(注:○○○)は私の注記
l 構造主義生物学を応用すれば構造主義科学論が出来ると考えた
l 本書を貫くテーゼは「科学は同一性の追求であるが、その同一性には根拠がない」ということである
Ø (注:同一性の根拠と思われているものその1は、外部世界に自存する不変の実体)
Ø (注:同一性の根拠と思われているものその2は、自然の中に実在する普遍の法則)
Ø (注:この考え方は、単純に科学には客観性や普遍性がないと言っているのではない)
l 第六章「科学と社会」についての考察は著者も言っているように本書では不十分なので省略した
はじめに
l 科学は真理をではなく同一性の追求をめざす(注:そのココロはおいおい分かる)
l 各章の概略
Ø 第1章は、現代科学論に至るまでの概説
Ø 第2章は、著者の構造主義科学論に至るまでの概説
Ø 第3,4,5章は、構造主義科学論による、古代ギリシャの科学、物理学、生物学の解説
Ø 第6章は、科学と社会の未来についての論考
第一章 科学とは何か
1. 科学は宗教や迷信と区別できるのか
l
科学は万人にとっての普遍的真理を追究するものであるという素朴な誤解
Ø
科学は客観的なものではない(注:この客観とは、主観から独立の存在と考えている)
²
だから、科学と迷信は客観性において厳密に区分できると言う考えは誤りである
² (注:科学が、外部に自存する不変な実体や普遍な法則を信じるとすれば、その点では宗教と同じ)
Ø (注:この言い方は、普遍的真理を追究するという価値自体を否定するものではない)
l 理論的にはどうか
Ø 経験の論理整合的体系から観ると、これは後知恵理論なので、理論自体はあまり関心を引かないから省略
Ø 予測の論理整合的体系から観ると、科学の予測は当たるから、理論は理解不能でも、その正しさを信じる
² 理解せず信じるから、科学理論であってもその点では宗教と類似
² (注:科学技術の成果のもとで暮らしている現代人は、この体系の正しさを当然のごとく信じている)
² (注:予測を信じる根拠が神なら絶対だが科学は異なることを科学は理論化する営みでもある)
l 記述形式ではどうか
Ø 科学の記述形式は、対象に名付けられた名称同志の関係記述なので、人間が予測可能
Ø 宗教の記述形式は、対象に名付けられた名称と神の関係記述なので、神のみ予測可能
Ø 迷信の記述形式は、科学の記述形式と同じだが、経験体系化のレベルが低いから予測確度も低い
2. 帰納主義と反証主義
l 帰納主義に異議あり
Ø (注:ガリレオやデカルト以降、近代科学は帰納主義の考えに基づいて飛躍的に発展してきた)
² (注:一般に、科学は「帰納」「現象」「演繹」を基盤にしている)
² (注:「現象」は観察で可能となる、ということには誤りが含まれていて、このことは本質的なことである)
² (注:「演繹」は現時点で検証不可能な将来の予測も出来るのか?著者は本書で「構造」が分かれば出来ると述べているがその意味は?)
Ø 帰納主義とは、一回起性の出来事を沢山観察して、そこから共通の事実(法則)を見出す方法
² 観察には、先入観を捨て事実をありのままに記述することが出来る、ということが前提にされている
² 法則が成り立つには、一回起性の出来事のなかには予め共通な事実が含まれていることが前提されている
² 法則は、経験を重ねて拡張されてより普遍的なものとなるのだが、それには必然性がある
l 例えば、ケプラーの法則はニュートンの法則に、ニュートンの法則は相対性理論に包摂されていく
l 因みに、物体の運動は時空のゆがみで起こる、というのが今の「運動」の理解
Ø (注:普通、この記述が意味することは理解できないが)
Ø 帰納主義の前提に疑義有り
² (注:疑義1、事実をありのままに記述することは出来るのか?)
l (注:「ありのまま」が先入観を捨てることなら、そんなことをしたら観察出来ないのでは?)
l (注:事実を記述するすることが出来るのか?また、記述された事実と何か?)
² (注:疑義2、一回起性の出来事(事実)同士に共通な事実があり得るのか?)
l (注:出来事(事実)は瞬時だから、時間が経過しても事実が不変であるには別の根拠が必要では?)
l (注:そもそも、時間自体が外部に自存する何かであるのか?)
² (注:隠れた疑義、帰納から予測が出来るのか?)
l ポパーの反証主義
Ø 反証主義は、帰納というものは存在しないと考える
² なぜなら、単称言明はから普遍言明が導けないから
l 単称言明とは、一回起性の出来事の記述で、例えば「あるときある場所で見たカラスは黒かった」と言う記述
l 普遍言明とは、例えば「すべてのカラスは黒い」と言う記述
² (注:絶対に真である存在を前提にするなら、帰納法は存在しない、と言っている)
Ø 反証主義は、科学理論は反証可能でなければならないと考える
² (注:論理的には、事実が偽であることを証明するには反証の例が一つあればよいから)
² (注:科学理論は偽の証明力が必要だが、それができるのは反証だけであることが前提されている)
² 神のお告げやトートロジーは反証可能でないから科学理論ではない
²
しかし、反証された理論は迷信と同じとは言えない
l
例えば、ニュートン力学は、光が曲げられるという一例で反証されるが、迷信と同じとはいえない。
l (注:この理論は科学と迷信の区別には使えるが、科学と非科学の区分には使えない)
Ø しかし、結局は、反証主義は帰納法と同根である
²
反証主義は、単称言明の記述で普遍言明を反証できると考えている
²
反証主義には、帰納法の前提が使われている
l
単称言明は一回起性の出来事の記述である(例えば「あるときある場所で見たカラスは黒かった」)
l しかし、実は一回性の出来事の記述には、普遍言明(例えば「カラスは黒い」)が含まれている
l ヴィトゲンシュタインは、「論考」で帰納法に根拠を与えた
Ø 要素命題が存在するなら、一回起性の出来事には、共通な事実が含まれることになるから
² 要素命題で世界が記述できる
² 命題が言語で、事態が要素命題で記述可能なら、言語構造と世界構造は同型的である
Ø 「対象」とは著者の言う「外部世界の不変の実在」だから存在し得ない、とうのが著者の見解
Ø 言語構造と世界構造は同型であることは疑問である、と著者は考えている
3.
規約主義とは何か
l 規約主義とは、事実は専門的な理論があってはじめて捉えられる、という考え方
Ø これは村上陽一郎の言い方の転記
Ø 規約主義は、事実の「理論負荷性」を基盤にしている
² 理論負荷性とは、事実は科学理論(記述)で可変であるという主張
l 理論負荷性はハンセンが提示した考え
l 科学にとっての事実とは、人に伝達可能、つまり、記述された事実を意味する
l 記述された事実とは、ヴィトゲンシュタインによれば事実の像のこと
l (注:事実はヴィトゲンシュタインの言う名や命題で記述されたもの、という視点)
l (注:事実は記述されたもの、という視点は、科学の本質により迫ることを可能にした)
l (注:事実は外部世界の客観的実在ではない、と言っている)
² 理論負荷性とは、換言すると、事実は解釈体系により異なる、という主張
² 事実は人の解釈で異ならないと言う考えに対する、とりあえずの反論
l 理論負荷性自体の反論ではない(注:ここでヴィトゲンシュタインを思い出すこと)
l 最善の解釈体系の正しさを保証する原理はない、論理の無限退行となるから
Ø 規約主義は共約不可能な解釈体系(パラダイム)を許容する
² パラダイムは帰納主義の前提が崩れることで生まれる考え方
l 事実が解釈で異なるなら、解釈体系の真偽を事実で検証不可能となる
l 同じ事実に対する異なる解釈体系があることに矛盾があると捉えず、パラダイムが許容されると考える
Ø 規約主義は、同じ天体運動に対するケプラーの法則とニュートン理論は、帰納主義に基づけば矛盾と捉える
Ø その上で、規約主義はケプラーの法則とニュートン理論はパラダイムとして許容されると考える
Ø 帰納主義は、ケプラーの法則はニュートン理論と矛盾するのではなく、それに含まれると考える
Ø クーンは、大部分の科学者が、科学理論の信憑を他のパラダイムへ変更することを「科学革命」と呼んだ
Ø 著者は、そもそも共役不可能と可能、それ自体を検討しないと意味がないことを指摘している
² 帰納主義では、一つの出来事に対する共役不可能な解釈体系は存在し得ない
l ケプラーの法則→ニュートン理論→アインシュタインの相対性理論の順に拡張され、理論は一つと考える
l (注:しかし、ケプラ-、ニュートン、アインシュタインの理論が一つであると考えるのは、事実は一つと考えることの言い換えに過ぎない)
l 規約主義は帰納主義と矛盾する
Ø 帰納主義は万人に共通な(不変な)事実が存在すると考えるが、規約主義はそのような事実はないと考える
² 専門的理論は、専門の分だけ経験によるものだが、この経験は先入観に他ならない
² 帰納主義は、先入観を捨てて出来事をありのままに観察すれば事実を正確に記述できると考えている
l 規約主義は理論の更新を説明できない、これが難点
Ø 規約主義は、パラダイムの真偽を事実によって確かめられないから
² (注:ここでの「事実」と後述の「現象」の関係は今のところ不明確)
² (注:事実を現象と言い換えると、規約主義は、現象からコトバへの変換形式の同一性が明示的に記述不可と主張していることになる。この点、著者は後述している)
Ø この規約主義の最大の難問を、著者は以下でアプローチする(科学理論の記述構造から始める)
l (注:規約主義は帰納主義に依拠せずに科学を構築することができるが、客観性を追求する動機に欠ける)
第二章 現象と記述
1.
現象は実在する
l 経験によって感じることの出来るすべての「何か」を「現象」と呼ぼう
l 中味を問わなければ、すべての現象は実在することになる
l だが、この考え方は科学に対して難問を与える
Ø 一つは、「現象」を他人に伝える方法、端的にはコトバの問題
² 現象の記述方法の問題
² 記述された現象の再現保証の問題
Ø 一つは、「現象」の再現方法、端的には現象の原因の問題
² 現象に原因があるかどうかと言う問題。原因があるなら、それを作り出すことで現象が再現出来る
² 現象に原因があったとしても、そもそも原因とは何か、それは現象なのかそれ以外のものなのか
Ø (注:本書において、科学の文脈で用いられる「現象」は、端的にフッサールの言う「個的直観」のこと)
2. コトバとは何か
l 中世ヨーロッパまでの理解
Ø 一つは唯名論
² 例えば「犬」に対応する実在はなく、あるのは「ポチ」などの個物だけであると考える
² (注:第一義的に存在するのは個物であるというアリストテレス的思考)
Ø 一つは実念論
² 例えばある個物「ポチ」が「犬」と呼ばれるのは、犬という本質が実在するからと考える
² (注:プラトンのイデア論と同じ)
l ソシュールはコトバに対する理解を転換した
Ø コトバは世界を名指す記号ではなく、コトバで分節されてはじめて世界が認知される、と考えた
Ø 「言語の恣意性」という概念
² 「言語の恣意性」とは、分節の仕方と同一性の措定の無根拠性のこと
l 換言1、現象から不変の同一性(シニフィエ)を引き出す規則は明示的に記述できない
l (注:換言2、コトバによる分節法や同一性と認知する仕方は客観的事物や法則には根拠を持たない)
² 分節の恣意性は、シニフィアンとシニフィエで説明される
l シニフィエはコトバの同一性のこと
Ø シニフィエは現象ではない
² 現象は時々刻々と変化する
² シニフィエは同一性を担った不変(時間が経っても不変)の何か
Ø シニフィアンはコトバの表現(発音、表記)のこと
Ø シーニュはコトバ(が示す)記号のこと
l コトバの並べ方(連辞関係)、コトバの意味関連(連合関係)規則なども恣意的である
² 「ラングとパロール」という概念
l ラングとは、一度習得された言葉は、逆に思考様式や発話を縛ると言う言語学の規則
l パロールとは、ラングに準拠してなされる発話のこと
l ラング自身は恣意的だが、パロールに対しては自身に根拠があるがごとくふるまう
Ø 著者の、コトバにたいする理解
² コトバによってはじめて世界は生成する、とは考えない。シニフィエは現象ではないから
² コトバとは、変なる現象から不変なるなにかを引き出すことが出来ると「錯覚」するための道具の一つである
l これには生物学的根拠がある。錯覚は、それが起こるのが普通である脳の機能だから
l ベーコンのイドラ(偏見)を認めれば、機能主義、実証主義、反証主義となる
l 複数の人に生じる同型の錯覚を規約とか理論と呼べば規約主義になる
l 言語は最もベーシックな規約、即ち「錯覚」だから、コトバがないと成立しない科学は「錯覚」となる
l (注:著者の言う「錯覚」という言葉は実在を前提とした概念ではない)
² コトバはある同一性によって現象をコードする形式である
l この「形式」は非明示的な錯覚形式である、と著者は言う
l この記述は「6.形式と現象」に出てくる
3. 外部世界は実在するのか
l 外部世界とは、我々の主体や主観を離れて独立自存するなにか、である
Ø 外部世界の実在論は二つに分けられる
² 私以外の何かが実在する
l これはとりあえずOK、なぜなら現象は実在するから
l デカルトは、「考えているこの私自体は疑えない」という現象は実在する、と考えた
² 外部の世界に不変の実在物がある
l デカルトは、この実在を想定した
Ø 心身二元論で、神を含めた外部の実在を想定した
Ø 私と私の観念と観念が生み出す現象は疑い得ないと考え、現象の原因を外部の実在にあると考えてしまった
Ø 私の存在の原因を問うことなしに私の存在自体が疑い得ないと考えたから
Ø 換言すると、観念や現象には原因があることをアプリオリに想定しているから
l これは誤りである
Ø 不変は時間を内包しないことである
Ø 外部世界の実在は現象により根拠づける他はない
Ø 現象は時間を内包するから不変ではあり得ず、従って外部の世界の不変の実在物はあり得ない
Ø 量子力学や素粒子論も、この考え支持しはじめている
² 原子や素粒子という「外部世界の不変の実在物」が存在しないことが明らかになってきた
² 著者の科学観からすれば、そのこと自体は予め自明であることになる
Ø (注:外部世界を単に客観と言い換えても議論は深まらない)
l 著者は、外部の世界は実在せずとも、確実に存在するものだけを用いて科学を構築できると考えた
Ø 「私」は存在する
² (注:これ自体は自明としている)
Ø 「観念」は存在し、それはシニフィエである
Ø 「現象」は存在するが、難問の因果関係については後で述べる
4. カントとフッサールの認識論
l カントの認識論には誤解がある
Ø カントは、私、観念、現象の三つが認識論の基底であると考え、なおかつ客観性の根拠を考えようとした
Ø 一つ目の誤解は、他者との共通了解の意味を現象の一致と捉えたこと
² 現象に一致する根拠は「物自体」の実在
² 共通了解には現象の一致はいらない、というのが著者の考え
Ø 二つ目の誤解は、現象には原因があるという論理がメタレベルとしても通用すると捉えたこと
² 現象の原因は、メタレベルで想定された「物自体」とした
² 現象に原因があると思うのは、人間の脳に共通な機能(注:「錯覚」)による、というのが著者の考え
l ヘーゲルの認識論はカントを超えてない
Ø ヘーゲル観念論は客観(真、絶対知)の存在証明をした
Ø カントの「物自体」を否定して、意識の運動で絶対知に至る、とした
Ø だが、客観が究極において証明されたとしても、今ここにおいて共通了解が得られる根拠にはならない
² (注:ヘーゲルの認識論には時間軸が要件)
² 共通了解自体は、今ここに成り立つだけだから時間軸はない
l (注:フッサール(現象学)は新たな地平を開いた)
Ø フッサールは、認識の根拠を外部世界の実在ではなく信憑とした
² デカルトやカントと異なり、「現象には原因がある」という構図を排除した
² ある構図に、人々が共通に持っている外部世界の信憑がはまり込めば、「客観」という確信が生まれる
l (注:その構図とは、同一性としてのシニフィエを明示的に記述出来るという「錯覚」)
l (注:この確信は客観性をどんどん高めていくという本質を持っている)
Ø 本質直観されたものは、換言すればシニフィエとなる
² 個的直観は「本質直観」に転換されるが、この転換させる仕方の同型性に共通了解(信憑)の根拠を求めた
l (注:著者が科学論において「現象」と呼んでいるものは、フッサールの言う「個的直観」のこと)
l 個的直観は本質直観に転換されるというフッサールの考えを、著者は「錯覚」と言う
Ø (注:個的直観は事実に対する認識でシニフィエ自体ではない)
Ø (注:本質直観は本質に対する認識でシニフィエと言えるから)
² つまり、経験をコトバで言い当てられれば、現象が共通了解(信憑)可能なものとなり得る
5. 共通了解とは何か
l 共通了解には、現象が自他にとって同一であることは不必要
Ø カントは、現象が自他で一致することで共通了解が生まれると考えた
² 人は同じ認識装置を持っている(注:これは単なる推定)
² だから同一の「物自体」なら同一の「現象」が現れると
² でも、カント認識論の先験的形式は素晴らしい
l 先験的形式が、コトバの規則の逆関数であると捉えれば「物自体」はシニフィエを意味すると受け取りうる
l 逆関数とは、物自体から現象が導かれるのではなく、現象からシニフィエが導かれることの記述
Ø 他者と共通に現れるものは現象ではなくコトバである、と著者は言う
Ø 共通了解に必要なのは、コトバの規則の同一性の中の一部分である
² それは、現象からシニフィエへの転換法則が同型であることだけであり、シニフィエの同一性は不要である
² 換言すると、必要なのは、同一なシニフィアンに支えられ自他の「現象→シニフィエ」に完全な平行性だけ
l (注:規約主義の「規約」が意味する同一性に対する信憑が、科学における共通了解の根拠)
Ø 「規約」とは「自然言語を基礎的規則として持つ、現象から同一性への変換規則の同型性」
² (注:変換規則の同型性であって、現象自体の同一性ではないことがポイント)
² この同型性は、自己言及のパラドクスによって明示的ではない
Ø フッサールや後期のヴィトゲンシュタインの考えは、規約主義の正当性を裏付けている
² (注:規約主義では、事実は記述されなければ意味を持たない)
² (注:規約主義では、事実は解釈体系によって異なる)
² (注:ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考えは、共通了解の根拠を提供する)
l 言語ゲームとは、コトバの同型性をたずね合うゲーム
Ø ヴィトゲンシュタインは、後期において、帰納主義や実証主義の基礎となる考えをやめてしまった
Ø コトバの同型性も言語ゲームの規則も、原理的に明示的には記述できない
² この場合には、明示的記述はコトバによるほかはない
² つまり、自己言及のパラドクス原理によってそれは不可能となる
l (注:コトバの同型性は共通了解の根拠である)
Ø 科学とは「規約主義の、その同一性の信憑を、共通了解として相互に確認し合うゲーム」である
l 共通了解可能性も、科学も、その程度の確かさ?と思うかも、だがしかし...
Ø それらは、そのようなことはないと言えるほど、確かなことである
Ø 次節で、客観性の問題をカントやフッサールとは別の観点から考える
6.
形式と現象
l 現象から取り出せる、明示的に記述可能な同一性はあるのか、あるとすれば何か
Ø (注:この問いには、現象が客観的であることの保証の要請が前提されている)
Ø シニフィエもシニフィエを引き出す規則も、記述することが出来ないから取り出せない
² そもそもシニフィエは現象ではないから
l 現象は時々刻々と変化する
l シニフィエは時間に対して不変
² (注:現象からシニフィエを引き出す規則も時間に対して不変と考えている)
² (注:コトバなら可能である、と著者は言っている?)
l (注:「人間は文字通りコトバによって不可能を可能とした」と言っている。説明不足)
l (注:著者は、コトバに、それが記号に代入できるという独特の表現をしているが?)
Ø 記号と記号の間の関係形式なら客観的なものとして取り出すことが出来る
² だが、記号は内容(コトバ)を含まない
² 関係形式とは例えば、A+B=C,A<B<C
l (注:形式は外部世界にも現象の中にもア・プリオリに自存するものではない(第四章))
l (注:形式の記号にコトバを代入して現象を記述しても、それだけで直ちに客観的になるのではない)
Ø 例えば、Aは酸素、Bは水素として、A+B=Cは、酸素と水素から水が出来る、という記述
Ø 例えば、Aはネズミ、Bは人、Cは象として、A<B<Cを、象は人より大きく人はネズミより大きいと記述
l シニフィエが代入された記号と記号の関係形式を一般に「構造」という
Ø 従って、「構造」は客観的なものではない
Ø 科学においては、記号にシニフィエを代入するには、コトバを用いるしか方法はない
l 現象を「構造」によりコードすることで客観性が増大する
Ø (注:「構造」によりコードするとは、コトバを別のコトバと客観的な関係形式で記述すること)
Ø 科学的記述(言明)は、それだけでは客観的なものではないが、客観性を増すことは出来る
² 科学的記述(言明)とは、記号と記号の関係形式の記号にコトバを代入したもの
l 記号にコトバを代入するとは、コトバの形で表記されている同一性、即ちシニフィエを代入することである
l 客観的なのは、記号と記号の関係形式だけだから、記号にコトバを代入すればシニフィエが代入されるから客観的ではなくなる
² (注:客観的ではなくても、客観性を増すことなら可能で、しかもそのことに意味がある)
Ø コトバを構造によってコード出来れば客観性が増す
² 構造はコトバを含むから客観的なものではない
² しかし、コトバが別のコトバに関係形式を付加したものでコードされるなら客観性が増す
l 例えば、水というコトバだけよりも、水は酸素と水素からなる、という科学的言明は客観性が増す
l (注:この例から言えば、化学が分子レベル(水ではなくて酸素と水素)を基底にすることでも十分客観性を持っている(共通了解を持ち続ける基盤が強固である)ことが分かるが、このこと自体は客観的とは言えない、と構造主義科学論は主張している)
Ø 著者は、科学の理想形を「厳密科学」と定義し、そうではない「非厳密科学」と区分する
² 厳密科学とは
l 記号だけで記述された構造からなる科学を「厳密科学」と呼んでいる
Ø 換言すれば、現象からコトバへの非明示的な変換形式が含まれていない科学のことである
Ø 記号に代入されるコトバは、現象から直接要請されたものではなく理論から要請されたものとなる
Ø このコトバは、シニフィエへの非明示的変換形式を含まないから記号と同じである
l 例えば素粒子論
Ø 物質の究極の構成要素の一つであるクオークは、外部世界に自存する不変の実体ではない
Ø クオークは理論の要請に基づいたコトバであって、シニフィエへの非明示的な変換形式を持たない
Ø (注:事物は思考の産物に過ぎないが、科学によって客観性を増大し続けることが出来る対象と言える)
² 非厳密科学とは
l 厳密科学ではない科学を指す
Ø 換言すれば、現象からコトバへの非明示的な変換形式を含まざるを得ない科学のことである
Ø 記号に代入されるコトバは、現象から直接要請されたものとならざるを得ない
Ø このコトバは、シニフィエへの非明示的変換形式が含まれざるを得ない
Ø 「非厳密科学」の客観性とはなにか
² 非厳密科学の客観性はコトバとコトバの関係形式自体にある
² するとこの場合は、共通了解は「規約」に強く依存する
l 「規約」とは「自然言語を基礎的規則として持つ、現象から同一性への変換規則の同型性」であった
l だが、(注:コトバを用いる限り)「厳密科学」における共通了解も全く「規約」から独立ではない
l だから、共通了解の「規約」に対する依存性は程度の問題に過ぎない
l 生物学や社会学など大部分の科学が該当する
² 厳密科学と非厳密科学の区分についての著者の考察
l (注:区分することで科学理論の拠り所が明確になってくるが、区分自体には意味はない)
l 区分の根拠は「現象からコトバ(そこに含まれる同一性はシニフィエ)への非明示的な変換形式」の有無
Ø そもそも、現象とコトバをある変換形式で結ぶのは矛盾であった
² ①現象は時間含むがコトバは時間を含まない
² ②形式は時間を含まないから、この変換方式は不可能
² (注:だが、①の考えには、時間はコトバと独立して別に存在していることが前提されている)
Ø コトバがある「形式」である、という考え方を転換することでこの矛盾はなくなる
² コトバは時間を生み出す「形式」と考える
² つまり、現象の内に含まれている時間の形式は、コトバという形式により非明示的に書かれていると考える
² すると、現象に含まれる時間は唯一ではなくなる(コトバの形式が生み出すのだから)
² 現象に含まれる多様な時間の形式が記号の関係式で記述出来れば、現象からコトバへの変換形式が記述出来る
Ø この矛盾が解消されると、時間は意識内部の形式となり、現象の客観性が保証される(注:ここは不明瞭)
² 現象に含まれる時間は唯一ではなくなっている(コトバの形式が生み出すのだから)
² その多様化した時間の形式が記号の関係式で記述出来る道が開ける
² そうすれば、現象からコトバへの変換形式が明示的に記述出来る道が開かれるから
l 因果関係は時間の前後関係と平行関係にあるのではなく、構造である
Ø (注:因果関係は、原因と結果の間に存在すると想定しているある関係だが、科学理論上の難問である)
Ø 常識的な因果関係の理解は論理が破綻している
² 常識的な因果関係理解とは、ある原因からある結果が必然的に生じると言う理解
² だが、その必然性には因果関係の意味が含まれているから論理が破綻している
Ø 因果関係は、原因と結果の現象をコードするコトバの間の関係性だから
² 因果関係は時間の前後関係と平行関係にあるのではない
l 因果関係は時間の前後関係と平行関係にあると考えると、構造は時間をパラメータとして含むように見える
l 実は因果関係という図式全体が構造によってコードされている(注:ここは不明瞭)
² 時間の前後関係に依拠する因果性は本質的ではなく、現象の原因は構造に求めなくてはならない
l (注:これは説明ではなく断定)
l (注:著者の「コトバは時間を生み出す形式である」と言う考えが基底あると推定される
² 構造は未来の現象を予測可能にする
l 構造はもともと複数の現象をコードする
l 複数の現象は未来の現象も含まれるから、構造は未来の現象を予測可能にする
l 構造主義科学論の科学とは、現象を構造によってコードし尽くそうとする営みである
Ø 科学は見えるものを見えないものによって言い当てようとするゲームである
² 現象は見える
² シニフィエや形式や構造は見えない
² (注:ゲームという表現は、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム}からきているのだろう)
Ø 科学理論は構造である
² (注:だから記号と記号の関係式で記述され)
² (注:だからコトバは他のコトバと記号の関係式からなり)
² (注:そこに用いられる記号にシニフィエが代入された途端に客観的でなくなり)
² (注:そこに用いられる記号に、理論が要請する、形式を持つが内容を持たないコトバが代入された限りにおいて、検証可能な客観的なものとなり(厳密科学))
² (注:非厳密科学(生物学や社会学等々)の客観性の根拠は、コトバとコトバの関係形式自体にあるのみ)
Ø 旧来科学の構図は観察が可能になると破綻する
Ø 「外部世界に自存する不変の同一性としての実在」という構図を持っている科学を旧科学と呼べば
Ø (注:その実在を観察しているつもりでも、観察は経験即ち現象なので、観察が可能になった途端に、それは目的とするもの(その実在)ではなくなる。なぜなら、その実在はもともと現象ではあり得ないから)
Ø (注:その実在が現象ではあり得ないのは、不変なものは刻々と変化する現象ではあり得ないから)
Ø 科学の栄光は破綻することにある
² 科学理論は発明されるもので、脳の機能が可能な範囲に限定される
² 現象は限定されず、偶然立ち現れて発見されるものである
l コトバから現象への形式が非明示的(注:現象からコトバへの形式も非明示的だが)
l コトバから現象への形式が時間の要素を生み出すなら
² だから、理論は予測不可能に突然立ち現れる現象により破壊されるという本質を持つ
第三章 古代ギリシャの科学
1.ミレトスの哲学者たち
l それ以前のエジプトやバビロニアにも技術はあった(今から4~5千年も前)
Ø 技術は科学に先行する
Ø 科学と技術は区分される
² (注:技術は現実に有用な個物を作り出すことが目的だから、不変の同一性にさほど興味なし)
² (注:科学は有用性の有無よりも個物や現象の背後にある不変の同一性に対する興味を大切にする)
l 科学は古代ミレトスの哲学者(B.C.6世紀)から始まる
Ø 科学は「現象を何かの同一性によってコードすること」で技術と区分される
Ø アルケー(世界の原理、始源、根拠)を問うたことが本質的
² タレス(B.C.624-B.C.546頃)が最初に「万物の原理は水である」とした
² アナクシマンドロス(B.C.610-546)は「限りないもの」とした
l 原因を事物でない、見えないものとした
l 事物間の関係、即ち構造を考えた最初の人
² アナクシメネス(B.C.585-525)はアルケーを「空気」と考えた
2.ピュタゴラスとヘラクレイトス
l ピュタゴラス学派(B.C.5世紀頃)の教義には構造主義科学論の萌芽が見られる
Ø 万物は数である、と言う教義を持つ
Ø 数は現象でも外部世界に自存している事物でもない
Ø だから、現象をコードする同一性は外部世界に自存しないことになり、構造主義科学論の萌芽がある
l ヘラクレイトス(B.C.540-480頃)は、著者の言う非厳密科学(現象論)の開祖である
Ø 不変の同一性を質料因としての実体にではなく、関係性自体の中に見出そうとした
Ø 万物は流転する
² 「太陽は、日々新しい」とか
² 「同じ河には二度と入ることは出来ない」とか
² (注:要するに現象の本質を事物自体だけでなく事物間の関係にも観た)
² 「火をアルケーとした」が、この「火」は形相転換の法則(事物間の関係法則)の比喩である
3.エレア学派
l 始祖パルメニデス(B.C.500or475-?)は、世界最初の科学哲学者かもしれない
Ø 開祖は詩人クセノパネスと伝承されている
Ø 徹底的に存在論、認識論を考えたから
² 「ある」ことと知ることは同じである(現象をコードする同一性は外部世界ではなく、意識の中にある)
² 変幻流転する現象の認識には不変の同一性が必要である
² しかし、変幻流転する現象を認識することは不可能である
² 結局、「ある」ものは一つで均質一様であるしかない有限な球体のような完結体である、とした
Ø プラトンはパルメニデスに対して、ソクラテスを除く先人達の誰よりも大きな敬意を表している
l ゼノン(B.C.490-430頃)が提出した無限のパラドクスは19世紀のカントール(集合論)まで未解決だった
Ø 「ある」ものが二つあると中間に「ある」ものがあることになり、結局無数となり均質一様と同じ
Ø ゼノンは師の一元論を擁護
l メリッソス(B.C.470-?)は師の「ある」もの誤解して、原子論者の一つの源流となった
Ø 誤解とは、「ある」ものを外部に自存すると考えた部分
Ø 誤解の結果「ある」ものは空間的に無限なるものになる有限と無限の間で外部世界に自存する実体を構想
Ø この構想は、原子論者への道の源流となる
² 原子論者は、有限と無限の間で外部世界に自存する実体を構想したから
² (注:この道行き説明内容不明)
4.原子論への道
l エンペドクレス(B.C.490-430頃)は、現象や事物の原因を質料因と運動因に分けた
Ø (注:ミレトス派の考えと異なり複数の原因を考え始めると、異質な別の原因を考え得るようになる)
Ø 質料因は四つ(火、空気、水、土)
Ø 運動因は愛と争い(愛は引力で争いは斥力)
Ø つまり、要素と関係法則によって現象をコードしている最初の科学者であった
l アナクサゴラス(B.C.500-485頃)は事物の単位存在を考えた
Ø アナクサゴラスは事物を分割し続けると最後は何になるかを考えた
Ø それは、無限小で無限種類、無限数ある(すべてのものの種子)
Ø 無限分割の発想はゼノンの無限に対する考え方に影響を受ける
Ø 問い自体は素粒子論と同じ(単位存在の想定)
Ø だが、単位存在は、無限に小さいと言う考えとは背反する
Ø ほかにも、変化の原因としての運動因(ヌゥス)を考えた
² アリストテレスの不動の動者(第一原因)の原型
² ラマルクやヘッケル進化論の進化原因概念と同型
² ヌゥスは現代の一般的な科学思想からは不評
l 外部世界に自存する実体を想定しないから
l レウキッボス(B.C.440-430頃活躍)とデモクリトス(B.C.460-370頃)は有限な単位存在(アトム)を考えた
Ø 単位存在の間に空虚を認めなければならない
Ø アトムは質的に同じで量と形態は無限にある
² 個物は諸アトムの組み合わせからなる
² 個物の個性は組み合わせ方に基づく
² 現象の変化は組み換えで起こり
² 変化の原因はアトムに内在
² すると、ニュートン、ラプラスの決定論(ラプラスの魔)に繋がる
5.プラトンとアリストテレス
l プラトン(B.C.427-347)は現象よりもイデアを基底に置いた
Ø 自然現象をイデア、個物、素材で語った
² イデアは、モデルとして仮定されたもの、理性の対象、同一を保つもの
² 個物は、モデルの模写、生成するもの、可視的なもの
² 素材は、生成の、いわば養い親のような受容者
Ø (注:著者は構造主義義科学思想の原型がここにあると考えている)
² 自然現象(個物)を、二つの同一性(素材とイデア)でコードする
² 著者は、「プラトンは、イデアは時間を生み出す形式であると言いたかった」と考えている
l アリストテレス(B.C.384-322)は現象が最基底で、イデアは個物に内在
Ø 個物の変化要因をイデアと別設定することが必要
² 現象の背後に四因(質料因、形相因(イデア)、運動因、目的因)の設定
² この考えは同一性を明示的に形式化する明晰さに欠ける
Ø (注:著者は現代に至る普通の科学思想の原型がここにあると考えている)
² 同一性は個物や現象には無いから錯誤となる(注:科学は錯覚であると言う主張)
² 科学はアリストテレスの四因を明示的に形式化しようと努力してきた
² 科学は錯覚に気付くたびに精緻となり、より客観的になってきた
第四章 同一性としての形相と実体
(物理学の歴史)
1.初期の天文学
l 現象(天体の運動)を何かの同一性でコードすること自体は現代科学と同じ
l その同一性として、実体概念を使わずに、形相概念だけを使っているのが特徴
Ø 同一性としての形相概念は、先ずは円運動であった
² プラトンやアリストテレスの天動説
² プトレマイオスはその後増えた観察結果と整合性を持つために80以上の円を組み合わせた
² コペルニクスは1300年後に地動説を唱えて円の数を34個に減らしただけである
² コペルニクスの地動説は、科学理論の形式上はプトレマイオスの天動説と同型である
² (注:「コペルニクス的転換」という言葉は、科学思想における価値を遙かに上回って有名である)
Ø ケプラーの第一法則までは、典型的な非厳密科学であった
² 不変の同一性は、個物と個物の関係性としてのみ措定されている
² 不変の同一性は、個物と個物の関係性としてのみ措定されている
² 第一法則によって、34個の円が7個の楕円になったが、理論形式は従来通りだった
l 第一法則は「惑星の軌道は太陽を一つの焦点とする楕円である」
l (注:円から楕円にするには抵抗感があったらしいことには興味がある)
Ø ケプラーの第二法則と第三法則には、新しい理論形式が導入されている
² 第二法則は太陽と個々の惑星間に楕円以外の同一性が存在することを明示した
l 第二法則は「太陽と惑星を結ぶ直線は一定時間に常に一定面積を描く」
l ある惑星の運動速度が、太陽との距離の関数として定式化できることが示されている
² 第三法則は太陽と個々の惑星間の関係性において、常に楕円以外の同一性が存在することを明示した
l 第三法則は「惑星の公転周期の二乗と太陽からの平均距離の三乗は比例する」
l 第二法則とは違ってどの惑星にも定量的に当てはまるのが特徴
2.ニュートン力学
l ガリレイ(1564-1642)が先駆するが、同一性を現象論のレベルに措定するに留まった
Ø ガリレイの神髄は運動論(慣性の法則)だが、見出した同一性の理由を問い詰めなかった
² 同一性とは、落体の法則に示された「重くても軽くても落ちる速さは同じ」ということ
l 奇妙なことに、この法則には質料因が無い
l ギリシャの哲学者なら、この同一性の原因を考えて、同一の実体を想定したに違いない
² 同一性とは、慣性の法則に示された「力が加わらなければ、静止するか、さもなくば等速円運動をする」こと
l 等速円運動であって、直線運動ではない(直線運動なら惑星はどこかへ飛び去るから)
l ここでも、慣性はなぜ円運動でなければならないかについての考察を放棄している
l ガリレイは、天体の運行そのものが、慣性は円運動でなければならぬと要請している、と考えたのだろう
Ø ガリレイは実験科学者(注:技術者でもいいかも)であって哲学者ではなかった
Ø ガリレイの思想は応用的には極めて有用で、近代科学の一つの伝統でもある
l ニュートン(1643-1727)の構築した「力学」は、史上初の「厳密科学」
Ø (注:著者の言う「厳密科学」の内容は第二章参照)
Ø プリンピキア(自然哲学の数学的原理)のおさらい
² 質料、運動量、慣性力、外力、中心力を定義する
l 運動量は質量と速度の積
l 中心力は重力のこと
² ニュートン力学の三法則の呈示
l 法則1 あらゆる物体は、それに力が働いて状態を無理に変化させない限り、静止状態或いは直線運動状態を続ける
l 法則2 運動の変化は、常に加えられた起動力に比例し、かつ力が加わった直線方向に生ずる
l 法則3 あらゆる作用には、常にそれと逆向きの等しい反作用が存在する。すなわち二物体が互いに及ぼす相互作用は、常に等しくかつ逆向きである
Ø それまでとは異なり、質量という同一性の中に個物は消えている
² 地上での運動と天体の運行という二つの現象群を、質料という共通の同一性によって結びつけた
² それまでは、太陽とか惑星とかの個物の関係であった
Ø ニュートン力学は不変の実体とその関係法則により現象を解こうとするゲームである
² アリストテレスは四因(質料因、形相因、運動因、目的因)
² ニュートン力学は、質料因と形相因から成り、運動因は初期条件として不問にされ、目的因は捨てられたと言える
l ニュートン力学は「外部世界に自存する不変の同一性」を前提している
Ø それは、絶対空間、絶対時間、質料を担う物体、である
Ø この前提は、アインシュタインの理論により破綻する
Ø マッハのニュートン力学批判
² 自然科学の素朴実在論を承認しない科学の構築を試みた
l 俗流マルクス主義的な科学者の悪口「マッハ主義」の由来
l 著者はこの考えこそマッハ最大の業績と評価
² 絶対時間、絶対空間は単なる形而上学的概念であって、実用的価値も科学的価値もないと批判
l 著者は「外部世界に自存する不変の同一性」の否定については評価
l 実用的、科学的価値はない、というのは誤りで、言うなら、無用ではなく有用な「形而上学的概念」だろう
² 世界に実在するのは、感覚要素とその複合のみである
l 感覚要素とは、色、音、熱、圧力、香り、空間、時間等々のこと
l 現象のみが存在すると言う考えは正当
l 「感覚要素」はある同一性だが、これが現象の中に措定できると言う考えは誤り
l 原子仮説を批判
Ø 後に、原子の実在は実証された。換言するとその実在が現象として観察された
Ø 実在が実証されたことで、不変の同一性を保つ実体としての原子は見事に否定された
Ø 次ぎに、不変の同一性を求めて原子核科学が開始されたが、現在でも結局同じ道を辿っている(後述)
3.アインシュタインの相対論
l アインシュタイン(1879-1955)は自然世界の認識を変えた
Ø ガリレイ変換で不変ではなくなる世界が見つかった
² ガリレイ変換は等速運動系同士の座標変換
l (注:ガリレイ変換で世界は不変なことは、等速走行中の乗り物の中では地上と差異がないことで実感)
l (注:ならば、加速度系なら世界が変わる?どこに比べて?はじめの規準は?。。。相対性理論へ)
² ニュートン力学は不変だが、マクスウェルの電磁場の方程式はガリレイ変換で変わる
l 電磁場での力の伝達速度はニュートン力学とは異なり有限だから
l (注:不変でないことが疑問なのは、世界は力学的だけでなく、電磁気学的なものもあると経験したから)
l (注:マクスウェルの方程式はニュートン法則と異なり、コトバで記述しても分からないが式なら分かる)
Ø ローレンツ変換の方が不変で世界(認識)の方を変えた
² ローレンツ変換ならニュートン力学と電磁気学の世界の矛盾が消える
l (注:ローレンツ変換の意味ある説明は数式のみで可なので省略)
l (注:ローレンツ変換以降、式の「形式」が自然認識にとって圧倒的に重要となっていく)
Ø (注:この「形式」から読み取れる自然は、もはや「外部に自存する不変の実体」とはとても言えない)
Ø (注:例えば、虚数の導入でホーキング使用した言葉「虚数時間」などを実体と考えてはいけない)
² 世界の方が変わった(と現象した)部分は
l 時間と空間が無関係でなくなった
Ø (注:マクスウェルの方程式には電磁波の速度の項がある)
Ø (注:光も電磁波であることが判明したので、ガリレイ変換で世界が変わるならその世界説明が必要となる)
² 空間はエーテルで満たされている等々
² (注:アインシュタインは光の速度こそ一定としてこの世界を説明した。すると時間と空間の概念が変った)
² (注:例えば速く走ると長さが短くなる(実証済み))
² (注:光速度で飛んでると年をとらない(未実証))
l 物質(質量)とエネルギーは同じとなった
Ø (注:この理論は原子爆弾をつくる動機の一つと推定される)
Ø (注:物質という「実体」でなく質量という「同一性」が現実を生み出し得るという客観性に要注意)
l 空間は、ユークリッド空間ではなくなり、リーマン空間となった
Ø リーマン空間の形式は経験(宇宙観察)と整合的である
Ø (注:リーマン空間は二次元が球面の三次元空間とも言え、三角形の内角の和は180度ではない等。。。)
Ø (注:ここから、相対論は一般相対性理論の領域に入る)
Ø アインシュタインの方程式は重力が特別な存在となったことを示した
² 一般座標変換で消えないから
l 消えないのは重力の本質は空間構造(重力場)の歪み、即ちスカラー曲率だから
l (注:この辺まで来るとコトバの説明は困難となるからおわりにする)
² 運動は空間のゆがみで生じる(注:古いけど万有引力ではない)
l 運動は物体だけでなく光も入る
Ø (注:重力は質量だけでなく光にも作用する)
Ø (注:ブラックホールは強い重力で光も出られないから黒い穴)
l 光は重力場で曲がることが経験で検証された(注:構造主義科学論的に言えば、追求すべき問題が新たに生まれた)
² 重力場を規定している物体が運動すると重力波が生じるはず
l (注:今これを観測するための巨大・巨額な施設が動き始めているが事業仕分けの対象ではない。。。ジョーク)
l (注:重力波はミンコフスキー空間の話だから、測定されると四次元の世界が現象として経験できるかもしれない、と科学者達は期待している。忍者兵器に応用されたら抑止力になるか。。。ジョーク)
² 重力は世界の四つ基本的「力」の一つで、今では、グラピトンという粒子を交換して生じると考えられている
l アインシュタインの相対論は見事な厳密科学の範例
Ø 力学と電磁気学を四次元時空という同一性により矛盾無く成立するようにした
² ミンコフスキーの四次元時空はローレンツ変換を可能にする(仮想)空間
² (注:この空間の想定により、ローレンツ変換式がとてもシンメトリー(対称性)な形式となる)
Ø 「対称性」という不変の形式を見つけ出すことこそ科学の最大目標であることを明確にした
² (注:この言い方だけでは意味不明だが多分下記の意味)
² (注:つまり、ミンコフスキー四次元空間の導入で、ローレンツ変換式が美しい対称形式となること)
² (注:つまり、美しさを求めることが厳密科学の最大目標!。客観性を追い求めることが美しい、となる)
l アインシュタインの夢
Ø それは統一場理論(量子力学に背を向けて)
² 電磁場と重力場の統一(不変の同一性、対称性の追求)
² (注:量子力学は対称性に欠けると直観していたから背を向けたのだろう)
² 成功に至らず孤立無援の中お亡くなりに。。。
Ø 1980年代半ば以降、再び脚光
² 大統一理論など
² 「超弦理論」で説明できるかも
4.
物質という夢
l 「構造」の内、上記1~3は形相の追求、ここは実体(究極の物質)を問う夢
l 素粒子論の辿る道は二つしかない
Ø 「外部に自存する不変の実体」は存在しない(クオーク理論)
² 不変の実体と思っていた原子が不変でなくなった(壊れた)ら、新たに不変なものの追求が始まった
² 原子を構成していた原子核の部分については
l 壊したら電荷を帯びた陽子と帯びない中性子となった
Ø 陽子と中性子が原子核として一緒にいるには「力」(核力)が必要
² 核力の理論に中間子が想定された(湯川秀樹が予言)
² 中間子はパイ中間子として現象か検証されたが、実はいくつかのクオークから成っていた
Ø この「力」は世界にある四つの基本的「力」の一つ
l 陽子と中性子はより小さくはならぬが別の粒子になり得ることが判明、つまり不変でなく変化する
Ø 変化しても不変なものを探すことは、「対称性」を探すことである
Ø ここでの「対称性」とは
² 変化とは、例えば陽子が中性子に変化する
² 「対称性」とは、例えば、陽子が変化して成りうるすべての粒子に共通の不変量を探すこと(電荷とか)
² この考えはミンコフスキー空間によって、ローレンツ変換が美しい対称性の形式を持つことと同義
l このような不変量を運ぶ粒子(運搬子)が想定されクオークと名付けられた
Ø いろんなクオークがあって、見えないがいろいろと振る舞い、いろいろと変化する(量子色理論)
Ø クオークは実体ではある
² (注:クオークが実体(実際に存在する)でないと現象を説明できないから)
² ハイゼンベルクはクオークを認めなかった
l クオークはアド・ホック(場当たり的)に取って付けたような仮想粒子の導入に見えたから
l 関係性としての「対称性」こそ科学が追究すべきものと考えたからだろう
Ø クオーク自体は、観察により、直接現象として確認できない
² 原子を構成していた電子の部分については
l レプトンと呼ばれる物質の基本粒子の一つ(電子やニュートリノはレプトンの一つ)で、それは確認可能
l レプトンは観察により直接、現象として確認できるから確認可能
l レプトン間の相互作用に働く「力」は、世界の四つの基本的な「力」の一つ
Ø 観察すること自体が不可能(量子論、不確定性理論)
² 不確定性理論は電子の位置の確定が不可能と説明される
l より正確にはシュレーディンガー方程式が運動量と位置が交換不能と言うこと
l アインシュタインは量子論認めなかった
Ø 運動量と位置の背後に更なる不変の同一形式があるに違いないと確信していたからだろう
Ø アインシュタインは、ひたすら同一性を求める科学の原則に誰よりも忠実であったからだろう
² 著者は不確定性理論の一般説明は間違いと言う
l 一般の説明は、外部世界に実在する対象の存在を前提している
l 構造主義科学論では、そのような前提をしないから、知り得ないことは存在せず、問題自体が無い
l 最近の科学が追求している、意識の中の同一性
Ø 外部世界に自存する不変の同一性を追求しているのではない
Ø 自然世界の四つの基本「力」を量子論と相対論に整合的に記述することがこの「意識の中の同一性」
² 四つの力を復習すると、大きい順に、核力、電磁気力、(レプトン間の)弱い力、重力
² 量子論と相対論の整合には「発散」問題の解決が必要
l 発散問題とは「事実からみて有限なのに理論上無限大が出てくる」こと
l 量子論は万有引力と同じく、粒子間の相互作用を考えるので、無限の重力場が作用して四苦八苦する
l そこで朝永博士が「くり込み理論」で、電磁気学と量子論が統一される礎を築いた(量子電磁気学)
l 量子電磁気学はゲージ場の理論がくり込み可能であることでうまくいった
Ø ゲージ場の理論は、ゲージ対称性を持つ
² ゲージ対称性とはゲージ変換に対してマクスウェルの方程式が不変なこと
² 時空の各点において物理量を数値で表しても関係性が変わらない変換の保証が必要
Ø ゲージ場の粒子はゲージ粒子と呼ばれ、光子をゲージ粒子と見なすことで発散問題の解決に結びついた
l 「弱い力」と電磁気学もゲージ理論で統一形式として記述が出来るようになった
² 大統一理論の要請
l 大統一理論とは、核力と弱い力と電磁気力を同時に記述する理論
l (注:量子論の二つの力の各々と電磁力は個別には統一して記述出来ても、三ついっぺんには出来ていない)
l この理論は、現象を説明する理論の確認が難しい(神岡鉱山の施設はそのための一つ)
l しかしこの理論の最大の難点は、重力は取り込めないこと
Ø 「超対称性」形式という概念の導入で重力も取り込めるかも
² 量子論の点状粒子の仮定をひも(弦)として解決を模索
² 解決策は「超弦(ひも)理論」の導入
Ø この概念はもともと宇宙は10次元なのに対し要請が破れたから四次元として顕在化し、残りの6次元はコンパクト化したというもの
第五章 生物学における形式
1.個物の関係性としての生物学
l みんな「生命現象」を知ってはいるが、はっきりは言えない
Ø 最先端の分子生物学は生物の中の物理化学現象を解明しているだけ
Ø 生命現象の本質を解明しているのではないから
l 生物学も徐々に客観的となり得る
Ø 現象を関係性により説明する営為を通して客観的となる
Ø 個物と個物の関係性が最初に記述される
² 形態学
l 直接見える静的な個物(頭、胴体、足、等)間の関係の記述
l 概念はコトバになるが、個物を直接コードするから、変異とか遺伝などの概念とは異なる
² 発生学や生理学
l 動的な個物(血流、発生)間の関係の記述
l 現象をよく観察して、動的な個物を記述
² 分類学
l 記述により分類する
l 例えば、生物体の各部位に基づいての分類(これが「昆虫」とか)
l 例えば、初期の発生パタンから動物の大まかな分類をするとか
² この段階は、物理学の歴史に例えれば、プトレマイオスの天文学
2.関係性の生物学その一、遺伝学
l 生物学で最初の理論らしきものを導入したのはメンデル(1822-1884)
l メンデルの遺伝法則は、不変の同一性の関係として記述されている
Ø 形質を記号で表し、記号の関係式として記述
² 例えば、エンドウの背の高い形質をA、背の低い形質をaとして、合体したエンドウをAaという記号で記述する
² 次ぎに、合体したエンドウを沢山観察し、背の高さで区分して数え、その現象を記号の関係で捉える
² 従来よりも優れていたのは、現象を記号に置き換えて、記号間の関係において法則を記述したから
Ø 記号は不変の同一性だが、形質は個物(現象)自体
² 現象を不変の同一性と結びつける理論はない
² 換言すると、個物(現象)の名(記号)を不変の同一性であるかのように見なしているに過ぎない
² なので、厳密科学(例えば理論物理学)ではなく非厳密科学(例えば生物学、社会学)である
² この段階は、物理学の歴史に例えれば、天文学のケプラーの法則
Ø 遺伝現象を(それまでよりも)客観的に説明できるようにしたが二つの問題点が残された
² 一つは、不変量Aやa自体の内部構造がどうなっているか、ということ
² 一つは、不変量と形質の対応関係は形式化出来るか、ということ
3.関係性の生物学その二、進化論
l 進化論は、進化を説明するための理論ではない
Ø 進化を現象として捉えるには地質学的時間が必要だから、まず「現象」自体がない
Ø 種以下のミクロなレベルでは可能
Ø 化石という現象は、過去の進化をうまく説明するが、現在も進化があることは説明できない
l 進化論は、生物の多様性を説明するための理論である
Ø 生物の多様性は、現象であることはすぐ分かる(まわりを見回せば)
Ø 進化論が進化という現象が起こることを要請している
² 宇宙物理学は、現在観察している現象を説明するのに、ビッグ・バンという現象を予想する
² しかし、宇宙物理学がビッグ・バンという現象(観察され得ない)を説明するための理論ではない
² 同様に、進化論は進化という現象(観察され得ない)を説明するための理論ではない
l ラマルク(1744-1829)は進化という現象を仮想して初めて多様性の謎解きを試みたが、大前提が覆り没となった
Ø 大前提の「生物自然発生説」がパスツール(1809-1895)により完全に否定されて没となる
Ø 理論形式(統一進化法則)もあまり優れていない
² 生物の自然発生を前提とした
l いろいろな生物が自然に発生する
l 例えば、ヒトはヒトの素から、ゾウリムシはゾウリムシの素から発生する
² 統一進化法則を仮想
l 例えば、最初に発生したのは最も高等なヒトで、つい最近発生したのが最も下等なゾウリムシ
l 統一進化法則が進化の原因で、生物の多様性はその結果とみるから一見ニュートン力学に似ているが非なもの
Ø 統一進化法則が作用する対象となる事物は判明でないから、せいぜい単なる同一性とする他はない
Ø 関係性である統一進化法則は、単なるコトバに過ぎず、全く形式化出来ないから構造が無い
² 用不用説も獲得形質の異伝説もアド・ホック(場当たり的)な仮説
l 生物の自然発生と統一進化法則は、現在の高等生物と下等生物が順序よく分類できるはずだが出来ず
l 正しいはずの秩序を乱す理由を考案しただけ(だがそれが妥当か検証できず)
l ダーウィン(1809-1882)の進化論は今も展開し続けている
Ø 功績は、生物はすべて進化しうる構造(形式)を持つことを明らかにし、その形式を記述したこと
² すべての生物に共通な現象に対して名を与えた
l 変異(子は親に似るが多少違う)
l 遺伝(子は親に似る)
l 繁殖(生物は生き残るよりもずっと多くの子を産む)
l 死(生物の大半は親になれずに死に、一部だけが子孫を残すことが出来る)
² この名の間の関係性を明示的に記述することで、多様性を説明するもの
l 関係性の明示とは、変異の幅(w)と変異の平均値(p)を記号化して関係性を記述すること
l 世代を重ねると、wもpも同じではなくなってくると考えることが出来る(生物は進化するという構造を持つ)
l Wやpが変化するプロセスとは
Ø 自然選択
² 次世代の親を残すことが出来る数によって、変化の速度は異なる
² 変異を持つ個体の割合の増加速度に差異が生じると言うこと
Ø 遺伝的浮動(偶然的、確率的変化)
l 種が異なる程度まで、Wやpが変化すれば、多様性が説明できる
Ø 換言すると、ダーウィンの進化論は、生物であることと進化することは実は同一であると言っている
Ø メンデルの法則と相俟って、ネオダーウィニズムとなり今日に続いている
² メンデル法則が想定している形質の背後にある不変性(遺伝子)は、生殖のたびにただ交換するだけ
² 遺伝子が変異すると考えるのがネオダーウィニズムで、メンデル法則とダーウィン進化論が両立する
² 進化と多様化自体は説明できるが、それがどのようなパタンで起こるのかは殆ど説明できない
l 変異の内部構造に無自覚だから(説明の方向に進まない)
l 構造の要素は変異(遺伝子)で要素間の関係は自然選択か遺伝的浮動
Ø 関係性自体は明示的に形式化される
Ø 要素は内部形式を持たない単なるコトバに過ぎない
l 著者は、変異の内部形式を追求する試みとして安定化中枢説を唱えている(その内容は別著参照とのこと)
² 遺伝子は形質の発現要因のすべてを意味するが、DNAは物質であるから遺伝子と同義ではない
² DNAと形質の対応関係の背後には、未知な形式があるはず
l 大進化論で、種の枠組みを変更するような進化を説明できるか?
Ø DNAの切り貼りだけでは、その種の奇形しか生まれず、新種は出てこない
Ø DNAと形質の対応関係の背後には、未知な形式があるはず
Ø 未来の進化論者の仕事は、このような形式における変換群の探究かも
4.厳密科学としての生物学
l 生物科学や分子生物学は厳密科学である
Ø 分子は原子で記述され、原子を記述する物理学は厳密科学だから
Ø 代謝回路や塩基配列とアミノ酸の対応関係等々は、この厳密科学の(特徴的な)構造となる
l この科学の構造は、物理化学の法則で一意に導けない恣意的な部分がある
Ø 構造(注:多くの高分子が介在=酵素としてプロセスを媒介する)は厳密科学の構造である
Ø 要素(注:DNA、アミノ酸類、等々の記号)間の関係法則は要素自体に依存する
Ø (注:DNAや介在高分子やミトコンドリア等の反応場には、分子構造や環境に内在する情報が含まれる)
l 構造という観点から見た生物進化とは、新構造が定位することである
Ø ダーウィニズムでは構造内での小さな変化しか説明できない
Ø 基本的な進化とは、不連続でなければならない
Ø 分子進化学でも基本的な進化を説明できないのではないだろうか
² 分子進化学はDNAの進化理論
² 問題は三つある
1.
「偶然」を前提としたこの理論は、厖大な情報から「偶然」であることを明示できないのでは
2.
「偶然」は特殊な時間の結果であって、単なる偶然とは異なるのではないか(次節で述べる)
3.
構造主義生物学から観れば、結局DNAが構造の要素である限り、基本的進化(形質の進化)は解明されない
4.
構造主義生物学とは、発生や進化の現象の背後にある構造を探す生物学(日本では、著者と柴谷篤弘が提唱)
5.生命現象は説明可能か
l 生物とは個物そのもの、現象そのものである
l 生命現象の本質は、明示的に記述出来ない規則にある
Ø 生命現象は明示的に記述出来る規則で記述出来ない
² 現象は時間を内包する
² 不変の形式は時間を内包する
Ø 生命現象を不変の形式でコード可能にする唯一の方法 は、その形式が時間を生み出すと考える他はない
Ø すると、その形式はコトバの形式と同じとなる
Ø 分子進化学の「偶然」を与える特殊な時間とは、このような時間のことである
l 生物とは、例えば将棋のゲームのようなものである
Ø ルールは不変だが、進行は多様で単なる偶然ではない
² 進行がはじめから決まっているのが、ニュートン力学
² 進行が単なる偶然なのが、量子論のシュレーディンガー方程式
² 将棋の進行はこの何れにも当たらない、と著者は直観している
Ø だから、将棋の進行を決める規則が別にあるはず
² ゲームの理論で、有限回のやりとりで決着のつくすべてのゲームは先手か後手の何れかが必勝
² この規則は明示的に記述出来なくても構わない
l 無限回ならゲームの理論適用外適用外
l 有限回でも天文学的数なら、現実性に欠けるから
Ø 著者の多次元時間論(駄法螺と自評)
l 10次元のうち9次元は空間で時間は1次元
l 9次元空間の内6次元はコンパクト化されていて、我々にとって意味をなさない
² 著者は時間を多次元にして、異次元の時間はコンパクト化されている、と考える
l このコンパクト化された異次元の時間を考慮すれば、偶然でも必然でもない現象が立ち現れ
l 非明示的な形式を明示的なものとして記述出来るかも?
第六章 科学と社会
(この章は本書の主題から外れるから省略)