「 」内の文章は本文の引用。( )内は小生の注記。大見出しには■、小見出しはアンダーラインを引いた。
【感想】
本書は、育児に関わる多くの事例・エピソードに基づいて、そこから著者が普遍的なものであろうと感じ取り・読み取った事柄の記述である。だから、子育て最中の若い人にとっては是非本書自体を読んでもらいたいと思う。実は本書の魅力の一つは、味わい豊かな文章の記述にあるのだが、この点においては、この要約はあまり役立たない。
一方、本書に盛り込まれている人間理解の仕方には、とても深いものがある。だから本書の考え方は子どもだけではなく大人も対象になるのであり、より広く他者と関係を持ちながら生涯変化していく人間という存在の関係自体をも対象とした一つの哲学であると思う。この点においては、この要約は少し役立つのかも知れない。
尚、第四章の「■〈育てる者〉たちの生涯過程を振り返る」以降については省略した
モッコウバラ |
まえがき
現代の日本は、〈育てられる者〉は育つことが難しく、〈育てる者〉は育てることが難しい状況を生み出した。子どもたちや大人たちが、「育てられる~育てる」という関係を生きることにおいて、何らかの難しさを抱えている。
育つこと、育てることには、<喜怒哀楽>という言葉の意味の全幅が含まれた両面的な構造が纏わりついている。筆者(1943年生まれ。発達臨床心理学者)は戦後60年間にわたる自分の経験に基づいて、以下のような基本的考えを持つに至った。
1
男女平等という価値観の基で、子どもを「育てる」には父親も母親も必要である(片方だけで良いのではない。また、父母に代わる〈育てる者〉でも良いのだろう)。
2
「育てられる」子にとっては、〈重要な他者(たち)〉からの愛は絶対不可欠なものである。
3
「育てる」ことには、難しく敬遠したいと感じる面と、喜びや楽しみや生き甲斐があると感じる面の両面がある、ということを認識しなければならない。
4
自分の思い通りに生きる〈無制限の閉じた自己実現〉ではなく、「共に生きる」なかでの〈制約のある開かれた自己実現〉こそが、目指されるべき真の価値である。
5
〈育てられる者〉が〈育てる者〉になって、「育てる」営みに身を投じて初めてその意味が浮上し、〈育てる者〉になることができる。
第一章
〈育てる者〉になる難しさ
現代日本においては少産化=少子化が進んでいる。そのことによって子どもに過剰な期待がかけられ、育てることをいっそう難しくしている。
〈育てる者〉の子育てに対する否定的な態度は、〈育てられる者〉に「自分は愛されていない」という感じを生み出す。そのことが、親子や子ども同士の関係を難しくし、その難しさが非行や精神病理の諸問題の形を取って子どもに皺寄せされているように見える。
■歴史的、巨視的に見た「少産化=少子化」の問題
乳幼児死亡率の高さと多数出産の必然性
ü 少子化問題の着目すべき側面は、経済的側面ではなく、〈育てられる者〉が〈育てる者〉に移行しにくくなっているという側面にある
ü 歴史的にも生物学的合目的性からも、乳児の死亡率が高ければ多数出産であることは必然的である
乳幼児死亡率の低下と少産化の必然性
ü 乳児の死亡率の激減で世界人口が爆発的に増加してきた現代では、人為的少子化は必然の道である
避妊と少子化
ü 避妊手段の進化は生殖行為と快楽行為を区分することを可能としたが、このことは少産化の第一の道である
自立した個人と少産化
ü 人はみな自立した主体的個人であるという観念の定着は、少産化に繋がる第二の道である
■わが国の現在の少産化=少子化の問題
この節では、戦後の新しい価値観が結婚に踏み切ることをためらわせ、結婚しても出産をためらわせ、結果的に少産化をもたらしたようになった経緯を述べる
子生みに関する意識の持ち方
ü 子どもを産んで育てることにためらいを覚えるという、個人のミクロな意識レベルまで立ち入らなければ見えない根の深い問題がある
ü 結婚したいが出来ない、産みたいのに生めないという問題もあるのだが、子育てが女性の自己実現を阻むという考えが少産化を助長している面がある
稀少性の時代の相互扶助と個人の不自由
ü 人類は長い間<希少性>の時代を生きることを余儀なくされたので、結婚・出産・子育ても共同体内での相互扶助の中で営まれた
男女平等と主体的個人の目覚め
ü 経済・産業の発展は近代的自我の目覚めを可能にした。日本では明治維新後の殖産興業と第二次大戦後の高度成長、男女平等を唄った民主憲法と教育の影響は大きい
経済的繁栄と人口の都市集中・地方の過疎化
ü 敗戦後の経済復興は、農村から都市への労働者の移動、人口の都市集中と地方の過疎化をもたらした
ü そのことが、家庭や地域共同体の有り様を変え、「共に生きる」という人間の根本を見失わせ、子産みや子育てを難しいものにしたように見える
自己本位の合理的なものの考え方の定着
ü 経済的繁栄は金銭至上主義を促し、自己愛傾向を強め、自己決定による自己実現が至上価値となった
ü そのことには、物質文化を支える自然科学の合理的な思考の枠組みが人々の思考の枠組みになったことが大きな役割を果たした
ü (自然を対象とした自然科学を、人間や社会を対象としても同じように適用出来ると考える思考の枠組みが誤っている、と言う方が良いと思う)
高学歴・キャリア志向とそれの帰結
ü 経済的繁栄を背景にして自立した主体となった個人は、高学歴、キャリア志向を強め、シングル生活を助長して少産化傾向に拍車をかけた
ü (キャリア獲得には時間が必要だから子育ての時間を削ることになる)
シングルでの生活を支える好条件
ü 現代のシングル生活は、物資・サービス面で支えられており、男女関係の社会的規範も無くなった
結婚することにブレーキをかけるもの
ü そのブレーキの背後には、「共に生活する」ことに価値をおくよりも「楽でいたい」「自分の生活を充実させたい」という自己愛的な構えが見え隠れする
Ø その自己愛的構えは幼少の頃から身についてしまった結果でもあろう
ü 両親の関係が「幸せな結婚」をイメージさせない場合や、高学歴・キャリア志向が思うような相手との出会いを減らしていることもあろう
妊娠=出産への不安と少子化
ü 妊娠や出産は今の仕事に否定的影響を及ぼすと受け止めがちとなる。
Ø 「それまでの生活が大きく変わるのではないか」という不安をもたらし、それが少子化に繋がっている
Ø 特に女性にとって、しかもキャリア志向が強ければそれだけ大きい。
ü 旧来の社会通念が弱まり、自己決定という価値観が浸透し、子どもを「つくらない」ことも選択肢と考えられるようになり、それも少子化へ繋がっている
産児計画という考え
ü 現代では、子どもは「つくるもの」と受け止められているから計画出産という考えが生まれた
ü その計画を立てるに際しては、当面の仕事や生活の楽しみを優先するという可能性が高まるから、少産化に繋がっている
「つくる」ことをためらわせるもの
ü 大人になれば結婚して子どもをつくるという共同主観が受け継がれなくなり、この社会通念が壊れることで引き継がれるはずの何かが壊れたように見える
ü その結果の一つが子どもを「つくる」「つくらない」は個人の自由な自己決定によるという考え方である
ü 「つくる」ことをためらわせる、「その気になれない」何かが、表向きの理由とは別に、ミクロな意識レベルにおいて、存在するのではないだろうか
ü 己の来し方に肯定できないものがあって、これが結婚して子育てすることを何か「ためらわれるもの」「やりがいのないもの」と感じさせているのではないだろうか
ü 更に言えば、過去の親子関係の中で自己愛を深く傷つけられた経験という真の要因を隠蔽し、「つくらない自由」や「自己決定権」という考え方に無意識のうちに与しているのではないだろうか
ü いま問題にしたいのは、あえて「つくらない」ことを選ぶ人たちのことであり、その様な人たちが増えていることであって、それは、それまでの育ちの中で抱え込んでしまった問題に端を発してはいないだろうかということなのである
ü 子どもを「つくる」ことには踏み切ったが、子育てに前向きになれない人の中に、自分の来し方に問題を抱えて、結婚や出産・育児に何かしらためらわせるものを感じていたと語る人たちがかなりいる。だから、上記の推測には根拠がある、と思う
* * *
以上述べてきたことが、わが国の少産化=少子化の問題を考える時に念頭に置いておくことである。
しかし、若い人たちが社会や文化の動向に翻弄されながら、それでも自分の人生を懸命に生きようとしていること、その中で結婚すること、子どもを産み育てることが難しくなっているということ、は押さえておかなければならない。
子産み・子育ての積極的な意味
ü 子どもは「共に生きる」ことの喜びや生き甲斐を感じさせてくれる存在である
共に生きる喜び
ü 子どもは<育てられる者>であるだけではなく、育てられることを通して<育てる者>を育てる一面を持っている
ü 「育てる」ことは、喜びと難しさの両面を持ち、その両面を経験するからこそ、人は育てることを通して人間的に成長するのである(育てるのは自分の子どもでなくても、この人間関係の原理は同じである)。
■現代の若い成人たちの子産み・子育てについての考え方
F・Hさんのレポートから
l 「・・・私は、今までの仕事オンリーのキャリア・ウーマン像から、仕事とプライベートの生活の両方を精一杯生きるキャリア・ウーマン像へと、理想像を変化させていった」
l 「・・・しかし、「育てられる者」から「育てる者」への変化が計り知れない程その人の人間性に影響を及ぼし、その変化がその人の内面的に成長させるだけの力を持っているこことは確かだと私は感じた」
* * *
キャリア志向の女学生たちは、仕事と子産み・子育てを相容れないものと捉えているように見えるが、「仕事も子どもも」と考えていく余地はまだ十分残されていると思う。
M・Aさんのレポートから
l 「・・・(母親と同じく)自分も専業主婦になっていつも家にいて、自分の子どもを出迎えてやりたいそうだ。『働くのが当たり前』と知らず知らずのうちに思い込んでいた私にとっては、彼女のそんな意見はとても新鮮だった。・・・きっとそれは人によって違うのだ、というのが私の結論だ(諸般の事情に沿ってその時々で結論を出す)
l 「・・・講義にもあったように、母も以前は『育てられる者』だった。『育てられる者』から『育てる者』へのコペルニクス的大転換を、私の母も遂げたのだろう。」
l 「子どもを産む性である女性が抱えなければならない問題は昔も今も変わらない。『自己実現』<中略>を阻む存在になり得る『子ども』は自分にとって何なのか。今の私にはやっぱりその答えを出すことは出来ない」
* * *
若い女性たちがみなシングル志向ではないことは明らかだが、「仕事も子どもも」を実行するには父親になる人を初めとして、周りのサポートが必要なことも明らかである。
若い女性たちの子産み子育ての展望に、その母親の生き方が大きな影響を及ぼしているらしいことも覗える
男子学生のレポートの概要
ü 残念ながら男子学生のレポートにこれと思うものが見当たらないのは、子産み・子育てを、自分の問題として真剣に受け止める構えには成っていないからだろう
Ø こんなところに女子学生たちが苛立ち、シングル志向やキャリア志向を強める理由の一端があるのかもしれない
Ø しかし、それは未だ真剣に考えるべき問題となっていないだけで、最近の若い男性たちは、妻が妊娠すると仕事を休んででも「未来の父親学級」に顔を出すようにもなってきている
■〈コペルニクス的転回〉の難しさ
人生の一大転換
ü 〈育てられる者〉から出産を挟んで次第に〈育てる者〉に成ってゆく過程は人生の一大転換を意味する。これは一種の〈コペルニクス的転換〉と呼べるほどである
ü 待ったなしの要求、泣きわめいたり、むずかったり、子どもが負の状態にある場合に、最終守備ラインは誰かが務めねばならないのだが、それは一体誰だろうか
Ø 著者の家庭においては、残念ながらその最終守備ラインは妻であった(妻が「主たる養育者」ということ)。妻の母親は〈育てる者〉のモデルであったが、夫の父親は家計維持者のモデルではあっても、〈育てる者〉のモデルではなかった
ü 『育てられる者』から『育てる者』へのコペルニクス的転換は困難であっても可能である
Ø それは、筆者の経験と、既婚で子育てを開始した女子大学院生のレポートから確かなことであると思う
Ø (ここでの説明を簡略に記述してみるとこうなるだろう。このコペルニクス的転換の難しさは、この私が今まで経験したことがなかったその経験にのみ、この転向を成し遂げ得る本質が含まれているからである。それにもかかわらず、この転向が可能であるのは、他者との関係の中に他者の経験を己の経験として可能にするある普遍的な構造があるからである)
■子どもの負の状態を抱えることの難しさ
「主たる養育者」を誰が担うのか
ü 子どもの負の状態(泣きわめくなど)に「主たる養育者」が括り付けられているとき、夫が仕事にかこつけて〈育てる者〉になることを先送りしているとき、子どもの負の状態を最後に守るのは誰かとい言う“問題”が発生しがちである
ü 一方、「主たる養育者」なのだという自負と責任感が、なぜ自分の方が「主たる養育者」でなければならないのかといういらだちを乗り超えさせる
負の状態をかかえることの困難
ü 子どもの負の状態を抱え込むとは、「たいていは〈育てる者〉の方が「だいじょうぶだよ!」と自分の気持ちを大きく安定させ、子どもを大きく包み込みながら、その穏やかな情動に子どもを浸すようにして、こどもの気持ちにつき合おうと」することだ
ü 〈育てる者〉がこのような態度をとることには困難が伴う。なぜならこのような態度は〈育てる者〉である前の〈育てられる者〉であった時代の生き方の中にはないから
ü 〈育てる者〉になるということは、子どもが負の状態に陥ったときに、原因究明と問題解決という考えに従ってそれを実施できるようになることなのではい
ü 〈育てる者〉になるということは、「それまでの合理的思考中心の態度を棚上げし、いわばそのような思考の呪縛から解き放たれて、子どものいまの気持ちを受け止め、子どもに寄り添い、つき合いながら、子どもと共にそこにあり続ける人間的な強さを新たに持てるようになるということです。」(先入観念を捨て、新たな経験から本質を看取する態度)
ü しかし、誰もがいつでも、子どもの負の状態を抱えることが出来るとは限らない
Ø 自分の思い通りのペースで子育てを運ぼうとするとき、それを投げ出す場合も起こりうる
■〈育てる者〉として熟することの難しさ
〈育てる者〉のはじまり
ü 「コペルニクス的転回」を成し遂げた後にも、今度は〈育てる者〉として心理的に熟していく課題が待ち受けている
ü それはしつけを巡って生じる悩みをどのように乗り超えるかにかかわる
両義的な対応の始まりとその難しさ
ü 幼児期前期のしつけの時期にさしかかった頃になると、〈育てる者〉は子どもの気持ちを受け止めながらも、それをそのまま受け入れるわけには行かない、実に微妙な両義的対応を迫られるようになる
「完璧」と「ほどよさ」の狭間で
ü この両義的な対応の「どこまで」と「どこから」に答えるマニュアルはないから、自分の判断によるしかない
ü そうすると、その判断に完璧を期そうとする気持ちが生じ、正しさを求めすぎて子育てを楽しめなくなり、その様な状況は子どもの育ちに跳ね返る
ü 実際には「どこまで」と「どこから」はそれほどこだわる必要の無い「ほどよい」ところで十分なものなのである
ü この「両義的な対応」については二章と三章で詳述する
■保育園で乱暴な子どもとその養育者との関係(事例)
甘えたがりやであると同時に、何の文脈もなく突然相手の子どもを叩くなどの乱暴を働く六歳の園児A君の事例
母親は23歳、父親は24歳、妹一人、共働きで四人家族の核家族。母親は両親が離婚しており祖母に育てられた。A君を出産し高校を中退した頃、自分の母親も元の夫とは別の男性との間に出来た子どもを出産した。入学二ヶ月前に行われた母親との面談時の印象は、落ち着いていてどことなくさばけた感じで淡々としている。
そこでのやりとりの中での発言例
Ø 「私、子どもと一緒にいるのが嫌なんです」
Ø 「月に一度、旦那に子どもたちを任せて、夜に会社の人たちと飲んだり歌ったりして騒ぐときが一番幸せというか、かがやいているときなんでしょうか・・・どうして自分は遊んではいけないんですか、母親だかですか?」
Ø 「夫も私と同じで、子どもたちのことを構ってやる方ではありません」
Ø 「どうしても家を出たかったし、妊娠もしたから、無理して結婚する気になったけど、子どもが生まれてからは、とにかく夫や子どもと一緒に生活して、楽しいと思ったことはありません」
Ø 「私がしょっちゅうAを叩くし、父親も叩くし、きっとAは大きくなると非行少年になると思います」
この事例を振り返って
ü 発達臨床の常とはいえ、子どもに何らかの問題が生じるのは大抵家族が抱えた病理の現れである
ü 〈育てられる者〉であるA君は、〈育てる者〉である両親からほとんど愛情らしい愛情を受けずに、ただ「世話」をされているに過ぎない
ü 保育園で出来ることは、排除するのではなく、このような子どもだからこそ懐深く構え、A君の負の状態を抱えたり支えたりする必要がある、と思うほかはない
ü 幸いA君の町には幅広い子育て支援システムがあるので、その支援の輪の中で元気に育ってくれることを願わずにはいられない
ü 母親について言えば・・・<以下省略>
ü 「人の人生はやはり多数の人たちの支えのなかでしかうまくいかないのだということを、むしろ深く考えさせられた事例であったと思います。」
■チックに悩む小学生男児の事例から
母親との近親相姦的行為に対する罪悪感が原因とみられるチック症に悩む小学生男児の例。背景に、夫との性的関係の不一致がある。次章で取り上げる「関係発達」という考えを構成する一事例として取り上げられている。
この事例を振り返って
「この事例を振り返ると、親子の関係は決して「世話をする-される」といった行動的関係に尽きるものではないこと、むしろ家族を構成する者同士の欲望の絡み合う関係、思いと思いの絡み合う関係なのだということを考えずにはいられません。」
* * *
これまで幼児期、学童期の事例を取り上げてきたが、こどもに何らかの問題が生じている場合には、家族構成員の関係の有り様や、それぞれの欲望充足の有り様がそれらに全く無関係であるとは考えにくい。
(現実を見れば)「〈育てる者〉と〈育てられる者〉のあいだに何ごともなく、平穏無事に経過していくことなど、むしろ考えにくいことになるのではないでしょうか。その困難な生涯過程を、躓くかどうかは別として、懸命に生きるところにそれぞれの意味があることだけは、間違いありません。」
■わが国の子どもたちに現れている困難な問題
早い発達、早い身辺自立の要求
ü 経済的に豊になったにもかかわらず、わが国の幼児たちの表情は一昔前に比べて、必ずしも幸せいっぱいではなさそうである
ü ヒトの乳児は、生まれて間もなくから、まるで既に一個の主体であるかのように、さまざまな欲求を強く訴え、〈育てる者〉の「思い通り」にという思惑を躓かせる
ü 幼児期、学童期と年齢があがるにつれて、ますます〈育てる者〉の「思い通り」から遠くなっていく
ü にもかかわらず、合理的なものの考え方に慣れ、自ら自立した一個の主体として「思い通り」の自己実現を目指してきた〈育てる者〉たちは、子どもたちの心身の発達テンポに関心を向けやすくなり、早い身辺自立を期待する気持ちも強くなる
ü 子どもたちの身辺自立が〈育てる者〉の都合や常に〈育てる者〉のペースで行われるような場合には、子どもは自分が一個の主体であるという感じをなかなか掴めず、何に対しても自分から興味を抱けないという状態が生まれてくる
ü 「育てる」というのは、子どもを一個の主体にしていくこと、つまり、世界を生きるのは他でもない自分自身なのだという感覚を子ども自身が育むところにその究極の意味がある
乳幼児虐待の問題
ü 潜在していたものが顕在化しただけなのか議論の余地はあるものの、医療機関や児童相談所で把握される乳幼児虐待はうなぎ登りに増加している
虐待の定義を巡って
ü 虐待の定義は、「養育に当たるものが偶発的でなく恣意的、継続的に子どもに対して身体的、精神的な苦痛を与えること」だとされている
ü しかし、本当に重要なのは(継続的とか、苦痛を与えるとかではなく)子どもの心の中でその親の振るまいがどのように受け止められているかである
ü 虐待とは「〈育てる者〉を前にしたときに、〈育てる者〉に愛されていない、大事にされていないという感じ、さらには、自分は〈育てる者〉の愛に値しない存在、〈育てる者〉のまえに現前することが許されない存在だといった感じ、あるいは、自分が一個の主体であるという感覚が粉々にされる感じなど、それらのさまざまな感じが同時に湧き起こることだとでも言えばよいかもしれません。」
ü 被虐待とは、身体的な苦痛もさることながら、何よりもその子の〈自己性〉(自分らしい自分であること≒主体性)の深い傷つき体験と言える
「愛されていない」という感覚
ü 「〈育てる者〉が自分の欲望や都合を前面に押し出し、子育てをそれに従属させようとする限り、子どもを真に愛することは難しいでしょう。<中略>子どもの負の状態さえも最終的に抱えようとする気持ちや態度があってこそ、子どもは愛されているという確信、ひいては愛されて当然という自分自身に対する自信など、子どもの〈自己性〉の中核部分が育つのではないでしょうか。」
ü 今の時代は「仕事か子育てか」ではなくて、「仕事も子育ても」の時代であるはずなので、保育所や地域社会の支援組織などは必要不可欠である。しかし、さまざまな相矛盾した行政的諸力が現実に生じている。それらが〈育てられる者〉と〈育てる者〉を翻弄している。以下その事例
Ø 楽な方が良いということだけで、育てることを通して自ら育っていこうという姿勢が十分ではない若いカップルの事例
Ø 労働力の確保という資本の側の論理だけで政策を求める企業の事例
Ø 劣悪な保育条件のまま、深夜まで子どもを預かる保育所の拡充を政策とし、子育て支援という名目のもとに、〈育てる者〉たちから実質的に子育ての機会を奪い取るような施策が、〈育てる者〉へのサービスとして行われている事例
Ø 子供の「心の教育」には家庭の力が不可欠であるあるなどと、家庭教育の充実が喧伝される事例
ü いま子育てに携わる人人たちは、自分のしたいことを阻止するのはみんなこの子だ、という気持ちに陥りやすいのではないか。そうすると、子供が己の不幸の根源のように思えて、ついに虐待にまで至るのだろう
ü 虐待は常軌を逸した人たちのすることではなく、誰にでも起こりうるものであって、それは現在の社会的価値観が〈育てる者〉を追い込んだ結果の病理と言える
虐待不安の〈育てる者〉たち
〈育てる者〉は、趣味などに生き甲斐を見出して子育てから手を引きたいと思うか、子育てに生き甲斐を見出そうと思うかの二極にわかれているが、そこに共通するは〈育てる者〉として熟するのが難しいということである。そのことがもたらしている事例を下記
ü 完璧になり得ないことに自己嫌悪を覚えて虐待にいたる事例
Ø 子育てに生き甲斐を見出そうとして、完璧な育児を目指す
Ø 虐待は、良い母親にならねばならないという強迫観念の成せる業
Ø 子育てだけが生き甲斐という閉鎖された生活・文化環境があるからだろう
ü 自分は虐待母親だと自ら仕立てていく事例
Ø 多く場合、そのような物語を語る母親は、過去の断片的な気付き体験を同時に報告している
Ø もちろん深刻な問題も存在しているが、その一方でつくられた「虐待物語」は、一時期に巷を賑わしたアダルトチルドレンと同様の現象である
ü 本人自身を肯定することが出来ないとか、自分自身に腹を立ているという感情が子供に投影されて、虐待に至る事例
Ø この場合には、〈育てる者〉自身が周囲に開かれていて、多様な人間関係の中で、自分の負の部分を受け止めてもらう必要がある
主体であるという感覚を見失った子どもたち
ü 「主体であるという感覚とは、自分がこの世界を生きる主人公であり、自分は周りから認められていて、それ故自分に自信と尊厳を持って生きていつという感覚です。」(健康な自己愛を自己性の中核に持っているという感覚)。
ü 自分が主体であるという感覚を失って、〈育てる者〉の欲望を生きている子供が増えているように思える
ü 主体的に遊べない子供、つねに大人の指示を仰ごうとする子供、一見活発に見えるが、周囲の期待を先取りように振る舞う子供、そのような子供は、いずれ思春期の頃に自分の空白に気付き、極端な行動にとることになりがちである
ü 「最近起こった重大少年犯罪の相当部分は、こうした主体としての育ちの失敗に原因を求めることが出来るのではないでしょうか。」
ü 「幼児期や学童期の子どもたちの中に、主体としての育ちが芳しくない子供が多数見られるという現実を見据えるとき、しつけの強化によって社会性を早く身につけさせるというかたちによってではなく、真に主体性を備えた子供を育てるという視点がいま最も求められているように思われます。」
第二章 〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ
■世代間伝達とリサイクル
子供は未来の〈育てる者〉
ü 養育者は〈育てられる者〉であった。そう考えるといくつか気づくことがある
Ø 一つは、子供と養育者の「育てる-育てられる」という関係は、世代から世代へと引き継がれてリサイクルしていく性格のものである、ということ
Ø もう一つは「子供から大人へ」という〈発達〉の定式を、「〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ」という定式に置き換えることができる、というそのことによって、人間の生涯全体が視野に入ってくるということ
ü 〈育てられる者〉から〈育てる者〉へと人間が転換していくことの難しさには、生きること自体に含まれている構造的なものがある。本章では、こうした問題を少し理論的に考察したい
命の世代間リサイクル
ü 種の存続という観点から見れば、〈個〉や〈主体〉という意識の背後に、〈種〉や〈類〉といった〈個〉や〈主体〉を超え出たものが気付かれないかたちで抱え込まれている
ü 問題は、若い世代にとってこの命のリサイクル過程に身を投じることが、様々な事情で難しくなっているということである
「育てる」ことの世代間リサイクル
ü 「〈育てられる者〉から〈育てる者〉へ」という定式には、「育てる-育てられる」という関係の中で、次第に〈育てられる者〉から〈育てる者〉へとなっていく、ということが含まれている
ü またこの定式は、子供を「育てる」という営みが、世代から世代へと伝達され、世代間でリサイクルすることを示している
ü 「育てる」という営みは、単に〈育てられる者〉を能力的に完成された大人にすることではない。むしろそれは〈育てられる者〉を次世代の〈育てる者〉にするという深い意味を持っている
Ø 本章ではそのことをとりあげている。育児とは〈育てられる者〉だけでなく〈育てる者〉自身も育てていく(人は人と人との関係において人間となっていく)
〈主体として受け止めること〉と〈社会化〉
ü 「育てる」ということには、前の世代から主体として受け止めてもらいながら社会化されてきた者が、次の世代を主体として受け止めて社会化してゆくという、リサイクル構造がある
主体として受け止めることに孕まれる捻れ
ü 「一個の主体である」ように子供を「育てる」ことは、「一個の主体にする」ために〈育てる者〉の思いを子供に突きつけることで為されるのではない
ü 「一個の主体である」ように子供を「育てる」ことは、子供の中にあるおのずから自分を押し出す力を受け止め、認めてやることよって為される。が、そこには捻れが孕まれている
ü 「一個の主体にする」というような能動性よりも、「子供を主体として受け止める」という受動性が重要である
ü この受動性とは、子供のなすがままになるのではなく、〈育てる者〉の心が肯定的、能動的に動くことによって可能になる
Ø 自分を押し出す子供の姿を可愛いと感じ、嬉しく思い、心から喜ぶという能動的、肯定的心が「子供を主体として受け止める」という受動性を可能にする(そこには受動性と能動性の捻れがある)
〈育てる者〉の意図と社会の意図の捻れ
ü 〈育てる者〉は個人であると同時に社会人でもあるから、主体としての存在であると同時に共同体としての存在(共同主観性を共有する存在)でもある
ü 〈育てる者〉の意図と社会の意図の捻れを生むことになり、とりわけ社会が複数の価値観によって動いているときにこの捻れは表面化してくる
ü 時代と共に社会の価値観が変わり、それによって個人の考え方が変わり、個人の意図と社会の意図との捻れ具合も変わる。
ü 親が子供を叱るという行為には、親の意図と社会の意図の微妙な重なりとズレが紡ぎ出されている
ü 「社会化や文化化のリサイクルは、その意味では複雑な思いのリサイクルなのです。」
ü (〈育てる者〉個人と共同体の意図の捻れが価値観の違いに起因しているならば、捻れをなくするのではなく、その違いを許容することが一番大事なところだろう)
〈主体として受け止めること〉と社会化との捻れ
ü 集団の中で生活することが始まる幼児期や児童期になると、子供を〈一個の主体として受け止め・受け入れる〉ことと〈社会の一員になるように導き・教える〉ことが、しばしば両立しがたく思われる
Ø (多くの〈育てる者〉の悩みであり、間違えると悪循環が始まる)
ü ここでも、子供の気持ちを受け止め・支えていくという、ゆったりした態度で子供を受け止めれば、子供にも、周囲の他者たちを自分と同じような主体として受け止めてゆく素地が生まれる。
ü 周囲の他者たちを自分の目で見、身体で感じて、それをいろいろに受け止めていくこと、これが早期の社会化の基本であり、力ずくではなく、このことが子供自らを社会化へと向かわせる力になる
自分の親への同一化とわが子への同一化
ü 子供を育てるという世代間のリサイクルは、親と自分、自分と子供、という二重化された同一化(或いは反同一化)を生み出さざるを得ない。ここをくぐり抜けて〈育てる者〉の自覚が生まれ、自身が〈社会の一員〉となっていく
主体として育つことの難しさ
ü 子供の側にとっても、一個の主体として育つのはむずかしい。自分の思いを〈育てる者〉に受け止められることだけで、成熟した主体性が育つわけではないから
社会化されることの難しさ
ü 〈育てられる者〉は社会化されることを通して、さらに一個の主体としてみんなの中で生きてゆくことが出来る
ü しかし、〈育てる者〉が及ぼしてくる社会化・文化化の働きかけは、子供自身の思いと摩擦を起こし、それまで培ってきた一個の主体としてのプライドに抵触もする
Ø 二歳半前後のいわゆる「反抗期」に典型的に見ることが出来る現象である
ü 実際には、〈育てる者〉の社会化の働きかけに対して、こどもは「自ら進んで受け入れる」という面と、「否応なく課せられる」という面の両方を持つ
ü だから、〈育てる者〉が子供のプライドを傷つけることなく巧みに社会化に向かって誘うことが出来れば、子供は容易にその誘いに乗ることが出来る
ü 「育てる-育てられる」という関係は、世代間でリサイクルするという構造を持っている一方、社会や文化は時代と共に変化する。だから世代の異なる〈育てる者〉と〈育てられる者〉とのあいだにはつねに対峙・対立の関係が孕まれている
Ø この葛藤を孕んだ関係が社会化のリサイクルの一面を構成している
リサイクル過程の図解
「育てられる者から育てる者へ」という生涯過程の定式は、「子供から大人へ」という従来の個体発生的な発達の見方と大きく異なる。
図1はこのリサイクル過程の図解(詳細省略)
■これまでの発達心理学の問題点
「子どもから大人へ」へのアンチテーゼ
ü 従来の発達心理学には以下の点が欠けていた。
Ø 人間の一生涯を視野に収めていない
Ø 世代間のリサイクル性を見据えていない
Ø 「育てる」ということを十分に問題にしていない(ウエルナーもピアジェも)
ü 本節の問題は、「育てられる者から育てる者へ」という定式によってどういう新しい発達心理学が構想されるのか、またその目的は何なのか、ということである
これまでの発達概念
ü 20世紀の発達心理学は、子どもが能力を高めて完成された大人に近づいていく道筋を〈発達〉と捉えて、それに関する知識を蓄積し解析法を作って発達検査や知能検査などとしてまとめ上げた
ü その〈発達〉の考えが社会に浸透して、子どもに対する見方が能力発達を中心に見る見方に変わってきた(能力とは何であるかという問いを置き去りにしたまま)
これまでの発達概念が果たした否定的な役割
ü 肯定的な捉え方としてだけの〈発達〉の概念は、わが子が願わしい発達を遂げていないという現実に直面するとき、自分の子育てに問題があるのではないと考えて、ますますその願わしい発達に沿うことを願うようになる
ü その結果、わが子の現実をしっかり受け止める姿勢が薄れ、目に見える能力で評価する傾向を強め、わが子の気持ちに目を向けて心の育ちを気にかけるような〈育てる者〉の姿勢が弱まった
軽視された「育てる-育てられる」という関係
ü これまでの発達心理学では、子どもが育つのは「育てる-育てられる」という関係においてである、という単純な事実をすくい取っていない
〈育てられる者〉から〈育てる者〉への一大転換
ü 〈育てられる者〉から〈育てる者〉への移行は、人生における「生き方」の一大転換を意味する。これを「コペルニクス的転回」と呼んできた
Ø 生物学的に親になるとか、養育行為に従事するとかを意味するのではない
Ø 〈育てられる者〉とは根本的に異なった心理・社会的構えを身につけることを意味する
Ø 〈育てられる者〉であったときのことを生き直すことが出来、自分を育ててくれた人の思いに気付くことが出来、〈育てる者〉として熟していくことが出来ることを意味する
■新しい関係発達心理学の構想(発達心理学や現象学のやや専門的知識が必要なので簡潔にまとめた)
関係発達という考えの出所
ü 用いてきた「関係発達」という言葉は二重の意味を含んでいる
Ø 一つは、〈育てられる者〉が、〈育てる者〉との「関係の中での発達」を遂げる、という意味
Ø もう一つは、〈育てる者〉が、〈育てられる者〉として開始した生涯過程を、現在において〈育てられる者〉との関係を同時進行しながら、「関係としての発達」を遂げるという意味
関係発達という考え方の特徴
図1に従って関係発達という考え方の特徴を列記してみる
①
関係発達は複線的に進行する
②
三世代が関係を織りなす関係(楕円で囲まれている)は心的関係を肯定・否定両面で包括して進行する
③
従来の「子どもから大人へ」という定式は、この図の時間軸に沿ってずれた三本の直線の前半として包括されている
④
コペルニクス的転換は、時間軸に沿った直線のs字型の変形で表現されている
⑤
一人の人間の生涯過程の終末は、次の世代が「看取り」、当該世代は「看取られる」というかたちで、世代間でリサイクルされることも補完されることができる
関係発達心理学の目的・狙い
ü 狙いの一つは、一人の人間の生涯過程に現れる心的変化の意味を、三世代の「育てる-育てられる」という関係の時系列的変化の中に位置づけて捉え直そうとすること
心的な関係への定位
ü 〈育てる者〉と〈育てられる者〉との「関係」は、「世話をする-される」という行動的関係に解消されるものではない。「愛する-愛される」「信頼する-信頼される」「認める-認められる」というような心的関係つまり間主観的関係を中心に動いている
Ø (「間主観的」とは、フッサール現象学の用語で、「意識体験を共通了解可能であるという確信を持ち合うことの出来る関係」となると思う)
ü 客観主義を標榜する従来の発達心理学は、当然に心的関係に踏み込むことを積極的に無視するが、それでは人の生涯全体を見据えた発達心理学の構築は出来ない
子どもの自己性への定位
ü 一人一人の子どもはその子に特有の自己性を持っている。この自己性は、生まれながらの気質だけではなく、それまでのこの子の経験、特に他者との関係における経験によって形作られている
ü 一人の子どもを理解するためには、能力測定などの外的観察をするだけでは不十分なことは明らかで、心的関係にまで踏み込まねばならない
社会的・文化的なものへの定位
ü 人間の欲望は、共同主観によって浸透されたものであるという部分を持っているから、社会や文化は私たちの言う関係発達の本質的な次元を構成していることが分かる
Ø (共同主観という言葉に惑わされずに、ここでは、人間は他の人がほしがるものをほしがる、位で良いと思う)
ü 自己性の問題は、個体能力次元、関係力動次元、文化影響力次元が相互に影響し合い、それらの次元が一人の人間の自己性のありように浸透している、という問題である
関係発達心理学のアプローチの特徴
ü 結論から言えば、一般的、普遍的なものを目指す前に、個別具体的なもの重視し、発達臨床的な問題を重視することである
Ø (この考えは、「エピソード記述」という著者の特徴的な方法のことを指しているのだと思う。これは多分「現象の記述から始める」というフッサール現象学の考え方に沿ったもので、ポイントは「現象」の捉え方にある。それは単なる客観的事実ではなく、誰でもそう受け取らざるを得ないという信憑構造に基づいた確信によって捉えられたもの、とでも言える)
ü 例えば、クラスの友だちに乱暴を働く保育園児を保育するときの私たちの構えは、その子が生きている状況、周囲の人たちに抱いている思い、を明らかにし、それを関係発達の問題として捉え直し、その子を懐深く受け止めることでである
Ø 一般的な言語的、認知的な能力特徴の解明という方向よりはこちらの方向
ü 新しい関係発達心理学は、そもそもなぜ人間は他の人たちと共に暮らす中で喜怒哀楽を感じるのかという問題、つまりそもそも人間とはどのような存在なのかという哲学的問題に踏み込んでみなければならない
■人間は内部に自己矛盾性=両義性を抱えている
二つのベクトル
ü 人間は、他者と共に生きることを喜びとする傾向を持っているとともに、自分の思い通りを貫こうともする。これを、人間は自己矛盾性=両義性を持っていると捉えることが出来る
ü 両義性は本書のテーマ「育てられる者から育てる者へ」の背後にあるものである
人間はどこまでも自分の思い通りを貫く
ü 未熟なまま生まれた人間の赤ちゃんにとっては「思い通り」を実現するには周囲の他者の援助を絶対的に必要とする
ü その一方で赤ちゃんはその〈育てる者〉を振り回す。そのような赤ちゃんの振る舞いを観察することによって両義性という概念が現れる
人間は一人では生きて行けない
ü 誕生して2ヶ月も経過していない頃の赤ちゃんが、少しの間見えなくなっていたお母さんが戻ってきたとき、空腹や清潔の欲求がないのに、お母さんが現前していることを明らかに喜ぶそぶりを示すのは何故か
ü 赤ちゃんは〈育てる者〉と一緒にいることが、もう一つの満足=自己充実、であることに気付くようなったのではないだろうか(著者の言葉で「繋合希求性」=人間は一人では生きられない、という性質)
相反する方向に引き裂かれた二つの欲望
ü 人間は、自己充実欲求と繋合希求性の向かう方向が反対(自分か他人か)であると同時に、向かう方向とは反対の方向を志向する
Ø (志向とは、ここでは、気持ちが向く方向、くらいの理解で良いと思う)
ü 言い換えると、人間は他者と繋がること自体が自己充実をもたらす、と言う根源的自己矛盾性に引き裂かれている(著者の言葉で「根源的両義性」)
■〈育てられる者〉と〈育てる者〉のあいだで生きられる両義性
〈育てる者〉において生きられる両義性
ü 〈育てる者〉は、子どもの欲求にそのまま従うわけにはいかない場面がある。その時、〈育てる者〉は子どもを一個の主体として受け止めるという態度を崩さないまま、自分の気持ちを子どもに伝えねばならない
Ø 言い換えると、子どもが主体であり続けたままで子ども自身に受け入れられるように伝えねばならない。ここに〈育てる者〉の対応の最も難しい局面がある
ü 〈育てる者〉と〈育てられる者〉は共に両義性を抱えてはいても、〈育てられる者〉は自分の願いを押し出すだけだが、〈育てる者〉が自分の願いを押し出すだけなら子どもの気持ちを受け止めたことにはならない
Ø つまりここには非対称的な関係があって、〈育てる者〉としての両義性がある
もっと外で遊びたかったのに(上記に関連した事例)
外の砂場で夢中になって遊んでいた9ヶ月の子どもを、夕方になったので母親が家に連れて帰ったが、機嫌が直らず泣きわめいていた。母親は、子どもが気に入っている室内自動車に乗せて暫く一緒に遊ぶことで気持ちをなだめようとした
ü ここでのポイントは、母親が自分の願いに向かって一直線に引き連れていくのではなく、一旦子どもの主体のありように自分を重ねて回り道をすることにある
ü 〈育てる者〉の願いは、子どもが自分で機嫌を直すことである。それを可能にするのは、〈育てる者〉が子どもをその気になるように持って行くことである
〈育てられる者〉において生きられる両義性
ü 〈育てられる者〉は、〈育てる者〉の自分に対する対応が両義的であるという経験を繰り返すことで、自分と他者の違いを理解しはじめ、〈育てる者〉への要求の出し方も様々な形をとるようになる
ü そこには〈育てられる者〉と〈育てる者〉の関係発達の歴史が映し出されており、それは、それぞれの両義性が生きられ、それを自分の自己性の中に書き込んできたことの結果である
■個人と社会の両義性
人間は個人であって、社会の一員である
ü これまでは〈育てる者〉と〈育てられる者〉という二者関係を考えてきたが、もっと広く、個人が一個の主体であろうとしながら、しかし社会の一員になる中でしか自立的な主体としての個人となり得ないという逆説がある
「社会化される」から「社会化する」へ
ü 一歳前後から、〈育てる者〉を介して子ども同士は主体との関わり合いを経験するようになる。そして次第に集団生活を経験しながら規範やルールを身につけるようになり社会の一員を構成するようになって、一人の〈私〉は〈社会の一員〉でもあるというように二重化されていく
〈主体としての私〉と〈みんなの中の私〉
ü 〈主体としての私〉と〈みんなの中の私〉は、私の内部でのズレ・葛藤を引き起こす場合がある。社会化、文化化には固定的な面と否定的な面があって、ここに両義性があり、人間として生きることの難しさがある
幼児の直面する個と集団の行儀性
ü 幼児にとっても、彼らの集団生活の中で幼児なりに「個人と社会の両義性」に繋がっていくものを経験していく
■子どもであること、大人であることの両義性
子どもであることの両義性
ü 子どもは未来の大人であること自体が両義性を含まざるを得ない
Ø 「子どもである」ことは、子どもであって良いという子ども性の肯定と、大人に向かって突き進まねばならないという否定性が含まれている
大人であることの両義性
ü 〈育てる者〉としての大人は、目の前の子どもに過去の自分の姿を見ずにはいられないし、子どもを目の前にした自分の姿に過去の親の姿を見ずにはいられない(そこには「同一化」という現象がある)
ü つまり、〈育てる者〉である大人は、子どもの面前で両義的な態度を採らざるを得ない
子どもと大人の非対等的な関係
ü 〈育てる者〉の両義性は〈育てられる者〉のそれとは非対等的である。〈育てる者〉と〈育てられる者〉との間にある「同一化」が、後者は一重であり前者は二重である(子どもと親の両方との同一化が現象する)
ü 非対称的関係はそれだけではない。〈育てる者〉にとって両義性が否定的なものではなくてむしろ肯定的なものとして受け止めることが出来る、ということが「育てる」ことの最も根幹の部分である
Ø 自らを子どもに与え、自らの都合を半ば棚上げにすることで、かえって生まれてくる新しい喜びがある
■身体の両義性あるいは能動と受動の両義性
能動と受動の交叉する場としての身体
ü 身体には両義性がある。それは見るものであり見られるものでもあり、触るものであり触られるものでもあり、等々。身体は能動でもあり受動でもある。身体の両義性が、対人関係における不思議な現象の出所となっている
「志向の越境」と「成り込み」
ü 赤ちゃんの動作を見て、思わず赤ちゃんの気持ちになって声を出す場面を想像してみよう。これは、関心を持って意識が向いている他者の身体において自分が生きている状態と言える。著者は「成り込み」と呼んでいる
ü 赤ちゃんを抱っこする場面を想定してみよう。〈育てる者〉が能動的で〈育てられる者〉が受動的である、のではなく能動と受動が微妙に交叉し、それぞれの身体が両義的に働いていることを感じ取れる
Ø 「己でありつつ己を乗り超える」身体の両義性(メルロ=ポンティー)
能動-受動の交叉モデル
省略
■愛の両義性
「愛する」ことと「愛される」ことの両義性
ü 「愛する」は、与える優しさによって相手を我がものにするという意味を隠し持っている。つまり両義性を持っている。「愛される」も同時に両義性を持っている
愛する-愛されるの関係
ü 「愛する-愛される」という関係が最も幸せな様相を見せるのは、幸せな気分の中で自他の境界を踏み越えて一体感や安心感を味わうことが出来るときだろう。しかしその一体感は幸せであると同時に、己の主体性という点から見れば、そこに己が飲み込まれ、消失するという危険が背中合わせとなっている
「愛する」ことの「憎しみ」への反転
ü 愛の両義性は、個の喪失(自由の喪失)という裏面を抱えているから、幸せを感じるその裏面で相手への憎しみが気付かないかたちで醸成されている
ü 〈育てる者〉と〈育てられる者〉の関係においても「愛の両義性」がある
Ø 虐待問題を考える場合は、愛がつねに憎悪に反転する可能性があることを踏まえておく必要がある
ü 「主体性を際立たせつつ、共生を目指すという人生における究極の目標にとって、過剰な愛な、その両方の目標実現を損なう危険性を持つといわねばなりません。」
ほどよい愛(ウイルコットの「ほどよい母親」)
省略
■依存と自立の両義性
依存から自立へなのか
ü 「依存から自立へ」という移行図式ではなくて、自立は依存の上に組み立てられるのだと考える方が良いと思われる
ü 依存を行動的なものだけではなく心的なものも対象と考えれば、また、おそらく一生涯続くものであると考えれば納得出来るだろう
依存することの必要性
ü 依存対象の見当たらない幼児は不安になり、不安定になって、決っして自立的に振る舞えない。依存対象がはっきりしていて、いざというときにはいつでも依存対象を当てに出来る子どもが、自立的に振る舞える
ü 親離れし、友達と行動を共にするようになった青年達は、なるほど一見したところでは自立的に見える。しかし、当面の依存対象を親から友達に移したに過ぎない場合が殆どである
ü 「うるさい」とか「むかつく」という言葉は、「黙って見守っていて欲しい」という意味である
ü 発達臨床の現場においては、幼少の頃から自立をせかされてきた青年は、本格的に心理的自立を図らねばならなくなったときに、もう一度本当の依存を経験し直す必要に迫られたりする
依存と自立の両義性
ü 愛の両義性と同様に、依存も両義性がある(依存にも肯定的な面と否定的な面がある)。これは人間が自己充実欲求と繋合希求性の根源的両義性に引き裂かれていることに基づいている
ü 必要な依存をしっかり受け止めれば、子どもは自立に向かうことが出来る。わが国の〈育てる者〉たちは、早い自立を期待する風潮の中で、単に自分の思い通りを貫こうとするための依存、自分の弱さの中に逃げ込むような依存にはあまりにも甘い
ü 関係発達は、〈育てる者〉と〈育てられる者〉との依存と自立を巡るせめぎ合いであり、そしてそれが「育てる-育てられる」の実質の一つをなしている
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本章では、本書の基本的テーマが導かれる理論的背景(人間の両義性を踏まえた関係発達に視点をおいた発達心理学を構想する理論)を述べてきたが、次章以下ではこの関係発達の諸相を述べる
第三章 乳児期、幼児期の関係発達
■〈育てる者〉へのはじまり
妊娠の事実を受け止める
ü 〈育てる者〉と〈育てられる者〉の関係は、すでに胎児期=妊娠期から始まっている。それは、この関係が人間生涯のリサイクル性で規定されているから
ü しかし、既に述べたように、少子化・少産化の現代においては、子どもを持つ決心をすること自体が困難になっている
ü 計画出産は、計画外妊娠と裏腹であり、避妊解除が妊娠に繋がらないこともあり、計画自体がカップルの合意であるとも限らない。そのような社会・文化環境のもとで妊娠の事実は、「待ちに待った」から「どうしよう、困ったな」まで大きな振れ幅をもつことになる
ü 様々な状況から、妊娠初期に妊婦が迷ったり動揺するようなことがあっても、周囲の祝福や協力があればたいてい乗り超えることが出来る
ü 周囲の祝福や協力があっても、妊婦自身がその現実を受け入れられずに中絶を選ばねばならない場合や、産む選択をしても迷いや動揺を引きずったまま出産を迎える場合もある
安定した関係力動の場の必要
ü 妊娠-出産は、医療の過程だけと捉えることは出来ない。それはカップルの心に複雑な心理力動関係を生む。虐待の悲劇の一部は、この関係力動の場が不安定であることに起因している
ü この関係力動の場が安定しているかどうかが、生まれてくる子どもにとっての幸不幸の条件となる
ü これまでは保健婦や助産婦が主として医療的見地から妊婦を指導してきた。しかし、この関係力動の場の安定という観点からすると、妊婦だけではなくこれから〈育てる者〉となっていく父親に対してもケアが図られることが必要となる
■乳児前記の関係発達(~三ヶ月)
手探りの子育て
ü 核家族化が進み世代間伝達が困難になっている現代においては、保険行政の援助や種々の育児雑誌などの豊富な育児情報があったとしても、カップルは育児書片手に不安を抱えたまま育児に臨まねばならないことになる
新生児期から三、四ヶ月にかけて
ü 新生児は生得的に与えられた生命リズムを持っているから、〈育てる者〉このリズムに教えられて自身の生活が形作られていく
身体を通して分かる赤ちゃんの気持ち
ü 授乳、オムツ替え、沐浴など、子どもに身体的に接触する機会が毎日、頻繁にあるから、それを通して手探り状態におのずからある方向性が与えられていく
ü 〈育てる者〉と〈育てられる者〉の関係は、そのような身体と身体の接面で「分かり合う」関係を基礎にしている。私たちの生きた身体は、身近な相手の情動や気持ちを把握出来るように出来ている
〈育てる者〉の受け手効果
ü 赤ちゃんは気持ちが良いという状態を声や表情に表出しているだけで、それを〈育てる者〉に伝えているのではない。しかし〈育てる者〉はそうした赤ちゃんの表出を自分に向けて表現しているのだと受け止める。これを著者は「受け手効果」と呼んでいる
Ø 「受け手効果」は〈育てる者〉の子育て姿勢を反映したものとして極めて重要な意味を持っている
待ったなしの対応
ü 赤ちゃんの要求はいつも「待ったなし」なので、いつも子どもに括り付けられているという否定的思いが一瞬脳裏をよぎる。だが、それでも赤ちゃんと一緒の幸せ感がたいていは上回る
子育ての傾倒して行けない場合
ü 様々な状況によって、子育てに傾倒して行けなくなったり、これでいいのかと不安になったりすることがあっても、周囲の支えや励ましなどによって、ほとんどの場合にはその一時的危機を乗り越えることが出来る。
ü 二ヶ月目に入ると、赤ちゃんの目つきが何かはっきりと定位したものに変わってきて、声も聞くものに快適な気分を感じさせるクーイングの表出となり、〈育てる者〉としては、赤ちゃんとの会話のようなやりとりが始まったように感じるようになる
三ヶ月微笑の重要な意味
ü 三ヶ月を過ぎる頃に、〈育てられる者〉と〈育てる者〉の関係発達は一つのピークを迎える。それは赤ちゃんのいわゆる三ヶ月の微笑の出現と、それによる心的な繋がりの成り立ちである
ü これは〈育てられる者〉とっては信頼関係の原点であり、〈育てる者〉にとっては子どもを育てる自信となる。この自信がこの子を守り育てるという覚悟を定めさせ「コペルニクス的転換」に向かって〈育てる者を〉引っ張っていく
■乳児期中期の関係発達(四ヶ月~半年後半)
〈誘いかけ-先取り的応答〉の構図
ü 四ヶ月以降、赤ちゃんは、注視や摑むなど周囲の事物や人に対し認知的行動をとるようになり、寝返りや這うなどの運動能力も発達させてくる
ü 赤ちゃんのそういう行動に応じて、〈育てる者〉は、子どもとの気持ちの繋がりをつくり出そうとする暗黙の構えが土台となって、「これほしいのね、さあ持ってごらん」などと「誘いかけ→応答」の構造を先取りして作りだすようになる
〈育てる者〉の「成り込み」
ü 「成り込み」とは、〈育てる者〉が「ここ」にいながら赤ちゃんの「そこ」を生きるような現象を指す
Ø 例えば、四ヶ月を過ぎて離乳食が始まる頃、「アーン」と言いながら〈育てる者〉が自分の口を開いてスプーンを赤ちゃんの口元に運び、赤ちゃんが口を開けることを誘うなどの現象
ü 「誘いかけ→先取り的応答」の構造は、生後半年ころまではほとんど〈育てる者〉が主導して築かれていくとしても、子どもとの間に気持ちの繋がりも生みだす。この構造は子どもが〈育てる者〉に対する基本的な信頼感を形作っていくうえで重要となる
子ども主導の働きかけの現れ
ü 生後半年を過ぎる頃になると、赤ちゃんは〈育てる者〉の自分に対する関わり方を予期出来るようになり、自ら「ンンンン」などのような声を出して〈育てる者〉に対して呼びかけるような働きかけが始まる
Ø これは後の呼びかけや要求の前駆的な音声表現と見なされる
アイコンタクトの意味
ü 呼びかけ的発生と同時に、ほとんどの場合アイコンタクトが始まるが、これは一方通行的な関係から双方向的関係への変化であり、関係発達の重要な局面となっている
負の状態を抱えてもらうことの重要性
ü 子どもが〈育てる者〉に信頼感を育むルートは、肯定的な気持ちの共有を通してばかりではない。子どもが機嫌悪くむずかっているときに、その負の状態を優しく抱えてもらい、慰撫してもらって機嫌を直すことが出来るようになるということも、重要なルートである
ü しかし、〈育てる者〉にとって、負を抱えることは容易なことではない。それが出来るための何より大事なのは子どもを愛する気持ちなのだが、愛すことが出来るのは自分自身が愛された経験をそこに喚起出来るからである
ü ともあれ、負の状態を抱えてもらい慰撫されたという「愛される経験」こそ、後に他の人の負の状態を見たときに自分が優しく接して行ける規定的な条件である
〈育てる者〉による情動調律
ü 「スターンは〈育てる者〉が自分の情動を動かして〈育てられる者〉の情動のありようを変化させる可能性のことを情動調律と呼びました。」
Ø 子どもの負の状態を抱えて慰撫することで子どもを落ち着かせるなどもその例である
Ø 子どもの情動の動きに〈育てる者〉が動かされるのではなく、反対に〈育てる者〉が心を大きく持って子どもに接することで、子どもは〈育てる者〉のそのゆったりとした情動にいつの間にか浸され、自分の苛々した気分が鎮まっていく
² 優しい低い声で「あー、ねむくなってきたね-、よしよし」とか、穏やかに声をかけるなどをすることによって・・・
■乳児期後期の関係発達(半年後半~一歳前後)
認められることと自信の形成
ü 〈育てる者〉が瞳を輝かせて子どもに微笑む、ということは、「あなたは可愛い」という〈育てる者〉の想いを雄弁に伝えているだけではない。子どもにとっては、その〈育てる者〉に自分が可愛いということが映し出されて、自分に返されているのだ
Ø 例えば、子どもが積み木を高く積んだときに「わー、上手ね、高いね」と誉めて称賛する眼差しを向ければ、その称賛する声と眼差しと出合った子どもは、その瞬間が一個の主体になる瞬間であって、だからとても満足そうな顔をする
ü どのような自己性を持った主体となるかは、〈育てる者〉が子どもをどのような子どもとして映し返すかにかかっている
Ø 換言すれば、他者に承認してもらうというルートを経て初めて、子どもは自分自身を確認し、自身を持つことが出来る
早熟な自尊心と周囲の取り込み
ü ここには〈周囲の人の認める働き→認められる満足→認めてくれる人の取り込み〉という重要なメカニズムが働いている
ü 〈認めてくれる他者の取り込み〉が、これからの子どもの「自己性」の発達、つまり自我の働きの成り立ちや、セルフ・コントロールの成り立ちに深く関わっていく
意図の通じ合い、分かり合い
ü 一歳前後になると、子どもの意図がその眼差しや発声によって次第に明確になり、〈育てる者〉の身振りや言葉による誘いかけの意図が子どもに分かるようになり、「誘いかけ→応答」の構造が明確になってくる
ü 乳児期後期になると、子どもは自分の発生を調音して周囲の大人達の言語音に近づける動きを強め、自分の意図が明確になったために否定の気持ちを込めた発声・表現をするようになる
Ø しかし言語の壁を本当の意味では通過していない(世界の分節可能性としての言語の発音能力が表出してくる)
「やりとり」を通した意図の分かり合い
ü 同じように一歳前後になると、物のやりとりを通したコミュニケーション、〈育てる者〉との間で物だけでなく気持ちの交流を含んだ「やりとり」としてのコミュニケーション、が出来るようになる
Ø このことが、以降、子ども同士がうまく関わり合えるかどうかを占うものとなる
「いや」という表現の重要性
ü この時期、〈育てる者〉の誘いかけを拒否する「いや」と言う表現が出来るようになる。これは以降、子ども同士の関わり合いにおいて独自の重要性を持つ
ü この「いや」に〈育てる者〉がどのように応じて、その関わり合いの更なる展開を図るかに、〈育てられる者〉と〈育てる者〉の関係の未来がかかっている
Ø この「いや」に〈育てる者〉が手子摺るようになるのは二歳を過ぎてからである
■幼児期前期(一歳過ぎから三歳)
一歳代
ü 乳児期に自己性の中核に自身を育んだ子どもは、一歳を過ぎる頃から、〈育てる者〉の言語的な指示や働きかけが分かるように、また非言語的な水準でかなり自分の思いを表現出来るようになってくる
Ø そしてその延長線上に意味の理解出来る言葉話すようになる
手差しや指さしの現れ
ü 一歳前後になると、自分の要求を〈育てる者〉に伝えようとすると意図の中から、手差しや指さしの萌芽形態が現れてくる。それもまた、〈育てる者〉がそれまでに繰り返して見せていた身振りが子どもに取り込まれてきた結果である
コミュニケーションの深まり
ü 言葉は教えられて現れてくるのではないし、おのずから現れてくるものでもない。それはコミュニケーションの中から現れてくる
子ども同志のかかわり合いの萌芽
ü 子どもにとって、身近な他児はいわばもう一人の自分であり、相手の子に自分が映し出され、また自分が相手の子を映し出す。こうして一歳を過ぎる頃から、次第に子どもは〈育てる者〉以外、しかも自分によく似た年格好の他児を求めるようになってゆく
〈育てる者〉の対応
ü 子どもは(大人の)人間同士のかかわり合いを実によく見ていて、そこから数多くのものを取り入れていく
Ø 例えば、〈育てる者〉が他の人と挨拶を交わしたり、人に何かを勧めたり人から勧められたり、誰かのことを二人で噂しながら笑ったりするというなど
Ø (この点から見ると)〈育てる者〉同士が子どもを間に挟んでかかわり合うという経験が希薄になりがちな今日の文化環境は、決して好ましいとは言えない
ü 一歳代では、友達同士でかかわり合えばすぐ物の取り合いになって、力と力のぶつかり合いとなるが、その時に〈育てる者〉は己が今までに経験してきた両義性という経験を通して、より熟した社会性を身につけていくようになる
Ø その時に〈育てる者〉は子どもに対して対人関係の調整をするような働きかけをおのずと迫られることになる
Ø その時に、どこかでわが子が強く自分を押し出していくことを期待しているのも事実で、その気持ちの捻れが、〈育てる者〉の経験する両義性だから
〈育てる者〉から叱られる経験
ü 二歳近くになると、お互いの意図が明確になり、自分を押し出す気持ちも強くなってきて衝突も激しくなり、相手の子どもを押し倒したり叩いたりすることも出てくる。そうなると、〈育てる者〉もこれまでのような穏やかな制止を超えて、本記で叱るという対応をせざるを得なくなることも出てくる
ü しかし、そのような〈育てる者〉の普段とは違う対応によって、何でも「思い通り」に出来るという考えが徐々に組み替えられ、世の中には思い通りに行かないこともあるという経験が次第に子どもの自己性に書き込まれてゆく
友達と気持ちを共有することの喜び
ü 〈育てる者〉同士がくつろいで会話をしている穏やかな雰囲気の中で、相手の子と一緒にその場を共有することは、何となく楽しく嬉しいという気分を幼児に起こさせる
ü 一緒に行動することで同じ気持ちを同時に経験し、結果的に気持ちが繋がる、同じ気持ちが共有されるという事態が増えてくる
Ø そうすると、相手の子がするようにする、自分がすることを相手の子も同じようにする、という二重の協働経験生じてきて、これが相手の存在を認め、相手の子と折々に気持ちをつなぐことが出来る条件を作りだしてゆく
■二歳代から三歳代
自分への中心化
ü 二歳過ぎる頃から、子どもは自分の思い通りに事態を動かしたり、つくり出そうとしたり、つまり世界を自分に中心化しようとし始める。典型としてはこの時期の「自己主張」
Ø これは、乳児期に育まれた自信と一歳代に培った外界探索の力を背景にして起こってくる(すでに重要な段階を経験してきたことあり、未来に向けた段階が始まったことでもある)
ü この時期になると、子ども同士の間で「〇〇ちゃんの□□」というような言語表現が交わされるようになるが、この「の」は所有権の芽生えというよりは、世界を自分に中心化することの結果であって、それ故極めて重要な言語的経験と言える
ü この他児とのかかわりの中における自己中心的世界という経験は、子ども同士のかかわり合いにおける重要な意味を帯びている
Ø つまり、自分を際立たせつつ、他児もまた同じように自分を際立たせている、という状況の中でのかかわり合いであるから
Ø 例えば、今までは単に物の取り合いであった関係が、貸し借りを巡る衝突というようにその意味を変化させてくる
ü この時期で大切なのは、子ども同士が主体と主体のぶつかり合いを経験することで、身体を通して様々な感覚を味わい、自我の発生が準備されるということにある
Ø 「自己主張」をわがままと捉えて単純に押し込めてしまうと、子どもは一個の主体として育っていけない
Ø 早期から規範に沿った振る舞いを身につけさせことは主眼ではない
〈育てる者〉の両義的対応の始まり
ü 二歳を過ぎる頃から、いわゆる「やんちゃ」「自己主張」「第一反抗期の特徴」などと呼ばれている、子どもの態度が生じてくるが、その子どもの気持ちを受け止めてやりながらも、行為への対処をあれこれ考えるというという、この捻れこそ「育てる」ことの中核にあるものある
Ø このような子どもの態度は、それまでに身につけてきた諸能力を背景に、またこれまで〈育てる者〉が自分の思い通りを受け入れてくれたことを梃子に、その思い通りの押し出しを強めてくることといえる
Ø 二歳半ばを過ぎる頃になると、子ども振る舞いが許容範囲を超えてくることもあり、そうなると、子どもの強い押し出しの方向転換図る動きを見せざるを得なくなりそこに捻れが生じることになる
Ø だがそれは、全面禁止や制止ではない両義性であるが故に、少なくとも子どものこうしたいという気持ちは「生き残る」ことができる。これが、子どもが元気に世界に進み出ていくための力に転化していく
Ø 〈育てる者〉はつねに「どこで制止や禁止をすればよいのか、どこまで受け入れたら良いのか」に迷わざるを得ない。しかし、この捻れこそ「育てる」ことの中核にあるものである
優しい養育者として生き残ること
ü 行為が受け入れられるかどうかはさておき、ともかくも自分の「こうしたい」という気持ちのありようは受け止めてもらえるのだと子どもが確信することができれば、少なくとも子どもの「自分」は生き残り、また「優しい養育者」も生き残ることができる
Ø 禁止や叱られる場面で大事なことはこのこと(大事な問いは、この「確信」の条件を問うことであり、何が「真理」であるかを問うことではない)
ü (幼児期をまとめると次のようになる)「主体としての自分を全力で何かにぶつけていくことと、それを〈育てる者〉をはじめとして周りの人たちからしっかり受け止めてもらうことをたっぷり経験する時期です。それによって子どもは世界を自己化し、自分の自己性の中心を形作り、周囲とは別個の主体であることに気付き、自立への一歩を踏み出すことができます。こうして形作られた自分の自己性の中核が、後の人生で何かにつまずいた時に、それを乗り超えてゆく力になるのです。」
自我の芽生え
ü 「自我は、子どもの内部において、自分の「思い通り」を貫こうとする気持ちと、自分の「思い通り」を抑えて相手の思いを受け止めようとする気持ちとのあいだを調整する働きとして登場してくるものです。」
他の人を受け止めるきざし
ü 自分の「思い通りを」を貫こうとすると、自分が本来目指していた自己充実欲求が満たされなくなり、それまでの自己性のありようを屈折することを余儀なくされ、大人の言い分を聞かざるを得なくなり、相手の子どもを受け止めざるを得なくなる
全面否定にならないこと
ü 第一に重要なのは、禁止や制止が子どもの全面否定に繋がらないことである
Ø 但し、「思い通り」の内容が、相手の嫌がることを面白がってするなど、人として許されない行為をすることでないかぎり
〈育てる者〉への二重化された同一化
ü 第二に重要なことは、規範を示して駄目という人が、やはり依然として自分を愛してくれている人である言うように、子どもにとって経験されることである
Ø 強く自分を押し出す「自分」の一部が、周囲との摩擦の中で変化して自我が成り立つのである
友達の様子を見守る経験
ü 子どもは身近な友達に生じていることは半ば自分に起こっていることのように受け止められるので、大切な大人や友達への同一化と取り入れが自己抑制へと繋がっていく
「偽りの自己」に陥らないために
ü 子どもが自分一人で自分の気持ちを収めることを促されるだけでは、なかなか本当の意味での自立性を獲得することは出来ない
ü 利発な子どもを演じて見せている、ということがあったとしても、その程度が強すぎると「偽りの自己」を生きることが身についてしまうことにもなりかねない
ü 少なくとも幼児期は、ある程度自分を押し出せるようにすることを基本に、少しずつ周囲を受け止めることが出来るというように、両義性を生きる術を自然に身につけてゆくことが求められる
道徳性の萌芽
ü そうしているうちに、次第にして良いことと悪いことの分別を取り込む姿勢を強めるようになっていく
ü 道徳的な行為は、乳児期以来の様々な行為や言葉の意味の習得と同じように、周囲の大人や友達の振る舞いとそれがなされる文脈を取り込みながら徐々に身についていく
〈育てる者〉の態度が取り込まれる
ü 幼児期における人を思い遣る気持ちや道徳的な振る舞いは、身近な信頼できる大人達の態度や振る舞いが取り込まれ、それらの人たちの促しによってようやく可能になる
Ø 目に見えない規範を習得し、それを遵守しなければならないということが分かって、道徳的な振る舞いや優しさが発揮されるのではない。それはもっと後のこと
Ø 〈育てる者〉の態度が手本となって、それが子どもに取り込まれる
■幼児期後期(四歳~六歳)の関係発達
急速な言語発達と身辺自立
ü 幼児期前期で見たことは幼児期後期に殆ど引き継がれるが、言語能力と身辺自立の力はそれまでとは違った様相をもたらす
Ø 二歳前後から急に話す言葉数が増え、三歳過ぎる頃から大人の言うことは大抵理解できるようになり、着替えや食事などであれこれ指図する必要がなくなってくる
Ø 二歳半から三歳過ぎにかけて、あれほど〈育てる者〉の手を焼かせていた「ヤンチャ」や「我がまま」も、四歳くらいになると急に影を潜め、こどもは分別がましくなってくる
Ø しかし、そこには明と暗がある
分別がましさの明の部分
ü 分別がましくなるとは、今までは出来なかったことが出来るようになることでもあるから、多くの明の部分がある
Ø 友達と仲良く出来る、先生の言うこときくようになる、聞き分けが良くなる、無理難題を言わなくなる、ルールも守れるようになる、等々
ü またそれは、大人の面前でどのように振る舞えば肯定的に受け止めてもらえるか、かわいがってもらえるか、またその逆のことが分かってくることでもある
ü 子どもの聞き分けが良くなると言うことは、特に共働きの場合には〈育てる者〉に心の余裕を与える
分別がましさの暗の部分
ü 〈育てる者〉に心の余裕が生じてくると、子どもに「聞き分けの良さ」を過剰に求めがちとなり、それにともなって子どもが「聞き分けの良さ」を過剰に発揮するようになり、その結果、子どもの自己性が育めなくなることが暗の部分である
Ø 「一見した「よい子」が将来「困った子」になりやすいのは、こうした分別がましさの中で、自分が一個の主体として生きることを諦め、自分の自己性の中核を〈育てる者〉の思いに委ね、むしろ〈育てる者〉の願いや思いを生きてしまい、結局は自分の自己性を育めなくなくなってしまうからです。」
聞き分けのよさを求め過ぎないこと
ü 「要は、「聞き分けよく周囲を取り込む」というこの時期の一方の分別がましさが、他方の「力一杯、自分の思いで遊ぶ」こととバランスされていなければならないと言うことです。」
ü この時期、〈育てる者〉や周囲の大人から肯定的に受け止められない「気になる子」「問題のある子」達がいる。彼らに対して周囲の大人達はついつい「聞き分けの良さ」を求めて、強い働きかけをしがちだが、その対応は誤りである
Ø この子達の中には、みんなと夢中になって遊べない、聞き分けが良くない、あるいは聞き分けの良さを全く発揮できない、という子どもが含まれている
Ø 彼らに共通するのは、幼児期前期までのところで、十分に自分を押し出せなかった、〈育てる者〉や保育者に十分受け止めてもらえなかった、しかも強い社会化を迫られてきた、ということである
Ø 彼らは「聞き分けが良くない」ばかりだけではなく、夢中になって遊ぶ経験を十分に持っていない
² なぜそうなってしまったのかと言えば、「大人達に肯定的に映し返してもらっていないために自己の中核が傷つき、それが育ていない」から
² したがって、そこに戻って対応するほかはない
² (「映し返してもらう」とは、自分が他に感じ取られたことが他から自分に返されてくる、という関係性の表現)
早い社会化への圧力
ü 「〈育てる者〉はこの時期の子どもの「聞き分けのよさ」をよいことに、早い身辺自立や早い社会性の獲得に向けて子どもを押し出すことが多くなってきます。」
Ø とりわけ共働き家庭で朝が忙しい場合など、どうしても「早く、早く」と・・・、その延長で「早い発達が望ましいこと」という願いを強くぶつける傾向にある
Ø 保育参観の時にも、わが子がどれほど熱中して遊んでいるかに目を向けるよりも、先生の言うことをよく聞いているか、みんなと一斉の動きになっているか、などわが子を一個の主体と見る前に、社会化の方にばかり目を向けがちとなる
ü 「しかしながら社会性を身につけることは確かに大事なことですが、この時期にはそれ以上に、友達と友に楽しく遊びこむ姿こそ大切にされなければなりません。」
Ø 「幼児期をきりつめるような早い発達や早い社会性の期待は、本当に子どものためなのでしょうか。・・・この時期の子育てや保育に当たっている大人達は、もう一度、子どもをしっかり見つめ直して、子どもが本当に向かうべきところを見定めて欲しいと思います。」
■〈育てる者〉の考え方の偏り
この時期になって目立ってくるのは、〈育てる者〉の子育て間の偏りです
早い発達が子どもの幸せか
ü 比較的多数側の偏りは、学力至上主義的な世相の反映なのかもしれないが、能力発達の考え方に縛られて早い発達が子どもの幸せと錯覚している〈育てる者〉たちがいる
Ø 能力面での優越への関心が生活面にまで及び、他の子どもとの比較において服や教材を買い与え、ひいては「あなたのためにたくさんしてあげている」という愛の押し売りが子どもを息苦しくさせる、など、過干渉タイプの人たちもいる
子どもから距離をとる〈育てる者〉たち
ü 比較的少数側の偏りは、「子どもに任せる」という考え方に立って、子どもの自由や子ども同士での解決など、まっとうな言葉遣いはするものの、子どもから距離をとり、子どもの気持ちを受け止めることが苦手な〈育てる者〉たちがいる
Ø 身辺自立や社会性に関しては、子ども思いを受け止めないままに強く結果を求めがちとなりやすい
Ø このタイプの人たちには、何か子どもに接近してゆくことがためらわれるような感じがする
過干渉タイプが生まれる理由
ü この偏った考えの出所を考えると、人の欲望がいかに社会や文化の動向にそそのかされて抱かされるものかと思わざるを得ない
Ø 「三歳ではもう遅い」という広告、大学までエスカレーター式で進める有名幼稚園への勧誘、幼児塾への誘いの、チラシ、等々
Ø その実現の可能性が経済的には見えてきている現代では、〈育てる者〉の欲望は膨らむばかりとなる(人は不可能なことには欲望を抱けない)
ü 乳児期や幼児期前半では、〈育てる者〉は子どもの気持ちの向かうところを見定めて、何とか子どもと気持ちをつなごうとしていたのに、今や子ども気持ちを顧みずに、ただ〈育てる者〉自身の願望を子どもに押しつけることに傾いてしまっている
ü なぜだろうか、一つには、それは子どものことを受け止めきれない気持ちがある、という基本的問題のうえに、〈育てる者〉自身の自己愛の問題があるのだと思われる
Ø 子どものことを愛するからこその対応だと理由づけをするが、これは既に述べたように「愛の両義性」のほどよさを逸脱しているといわざるを得ない
Ø 〈育てる者〉の自己愛が満たされる場、例えば仕事やボランティア活動など、がないがために、わが子が輝くことだけが己が輝くことになってしまっている
ü もう一つには、子どもの将来への不安から、〈育てる者〉は「安心切符」を早く手に入れよとして、次々と手を打とうとするためとも思われる
Ø こうなると「明日のために今日がある」ということになり、「いま、ここ」を楽しめなくなって、子どもが自分の世界を生きられなくなっていしまい、自己性の中核を剥ぐ具目ない子どもが増えてくることになる
距離を取るタイプが生まれる理由
ü それが何故なのかは難しい問題だが、一つには、これまでの子育てが思うとおりに行かず、そこで子育てが楽しめなくなった、子育てに自信を失ったということがあったのではないか
Ø 「そしてさらにその背後には、わが子を可愛いとは思えない、子どもの様々な振る舞いを肯定的に受け止められないといった根深い問題もあるような感じがします。」
Ø 〈育てる者〉自身の問題を子どもの側に帰属させることにより、「言うことを聞かない」「素直でない」子どもと受け止め、社会化することを目指し、自身は子どもから距離を取りたいため、早くから保育者に委ねることになるのではないか
心に余裕をもつためには
ü こうした両極端の間に多くの〈育てる者〉がいる
Ø 「要するに、よい〈育てる者〉出ありたいし、また周囲からそう思われたいし、しかし子育てだけが自分の人生ではないし、自分もまた自己実現を目指したい――こういう欲望が〈育てる者〉を翻弄しているのです。」
Ø 今日の文化を生きる〈育てる者〉は、こどもにとって「よい〈育てる者〉」がどういう〈育てる者〉なのかが見えにくい状況の中で、自己実現の願いと「よい〈育てる者〉」であろうとすることとの狭間で揺れ動かざるを得ない
ü 今の時代、良妻賢母を完璧にやり遂げようとすれば過干渉型の対応になりかねないし、それぐらいなら、「少しぐらいの息抜き」で、「すっきりするのが」むしろ精神衛生上よいのでしょう。但し、子ども病気などのいざというときには、自分が最終守備ラインになる覚悟が前提で。
ほどよい〈育てる者〉であること
ü 完璧主義でもなく、放任主義でもなく、「ほどよい」〈育てる者〉であるには、自分の欲望の実現も「ほどほど」のところで踏みとどまることが必要
Ø 今日、核家族の専業主婦のストレスが最も高いといわれている
² 周囲の人現関係が希薄で向き合うのが子どもだけ、自分を振り返る余裕もなく、もっぱら〈育てる者〉であることが求められ、そこに追い詰められがちだといわれている
² そうならないためには
l 「わが子」だけに強く焦点化した生活から脱却する
l 夫婦が一緒に子どもを育てるという構えを確かめ合う
l 家族がバラバラに食事をするような現状を変えて、家族が一緒に暮らすということは一体どういうことかを振り返る
l 近隣や同じような子どもを抱えた他の〈育てる者〉達と交流し学び合う
l 祖父母や近隣の援助を適度に仰ぎ、「少しぐらいの息抜き」をする
* * *
「幼児期の六年間は、それを切り詰めるような早い発達が望ましいことなのではなく、やはり幼児らしくたっぷり遊ぶことにこそ幼児期の意義があります。というのも、この時期を十分に遊んだ子どもは、それを財産にして、後に旺盛に世界に進み出てゆき、少しぐらいのつまずきをものともせずに立ち直ってゆくことが出来るからです。<中略>しかし、戦後の大きな経済的、社会的、文化的な大変動のあおりをうけて、この(社会化や文化化の)リサイクルが思うように展開せず、<中略>そのことが、〈育てる者〉の周りにも、〈育てられる者〉の周りにも、さまざまな難しい問題を生み出してきているのです。」
第四章 学童期、思春期、青年期後期、成人前期の関係発達
本章の概観
これからの時期は、〈一個の主体であること〉と〈社会の一員となること〉が、まさに絡み合いながら進行してゆく時期であるが、一歩間違えれば、自身と意欲を喪失して一個の主体であることを見失う危険や、自分勝手や過剰な依存の中で社会化が進まずに非行や反社会的行動に堕してしまう危険と背中合わせの、危うい道程でもある。
〈育てる者〉の側から見ても、成長を遂げたわが子に寄せる期待や願いは現実味を帯びて、それが厳しい評価に繋がったり、子どもへの思い入れが過剰に熱くなるとなるという危険もある。
こうした〈育てられる者〉と〈育てる者〉の関係発達を見てゆくのだが、紙面の関係もあり、本書では、世代間の一サイクルだけのスケッチを描き通しておくことにする
■学童期の関係発達
「よく遊び、よく学び、よく規範に従う」こと
ü 「フロイトの人格発達題意解説によれば学童期は潜伏期と呼ばれ、それまでの両親とのエディプス問題の葛藤から解放されて心的エネルギーが勉学のエネルギーに転化されると言われてきました。」
ü 「エリクソンもまたこの時期の子どもが規範に従い、勤勉に学ぶことを特徴として取り上げ、その結果が他の子どもとの比較や周囲からの評価を招き、それによって劣等感を感じる危険にも繋がるとして、この時期に「勤勉-対-劣等感」という心理・社会的危機を想定しました。」
ü 「しかしながら、現在の日本の現状を振り返れば、学童期は、単純に「よく学び、よく規範に従い、よく遊ぶ」幸せな子ども時代というイメージは到底描き得ません。」
Ø 小学校低学年の、いわゆる「学級崩壊」問題
Ø 不登校やいじめ問題
Ø 学校医の報告からは、頭痛、腹痛などの不定愁訴、チック、胃潰瘍などの心理・身体的な問題を抱える子どもたちは相当な数に上っている
Ø 小学校の保健室は子どもたちで溢れ、養護教諭はてんてこ舞いの渦中にある
Ø 家庭生活の纏まりのなさから生まれる食生活の乱れ・孤食
Ø 塾通いや家庭崩壊などに端を発する反社会的行動も多数報告されている
遊ぶことの問題
ü 「「遊ぶ」というのは、その子の主体性が最も発揮される場面であり、瞳を輝かせて遊びこむ姿のなかにこそ、その子が紛れもない一個の主体であることが具現されています。」
ü 遊びを通して、異なる年齢の子ども同士のかかわり合いが生まれ、そこから人が人とかかわり合うときの様々な知恵が学び取られていく
ü そうすると、電子ゲームなどの現代的な遊びによって、身体を使う古くからの遊びの形が押しやられ、友人同士の間で複雑な対人関係を営む帰化が乏しくなるのは問題である
「学ぶ」ことの問題
ü 「学ぶ」ということもおかしくなっている。それは決して知識の習得に帰せられるものではない。幼児期を通して、周囲の人のすることの「取り込み」がその中心にあって、「学ぶ」も広い意味では「遊び」である
ü 小学校教育では、単なる知識の習得ではなく体験に根ざした知識の習得をと言われながら、それがかけ声で終わっている。それは何故だろうか。
Ø 一つには教師自身の体験世界が希薄になっていること
Ø 二つ目は「学ぶ楽しさをどれほど身につけたか」を評価できないまま、結局はテストの成績や偏差値という知識習得の程度によって学習の度合いを測る評価精度の問題がある
² 塾に通わせてテストの成績向上に血道を上げる〈育てる者〉達の教育に対する態度の影響も大きい
² 「基礎・基本」が大事といいながら、結局は知的達成に繋がるそれであり、一個の人格に成長するに必要なものとは言い難い。未来の〈育てる者〉にするために必要な「基礎・基本」とは何かと議論することが、今必要である
² 知育偏重に対する教育産業の役割も無視できない。大量宣伝を通して世間の人たちの考え方を半ば操作していることになっていることは問題である
「よく規範に従う」ことの問題
ü 今小学校では「学級崩壊」と言う言葉に象徴されるような無秩序な事態が生じている理由は何だろうか
Ø 規範には、嫌々ながら従わされるという否定的な面ばかりではなく、規範に従う自分を自分で誇りに思うような前向きの意味がある
Ø 「学級崩壊」は、規範の前向きの意味は見失われ、義務的に従わせられる面ばかりが前面に出て、しかもそれさえもうまく行かなくなっている
Ø 背景の一つは、主体であることの核になるものを自ら育めなかったことで、正しい意味での社会化を身に引き受けられなかったことがある
² 既に説明されているように、幼少の頃から一個の主体として受け止めてもらえなかったことによる
Ø 背景の二つ目は、子どもが自分勝手を決め込むときにその子に厳しく対処する大きな規範性を備えた存在が消えてしまったこともあるだろう
² 「お父さん」「先生」「おじいちゃん」「閻魔様」「神様」「ナマハゲ」などなど
² 精神分析の「超自我」は、内面化された〈父性〉と内在する規範性があって、欲望を押し出す自分とそれを抑えるもう一人の自分が自己の内面で相克する、と考える
² 日本の伝統的文化を踏まえて考えてみると、「超自我」の考えだけでなく、外部に想定される規範性が子どもをどこでも、いつでも見守っているという図式もまた必要だろう
Ø 背景の三つ目は、先生の「権威性=尊敬できる人という意味」が地に落ちてしまったこと
² 実際に先生が偉い人かどうかが問題なのではなく、周囲の大人が先生をそのように思いなす働きが機能しなくなった、或いはそのような幻想性が機能しなくなったことが問題なのであり、「父親な権威」が廃れたのも同様である
ü 超越的なものの「規範性」が廃れ、先生の「権威性」も、父親の「威厳性」も廃れてしまえば、子どもたちの規範的な振る舞いは、いちいちの行動に対する子ども自身による善悪の分別だけになるので、「よく規範に従う」面が弱くなっている
■「評価的なまなざし」の問題
評価的まなざしがもたらす劣等感
ü 大人の「評価的まなざし」とは、大人のまなざしのなかに含まれる厳しい評価的な色合い、という著者の表現
ü 「「評価的まなざし」を通して否定的な評価を与え続けられる子どもは、自分を次第にだめな子どもと思い、自信を無くし、実力を発揮できなくなり、その結果、劣等感を抱いてしまうという悪循環に陥る可能性があります。」
少なく生んで大きな期待をかける
ü 「評価的まなざし」が子どもに投げかけられるようになった背景には、少産化=少子化がある
ü 少子化は、〈育てる者〉にわが子に対する過剰期待を抱かせやすいが、その期待に応えられる〈育てられる者〉は少ない
ü また、なによりも能力の評価だけで子どもの成長を評価することなど到底出来ないし、子どもに対する本来の評価は、一個の主体として育ち正しい意味の社会性を身につけて社会の一員となる準備をしているかどうかである
ü 子どもに「評価的まなざし」を向ける大人の瞳を輝かせるのは難しい。(大人の輝いた瞳を見て育つことこそ〈育てられる者〉が〈育てる者〉となっていく)
今の親の「豊かさ」の問題
ü 戦後の大きな社会文化変動のなかで、子どもの生み・育てという営みにおける合理性追求は、親の経済的「豊かさ」と相俟って、「教育もあり方次第で子どもの成績は伸ばせる」という幻想を生むことになった
ü 〈育てる者〉の子どもに対する教育投資や努力に「愛」の押し売りが見え隠れすれば、子どもたちは自己形成に必要な適度なストレスを遙かに超えた過剰なストレスを抱え組むこととなる
教師の評価的まなざしの問題
ü 教師もまた「一人一人の個性を生かした教育を」と言いながら、子どもの努力ではなくて結果でしか評価できないことが多い
Ø 一時期、小学校では「結果フィードバックによる<やる気>理論」が横行したが、この理論は能力に恵まれた児童の能力向上には有効とはいえ、教師に対する信頼を多くの子どもから奪い取ることにもなった
ü 他の子どもとの比較のなかで劣等感を抱くようになった子どもたちにとっては、教師はいざというときにも援助を求める対象とはならなくなった
Ø 〈育てる者〉と同じ「評価的まなざし」を注いでくる教師に、子どもたちが圧迫感を感じるようになった
Ø 日頃の〈育てる者〉の会話を通して、子どもたちは〈育てる者〉が自分の担任教師を高く評していないことを知っていて、子ども自身も教師を信頼できる「良い先生」と思えなくなっているように見える
ストレスの源泉についての自覚のなさ
ü 子どもたちを苦しめ、さまざまな心的ストレスを抱え込むことになるその源泉が「評価的まなざし」にあることに子ども達はぼんやりとは気付きながらも、はっきりとは意識していない
Ø 大人達の期待に沿えなければ沿えない自分に傷つき、期待に沿い過ぎて自分を見失ったり仲間から外れてしまうことにもなり、どちらにしてもさまざまな心的ストレスを抱えることになる
Ø 小学校時代に不登校になる子どもたちの一群は、このような大人達の重い期待のまなざしや評価のまなざしに傷つき、疲弊していった子ども達だと思われる
Ø 劣等感のもたらす妬みやストレス解消を他の子ども達に向けることは、いじめ問題に繋がっている
子ども同士の評価的まなざし
ü 友達同士で評価的なまなざしを向け合い、お互いを傷つけ合うようになったことも過剰なストレスの一因
Ø 特に高学年になると、リーダーを中心として集団が形成されてくるようになるが、ここに何らかの評価を基にした参加と排除の論理が生まれる。これはいじめに繋がる発想となりうる
Ø (「評価的まなざし」という表現は、個々人の能力評価は人間の生自体を犯し得ない、ということを感じ取れない人間達の関係性、もっと端的に言えば「人権」の意味が感じ取れない人間達の関係性、を示していると思う。いじめはその一例)
<以降省略>