2015年5月22日金曜日

『人間の学としての倫理学』和辻哲郎(岩波書店)【感想と要点】

――読解篇は、別のブログ爺~じの哲学系名著読解を参照してね――
古代蓮


<感想>
和辻の言う倫理とは次のようものだ。それは、人間共同態の一番底に、それがなければ共同態として存在し得ないものとしてある、実践的行為的に自覚された共通了解である。倫理学とは、そのような倫理を、かくかくしかじかであることとして概念化したものである。
倫理、人間、世間、存在等の概念を、日本語やその由来である古代シナ語が持っていた意味を辿ることによって解明していく方法や、アリストテレスや、デカルトから始まる西洋近代思想の批判的援用も学として面白いが、和辻が倫理及び倫理学をそのように言えるわけの考察が一番面白いと思う。
そのわけとは、人々の間における日常の、それが今ここにおいてであれ、歴史においてであれ、その中におけるできごととして読み取ることによってだけで可能となる、という確信であると思う。そのできごとは、すべての物、言語、制度、等々における人間の表現としてあらわにされているのであって、倫理はそれらを通路としてのみ捉えることができるものなのであり、逆にあらゆる社会的な形成物はすべて倫理の表現なのである。そしてそのことは原理なのである。和辻のこの思想はとても説得性の有るものだと思う。
哲学的方法として一番大きな影響を受けているのは現象学、特にハイデッガーであるが、私の感想としては、その解釈や批判にちょっと異論がある。和辻が他者了解の問題は現象学では解けないと断言しているところなどがそうである。
和辻が、西洋近代哲学との対比において呈示した思想は、一言で言えば、主体的間柄、つまり主体は我れにではなく我々にあるという考えはではないかと思う。この思想は西洋近代哲学とは根本的に違っているようにみえるのだが、一方、その主体がなにか主観客観図式をベースにした超越的、神秘的な実体のようにも見え、この点についてはもっと知りたいところではある。

<要点>
この書には、人間の学としての倫理学の意義(第一章)と方法(第二章)だけがのべられている。

第一章 人間の学としての倫理学の意義
一、「倫理」という言葉の意味
倫理とは、人間共同態の存在根柢として、一般言語と同じく歴史的・社会的な生の表現として、既に共同態において実現しているものである。それは人々の間柄の道であり秩序である。だから倫理という言葉を出発点として、その意味することをどのように概念化していく(以降、和辻は一貫してこの方法を辿っていく)。

二、「人間」という言葉の意味
「人間」という言葉は、個々の「人」と言う意味と「社会」という意味の二つの意味を同時に持っている。このことは最も人間の本質を言い表している。「人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。」

三、「世間」あるいは「世の中」の意義
世間とは、「遷流性及び場所性を性格とせる人の社会である。あるいは、歴史的・風土的・社会的なる人間存在である。」
人間存在とは、人間の世間性と人間の個人性という二つの性格の統一である。この統一は、行為的連関として共同態であると同時に行為自体は個人的である。これは人間存在の構造である。

四、「存在」という言葉の意味
我々の概念としての「存在」とは、厳密に人間存在を意味する。それは、間柄としての主体の自己把持という意味から言い表せば「人間が己自身を()つこと」或いは「自覚的に世の中にあること」である。また、世の中にあることは実践的交渉においてのみ可能である点を強調すれば「人間の行為的連関である」。

五、人間の学としての倫理学の構想
以上により、倫理、人間、世間、存在という根本概念として規定したので、「倫理とは人間共同態の存在根柢である」という最初の規定も明確になってきた。
倫理学は、そのような倫理を把握するものであり、人間存在において主体的実践的に実現されているものを学問的意識にもたらすことができればよいものである。従って倫理学は同時に人間存在の学でなければならず、それが「人間の学としての倫理学」なのである。

六、アリストテレスのPolitike
アリストテレスはEthica Nicomacheaによって倫理学の祖と言われている。この著作にて取り扱っているのは全体としてのPolitike(政治学)であるが、部分としての個人のEthica(倫理)が語られているからである。
Politikeは個人及び社会組織(ポリス)の両面から考究して初めて完成する「人の哲学」であり、我々の言う人間の学としての倫理学と一致する。しかし、Politikeにおいては個人の本質内容を個人自身のうちに置くことと、人が本性上ポリス的動物であるとすることが並置されている(ソクラテスやプラトンは、アリストテレスとは異なり、個人の本質内容は個人自身ではなく普遍にある、と考えている)。我々はこの二つの考えの統一においてアリストテレスの人間の学を見なければならない。

七、カントのAnthropoligie(人間学)
カントの道徳哲学は、主観的道徳哲学という部分においては十分とは言えない。しかし、その最も深い内容においては我々の言う「人間の学」と一致している。この視点はヘーゲルの人倫と同じである。
カントのアントロポロギーは二つある。一つは経験学としてのそれであり、もう一つはこのような経験の可能根拠(=人間知)を明らかにする道徳学としてのそれである。つまり「人」を経験的及び可想的な二重性格において規定している。定言命法はこの二重性から理解できる。この原理は、人間関係の原理である。

八、コーヘンにおける人間の概念の学
コーヘンは、カントが人間自身は目的であるという原理を立てたことをもって、ドイツ社会主義の真の創設者と呼んだ。「カント自身が共同社会的法則と呼んだこの原理こそは、定言命法の最も深い、最も力強い意味を表したものであると共に、また社会主義の原理でもあると主張せられる。」

九、ヘーゲルの人倫の学
『人倫の体系』の基本はアリストテレスのEthikでもなく、カントの「主観的道徳意識の学」でもなく、普遍と個別の弁証法的展開による社会哲学である。
『精神現象学』においては、「人倫の体系と精神哲学とのいまだ熟せざる接合点を見いだし得る。」
「『法の哲学』として詳述したときには、それは<中略>初めのような人倫の哲学ではなかった。ここでは絶対的人倫がその絶対性を失っている。しかし精神の哲学に取り込まれた人倫の哲学がなんらかの形でその独立性を維持しようとしたことは、ここにも看取せられると言ってよい」。
ヘーゲルの哲学は「かく見れば人倫の哲学は、絶対的全体性を「空」とするところの人間の哲学としても発展し得るものである。<中略>かかる意味においてヘーゲルの人倫の学は、倫理学にとっての最も偉大な典型の一と呼ばれてよい。」
精神の運動と捉えるヘーゲル哲学が観念論的立場であるという批判はあり得る。フォイエルバッハ、マルクスがそうである。しかし、彼らもヘーゲルの分析した存在の構造を根本概念として使用している。

十、フォイエルバッハの人間学
フォイエルバッハはヘーゲル哲学を「神学」として批判し、「神の学」から「人の学」への転向を試みたが、あまりうまくはいかなかった。

十一、マルクスの人間存在
マルクスは、フォイエルバッハが人の社会的存在の部分をうまく把握していないことを批判し、人は常に社会的関係において有る、だから人の本質は社会的関係の総体にほかならない、と捉えた。
マルクスはヘーゲルの国家観を徹底的に覆し去ろうとしたが、ヘーゲルの人倫哲学を受け継いだのである。
だが、この「人倫の体系」の最大の問題点は人倫の絶対的全体性であり、この問題は有の立場では解かれない。「その解決に対して我々に最もよき指針を与えるものは、無の場所において「我れと汝」を説く最近の西田哲学であろう。」

第二章 人間の学としての倫理学の方法
十二、人間の問い
問いは本質的に共同の問い(=人間の問い)である。倫理学は人間存在の構造を人間の問いとして問うものだが、「問うこと」自体が「問われていること」であるという特質を持つ。倫理とは何かという問いを、問い進めるには、人間の一つの存在の仕方において存在自身を全体的にあらわにし、一つの人間関係において人間関係それ自身を根源的に把握していくほかはないのである。これが倫理学の方法を規定する第一の点である。

十三、問われている人間
倫理学は実践的な主体の学である。だから人間は実践的主体として把握されなければならない。そこで問われている「人間」は、「我れ」ではなく「我々」であり「間柄」であって、つまり主体的な間柄である。これが倫理学の方法の特徴の第二点目である。

十四、学としての目標
倫理「学」としてめざすことは、倫理である限り既に実践的行為的に分かっていることを「であること」として陳述することである。これが倫理学を規定する第三点目である。
日本語の「あり」という言葉は人間存在の顕示であり、その根柢は統覚作用を根拠とする繋辞的用法の「である」ではない。「である」は「あり」の本来的用法の「がある」が限定されたもので、それは人間の働きによるのである。「である」が存在を顕示する場所は「陳述」である。
統一・分離・結合の連関としての実践的行為的な「わけ」は、微妙な相互了解を含んで客観化されている。「ことのわけ」の陳述は人間存在の構造をあらわすのである。「ことのわけ」を分析することで人間の存在の仕方を「であること」に引き直し得るのである。

十五、人間存在への通路
主体的に、主体的な人間存在を把捉しなければならない倫理学的把捉は、人間存在の諸表現を通路とするほかはない。そのためには、個人の直接意識の事実からではなく、人間における事実を媒介として人間存在が探られなければならない。
日常生活は茫漠たる表現の海である。学的取り扱いは、「もの」が存在の表現であると言う日常的了解の地盤を隠してしまう。「そこ(隠れた地盤)にこそ主体的な人間存在が「ことのわけ」に化せられてくる急所がある。すなわち実践的行為的な連関が意味の連関に転化し来たる熔炉がある。」
社会学と倫理学は共に人間の学のはずであるから本質的には異なるものではない。そこでの根本問題は間柄である。しかし、社会学は人間存在への通路、換言すれば諸形成物の表現自体を学の対象自身としてしまっているのである。

十六、解釈学的方法
生は実は人間存在であるから、日常的な生の表現の理解はおのずから人を倫理に導く。逆にあらゆる間柄の表現すなわち社会的な形成物はすべて倫理の表現である。従って倫理学の方法は解釈学的方法であるほかはない。
文学におけるベェクの解釈学を歴史認識の理論として哲学の中へ導き入れたディルタイの解釈学は、生の哲学として学び取る価値がある。しかし、日常的なる生の表現と了解とが、哲学的理解を媒介するものとして認められていない点において問題である。


日常的な人間存在の表現から出発することを根本性とする哲学にとって、現代において、現象こそまず初めに明らかにしなければならないと主張する現象学を顧みておかなければならない。しかし、現象学的還元 は人間存在の表現を排除してしまうので、「表現せられたもの」は他者によって了解され得ず、現象はただ現象学にとってのみ己を示すだけで、日常生活において己を示しているとは言えない。ハイデッガーの現象学からの脱却はその延長点からの離脱により可能となる。その鍵は「有る物」を「表現」に、「有」を「人間存在」に転ずることである。