ルソー『エミール』(戸部松実訳 中央公論社)
――読書感想(要旨は別のブログ「爺~じの名著読解」にまとめて移しました)――
序文
ルソーの二者選択的思考には、事柄の本質を掴む原理はあっても現実を乗り超える原理に欠けている面がある。
本書に関しては、善とはもう少し具体的にいうと子供に対する愛であり、実行とは方法論を示すことだろう。
「自然」はルソーのキーワードだが、その内容とはどんなものなのだろうか?
第一篇
人間が完全なものでないとしたら、そもそも教育とは可能なものなのだろうか、という問いは、そもそも共和国なるものが可能なのか、という問いと対をなしてルソーのうちにあると思う。本書は前者の問いに対して、エミールという子供を理想的な教育者としてのルソーが育てていく思考実験を通して考えていこうという筋書きとなっている。その思考実験の背景にあるルソーの人間洞察は面白い。だが、教育についての具体的提案の中味やその理由については、現代とは社会背景が異なることもあるし、なるほどと思うところと、ピンとこないところがある。だから、特に具体的方法については、現代における科学的観察に基づいた一部の研究結果、例えば『育てられる者から育てる者へ(鯨岡峻著、NHKブックス)』などを読む方が参考になると思う。
第二篇
ここでは、12,3歳くらいまでの幼年期の教育について書かれている。子供は小さな大人ではない。子供を子供として成熟させること、それが自然の目的に適った教育である。この考えの根拠となっているルソーの人間観察は鋭い。
身体的感覚(五感)、快苦、身体表現、言語表現、自己意識、勇気、欲望、愛憎、立腹、臆病、卑屈、感性、感覚、知覚、観念、記憶、推理、比較、判断、理性、事物認識、虚偽、所有、正義、支配、自由、などについて、子供は子供としてのそれらを感じ取っている。だから一番大事なのは、その感じ取る力を育てることであり、一番いけないのは、発達段階によって異なる子供の理解の程度を理解せず、しかも慣習と偏見と誤謬にまみれた大人の考えを押しつけることであり、それは人間を育てることにはならないとルソーは言う。基本的にはその通りだと思う。
しかし、ルソーには、子供の教育についても、当時の社会矛盾から逆算しているとことがある。例えば、圧政の根拠としての人間心理は子供の頃の我が儘が許される教育にあるというところが強調されているが、それはそうとしても、より大切なことがあるのではないかと感じている。先ずは絶対的に守られているという感覚、次にそこを土台として他者関係、人との共感性を育むことの方が本質的だと思う。
第三篇
この篇は12歳~15歳くらいの年頃の子供が取り扱われている。ルソーは、子供は子供として成熟するというモデルを描き、その成熟した子供は「完成した人間、つまり、愛情を持った、感受性のある存在になること、つまり理性を感情によって仕上げることが残っているだけである」存在だと言うのである。あるいは、次のようにも言う「これらを一言で言えば、エミールは自分に関係する徳はすべて持っている。しかし、社会的な徳を持つことができるために必要ないろいろな関係を知ることだけが欠けている。彼の精神が、今や受け入れようとしている知識だけが欠けているのである。」
このルソーのモデルのキーワードは”自然”と”社会”であると思う。幼年期までは「教育の目標とは自然の目的そのもの」だ、とルソーは言い、この目標をクリアーした子供は、大人になって自然が社会に置き換えられても、自由で平等な共和国を可能にするというルソーの社会哲学を満たすようになるはず、と考えているからだろう。本編で述べられている子供が自然の目的をクリアーするプロセスには、人間の事物認識(自然認識)の原理が述べられており、興味深い部分であった。自然状態においてはこの事物認識の原理の基に正しい判断を下して有用な行為を行い幸福へと至るのだが、社会状態においても、この認識方法及びそれ以降のプロセスの原理は変わらない、あるいは少なくともこの原理と矛盾しないはずである、とルソーは言いたいのだろう。それは「人間の最初の理性は感覚的理性であり、それは知的理性の基礎をなしている」という言葉にも表現されている。
第四篇(「サヴォア人司祭の信仰告白」を除く)
この翻訳書は抜粋版で、四章の”サヴォア人司祭の信仰告白“の部分と第五章は殆ど省略されているので、別途岩波文庫の全訳版で取り扱うことにする。
ここでは、思春期から青年期にはいる頃までが対象だが、その前提として、ルソーの人間観の一部が語られている。その人間観の根底にあるのは、自己保存が最も重要である、という考え方だが、この考えは社会哲学的な根本思想としてホッブズに由来するものでルソーが言い出したものではない。ホッブズは、自然法の第一原則を平和の希求としているが、ルソーは自己保存の欲求のことを自己愛と表現し、これを人間の唯一の根源的情念と捉えて、道徳的な観念もここに基盤があるという。”サヴォア人司祭の信仰告白“以降、良心や徳といった道徳的な概念について更に小説風な記述によって説明を行っているが、それらを含めて考えるとルソーの自然観についての理解が深まると思う。
情念は自然から湧き出てくるものなので、これを否定したりするのは人間の否定に等しいから愚かなことだが、子供から青年へと成長するに従って肉体の成長だけでなく、他者との関係性において変化した情念がいろいろと出てくる。この変化した情念は殆ど悪の方へ向かう。例えば自己愛から生まれてくる自尊心は、自己愛とは違ってその満足の限度がなく、憎しみに満ちた、怒りの感情が生まれるなど。だから、情念の変化を善の方へ導くのが教育者の使命となる。具体的方法は時代が違うからあまり参考にならないが、言いたいことはよくわかる。
関係性の中で変化した情念の一つに憐愍(哀れみ、同情)が重要な意味を持って採り上げられているように思える。自尊心と憐愍を一般化、普遍化することで道徳が創られていくと言う筋書きのようだ。
ここまで読んできて、その目的は共和国の市民を育てることであり、その方法の核心は、自然に従い人為を避けることであるという、ルソーの教育論が、約二百五十年前に書かれたとは、改めて驚きを禁じ得ない。
だが、ルソーの言う自然とは一体何だろうか。それはあくまで自己保存の欲求であり、なおかつその自己保存の欲求が良心を育みうる情念の源であること、なのであろう。しかし、その後の哲学の展開を知るわれわれにとってはこの説明には十分な説得性があるとはいえないだろう。