにおける軍事勢力の一つであったが、次第に仏教の王権が広がって僧院の勢力が王の勢力を内部から脅かすようになった。11世紀に宗教改革者ツォン・カ・パが現れて、より厳格な一宗派「黃帽派」を創設し、紊乱した「紅帽派」と対立した。「黃帽派」の最高位者には聖性、神聖が付与されて後継者に引き継がれ、霊的権力と宗教的至上権を与えられた。当時のチベットでは、有力な僧院は国家内の国家のようなもので、世俗的統治権も把握していた。「黃帽派」の一人で、ラサ近郊の僧院「米の山」の大ラマ僧は、モンゴルの首長を後ろ盾にして、「紅帽」王を打ち倒し、ダライ・ラマの称号を授与されてチベットを権勢下においた(⇒17世紀中頃)。ダライ・ラマの霊的権威、至上権はこの世俗的権威の結果であったが、軍事力を持とうとしない、あるいは持てない神政政治であり、政府や地方の諸政体の性格は不明瞭であり、チベットと中国との関係も同様に不明瞭であった。したがって他国の実力を阻み得ない。現にチベットは中国の宗主権の下に転落したが、この主従関係の解釈は双方で違ったままで、結局曖昧であった。この状況を理解するための補足説明は下記。
*仏教思想の影響、例えば輪廻転生(ダライ・ラマの至上権継承思想)
*古代から、チベットは中国に服属してきたが、封土と宗主の関係ではなかった。結局力関係には違いないとしても、それだけなら、忽ち力によって覆されることになる(⇒別の理由があると)
*中国は17世紀からチベットに干渉し、ダライ・ラマの選択を裁量し、代官が主権を持ち、しかも駐屯軍数は少なかった
*ダライ・ラマの継承方法は、長い空位(20年ほど)を生み出すようになっていたので、摂政(⇒中国の息がかかっている)による権力剥奪はますます容易であった
・チベット人の信仰によって、ダライ・ラマは死なずに、忽ち再生する
・ダライ・ラマが死ぬ前に、条件を満たす後継者の少年をさがすのに5年程、さらに19歳までは大権を行使しないから合計約20年となる
・摂政の期間をより長くするには、主権者が早死にすれば良い。第十三世ダライ・ラマ以前の四人のダライ・ラマは大権掌握前や直後に死んでいる
四 第十三世ダライ・ラマの無力と反逆
ダライ・ラマ十三世(1876―1933年)は運良く生き延びて1895年に聖俗ともに全権を授けられた。これは恐らく中国勢力の衰退のためだろう。彼は世事から隔離されて瞑想三昧の僧になるための教育、つまり無知の中に閉じ込められた教育しか受けていなかった。若い君主はこれに気づいて学び始めたが、現実との隔たりは大きかった。初めの試練は、イギリスのインド総督によるチベット市場開放要求問題であったが、若いダライ・ラマは対応に失敗し、中国に4年間亡命した。続いて今度は中国に幽閉されそうになり、今度はイギリスに7年間亡命した。結局中国の束縛から解放されたのは1911年の清朝崩壊によってである。しかし、チベットは結局自立した国にはなれなかった、あるいはなろうとしなかった。
ダライ・ラマ13世に存命を許したのは外部圧力の一時的弛緩であった。もともとかれは現実には生存力を持っていなかった。9世、10世、11世、12世のダライ・ラマと同じように「権力の可能性が与えられたその日に消滅するのが、じつは彼の本質の一部だったのだ。<中略>第十三世は、けれども、その幸運を細心に受け止めた。外部に対して本質的に無防備で、外部から死しか期待できない、行使され得ない権力の責任を、彼は細心に受け止めたのである。」このような状況を理解するための補足説明を以下に記した。
*イギリスによるチベット市場解放欲求問題に背景には、ロシア勢力が中国人を利用してチベット市場を狙っていた状況がある。対応に失敗したダライ・ラマはイギリス軍の介入を招いて、部分的市場開放と外国の進出防止を狙った条約を結ばされた。この条約はイギリスの勢力圏を明示していたが、他方では暗にチベットの至上権を認めていた。それは中国の宗主権を無視するものであったからである
*ダライ・ラマの4年間にわたる中国亡命の間、活き仏と天子国の関係は終始緊張関係にあり、かつ煮え切らない関係にあった(⇒不明瞭で理解と予測が困難)。結局ダライ・ラマは突飛にラサへ戻ろうとしたが、天子国はチベット政府の閣僚を殺して、彼を幽閉しようと追っ手を差し向けたので、再び逃亡を余儀なくされた、今度は南の方へ
*イギリスへの亡命はみじめなもので、冬の吹雪の夜中に、彼とその一族は南方のイギリス国境通信所に辿り着いて保護された。「こうして最もよく確立された宗教的権威でさえ、武力の上に立つ現実的権力の意のままにあることを、彼は証明したのである。」イギリスは彼を迎え入れたが、イギリスはチベットが強力になって中国の軛から解放されることを祈るという希望を述べただけで、支援は拒んだ
*ラマ僧院の勉学は最も造詣深いものに属していて、僧達は難解な議論に長けている。だが、それに期待できることは、政治的必要事についての感覚を目覚めさせるよりも、むしろ眠らせることである
*ダライ・ラマは亡命の歳月を政治の運営に役立つ知識の習得に有効に使った。そして、先進文明の豊かさも、そこから取り残されたチベットの状況に対する無知も、拒絶し得ない外部勢力の働きがあることも、自覚した。より正確には「神聖な宗教的威力は、己の限界を認識したのである。さらに、軍事力なしには、それは何事もなしえぬことを。」
*そこで、ダライ・ラマ13世は、彼の権力を精神的主権に限り、対外的主権の責任とチベットの対外関係に関する決定権とを、かなり思い切りよくイギリス人に進呈することに決めた。しかし、この提案をイギリスは検討しなかった。イギリスが望んでいたのは、チベットに対するイギリス以外の権利を制限する権利であって、責任ではなかった。そして、ダライ・ラマは援助も武力もなく世界の残部(チベット)と対決することになった
*チベットは歴史のある時期に、威信は全て、神聖な伝説と催事にとりまかれたラマ僧に帰して、君主の方は蔑ろにした。この制度は軍事力の放棄を導き、軍人の力は衰えた。つまり外部の圧力に抗する自らの力を内部から破壊した
五 軍事編成画策にたいする僧侶の反逆
中国の疲弊と政変(⇒1911年の辛亥革命と清朝滅亡、その後の列強による侵略など)によってもたらされたチャンスに、ダライ・ラマ13世は剥奪された力をチベットに取り戻そうと思い立った。ラマ教の力だけではなくチャールズ・ベルの協力で軍事の実力を持つことによって。しかし、僧達は地位の保全に必要な費用の削減に繋がる軍隊の維持に反対した。軍事編成の画策は僧侶の地位を脅かすだけではなく、民衆にも影響を及ぼした。チベットでは、儀式や祭典のみならず、言辞や意識、要するに人間生活全般を僧侶に依存してからである。だが1920~21年にかけての冬に、暴動と内戦の脅威を孕んだ事態が発生してダライ・ラマ13世の目論見は失敗した。状況のもう少し詳しい内容は下記。
*チャールズ・ベルはインド政府の工作員として、軍事編成計画に協力した。具体的には20年間で軍隊を6000名から17000名に拡張し、その費用は民間と修道僧に対する資産税を割り当てることであった。計画はダライ・ラマの権威で当面可能に見えたが、継続するのは困難と思われた。それは一つの社会の本質を変えるのは簡単なことではないからである
*1909年に中国人はチベットの僧院を焼き払い、聖職者達を殺害し、諸々の経典を破壊したが、チベットは変わらなかった。チベット社会が僧院だったからである。人々は次のように応酬した「闘うことがまず主義の放棄にかかわるのであれば、ある主義を維持するために闘うことは、何の意味があるのか。」(⇒主義を守るのが生きることである。闘おうとそうでなかろうと主義は不変。主義とはラマ教)
*1920~21年にかけての僧侶の反逆は、闘うことがラマ教の主義に反するという意味において修道界に対する背信の趣をも呈していた。この反逆は簡単な取り締まりによって収まってしまったが、問題は群集の当初の動きがこの反逆を極めて熱心に支持したことである。この矛盾の深い理由を探る必要がある(⇒民衆は主義を守ることが生きることであると言っているのに、それは外敵に対してであって、暴動・内乱・内敵に対してではなかった、ということになるから、矛盾する。)
六 超過量全体のラマ僧による蕩尽
社会的行動は社会構造の物的諸力の働きによって動かされる。この反対運動を動かしたのは道徳的(=チベット仏教的)懸念ではなく僧侶達の利害である。チャールズ・ベルの資料は(彼は意識していないとしても)その点においても貴重な資料を残していた。1917年におけるラサ政府予算とその内の軍隊の予算、およびそれとは別にベルの見積もりがあって、総合すると、教会の全予算は国家の二倍、軍隊の予算の八倍になるはずである。
一国の予算配分をこのように極端にしていること、「一国全体がこのような僧院になることを、つまり現実世界のただ中でこの国が、そこに組み込まれながら、結局その中で自らを不在にすることをあえて願った深い理由を次に示さねばならない。」
七 ラマ教の経済的解明
全体としての社会は、その存続に必要である以上に生産し、剰余分を処分する。これは経済の普遍法則である。剰余の使用法がその社会を決定づける。剰余が動揺の、構造変化の、さらには全歴史の原因である。剰余の使用は、通常的には成長である。成長にはいくつもの形態があるが、どれもが最後には限界に突き当たる。人口の成長が限界に突き当たれば軍事的な征服が余儀なくされ、軍事的限界に達すると剰余は宗教の社史的諸形態を、またそこから派生する遊戯や見世物を、個人的贅沢を生み出すに至る。
歴史的に、社会は成長の停止と成長の再開を繰り返す。その間に社会の平衡状態があって、そこでは増大した奢侈的生活と縮小した戦闘的活動が剰余に最も人道的な捌け口を与える。しかし一方、平衡状態そのものが社会を瓦解させていって不均衡へと引き戻す。不均衡な社会は、早急に自らの力の増大を試みる。その際には道徳律の変更も辞さない。例えばイスラム教がそうであった。イスラム社会は成長の限界に達すると、つつがなく元の平衡状態の世界に戻った。現代では剰余の最大部分は資本的蓄積となっており、成長を余儀なくされていると同時に成長の可能性を失っている。
チベットの歴史状況は、イスラムや近代世界と裏腹である。15世紀まではチベットの貧しい人々は高原を下って周期的に豊かな地域に襲いかかることを余儀なくされた。というのは、そうしなければ成長をやめねばならなかったからである。ところが、この成長は銃砲による効果的な抵抗によって限界に達した。そこで新たに剰余の処分法を見つけねばならなかった。それは超過分の総体を僧院に与えるという道だった。つまり過剰分は全部純粋損失として消費すること、これである。逆説的なラマ教の世界においても、このことは当てはまる。チベットの状況の補足的説明を下記する。
*火器の発明以来完璧な形態になった(⇒外敵の力が圧倒的となった)
*成長への転換(再開)の望みを奪われて閉塞的孤立に陥った
*貧しくて、侵略されても占領されない国は過剰分の内部処理が可能な構造となる
・僧集団の独身制(⇒人口増防止)
・僧院の巨大な収入はすべて純粋損失としての消費されるほかはない
・労働者の生活水準はヒンドスタンや中国人より上(⇒平衡状態社会の特徴)
・厳しい自然環境下での人々の快活で陽気で放埒な態度(⇒ラマ教の啓示は消費の神髄を精神的に実現している。蕩尽とは、打算なく与えること、失うこと、である)
過剰分の消費を、イスラムは残らず戦争に、近代世界は産業施設に充てた。それをラマ教は、瞑想的生活に、この世における感性的人間の自由な遊びに充てたのである。
「最近の歴史はその(=チベットの)逆説的な意義をますます際立たせている。それは経済的均衡の一般条件について明確な指示を与えるものだ。すなわち人間の活動をその限界に直面させ、軍事的あるいは生産的活動の彼方に、それはいかなる必要性にも従属しない世界を描き出す。」
第四部 歴史的資料(三) 産業社会
(一)資本主義の起源と宗教改革
*(⇒ここでの参照文献は主として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年マックス・ヴェーバー)およびの『宗教と資本主義の興隆』(1947年R・H・トーニー)
一 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
(⇒バタイユはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を高く評価している。但し、その社会の経済を可能にするその社会の精神構造があること、この場合には資本主義経済を可能にする社会の精神構造は宗教改革によって、とりわけカルヴァン主義にいよってもたらされたこと、を指摘した限りにおいてである)
二 中世の教義と慣行における経済
バタイユのユニークな見解が述べられる。それは、中世の経済とは、宗教が神の楽しみのために生み出した聖堂や、僧院や、無為の僧侶に対する需要である、というもの。換言すれば、神の嘉し給う敬神的営みの可能性が、利用可能資源の消費様式を遍く決定していたのである、と。
宗教とは過剰資産の消費に対して社会が与える認可である。供犠、祭礼、豪奢な設備は社会の超過エネルギーを吸収する。宗教には、効果的な諸行為の連関を断ち切るという第一義に加えて第二の効用が付与される。それは大きな後ろめたさ、誤謬の、欺瞞の感情である。要するに、見返を求めないことが本義である宗教が、五穀豊穣、救済、功徳の報償、求霊等々の営みの中にそれらの感情は生まれる。「事物のように因果関係に縛られない恩寵のみが、神政との一致を果たすのだ。神が敬虔な魂に対して行う自己贈与は何ものによっても報いられない。」
さらに詳しい説明は下記。
*近代経済は本質的に資本主義産業であって、その発展にはカトリック教会の精神ではなくて、カルヴァン主義の精神が寄与した
*中世の経済は静止的で富の過剰分を非生産的に蕩尽するが、資本主義は蓄積して生産設備の躍動的増大を目指す
*社会の構成員は、聖職者と貴族と労働者で、労働者は前二者に服属する代わりに、貴族から庇護を聖職者からは神聖な生活への参加と倫理規範を受け取る
*聖職者と貴族から切り離された、自立性と固有法則を備えた経済の世界という考え方は中世の思想とは無関係
*売り手は、生計を確保する分だけという意味で正当な価格で商品を譲り渡す(ある意味でマルクスの労働価値。トーニーはマルクスを「最後のスコラ学者」と呼ぶ)
*高利は教会により禁止されている。困窮した貧者に富者が富を貸す場合、返済時に貸した以上を要求すれば、神のものである時間を買い取らせることになって不可となる
*しかし、自然の中で与えられている時間を用いて利得を売る可能性があるなら、自然の法則は可能な利得の一部として利子を授けるのだから、教会の道義的思想は自然率の否定となり教会の干渉は生産力の自由な発展を阻むものであった
*キリスト教にとっての生産とは、自然の働きではなくて、聖職者によって判定され、決定される目的一種の奉仕である
*中世社会の経済秩序は、理性的、倫理的、静的な構想に基づいたもので、近代と比べてみると、諸々の力の働きによって決定される進化の観念と、神聖な目的論的宇宙開闢説との違いのようなものだ
*中世経済の本質を判別する要素は、恐らく社会が富に与える意味にかかっている。その意味は、富を手に入れた人々が一般に表明する理知的見解とは異なるもので、例え表明されずとも経済機構の性格を決めるほど強力な目に見える諸々の動きにかかっている
*富は所有から期待する利益に従って意味を変える。例えば結婚の見込み、閑暇、社会的地位、しかし、それぞれの時代にはいくつかの常数のようなものが存在する。資本主義の時代にはそれは投資の可能性であり、言うなれば富の増殖自体である
*宗教改革以前は成長の可能性が与えられていなかった。未開拓領土の発見、技術革新、欲求に応える新製品の出現によって発展が促され
*しかし、その発展に基づく生産の増大や成長の可能性が、全て消費へ導かれることも同様に可能である
*無為や、ピラミッドや、あるいはアルコールはそれらが活用する資源を報酬なしに---利得なしに---蕩尽する点で、生産活動や、工場や、パンよりも優っている
・無為は消費の最も単純な手段
・ピラミッドの建設に働く労働者も生産物を無益に破壊する
・アルコール飲料も同様の結果が得られるわけであり、その消費はわれわれがそれ以上働くことを許さない
三 ルターの倫理的立場
ルター(1483-1546年)が何よりも斥けたものは、慈善の習慣、宗教団体、乞食僧、祭礼、巡礼行などの手段によって、功徳が獲得されるという考え方であった。神の世界が契約によって穢されず、現世の諸関係と厳密に無縁なかたちをとるという一点に、彼の考えは絞られていたと見受けられる。敬虔な信仰生活にあらざる一切のもの、すなわちわれわれが行いうる、現実に履行しうる一切のものと、神とを、きっぱり切り離すこと、それ以外に彼の倫理的立場を実践する手段はないと。
ルターの教義は資源の高度蕩尽機構の完璧な否定であった。当時、聖職者の大群がヨーロッパの余剰資産を濫費し、貴族や商人を対抗的濫費へと挑発していた。このことがルターを立ち上がらせたのであるが、彼は現世のより全的否定をもってしかそれに刃向かうことが出来なかった。
しかし、このような状況は却って経済を比較的安定した状態に維持した。自らが創造した世界観の中で、ローマ教会が富の即時使用の成果を適切なかたちで具現したことは奇とすべきである。それは矛盾の錯綜の中で演じられたが、その光明は、後に続く純粋有用性の世界を貫いて現代にまで達し、今も尚われわれの眼前に輝いている。
四 カルヴァン主義
カルヴァン(1509-1564年)は利子付き貸与の原則的否定を打ち切り、商業の倫理を承認した。彼は、実業が土地所有以上の収益を上げ、商人が自身の勤勉と才能によって利得を得ることを肯定した。マックス・ヴェーバーは資本主義形成の面でカルヴァン主義に決定的意義を認めた。トーニーによれば、カルヴァンは当時のブルジョア階級に対して、マルクスが現代のプロレタリア階級に対して果たしたのと同じ役割を果たした、つまり組織化と教義をもたらした、と言う。
カルヴァンは、教義の根本的な部分ではルターと同じであったが、実利的であるところは全然違っていた。つまり目的は「個人の救済ではなく、神の賛美であり、これは単に祈りに依ってだけではなく、行動―――闘争と労働を通じての世界の聖化―――によって求められなければならぬ」とされた。富の浪費的習慣に対する否定は、ルターの教義に劣らず完璧だが、新教徒は質素で、倹約で、勤勉でなければならず、己の商業や産業に最大の熱意を傾けねばならなかった。
カルヴァン主義はルターが行った諸価値の顚倒をその極端な帰結へと導いた。カルヴァン主義者の営みの真の聖性は聖性の放棄にある。つまり神を聖化することと同時に人間生活を非聖化することにより、そのことで生じる営みのむなしさを行動する力へ、職業への責務への愛着へと振り向ける価値観の原理をカルヴァン主義は提示したことになった。
五 宗教改革が後世に及ぼした影響。生産者の自立性
マックス・ヴェーバーの後を受けてこのような立場を資本主義の精神と関連付けて考察するならば、産業の飛躍的発展にこれ以上好都合なものはなかった。トーニーは資本主義が今一つの要素を必要とすることを強調する。それは非個人的な経済力の自由な成長であり、利得の個人的追求にその全体的飛躍がかかっている経済の自然な動きの解放である。しかし、資本主義が古い経済制度に取って代わるには尚時間を要した。中世経済を基礎付けていた権威の破壊が必要であったからである。実際にはカルヴァンの宗教改革から100年ほど後の17世紀後半のイギリスにおいてはじめて、清教徒達はカルヴァン主義の伝統に利得の自由な追求の原理を結びつけた。ベンジャミン・フランクリンによって18世紀の中頃に表明された諸原理についてマックス・ヴェーバーが評したように、それが資本主義の精神を殆ど古典的な純粋さをもって表していると言えるのは例外的なことである。ルターの時代ならば、公然と教会の方針に対立するようなフランクリンの発言は到底考えられないであろう。
ルターからフランクリンまで(⇒250年ほど)を振り返り、中世経済から資本主義経済への動きの方向に一つの恒常性があるとするなら、マックス・ヴェーバーの考えに少々反するかも知れないが、それは生産力の要求の中で外部から与えられたものであろう。宗教改革は、宗教の領域においては究極の価値持っていた非生産的蕩尽という聖なる世界の破壊であり、かつブルジョア階級という経済的人間の誕生のきっかけをなしたと言える。
(二) ブルジョワの世界
一 営みによる内奥性追求の根本的矛盾
われわれは、産業社会の源に、物の世界の埒外に本質的なもの(⇒本質的なものとはバタイユにとって「畏怖させ、身震いの中で魅惑する」もの。だがそれはなにか?)置こうとする意思を見出すのである。資本主義社会では、このことと、人間的なものを事物に(商品に)還元するという事実とは齟齬しない。宗教と経済はともに同じ(歴史的)動きの中で負い目から解放されたのだが、そこに存在する根本的対立の根は深く今なおわれわれを支配している。ここで、宗教の負い目は世俗的計算、経済の負い目は物による制限(⇒内奥性すなわち自分自身を知ろうとすること、に対する制限)。宗教は、内奥性を取り戻そうとする人間の願望に応えるはずのものだが、内奥性の外面的形式しか与えられずに問題を深化させるだけであった。
現代人が追求するものは、対象の面でも、その後の失望の面でもガラハド(聖杯伝説のの主人公で、美徳の権化)やカルヴァンが追求するものと大差はない。ただ、近代世界は幻想めいたものではなくて、物によって課せられる諸問題を直接解決することによって本質的征服を確保しようとする。
経済問題を解決することなしには人間は己の真実を取り戻せないという考えは至極妥当である。だがこれは必要条件である。己から奪われたものを把握しようとしても、結局把握できるものは先人がその探究の中で把握したものとおなじであり、しかも物として把握しようとするものは、物の正体である影を自分の追う獲物と取り違えているだけである。
可能性の追求を許されるという意味において、物質的問題の解決だけで十分であるという説がまず、最も妥当であると、私は主張したい。しかし、生命の諸問題の解消は根本的に別のものである。人間にとって肝要なことは、ただ物としてあることではなく、至高のかたちであることだ(⇒本書では、至高性とは何であるかについての言及は殆どない)。
資本主義を帰着点とするカルヴァン主義は一つの根本的問題を告知する。すなわち、己を取り戻そうとする追求が、何らかのかたちで彼をそこへ引きずり込む行動をもって自分自身から遠ざけるという問題である。人間はどうやって己を見出すことが出来るのか?
「捉えがたい一問題の、近代における、さまざまな在り方は、歴史の中で、いま現に、働きつつあるものと、われわれの前途に差し出されている完遂とを、同時に自覚するための一助となるであろう。」(⇒一問題=自己把握問題、前途に提示された完遂=至高性?)
二 宗教改革とマルクス主義の類似
宗教改革者達の歩みとその所産は、現在のわれわれほど人間が自己から疎外されていなかった人々の世界が保持していた相対的安定性と均衡に休止符を打ったのだ、と言えるのだろうか(⇒否言えない)。中世的形相は今日でも「失われし内奥」を喚起する力を有している。中世的形相だけでなく、古代的形相、東洋的形相、未開的形相も同様である。
穀倉も教会も建物という物には違いないが、前者は物質的特性以外に意味を持たず、後者は内奥の表現である。内奥が物によって表現できる場合はただ一つ、物が物(=商品)と逆のものである場合、つまり蕩尽および犠牲に捧げられる場合である。内的感性が燃焼である以上、内奥の表現は蕩尽である。「ところで、神とは、ある意味で、深奥を垣間見た人間の不安の遙かな表現ではなかろうか?」
中世に対する肯定感は、過ぎ去った世界への郷愁による性急な判断に基づいていることには変わりがない。人間が動物ではなくて人間であることは、動物性を捨て去ることで世界を失ったとしても自分が存在するという意識になったことであり、その意識は動物の無自覚な所有にまさるものであるということ(⇒ヘーゲル、意識が自己意識となる行)、と同じである。中世への懐古は反動的ロマンティシズムである、とはいえ、聖なる営みに対するプロテスタントの批判を境に「人間は企業のために生き、ますます現在時において生きなくなったという点では、物が人間を支配したと言えるだろう。」だが、物の支配は一種の芝居に過ぎない。「恰好な暗がりの中では、新たな真理が嵐を準備しつつあるのだ。」
神性という新教的(=プロテスタント的)立場は、もはやわれわれには納得のいく意味は持たない。それにもかかわらず、神性は自意識の厳しさのうちに、率直性の欠如のうちに、近代世界の成熟のうちに生き残った。大衆は機械的生活を生きているが、同じ動きの中で意識的思考は覚醒の最高段階に達する。
一方では、技術的進展の中で、物についての明晰な認識に導く探究を進め、他方では、思考は実利的行動の彼方に自らを見出したい(=至高の在り方も持ちたい)という人間の根本的欲求をいささかも放棄しないどころかその欲求はいっそう切実になった。
新教は人間とその真実との出会いを来世に延期したが、マルクス主義はその厳格性を引き継ぐとともに、いっそう感性的行動(原注:感性的満足を追求する審美的行為)の愚を決然と排した。マルクスは、物の(=経済の)根本的自立を明確に設定し、人間の内奥への復帰運動の行動に対する独立性を引き出した。但し、この復帰運動の動きはその行動が完結してからしか始まり得ないのだが(⇒共産主義国家が生産物を生産者に不足なく配分した後に、それが始まる他はない)。
マルクスにとっては、物質的問題の解決だけで十分であるが、人間にとっての物質的問題は、物は「ただ単に物として存在するだけではなく、至高のかたちで存在する」という事実に関する問題なのである。「マルクス主義の根本命題は物の(=経済の)外にある一切の要素から、物の(=経済の)世界を全面的に開放することである。物の内に含まれる可能性の極みまで行き着くことによって、マルクスは物をきっぱりと人間に、人間を自由な自己処置に戻したいと望んだのである。」
内奥の領域に関して何ひとつ提示していないマルクス主義は、偶然および私的利害以外に何の目的も法則もないままに、漫然と物を解き放したと、資本主義を非難している(⇒バタイユは、人間の本質からの資本主義批判が欠けている、と言いたいのだろう)
三 近代産業世界、或いはブルジョワの世界
資本主義とはある意味で物への無制限な盲従である。資本主義にとって物(=生産物と生産行為)とは、清教徒の場合と違って、自ら目指すものになろうとしている対象ではない。資本主義者は、気付かぬうちに悪魔に取り憑かれてしまった結果、目指していないと思っているものを目指しているようなものだ。
自己否定はカルヴァン主義においては神の肯定であり、近づきがたい理想であった。この価値観を自己と一体化して他者に押しつけることが出来る人は際立った人であった。それとは反対に、生産に与えられた自由(という価値観)は普遍的可能性であった。身体全体と行動が物に従属したことの埋め合わせとしての厳しい精神性は長く維持する必要性は全くなかった。隷属の原則を受け入れてしまえば、物の世界(=近代産業の世界)は、不在の神についてそれ以上考えることなく、自発的に発展することが出来た(⇒資本の自己増殖という法則)。それは、純粋権力への意思と同じ動きの中で呼応した。純粋権力とは成長以外に目的のない成長のことである。「消費されることのない権力―――成長のための資源注入の完璧な形態―――に奉仕する行為のうちには、まさしく正真正銘の無化が、最も腰の据わった生命放棄が見出される。」
カルヴァン主義者の方は少なくとも覚醒と緊張の極みがあった。成長以外に目的を持たない産業成長の人間(⇒ブルジョワ階級の人々)は反対に惰眠の表徴である。余剰エネルギーを蕩尽することが世界の掟であるのに、その掟に反する動きを阻止できない無力に対して無自覚に押し流され、放任している、そのような産業成長の人間は惰眠の印である。
ブルジョワ階級は混乱の世界を生み出した。その本質は物(⇒生産物、商品、全てが物化する事態、物神崇拝=フェチシズム)である。しかし、成長の惰眠に陥らない者は全て彼岸の探究が放棄されるのを見て悩むのだ。しかし、物が優位に立って大衆を支配するという事態は、かえって挫折した全ての夢(⇒神性、至高に近づくための色々な夢)が手の届くところに留まったのだ。混沌が始まったが、それは多様性の容認でもあり、最も相反する諸方向において一切が等しく可能になった。社会の統一は支配的事業の重要性と成功(⇒資本主義産業社会の物質的成功)によって確保されている状況下におけるかかる多義性の中では、「過去の誘惑はその失効の後も生き延びている」。
四 物質的障害の解消とマルクスの急進主義
植物が大地と繋がっているように、混乱したブルジョワ社会の大衆の胎内に置いてこそ、物と人間の等価の道を辿って自己復帰を願うという厳格性の精神(酒井訳:厳格な精神)が繁茂する。ブルジョワ世界は、厳格性の精神が純理科学と技術の進歩を目指す限り、それを自由に振る舞わせる(⇒「厳格性の精神」と言う表現は、暗に形式論理学の矛盾律的思考を否定し、更に言えば弁証法的論理学の公理「AがAであることの〈真理〉はAがAではないということである」(野尻英一、早大法学部講義録2018.10)に基づいた思考のように思える)。
経済活動の枠内では、厳格性の精神は明確な二つの対象を持つ。過剰資源を生産に用いること(⇒もちろん物として有用な)と労働時間短縮である。人間にとって、その目指すところは今も変わらず、身の振り方を完全に自分で決める、という根本作業であるのだから、富のその様な使用は行動というものが持っている性格を消極的なかたちで保持する。科学と技術の発展に結びついた厳格性の精神は、この根本的作業を目指して武装しているのだ(酒井訳の訳者注は、武装革命を暗示していると言っている)。一方、産業社会での生産物の消費は特権階級だけに限られるわけにはいかなかったから、贅沢な消費に付与される(旧世界の)価値の表明は、事物の否定に基づくはずにもかかわらず肯定と捉えざるを得なくなった。厳格性の精神は旧世界の遺物(⇒価値も含む)を破壊する仕儀となって、やがて事物自体の厳格性に現代世界の混沌を服従させる。その時、厳格性の精神は(⇒科学と技術から引き出した力と手を携えて)マルクスが見事に表明した革命的意味を帯びるのである。
五 封建制度と宗教の遺物
中世の経済機構では富の分配は不平等であり、労働者は僧侶や貴族に隷属し、労働は表明されている価値に隷属的であり、物の性格は全て労働者が担っていた。このような根本的状況は明確な結果を生み出す。すなわち物の可能性を極めることで人間を解放しようとすること、卑しいと言われる労働を拒否する連中を自由にはできないということ、これである。
物の完遂(⇒生産と人間の完全な等価性)は、宗教改革の時のように、旧来の諸価値が告発され解体されたときにだけ解放的効力を持つ。人間の自己復帰のためには、貴族階級と宗教の偽りの仮面を剥ぎ取らねばならないことは明らかであり、また、パンやハンマーを掴むように内奥を掴めるつもりで居る連中(⇒マルクス主義者)の錯誤と混同していてもだめなのである。
六 共産主義、ならびに事物の有用性と人間との等価性
労働者の世界が政治的帰結を与えて共産主義国家が誕生した。そこからある意味で奇妙な急進的姿勢が確立する。その姿勢はまず物質的且つ現実的な力の急進的肯定であり、精神的な価値の、それに劣らない急進的な否定である。共産主義者は精神的価値の意味を捉えることが出来ず、自ら進んで人間の利害を一目瞭然の利害に換言し、人間の世界を互いに従属し合う諸々の物の体系とみなすのである。
ブルジョワ達は、個人が物化からのがれる自由を人間達のために自分たちが維持しているような気分になるのだが、それはただ自由な身の振り方を目指す広範な努力の(⇒部分的な)表れに過ぎない。実を言えばブルジョワ達は彼らの世界が紛糾(酒井訳では混乱)することの自由であることを自覚している。結局彼らは途方に暮れているだけで、自らの歴史的使命も感じることが出来ない。事実彼らは、共産主義者の盛り上がる動き対して、わずかな希望さえ呼び覚ますことが出来ないのである。
第五部 現代の資料
(一) ソヴィエトの産業化
(⇒ソヴィエト連邦国家を一言で言えば、人間を物化する以外には誕生・存続し得ない国家であり、その行き着く先は、生産が蕩尽ではなくてただ消費にだけに振り向けられるという、言ってみれば動物の世界である)
一 非共産主義社会の窮境(窮地)
私は破局の増大した危険(⇒核兵器を使用した第三次世界大戦)よりも信仰の欠如、それにもまして理念の欠如を憂慮している。第一次世界大戦直後頃には、それまでの無限の進歩という信念や、異なる種々の未来予想が議論された。第二次世界大戦が平和の復帰を確保した後の避けられぬ諸問題(⇒経済的困窮等々)を前に大多数の人々は劣等感に囚われた。ソヴィエト連邦と同盟諸国という一枚岩的存在を除いて。
このブロックは、ゆるがぬ確信を効果的に発揮して対抗勢力をますます究竟に追い詰めつつある。同時にそれは共産主義の原理に盲従しない連中にとっては恐怖の的であり、共産主義的でない一切のものに取り憑き希望奪い去っている。
二 共産主義に対する知的姿勢
以来、西欧およびアメリカでは、上昇的理念および統合し高揚する希望の欠如の中で、人間の思想の位置はまず第一にソヴィエト的世界の理論および現状に対する対立から決定されることになる。ソヴィエト国家の基本目標とそれに基づいた現実の状況と推移の概略は以下のようなものである。われわれは、このヒトラーがなしえたよりも遙かに深刻に攪乱しつつあるこの活動(⇒共産主義革命)の本質を探るしか目論むことが出来ない。
*1918年に作られたソヴィエト憲法の趣旨は「人間による人間のあらゆる搾取の排除、社会の社会主義的精算、ならびに全ての国家における社会主義の勝利」
*はじめに「一国社会主義」実現の意図、次いで1818年以来ロシア革命が辿ったのは抗争とソヴィエト連邦成立の道
*分裂した共産主義は民主主義国家内の異なる活動諸傾向と不毛な運命を共にした。なぜなら、それが目指したのは嫌悪と拒絶であって、自らの決意によって呼び覚まされる希望ではなかったから
*対立派(⇒ソ連内部の対立派ではなくて、ソ連以外の国おける反体制派のこと)の根拠には二つの源泉がある。一つは一国社会主義に関連するもので、もう一つは世界革命に関連するものである
・一国社会主義はソ連が置かれていた状況に規定されていた。実際、革命はマルクス理論が描いたような先進工業国においてでなく、一産業後進国においてであった。レーニンと行動を共にしていたトロッキーに反対したスターリン主義に継承され、これの反対派は反スターリン主義として西側諸国の反体制派で広く反共主義者と結びついている
・世界革命主義は、ボルシェビキを率いてレーニンが10月革命で遠回りな第一歩を構想した考え。トロッキーは世界革命をロシアにおける社会主義建設の先決事項としようとしたが、スターリンによって反対された。⇒その後国外追放され、国外から運動を継続していたがスターリンによる粛清が行われる中1940年にメキシコにおいて殺害された
*個人的利害、指摘至高、習慣、ならびに権利に対する思い切った蔑視は、当初からボルシェビキ革命の根本であった
・この点においてスターリンの政策はレーニンのそれを強調こそすれ何ひとつ改めていない
*「信奉、対立、憎悪のような単純な諸感情以外に、スターリン主義の複雑さ、その発展の諸状況がそれに与えた不可解な様相が、この上もなく入り組んだ知的反発を引き起こす性質(タチ)のものである。現在のソヴィエト連邦にとっての最もやっかいな問題の一つは、社会主義がそこで帯びた国家的性格に係わっている。」
・スターリン的社会主義は、その目標も社会および経済の構造も異なるとは言え、ヒトラー的自称社会主義と、その手段において類似している。例えば、主席、単一政党、軍隊の重視、青少年の組織化、個人思想の否定、粛正など
・この種の批判が、対立派の共産主義者とブルジョワ自由主義(酒井訳では中産階級リベラリズム)と結びつけて、「反全体主義的」主張の動きが形成された
*思考が深く揺すぶられ、バラバラな、大胆な解釈にも陥った、これらの解釈は活字にはならないかも知れないが、私が聞き込んだものの(酒井訳の挿入では、輝かしい)一つに次のようなものがある(酒井訳では、スターリン主義者でヘーゲル学者であるコジェーブの解釈だろうと注釈されている)
・スターリン主義はヒトラー主義とは似ても似つかないものであり、後者が国家社会主義であるのに対して前者は帝国的-社会主義であって、この帝国的とは一民族のそれとは相反する意味であって、現代の経済的、軍事的無政府状態に休止符を打つような、言ってみれば世界的国家の必要性を仄めかすようなものである
・国家社会主義は当然挫折する、というのは付属細胞を母細胞に組みこむ原理を持たないから
・ソヴィエト連邦はその内部に全て国家が併合される枠であり、ウクライナ共和国が既にそうであるようにいずれチリー共和国も組み込まれるだろう
*帝国的-社会主義とは何なのか?
・マルキシズムに反するものではないが、国家なるものに卓越した決定的地位を与えるという点で異なっている
・「帝国的-社会主義」はヘーゲルの理念に基づいたものであって、人間とは個人ではなく、国家であって、国家に参与することで動物性と個人性から一興に脱却する、という考えである(⇒バタイユのヘーゲル国家観理解は表面的なものに見える)
*帝国的-社会主義的理念は、共産主義の一般大衆状況とは全く相反しており、逆説的である
*人間の人格を最終目標ではない位置に据えて人間社会の視野を広げることにより、人間の人格を解放(⇒人間が己を取り戻すこと)が出来るのではないかと考えるとするならば、反対に解放の機会を取り逃がすことになる
*ソヴィエトの生活についてわれわれが知ることは限定されている(⇒当時はそうだった。鉄のカーテンなど)が、その中で問題とされていることはいずれにしろわれわれが好んで甘んじている近視眼的展望を超えるものである(⇒ソ連崩壊後の状況を知るわれわれにとっては、間違った或いは曖昧な知識に基づく推定が大体妄想である良い例だろう)
*「だがおそらく歴史のみが、何らかの軍事的決断によって、それ(共産主義が幽霊ではなくなり生じている、政治的、経済的、軍事的、思想的、精神的混乱)に終止符を打つことが出来るであろう(⇒2018年の現実から見るとバタイユの未来予測は外れだろう)
三 蓄積と相反する労働運動
ソ連が結集する諸力はアメリカ陣営を陵駕しうるから、世界をただちに変えることも可能であった(⇒ソ連崩壊を知っている現代では信じられないが)。
労働運動は、資本主義と対立して、富の一層大きな部分を非生産的消費に充てることを、主として意味している。
四 蓄積に対するロシア皇帝たちの無能力と共産主義の蓄積
(⇒寒冷な地勢、歴代ロシア皇帝の無能、ヨーロッパ諸国の産業と社会の近代化、それらの状況下においては1917年のロシアは一つの条件のもとにしか存続し得なかった。すなわち産業を振興させて、しかも外国の借款で国力を伸ばすことである。しかも、ブルジョワジー階級は弱体で蓄積も少なく、労働者階級は自らの生を可能にするには自らの生を放棄せねばならなかった。そして農業と軍事が主体の帝政ロシアから共産主義への突飛な飛躍が始まった。それは労働する以外には可能性の無い世界の本質を理解させる。つまり、「労働とは来たるべき時のために産業を建設することであり、情熱は、幸不幸を問わず、殆ど記憶に留まらぬ忙しい挿話に過ぎない。遂には、政治的絶望と沈黙の必要が、睡眠を除いて、生活のあらゆる時間を労働熱に捧げ尽くす。」、と。このことの説明を以下に箇条書きにする。
*フランス革命は宮廷および貴族の奢侈的消費を減少させ、イギリスの資本主義に対するフランス・ブルジョワジーの後れを挽回させたが、皇帝治下の1917年のロシアは旧制度のフランスと殆ど変わなかった
*ロシアの広大な領土の無尽蔵な資源は資本不足で未開発であり、いくらかの規模の産業が発達したのはようやく19世紀末になってである。しかもそれは外国資本に依存していた(1934年において53%が外国資本)
*フランスやドイツなどの諸国に比べてロシアの劣位は高まるばかりであった
*第一次世界大戦は、いかなる国家も後れをとるわけにはいかないことを教え、第二次世界大戦はこれを完璧に証明した
*皇帝や地主に対する革命闘争(⇒1905に結党された立憲民主党から、1930年位にスターリンによって変質される以前のボルシェビキまでの、30年間ほどのプロセスと思われる)が、フランス革命から今日に至るまで(1789年から数えて150年ほど)の期間に比べて極めて短い期間に旋風のごとく行われた(⇒日本では明治元年の1868年から1889年の大日本帝国憲法発布までは20年程)
*ロシアの資源開発のみが、第二次世界大戦を自国が乗り越えることを可能にした
*ロシアのブルジョワ階級は躍進を可能にする上昇的性格持たず、そのため労働者は自分の生を可能にするには自分の生命を犠牲にせざるを得ず、ここにプロレタリアートが抱える矛盾が生じた(⇒資本家の搾取排除ではなく、労働者の生の廃棄であると)
*「「誰も」とルロア・ボーリュー(フランスの経済学者,経済ジャーナリスト1843-1916年)は述べている、「ロシア人のごとく死ぬことは出来ない。」だがこのような過度の忍耐は打算から程遠いようにように見える。」
*ブルジョワ的生活の合理的美徳(長所)は安全の諸条件、すなわち先を見通せる秩序を要求するが、平坦な広漠の地で久しく蛮族の入寇に晒されれ、絶えず飢餓と寒冷の亡霊に取り憑かれてきたロシアの生活はむしろ無頓着や、非情や、刹那的生存という逆の美徳を誘い出した
*成し遂げた革命においても、戦乱の世界に身も心も属していた彼らは、軍律という恐怖と熱誠の混沌が利益の冷静な構築と相反するように、産業の世界とはおよそ反する人びとであった
*裕福なブルジョワは恐怖も情熱も知らぬ人であった。ボルシェビキの主導者は帝政時代の地主と同様に恐怖と情熱の世界に属していが、ただ初期の資本家と同じく浪費に反対した
*労働者はボルシェビキの主導者とこうした性格は全て共有しており、彼らを隔てるものは指揮官と配下の関係の程度でしかなかった
*1929年からの五ヵ年計画の初頭において、生産手段のために過剰資源(⇒労働者の生を維持する分以上の資源)の大半を生産手段に充てるというロシア経済の特徴は現在と同じであった
*1938年において、達成すべき生産総額のうち62%が生産手段で33%が消費財であったであり(⇒労働報酬は全労働のわずかな部分であったのは明白)、この傾向は第二次世界大戦後の1946年においても殆ど改善されていなかった(⇒重化学工業重視)
*明らかに偏ってはいるが作り物ではない、アメリカへの亡命者ヴィクトル・クラヴィチェンコ『私は自由を選んだ』1947年の告発から、引き出される真実の部分は下記
・1937年頃には、抑圧は仮借なく、追放は頻繁で、公表された諸成果はプロパガンダに過ぎぬこともあり、労働の浪費の一部は無秩序に基づくもので、しかも何でも怠業や妨害と判断する警察の統制は、幹部を意気沮喪し、それらは生産を妨げた
・労働者は勤労手帳を受け取った後には、自分の意志で他の街や工場には移れない
・20分の遅刻が強制労働の労苦で罰せられる
・産業指導者が、軍人のように、否応なく、シベリアのどこかの僻地に配属される
最大の生産額を目指して個人の意志を撲殺する、一個の巨大な機械が組み立てられた。遂には、政治的絶望と沈黙の必要が生活のあらゆる時間を労働熱に捧げ尽くす。
五 土地の「共有化」
土地の「共有化」は経済構造の諸変革の中ででも一番問題が多かった。犠牲になったのは富裕な地主ではなくて、生活水準がわが国(フランス)の貧農と同じくらいであった富農階層(クラーク)であった。富農の小さな地所にはトラクターは不要であったが、機械と結びついた農地「共有主義」のみが耕地の維持と生産増大を確保できるのだった。
六 産業化の苛酷性に対する諸批判の欠陥
(⇒バタイユのスターリン独裁政府の評価は、「強烈な刺激なしには、ロシアは坂道を登ることが出来なかったのである」との言葉に象徴されている。その概略を下記にした。)
*平和時の世界の安穏には境界があり、その先には、個々人を苦しめる冷酷な行為も、彼らが避けようと努めている不幸に比べれば、取るに足らぬと見えるような状況が出現している。ソヴィエトは生産を組織化することによって一種の死活問題に前もって答えたのだ
*「私の意図は正当化することではなく、理解することである。」と述べた後に、バタイユはクラヴィチェンコの著作に対する批判をするが、その内容は省略する。「恐らく、もしこの充当(=産業設備への資源の大量投入)がほんの少しでも厳格性を欠いていたならば、スターリンが要求したよりもほんの少しでも負担しやすいものであったならば、ロシアは崩壊していたかも知れないのだ。」
*産業の苛酷化に伴った誤謬は多々あっただろうが、一つの決定的成果は達せられた(⇒ロシアが滅亡せずソ連として引き継がれた)。批判者は、帝政の存続やメルシェヴィズムやトロッキズム、或いはより苛酷でないスターリン主義を持ちだすが、実を言えばわれわれは非人間的な苛酷さに対して憤慨しているのだ。「それにわれわれはテロルを打ち立てるくらいなら、むしろ死を受け入れるだろう。しかし単独の人間には死ぬことが許されても、巨大な国民は前途に生以外の可能性を持たない。」
*フランスとは違ってロシアのように疲労しきっている場合には、恐怖と熱狂以外に弛緩から抜け出させるものはないであろう
*スターリン主義への批判は、政策が大衆と遊離していると言う視点からであったがために失敗した
*スターリンはレーニン亡き後革命を遂行するのは自分だけだと判断し極度の厳格さを伴った政策を実施した
*奇妙なことに、スターリン主義は恐怖政治的であると同時に熱月派的(⇒フランス革命においてロベスピエールの恐怖政治を終わらせてブルジョワジー政治支配を復活させた派)と判断されていることだ(⇒世界革命主義を前提せずに一国共産革命を選んだスターリンは熱月派的と)
*国家主義とマルクス主義の合体が、過度の産業化にも引けをとらぬほど的確なかたちで死活問題に答えた
七 ロシア的問題と世界的問題の対立
現代世界は急速な変貌を招いており、重大な急激な破局の地平がこれほど重く孕んでいるように見えたことはじめてである。「もし破局が実現すれば、ソヴィエトの方法が―――個人の声の見事な沈黙の中で!―――広大な廃墟の尺度に相応しい唯一のものになるであろう。」
盲目的に呪うより、矛盾が押しつける窮状を訴えるより、他になすべきことがあるはずだ。ロシアの土地を深く耕した人々に寄り添って理解しようとするならば、そのなすべきことは見えてくる。至る所であらゆる仕方で、動きつつある世界は変えられることを望んでいるからである。
(二) マーシャル計画
(⇒マーシャル計画は普遍経済理論の妥当性を支持する事例である)
一 戦争の脅威
本来は共通しているはずの人間精神が分裂すると戦争へ行く着く、このことは歴史からあきらかである。ソヴィエト世界とそれ以外の世界との分裂と憎悪は世界を破局に導くと予想される。しかし、共産主義の攻勢によって維持される緊張なしには、意識は自由になれず、自覚させられることもないだろう。(⇒物化した人々によって出現した共産主義国家を目の当たりにすると、成長・蓄積ではなく均衡・蕩尽こそ普遍経済の原理であるということが理解される)
*ソ連が勝利した場合、ソ連も著しく破壊されるから、産業革命の所産を破壊した人類はあらゆる時代のうちで最も貧しい者たちとなる
・資本の所産が壊滅すれば、生産力の発達が要求するはずの革命とは無縁な世界が出現し、マルクスの洞察を裏切る最もはなはだしい否定が発生する
*アメリカが勝利すれば、資本主義の所産は残存し、世界帝国は決定的武器を唯一所有するものとなる、ただし、生贄が死刑執行人の手に落ちるようなかたちで
・この場合を予測したアメリカは死刑執行人になるのをためらうだろうから、そのためらいは時間稼ぎをするソ連にとっては有利に働く
二 生産手段のあいだで行われる非軍事競争の可能性
完全な分裂の渦中にあって戦争は避けられないという見方を防ぐものは、クラウヴィゼッツの方式(⇒「戦争とは違う形式の政治の遂行」『戦争論』)の逆の言い方、それ(=戦争)を「他の方法によって遂行する」ことが可能であろう、という考え方である。
具体的事例として、アメリカのマーシャルプランがそれである。仮にアメリカ経済にとって戦争が必要としても、またソヴィエトと軍事的に対抗する必要としても、戦争では無い方法はこれである。
世界の未整備の部分の産業化には二つの選択がある。ソヴィエトの計画によっての産業化か、それともアメリカの剰余が産業の整備に援助をするか、である。後者の実現が真の希望を残している。
三 マーシャル計画
マーシャル計画の狙いは、アメリカに対するヨーロッパ諸国の帳尻の赤字を埋めることである。第二次世界大戦後の世界に出現した、かくも大きな経済的不均衡は現代社会においていかなる意味を有するのか?この問題にアメリカは直面した。その状況下で資本主義の世界がその原理を放棄なければならなくなった。つまり崩壊したヨーロッパ経済復興の軌道に乗せるには、無償で商品を贈与する必要があった。
*(⇒マーシャル計画の概要:1947年6月5日、ハーヴァード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、米国が欧州に対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西欧16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成して米国の援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構 (OEEC) を設置した。一方、米国は援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局 (ECA) を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアやオーストリアが原参加国に名を連ねたほか、米英仏3か国の占領下にあったドイツ西部も援助対象として認められた。
マーシャル・プランは西欧諸国の戦後復興に一定の貢献をし、また米国企業には巨大な欧州市場を提供した。ソ連及び東欧諸国はモロトフ・プランで対抗したため、欧州の東西分断が加速したが、その一方で西欧諸国間の統合への動きは進展した。米国は無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、相互安全保障法に基づく援助に吸収された。Weblioからの転記。)
四 「普遍的」取引と「古典派」経済学の対立
「フランソワ・ペルー(⇒フランスの経済学者1903年生まれ)はこの本質的対立(=孤立的利益を追求する古典経済学と普遍経済学の対立)からマーシャル計画の定義をきわめて的確に引き出した。それは、彼に言わせれば、「世界的利益の投資である」」
*マーシャル計画は、それより消極的であるとしても世界銀行とか世界通貨基金も、普遍経済の可能性を示すものである(ブレトン・ウッズ協定は古典派経済的なので異なるが)、とバタイユは言っている
*「すなわち全体として見た人類は、もはや債権者の利害によって定められる限界を守る必要はなく、おのれの定めた目的に従って融資を使用することが出来るのだ。・・・世界的利益を目指す取引は突き詰めれば簡単な原理から発している。すなわち「視力相応から欲求相応へ。」
五 「普遍経済」の観点から見た、フランソワ・ペルーによる「普遍的」利益について
マーシャル計画を適切にも「世界的利益の投資である」と述べた、フランソワ・ペルーの言う普遍的利益から普遍的経済の視野も開けてくる。
「全体的に見て世界には、「空間」の(より正確には、可能性の)欠如から、成長を確保し得ない過剰資源の一部が存在する。犠牲にすべき部分も、犠牲の瞬間も常に正確には知らされない。だが普遍的視点からすれば、いつかどこかの場所において、成長が放棄され、富が拒否され、そしてその可能な多産性が、あるいは有利な投資が斥けられねばならない。」(⇒生命界とのアナロジーでの説明が繰り返される)
六ソヴィエトの圧力とマーシャル計画
資本主義の根底的否定を前提するマーシャル計画の資金源は根本的困難である。しかし、この実施はアメリカ的世界にとって死活問題なのだ。ソ連に対する懸念なしにはマーシャル計画はあり得ないのは事実である。
七 あるいは「世界を変革」しうるものは戦争の脅威しかない
「戦争が社会の進展を早めたことは否めない。<中略>昨日までは戦争から期待するのが非人間的ではあるが確実であったところのものを、今後われわれは戦争の脅威から期待すべきである。」
八 「力学的平和」
戦争の脅威がアメリカをして剰余分を軍事工業に捧げるなら、戦争は間違いなく起こるであろう。経済の動きが、産出された過剰エネルギーに戦闘以外の道を与えることによって、人類はその諸問題の普遍的解決の方向へ平和裡に赴くことが出来るだろう。
ソ連が投じる試練がアメリカ世界に「変化」を強いる。この変化の必要性に応えるのは一種の「力学的平和」のみであり、それがソヴィエトの革命的意志に対立させうる唯一の方式である。
*(原注より:「力学的平和」はジャン・ジャック・セルヴァン=シュレベールが1948年に「ル・モンド」しに発表した一連の注目すべき論文「平和に直面する西欧」に記載された用語。⇒内容を知りたいところだが未調査なのでわからない)
九 アメリカ経済の完遂と結びついた人類の完遂(⇒省略)
十 富の最終目的の知覚と「自覚」
外的な決断(⇒マーシャルプランの実行)に自覚(⇒内奥性の所有、酒井訳では自覚=自己意識)に基づいた決断を結びつけることは矛盾に聞こえるだろうが、そうではない。「乾いた明晰さ(酒井訳:理性)がそこでは聖なる物の感情と重なる、その様な一点を発き出さねばならぬ。」成長が消費の形で解消する瞬間の意味について意識することこそ、自覚することである。
完